2026年2月7日土曜日

レマ「体は語る」書評 ②

 レマの書評の後半部分

 以下に本書のいくつかの章についての私なりの理解や考えを述べておきたい。

序章 身体が語るときでは、 著者レマの精神分析家としてのスタンスが語られる。そして私たちの身体の在り方が、さかのぼって両親との体験に根差している、というのがレマの主張の主要部分である。それはフロイトの「自我は真っ先に身体自我である」という言葉に反映されているというわけだ。ただしレマはガレーゼやイヤコボーニの研究によるミラーニューロンの研究やメンタライゼーションの概念をも広く援用している。



<以下略>

2026年2月6日金曜日

レマ「体は語る」書評 ①

 こちらもなんとか完成にこぎつけた。実に苦労した書評である。

 美しい装丁の施された本書を手に取り、しばらくページをめくっていくうちに、私はこれは新たなるヒステリー論ではないかと思った。それにしては本書にヒステリーという言葉が一向に出てこないのはなぜだろうと思いつつ、本書を読み進めることとなった。しかし本書はかなり難解である。内容がなかなか入ってこないのは私に原因があるのではないかと思いつつ読み直すうちに、私はようやく本書の持つ意義や重みを実感できるようになった。
 私の文章は「書評」という形をとるものの、そもそも本書の内容に評価を下すような力は私にはない。それに本書の冒頭には、ドナルド・キャンベルによる秀逸な紹介文があり、本書の内容の要約を知る上ではそれで十分である。以下は本書により触発された考えをいくつか述べさせてもらうことにする。

(以下略)

2026年2月5日木曜日

「ジャネの再発見」書評 だいたい完成版

 本書「トラウマと解離の文脈 ピエール・ジャネの再発見」は、原題が Rediscovering Pierre Janet である。つまり訳書の副題に対応しているのだ。表紙カバーではこちらの部分は小さく書かれていて、一見解離とトラウマに関する専門書と見間違いやすいが、まさしくピエール・ジャネその人についての解説書である。邦訳書の題としてこちらが選ばれなかった理由は分からないが、おそらくジャネの名が日本人の読者にはまだなじみが深くないという懸念かもしれない。

 それはともかく、本書は日本の精神医学や臨床心理学において極めて大きな意味を持っている。解離やトラウマについての専門書という以外にも、特に精神分析とかかわりを持つ読者にとっても極めて重要な情報を含んでいるのだ。筆頭訳者である若山氏が序文で雄弁に述べているように、精神分析の隆盛は、現実のトラウマの存在の軽視と表裏一体の関係にあった。(8)実はフロイト自身が幼少時の性的トラウマをヒステリーの病因として特定し、「ナイル川の水源の発見」になぞらえたことがその証左である。いったいフロイトがなぜそれを途中で断念したかは謎であるものの、本書はその問題にも果敢に挑んでいる。

 本書の驚くべきところは、ジャネが現代の論客であるアラン・ショアやスティーブン・ポージス、フィリップ・ブロンバーグらの議論にまでつながって論じられていることで、いわばジャネの理論が刷新されていることだ。ジャネのいわゆる現実機能 fonction du reel とメンタライゼーションは近いといい(129)、それは結局は最近言われる解離における右脳の機能低下、ショアによれば右脳の高位と低位の統合の失敗を反映しているという。

紙面の都合で詳しい解説はできないが、私が考える本書の読みどころだけでもかいつまんで紹介しよう。

「はじめに」では1970年のエランベルジェの「無意識の発見」がジャネの理論を知らしめる上で極めて大きな意味を持っていたこと、そして本書が半世紀を記念して出版されたものであるということが述べられる。

第2章「意識から下意識へ」はジャネのトラウマと解離の理論を改めてわかり易く詳述する。私はこの章を読んでジャネの「心的緊張」という概念が少し飲み込めた気がした。

第3章「ジャネとフロイト」では、フロイトにとってジャネがいわば仮想敵であったことが述べられている。フロイトは敵を見つけることで奮起をしていたというところがあり、それをフロイト自身が明言していたというのだ。

