北山先生は「錯覚と脱錯覚」のp.120 でこう言っている。
「この乳房を介した錯覚は離乳と共に脱錯覚を被るが、実世界や現実において我々は自分の望むものを作り出すことが出来るかもしれないという「希望」を抱くときの基盤となる。」「そこには現実原則の受容、痛みを抱えるための包容力の発達、自動的で魔術的要素の衰退、さらに大人においては社会に貢献するための創造力の確立などを伴わなければならないが‥‥」なるほどね。 さて後の人生の中で子供は新しい対象に出会う。それはメンターでも恋人でも配偶者でも、そして自分の子供でもいい。その対象を愛するということは、おそらくその幻覚を一時的に共有できた相手であり、多分それだけで存在価値があるのであろう。もし共同生活をつづけたとしても、幻覚を共有したというだけであり、過度の依存も期待もないはずである。 さてそのような段階に至った人は「素直な甘え」の境地にあるという土居の議論ははっきり言ってよくわからない。裏切られても相手を恨んだり、自己愛の境地に逃げ込むことがないというのが「素直な甘え」だとしたら、土居が匂わせている原初的で母子一致の状態を彷彿させるとしても、実はかなり高い自我機能を前提とした、つまり「現実原則に従った」関係性といえるだろう。それと母子一致の状態での甘えの共通点といえば、相手からの裏切り、脱錯覚による痛手や、それへの不安が存在しない、それらの懸念から解放された境地と言える点だけではないだろうか。 間違っているかもしれないが、私はこう思う。治療の終結で現れる素直な甘えは、内的な対象像との間のそれであり、おそらく直接かかわっている相手に対する甘えを含んだ行為とは程遠いものなのだ。あるいは以下に述べる「大人の甘え」であろう。 さもなくば、終結期の純粋な甘えや、バリントの言う受け身的対象愛のレベルは、人は容易に到達しないのではないかと思う。それは自己愛を捨て去った悟り済ました境地ということになるが、バーチャルにしか存在しないのではないか。だいたい人からの裏切りを恐れないということは結局人に一切期待しないということになるが、そんな関係は現実にはあり得ないだろう。完全な世捨て人やAIでもない限り。だから「純粋な甘え」は近似的にしか体験できないと考えるべきであろう。 ただし小此木先生も語っているようないい意味での甘えの関係は、程よく抑制がかかっていて、甘えの相互性が成立していて、色々な意味で「素直な甘え」に近いのであろう。でもこれは言い方を変えたら「大人の甘え」ということだ。これを母子一致の時期の甘えと同じようなものとして語ると逆に混乱のもととなるのではないだろうか。