2026年2月4日水曜日

ジャネ書評 ⑥

 第13章 解離性障害の病院、病態、治療に関するジャネの見解

本章では解離性障害の病因に関して、ジャネが極めて詳細な論述を行っていることがわかる。(252)彼はまさに医学哲学者 medicin-philosophes の呼び名にふさわしくスティグマ、固着観念、トラウマ、といった概念を駆使した彼の理論がが詳細に述べらえる。私たちが単純に「トラウマにより解離が生じる」と言って済ましかねないのに比べ、ジャネははるかに詳細な理論化をおこなっていることがわかる。例えばベルグソンにしてもサルトルにしても、デリダにしてもフランス人の書くものは極めて決め細かく、それだけに難解である。

(253)あらためて、ジャネの言う「スティグマ」とは基本障害であり、「固着観念」は付加的な障害であるという。(261) これは過去の現在化(ゲープサッテルのいう”presentification of the past”)、変化に抵抗を示す、という意味ではフロイトの「抵抗」に近いという。スティグマについては、第1章に詳しく、「意識野の狭窄、下意識現象の存在、感覚麻痺、健忘」などを含むという(49)。そしてそれを要約したものが「意識野の後退」であるという。


エピローグ DSMと解離

ジャネが現代によみがえり、DSMについての論評をしているという体裁をとっている。ところどころにフランス語も出てくる。言われていることはとてももっともな理論。(294) PTSDと解離の中途半端な分類はよくないという主張。PTSDの解離タイプというが、そこで離人現実感喪失症だけを特別扱いすること、そしてFBのみを解離症状とするなどがとても中途半端である。そう、ジャネは一世紀も前にかなり包括的なトラウマ―解離理論を打ち立てていたのである。


2026年2月3日火曜日

アランショアの書評 (ほぼ完成版)

アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という技法の科学」(遠見書房、2025年)

 壮大な本である。一言で表現するならば、「神経科学や愛着理論、精神分析理論などを縦横無尽に援用しつつ新しいパラダイムに基づいた精神療法の在り方を論じたアランショアの書」とでも言えるだろうか。

 ただネットや店頭でこの大著を目にした事情通の読者はこう考えるであろう。「確かにアランショアという名前は最近よく聞く気がする。訳者である小林先生は確かショアの入門書を書いた方だろう。それに「右脳精神療法」とあともう一冊、薄い本が翻訳されている。まずそちらを読もうか。確かに小林先生の労作以外にもう一冊が翻訳されていて、それらを置いて本書を購入するのは屋上屋を架すという印象を与えるかもしれない。しかし本書は極めて充実した内容で、入門書を読みもう少し内容を詳しく知りたい人間にはうってつけである。そしてそれは私自身の体験でもあった。

 本書「精神療法という技法の科学」The sciene of the Art of Psychotherapy (2012)はショアがこれまで出した6冊の著作のうち4番目に相当し、彼が考える精神療法(感情調整療法、のちに右脳精神療法という呼び名に改められる)について詳細に論じたものである。同じ小林隆児氏の手による「右脳精神療法」(2022年に発刊)と共にショアの臨床理論を知るためには非常に重要な書である。

 翻訳者の小林隆児氏は、2022年にショアの最新作「右脳精神療法」を訳出した後、その理解を深めるためにも、ショアの「感情調整三部作」の次の第4作目である本書を日本の読者に提供することが必要であると感じたとのことである。

 本書は574ページとかなり分厚いが、英語の原書でも458ページというボリュームである。それだけに本訳書の出版先を探すことにも小林氏は難渋したというが(訳者あとがき)、本書は内容も極めて緻密でショアの驚くべき生産性(それは本書を訳した小林氏にも通じることかもしれないが)を感じさせる。本書を通読した読者はそこに盛られている情報量に嘆息するのではないか。少なくとも私はそうであった。最終章のマッキントッシュとの対話にも表れている通り、ショアの頭には、莫大な情報量に基づく理論体系が渦巻いているようだ。それは最新の脳科学が示す生後一年の驚くべき脳の感受性とその脆弱性への理解を基盤とした愛着理論に根差した養育や臨床の在り方についての知識や思考である。この驚くべき頭脳が生み出し続ける著作は各方面に大きな影響力を及ぼしつつ、現代的な人間理解や精神病理に関する一つのパラダイムシフトを提案しつつある。私たちはこの「アメリカのボウルビイ」の異名を持つという(503)ショアの偉大な精神に非常に多くを負っているのである。精神療法が目指す一つの方向性を知りたい方にはぜひご一読をお薦めする。


