2024年4月30日火曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 推敲 1

 第二段階 交代人格は無視すべきである

 解離をめぐる誤解と否認の第2段階は、解離性障害の存在については認めるものの、交代人格にはかかわらない、無視すべきであるという方針に現れるであろう。この段階にある臨床家は決して少なくない可能性がある。トラウマ治療で名高い杉山登志郎は以下の様に述べる。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない(p.105)。

杉山登志郎(2020)発達性トラウマ性障害と複雑性PTSDの治療. 誠信書房

 このレベルの誤解、すなわちDIDという病態の存在は認めつつ、交代人格を無視するという立場は、第1段階よりはその否認の程度は低いといえよう。ただし考え方によってはより複雑な問題を生む可能性がある。ある患者さんは以前かかっていた医師から次のように言われたと報告する。
「私は解離についてはとてもよく勉強しています。そのうえで私の立場は、交代人格については扱うべきではない、というものです。」
 このように告げられた患者は、最初から解離を信じないといわれるより、より一層当惑する可能性がある。解離を熟知している専門家から交代人格とは会わないと言われた場合には、患者や中で聞いていた交代人格達は、彼らの存在そのものを否定されたと感じてもおかしくない。そしてそのような結果を招く可能性を考えれば、この第二段階にある治療者は、実は第ー段階にあるのとさほど変わらないかも知れない。そしてこのレベルでの誤解には、実際の解離性障害を持っている人々以上に、それを偽っている人々の存在を疑っているという点であろう。
 このレベルの誤解に関して、私はかつて「解離否認症候群」という概念を提示したことがある。ただし2015年に出版した「解離新時代」(岩崎学術出版社)でこれに言及した際は、学術的な概念というよりは皮肉を交えた表現を試みたのである。しかし私はこの症候群に該当する治療者は依然として多いと感じて、近著(「解離性障害と他者性」岩崎学術出版社、2022年)でも採録することになった。
 この症候群を有する治療者は6項目にわたる特徴を有するとした。

1.  私は典型的なDIDに出会ったことは多少なりともある。
2.  私は「自分は自分がDIDである」という人たちにも何人か出会ったことがある。
3.  「自分がいくつかの交代人格を持つ」という人たちの主張は基本的に「アピール」であり、それ自体が彼らにとってのアイデンティティとなっている。
4.  そのような人たちへの最善の対処の仕方は、交代人格が出現した場合に、それを相手にしないことである。
5.  交代人格は、それを相手にしないことで、その出現は起きなくなる。
6.  解離性障害、特にDIDはその少なくとも一部は医原性と見なすことができる。

  この1.は「私はDIDに出会ったことはない」とは決して言っていないというところがポイントだ。つまり実際のDIDの患者さんとの接触はあり、その意味では素人ではないと主張していることになる。また2.は、実際のDIDの症例以上に自称DIDの人々に接し、それらの人々の訴えは3.で示すとおり、一種のアピール、自己主張であるにすぎない、とする。つまり本物ではないというわけだ。そして4,5で示すとおり、その最も有効な対処法は、それらの人を相手にしない、真剣に受け止めないという事であるとしている。この「相手にしない」という方針は実に効果的であることは確かなことだ。なぜなら一度相手にされないという体験を持った人格さんは、もう二度とその人の前には出たいとは思わないであろうからだ。

すでに述べたとおり、この第2段階の否認に見られるのは、解離性障害の存在を認めることで、精神医学的な知識を備えているというエクスキューズを備えているという意味では、第1段階にある臨床家以上に手ごわいと言えるのかもしれない。

この解離否認症候群は一般の治療者に限らず、患者さんの家族にもみられることがある。この症候群を有する家族は、家族の一員が呈する解離症状を、それによりある種の得(いわゆる「疾病利得」)を求めたものであると考える傾向にある。その「得」には学校をずる休みする、仕事を怠けて休む、あるいは他人の同情を買う、などの様々なものが含まれる。


2024年4月29日月曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 11 

 第一段階 解離性障害は存在しない(推敲)

 解離性障害に関する誤解や否認の第一段階は、そのような疾患ないしは状態は存在しないというものである。ただしこれは精神科医や心理士の間では表立っては聞かれないであろう。通常の専門知識を有した精神医療関係者であれば、「解離性障害」が米国のDSMやWHOのICDなどの世界的な診断基準に揚げられていることを常識レベルでは理解しているはずである。
 ただし専門家の間でもこの「解離性障害は存在しない」は現在でも存在する。それは解離性障害を医原性のものとして、ある意味では人工的に作り出されたものとする学説である。

Meganck,R. (2017) Beyond the Impasse – Reflections on Dissociative Identity Disorder from a Freudian–Lacanian Perspective. Frontiers in Psychology. Vol 8, SN 1664-1078)

