2026年10月13日火曜日

成田先生のこと 推敲 9

成田先生の自由さ
 ここまで論じた自由さという見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いことがわかる。そのことを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えればかなり勇気がいることと言える。
 そのような成田の立場を垣間見せてくれるのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さ―成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71にも所収)

(以下略)



2026年10月12日月曜日

成田先生のこと 推敲 8

 成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係にあったわけではなく、スーパービジョンをしていただく機会もなかった。年に一度精神分析学会で長身のお姿をお見掛けし、時々言葉を交わさせていただくだけであった。私は先生の著作を隅から隅まで読んだわけでもなかったが、私の中での先生の位置は特別なものであった。しかし改めてそれはどのような意味でであろうか?
 これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時の司会の役をいただき、最初に先生の御略歴を簡単にご紹介した後に、「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことと共に明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」として特別な存在であったのだ。この文章は私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
(以下略)

2026年10月11日日曜日

チャット君からのお返事

 私の主張に対するチャットGPTからの返事はとてもまとまったものだったので以下に掲載。

全体の主張は、こうすると一番強いと思う。あなたの現在の文章を僕なら四段階に凝縮する。

第一に、superintelligenceはomnipotenceではない。 Intelligenceがreal-world powerになるには、energy、infrastructure、weapons、networks、institutionsなどへのaccessが必要である。

第二に、superintelligenceのbehaviorが本当に予測不能なら、extinctionだけをdefault outcomeとするには追加のargumentが必要である。 Utopiaも保証されないが、doomも論理的必然ではない。

第三に、conscious desireがなくてもfunctional agencyは成立し得る。 したがって「AIにはdesireがないから安全」とまでは言えない。しかし逆に、instrumental goal-directednessを人間的なself-preservationやaggressionと同一視することにも慎重であるべきだ。

第四に、より近く確実な危険は、人間が強力なAIを自らのdesireに奉仕させることかもしれない。 AIにdestructive unconsciousが生じるのを待つ必要はない。われわれはすでにそれを持っている。

そして最後を、

Perhaps the most dangerous combination is not a superintelligent AI with a destructive unconscious, but a superintelligent AI without one, placed at the service of human beings who do have one.

で締める。

これはかなり強烈だと思う。しかも単なる「AI楽観論」ではなくなる。Yudkowskyの危険を否定するのではなく、危険の主体と時間軸をずらす議論になるんだ。

2026年10月10日土曜日

Harari 氏への反論

最近 Yuval Noah Harari 氏の短い講演をユウチューブで聞いたが、彼は「AIは道具ではない。例えばナイフはナイフでも、何に使うかを自律的に決めれるナイフ、そして新たなナイフを生み出せるナイフだ」と彼は言っている。つまり自律性 agency を有するナイフというわけだ。だから危険だというわけだが、しかしこれも、Yudkowsky派の議論に似ている。真に自律的なナイフなら、それを人類にとっていい目的に使うか悪い目的に使うかそのものが私たちの予想を超えている。ところが Harari はAIがそれを悪い目的に使うものと決めつけて警告しているように思える。しかしそうだとすると、そのナイフは自分の潜在的な力を勝手気ままに、無判断に使っていることになり、真のagency を有する存在として扱っていないようだ。
私の言いたいことを繰り返すと、AI脅威論は、AIの有するsuperintelligence がまだ中途半端なレベルで危険な振る舞いをする可能性について強調しているということが問題だ。真の意味でのsuperintelligence はもっと予想不可能で、人類を滅ぼしもすれば繁栄をもたらす可能性もある。つまり楽観論も悲観論も可能なのだ。(そしてこれは単なる楽観論ではない。)それ以前に必要なのは、凶器にもなりうる自律性を持ったナイフをいかに人が悪用しないかを考えることが先決、ということだ。