第4章「ジャネとユング」

ユングはフロイトと精神分析を離れてからは、年上であるジャネから大きな影響を受けたという内容が書かれている。この話も興味深い。

第6章「ジャネからフェレンチ、ブロンバーグへ」は、ジャネの理論がいかに現代の関係精神分析に繋がっているかを改めて教えてくれる。ジャネは精神分析の文脈でも偉大なる先駆者だったのだ。

「エピローグ DSMと解離」ではジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくるのが面白い。

 ざっとかいつまんで述べたが、本書は精神分析の学徒にとっても、解離やトラウマの臨床家にとっても極めて示唆に富んだ書と言える。ぜひご一読をお薦めする。


2026年2月4日水曜日

ジャネ書評 ⑥

 第13章 解離性障害の病因、病態、治療に関するジャネの見解

本章では解離性障害の病因に関して、ジャネが極めて詳細な論述を行っていることがわかる。彼はまさに医学哲学者 medicin-philosophes の呼び名にふさわしくスティグマ、固着観念、トラウマ、といった概念を駆使した彼の理論が詳細に述べられる。私たちが単純に「トラウマにより解離が生じる」と言って済ましかねないのに比べ、ジャネははるかに詳細な理論化をおこなっていることがわかる。例えばベルグソンにしてもサルトルにしても、デリダにしてもフランス人の書くものは極めて決め細かく、それだけに難解である。

(253)あらためて、ジャネの言う「スティグマ」とは基本障害であり、「固着観念」は付加的な障害であるという。これは過去の現在化(ゲープサッテルのいう”presentification of the past”)、変化に抵抗を示す、という意味ではフロイトの「抵抗」に近いという。スティグマについては、第1章に詳しく、「意識野の狭窄、下意識現象の存在、感覚麻痺、健忘」などを含むという。そしてそれを要約したものが「意識野の後退」であるという。


エピローグ DSMと解離

ジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくる。言われていることはとてももっともな理論。PTSDと解離の中途半端な分類はよくないという主張。PTSDの解離タイプというが、そこで離人現実感喪失症だけを特別扱いすること、そしてFBのみを解離症状とするなどがとても中途半端である。そう、ジャネは一世紀も前にかなり包括的なトラウマ―解離理論を打ち立てていたのである。


2026年2月3日火曜日

アランショアの書評 (ほぼ完成版)

アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という技法の科学」(遠見書房、2025年)

 壮大な本である。一言で表現するならば、「神経科学や愛着理論、精神分析理論などを縦横無尽に援用しつつ新しいパラダイムに基づいた精神療法の在り方を論じたアランショアの書」とでも言えるだろうか。

 ただネットや店頭でこの大著を目にした事情通の読者はこう考えるであろう。「確かにアランショアという名前は最近よく聞く気がする。訳者である小林先生は確かショアの入門書を書いた方だろう。それに「右脳精神療法」とあともう一冊、薄い本が翻訳されている。まずそちらを読もうか。確かに小林先生の労作以外にもう一冊が翻訳されていて、それらを置いて本書を購入するのは屋上屋を架すという印象を与えるかもしれない。しかし本書は極めて充実した内容で、入門書を読みもう少し内容を詳しく知りたい人間にはうってつけである。そしてそれは私自身の体験でもあった。

 本書「精神療法という技法の科学」The sciene of the Art of Psychotherapy (2012)はショアがこれまで出した6冊の著作のうち4番目に相当し、彼が考える精神療法(感情調整療法、のちに右脳精神療法という呼び名に改められる)について詳細に論じたものである。同じ小林隆児氏の手による「右脳精神療法」(2022年に発刊)と共にショアの臨床理論を知るためには非常に重要な書である。

 翻訳者の小林隆児氏は、2022年にショアの最新作「右脳精神療法」を訳出した後、その理解を深めるためにも、ショアの「感情調整三部作」の次の第4作目である本書を日本の読者に提供することが必要であると感じたとのことである。