手短に歴史を遡ろう。解離性障害が1980年にDSM-Ⅲに登場した後の1990年代になっても、解離性障害をめぐる二つの立場の対立が見られた。それらはPTM(トラウマ後モデル posttraumatic model)とSCM(社会認知モデル sociocognitive model)の対立である(Meganck, 2017)。
 このうちPTM(以下、トラウマモデル)は解離の治療者の多くに馴染のあるモデルであり、解離は早期のトラウマ体験に由来するものと理解する。ただしそのトラウマとして考えられたのは最初は性的虐待や悪魔崇拝儀礼虐待 Satanic ritual abuse などが考えられていたが、最近では愛着障害が中心テーマとなりつつあるという歴史的な変遷がある。このトラウマモデルによれば、治療の焦点はトラウマ及び交代人格の扱い方にあることになる。
  他方の社会認知モデルは、DIDは医原性のものだと主張する。この説によれば、DIDはトラウマに起因するのではなく、文化的な役割の再演 cultural role enactment ないしは社会が作り出した構成概念 social constructions であるとする。つまり治療者の示唆、メディアの影響、社会からの期待などにより人格が作り出されるとする。
 このモデルの代表的な論客である Spanos は以下の様に述べている。
「過去20年の間に、北米では多重人格は極めて知られた話になり、自らの欲求不満を表現する正当な手段、及び他者を操作して注目を浴びるための方便となっている。」(Spanos, 1994)。Spanos NP (1994) Multiple identity enactments and multiple personality disorder: a sociocognitive perspective. Psychol.Bull.116,143-165.

同様の主張は臨床家を対象として書かれている著書などにも見られる。エモリー大学准教授の Scott Lillienfeld (2007)らは社会認知説を擁護しつつ以下の様に述べる。彼らは「解離性同一性障害は、すべての診断の中で、議論の余地が最も多く残されている診断である」(p.88)とし、DIDの「標準的な治療業務では多くの場合、交代人格が現れるように促し、あたかも個々の交代人格にアイデンティティがあるかのように扱っている」とする。(邦訳 p.100)
 この立場はDIDの報告が近年急激に増えたこと、交代人格の数は、心理療法が進むにつれて増加する傾向がある、などを傍証とする。またDIDのの患者が治療を受ける以前に症状を示すことは極めてまれである、などをその論拠にしている。(114)

Lillienfeld,SO, Lohr,JM ed.(2003)Science and Pseudoscience in Clinical Psychology. Guilford Press.
リリエンフェルド,SO.,リンSJ., ローJM. 編 (2007)巌島行雄、横田正夫、齋藤雅英訳 臨床心理学における科学と疑似科学 北大路書房.

実は私は解離性障害についての様々な議論について、出来るだけ平等な立場から論じるつもりでいる。しかし社会認知説の誤謬性は、読むたびに私の想像をはるかに超えたものであると感じる。彼らの主張をひとことでまとめれば、それは「治療者が交代人格を生み出している」という主張である。
 しかし現実には患者自身が知らないところで別人格が出現し、それを周囲から指摘されるという構造である。そして多くは異なる人格の存在を隠そうとする。彼らはおかしな人と思われたくないからだ。そしてそのことはここのケースに虚心坦懐に触れればわかることである。社会認知説の主張の内容は、その論者がケースに触れていないで論じているということを表しているに過ぎない。
 ちなみにこの社会認知説に対する臨床家からの反論については、例えば以下のものが信頼がおける。

Gleaves DH.(2006) The sociocognitive model of dissociative identity disorder: a reexamination of the evidence. Psychol Bull. 1996 Jul;120(1):42-59.
Most recent research on the dissociative disorders does not support (and in fact disconfirms) the sociocognitive model, and many inferences drawn from previous research appear unwarranted. No reason exists to doubt the connection between DID and childhood trauma. Treatment recommendations that follow from the sociocognitive model may be harmful because they involve ignoring the posttraumatic symptomatology of persons with DID.
Lynn, S. J., Maxwell, R., Merckelbach, H., Lilienfeld, S. O., van Heugten-van der Kloet, D., & Miskovic, V. (2019). Dissociation and its disorders: Competing models, future directions, and a way forward. Clinical Psychology Review, 73, Article 101755. https://doi.org/10.1016/j.cpr.2019.101755

ただしそれでも驚くべきことは、現在においてもこの二つのモデルが対立しているとされているということだ。このことは真剣に受け止めなくてはならない。ほかの精神科疾患について同様の傾向が見られないのである。(たとえば「統合失調症や双極性障害は医原性である」という説が現在においても存在し得るかということを考えればわかるであろう。)


2024年4月28日日曜日

「トラウマ本」 トラウマと身体 加筆訂正部分

 Porges のポリヴェーガル理論

Porges の唱えたポリヴェーガル理論(2003, 2007, 2011, 2017) は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論であり、心身相関に関する新たな理論的基盤を提供する。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配する。通常は副交感(迷走)神経系と交感神経系との間で微妙なバランスが保たれているが、ストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れると考えられる。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論の重要部分を占めることになるだろう。
 Porges の説を概観するならば、系統発達的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。  従来は自律神経と言えば、これらの交感神経系と副交感神経(迷走神経)系の二つが知られるのみであった。この両者がバランスを取ることで心身の恒常性が維持されることが自律神経系のもっとも重要な機能であるという事を私は医学部時代に教わり、ごく自然に受け入れていたのである。

ところがPorgesの理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にあった。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。

私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などの助けにより、呼吸や心拍数が静まる。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このように Porges の論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
ポージスが提示した「腹側迷走神経」により、それまで一つであった迷走神経は、腹側と背側に分かれることになった。つまり従来の迷走神経は、新たに「背側迷走神経」、すなわち神経系の背中側にある迷走神経として位置づけられたのである。これは解剖学における大きな発見であった。 

