2026年2月22日日曜日

バウンダリーについて 13

  実はここまで行くと論じなくてはならない論文がある。いわゆる「Rind論文」だ。これは米国の心理学会では皆が知っている論文だ。私はこの論文を米国にいたころダウンロードしておいたのでアイパッドから読めるが、発表当時はそのあつかわれ方が極めて議論を呼んだことを記憶している。実は先ほど私は最初この論文の著者が思い出せずに「確かこんな論文があったんだけれど‥…」とChat君に聞いたところ、すぐにRind の名前が出てきたが「この論文を引用する際には、注意事項があるよ!!」と警鐘を鳴らしてくれた。

チャット君は「いわゆる 『Rind論文問題(Rind et al. controversy)』 として有名で、世論・専門家・政治の場まで巻き込んだ炎上になりました。」と言う。

ちなみにRind論文とは Rind, Tromovitch, & Bauserman(1998)“A Meta-Analytic Examination of Assumed Properties of Child Sexual Abuse Using College Samples”(Psychological Bulletin.124:22-53.)であり、その内容をひとことで言えば、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示したのである。しかしこの論文がアメリカでは大炎上したのだ。

 まずこのRind論文の抄録の和訳を紹介しよう。今ではチャット君のおかげであっという間に用意することができる。
<抄録>
一般の人々や専門家の多くは、児童期の性的虐待(child sexual abuse: CSA)は、性別を問わず、一般集団において広範かつ強い心理的害をもたらすと考えている。本研究では、このような一般的信念を検討するため、大学生サンプルに基づく59件の研究をレビューした。メタ分析の結果、CSA経験を報告した学生は、対照群と比べて平均的にはやや適応が低いことが示された。しかし、この適応の低さはCSAそのものに起因すると結論づけることはできなかった。というのも、家庭環境(family environment: FE)がCSAと一貫して交絡しており、FEはCSAよりもはるかに多くの適応の分散を説明していたからである。また、多くの研究においてFEを統制すると、CSAと適応との関連は概して有意ではなくなった。CSAに対する自己報告による反応や影響に関するデータからは、否定的影響は広範でも典型的に強いものでもなく、男性は女性に比べてはるかに否定的な反応が少ないことが示された。大学生サンプルから得られたこれらのデータは、全国調査サンプルの結果とも完全に一致していた。以上の結果から、一般集団におけるCSAに関する基本的な通念は支持されなかったと著者らは結論づけている。

さてこの論文による議論に関しては、それについてまとめたリリエンフェルド(この人も実は曲者だ!)の論文の要旨を読んでいただこう。Lilienfeld SO. When worlds collide. Social science, politics, and the Rind et al. (1998). Child sexual abuse meta-analysis. Am Psychol. 2002 Mar;57(3):176-88.

抄録)
1998年にRind, Tromovitch, Bausermanが Psychological Bulletin に発表したメタ分析は、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示した。ところがこの論文は発表直後から、メディアで影響力のあったドクター・ローラ・シュレッシンガーや多くの保守系団体から激しく非難され、さらには米国議会によっても糾弾される事態となった。加えて、アメリカ心理学会(APA)も、著者らの結論から距離を取る姿勢を示した。この一連の出来事は、いくつかの重要な問いを浮かび上がらせる。すなわち(a)政治的に論争を呼びやすい研究結果を報告する際に研究者が負う責任とは何か、(b)学問および科学の自由はいかに守られるべきか、(c)一般社会やメディアに広まる論理的誤りや誤解を正すうえで、APAはどのような役割を果たすべきか、そして(d)大衆心理学と学術心理学のあいだに存在する大きな隔たりと、それを縮める責任がAPAにあるのではないか、という点である。


