2026年3月31日火曜日

バウンダリー論 推考の推考 2

 3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念

 私が渡米以降に体験したことはひとことでは言えないものの、あえて言うならば、「バウンダリーはいくらでも侵犯される(乗り越えられてしまう)」ということだった。精神分析の構造やバウンダリーは、口頭で伝えられたり文章で書かれたりする際にはしっかり引かれる傾向にあるが、実際にはしばしば平気で破られている。誤解を受けやすいが、私は「バウンダリーは破られてナンボのもの」と思うようになった。それは踏み越えられることで生命を保っていると言ったところがある。その意味で「そもそも境界は生き物だ」、といった方がいいのかもしれない。

 私が精神分析を本格的に学ぶ前に考えていたことは、すでに述べた。それは患者が治療構造を破る際に、どのような場合にそれが無意識的な抵抗に由来するかについて、直観や一種の嗅覚を身に着けるためには、精神分析的なトレーニングが必要であるということだった。
 しかしその後40年がたった今では、私は患者との臨床を通じても、そして自己探求の為の数年間の教育分析を通しても、そのような独特な嗅覚が得られたようにはどうも思えない。(あまり言いたくないことだが。)いや、以前より少しはましになっているのかもしれない、ぐらいは言っておこう。そして私は「神は細部に必ずしも宿らない」という世界観を持つようにもなった。しかしそれとは別に、治療構造の重要性を再認識し、それを「治療的柔構造」として活用する方法を知る事になった。その意味での知恵はしっかりついたつもりである。

 私は実は渡米するころまでには、小此木先生の治療構造論を少し疑うようになっていた。「先生、治療構造を厳密に守るというのは建前でしょう?」とまで思うことがあった。「精神分析的にやるということは、いちおう決まりは守りましょう、という事ですよね」程度のことではないかと考えるようになっていた部分がある。実際小此木先生自身がセッションの開始や修了の時間をあまり守っていないといううわさも聞いていたし、本人もそのようなことをおっしゃっていた。「イヤね、僕はこういう立場だから、精神分析はちゃんと構造を守ってやりましょう、というけれどね。本当は‥‥」みたいなことを精神分析の講義でよく口にされていたのだ。
 しかしそのうちに、別の意味で小此木先生の教えは正しかったと思うようになった。先生の教えは私の理解では次のようなものであった。「構造をしっかり決めておくから、そこからのズレ、例えば一分早いとか、一分遅いとか、いつもぴったりくるとかのことが識別され、そこに表される治療抵抗などの意味を解釈できる」。つまりここでは治療者はバウンダリーを提供してそれに対する患者の反応を見る観察者なのである。
 しかし私のバージョンは少し違う。

「バウンダリーはそれ自体が明確に定まっていることで、それをめぐる微妙なやり取りが患者と治療者の間に繰り広げられる。つまりバウンダリーはそこである種の場(フィールド)を提供するものなのだ。ボクシングならボクシングリング、相撲なら円形の土俵があってこそ、そこでの独特のやり取りが展開するのである。そしてそのバウンダリーをめぐる駆け引きには患者だけでなく、治療者もまた参加しているのである。


以下省略


2026年3月30日月曜日

バウンダリー論 推考の推考 1

 1.バウンダリーの起源

 バウンダリーの歴史についてというテーマで原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深い概念である。私は精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とするが、それらの分野にも深く関与するテーマであるため、その立場からの考察となることを最初にお断りしておく。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがよく、活動のしやすいような空間、「身のおき所」を常に探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースとも呼ばれる。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち両者の間の境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」と私は言い表している)生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物の中には自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩くものがある。
 他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活の様々な面に関わってくる。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験いているだろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっているのだ。