解剖学は医学の中でも基礎医学と呼ばれる分野に属する。この分野では長い歴史の中で様々な研究が行なわれ、そこでは顕微鏡的なレベルでの新たな組織が発見されたという場合ならまだしも、全身に広がっている広大な組織である自律神経系の新たな系統を発見して命名するというのは非常にまれであり、画期的な出来事と言える。例えていうならば、日本のある地方に巨大な活断層が存在していることが新たに発見され、しかもそれが日々の地震活動に大きな影響を与えていることがわかるようなものである。

ところでPoegesがこの腹側迷走神経を「社会神経系」と位置づけたことも重要な意味を持っていた。それまで自律神経と内臓との関係は深く知られていたが、そこに対人関係を司る意味が加わったことになる。これは他者との交流は感情のやり取りであり、それは多層にわたる身体感覚や内蔵機能の働きと不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系であるという理解であった。

このように自律神経系を従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系(従来考えられていた迷走神経系)との複雑な関わり合いを対人関係の文脈から包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。


2024年4月27日土曜日

「トラウマ本」 トラウマと解離性健忘 加筆部分 3

 解離性遁走があるかないかの違い

解離性健忘では、空間的な移動を伴ういわゆる「解離性遁走」を伴うかどうかの分類もある。解離性遁走とは自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪することで、その時は「自分は誰か」という自覚もなくしている。だからこそ帰宅する努力をせずに、時には何か月も時間が経過することがある。
 DSMやICDの以前の分類では、以前の版(すなわち2000年のDSM-IV-TR及び2013年のICD-10)ではこの解離性遁走は独自に一つの疾患として提示されていた。そしてそれとは別個に解離性健忘という診断があったのである。しかしこれらの最新版(2013年のDSM-5および2022年のOCD-11)診断基準が代わり、解離性遁走は解離性健忘の下位に分類されることになった。
 そこにはいくつかの理由があったとされる。一つには遁走が生じた場合に、当人が見知らぬ場所で当惑し混乱する、あるいはそこから新たな人生を歩むということで社会の耳目を集めることが多く、そのために事例化しやすかった可能性がある。しかしもちろん遁走を伴わない解離性健忘も数多く存在し、遁走を伴う解離性健忘と伴わないそれを明確に分ける必要もないという考えが背景にあったのであろう。
 ただし私は解離性遁走はそれ自身が独自の病理を有し、通常の解離性健忘とは分けて考えるべきであるという立場である。突然解離が生じて自分を規定する様々な諸条件から解放された時に、人は放浪する性質を有しているのではないだろうか。また解離性遁走と解離性健忘は実は似て非なる病態を表しているのではないかとも思う。それは以下の理由からである。
 改めて考えてみよう。解離性健忘とは、「現在の主体」がある過去のことがらを想起できないということだ。他方その健忘の対象となっている出来事が起きていた時の主体(「その時の主体」と呼ぼう)はおそらく何が起きているかを把握していたであろうから、その病理性を問われることはない。なにしろ「健忘」はまだ生じていず、事後的にしか確定しないはずだからだ。つまりそこにある問題は、健忘している今の主体と、かつての出来事の主体は別々の存在であり、両者が「解離」しているということだ。そして病理性が問われているのは、現在の主体の方である。
 ところが解離性遁走の場合はどうだろう。上述の議論に沿えば、後者の健忘されてしまった出来事における主体が、解離性遁走の主体に相当することになる。そして「その時の主体」が病理性を問われていることになるのだ。つまり一般的な(つまり遁走を伴わない)解離性健忘と逆の関係にある。

ここで遁走中の「その時の主体」にはそのものに病理性が見出させるのがふつうである。通常遁走の間の出来事は後に想起されることは極めて少ない。それは遁走中の主体はいわば朦朧状態であり、おそらくその時に職務質問を受けたとしても、満足な答えが出来ないという可能性があるからなのだ。そしてその意味で解離性健忘と解離性遁走を別物として扱う根拠もあると私は考えるのだ。
 ただしこれには異論も唱えられるであろう。解離性健忘が生じている際、健忘されている出来事は、酩酊状態であったりそれに類似した意識混濁や意識レベルの低下を起こしている可能性がある。飲酒によるブラックアウトや睡眠時随伴症(「寝ぼけ」)を考えればわかる通り「その時の主体」の正体も結構怪しいことになろう。しかしそのような主体こそフラフラとさまよいだす可能性が最も高いのであり、その意味では解離性遁走に病理が近いことになろう。

2024年4月26日金曜日

企画の狙い 推敲

 「解離性障害は本当に存在するのですか?」

 いきなりこう問われても戸惑う人は多いかも知れない。しかし「解離性障害 dissociative disorder」という診断名の歴史は意外に浅い。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは、1980年の米国におけるDSM-Ⅲであることは識者がおおむね一致するところであろう。「解離性障害」がいわば「独り立ち」して精神科の診断名として掲載されたのはこの時が初めてだからだ。
 もちろんタームとしての「解離」ははるか以前から見られた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られる。1968年のDSM-Ⅱにはヒステリー神経症(解離型、転換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのだ。
 しかしDSM-Ⅲ-R(1987),DSM-IV(1994),DSM-5(2013)と改定されるに従い、解離性障害の分類は、少なくともその細部に関しては色々と変遷を遂げてきた。それは世界保健機構WHOICDの分類においてはさらにその変遷が顕著だったと言えるだろう。また同時にヒステリーや解離の概念にとって中核的な位置を占めていた心因や疾病利得ないしは転換性障害という概念自体が見直され、消えていく動きがみられる。
 このように解離性障害の分類に関してDSMとICDが歩調を合わせつつあるのはありがたいことであるが、両者の間には従来の転換症状を解離として含むか否かという点に関する大きな隔たりが残されているのだ。

