しかしもちろん患者が文化を背負っている場合もある。「フロイトは神経症的な苦しみを治療により取り除かれたのちに、通常の人生の苦しみが残る、と言ったが自分の苦しみの場合はどうなのか?」など。しかしその治療者はそれをフロイトの立場に立ってのみ論じられるかと言えばそうではない。フロイト的な考えに捉われているゆえの苦しみであるならば、フロイト的な考えの外に立って考える必要も出てくるだろう。
さらに言えば、患者の話を聞いているうちに、自分に自信が持てないというその悩みは、治療者自身の「自分に自信が持てない」という、おそらく現在の自分やかつての自分が持っていた悩みに通底し、そこからは学派を越えた個人的な問題に立ち戻るのである。そしてその問題は無文化的であり、なぜならその苦しみを少しでも和らげるためにはどの学派の考えでも構わないからである。そして「どの学派でも構わない」はいたって無文化的な発想であり、それこそ喫緊の問題であり、患者がお金と時間を費やしてでも通ってくるモティベーションにもなっているのである。
ただしこの「どの学派でも構わない」という姿勢自体は、その治療者が慣れ親しんだ文化を捨てるということではなく、おのずとそれに従って考えている文化が行き当たり、それ以上進めない時にそれをいかに無視し、自分の思うままに進むかということだ。そしてそれが私が治療者の自由度として考えることである。