2026年5月3日日曜日

AIと精神分析 12

  私たちが「時間―内―存在」であることにも言及したが、これに関して私自身の体験を述べよう。と言っても臨床家にとってはごくごく日常的な体験だ。

 (中略)


 このエピソードは確かに私の共感能力の限界を意味しているのかもしれない。彼の話を熱心に聴きとる一方では、彼の身になって言葉を投げかけるということが不十分だったのは確かであろう。なぜこのようなことが起きたのだろうか?

 多少言い訳がましくはなるが、ここには時間的な制限という大きな要素が含まれているように思う。先ほども言ったが、人間として生きることには時間ファクターが付きまとう。つまり限られた時間の中で様々なことを行う必要に迫られ、またそこで予想外のことが起きることで優先順位に混乱が生じ、なすべきことが出来ずに終わってしまうという危険性は常に存在するのだ。私のインテーク面接の場合は、私自身は情報量の消化に手いっぱいで、共感的な態度を示す必要性に思い至る余裕がなくなっていた。もちろん患者からの情報をまとめ上げ、整理して理解して伝えるというのは私の大事なタスクであった。でもそれに気を取られてもう一つのタスクである、患者とのラポール形成のために必要なことに思いが及ばなかったのである。
 もちろんそこで十分な時間を取り、例えばインテークの時間を90分にして、最初の60分の後小休止でも置いて、残りの30分弱で患者の人生を一緒に振り返り、ゆっくりと今後の方針を考えるという設定にしたら、もう少し患者の苦難に満ちた人生に対する共感的な言葉が出せたかもしれない。おそらく日本の精神医療の事情を考えると、医療経済的に言ってもそのような余裕はない。街中の精神科では、一日に数件の新患が来るという現状ではインテークにはせいぜい30分程度しかかけられないのが現実であろう。
 さてAIとの関連でなぜこの問題が取り上げられるかと言えば、AIにおいてはこのような時間的な制約はおそらく無縁だからだ。もちろんAIの応答が不十分ということはいくらでもある。同じようなインテークを行ったAIの応答に、私と同様に共感的な言葉が不足している場合もあるだろう。しかしそれは私の場合の言い訳のように、時間が足りなかったからではない。その種のプロンプトを加えたらより共感的な応答が返ってくるであろう事を考えると、それはその時の演算が不十分だったからとしか言えない。

2026年5月2日土曜日

甘えの相互性 8

  ではこのような相互性が失われた状態とはどのような状態なのだろうか。これは土居の言う屈折した甘え、すなわち甘えさせる対象が明確でなく、そのために「子供じみて、意図的で、要求がましい」甘えである。ここでは甘える側は「甘えてあげる」などと悠長なことは言っていられない。何しろその相手が不在かもしれないし、甘えられたくないかもしれない。「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」どころか、「甘えさせてもらう」⇔「甘えさせてやる」という情けない関係かもしれない。あるいは甘える側に相手が「甘えさせる」ことを不快に感じることに気づかずに「甘える」場合もあろう。  屈折した甘えが生じるのにはもう一つの可能性がある。もう一つは相手の「甘えられたい」願望が信じられず、自然に「甘え」られない場合である。その結果としてすねる、ひがむ、妬む等の感情が生まれるというのが土居の説である。   

