話を元に戻す。リンド論文では、一般集団におけるCSA(子供の性的虐待)に関する基本的な通念は支持されなかったと結論づけているという話。一般に論じられているCSAのトラウマ性や有害性と大きく矛盾する結果となったのだ。これをどう考えたらいいのか。 実は私は似たような体験を持っている。精神医学的なある「常識」が一般人を対象にした研究と大きく矛盾するということを知ったのだ。「脳から見えるトラウマ」(2025年)での「トラウマと記憶」(p.46~7)という章で、私は次のようなことを書いた。 「2001年にPorter & Birt は “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制 suppressionという機序を用いたものであったというのだ。この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?」 わかり易く言えば、この一般人を対象とした研究では「忘れていたトラウマ記憶を思い出すというのは神話だ」と主張しているのに対して、でも臨床場面ではそれはよくある事なのに、なぜそのような研究結果になるのだろう、と私は考えたのだ。 実はリンド論文に関する私の立場も同じなのだ。CSAの有害性が臨床的にはこれほど明らかなのに、なぜ研究には表れないのか。その点が重要なのだ。
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年2月24日火曜日
2026年2月23日月曜日
バウンダリーについて 14
ここでこれまでの論点を少しまとめてみよう。チャット君によるとリンド論文で問題視されたのは以下のいくつかである。
● 大学生サンプル(college samples)中心の研究をメタ分析しており、「重症で大学に進学できないケースが抜けるのでは」という代表性バイアスの批判が強い。
● 結果の解釈や定義(“child sexual abuse” の扱い)が不適切では、という方法論批判が多数。
● 反応が非常に政治化し、米国議会がこの論文を非難するという異例の展開まで起きた、という点が「事件」扱いされた。この論文は成人—未成年の性的関係を擁護する根拠として扱われ得ること自体が大きな問題で、批判側は「研究設計上の限界と社会的悪用リスク」を強く指摘している。
最近までダーウィンの進化論が受け入れられ、「獲得形質は遺伝しない」は常識であった。とにかく学会の権威達が作っている派閥がそう言っている(という設定にしよう)。ところがある研究論文が発表され、その内容は、ラマルク説を蒸し返すようなものであった。つまり「木の実を食べてばかりいた牛の子供の首が長くなった」という内容だったのである。するとダーウィン派の権威たちは、その研究の内容について批判するのではなく、そのような論文自体の存在を否定し、「そもそもなんでこんなトンデモない論文を掲載するのだ!怪しからん!」とその学術誌を責めることとなった。「反主流派(非ダーウィン派)の学者たちがこれを自分たちの理論を擁護するものとして利用するではないか」というわけである。(結構考えて作った比喩だが、読み返しても出来の悪い比喩だ。まあいいか。この背後には「獲得形質が遺伝しない」とばかりは言えない、いわゆるエピジェネティックスの問題が最近注目されるようになったという事情がある。要するに環境の影響が、子に残す遺伝子に反映されてしまうという事実が明らかになってきている。進化論や遺伝学上の本質に迫る問題であり、実際にはエピジェネティックスの議論がバッシングに遭っているという話は聞いたことがないので、あくまでも架空の話である。) とにかく問題はある学術研究が、学問的な扱いを受けるのではなく、ある種の「不都合な真実」的な扱いを受けていることがあるのである。言い換えれば、学問的な問題はいつ政治的な色彩を帯びてもおかしくない、という事か。そして境界侵犯の問題もまさにそうである。
連想は続くが、「翔んで埼玉」という映画を思い出す。ネット記事から。
「『埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ!』――。埼玉県をけなした過激なセリフや設定で注目を集めたコメディー映画「翔んで埼玉」に出てくるセリフにちなみ、「そこらへんの草天丼」を春日部市の地元スーパーが商品化し、連日完売となっている。」(読売新聞オンライン 2021・5・17)
2026年2月22日日曜日
バウンダリーについて 13
実はここまで行くと論じなくてはならない論文がある。いわゆる「Rind論文」だ。これは米国の心理学会では皆が知っている論文だ。私はこの論文を米国にいたころダウンロードしておいたのでアイパッドから読めるが、発表当時はそのあつかわれ方が極めて議論を呼んだことを記憶している。実は先ほど私は最初この論文の著者が思い出せずに「確かこんな論文があったんだけれど‥…」とChat君に聞いたところ、すぐにRind の名前が出てきたが「この論文を引用する際には、注意事項があるよ!!」と警鐘を鳴らしてくれた。