 本書は574ページとかなり分厚いが、英語の原書でも458ページというボリュームである。それだけに本訳書の出版先を探すことにも小林氏は難渋したというが(訳者あとがき)、本書は内容も極めて緻密でショアの驚くべき生産性(それは本書を訳した小林氏にも通じることかもしれないが)を感じさせる。本書を通読した読者はそこに盛られている情報量に嘆息するのではないか。少なくとも私はそうであった。最終章のマッキントッシュとの対話にも表れている通り、ショアの頭には、莫大な情報量に基づく理論体系が渦巻いているようだ。それは最新の脳科学が示す生後一年の驚くべき脳の感受性とその脆弱性への理解を基盤とした愛着理論に根差した養育や臨床の在り方についての知識や思考である。この驚くべき頭脳が生み出し続ける著作は各方面に大きな影響力を及ぼしつつ、現代的な人間理解や精神病理に関する一つのパラダイムシフトを提案しつつある。私たちはこの「アメリカのボウルビイ」の異名を持つという(503)ショアの偉大な精神に非常に多くを負っているのである。精神療法が目指す一つの方向性を知りたい方にはぜひご一読をお薦めする。


2026年2月2日月曜日

ショア書評 ⑥

 第11章 母子アタッチメント関係の臨床評価を導くための調整理論の使用

(452) 「ほとんどの精神疾患は、以前考えられていたよりもずっと早い段階で発症する」とインセルはいう。胎内及び出生直後の養育者との関係が、乳児のゲノムのエピジェネティックな変化を起こすという知見はもっともショッキングであろう(456)。
右半球は、妊娠最後の3か月から2.5~3歳までの間に重要な成長期を迎える。それにより社会情動的な発達が遂げられる。また乳幼児の脳の体積が生後一年で二倍になるという驚くべき事実が強調され、だからこそこの一年は決定的であり、そして将来の右脳の発達軌道を強化するうえでの予防が示される。
(469)最初の一年で(乳児の脳の)全体の体積は101%増え、2年目で15%。皮質下領域は最初の一年で130%増加し、2年目に14%増加する。

第12章 ジェニファー・マッキントッシュとの対話
(516) アメリカでは多くの母親が出産後6週間後に仕事に復帰する事実をあげ、子供をデイケアに預けることの懸念が示される。
(517) 乳児はストレス下でむしろ引きこもってしまう可能性があるという、それは重度の対人ストレスや関係外傷によるものであり、そうなると子供は泣かず、目も合わせない。そこで親が子供は泣いていないからだいじょうぶだと考え、放置すると、その沈黙状態ではストレスホルモン(コルチゾール)は泣いているときよりさらに高くなるという。
(520)直接暴力を受けなくても、両親間の暴力にさらされている子供ではストレスホルモンが過剰に分泌され、それが脳の発達に悪影響を及ぼす。ネグレクトにおいても同様な過剰なストレスホルモンの分泌が起きる。ただしストレスそのものが悪いというのではなく、それに対処できないでいることが問題なのだ。

訳者があとがきで述べているように(525)、わが国ではまだ力動精神医学と生物学的精神医学が統合に向かっているとはいえず、その意味でこのショアの業績を追うことは我が国の精神医学にとっても重要な一歩であろうと評者は考える。
最後に掲載されているアラン・ショア著作用語集は小林氏の手によるものであるが、極めて貴重で分かりやすいものである。


2026年2月1日日曜日

レマ書評 ⑤

 第5章 持って生まれた身体と自分そのものである身体

 私が特に難解さを感じずに読めた章である。しかしそれは内容に同意したかという事とは別である。記述されたCさんの体験は痛々しく、男性の身体を持って生まれた人がSRS(性適合手術)(の失敗?)を通して感じる苦悩を実に見事に物語っている。私はこの章で改めて、患者の問題が養育関係に帰せられるというレマの理解に違和感を持った。Cさんが男性の身体を持った存在として自分を生んだ親に向ける憎しみをどうとらえるべきであろうか。親からのミラーリングの失敗により「自分の身体は間違っている」という体験を得た場合、「それが処理されないままとどまり、それゆえ身体の中で具体化される」としたら全く救い道がないのであろうか。