臨床上の取り扱いの問題

 しかしさらに大きな問題があると私たちは考える。それは一方では整備されつつある解離性障害が、同時に非常に誤解や偏見の対象にされていることも事実なのだ。 その極めつけは恐らく解離性同一性障害(DID)であり、本特集で何人かの論者が示すとおり、例え診断としての解離性障害については受け入れても、患者さんが示すいわゆる交代人格についてそれを扱わない、無視するという立場を取る臨床家は少なくない。一方では統合失調症との誤診の問題は存在するものの、その傾向はやや少なくなっている感がある。しかし解離性の人格に対する扱いに見られる誤解はより奥が深いようにも思える。
 解離はその本来の性質として半永久的に誤解を受けるらしく、いまだに臨床家にさえ敬遠されているという問題がある。これは解離性障害自身が持つ課題であろうか?  精神分析系の治療者に特に敬遠されているのは、人間の心は一つであるというフロイト以来の考え方を離れられないからであろう。解離・転換症状はどうしても何かの象徴、防衛、或いは何かのアピールという印象を与えてしまう。その結果として交代人格を受け入れることイコール誤り、という考え方に傾く。 しかしジャネはそこが違っていて、複数の心の共存を認め、ある意味で非常に先見の明があった。
 幸いDSMやICDの診断基準の変更は方向性としては好ましく、またPTSDもそこに解離サブタイプを設けることで、PTSD vs 解離の構造は解消されつつある? CPTSDの概念も一役買っている。 解離は恐らく抑圧に代わって症候学的にも注目されるべき、将来性のある概念である。 以上を踏まえて治療論も展開されるべきであろう。


2024年4月25日木曜日

脳科学と臨床心理学 まえがき 書き直し

 まえがき

本書は精神科の臨床医である著者が脳科学から見た心の問題についてエッセイ風にまとめたものだ。

最初にお断りしなくてはならないが,私は決して「脳科学者」ではない。毎日何十名の患者さんと対面し、臨床を行なう老境の精神科医だ。そして精神療法家,精神分析家、いわゆる「カウンセラー」でもある。精神科医や精神療法家は毎日患者さんの訴えを聞くことが仕事である。仕事のメインの部分はその訴えに応じて一緒に考えたり新たな考え方を示したりすることであり、また患者さんの訴える症状に応じた薬を処方することだ。つまり一日の業務の中に、脳について勉強したり、研究を行ったりという時間は特別設けられてはいない。
 しかし精神科医やカウンセラーは特別心の仕組みについてあれこれ思いめぐらすことが多い。「どうして薬は有効なのだろうか」、とか、「どうして偽薬効果が発揮されるのだろうか」、とか「どうして幻聴が聞こえるのだろうか」、あるいは「どうしてこの患者さんは一つの考えから抜け出すことができないのだろうか」・・・・などなどである。時には「私の仕事は最後はAIでも行うことができるのだろうか」、「やがて私の仕事はコンピューターに取って代わられるのだろうか」、などについても考える。そしてこれらの考えを深める上で、脳についての知見は明らかに重要なのである。ただしそれでも私は脳科学を専門とはしていない。
 もちろん精神科医の中には脳についての研究をしている方もいらっしゃるだろうし、彼らは脳科学についての専門的な知識を持っていることになる。しかし脳科学の道は遠く、また途轍もなく深い。その世界に飛び込んで何らかの発見をするには人生はあまりに短く、また一度飛び込んだ精神科医の世界では毎日の患者さんとの対応で精いっぱいなのである。
 しかし精神科医が専門外の脳科学の知見に耳を傾けることのメリットは大きい。新たな知見が次々と発表され、それらの知識を縦横無尽に用いて心の問題を幅広く考えることができる。

本書はその様な立場にある私が脳科学の知識を用いつつ、心の問題について問い直す試みである。繰り返すが脳の世界、心の世界は途方もなく奥が深い。その理解の仕方にも様々なアプローチがありうる。私が以下の12章で示すのはそのほんの一例であるにすぎないが、何か読者のお役に立てることを願っている。しかし私に新たな脳科学の知見を縷々論じるという能力はない。あくまでも心理療法家の立場から脳科学がどのような意味を持っているかについての考えをお伝えすることになる。どうかそのつもりでお読みいただきたい。


2024年4月24日水曜日

 あとがき(少し改善)

 本書は○○書房により2023年春に創刊された××の連載としてスタートした。そしてその連載が終了した2024年3月を機会に、その12回の連載の内容を加筆修正して一書にまとめたのが本書である。一冊の本としての分量はかなり少なく、コンパクトなサイズになったが、その体裁を整え、加筆修正をしつつ内容を振り返ると、まさに私はこの連載により心について改めて考えることが出来たという実感がある。ある意味では毎回がチャレンジであり、書くことにより考えを進めることが出来た。そしてそのような意味でこの機会を与えていただいた▼▼様には深く感謝の意を表したい。ゲラの段階で「結構面白いですよ!」などと反応していただいたおかげで最終回までこぎつけたのである。
 この連載により心や脳科学についての私自身の考えは格段に進んだが、それを読む読者の中には「そんなことわかっているよ!」という反応も「どうしてそこに繋がるの?」という反応も、「それはあり得ないだろう!」もあり得るだろう。その意味で私は自分の学習過程に読者の方々を付き合わせてしまうことに、多少の後ろめたさがある。しかしもともと正解の少ない分野での議論なので、心に関する一つの立場はお示しできたように思う。