チャット君は「いわゆる 『Rind論文問題(Rind et al. controversy)』 として有名で、世論・専門家・政治の場まで巻き込んだ炎上になりました。」と言う。
ちなみにRind論文とは Rind, Tromovitch, & Bauserman(1998)“A Meta-Analytic Examination of Assumed Properties of Child Sexual Abuse Using College Samples”(Psychological Bulletin.124:22-53.)であり、その内容をひとことで言えば、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示したのである。しかしこの論文がアメリカでは大炎上したのだ。
まずこのRind論文の抄録の和訳を紹介しよう。今ではチャット君のおかげであっという間に用意することができる。
<抄録>
一般の人々や専門家の多くは、児童期の性的虐待(child sexual abuse: CSA)は、性別を問わず、一般集団において広範かつ強い心理的害をもたらすと考えている。本研究では、このような一般的信念を検討するため、大学生サンプルに基づく59件の研究をレビューした。メタ分析の結果、CSA経験を報告した学生は、対照群と比べて平均的にはやや適応が低いことが示された。しかし、この適応の低さはCSAそのものに起因すると結論づけることはできなかった。というのも、家庭環境(family environment: FE)がCSAと一貫して交絡しており、FEはCSAよりもはるかに多くの適応の分散を説明していたからである。また、多くの研究においてFEを統制すると、CSAと適応との関連は概して有意ではなくなった。CSAに対する自己報告による反応や影響に関するデータからは、否定的影響は広範でも典型的に強いものでもなく、男性は女性に比べてはるかに否定的な反応が少ないことが示された。大学生サンプルから得られたこれらのデータは、全国調査サンプルの結果とも完全に一致していた。以上の結果から、一般集団におけるCSAに関する基本的な通念は支持されなかったと著者らは結論づけている。
さてこの論文による議論に関しては、それについてまとめたリリエンフェルド(この人も実は曲者だ!)の論文の要旨を読んでいただこう。Lilienfeld SO. When worlds collide. Social science, politics, and the Rind et al. (1998). Child sexual abuse meta-analysis. Am Psychol. 2002 Mar;57(3):176-88.
抄録)1998年にRind, Tromovitch, Bausermanが Psychological Bulletin に発表したメタ分析は、児童期の性的虐待と、その後の精神病理との関連の大きさが全体としては弱いことを示した。ところがこの論文は発表直後から、メディアで影響力のあったドクター・ローラ・シュレッシンガーや多くの保守系団体から激しく非難され、さらには米国議会によっても糾弾される事態となった。加えて、アメリカ心理学会(APA)も、著者らの結論から距離を取る姿勢を示した。この一連の出来事は、いくつかの重要な問いを浮かび上がらせる。すなわち(a)政治的に論争を呼びやすい研究結果を報告する際に研究者が負う責任とは何か、(b)学問および科学の自由はいかに守られるべきか、(c)一般社会やメディアに広まる論理的誤りや誤解を正すうえで、APAはどのような役割を果たすべきか、そして(d)大衆心理学と学術心理学のあいだに存在する大きな隔たりと、それを縮める責任がAPAにあるのではないか、という点である。
2026年2月21日土曜日
バウンダリーについて 12
昨日の続きである。もちろんこのことは「バウンダリーの問題はそんなにうるさく言う事ではないよ」ではない。バウンダリーの逸脱は非常に頻繁に人間社会で起きている可能性があり、その一部で確実に犠牲者を生み、また一部ではそれなりに関係が進展していくという現実があるという事だ。例えば昨日の例では選手とコーチの関係が男女の関係に発展するという事がどの程度頻繁なことは分からずとも、生じるべくして生じていて、一部では悲劇が生じ、一部では「上手く行く」(????)という事だろうか。では●出監督の話は「上手くいった」(結果オーライ)の話なのか?これは非常に難しく、錯綜としたテーマなのである。ただ一つの仮説として成り立つのは次のことだ。
バウンダリーの侵犯(ここからは境界侵犯に呼び変えよう)は極めてハイリスクな出来事である。確実にトラウマを生む素地といえる。ところが他方にそれに対する感受性があまり高くない場合には、その境界侵犯のトラウマ性を克服、凌駕する力を相手が持ち、境界侵犯により新たに始まった関係性を生き延び、場合によってはそれを利用する場合がある???