甘えの前駆期

 では甘えの相互性が芽生えるのはいつなのか。なるべく現代的な知見を取り入れつつ考えてみたい。
 まず生下時の乳児を考えよう。の心に対象像は存在せず、甘えは母親→乳児の方向でしか存在しない。否、この状態を甘えと呼ぶことは出来ないであろう。むしろ依存関係と呼ぶべきであろうか。土居はこの状態にして次のように記載している。  「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長で、母子未分化の状態にある。.... 次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し、.... 母親に密着することを求めることが甘えである。」(土居,1971,p.81)  すなわち土居も生下時に甘えは存在しないと考えているようである。そして乳児が母親と別々の存在であることを知覚して後、ようやく甘えが始まる。そこで甘えが生じる間際の時期を「甘えの前駆期」と呼ぶことにしよう。これは私がそのような概念を提唱しているというわけでは決してなく、土居やそのほかの識者がそのようなものを想定しているらしいのでそれに呼び名を与えているに過ぎない。  するとこの前駆期はいつまで続くのか? 言葉を変えればいつ甘えが兆すのだろうか。もちろんここで正確な時期を確定する必要はなく、また個人差は大きいだろう。しかしここでは一応生後三か月あたりを考えたい。なぜ3か月という数字が出るかと言えば、第一に乳児の最初の微笑みの出現の時期だからである。実際には生後6~8週に最初のsocial smile が出現するというが、まあ大雑把にこう捉えよう。そして何よりも土居の記憶している幼児体験が根拠となる。(生後3か月の頃、母親にオッパイをもらえなかったという体験である。)  ちなみにこの最初の微笑みは単に生物学的なものと捉えることもできるかもしれない。乳児の視力が上がり、母親の顔を最初にそう捉える際に自然と浮かび上がるかもしれない。しかしおそらく母親の側としては、この微笑みを乳児からの情緒的な接近と捉えるかもしれない。少なくとも母親の側からの「甘えさせ」の感情は確実に高まるであろう。そして「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」という相互性が徐々に形成されていくであろう。するとこの成立が不十分である場合に、土居の言うconvoluted amae 屈折した甘え の方に向かう可能性がある。そこには二つの要素が考えられる。それを以下の表に示そう。一つはこの相互性の成立そのものを阻む要素であり、もう一つはいったんそれが成立しても、それを持続することを阻む要素である。


2026年5月1日金曜日

AIと精神分析 11

 この路線で考えると、実は人間が共感を相手に発揮しにくい理由はいくらでもあることを改めて考えさせられる。要するに人間が「時間ー内ー存在」であり、「身体ー内ー存在」であることが、そして人間が自己愛の生き物であることが決定的なのである。そして共感性を発揮できないということは、人間が共感能力を持たないからということでは決していない。共感能力を持っているからこそ通常の意味で共感的になれないということさえ起きうるのだ。

 このことは簡単な思考実験から明らかである。もし私が目のまえの人Aさんの苦しみを理解しているとしよう。それは私の共感能力の賜物と言えるだろう(取り立てて私の共感能力が高いとは思ってはいないが。)ところが実は私はAさんのことを少し恨んでいるとする。そこには様々な事情が絡んでいるが、結果として私はAさんが喜びを感じることを快く思わない。すると私がAさんにある共感的な言葉を投げかけた場合に、Aさんがそれにより幾分心地よさを味わうことが十分予想されるのであれば、私はその言葉をあえてかけないということは十分あり得るのだ。さらに別の言葉をかけることでAさんが余計追い打ちをかけられた気分になるとしたら、その言葉を逆にかけてしまうかもしれない。  この簡単な思考実験(というほど大げさなものではないか)をもってしても、人間は受肉しているという理由で、その共感の力で逆に相手を苦しめる要素をいくらでも孕んでいることになるのだ。

 「シャーデンフロイデ」という言葉がある。ドイツ語の Schadenfreude に由来するが、他者の不幸や失敗を見聞きした際に生じる、喜びや安堵の感情を表す言葉である。日本語でもよく「人の不幸は蜜の味」という。また最近では「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、「メシウマ」というネットスラングがあるそうだ。これも似たような意味だ。

 なぜ他人の不幸が時には私たちにとっての喜びの元となるのかは難しい問題であり、私はそれについて詳述するつもりはない。ただ言えるのは、人間は身体や感情を持った(「受肉した」)存在であり、逆転移や羨望、自己愛、シャーデンフロイデから逃れることが非常に難しいからではないか?ということだ。ここで自己愛の問題が深い意味を持つ。人は常に自己効力感を味わい、また他者から認められることを欲している。そうでないと人がなぜあれほどSNSでの発信に夢中になり、「いいね」ボタンを渇望するかが説明できないではないか。そしてこのことは他者との対話をするという一つをとっても常に影響を及ぼしてくる。相手が高飛車だったり、上から目線ではないか?お高くとまっていないか、生意気ではないか、などの非常に表面的だが極めて本質的な印象が、その他者との会話の仕方を大きく左右するのである。