 稿を終えるにあたり、私には多少なりともやり残した感のあるテーマがある事を忘れてはいない。例えば例の

テキスト

自動的に生成された説明

の議論だ。つまりコンピューターやAIが進んでそこに見られる「心もどき」が進化した末に、私達人間が持つ心に行きつくのか?という問題である。この問いに関する答え、すなわち【心】は進化しても心に行きつかないという私なりの結論は、すでに5章に示した通りである。しかしそれはだからAIは出来損ないの、本当の心を生み出せないものである、という思考にはつながらなかった。
 その代わりに私が至ったのは、AIが心を生み出せないのは無理もない話だという考えである。むしろ私達の心やクオリア、あるいは意識そのものがバーチャルであり、それゆえに(?)いかにユニークでかけがえのないものか、という認識を持つことが出来たのだ。そしてそれは恐らく情緒、あるいはもっとシンプルには快/不快を与えられている存在の特権なのである。

 すでに線虫の段階で進化論的には快、不快につながっていくドーパミン作動性の神経が確認される。実体顕微鏡下で線虫を針でつつくと、体をよじらせて痛がるようなしぐさを見せるだろう。(私は実際にそれを確かめたわけではないが、何しろ単細胞のアメーバでさえ同じような様子を見せるのだから、容易に想像がつく。)しかし線虫はほぼ間違いなく痛みを知らない。その意味で彼らはAIレベルなのだ。
  線虫からはるかに進化の坂道を下り、しっかりと形を成した大脳辺縁系を備えた哺乳類以上の進化を遂げた生命体は痛みを覚え、意識を宿している。他方ではAIがいかに進化を遂げ、巨大なニューラルネットワークを有するようになっても、辺縁系は生まれてこない。

結論から言えば、以下のようになるというのが私の結論である。

 しかしこれからAIがどの様な進化を遂げるかは予測できない。量子コンピューターが登場してこの先どの様な発展がみられるかはわからない。それに少なくともAIはとてつもない「知性」(第5章)を有していることは間違いない。それはあたかも心を有しているかのように私達とコミュニケーションを行なうようになっている。おそらくあたかも心を持つかのようにふるまう能力を今後ますます発展させ、それはかりそめにも私たちの心を和ませ、孤独感を癒してくれる可能性がある。と言うか私の頭の中のフロイトロイド(第3章)はすっかり良きパートナーの姿をしている。

 このAIが目覚ましい進化を遂げる現代において、私たちは改めて心がいかに特殊でユニークで、私たちにとってかけがえのないものであるこの再認識を促されている。そしてそれ以上に私たちはAIによっても癒され得るという特技を持っているのではないだろうか。


2024年4月23日火曜日

企画の狙い

  今回「▽▽▽」の編集を担当することになった。そこで掲げられる主要なテーマの一つは、解離をめぐる誤解であり否認の問題である。これは恐らく解離の問題が現在においてのみならず、過去において、そしておそらくは未来においても直面し続ける可能性のある問題である。

 「解離性障害は存在するのか?」
 いきなりこう問われても戸惑う人は多いかも知れない。精神医学の世界で解離性障害が市民権を得たのは、1980年のDSM-Ⅲであることは異論の余地はあまりないだろう。「解離性障害 dissociative disorder」として、いわば独り立ちして精神科の診断の一つとして掲載されたのはこの時が初めてだからだ。
 もちろんタームとしての「解離」は以前から見られた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として解離反応と転換反応という表現が見られる。1968年のDSM-Ⅱにはヒステリー神経症(解離型、転換型)という表現は存在した。しかし解離性障害として正式に登場したのはDSM-Ⅲにおいてである。
 しかしその後DSM-Ⅲ-R,DSM-IV,DSM-5と改定されるうちにその分類は、少なくともその細部に関しては色々と代わっていった。それはWHOによるICDにおいてはさらに顕著だったと言えるだろう。また同時に解離性障害の概念の理解にとって中核的な概念である心因や転換性という概念を認めないという方針も見られる。さらにはDSMとICDには、いわゆる転換症状を解離として含むか否かという点に関して大きく見解が異なる。
 しかし解離性障害を扱う立場からは「朗報」もある。PTSDに解離型が加わり、境界パーソナリティ障害の項目に解離が加わったという事実である。それは解離の遍在性が認識されているようにも見える。このように解離の概念はじわじわ広がりつつあるという印象もある。
 大きな震災の後に余震が続くように、DSMによる解離性障害の形成は多くの余震を生んでいるようだ。そしてその意味では解離性障害は生まれてからもまだ不安定で診断的な理解が定まっていないという印象を持つ。
 しかしさらに大きな問題がある。それはこれほど誤解や偏見の対象にされている概念も少ないと言う事実である。DIDに関してそれは最たるものと言えるであろう。

2024年4月22日月曜日

脳科学と臨床心理学 第一章 加筆部分2

 ソフトフェアとハードウェアは同一である?