例えば●出監督の無節操さ(と敢えて呼ばせていただこう)を●チャンが「これってアリなの?」と疑問に思いつつも受け入れてその関係をwin-win なものにして生き延びる?これも現実だという事だろうか?私はこの問題は余りにリスキーすぎてこれ以上ブログでは論じることが出来ない。という事で今日はここでおしまい。(実は明日のレクチャーの準備で忙しいのである。)
2026年2月20日金曜日
バウンダリーについて 11
「ここで小出監督とキューちゃんの話を載せよう。週刊文春に「阿川佐和子のこの人に会いたい」という企画があるが、その342回目(2000年)の記事をとってある。わりと理想的な師弟関係が描かれているようである。「高橋は(タイムが)遅かったから、最初に『お前は今に世界一になるよ』と言ったら『えーっ!?』なんて意外な顔していた。ところがそれを毎日言い続けてみな。『ほんとかな』って首をかしげるようになるんですよ。そこでもっと『お前は強くなる!』っていうとね、『よし頑張ってみよう』という気持ちが芽を出してくる。その芽を摘んじゃいけないんですよ。子供だって同じだよ。」とある。
ところがそれと一緒に保存してあるのが「噂の真相」の記事。「国民栄誉賞をもらったシドニーの英雄高橋尚子と小出義雄監督の●●関係」というもの。(2000年12月号)
これを読んで師弟関係についていろいろ考えさせられた。これは醜聞に属する話だ。(●●は私が施した伏字である。)しかしここで浮かび上がるのは師弟関係とバウンダリー(境界)の問題、ないしはパワハラの問題である。ということで記事を再度読み始めると・・・・ウーン・・・・・・・・・・・・・。やはりこれは問題だ。というより詳しくは書けない。いろいろな人が傷つくだろう。ということで一般論に移るしかない。
どうやらアスリートとコーチや監督の関係には、「一心同体」ということがよくあるらしい。そうじゃないとコーチが務まらないというところまであり、だからコーチは一人しかできないという常識のようなものもあるそうだ。いっそに暮らし、一緒に風呂に入り、一緒に生活をする。問題のK監督はと言えば、そのような形で選手とズブズブの関係にあり、しかも過去には明白なセクハラもあったという。」
つまりこういうことだ。分析家と患者の間のバウンダリーの問題をるるつづってきてが、現実世界ではこのようなことが非常に頻繁に、日常茶飯事で起きているのではないか。そしてもしこれが現実だとすると、バウンダリーの問題はかなり深い闇の世界に繋がっているのではないか、という事である。
2026年2月19日木曜日
バウンダリーについて 10
ところで彼は私が某大学に勤めていた時に、そこの教授として勤務をしていて、顔見知りとなった。だから私にとっては彼に起きたことは人ごとに思えない。(ところで今Wikiで知ったことだが、彼はつい数日前に慢性硬膜下血腫で手術を受けたという。大丈夫だろうか。心配だ。)
ところで彼は数年前にスキャンダルに襲われたが、その経緯が私の記憶に残っている。11年間不倫関係にあったある女性が、彼を突然週刊誌に告発したわけだが、そのきっかけは確か●●氏の方から関係の解消を迫られたことであった。これはとても興味深いことだ。おそらく相手の女性は「私を切りにかかったのね。都合が悪いとこうやって自分の存在をなきものにするのね。やはり彼は私を利用しただけなんだ」と感じたのであろう。彼との思い出がどれだけ楽しく、また彼女も完全に合意の上で付き合っていたとしても、である。(ちなみに一次資料に当たっていないので、かなり私の推測が含まれる。あくまでもそのような事情であった可能性について書いているに過ぎない。)
このような例は実に多いことに気が付く。特に不倫関係にある場合に、別れ話をきっかけに「(家族持ちの)不倫相手から利用されていた」「自分は被害者であり、犠牲者だ」という気持ちが高まり、それが相手への怒りに変わるという例である。
