2026年3月14日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 12  

  古き良き時代はこうではなかっただろう。いい加減、別の意味で柔構造的だったはずだ。昔の物々交換の時代に、隣人といつもニワトリ一羽と袋一杯のジャガイモとを交換していたとしよう。あなたはジャガイモ畑の所有者の方だ。するとある日「今日の鶏はちょっと小ぶりだな」とか「今日のジャガイモの袋はちょっといつもより小さいな」とお互いに思ったりするかもしれない。しかし確証が得られず、モヤモヤで終わっていた可能性がある。そのくらいのことでもめ事には発展しないはずだ。  しかし人間はお互いに被害的になる傾向があるからこそ、お互いに相手にごまかされていると思い、不仲や喧嘩につながることが多いのだ。逆に相手にサービスしてもらっているとお互いに思っているようなケースはずっと少ないだろう。おそらくそのような理由もあり、やがて価値の比率を重さで決めるなどし、そこに貨幣が導入されて定価が定まる。土地の境界もしっかり線が引かれてお互いにそれを厳密に守るようになるはずだ。  相変わらず脱線気味だが、私はこう言いたい。治療構造として開始時間が2時、一回50分と定められているからこそ、そこで「サービスをしてもらえた」とか「(終了時間を一秒たりとも延ばしてくれないなんて、なんて頑固な治療者だろう?」などのあらゆるドラマが生じる。  興味深いことに定刻に始まり、定刻に終わったとしてもドラマが起きるのだ。お互いに持っている時計の時刻が数秒ずれるという事はありうる。すると患者が2時きっかりにドアをノックしても、少し時間が遅れている時計を使っていた治療者の方は、「まったく、まだ10秒あるのに…。だいたいほんのちょっと遅れてノックするのが礼儀だろう?」(←私の創作である。ただし私は定刻よりほんのちょっと遅れてノックをするようにしている。ノックされる側としては、時間よりほんの少しでも早くノックされるのは侵入的に感じ、遅れることで余裕をもらえたと思うという風に思うけいこうがあるようにかんじるっているからだ。)  なぜこんなことが起きるかと言えば、人間のやることは、(そして自然現象もそうであるが)常に揺らいでいるからだ。そして私たちは気分の波にも翻弄される。治療者と患者の間の挨拶にも表れるだろう。これは境界や治療構造とは異なるが、治療開始には治療者が「それでは始めましょう」と声をかけるとする。あるいは患者が「ではお願いします」で始まるとする。これは目に見えない治療構造として定まっているのだ。すると治療者の「それでは始めましょう」に彼の機嫌が反映されていたり、その声の大きさや嗄れ具合に体調が現れている可能性がある。するとセッションはいつもとはかなり違ったトーンで始めり、「先生はどうしたんだろう?」「気のせいかも知れないが、今日はあまり頷いてくれないな?」などと考えるようになっていく。  私はバカバカしい話をしているのであろうか?実は人間同士のやり取りでは、これは普通に起きている事であり、精神分析でもそうなのだ。仲のいい夫婦でも時々、本当にどうしようもなく些細なことから口論が始まるのを私たちはよく知っているはずだ。