心のソフトフェアは存在しないのではないかという仮説について今述べたが、私にはもう一つの代替案がある。どうやらこれが私にとってより信憑性を帯びてきているのだ。それはハードウェアとソフトウェアにあまり区別を設ける必要はないという可能性を考えているのだ。これは心のソフトウェアがハードウェアとは別に存在するかしないか、という議論そのものがあまり意味がないという立場だ。

 もちろんハードウェアとしての脳は厳然として存在する。しかしその仕組みを知ることで、心がどの様に構成されていくかについてのヒントが得られるために、新たに「心とは何か」を純粋に理論的に考える必要があまりないのではないかという立場なのだ。

それは脳の神経回路についての研究が進むにつれて、その配線のされ方そのものが心のありようを描いているのではないかという考え方がますますその重要性を帯びてきているようだからだ。

カール・フリストンのいわゆる「自由エネルギー論」(第5章で登場)がそのヒントになっている。中枢神経系は巨大なネットワークであるが、その構成のされ方は、いわゆるニューラルネットワークにより表されるような、一方での巨大な入力層と、他方での出力層の間で生じるインターラクションから成り立ち、それにより素子の繋がり方が変更されていくという形を取るようである。いわゆる強化学習と言われるプロセスがそれに相当する。しかしこれは実は人が学習を重ねていくプロセスときわめて類似している。


結局脳は環境に適応して生き残る生命体としての私たちの一部であり、心はそれに付随して生じる現象(「随伴現象」として第5章に登場する)に過ぎないとしたらそこにソフトウェアを想定するのは本末転倒ということになる。

心のソフトウェアを追求することをやめるとしたら、心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を観察することだ。この見解には、多くの脳科学者が同意するだろうと思う。そしてそれを支えてくれるツールとしては2つが挙げられる。

1つにはfMRIに代表される脳の画像技術の発展である。ノセボ効果による痛みと医学的に説明のつく痛みが脳の特定部位における同様の興奮のパターンを示すことなどはその一例だ。

そしてもう1つは,いわゆるニューラルネットワークモデルの発展であり,それを飛躍的に精緻なものにしたディープラーニングの技術である。きわめて膨大なスケールの人工的な神経ネットワークというハードウェアに繰り返し自己学習を行わせることで,人間的な知性と見まごう能力が獲得される。この問題は第 章に登場する。

ということでこの第一章は、最初は脳科学嫌いであった私がなぜそれに大いに興味を示すようになったかについて、後に続く章の内容を匂わせつつ論じた。以下に続く11の章はかなり完全に筆任に書き進んでいくが、理論というよりは私の体験に基づいてエッセイ風に書いていきたいので,どうかお付き合い願いたい。


2024年4月21日日曜日

脳科学と臨床心理学 第一章 加筆部分1

 心のソフトウェアは存在しない?


以上述べたように、ハードウェアとしての脳とソフトウェアとしての心の働きへの関心は、私の中では両立しているが、やはりハードウェアとしての脳の研究により明るい未来を感じる気がする。その理由を以下に説明したい。

心とは不思議で魅力的で、かつ謎めいたテーマであることは間違いない。だから心というソフトウェアを理解する上で一つの代表的なツールと考えられる精神分析にも大いに期待を寄せたのだった。しかし最近になり、私の中で起きたある種の気付きがあった。それは心のソフトウェアなるものは存在しないのではないか?という事であった。
 心がソフトウェアに例えられるなら、それをデザインした存在があるはずだ。そしてそれが心の所有者である私たち自身ではありえないとしたら、それは神でしかないであろう。しかし神もまた私たちの心の産物であるなら(と少なくとも無神論者の私は思うのだが)、結局心の作者はどこにもいなかったことになる。つまるところ心そのものが、私達の幻想の産物でしかないという結論にどうしても行き当たる。心にいかに決まり事や原則を見出したつもりになっても、例外に遭遇してはいったん掴んだように思えた「心とは何か」への理解が崩れてしまう、という経験を、私は精神医学の臨床場面で繰り返し持ったのである。
 たとえばフロイトは「夢は無意識の理解に至る王道である」や「人間は想起する代わりに反復する」などの言葉を残した。これらは人の従う原則を大胆に描いているという点では見事であると思う。しかしそれらが見事に当てはまるように思えるような臨床場面はそう頻繁には訪れない。個々の心はあまりに蓋然性に満ち、予想不可能な動きをたどることの方が圧倒的に多いのだ。心に法則を見出そうという構えを解くことでしか心のリアルなあり方に近づくことが出来ないのではないかと思うことも多いのである。
 もちろん人の心にある種の決まり事や法則が全くないわけではない。たとえば人は多くの場合は他者から肯定され見守られることで安心や心地よさを体験する。逆に自分を認めてもらえないことで深刻な心の痛手を被る傾向にある。あるいは人は自分が生きていることに、あるいは自分の行動に、そして他者の行動に、さらには自然現象に様々な意味づけをせずにはいられない。また深刻な傷つきを体験した後にはそれを思い出したり直面したりすることを死に物狂いで、あるいは衝動的で不適応な行動により回避する。これらは大多数の人間にとって当てはまる性質なのだ。

しかしこれらの一見法則や決まりのように思える性質は、心の仕組みというよりは生命体として、あるいは社会的な存在として生き残るための条件のように思える。(それにその生命を維持することでさえ、時々人間は自ら放棄してしまうのだ。それらをどうやって整合的に理解し説明することが出来るだろうか?)