2026年2月21日土曜日

バウンダリーについて 12

  昨日の続きである。もちろんこのことは「バウンダリーの問題はそんなにうるさく言う事ではないよ」ではない。バウンダリーの逸脱は非常に頻繁に人間社会で起きている可能性があり、その一部で確実に犠牲者を生み、また一部ではそれなりに関係が進展していくという現実があるという事だ。例えば昨日の例では選手とコーチの関係が男女の関係に発展するという事がどの程度頻繁なことは分からずとも、生じるべくして生じていて、一部では悲劇が生じ、一部では「上手く行く」(????)という事だろうか。では●出監督の話は「上手くいった」(結果オーライ)の話なのか?これは非常に難しく、錯綜としたテーマなのである。ただ一つの仮説として成り立つのは次のことだ。

 バウンダリーの侵犯(ここからは境界侵犯に呼び変えよう)は極めてハイリスクな出来事である。確実にトラウマを生む素地といえる。ところが他方にそれに対する感受性があまり高くない場合には、その境界侵犯のトラウマ性を克服、凌駕する力を相手が持ち、境界侵犯により新たに始まった関係性を生き延び、場合によってはそれを利用する場合がある???

 例えば●出監督の無節操さ(と敢えて呼ばせていただこう)を●チャンが「これってアリなの?」と疑問に思いつつも受け入れてその関係をwin-win なものにして生き延びる?これも現実だという事だろうか?私はこの問題は余りにリスキーすぎてこれ以上ブログでは論じることが出来ない。という事で今日はここでおしまい。(実は明日のレクチャーの準備で忙しいのである。)


2026年2月20日金曜日

バウンダリーについて 11

バウンダリーの問題の難しさは、「バウンダリーの問題をどこまで及ぼすかについてのバウンダリーが曖昧だ」という事だろうか? 2015年2月3日に私はこのブログで次のようなことを書いた。

「ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係が描かれているようである。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言い続けてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが芽を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」とある。
 ところがそれと一緒に保存してあるのが「噂の真相」の記事。「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(2000年12月号)
 これを読んで師弟関係についていろいろ考えさせられた。これは醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしここで浮かび上がるのは師弟関係とバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始めると・・・・ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けない。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論に移るしかない。
 どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。」

つまりこういうことだ。分析家と患者の間のバウンダリーの問題をるるつづってきてが、現実世界ではこのようなことが非常に頻繁に、日常茶飯事で起きているのではないか。そしてもしこれが現実だとすると、バウンダリーの問題はかなり深い闇の世界に繋がっているのではないか、という事である。

2026年2月19日木曜日

バウンダリーについて 10

もう一つの具体例。とある県の●●知事。あのお騒がせの事件は私たちの記憶に新しいだろう。
ところで彼は私が某大学に勤めていた時に、そこの教授として勤務をしていて、顔見知りとなった。だから私にとっては彼に起きたことは人ごとに思えない。(ところで今Wikiで知ったことだが、彼はつい数日前に慢性硬膜下血腫で手術を受けたという。大丈夫だろうか。心配だ。)
ところで彼は数年前にスキャンダルに襲われたが、その経緯が私の記憶に残っている。11年間不倫関係にあったある女性が、彼を突然週刊誌に告発したわけだが、そのきっかけは確か●●氏の方から関係の解消を迫られたことであった。これはとても興味深いことだ。おそらく相手の女性は「私を切りにかかったのね。都合が悪いとこうやって自分の存在をなきものにするのね。やはり彼は私を利用しただけなんだ」と感じたのであろう。彼との思い出がどれだけ楽しく、また彼女も完全に合意の上で付き合っていたとしても、である。(ちなみに一次資料に当たっていないので、かなり私の推測が含まれる。あくまでもそのような事情であった可能性について書いているに過ぎない。)
このような例は実に多いことに気が付く。特に不倫関係にある場合に、別れ話をきっかけに「(家族持ちの)不倫相手から利用されていた」「自分は被害者であり、犠牲者だ」という気持ちが高まり、それが相手への怒りに変わるという例である。
 私がここで強調したいのは、相手の女性にとってはそれまでの楽しかった関係がトラウマになってしまうということは心的事実としてあるということだ。「さんざんその関係を楽しんで勝手な人だ」などとは決して思わない。たとえそれまでその相手と幸せな時間を過ごしており、一度も相手から傷つけられたという体験がなくても、過去の記憶はそっくりそのままトラウマ記憶となりうる。
 もう少し別の架空事例を挙げるならば、ある夫婦が幸せな生活を送り、夫が先に亡くなったとする。残された妻は彼と過ごした数十年のことを大切な思い出にし、自分の結婚生活は幸せだったとしみじみ感じるとしよう。ところがそこで大変なことを知る。その夫は実はその婚姻生活のかなりの部分、別の女性との不倫関係にあることがわかったのだ。するとそれまでの数十年の生活は妻にとってのトラウマとしてのしかかってくる。たとえどんなに楽しい思い出に満ちたものであってもそうなのだ。
 例えば子供が生まれて一緒に子育てをした楽しい思い出があったとする。しかしその間にも夫は不倫相手と会っていたことが分かったのだ。するとその楽しい思い出はその楽しさゆえに、「何も知らずに騙されていた」という悔しさの感情をさらに大きくするかもしれない。これほど苦しい体験はありえないのではないか。
 なんだか話がそれてきたが、ギャバード先生の”Timed-release”の話(「不発弾」といういい方もありかな)あるいはトラウマの事後性の問題が境界侵犯審判に深く関係しているという話をしていてこうなったのだ。