2026年3月13日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 11

  この話、私が予想していなかった方向に向かっている。「治療構造をしっかり定めるからこそ、それをめぐる力動がわかるんだよ」とは、小此木先生が私が新人の頃に言っていたことだ。しかし治療構造を厳密に守ることの意味を疑い始めていた生意気な私は「それは建前でしょ?」と思っていた。「いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」(小此木先生があまりそれを守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそうおっしゃっていた。)しかし今こうして考えているうちに、まさに小此木先生の通りだったという気持ちになっている。彼の言っていること(そしておそらく大勢の分析家たちが言っていること)は正しかったのだ。しかし通常考えられるのとは別の意味で、なのだ。それに「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、したがってその意味を解釈できる」という意味ともまた微妙に違うのだ。でもうまく説明できるだろうか?  セッションが2時から始まるという構造であったとする。治療者はぜったいにそれを厳守しようとする。それは契約を守るという事であり、治療者の側にはそれをおろそかにすることは倫理的にできない。その意味で治療者にとっては開始時刻は剛構造的? どういうことだ?  ここで少し脱線して、商売を例にとって説明したくなった。治療者がお肉屋さんだとしよう。しかも古いタイプのお店で、量り売りをしているとする。昭和の肉屋さんはこうだったなあ。今でも町のパック詰めしない肉屋さんはそうか。  まあそれはともかく、100グラム300円の豚コマを売る時に、お肉屋さんは器に100グラム以下の豚コマを盛ることは絶対にできない。逆にそれ以上どれだけ「おまけ」をつけるかの裁量がある。(293円とかをつけるなら別だけれど。)お客の側は、肉屋が100クラムと主張している肉に、299円しか払うことは出来ない。ただし100グラム分以上のお金をチップ込みで払うという裁量はある。つまり物の価格は、肉屋にとっては料金という境界を内側にへこませることならできる。逆に客にとっては、絶対に内側にへこませることは出来ないが、外側に撓ませることならできる。つまり肉屋と客にとっては、値段という境界は「半柔構造的」(それも逆向きに)になっているのだ。  話は脱線気味だが、治療についても実は同じことが言える。患者は2時より早く来ることは出来ない。来ても治療者はドアを開けないのだ。第一前の患者さんがまだいるかもしれないし。定刻より前の時間は売り物ではないのだ。しかし治療者は早く着いて外で待っている患者さんに「ちょっと早いですが、もしよろしければ始めましょうか?」と「おまけ」をすることならできよう。(もちろん治療にあまり来たくない患者さんの場合は話は錯綜する)。  逆に患者の側なら、2時にノックをしても、20秒遅れでしかドアを開けてくれない治療者には時間を「盗まれた」と腹を立てることもあるだろう。途方もなく待たされている思いがするかもしれない。「そんな些細なことで・・・」と思うかもしれないが、これが現実である。家の境界を考えればいいだろう。お隣さんとの境界線より一センチでも侵入されることにモヤモヤしない人は普通はいないのである。新幹線で隣の人の腕がいつの間にかひじ掛けの中央線よりホンのちょっとでも侵入してきたときに感じる不快と同じだ。そしてこのことは、価格が、開始時間が、隣人との境界が近代以降(←時代は適当である)しっかり定められたことで議論できることだ。

2026年3月12日木曜日

共感とその限界 3

 最後に

 最後に今日の発表の内容を簡単にまとめておこう。

 この発表では、いわゆる支持的療法の現在の立ち位置について述べた。この問題は当センターの皆さんが週一回かそれ以下の頻度の精神療法を日々行っている場合が多いため、それだけ重要な問題であろうと考え、テーマとして選んだものである。
 最初にメニンガー・クリニックにおけるPRPについて説明したが、そこではいわゆる表出的な手法よりは支持的なアプローチの有効性が明らかにされたという意味で画期的なものであった。そしてその影響もあり、海外の精神療法の世界では、支持的療法の再評価が進んでいる。そしてそれと同時に起きているのが、精神療法家たちの精神分析離れといった現象である。
 しかし今の時代も、少なくとも日本の精神分析の世界では、支持的療法はその評価を十分に与えらえていないという印象を持つ。やはり転移の解釈といった王道が治療的な価値が高いと考えられ、それこそが本物の精神分析であるという、私が「モーセの十戒」と呼んだ考え方が支配的であると言っていいであろう。ただし転移解釈の有効性を否定するような根拠はまだ十分でないとしても、支持的なアプローチの有効性を示す根拠は疑いようがないと言っていい。

 私は次に支持療法的な介入の中で、共感に焦点を当てて論じた。しかし共感の重要性を手放しで論じたというわけではなかった。実は共感を私たちが十分にわかっているかどうかには、私はかねてから疑問を持っていたのだ。少なくとも自分ではよくわかっていなかったと思う。そのことをAIとのやり取りで痛感したというのが私の話の後半部分であった。

 AIは中立的であるはずだ。なぜなら一切の逆転移を有しない(はずだ)からだ。AIの人の心とのかかわりについて論じる際に、これほど明確なことはないであろう。AIは体験を持てないし、物事を(人間が行うような意味で)理解することはできない。しかし人間の問いかけを「機能的な意味で」理解を行うことが出来、またそれを可能にするような明らかな「知性」を有する。そのAIがなぜ人間との対話で肯定的な言葉を伝え、ポジティブな評価の言葉を投げかけ、しかもここが重要なのだが、なぜ人はそれを作為的、虚言、などとみなすことなく、むしろ有難さを感じつつ受け入れるのであろうか?