2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」


 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは精神分析と出会った時である。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そして当時の精神分析の大御所の小此木啓吾先生の門下生であるという先輩医師のS先生の指導の下に参加者が持ち寄るケースの検討を行っていた。そしてこのバウンダリーという問題に出会ったのだ。
 ある時私たちの一人が報告した患者さんが分析治療に遅刻したという話になった。S先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが定刻の2時に3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人はこうすることで無意識に治療に抵抗していることになるんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたからこそ私は精神科医となる道を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そしてしばらくはこの患者さんの遅刻のことが頭を離れなかったが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば約束の時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってかなりいい加減なものだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者さんは治療に来ることにどこかでためらいがあったのかもしれない。しかし彼は家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰ったせいかもしれない。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき、無意識の探求をする手法なのだ」。


(以下略)

2026年3月29日日曜日

「バウンダリー」推考 8  

4.バウンダリー上の遊びと臨界、

  バウンダリー侵犯とトラウマの問題

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、危うい綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。そこではまず個人の中でそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、そこを越えるか超えないかに関して両者の間の様々な思惑が働く。それは緊張感をはらみ、危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして実際にそのバウンダリー自身の破壊や修復が行われる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、またそこで遊びや創造性が発揮され、その意味でこれほど豊かな場はないと言ってもいい。そしてバウンダリーは、そこがいきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらのテーマについてはこの短いエッセイで語りつくすことは不可能であるが、そのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリーの心地よい体験について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の外に一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭を出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている場所のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働きつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていく。しかし幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進む。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。
 しかしこのようにバウンダリーをめぐるワクワクする体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほど遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知る。思わず「ママー!」と叫んでみる。しかしこれまでは何があっても飛んできてくれる母親の姿はない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。自らの慣れ親しんだ安全なエリアをはるかに踏み越えていることを知ったその幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型である。

 私はこれを書きながら、他方では幼な子の姿が見えなくなって半狂乱になっている母親の姿を想像している。彼女はすぐに半開きになっている門扉に気がつき、近所を探し回る。もちろんわが子はそれほど遠くに行っているはずはない。そして案の定それほど遠くない街角の道端で泣いている息子を見つけて駆け寄り、抱きしめる。トラウマは深刻なレベルでは起きなかったのだ。  しかし自然界ではこうはいかない。母親からはぐれたライオンの子は、すぐにでもハイエナの餌食になり命を落としかねないのだ。それはともかく‥‥

 この様にバウンダリーを超える体験は様々な「事件」につながる可能性がある。それは喜びや興奮を伴う場合もあれば、恐怖や絶望を生むこともある。そしてそれはバウンダリーという状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとは二つ(以上)の力の均衡により成り立つ。それは一見動かないように見えて、実はその内側に大きな力が加わって、互いが釣り合っているというところがある。ちょうど二人の力自慢の腕相撲の様に、あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことから一挙に勝負が決まってしまう可能性があるのだ。

 バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっている。

2026年3月28日土曜日

「バウンダリー」推考 7

 以上で「3.バウンダリーについての考えの深化と「治療的柔構造」の概念」を書いたことになる。次の「4.境界侵犯と相転移、トラウマ SOC」に移る前に内容を少しまとめておこうか。  バウンダリーは実際には剛構造として契約書に記載され、固定されているだけのものではない。それは生きた人間が運用するものでもある。すなわちそれは内在化され、心の中で自由な取り回しがなされる。そしてその在り方が「柔構造」的だというわけだ。(また何か新しいことを言っているぞ。)  例えば(まとめなのにまた例を出すのか?!)高速道路の法定速度が時速60キロだと定められている。これは絶対に59.9キロでも60.1キロでもない。ブレることがないから剛構造だ。それについて文句を言う人はいない。(例えば警察署にねじ込んで、「法定速度を60.1キロにしてくれませんか。お願いしますよ」と嘆願する人などいない。自分の文句により変更されることは絶対にないから、そんなことをするのは時間の無駄だということを知っているのだ。)しかしそれを頭に置いているドライバーが、最高時速何キロで走るかは全く別の話だ。ひょっとしたら70キロくらいかもしれない。だから実際に人間により運用される速度は柔構造的なのである。  もしこの柔構造という視点を持たないとどうなるのか。治療開始時間は守られるべきもの、として患者がそれを守ることに全力を注ぐとしたら、それが守られないことはすなわち患者が治療自体に抵抗しているということになる。そうすることは、治療者に迷惑をかけたり、契約違反となったりするという形で治療関係の維持を困難にする可能性があるため、治療に対する抵抗と考えざるを得ない。だからそのような行動は直ちに取りあげなくてはならないというのが古い分析的な考え方だ。  しかし実際の治療開始時間は、様々な意図や偶発事により、患者だけでなく治療者によってもチャレンジを受け、揺り動かされているものなのだ。そのような揺らぎは生きた人間がそれを運用する以上は必然的に生じると言っていい。  このように考えると、剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的となるかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。分析家のオフィスは空間的にはいつも同じである。毎回その住所が変わったり、地盤沈下で突然地下に埋もれたりはしない。またセッションの料金(例えば一回一万円)は、分析家のその日の体調や気分で9000円になったり、12500円になったりはしないし、分析家も患者もそれらを固定されたものとして動かすつもりはないから、それについての力動は少なくとも短期的には働かない。(ただしある患者が1万円という料金について問題にし始め、治療者もそれに応じてそれを変更するための話し合いが行われるとしたら、それはとたんに柔構造的になるという可能性は否定できないが。)  しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。(そうか、それが剛構造と柔構造ということなのだ。一つ理解が進んだぞ。)  ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。  柔構造的なバウンダリーが実際に運用されるときは、それに両側からかかる力、たとえばそれを広げる方向と狭める方向の二つが釣り合うことで安定する。その意味では福岡伸一先生の「動的平衡」の概念に近い。これは物理法則にしても言えることだ。(相変わらず脱線だ!)  例えば水の氷点は0度である。それは理科の教科書に書かれているし、そのような形で一応剛構造的に定まっていると考えられている。(ただし一気圧という条件下だろう。)そしてその温度の付近では、水の分子同士の氷結と融解の力がバランスを保たれているのだ。しかしそれは0度だから平衡状態になる、というのではない。平衡状態になる時の温度が結果的に0度として示されると考えた方がいい。そしてそれは常に細かく揺らいでいるものだ。同様に治療開始時間も終了時間も実際にはそのたびごとに揺らいでいるのはこれまでの例から明らかだろう。 それではバウンダリーをめぐる両方の力の正体とは何か。その一つの候補として挙げられるのが、ホフマンの「儀式性と自発性」の考え方である。この点について以前に書いたのは以下のような内容だ。  ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、「後者」を儀式としたのだ。  私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。  しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。  ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。そもそも人間存在は、生きているかなりの時間をこの「儀式」と「自発性」の境界線上に浮遊 poise している状態なのだ。フロイトが考えたような形での自由連想が実現している状態がそれに相当するかもしれない。つまり完全に抑制がなくなって退行しきった状態でもなく、~すべしという観念にがんじがらめになっている状態でもなく、その中間でいいバランスがとれている状態。治療構造はその上で患者がバランスがとれるように張られている格好のロープというわけだ。

