2026年3月24日火曜日

「バウンダリー」推考 3

  3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私はそれからしばらくして生活の場を米国に移したが、そこで体験したことは一言では言えないものの、あえて言うならば、「境界はいくらでも侵犯される」ということだった。精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれる傾向にあるが、それでもしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「境界は破られてナンボのもの」と思うようになった。境界は踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。というよりは、「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が境界を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるために、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。だからこそ精神分析の理論をさらに学び、自分でも分析を受け、また臨床経験を積むために留学したのだ(実はこれは口実だというニュアンスもある。要するに私は日本を出て世界を見たかったのかもしれないとも思う。)
 しかし結論から言えば、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の教育分析を通しても(週4回のセッションを5年間)、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを活用する方法を知ったというところがある。その意味での知恵はついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょ?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「嫌ね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかし今こうして考えているうちに、まさにある意味では小此木先生の(表向き上の)教えの通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は次のとおりである。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」。それはそうなのだが、私が至った考えはそれとも少し違うのである。私が今考えているのは、「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで効力を発揮するのであり、それをめぐる微妙なやり取りがる両者(患者と治療者)の心の動きの場 field を形成する」ということなのである。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこで初めて戦いが成立するのである。治療構造とはその種のものなのだ。つまりそれは「守るべきもの」というよりは「『守るべきだ』と意識するべきもの」なのだ。

  そのことを説明するためにある架空事例を考える。ある患者の精神分析のセッションが2時から始まるという治療構造が設定されているとする。ちなみに日本でプライベートオフィスを構える治療者は通常は待合室を持たないので(部屋代が倍になってしまい、支払えない!)、患者はきっかり2時に、ないしはそれ以降にオフィスをノックするという決まりが設定されるのが普通である。開始時間とはそのような状況において設定されていると考えていただきたい。
 さてそのような設定で何が起きるのか。まず治療者は当然ながらその設定を厳守しようとする。倫理的な縛りは彼の方が重いが、それは彼が料金を取ってサービスを提供する側だからだ。彼は2時きっかりか、それ以降の患者のノックには素早く反応して患者を招き入れる。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれを僅かでも遅れることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は「内側に向かって」剛構造的ということだ。
 しかし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは「外側に向かって」は少し柔らかいのが普通だ。つまり少し早めのノックにどれだけ反応するかについては治療者の側の裁量があるのである。たとえば治療者の時計では10秒早く患者がノックした場合にも、「まあいいか」となることはよくあるだろう。患者の時計が10秒だけ進んでいたのかもしれないし、ひょっとすると治療者自身の時計の方が少し遅れていたかもしれない。あるいは患者の側の気の焦りがあったのかもしれない。だから10秒前のノックでもドアを開けることは「サービス」としては十分にありうるのだ。
 しかし普通治療者は2,3分ほど早いノックには反応しないだろう。無視する、答えない、というのが普通の反応である。まだ彼自身がトイレから戻っていないかもしれないし、そもそも前の患者さんの終了時間がなぜか遅れに遅れて、まだ立ち去っていないかもしれないからだ。その意味で治療者の時間厳守は外側には柔構造的であり、その意味では開始時間に関しては「半剛構造的」と言えるだろうか。

 そして興味深いことに、患者にとっては逆方向に「半剛構造的」であることがわかる。

患者は2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それは患者の選択肢の一つである。より早く来ることには抵抗がある。5分前に来てノックしても治療者はドアを開けないし、さぞかし迷惑に感じるのではないかと思うだろう。それに前の患者がまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。
 しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。

 逆に患者が2時ちょうどにノックをしても、治療者が10秒遅れでしかドアを開けてくれないとしよう。患者は治療者に時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「10秒間というそんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかホンのちょっとでもひじ掛けの中央線(そんなのは現実にはないが)を越えて侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。そしてこの意味で患者にとってはバウンダリーは内側に柔らかいということになる。


2026年3月23日月曜日

「バウンダリー」推考 2

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。(ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。)

 その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始時間の午後2時に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。しかしほかにも遅刻の原因は山ほどあるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。
 ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?第一患者さんもその抵抗を無意識にしか持っていないとしたら・・・・」すると彼は厳かに、しかし決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けて、まずは自分自身の無意識の働きを知ることだよ。それにより患者さんの無意識も見えてくるのだから。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

そしてS先生は続けた。「小此木先生の治療構造の論文を読むといいよ。『治療構造論』は小此木先生の最大の業績だからね」「おおそうか!」と私。治療構造とは要するにセッションがいつから始まり、何時で終わり、料金はいくらで…という治療上の決まりを作っておくことを意味する。要するに「バウンダリー集」と言っていい。私はすぐさま小此木先生の精神分析セミナーの受講を始め、実際に其の謦咳に触れた。そして彼の「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」という言葉はその口調までしっかり脳に刻まれた。そして間もなくアメリカに精神分析を学びに留学したわけである。私は精神分析こそが心の探求のための真の道筋だと思い、治療構造は精神分析にとっての重要なツールだと信じて異国の地に降り立ったのである。