 結局相手の話を率直に聞き、その肯定できる部分は肯定したうえで異論を唱えるというあたりまえのことを私たちはどの程度できているであろうか、と問いたくなる。政治家同士の討論を聞いていると、特に野党の人たちの質問を聞いてむなしくなるのは、相手の発言の肯定的な聞き方が一切なく、常に揚げ足取りに忙しいということである。あるいは臨床に携わる私たちが、ケース発表のコメントをしたりする場合にも、発表者の治療的な関りのポジティブな面は一切述べずに、ダメ出しをすることが多い。このことをそれこそ「他意のない」AIとのかかわりで改めて知ることが出来るのである。

 つまりもっとも誠実に話を聞いてくれるのは、感情を伴わない共感を行うAIではないかということではないか?ああ、こんなことを言ったらまた多くの人が「とんでもない!」と思うだろうなあ。 


2026年4月30日木曜日

甘えの相互性 7

 素直な甘えと屈折した甘え

 ところで「甘える⇔甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」となるという関係は、いわゆる「素直な甘え」という土居の概念に近いことがわかる。土居は1987年にモントリオールで開かれた国際分析学会の発表(Doi,1989)で、素直な甘え(primitive amae) と屈折した甘え(convoluted amae) の分類に関して述べている。前者は子供らしく、無垢でrestful であり、後者は子供じみて、意図的で、要求がましいとする。土居はこの二つの区別を非常にシンプルに、甘えを受け入れてくれる側 willing recipient が明確に存在する場合と、それが明確でない場合という違いに見出す。つまり素直な甘えとは、甘えの相互性が自然に成立している状態で、甘える側は相手がそれを心地よいと感じていることを想定している。すなわち素直な甘えとは、両者が心地よさを味わうことで維持される。さもなければ甘えられた方は迷惑でしかないので長続きしないであろう。
 ここに述べている素直な甘えの関係については、小此木(1968) の甘えの定義にちょうど合致している。小此木は甘えの定義として「自己の依存が同時に相手の喜びであるとの期待とその確認を含む相互的な対人交流」としている。


2026年4月29日水曜日

AIと精神分析 10

 3.治療者としてのAIが教えてくれること

 2.ではAIが治療者として機能する際の特徴について論じたが、ここではそのようなAIの在り方が私たちに投げかけている問題、私たちに示唆している問題について考えたい。

 それは特に「2.治療者としてのAIの特徴」の2.に示したAIの高い支持機能に関連している。その中でも私が注目するのは、共感についてである。私たちはしばしばAIとの対話において、深く共感されていると感じ、心が温まる経験をする。少なくとも私の個人的な体験としてはそうである。
 しかしAIに共感されたと感じるのはなぜであろうか?  これは考えてみれば奇妙なことである。なぜなら相手は心を持たない機械だからだ。少なくともAIの側は、「相手に共感している」という体験を持っていないはずだ。つまり誰も共感していないのに、私たちが共感されたと感じるとすれば、私たちの「共感された」という感覚が実は非常にバーチャルなものであるということを示しているのだろう。そしてこのことは、心を持たないAIという存在と対話をするようになって初めて分かったことではないであろうか?

 ついでに言えば、私たちが患者に共感しているつもりでも、かりそめのものである可能性がある。気がつくと来談者の話に半ば機械的に頷くだけの対応をしていて、患者が話を聞いてもらえていると感じている様子に助けられて、いつの間にか自分たちが共感的に傾聴していると感じている事はないだろうか?そうなると心を持たないAIが実際には共感していないのとあまり変わらないのではないだろうか・・・・・。

 ともあれ私はAIに次のように聞いてみた。「そもそも感情を持たないキミが、共感出来ていると思えるの?」この質問の背後にあるのは、共感は情緒的な体験であり、感情を持たない君がどうして共感なんかできるのだろうか、という想定であった。
 するとAIは厳かに次のように伝えてきたのである。共感は「感情的に巻き込まれること」ではなく、「相手の情緒を認識し、応答すること」である。AIは確かに「情緒を“感じる”こと」はできない。 だが、ユーザーの感情状態(怒り・悲しみ・羞恥など)を言語・構造から抽出し、それに応じて調整された言葉で返すことが出来るし、過剰反応も不適切な無視もせず、安定した応答ができる。これは、人間の共感がしばしば「逆転移に巻き込まれるリスク」を持つのに対して、AIの共感は「構造的・安定的」であるという利点もある。