2026年3月27日金曜日

「バウンダリー」推考 6

  ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。  「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃないと考えるようになっているんだ。それに多くの場合そのどちらとも決められないからね。」  つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはあまりならなかった。ただしその種の出来事の扱い方の経験値が増すのである。これはどういうことか。  たとえば患者さんが何回か遅刻することが続いても、すぐに解釈による介入、とはならないだろう。「あなたは最近セッションに何回か遅れてきますね。それは何を意味しているのでしょうか?」などと尋ねる事はしないことが多い。一つにはそのような言い方はもろに「遅れないように!」というメッセージを伝える事になってしまうからだ。患者の繰り返される遅刻は、彼が分析家に気を許し始めているからかもしれないし、一つの自己表現かも知れない。あるいは分析家の出方を試しているのかもしれない。しかし単なる偶発事、たとえば患者の時計が数分狂っていることに気がついていないからかもしれない。そして分析家の側も、言葉にはしなくとも色々感じ、あるいは考えるはずだ。患者に軽んじられていると感じたり、挑戦を受けたような気がしたり、はたまたほんの僅かの自由時間を患者からプレゼントされたと感謝するかもしれない。その様々なやりとりが重要なのだ。これらの心の動きのある部分は言葉として自由に交わされるであろうし、それに従って二人の間での「開始時刻」の扱われ方がカスタマイズされていくのだ。  いずれにせよ「治療抵抗」という呼び方ではくくれない様々な事情が浮かび上がってくる可能性がある。そしてこのように考えると分析的な「抵抗」の概念は非常に問題含みであることもわかるだろう。その概念はかなり高飛車で上から目線なのである。

2026年3月26日木曜日

「バウンダリー」推考 5

   上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは自己開示の例であった。両方ともある種の境界がそこに引かれていることで、それを原則的には守ろうとする二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれは境界を厳密に守る事に徹することによって、ではない。境界を意識化し、それを念頭に置くことによって、である。治療者は患者からチャレンジを受け、境界を押したり引いたりする力を加えられ、それに対してある程度の柔軟性を発揮して対処する。それが柔構造的なやり方だ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はその境界はもっとしっかりとした、やわらくて同時に強靭なものになって行くのだ。そうして境界のマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。  治療者と患者のやり取りを、押し相撲にたとえよう。そして患者の方が治療時間の延長を望んだり、治療者の自己開示を迫るという形で治療者を押してくる。治療者の皮膚は柔らかく弾力がある。患者がちょっと治療者のお腹のあたりを突っついても、その皮膚はその指を跳ね返してくる。その時治療者は多少困惑の顔色を浮かべ、「どうしたの?」と少し不思議そうな顔をするだろう。そこで患者はもっと強く押してみる。すると治療者の体は多少揺らぐが、押された力に応じて踏ん張るので、倒れることがなく安定を保つことができる。しかし治療者は先ほどよりはもさらに困惑の色を浮かべ「そんなに押さないでくださいね。どうかしましたか?」と尋ねてくるだろう。  このように治療者はその力に応じて反応をし、患者の側はどこら辺が引き際かを知る。ただその際の治療者の反応は依然として穏やかで、患者からのチャレンジに挑発されて仕返しをしてくるわけでもなく、心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続ける。そこで患者が感じるのは、自分の体をしっかり保ち、かつこちらの働きかけに応じた反応を示す人間としての治療者であり、その動きを徐々に取り入れ、内在化させていることが望まれるのだ。  このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。  ここで示したような剛構造的な治療者は現実にはあまり存在しないかもしれない。治療者もそれなりに普通の人生経験を積んできているはずだからだ。しかし多少なりともロボット的な印象を感じさせるとしたら、その治療者は治療構造を何が何でも厳密に守るべし、という誤った教えをかたくなに患者にも自分にも押し付けてくる人という事になる。  なぜそのような治療者が存在するかを考えてみる。一つは、治療者の多くが「左脳人間」であり、境界を少しでも踏み越えることが著しい不快感や違和感、ないしは不安を喚起するという可能性である。ただそのような人が精神分析を志す可能性はあまり高くないだろう。そしてもう一つは治療構造を誤って理解しているために、良かれと思いその遵守を目指し、それを揺るがせる行動については抵抗とみなすという可能性である。これはかなり経験を積んだ精神分析家にもみられる可能性がある。いずれにせよ患者の側は治療者を血の通った人間として認識することが出来ないであろう。

