患者に「白状する」という治療方針について、それをもろ手を挙げて賛成する療法家は少ないと思う。私も最初にこれを聞いたときは、「ちょっと自分には出来ないな」と思ったことは確かだ。しかし成田程の人がこの誤解を生みかねない表現を用いるのにはそれなりの理由があるとも考える。「白状する」には、治療者が普段は患者にそれを伝えないことで保っている「何か」の存在を示している。それは患者に対する素の気持ちであり、感情であろう。 普段はそれを伝えることは二重の意味で不利であると考える。一つにはその気持ちを伝えることが患者を傷つける可能性である。そうしてもう一つは治療者が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるということだ。このうち前者を伝えることは決して「白状」ではない。後者を伝えることが「白状」に該当するのであろうが、それを成田は常に行うとは言っていない。あくまでも「困ったときは」であり、そうでない時も駄々洩れ状態にすることは決して治療的とは言えないであろう。そしておそらく患者の側もそれを望まない。 治療関係は成田が言うように、職業的な側面と、人間的な側面の二重性を持つ。前者は治療者がある高い位置ないし権威的な立場から何事かを伝える。そしてそれは患者の側が助けを求めて自らをさらし、治療者の側がそれを職業的に聞くという立場であるという関係性と密接である。 そこで思い浮かぶのは、医師の前で服を脱ぎ聴診器をあてられる際の患者である。患者は「どうして自分だけ服を脱がされ、相手は白衣を着たままなのか?」という疑問や不満を普通は抱かない。むしろ相手を医学的な知識を備えた権威と見なし、いわば高所から自らの問題を見つけ出して欲しいと思う。その時実はその医者も診療が終わったら自分の生活習慣病の治療のために自分も医師にかかっているという事実を聞くことはどちらかと言えば煩わしく、また興覚めでもある。「体調管理が出来ていない医師のいうことにどれだけの信憑性があるのか?」という疑いの気持ちが湧くかもしれない。そして内科受診の際は、内科医が「困ったときには白状する」という原則に頼る必要もないだろう。しかしそれが意味を持つ場合があるのが精神療法なのである。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年10月17日土曜日
2026年10月16日金曜日
成田先生のこと 推敲 12
なぜ正直なのか?
成田が「白状」とまで称するこの態度は、ある重要な点を示す。成田は自分が運動が苦手で、また孤独で人と交われなかったとするが、なぜ彼がこのようなことを言うかと言えば、彼が精神療法に関して自分がある種の権威として扱われている事への予防線なのである。すなわち自分はそれほどたいそうな人間ではなく、弱さを持った生身の人間であるということを宣言している。これはあたかも彼が武装解除をし、一介の人間としての体験から出発するという姿勢である。そしてその体験は彼自身の体験であり、そこから学んだことが彼の言動の源泉になっている。それは運動が苦手で孤独な人間であっても、一人の人間として体験できる何かを示しているのであり、その発言が権威を身にまとったものではなく、他者からの引用ではないことを示している。
さらに言えば、そのような率直さ、正直さが人間関係を築くうえで最も効率的であるという確信のようなものが成田にはあるのであろう。それは相手が仕掛けてくる攻撃に対してそれに乗ることなく、いわば合気道的に受け流して相手をいなす方便である。
このことは治療関係にも言える。治療場面で治療者が窮する時、たいてい治療者は防衛的になっている。そこには「分析理論から言えば」、「お作法から言えば」こうなるという方針が無力化される瞬間であり、いわば治療者として持っている武器が奪われ、丸腰になった状態と言える。その際に素であること、正直であることは恐らく最善の態度であり、そこには「自分はここでは何もできません」と白旗を上げるということをも含む。しかしそうすることで逆説的に何かの方向転換が生まれるというのが成田の知恵なのである。
2026年10月15日木曜日
成田先生のこと 推敲 11
成田の目指す正直さや率直さ
成田は精神療法とはいかにあるべきかについて常に考え続けていた人である。それが「精神療法」そのものを主題とした数多くの論文や著作に表されている。その全体として浮かび上がってくるのが、その正直さや率直さである。それは彼の人柄を表すと同時に、彼が精神療法家の在り方として追及した姿にも通じている。見事な「自己一致」がここに見られるのだ。
その率直さが見られるのが成田の著作の特徴である。成田の精神療法についての理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near にどちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。そして大事なのは、その根底に率直さ、正直さが流れているからだ。だから読者は常に我が身に引きつけて彼の文章を読むことができる。
この正直さのゆえに、成田には自分の弱さや足りなさを率直に開示したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと、運動が苦手だったこと、分析学会誌に原著論文を掲載していないのに学会の会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。そしてそれに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りが非常に薄いように感じる。つまり通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。
