ゆるい境界、ないしは「柔構造」の概念
精神分析では境界の問題についてとりわけやかましいという事情を多少なりとも説明したが、いったんこの世界に入り、自分自身が分析家から分析を受け、そして自分が分析的な治療を行うという立場になると、境界の問題は非常に生々しく、しかも日常的な問題として迫ってくる。先ほど精神分析は境界に関して両義的であると言ったが、精神分析の実践の場もまた境界に関して両義的である場合が非常に多い。
精神分析においておそらく一番大きな境界線は、患者と治療者の間に引かれていると言っていい。精神分析を受ける患者にとって、分析家は一種の不可侵の領域にあり、近寄りがたい存在として映る。分析家は分析治療の場面では無表情なことが多い。分析家の前のカウチに寝た患者の位置からは通常は分析家の姿は見えないせいもあり、患者はますます分析家の表情やその下に隠された内面を知り得ない状態になる。まるで分析家のまわりに半透明の幕のようなものが張られて、そこに立ち入ることが出来ないような感じがする。患者は初めて分析家のオフィスでセッションを開始した瞬間から、あるいはその前の段階から漂う雰囲気でそのことを知る。普通の対人場面で生じるのとは全く異質の空気がすでにそこに漂うのだ。
もちろんそこで勇気ある患者は治療者を人間として認めようとし、その感情や表情を伺う。具体的に質問をしたりもするだろう。ところが分析家はたいていはそれをはぐらかし、能面のような無表情さを保つ。質問をしても通常の社交場面での返し方を分析家はしてこない。分析家はその質問を無視するか、あるいはその質問についての意味をただしてくる。「どうしてそのようなことを尋ねるのですか?」あるいは「それについてあなたはどう想像しましか?」という感じだ。何か質問をしたことを責められている気がする。つまり患者の側からは、通常の会話を行う手段を奪われ、お互いに知らない異国語を話す者同士がコミュニケーションの手段を絶たれたような状態になる。
少し大げさな書き方になったが、このような分析家の態度はある意味では古き良き時代のそれであり、最近の精神分析家はかなり違った、より人間的な対応をする可能性がある。しかし私が精神分析を学んだ1990年代は、まだこのような古風な関係を持つのがオーソドックスであった。
ところが一つ厄介なことがある。いったん分析家のオフィスを出ると、患者はその分析家といろいろなところで出くわすのである。というのも患者はしばしばトレーニング中の精神科レジデントだったりスタッフとして同じ職場で働いていたりするからだ。 私が精神分析を学んだメニンガークリニックは一つのコミュニティであり、病院の食堂(患者と職員の共用)や、始終開催されるカンファレンスやパーティなどで、自分の分析家と遭遇することがあった。その時はドキドキして、いったいどういう表情で出会えばいいか分からない。しかも分析家の側も同じような戸惑いを感じていたりするから厄介だ。
特に精神科のレジデントは、自分の分析家が授業を担当し、ジョークを飛ばし、普通に話しかけてきたりすることに混乱した。近寄りがたいはずの分析家はいきなり普通の人間として登場する。しかし翌日の分析のセッションではそんなことはおくびにも出さずに、ポーカーフェイスで自分をオフィスに迎え入れるのである。