2026年2月2日月曜日

ショア書評 ⑥

 第11章 母子アタッチメント関係の臨床評価を導くための調整理論の使用

(452) 「ほとんどの精神疾患は、以前考えられていたよりもずっと早い段階で発症する」とインセルはいう。胎内及び出生直後の養育者との関係が、乳児のゲノムのエピジェネティックな変化を起こすという知見はもっともショッキングであろう(456)。
右半球は、妊娠最後の3か月から2.5~3歳までの間に重要な成長期を迎える。それにより社会情動的な発達が遂げられる。また乳幼児の脳の体積が生後一年で二倍になるという驚くべき事実が強調され、だからこそこの一年は決定的であり、そして将来の右脳の発達軌道を強化するうえでの予防が示される。
(469)最初の一年で(乳児の脳の)全体の体積は101%増え、2年目で15%。皮質下領域は最初の一年で130%増加し、2年目に14%増加する。

第12章 ジェニファー・マッキントッシュとの対話
(516) アメリカでは多くの母親が出産後6週間後に仕事に復帰する事実をあげ、子供をデイケアに預けることの懸念が示される。
(517) 乳児はストレス下でむしろ引きこもってしまう可能性があるという、それは重度の対人ストレスや関係外傷によるものであり、そうなると子供は泣かず、目も合わせない。そこで親が子供は泣いていないからだいじょうぶだと考え、放置すると、その沈黙状態ではストレスホルモン(コルチゾール)は泣いているときよりさらに高くなるという。
(520)直接暴力を受けなくても、両親間の暴力にさらされている子供ではストレスホルモンが過剰に分泌され、それが脳の発達に悪影響を及ぼす。ネグレクトにおいても同様な過剰なストレスホルモンの分泌が起きる。ただしストレスそのものが悪いというのではなく、それに対処できないでいることが問題なのだ。

訳者があとがきで述べているように(525)、わが国ではまだ力動精神医学と生物学的精神医学が統合に向かっているとはいえず、その意味でこのショアの業績を追うことは我が国の精神医学にとっても重要な一歩であろうと評者は考える。
最後に掲載されているアラン・ショア著作用語集は小林氏の手によるものであるが、極めて貴重で分かりやすいものである。


2026年2月1日日曜日

レマ書評 ⑤

 第5章 持って生まれた身体と自分そのものである身体

 私が特に難解さを感じずに読めた章である。しかしそれは内容に同意したかという事とは別である。記述されたCさんの体験は痛々しく、男性の身体を持って生まれた人がSRS(性適合手術)(の失敗?)を通して感じる苦悩を実に見事に物語っている。私はこの章で改めて、患者の問題が養育関係に帰せられるというレマの理解に違和感を持った。Cさんが男性の身体を持った存在として自分を生んだ親に向ける憎しみをどうとらえるべきであろうか。親からのミラーリングの失敗により「自分の身体は間違っている」という体験を得た場合、「それが処理されないままとどまり、それゆえ身体の中で具体化される」としたら全く救い道がないのであろうか。

本章ではGIDを持たない治療者がいかに患者にとって理想化と羨望の対象になりえるのかについても考えさせられた。しかしそれにしても思うのである。SRSが存在する世の中に生きていることは、GIDの人にとって幸せなことなのか。それを願望として持つことを放棄するという方向性の治療は存在しないのだろうか。