私がここで強調したいのは、相手の女性にとってはそれまでの楽しかった関係がトラウマになってしまうということは心的事実としてあるということだ。「さんざんその関係を楽しんで勝手な人だ」などとは決して思わない。たとえそれまでその相手と幸せな時間を過ごしており、一度も相手から傷つけられたという体験がなくても、過去の記憶はそっくりそのままトラウマ記憶となりうる。
もう少し別の架空事例を挙げるならば、ある夫婦が幸せな生活を送り、夫が先に亡くなったとする。残された妻は彼と過ごした数十年のことを大切な思い出にし、自分の結婚生活は幸せだったとしみじみ感じるとしよう。ところがそこで大変なことを知る。その夫は実はその婚姻生活のかなりの部分、別の女性との不倫関係にあることがわかったのだ。するとそれまでの数十年の生活は妻にとってのトラウマとしてのしかかってくる。たとえどんなに楽しい思い出に満ちたものであってもそうなのだ。
例えば子供が生まれて一緒に子育てをした楽しい思い出があったとする。しかしその間にも夫は不倫相手と会っていたことが分かったのだ。するとその楽しい思い出はその楽しさゆえに、「何も知らずに騙されていた」という悔しさの感情をさらに大きくするかもしれない。これほど苦しい体験はありえないのではないか。
2026年2月18日水曜日
バウンダリーについて 9
昨日の続きについて。ギャバ―ドさんの比喩はこのように考えてはどうか。彼は飛行機のパイロットである。もちろん彼は操縦には自信がある。しかし乗客をたくさん載せた飛行には重大な責任が生じる。その時「ビールの1,2本なんて平気平気」と一杯やってから(なぜか呼気チェックもすり抜けられて)操縦桿を握るだろうか?さすがに私でもこれはいけないと思う。そして患者との個人的な関係に入る事にも同様の問題が生じると論じるのであれば、これはまた別問題である。 しかしこれを論じているうちに、ギャバ―ドさんが言っている「タイムリリース」効果のことが重要に思えてきた。性的な関係はそれにどのような意味が後になって付与されるか分からない。その意味でそれは「のちになって効いてくる薬物のようなのだ。そしてそれは分析家の行動を(かつての)患者にとって決定的に外傷的なものにしてしまう可能性がある。そしてそのようなリスクまで冒して患者と個人的な関係を持つことは決して倫理的に許されないのだ。(ちなみにTimed-release(タイムリリース錠)は、薬やサプリメントの成分が体内で時間をかけてゆっくりと吸収されるように加工された,徐放技術の一種、という事である。) このトラウマの事後性(こっちの表現の方がよく用いられるな)はもちろん性的な関係に留まらない。いくつかの例をあげよう。親子の関係でも、これまで一生懸命育ててくれた母親が年老いて介護が必要になり、娘にそれを請うとしよう。そして娘は自分の生活があるので、母親に施設に入ってほしいと言う。それに対して母親は言うのだ。「将来面倒を見てもらうために一生懸命あんたを育てたのに、何てこというの?」 もちろんこれをどのように聞くかは娘次第だが、彼女は衝撃を受けてもおかしくないだろう。「これまでの子育てはすべて、私を将来利用するためのものだったの?」 私は親子の間で交わされる会話は時には大変な誤解や曲解や、あるいは真実の吐露を含む可能性があると思うが、それは長年のお互いの情緒的なコミットメントがこのような一言で反転したり、被害的、加害的な意味付けが行われる可能性があるからである。そしてこれは男女の関係でもいとも簡単に生じる可能性がある。それはその関係性のどの時点でも、何処にさかのぼっても生じる可能性がある。「自分は長い間騙されていた」「自分は裏切られていた」「自分はただ弄ばれただけだった」・・・。 ギャバ―ド先生の論文に戻ると、境界侵犯を伴う治療者―患者間の個人的な関係は、はるかに時を経ても、例えば離婚等による破局の際にはもと治療者側が患者側から訴訟を受けるというケースを多く見てきているという。