2026年10月9日金曜日

Yudkowsky派への反論

 最近AIにより人類は滅亡するという言説が多い。「超知能AIをつくれば人類は絶滅する」(エリーザー ユドコウスキー, ネイト ソアレス他)等の著書の影響が大きいかと思う。 原著は If Anyone Builds It, Everyone Dies: Why Superhuman AI Would Kill Us All、Eliezer Yudkowsky と Nate Soares の2025年の本。
 彼らはMIRI(Machine Intelligence Research Institute)を長く率いてきたAI alignment / existential risk論の代表的論者で、主張はかなり強い。「危険性がある」ではなく、現在に近い方法でsuperintelligenceを作れば、デフォルトの帰結は人類絶滅だという立場だ。
 これについての反論を私は以下に考えてみた。
Yudkowsky派の考えは一理あるようにも思えるが、基本的にはAIに関する議論を越えて、この世の中に superintelligence というものが存在したら何が起きるのか、という議論のように思える。わたしならば高度に発達した知能は、もはや自分の生存を優先するという自己中心的な目的ではなく、共存共栄を求めるのではないかとも考える。ましてやAIに desire がないならば、自分たちだけが生き残るという方向に行く理由がよくわからない。superintelligence がどのような振る舞いをするか予測できない、というのはその通りだが、それは最終的に人類を絶滅させるのではなく、むしろそれの繁栄をもたらすという可能性だってありうるだろう。だから彼らが最終的に人類の滅亡が不可避だとだけ主張しているのはなぜか私にはわからない。
 それよりも私が懸念するのは、superintelligence がまだコントロール可能な段階で、世界の誰かがそれを悪用して自分たちの利益のために用いるという危険性の方だ。結局はAIはそれを用いる人間により、善にも悪にも使えるという議論に行きつく。つまり私の議論はそんな先のことを考えるまでに、人間によるその悪用をいかに防ぐかの方がよほど先決問題であるということだ。
 それともう一つ、Yudkowsky派は、superintelligence 自体を神格化し、それが全能であるという誤解を生んではいないだろうか。高度のIQを持つ人間が現在の世の中でどれだけその力を行使しているかを考えてみればいい。彼らは社会の中で圧倒的な力を行使して、自己の利益を高めているだろうか? まったくそんなことはない。メンザのメンバーを見ても、おそらくバラバラな活動をしていて、中にはニートのような生活を送っている人もいる。世界を支配するのは、高知能ではなく、もっと別の力ではないか。少なくとも高知能=他者を欺いて世界を支配する能力という考えは誤解を生むだろう。
 それともう一つ、これはバッシングを承知でYudkowsky派への反論。彼らは「AIが危険になるのに malice(悪意)はまったく必要ない」という。しかしAIが本当に危険になるのは、それが何らかの形で「覚醒」し、つまり意識や願望を持つことだ。それさえないsuperintelligence 何て計算能力の高いだけの、ただの木偶の棒である可能性だってある。そんなに危険なほど高度のintelligence に、意識や願望を想定していないという彼らの議論は矛盾していると思う。そしてもう一つ、悪意のないAIであればこそ、それを悪用しかねない人間の方がよほど危ないのではないだろうか?結局一番の問題は我々の無意識的な破壊衝動だ、という分析的な考えに帰着する。

2026年10月8日木曜日

愛着と愛着トラウマ 加筆部分

従来はどのような理論でトラウマを説明してきたか?← 実はほぼ不在だった
 以上CPTSD的な病像について述べたが、このような様子を示す患者に対して私たちはどのような姿勢や心構えを持って臨むべきであろうか?
 一つ言えるのは、いわゆる古典的な精神分析にそれを扱うすべを見出すことはあまり出来ないということだ。Freudの精神分析理論には性的なファンタジーや攻撃性やそれらの抑圧という話は出てきたが、「トラウマ」や「解離」は表立っては語られなかった。一つの根拠を上げるならば、Freud の忠実な継承者であったAnna Freud (自我と防衛)の提示した防衛機制にも解離は出てこない。抑圧、退行、反動形成、隔離、打ち消し、投影、取り入れ、自分自身への向け変え、反転、昇華・・・・・どこにも解離は見当たらないのである。
 ただしトラウマを扱った理論、いわゆる「トラウマ理論」はFerenczi, Winnicott, Balint, HS Sullivan などによっては語られていた。だからトラウマや解離は精神分析の中では傍流に属する、いわば辺縁での理論としては語られていたのである。しかし精神分析の黎明期には、Freud 自身により、トラウマや解離理論が開拓されていたことは驚くべきであろう。
Joseph Breuer は当時でウィーンで名の知れた精神科医であった。ウィーンでの開業を迫られていた当時のFreud はこの臨床の大先輩から様々なアドバイスや援助を受けた。その中でもBreuer の体験したアンナOとの治療についての語りは、若き Freud を魅了したと言われる。アンナOは父親の病や病死に際して様々なヒステリー症状を呈していたとされるが、現代的な見地からは、トラウマを体験し様々な解離症状を呈していたものと見なせる。Breuer はアンナOのもとに頻繁に往診し、その治療に力を尽くしたが、特にアンナに対して語りによる治療を試みた点は異色であった。当時のウィーンではヒステリーの患者に対する催眠等のかかわりは試みられていたが、今でいう精神療法的な言葉による関りはほとんど行われていなかった。Breuer はアンナOがしばしば患者は催眠をかけられたような朦朧状態を呈することや、患者に過去のトラウマ体験を語らせることでしばしば症状が一時的に改善することを見出した。これがいわゆるカタルシス療法であり、いわゆる語りによる治癒 talking cure と呼ばれるものであった。

2026年10月7日水曜日

成田先生のこと 推敲 7  

精神分析における中立性や受け身性の概念は徐々に変化しつつある。たとえば逆転移はフロイトの時代以降は、不可避的に起きることで、むしろそれをよく理解する事が大切ということになった。また逆転移が行動に表れる現象については、以前は逆転移の行動化と呼ばれ、戒められていたが、最近は逆転移エナクトメントとして、それはある程度不可避的に生じるのであり、むしろ積極的に活用するようになってきている。そして特に大切なのは、それを俎上に載せるという傾向が、関係論にしばしばみられる一つの特徴といえるのだ。その意味で成田の考えは極めて関係論的といえる。
関係論的、とは結局形式にこだわらないということであるが、それはドグマに捉われず、つまり「治療は~でなければならない」にはとらわれず、患者が必要としていることをせよ、ということだが、これにはとても勇気がいることだ。