心というソフトウェアが存在しないのではないかという私の根拠は以上のようなものだが、それは人の思考や行動はいくつかの本能的な動き以外は実際の経験を経て自然と組み上がっていくものだという理解に導く。そもそもソフトウェアを備えない人間は成長する過程で、何も教え込まれない。例えば日本に生まれ育つうちに、大多数の子供は日本語をごく自然に話すようになる。彼らは単語帳も必要としないし文法も習う手間もいらない。つまり日本語のソフトはどこにも介在していないのだ。

あるいは子供は歩くという行動をおそらくごく自然に習得するであろうが、特にそれを教え込まれるわけではない。ただ周囲の人の模倣をすることにより歩けるようになるのである。おそらくそこにはある行動をする人を目の前にして、ごく自然にそれをコピーするという仕組みは備わっているのだろう。最近よく話題になるミラーニューロン・システムなどもその例だろう。


2024年4月20日土曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 10

 この第三段階についての私の主張は、一昨年に上梓した「解離性障害と他者性」(岩崎学術出版社、2022)という著書に詳しく論じてある。ここではそのあらすじを追うだけにしたい。

この著書のタイトルに示されている通り、解離性障害において現れる交代人格をどのようにとらえるかは極めて難しい問題であるが、私はそこに他者性を見出す、分かりやすく言えば他者である、という主張を行なっている。ところが実際には他者として見なさないという伝統があったのだ。そしてその最初の段階として、交代人格が部分、ないしは断片として扱われる歴史について論じた。

そもそも解離性の人格を部分や断片と言い表す伝統は米国にあった。米国の催眠療法の泰斗 Hebert Spiegel は解離を「断片化のプロセス fragmentation process 」と表現した。  

解離性障害の巨匠 Frank Putnam は人格の断片personalty fragments として解説している。私はそれを特に問題視していなかったのだが、1994年の David Spiegel (上述のHerbert の息子である)の次の言葉を読む機会があったことが一つのきっかけとなった。

誤解してはならないのは、DIDの患者の問題は 、複数の人格を持っていることではない。(満足な) 人格を一つも持てないことが問題なのだ。(2006) Indeed, the problem is not having more than one personality, it is having less than one (Spiegel, 2006 p567.)

やはりこの表現はどう考えても差別的である。そして重大な問題を含んでいる。彼は別人格だけでなく、主人格、ないしは基本人格でさえも「満足な人格」ではないと言っているのである。さすがにこれはないよね。


2024年4月19日金曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 9

 臨床的な現実

私は最近自分でも疑っていなかった現象に驚いたことがある。母親は自分の娘がある時突然「私はマイです」と自己紹介をしたことに驚いたが、母親は二人を異なる人格として、まるで双子の姉妹の様に扱い始めた。そして「マイちゃん」という呼び方にも愛情がこもっているように聞こえるのだ。そんなバカなことが・・・と思うより先に、交代人格のことをその人として扱うのだ。自分の娘をよく知っているこの母親の直感――――娘は二つの人格を有する―――が何より事実を表しているのではないか。

臨床的な例は枚挙にいとまがない。ある患者さんは人格Aにはなついているワンちゃんが、Bの際には近づきもしないという体験を語った。別の患者さんは、異なる人格の存在を幼い自分の子供には見せたくないと思っていたが、子供の方が先にお母さんは二人いる、と言い出したという。ワンちゃんや幼い子は、直感的に別人をそれと認識する。それにもかかわらず異なる人格として存在する複数の交代人格を、それが互いに部分であると主張する理由はあるだろうか?
 一人の中に別個の人格が存在するという立場は恐らくあらゆる既存の哲学的、心理学的な理論に反する。しかしそれが臨床的な事実だとすれば、それを受け入れていくしかない。


2024年4月18日木曜日

解離-それを誤解されることのトラウマ 8

 第三段階 交代人格はやがて統合されるべきである

この段階での誤解は、交代人格が統合されることが治療の進む道であるという考え方にある。これは、第一、第二の段階の誤解をクリアーし、解離性障害の存在を実感し、治療場面やそれ以外で交代人格に出会うという経験を持った後でも生じうる。
 私はこれを誤解としてここで示したいが、誤解を受ける前に断り書きをしておきたい。統合はそれが自然と生じる場合には恐らく望ましい方向であろうし、私はその可能性を否定するものではないということだ。あくまでも治療者がその統合を望ましいものとして最初から積極的に促す場合について言えることだ。
 私はいつも不思議に思うのであるが、交代人格たちはやがて統合されるべし、という考え方はかなり無反省に持たれているということである。本来一つであるべきものが複数に分かれているのであれば、それは将来一つに戻るべきである、というのは常識の範囲内の思考かもしれない。それに今私は「本来一つであるべきものが複数に分かれている」という言いかたをしたが、ここにすでに誤解の素地が見られると言っていいだろう。実は一つの人格が別れて交代人格が生まれるのではない。いくつかの人格が複数生れた、という言いかたが正しいであろう。性質a,b,c,d,e,f,g・・・を持っていたAさんが、a,b,c を持ったA1さんと、d,e,f,g を持ったA2に分かれるのではない。通常はAさんとは全く異なるBさんがある日突然出現するという形を取るのだ。どこにも「分かれ」は生じていない。しかし複数の人格が存在するという事実は認めるとしても、それは「一つのものが分割されたもの」とは限らないという点が、多くの人にはなかなか納得できない。