第6章 トラウマと身体

とても読むのがしんどい章。映画のプロットを追うのが必至。でも「象徴等価」の概念はとても大切だと感じた。

第7章 分析家の身体

患者はしばしば分析家の身体に非常に強い関心を払う。その少しの変化が患者に大きな影響をもたらすとしたら、それは分析家を大きく拘束することにもなるだろう。恐らくそこで重要なのは、見かけは変わっても何時もの治療者であるという観念を患者が持つのとであろう。そしてそこで大事なのは、要するに患者が治療者を「象徴化」することだというのだ。猫はどんなに色や大きさが変わっても猫であるように、どんな服装をまとった治療者も同じ治療者である。そのために必要なのは、患者が、対象が同じでかつ異なるという矛盾に耐えることが出来るようになることであるという。愛着期に、愛着対象が同じで違うということは、いわゆるPEM(予測誤差最小化)の能力を高めることにつながる。逆に言えば、愛着がうまくいかないということはこのPEMが育たず、対象が一回ごとに新奇な対象として見える事であろう。すると会うたびにボトムアップからの情報収集を行うしかない。そうではなく、治療者がいかなる服装や装いで現れても、同じ対象だとみなすことが出来ること。それは最初の愛着対象との間で成立した対象恒常性に関わってくるのである。これがにが手なのがASDであり、それは生得的なものか、そしてそれは左脳の邪魔が入るのかのどちらかによるのだろう。(ちなみに「折れ線型」のASDにはやはり左脳の発達が関与しているのであろう。それによりボトムアップの力が右脳機能に擾乱を引き起こしているのではないか。情報収集は右脳による(同一性に基づく)トップダウンと左脳による(差異に基づく)ボトムアップの共同作業なのかもしれない。



第8章 ラプンツェル再考 (グリム童話。呪われて生まれた少女が魔女に幽閉され、21メートルの髪をはしご代わりに使われていたというお話。)

この章にも難渋した。ただしこの機会にいろいろ髪について考えた。確かに「髪はもっとも露出している身体的境界である。このことはほとんどの時間衣服でおおわれているほかの身体部位よりも、情緒的意味がもっと大きく、他者による攻撃に最も晒されやすい部位であると感じられるのであろう。」その通りだ。私たちは体の他の部位と同じように髪を隠そうとしない。むしろ髪が身体を隠そうとしてくれる。米津玄師のように、目を他者の視線から隠すように髪を伸ばすという事が起きうる。それゆえに、男性にとっては髪を失うことはある種無防備な肌(特に頭皮)をさらすことになり、脆弱性や羞恥の念を引き起こす。このように男性の立場としては髪について言いたいことは山ほどあるが、レマの関心はあまりそこにはない。ただしレマの提言(207)「患者が持つ自身の髪との関係や、分析関係において髪が使われる様が、対象から分離することに関しての最想起の葛藤や欠損に接近するための役に立つ入り口を提供できると提言している」という視点は今ひとつピンとこない。私としては髪の自己愛的な意味、つまり自分を装い、プライドや権威を表す最上の手段としての考察をしてもらえればもう少し興味を持てたかもしれないと思う。


第9章 カウチから離れて

この章は分析家のトイレを使用することの心理的な意味について論じられている。トイレを備えたオフィスを構える臨床家にとっては、かなり深刻な問題である。この問題に関するレマの論述もかなり分析的であり、例えばセッションが終わった後患者がトイレを使ったことについて、「そこを怪我したままにする意味を患者に話し始めるのはもっと難しい」(222)という。しかし私としてはむしろ、治療者の自己開示の意味を考えてしまう。治療者がそこを使い、そこをどのように清潔に管理するかは、実は治療者の見えない部分をさらすことになる。そしてそれはホスピタリティの意味も持つ。トイレを使ったことに触れないというのも一つのやさしさではないかとさえ思うのだ。もちろんその分析的な意味や、それに含まれる様々な空想は計り知れないのは確かだ。


2026年1月31日土曜日

ショア書評 ⑤

 6章 アタッチメント、感情調整、発達途上の右脳 (ほぼ省略)

(288)母親の新生児に引き起こす陽性感情が重要である。「母親が申請時に対して引き起こす要請感情は、人間の行動の感情の風景の中で最も強力で進化的に保存されている陽性感情の一つかもしれない」。つまり母親は乳児の陰性感情を抑え、陽性感情を増幅するという意味での調整を行っているというわけだ。← 支持療法の直接的な根拠付けと言えるのではないだろうか?

7章 ゾウはどのようにドアを開けているか? (省略)

8章 アタッチメント外傷と発達途上の右脳

(315)ジャネの貢献についての記載あり。彼のいう精神レベルの低下は、統合能力の低下を意味する。またジャネは「心的エネルギーの欠乏が解離を生むといった」とも記載されている。これは要するに副交感神経過多のことであろう。そしてその根拠としては、激しい情動が情動覚醒を維持できず、体験は統合されずに無意識の固定観念(岡野:トラウマ記憶か?)として残る。

(316)VDK、VDHさんらの記載。

「激しい情動を体験すると、その恐怖体験を既存の認知スキームと一致させることが出来なくなり、その結果体験の記憶は個人の意識に統合されず、代わりに分離(解離)される。」