2026年3月22日日曜日

「バウンダリー」推考 1    

 1.バウンダリーの起源

 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私のバウンダリーの問題はとりわけ2つの意味において重要である。第1には精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そして第2には、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。しかし紙数の関係でこの2に触れることは出来ないかもしれない。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。つまりバウンダリーの起源は私たちの身体性に根差しているのである。


 (以下略)



2026年3月21日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 19

 バウンダリー上の「遊び」と臨界

最終的にこの話は臨界状況に至っておしまいになるだろうか。私は基本的に生命体は臨界にあると思っている。動的平衡という考え方も、「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC) もこれに関係している。これについては、3年ほど前(2023年8月29日)にこのブログで書いたことを引用しよう。


脳と心は臨界状況である


 ここで脳や心が置かれる臨界状況の典型的なものについて挙げたい。

 ・あることを思い出しそうで思い出せない時。

  • あるアイデアが閃きそうな時。

  • 怒りの爆発をギリギリで抑えている時。

  • 解離状態において人格の交代が起きる時。

 これらの時私たちは「考え」てはいない。「脳」が自動的に動いている(サイコロを振っている?)だけである。何かを思い出そうとしている時、もう少しでいいアイデアが浮かびそうなときなどを思い浮かべていただきたい。私達はよく中空を見上げたり、眼球を上転させるような仕草をする。たいていの場合目は開いたままである。ただしその目は何か具体的なものを捉えてはいない。出来るだけ何もないような中空に目を泳がせたりする。その様な時私たちは明らかに何かを「待って」いる。向こうから何かが下りてこようとしている、そのプロセスの邪魔をしないように、心の動きを止めるのである。英語で言うと poise している状態。もちろん人によっては散歩をしたり、風呂に入ったりということをしながら、頭をボーっとさせるという手段を取るかもしれない。

 では私たちは何がどうするのを待っているのかと言えば、それは私たちの無意識、ないしは脳からのリスポンスを待っている状態であろう。それはあたかもコンピューターの検索エンジンにキーワードを入れて enter キーを押し、結果を待っている状況に似ている。いずれにせよこのような場面で私達は無意識や脳に対してかなり受け身的な姿勢を取るのである。


「自己組織化臨界性」 (Self-Organized Criticality, SOC)とは?

 さてここで少しわかりにくいタームを導入したい。それはSOCという頭文字である。これは「自己組織化された臨界性 Self-Organized Criticality」の頭文字だが、長ったらしいので簡略化してSOCと呼ぼう。これはどういう意味かといえば、複雑系の中でもあるものは、この臨界の付近に自然と近づいてくるという意味である。

  SOCの定義としては、臨界に向かっては離れ、離れては向かい、場合によっては相転移を起こすシステムであり、広い意味では心、ないしは脳はこのSOCと考えられる。臨界から遠ざかっている時はあまり大きなことは起きない。しかし決断を下さなくてはならない機関であるということは、必然的にいつでもいざとなったら氷結や雪崩を起こすことのできるSOCである。

 ではなぜ脳はSOCなのか。それは端的に動物は生きるという宿命を負っているからだ。動物は安静時でも常に活動し、外界からのエネルギーを必要としている。その為には捕食しなくてはならず、敵から身を守らなくてはならない。つまり行動を起こすわけであるが、それは殆どが臨界状況を含む。例えば猫がネズミを捉える時は、ネズミを捉えるという決断を下す、実際にネズミを捕獲するチャンスを伺う、獲物にこちらの存在を気づかれずに捕獲できるギリギリの距離までおびき寄せる、等はことごとく臨界期なのだ。

 もちろん臨界期を迎えずに生きている生命体もいる。例えば一日に一度餌と水を与えられ、あとは昼寝をしている猫であれば、臨界はめったに起きないかも知れない。全てが計画通り、予測通りに生じ、猫は何もハラハラする機会がないかも知れない。しかしそのような環境を提供してくれるご主人様に捨てられたら、野良になり、臨界につぐ臨界の厳しい生存競争を生きていくことになる。

 それに比べて自然界、例えば大地がSOCだと言えるのだろうか?必ずしもそうではないだろう。たとえばアメリカの中央平原に居てもめったに地震を体験しない。何年かごとに起きる大地震にハラハラすることもない。つまり臨界からは程遠いのである。しかし世界全体の地震の頻度が、リヒター・グーテンベルグの冪乗則に従う以上、全体としては臨界に近いことになる。つまりプレートは常に動いており、世界のあちこちでひずみが生じては地震である程度それが解消され、ということが連続的に起きているわけである。


 つまり臨界状況とは生命体(それ以外にもあるだろうが)が常に近づいては離れていく関係にあるようなものである。そこで様々な事件が起きるのも当然である。臨界状況が面白いのは、ある意味で自明なことなのだ。そしてそこでは相転移という名のどんでん返しが起きる。それはトラウマにもなるのだ。