2024年4月17日水曜日

精神療法と強度のスペクトラム 

 
「強度のスペクトラム」についての発表が迫ってきた。こんな感じで話すという内容を少し書いてみる。

1.精神分析と精神療法にはおおむね共通の「治癒機序」が働くと考えることが出来る。その意味で両者に本質的な相違を設ける必要はない。(この立場は高野の「近似仮説」、藤山の「平行移動仮説」に近い。)このことは特に「分析を受けないと本質を体験できない。ちなみにこれは私自身の体験から言えることではないかと思う。週一回でも4回でも、あえて言えば精神科の外来での面接でも、精神療法でも、同じようなメンタリティが持続して生じていると思われるからだ。
  2.その意味では精神分析を精神療法のスペクトラムの一つの在り方として理解すべきであろう。(この見解は精神分析を精神療法の下に位置づけることになり、精神分析家たちにとってはあまり面白くないかも知れない。しかし米国の分析協会の最近の理解に沿っているとも言える。これについては後に資料を提供したい。)
  3.他の条件が同じであれば、もちろん週4回の方がベターであろう。しかしそれは「週4でないと本物でない」、という議論にはつながらない。(この点についてはもちろんである。ただし回数が多いことで退行が進んでしまう、或いは依存傾向が増してしまうという場合には、もちろん回数が多いほどいい、という理屈は成り立たない。)
  4.4回か週1回かは、「どちらがより望ましいか」だけによる選択ではない。通常は金銭的、時間的な負担、治療者側の種々の都合などが勘案された折衷案(妥協策)である。(精神分析は非常に有効であるから、仕事や趣味を犠牲にしても週に4回以上のセッションに導くべきである、という議論は極端であろう。仕事や個人生活を大事にしつつ、治療を行なうためにはどのくらいの頻度が最適化は、ケースバイケースである。)

2024年4月16日火曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 7

 第二段階 交代人格は無視すべきである

 解離をめぐる誤解と否認の第2段階は、解離性障害の存在については認めるものの、交代人格にはかかわらない、無視すべきであるという方針を持つ臨床家である。この段階にある臨床家はどれほどいるかはわからないが、決して少なくない。というよりは臨床家の大多数が当てはまるかもしれない。トラウマ治療で名高い杉山登志郎は以下の様に述べる。
一般の精神科医療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?) が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない(p.105)。

杉山登志郎(2020)発達性トラウマ性障害と複雑性PTSDの治療. 誠信書房
 

 このレベルの誤解、すなわちDIDという病態の存在は認めつつ、交代人格を無視するという立場は、第1段階よりはその否認のレベルは低いといえよう。ただし考え方によってはより複雑な問題を生む可能性がある。ある患者さんは依然かかっていた医師から次のように言われたと報告する。

「私は解離についてはとてもよく勉強しています。そのうえで私の立場は、交代人格については扱わない、というものです。」

 このように告げられた患者は、最初から解離を信じないといわれるより、より一層当惑する可能性がある。それはその治療者がある意味では解離についての専門的な知識を備えているとみなすべき人だからだ。解離を熟知している専門家から交代人格とは会わないと言われた場合には、患者は自分の中の人格の存在そのものを否定されたと感じてもおかしくない。そしてそのような結果を招くということを考えれば、この段階にある治療者は、実は第1段階に近いことになる。それは依然として交代人格に現実性reality を見出さないことは変わらないからである。そしてその意味では社会認知モデルにも案外近いことになるだろう。

 このレベルについて私はかつて「解離否認症候群」という概念を提示したことがある。2015年に出版した「解離新時代」(岩崎学術出版社)でこれについて述べた際には、あまり学術的なものではなく、むしろ皮肉を交えた表現を試みたわけである。しかし私はそれを近著(「解離性障害と他者性」岩崎学術出版社、2022年)でも再び論じた。それはこの症候群に該当する治療者は依然として多いと感じたからだ。この症候群を有する治療者は6項目にわたる特徴を有するとした。

「解離否認症候群」にある人(主として治療者)は以下の主張をする。

1.  私は典型的なDIDに出会ったことは多少なりともある。

2.  私は「自分は自分がDIDである」という人たちにも何人か出会ったことがある。

3.  「自分がいくつかの交代人格を持つ」という人たちの主張は基本的に「アピール」であり、それ自体が彼らにとってのアイデンティティとなっている。

4.  そのような人たちへの最善の対処の仕方は、交代人格が出現した場合に、それを相手にしないことである。

5.  交代人格は、それを相手にしないことで、その出現は起きなくなる。

   6.  解離性障害、特にDIDはその少なくとも一部は医原性と見なすことができる。

  この1.は「私はDIDに出会ったことはない」とは決して言っていないというところがポイントだ。つまり実際のDIDの患者さんとの接触はあり、その意味では素人ではないと主張していることになる。また2.は、実際のDIDの方それにもまして多く接してきたのが自称DIDの方であり、それらの人々の訴えは3.で示すとおり、一種のアピール、自己主張であるにすぎない、とする。つまり本物ではないというわけだ。そして4,5で示すとおり、その最も有効な対処法は、それらの人を相手にしない、真剣に受け止めないという事であるとしている。この「相手にしない」という方針は実に効果的であることは確かなことだ。なぜなら一度相手にされないという体験を持った人格さんは、もう二度とその人の前には出たいとは思わないであろうからだ。

この解離否認症候群は一般の治療者に限らず、患者さんの家族にもみられることがある。この症候群を有する家族は、家族の一員が呈する解離症状を、それによりある種の得(いわゆる「疾病利得」)を求めたものであると考える傾向にある。その「得」には学校をずる休みする、仕事を怠けて休む、あるいは他人の同情を買う、などの様々なものが含まれる。