「治療的柔構造」の概念を作った大野裕先生との対談(岡野 (2008)「治療的柔構造」の最終章)で彼が語っている例が面白い。彼は教育分析を受けていた時、日本から帰ってきたばかりで時差ボケでセッションをすっぽかしてしまったことがあったという。大野先生は「自分が無意識的に示しているであろう治療抵抗を早速扱われてしまう」と不安を覚えつつ、まずはセッションをすっぽかしたことの謝罪の電話を分析家に入れた。すると分析家は非常に素っ気なく、「あ、そ、じゃ次の予約は?」という感じで特に何も言われなかったという。大野先生は「ああ、こんな感じでいいんだ。あまり枠に縛られる必要はないんだ」と思ったというが、おそらくそこに同時に感じられたのは、治療者の寛容さではなかったかと思う。いつも厳しいと思っていた分析家が、実は柔軟で人間味を持った人だった‥‥というわけだが、これも不思議な話なのだ。精神分析以外のもっとユルーい治療関係で、「来れる時に来てね」という治療者との関係があったとしたら、治療をすっぽかしたことで患者はそれほど後ろめたさを感じないし、「あ、そう。じゃ次の予約は?」で済ましてくれる治療者の寛容さも感じないであろう。というより謝罪の電話もしないかもしれない。
この種のいわゆる無断キャンセルは分析以外ではよくある話であり、その扱いについても普通は「素っ気ない」のが普通だ。通常の社会生活を送り、そこで生じたすっぽかしと同じ扱いになる。それが大事な会合だったら大チョンボであり、「無意識的な抵抗」を扱うどころか、その責任の重さが問われることになる。上司は「その意味を一緒に考えましょう」などと悠長なことを言う場合ではなく、即刻降格か解雇を告げるところだ。 しかしそれがユルーい会合、例えば私の新人時代にS先生が主催していた分析研究会なら、一回無断で休んでも「今度からちゃんと来ようねー。最近来る人数が減ってきてるんだから。」「すみません、ちょっとうっかりして」という「素っ気ない」あつかいをうけて終わるだろう。遅刻やすっぽかしはその意味を深く問われずに日常の一コマの一つとして過ぎていくわけだ。 この問題、考えていくと意外と奥が深い。私が今至ろうとしているのは,剛構造あっての柔構造だという話である。精神分析では時間も料金も休みの設定もきちんと線引きをする。そして治療者も患者もそれを遵守しようと努力をする。するとそれが破られることには必然的に何らかの意味が生じてくる。たまたま電車の遅延で遅れたとしても、それが起きたとしても定刻通りにセッションに訪れるように、どうして普段から10分前には着くように余裕を持って来ないのはなぜか、とか。 つまり剛構造だから構造が破られたときは両者もそのことをしっかり認識することになる。その上で治療者が柔軟にそれを扱うか、あるいは素っ気なく流すかという事が問題となる。日本では治療者が個人開業をしている場合、部屋代の関係で待合室を設置できないことが多い。すると患者は定刻通りにドアをノックすることが求められる。すると少し遅く訪れるか、それとも定刻の30秒早いか、などの僅かな変動は治療者がそれをどう扱うかにとても微妙に反映される。例えば一分以上前に患者がノックをしても返事をしないという分析家もいる。彼は30秒前より近ければOKという風に決めるのだ(個人差あり。)つまり患者も治療構造を微妙に揺るがし、治療者の方もそれに対する対応を調整するという事がより明確になる。それは一つの駆け引きであり、「治療開始時間はしっかり守る」という前提があって初めて意味を持ってくる。
ここで述べていることはしかし、「治療構造は守るべし」という意識とは微妙に、しかし明確に異なることは強調しておきたい。