 この問題に対するアプローチとして私が選んだのは、「いかにAIは優れて共感力を発揮できるのか?」ではなかった。むしろ「なぜ人間がAIのようにできないか?」について論じる事であったのである。そしてそれは私たちが受肉していること、それゆえに自己愛的で羨望を抱きやすく、シャーデンフロイデにまつわる感情に捉われるという現実を認識することでもあったのだ。

 多少なりとも理屈っぽく哲学的な議論になったが、このお話をお聞きになった皆さんが、支持療法や共感の問題について、その価値や限界も含めて再考するきっかけとなれば幸いである。


2026年3月11日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 10

 「治療的柔構造」の概念を作った大野裕先生との対談(岡野 (2008)「治療的柔構造」の最終章)で彼が語っている例が面白い。彼は教育分析を受けていた時、日本から帰ってきたばかりで時差ボケでセッションをすっぽかしてしまったことがあったという。大野先生は「自分が無意識的に示しているであろう治療抵抗を早速扱われてしまう」と不安を覚えつつ、まずはセッションをすっぽかしたことの謝罪の電話を分析家に入れた。すると分析家は非常に素っ気なく、「あ、そ、じゃ次の予約は?」という感じで特に何も言われなかったという。大野先生は「ああ、こんな感じでいいんだ。あまり枠に縛られる必要はないんだ」と思ったというが、おそらくそこに同時に感じられたのは、治療者の寛容さではなかったかと思う。いつも厳しいと思っていた分析家が、実は柔軟で人間味を持った人だった‥‥というわけだが、これも不思議な話なのだ。精神分析以外のもっとユルーい治療関係で、「来れる時に来てね」という治療者との関係があったとしたら、治療をすっぽかしたことで患者はそれほど後ろめたさを感じないし、「あ、そう。じゃ次の予約は?」で済ましてくれる治療者の寛容さも感じないであろう。というより謝罪の電話もしないかもしれない。

 この種のいわゆる無断キャンセルは分析以外ではよくある話であり、その扱いについても普通は「素っ気ない」のが普通だ。通常の社会生活を送り、そこで生じたすっぽかしと同じ扱いになる。それが大事な会合だったら大チョンボであり、「無意識的な抵抗」を扱うどころか、その責任の重さが問われることになる。上司は「その意味を一緒に考えましょう」などと悠長なことを言う場合ではなく、即刻降格か解雇を告げるところだ。  しかしそれがユルーい会合、例えば私の新人時代にS先生が主催していた分析研究会なら、一回無断で休んでも「今度からちゃんと来ようねー。最近来る人数が減ってきてるんだから。」「すみません、ちょっとうっかりして」という「素っ気ない」あつかいをうけて終わるだろう。遅刻やすっぽかしはその意味を深く問われずに日常の一コマの一つとして過ぎていくわけだ。  この問題、考えていくと意外と奥が深い。私が今至ろうとしているのは,剛構造あっての柔構造だという話である。精神分析では時間も料金も休みの設定もきちんと線引きをする。そして治療者も患者もそれを遵守しようと努力をする。するとそれが破られることには必然的に何らかの意味が生じてくる。たまたま電車の遅延で遅れたとしても、それが起きたとしても定刻通りにセッションに訪れるように、どうして普段から10分前には着くように余裕を持って来ないのはなぜか、とか。  つまり剛構造だから構造が破られたときは両者もそのことをしっかり認識することになる。その上で治療者が柔軟にそれを扱うか、あるいは素っ気なく流すかという事が問題となる。日本では治療者が個人開業をしている場合、部屋代の関係で待合室を設置できないことが多い。すると患者は定刻通りにドアをノックすることが求められる。すると少し遅く訪れるか、それとも定刻の30秒早いか、などの僅かな変動は治療者がそれをどう扱うかにとても微妙に反映される。例えば一分以上前に患者がノックをしても返事をしないという分析家もいる。彼は30秒前より近ければOKという風に決めるのだ(個人差あり。)つまり患者も治療構造を微妙に揺るがし、治療者の方もそれに対する対応を調整するという事がより明確になる。それは一つの駆け引きであり、「治療開始時間はしっかり守る」という前提があって初めて意味を持ってくる。