2026年2月18日水曜日

バウンダリーについて 9

  昨日の続きについて。ギャバ―ドさんの比喩はこのように考えてはどうか。彼は飛行機のパイロットである。もちろん彼は操縦には自信がある。しかし乗客をたくさん載せた飛行には重大な責任が生じる。その時「ビールの1,2本なんて平気平気」と一杯やってから(なぜか呼気チェックもすり抜けられて)操縦桿を握るだろうか?さすがに私でもこれはいけないと思う。そして患者との個人的な関係に入る事にも同様の問題が生じると論じるのであれば、これはまた別問題である。  しかしこれを論じているうちに、ギャバ―ドさんが言っている「タイムリリース」効果のことが重要に思えてきた。性的な関係はそれにどのような意味が後になって付与されるか分からない。その意味でそれは「のちになって効いてくる薬物のようなのだ。そしてそれは分析家の行動を(かつての)患者にとって決定的に外傷的なものにしてしまう可能性がある。そしてそのようなリスクまで冒して患者と個人的な関係を持つことは決して倫理的に許されないのだ。(ちなみにTimed-release(タイムリリース錠)は、薬やサプリメントの成分が体内で時間をかけてゆっくりと吸収されるように加工された,徐放技術の一種、という事である。)  このトラウマの事後性(こっちの表現の方がよく用いられるな)はもちろん性的な関係に留まらない。いくつかの例をあげよう。親子の関係でも、これまで一生懸命育ててくれた母親が年老いて介護が必要になり、娘にそれを請うとしよう。そして娘は自分の生活があるので、母親に施設に入ってほしいと言う。それに対して母親は言うのだ。「将来面倒を見てもらうために一生懸命あんたを育てたのに、何てこというの?」  もちろんこれをどのように聞くかは娘次第だが、彼女は衝撃を受けてもおかしくないだろう。「これまでの子育てはすべて、私を将来利用するためのものだったの?」  私は親子の間で交わされる会話は時には大変な誤解や曲解や、あるいは真実の吐露を含む可能性があると思うが、それは長年のお互いの情緒的なコミットメントがこのような一言で反転したり、被害的、加害的な意味付けが行われる可能性があるからである。そしてこれは男女の関係でもいとも簡単に生じる可能性がある。それはその関係性のどの時点でも、何処にさかのぼっても生じる可能性がある。「自分は長い間騙されていた」「自分は裏切られていた」「自分はただ弄ばれただけだった」・・・。  ギャバ―ド先生の論文に戻ると、境界侵犯を伴う治療者―患者間の個人的な関係は、はるかに時を経ても、例えば離婚等による破局の際にはもと治療者側が患者側から訴訟を受けるというケースを多く見てきているという。