2026年3月20日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 18

  この話の路線上に出てくるのが「遊び」である。と言っても境界線上の浮遊状態が即、遊びにつながる、という短絡的な主張をするつもりはない。しかし境界線上の綱渡りと遊びには深い関係があることは確かである。  そもそも遊んでいる時には私たちは大きな不安に駆られることはない。不安が強ければ遊んでいる余裕はないだろう。「自発性」がなく、「儀式」のみに追いまくられる状況とは、例えば捕食者に追いかけられて必死に逃げている状況、病の苦痛に耐え忍んでいる状況、あるいは上司からの命令で好きでもない仕事を締め切りに追われて一心にこなしている状況、などであろうか。  しかし一切の不安や「儀式」がない状態もまた退屈であり、結構苦痛でもあるのは確かだ。仕事に追われて忙しい毎日を過ごす人は、休暇を取ってリゾート地に赴き、ビーチで横になってのんびりしたいと願うだろう。確かにそれは思い描く分にはいいが、しかし実際に浜辺で何もせずに横になり「のんびり」する時間に、実際には何分耐えられるだろうか?何をしても許される、他方では~をしなくてはならないというものが一切ない状況もまた、遊びとは程遠い。  私は去年遊戯療法学会での発表でいわゆる「じゃれ合い」を遊びのプロトタイプとして論じたが、ジャレ合いの楽しさにはスリルが必要である。動物の子供同士のジャレ合いには、肉球に隠している爪を出したらお互いに傷つけ合いかねないという迫力が伴う。この状態の特徴は、発揮される「自発性」に一歩遅れて「儀式」が付きまとい、互いにイタチごっこになるということである。ただし本当の意味で両者が伯仲している状態とは違う。その場合はジャレ合いではなくて、ボクシングの試合のようになる。パンチを繰り出すことでカウンターを食らう確率も増す。そのギリギリのせめぎあいで進行するのがボクシングの試合だ。  それに比べて相手のパンチが大したことがないことをわかっており、その分自由にないしは気楽にパンチを繰り出すことができる状況はミット打ち(スパーリング)にたとえることが出来よう。スパーリングの場合コーチはミットを構えてボクサーのパンチを受ける。でも時々ひょいひょいとそのミットを動かし、こちらがパンチを外せば、いつそのミットをこちらの顔面に向けて来るとも限らない。もちろん程よい手加減をわきまえているコーチはそこら辺をうまく調整することが出来、一種の遊びの要素を入れることでボクサーがミット打ちを継続するモティベーションを与え続けるのであろう。

2026年3月19日木曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 17 

  ここでこの境界の問題に、ホフマンの「儀式と自発性」がどうかかわってくるかを示さなくてはならない。以前に書いたのは以下のような内容だ。

 ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つはそれを破ったら大変な事になるのではないか、という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎ合いである。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式としたのだ。

 私たちの個人的な生活における行動はことごとくこのせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。

そしてこれは治療関係についてもいえる。患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性だと言った。患者は時間を減らす自由はあるが(「今日はお先に失礼します」、と言って時間前に退出することなど。治療者はその患者の自由を尊重すべきであろう。それもまた患者の時間の使い方だからだ)、時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(と言っても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。

 ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間を(すなわち何かに追われて余計な思考が介入できないような時間を除いて)この「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するのか。完全に抑制が放たれて退行しきった状態でもなく、「~すべし」という観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上でバランスがとれるような格好のロープというわけだ。


2026年3月18日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 16   

  ここで私が40年前に日本を発つとき考えていた「患者さんの遅刻が治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。より正確には以下のように書いた。 「でも[患者さんの3分の遅れは]どの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」

 今の私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。

 「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事はあるよ。でもそのこと自体はそれほど重要なことじゃないんだ。というのも多くの場合そのどちらとも決められないからね。大事なのは治療抵抗の可能性に気がついたら、一応フラグを立てておくことかな。もしその上でそれが繰り返され、そこに何らかのメッセージが含まれるのではないかとより強く感じた場合は、それが単なる偶発事ではない可能性を考えるだろう。まだ確証はないだろうが、それが強いと感じられるのなら、その時点で患者と話してみるといいだろう。でも恐らくそれはそれを感じ取る能力は、分析のトレーニングとはあまり関係ないだろうね。」

 そう、はっきり言って精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり働いてくれないのだ。「でも」と私は続ける。「その種の出来事の扱い方の経験値は増えていくだろうね。」それは以上のような経緯で何らかの反応をし、それに対する相手の反応を見る、という事を通して高まっていくのだ。でも患者さんの遅れを取り上げると言っても、決して「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。そのことに気づきですか?」などの言い方にはならないだろう。というのもそのような言い方はもろに「これからは遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。でもそれはその介入の目的ではない。というか精神分析はそれとは逆のことを目指しているからだ。というのもセッションに遅れるのはある意味では患者の自己表現だし、治療者にセッションの開始を遅らせる権利はなくても、患者の側にはその自由があるのである。

 患者さんの3分の遅れについてのこうした扱いは「柔構造的」と言えるだろう。それは一言でいえば、決して超自我的な役割を分析家が負わないということだ。そしてその結果として実は色々なことが偶発的にわかったりする。たとえば患者さんが乗るバスの時刻表が最近変更になってから起き始めたという事が判明したりもする。あるいは患者が少し遅れることで治療者を試すという意味も含まれていたかもしれない。いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はとても大切ではあるが、かなり高飛車で上から目線なのである。