本章ではGIDを持たない治療者がいかに患者にとって理想化と羨望の対象になりえるのかについても考えさせられた。しかしそれにしても思うのである。SRSが存在する世の中に生きていることは、GIDの人にとって幸せなことなのか。それを願望として持つことを放棄するという方向性の治療は存在しないのだろうか。


第6章 トラウマと身体

とても読むのがしんどい章。映画のプロットを追うのが必至。でも「象徴等価」の概念はとても大切だと感じた。

第7章 分析家の身体

患者はしばしば分析家の身体に非常に強い関心を払う。その少しの変化が患者に大きな影響をもたらすとしたら、それは分析家を大きく拘束することにもなるだろう。恐らくそこで重要なのは、見かけは変わっても何時もの治療者であるという観念を患者が持つのとであろう。そしてそこで大事なのは、要するに患者が治療者を「象徴化」することだというのだ。猫はどんなに色や大きさが変わっても猫であるように、どんな服装をまとった治療者も同じ治療者である。そのために必要なのは、患者が、対象が同じでかつ異なるという矛盾に耐えることが出来るようになることであるという。愛着期に、愛着対象が同じで違うということは、いわゆるPEM(予測誤差最小化)の能力を高めることにつながる。逆に言えば、愛着がうまくいかないということはこのPEMが育たず、対象が一回ごとに新奇な対象として見える事であろう。すると会うたびにボトムアップからの情報収集を行うしかない。そうではなく、治療者がいかなる服装や装いで現れても、同じ対象だとみなすことが出来ること。それは最初の愛着対象との間で成立した対象恒常性に関わってくるのである。これがにが手なのがASDであり、それは生得的なものか、そしてそれは左脳の邪魔が入るのかのどちらかによるのだろう。(ちなみに「折れ線型」のASDにはやはり左脳の発達が関与しているのであろう。それによりボトムアップの力が右脳機能に擾乱を引き起こしているのではないか。情報収集は右脳による(同一性に基づく)トップダウンと左脳による(差異に基づく)ボトムアップの共同作業なのかもしれない。



第8章 ラプンツェル再考 (グリム童話。呪われて生まれた少女が魔女に幽閉され、21メートルの髪をはしご代わりに使われていたというお話。)

この章にも難渋した。ただしこの機会にいろいろ髪について考えた。確かに「髪はもっとも露出している身体的境界である。このことはほとんどの時間衣服でおおわれているほかの身体部位よりも、情緒的意味がもっと大きく、他者による攻撃に最も晒されやすい部位であると感じられるのであろう。」その通りだ。私たちは体の他の部位と同じように髪を隠そうとしない。むしろ髪が身体を隠そうとしてくれる。米津玄師のように、目を他者の視線から隠すように髪を伸ばすという事が起きうる。それゆえに、男性にとっては髪を失うことはある種無防備な肌(特に頭皮)をさらすことになり、脆弱性や羞恥の念を引き起こす。このように男性の立場としては髪について言いたいことは山ほどあるが、レマの関心はあまりそこにはない。ただしレマの提言(207)「患者が持つ自身の髪との関係や、分析関係において髪が使われる様が、対象から分離することに関しての最想起の葛藤や欠損に接近するための役に立つ入り口を提供できると提言している」という視点は今ひとつピンとこない。私としては髪の自己愛的な意味、つまり自分を装い、プライドや権威を表す最上の手段としての考察をしてもらえればもう少し興味を持てたかもしれないと思う。


第9章 カウチから離れて

この章は分析家のトイレを使用することの心理的な意味について論じられている。トイレを備えたオフィスを構える臨床家にとっては、かなり深刻な問題である。この問題に関するレマの論述もかなり分析的であり、例えばセッションが終わった後患者がトイレを使ったことについて、「そこを怪我したままにする意味を患者に話し始めるのはもっと難しい」(222)という。しかし私としてはむしろ、治療者の自己開示の意味を考えてしまう。治療者がそこを使い、そこをどのように清潔に管理するかは、実は治療者の見えない部分をさらすことになる。そしてそれはホスピタリティの意味も持つ。トイレを使ったことに触れないというのも一つのやさしさではないかとさえ思うのだ。もちろんその分析的な意味や、それに含まれる様々な空想は計り知れないのは確かだ。