2026年2月17日火曜日

バウンダリーについて 8

 ギャバードさんのある論文 (Gabbard GO. Boundaries, technique, and self-deception: a discussion of Arnold Goldberg's "Some limits of the boundary concept". Psychoanal Q. 2008 Jul;77(3):877-81; discussion 915-9.) を読んで考えさせられた。この論文で彼は、Arnold Goldberg (例のコフート派の有名な分析家であろう)の論文(Goldberg, A(2008)Some limits of the boundary concept. Psychoanalytic Quarterly. 77:861-875.)に対する批判を行っている。ゴールドバーグは「境界侵犯をしても被害者は出ないことはあるではないか」と述べる。つまり境界侵犯は必ずしも罪ではないのはそのような例があるからだという。そして上げるのは次のようなケースだ。

長年にわたる精神分析が終了した後、分析家と患者が結婚したとする。二人は合意のもとにそれを行い、それ以降幸せに暮らしたとする。これは何の問題もないではないか、とゴールドバーグは言う。
 これに対するギャバ―ドさんの反論はとても精緻なものだが、アナロジーとして彼が出しているのを読んで「?」と思った。彼はゴールドバーグの主張は、かなりの飲酒をしても事故を起こすことなく車を運転して帰宅したなら、その人に罪はないのか、というのに似ているという。

私はこのギャバ―ドさんの反論はどこか違っている気がするが、なぜだろうか?

先ず飲酒運転に関して。もし運転手がものすごくベテランで、自分が行きつけのバーでコップ2杯のビールを飲んだくらいでは全く運転技術に支障が出ないことを知っていたとしよう。(実は飲酒運転が合法であるどこかの国で、さんざん経験済みだとしよう。)そして帰宅先はなんと、直線距離50メートルくらい先だ(だったらどうして最初からバーに歩いて来なかったのか、と突っ込まれるかもしれないが。)これは問題だろうか?私だったら大して良心の呵責もなく50メートルの距離を「安全運転」して帰宅するかもしれない。いわばこれは「軽い」違法行為で、結構起きていることかもしれない。60キロ制限の道路を62キロで走行するようなものだ。

分析における境界侵犯の例として同じようなレベルのものを考えてみる。例えば分析家が分析の関係を終了させた後、患者をお茶に誘い、10分ほどよもやま話をして別れたとする。ただの一回だけだ。そしてその後はもう会わないとしよう。これは上の飲酒運転の深刻さになぞらえることが出来そうな気がする。もと治療者と患者が個人的な付き合いをしてしまった点は境界侵犯にあたるだろうが、患者の側に被害はないとみなせるし、その意味ではゴールドバーグの「被害者の出ない境界侵犯」の例と言える。(ちなみに精神分析の世界では、分析家の卵、つまり協会の候補生が卒業して分析家になった後には、自分の教育分析家と同僚の関係になり、一緒にクラスを教えたり、一緒に飛行機に乗って学会に参加したりするのが普通であり、この種の「境界侵犯」は日常茶飯事である。そしてそれが深刻な問題に発展したという話も聞かない。
 ここまでは飲酒運転のアナロジーは説得力がある気がする。しかし‥‥(続く)

2026年2月16日月曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対して、フロイトはその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げている。しかし最後にフロイトも聖人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたことが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。それでも彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったとギャバ―ド先生は書いている。  フロイトの境界侵犯については、比較的最近になって明らかになったホレイス・フリンクをめぐる問題の方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものである。1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフが競って読んでいたのを思い出す。

 これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。一世紀以上も前の話だ。フリンクは当時、自分自身の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。
 このフリンクによる分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまりフロイトは患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだ。そしてそこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。
 そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在化してしまう恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、フリンクにさらにこう言ったという。「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」そしてアンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を発症し、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。これらの経緯から見て、フロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの直筆の手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか? 彼の真価はどこら辺にあったのだろう?