 ここで述べていることはしかし、「治療構造は守るべし」という意識とは微妙に、しかし明確に異なることは強調しておきたい。


2026年3月10日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 9

  さて米国に移り体験したことは、簡単には言えないが、精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれていながら、しばしば平気で破られているという現実であった。「境界は破られてナンボのもの」というところがある(誤解を受けやすいが)。そのことへの疑問が後の「治療的柔構造」の概念に繋がるのであるが、ここら辺をまだきっちり書いたことはなかった。この機会にまとめてみよう。  一対一の対面で行われる通常の精神分析の治療だけでなく、精神分析的なメソッドを用いた入院治療も存在する。メニンガー・クリニックでの入院治療がまさにそうであった。しかし私がそこで目にしたものは、まさに治療構造で患者をがんじがらめにするという傾向であった。患者は一日のスケジュールを学校の生徒の様に一時間目から決められる。一時間目はグループセラピー、二時間目は木工作業、3時間目は全体ミーティング、4時間目は治療者との精神療法や精神分析、などと言う風に(もちろん時間割は個人個人で異なる)。患者は入院した時からLOR(責任レベル)という一種の地位を与えられる。入院当初の一番低いレベルでは外出が許可されず、参加できる活動は制限される。精神科入院で、入院したててまだ具合の悪い患者の多くが保護室から出発するのと似ている。徐々にスタッフとの付き添いでの外出OK、そのうち二人の患者一組で、最後に一人で自由に、という風に進む。つまり上に行くほど制限が緩んでいくわけだ。そしてそれぞれの段階で許可されること、されないことがしっかり規定されている。入院してからの患者は治療が順調に行けば「昇格」していくが、その態度によっては降格もある。他の患者に暴言を吐いたりスタッフと喧嘩をしたりすると、1,2ランク落ちることにもなる。表現は悪いが患者にとっては獄中の生活のようだった。

 患者の多くは社会適応が出来ていた人だから、当然これらの治療構造により定められた制限に不満を覚え、それを様々な形で表現する。個人およびグループセラピーでは患者がそのようなフラストレーションを体験しながらどのように自分を律し、またその不満をどのように合理的に表現するかという事が扱われる。基本にあるのは無意識を扱う精神分析的な考え方なので、当然ながら患者の表現されない、あるいは意識化されていない不満や怒りも検討の対象となる。そしてその不満や怒りをこのようなランク付けにより誘発しているというニュアンスも少なからず感じた。  このようなスタッフと患者の関係は、さながら分析家と患者のような、中立的な立場から観察し、管理する分析家の側とそれに従う患者の側というニュアンスがあった。味気ないというか、型にはめられたというか。何よりもそこに患者の自由や、治療者との生きた交流が感じられない。そしてそれを全体として支えているのが、治療構造という名の規則であり、境界であった。その境界は動かすことのできない、「剛構造」的なそれであった。  精神分析治療のメッカとして世界的に有名なメニンガークリニック。さぞかしすごいことが行われているだろうと思ってきたわけだが、そこで行われている「治療」とはこのようなものなのか・・・・。私は疑問を感じながら一年半の見学生としての生活を送った。それから国家試験に受かってアメリカでの精神科レジデントのプログラムに潜り込むことが出来て、その給料で家庭を支えて精神分析のトレーニングに入ることが出来たというわけである。そしてもう少し徹底してこの治療構造の意味を見定めることになる。それからだんだんわかってきたのは、この剛構造的な治療構造が意味がないという事ではなく、それがあって初めて破られることの意味が浮き彫りになるという事だった。   

2026年3月9日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 8

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーの概念は極めて奥が深く、およそどのような文脈からも論じられるだけに、何らかの文脈に沿わない限り、具体的な話が出来ないからだ。それに私が本稿で述べたいテーマであるバウンダリーの両義性の問題にたどり着いた過程を示すためには私の個人的な体験について述べることがベストであるからだ。

 ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界についての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。

 しかしほかにも遅刻の原因は山ほどありえるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
 私が3年後にアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「これこそ心の探求のための真の道筋なのだ。」


2026年3月8日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 7

 昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。

1.バウンダリーの起源

2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念

4.境界侵犯と相転移、トラウマ


1.バウンダリーの起源


 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。

 この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。