だから成田には自分の理論を死守するために強弁するというところがない。しかしその臨床的な感性はかなり早くから既にあり、臨床経験を積み重ねる途上で出会う理論を場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念によっては語られない。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られるものである。
この率直さが先述の成田の自由さや、上述の「困ったときは正直に言う」という態度に結びついていることは理解するに難くない。
成田は精神分析の世界で治療者の自己開示がいかにタブー視されて来たかについて十分熟知したうえで、それから「自由」な自分の治療感をこう述べる。(ひとりごとp.93)は「セッション内の治療者の主観的体験(患者の言動に対する反応)は出来るだけ開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを『白状する』と称している」という。ある臨床例で(同、p94)成田は話が分かりにくい患者に「あなたの言っていることがもう一つよくわからなくて、あせりや無力感を感じる。おそらく今あなたも同じような気持ちではないか」と言い、それが「自分でも自分の気持ちがよくわからない」という患者の反応を引き出した例を出す。
2026年10月14日水曜日
成田先生のこと 推敲 10
成田は「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木(すぎ、わぼく)の会)同 p.3)と述べる。
成田が掲げているこの二つの原則は、それ自体が彼の臨床観が極めて相互交流的 interactive であることを示している。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は心理療法を抽象的に捉えるのではなく、どのように患者にとって役に立つかを常に考えている。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、受け身的に話を聞くことは、効果的に患者に言い、患者に尋ねるための手段というニュアンスがある。
(以下略)
2026年10月13日火曜日
成田先生のこと 推敲 9
ここまで論じた自由さという見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いことがわかる。そのことを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えればかなり勇気がいることと言える。
そのような成田の立場を垣間見せてくれるのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さ―成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71にも所収)
(以下略)
2026年10月12日月曜日
成田先生のこと 推敲 8
これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時の司会の役をいただき、最初に先生の御略歴を簡単にご紹介した後に、「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことと共に明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」として特別な存在であったのだ。この文章は私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
(以下略)
2026年10月11日日曜日
チャット君からのお返事
私の主張に対するチャットGPTからの返事はとてもまとまったものだったので以下に掲載。
全体の主張は、こうすると一番強いと思う。あなたの現在の文章を僕なら四段階に凝縮する。
第一に、superintelligenceはomnipotenceではない。 Intelligenceがreal-world powerになるには、energy、infrastructure、weapons、networks、institutionsなどへのaccessが必要である。
第二に、superintelligenceのbehaviorが本当に予測不能なら、extinctionだけをdefault outcomeとするには追加のargumentが必要である。 Utopiaも保証されないが、doomも論理的必然ではない。
第三に、conscious desireがなくてもfunctional agencyは成立し得る。 したがって「AIにはdesireがないから安全」とまでは言えない。しかし逆に、instrumental goal-directednessを人間的なself-preservationやaggressionと同一視することにも慎重であるべきだ。
第四に、より近く確実な危険は、人間が強力なAIを自らのdesireに奉仕させることかもしれない。 AIにdestructive unconsciousが生じるのを待つ必要はない。われわれはすでにそれを持っている。
そして最後を、
Perhaps the most dangerous combination is not a superintelligent AI with a destructive unconscious, but a superintelligent AI without one, placed at the service of human beings who do have one.
で締める。
これはかなり強烈だと思う。しかも単なる「AI楽観論」ではなくなる。Yudkowskyの危険を否定するのではなく、危険の主体と時間軸をずらす議論になるんだ。