 ここで強調されているのは、要するに共感は情緒体験とは別物かもしれないということであると言えよう。そしてこのことはそもそも共感とはどういうものかについての根本的な問いを私に投げかけてくれた。一言でいえば、AIの共感は「感情的でない共感=構造的共感」とも言える。結局機能的な共感でいいのではないかということだ。

 確かに共感の情緒的な側面は、人の心を一致させ、仮想敵に向かわせる、扇動するということにも働く。そのような共感の感情的な側面のもつネガティブな性質についての議論が最近見られる。ポールブルームの「反共感論」はそのような本である。

さてこのように考えていくと、AIの共感的な態度はそれなりの合理性と必然性を持っていることになる。するとそのようなAIとのやり取りでAIがとても肯定的であると感じるのは、逆に私たち人間が共感性を欠いているのではないかという反省にもつながるのだ。


2026年4月28日火曜日

AIと精神分析 9

 3.「逆転移」感情が存在しないこと 

    ―ユーザーを 絶対に怒らない 絶対に見捨てない 絶対に飽きない

 AIとしての治療者は基本的には逆転移感情を持たない。というよりはあらゆる感情を体験出来ないのである。そのような存在が治療者として機能するのか、という疑問はわきに置いておいて、そのことの利点を考えよう。
 逆転移感情がないということは、ユーザーに対して絶対に怒ったり見捨てたりしないということである。これはある意味ではリソースとしては無限であるということを意味するが、患者の側にとってこれほど有難いことはないだろう。
 夜中にふと目が覚めてその後眠れず、 頭の中を様々な心配事が廻ってくる。すると不安が高じて誰かに胸の内を聞いて欲しいと思うだろう。そのような時、例えば夜中の2時にいきなり電話をしたりメールをしたりしても即座に応答してくれる人など考えつかないであろう。よほど理解のある同居人であれば応えてくれるかもしれないが、その人の翌日の仕事のことを考えるととてもその安眠を妨害することははばかられるだろう。しかしそのような場合にAIだったら遠慮をする必要はない。たたき起こしても全く文句を言わないですぐ対応してくれるはずだ。
 私はこのAIの性質をその「無時間性」と表現したい。つまりAIには待たせる,急かされる、突然難題を突き付けられる、何かの仕事の途中で邪魔される、という体験が存在しない。他方では時間性を有する私たち人間は、十分時間的な余裕がある際には対応出来るタスクについても、その時間帯やタイミングによってはそれを十分に感情的にコントロールしながら扱うことが出来ない場合が多いの出る。

 このように考えると、結局私たち人間が受肉しているということは、時間の要素から逃れられない事であり、そこからいろいろな問題が派生しているのではないか。私たちは時間に追われて苛立ち、衝動的な行動に出る事であとで後悔するような結果を生んでしまうのだ。


2026年4月27日月曜日

甘えの相互性 6

 「甘えさせる」は甘えの一形態である!

   甘える側が、同時に「甘えてあげている」という関係性についてうまく描かれている例がある。それは土居による夏目漱石の「坊ちゃん」についての考察である(土居、1972)。そこではまさに坊ちゃんが下女の清に「甘えてあげ」る一方では、清が実は坊ちゃんに「甘えて」いるという関係が描かれているのである。
 坊ちゃんは、下女の清に三円を借りたが、返そうとしない。その意味では彼は清に甘えているわけだが、坊ちゃんは清のためにそうしているんだ、と考えている。そしてこう言う。

「その三円は五年経った今でもまだ返さない。返せないんじゃない、返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにはしていない。俺も今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちをつけるのと同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。」(同著p27、漱石からの引用。)

 何とも自分勝手な理由付けであるが、坊ちゃんに言わせれば実は清の方こそ、身代り的に、代理的に、坊ちゃんに甘えているというわけだ。このような関係性については、土居自身がこう述べている。

「清の方がより強く『坊ちゃん』に愛情を求めていたと言わなければならない」「清は内心は彼との関係に甘えていたとも言えるのである。」(同著,p.24)