2026年3月25日水曜日

「バウンダリー」推考 4

 以上の例に挙げた治療開始時間は精神分析において比較的わかりやすいバウンダリーの例と言える。しかし精神分析には目に見えにくい、それ自体をバウンダリーとして把握しにくいものもある。そこでも互いに逆方向の「半柔構造」が存在してそれが治療者と患者の力動を生んでいる。その例として治療者の匿名性の問題を考えよう。   精神分析における匿名性の原則とは、治療者が原則として自分の個人的な情報を意図的に患者に伝えない(自己開示をしない)という原則である。これはフロイトが最初に唱えたことで、多くの古典的なやり方で治療を行う分析家にとっては今でも重要な原則である。そしてこれを患者と治療者の間に引かれた線引き、バウンダリーに関わる問題と考えることができる。  ところで私はそれに対して自己開示は必要に応じて「あり」だと考える。しかし私の主張は、フロイトに反対したものというわけではない。もともとフロイトの考えではこの匿名性の原則は常に守られるべし、というニュアンスがあった事に対する代替案としての意味を持っていたのだ。決して「むやみに自己開示をすべし」ではない。  わかり易く言えば、「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」という、より現代的な匿名性の原則と「治療者は必要な場合には自己開示せよ」という私の主張とは結局同じことを言っていることになる。そしてこの意味でのバウンダリーは、それが剛構造的にそこに示されることで逆説的に二者の間の精神力動的な場を提供するのだ。  一般の読者にはこの匿名性の原則が意味することはピンとこないであろうから、さっそく例を示そう。先ほどこの原則を「治療者は必要な時以外は自己開示をするな」と言い換えたが、実際は患者は治療者のことをいつも知りたいと思っているわけではない。それどころかむしろ逆のこともあろう。つまり患者は治療者の個人的なことは聞きたくないかもしれないのである。

 私があげる例は次のようなものだ。治療者が患者に来週のセッションをキャンセルする必要があると患者に告げるとする。実は彼の親戚に不幸があり、その日に告別式が行われることになったのだ。その際患者に急なキャンセルの事情をどこまで話すかは結構微妙な問題だ。治療者にはそのような急なスケジュールの変更がよくあり、患者が慣れているという場合には、特に理由を告げる必要もないだろう。しかし治療者の健康問題とか家庭のさまざまな事情を心配する患者にとっては、キャンセルの理由を知ることは一時的には不安の軽減(場合には逆効果?)に繋がるだろう。また患者によっては「きっと私があまり困らせるから会いたくないからではないか?」と疑う場合もあるかもしれない。すると治療者の側から、それが杞憂であるという一つの手掛かりが与えられるだけで、その患者はほっとするだろう。  ところが患者によっては全く治療者のキャンセルの理由を知りたくない場合がある。治療者が「親戚が他界したので故郷に帰ります」と伝えることは、ある患者にとっては大迷惑だったりする。「先生の個人的なことは聞きたくありません。なるべく実在しない存在と感じていたいのに!」と言われることもあるのだ。  つまり治療者が個人情報を患者に伝えることは「言い過ぎ」にも「言わなさすぎ(出し惜しみ)」にもなり、いずれにせよ少なからず治療関係にインパクトを与える。どちらに転んでも「先生は私の気持ちをやはりわかっていないんだ」という事になるとしたら、そのインパクトの大きさに従って治療で扱わざるを得なくなる。  しかしそこで治療者がそのことを取り上げて扱おうようとしても、その「扱い方」もまた問題になるだろう。ネガティブな反応だけに絞っても、次のようなものが浮かぶ。「どうして『家族の事情で』くらいに留めてくれなかったんですか?先生は私が何でも先生のことを知りたいとでも思っているんですか?」「父親を亡くした時の自分のことを思い出しました。先生はどうしてそんなに平然としていられるのですか?」「あれから父親を亡くしたという先生の気持ちのことを考えてばかりいました。どうしてそんな余計なことを私に伝えたんですか?」「私が先生のお父さんのことについて聞いたときの私の気持ちをどうして尋ねてきたりするんですか?私の気持ちについてあれこれ聞かないで下さい!」など様々だろう。そしてそれぞれに対して治療者の側からのいくつもの返し方が存在する。さらにそのそれぞれにいくつかの患者の反応が考えられる・・・。