ここにはおそらく、極度の扁桃核の興奮が海馬を抑制するという例のメカニズムが働いているのであろう。

(320) 通常は誤調律は必要でそれに続く「双方向的修復」で乳児はストレスとなる陰性感情に対処できるようになる。(岡野:PEMの話と同じだ。現実により訂正されることで、それを受け入れられるようになっていく。受け入れることの幅がどんどん増えていく。歩けるようになるためには転ぶ必要があるということだ。)

(320) ここでどの程度陽性感情を維持でき、どれだけ陰性感情を早く修復できるかが重要である。

(323)ジャネの言う心的エネルギーの欠乏とは、副交感神経の活動過多のことだ。

(325)D型の愛着などは、交感、副交感の同時の活性化だと言う。親に向かって後ずさりするといった状態。
(328)そのようなときに、母親も恐怖―戦慄の表情を見せる。この指摘も重要。

(332)PTSDの過剰覚醒も、解離も、両方とも右脳の関与を伺わせるだという。

(334)解離においては右半球の前頭前野と辺縁系が中心となって反応している。


9章 BPDは右半球障害か?

BPDも概ね右脳の問題として説明することになるという。
(386)BPDの生まれる機序としては、右脳の高次制御の欠如と右の定時皮質の低次レベルでの攻撃的な状態の増大」である。

  (396) 右脳の成長は遺伝子にばかり依存はしない。「特に母親との環境のエピジェネティックな経験により永続的に形作られる」。つまり経験依存的なのだ。


第10章 ボウルビィの進化的適応環境

圧巻の章である。(403)ボウルビイの進化的適応環境(EEA) という概念が現在の右脳を中心とした発達といかに関連しているかを論じている。

(412) 定型発達では右半球のミラーニューロンシステム(島皮質を介して大脳辺縁系と相互作用する)を頼ることによって、模倣した情動の意味を直接感じ取って理解する」

ちなみにΦとは結局ミラーニューロンのことなのだろう(岡野)

(413) ポージスによれば、右脳の発達は副交感神経とも深いつながりがあるという。

(416) OFCの成熟は、生後一年目の最後の四半期から2年目の中頃にかけてが臨界期である。「この腹内側前頭葉辺縁系構造は、扁桃体、島皮質、および前帯状皮質の他の辺縁系領域と相互に接続されている。

(417) 母親の前帯状皮質は、産後に再組織化される!!!

(419) 2年目の遅れた父親の関与の重要性!!そしてそこで養育を多く行っている父親程テストステロンのレベルが低下しているという!!。


2026年1月30日金曜日

ジャネ書評 ⑤

 第8章 PJのホリスティックプロジェクト ①

(161)少なくともジャネはいわゆる「ポリサイキズム」にくみしていたとみられる記述。「脳内で生成されるすべての心理的現象は・・・・あるいは多少なりとも完全にグループ化され、新しいシステムを作る傾向がある(Janet, 1901, p492 )」

(163) 統合不全 désagrégation と解離 dissociation を混同するべきではない、とある。前者の特別なものが解離 dissociation という理解であろう。


(167)フロイトのジャネ批判。彼はジャネの考えである患者の基本的な脆弱性、個人的綜合の低下という考えを受け入れず、患者が薄弱だから意識の分裂が起きるのではない。そう見えるだけだといった。

(168) 解離の理論への注目は、Lenius らの研究の影響が大きかったことが改めて強調されている。ある実験では、トラウマ的な脚本を聞いた被検者の70%が心拍数の上昇を見せ、30%が低下したという。


第9章 PJのホリスティックプロジェクト ②


(176)心理的緊張という概念について。ジャネもこの概念の限界に気が付いていたという。この概念は一定の複雑さを保ち、秩序と総合を生み出す力、という意味。しかしこれだけでは足りないと思い、心的力という概念を付け加えたという。


11章 トラウマを抱えた患者との催眠療法的関係 (OVDH、Cathy Steele) 

フロイトの転移に近い考えを、いかにジャネがより徹底した形で唱えていたかが書かれている章。サルペトリエールのジャネの患者たちが慢性のトラウマを抱えていたという事実、それに対してジャネがどのように治療的な手を差し伸べるべきかについても記載されている。(210)この部分を読むと、よく出てくるトラウマ治療の3段階説がおそらくジャネ由来であること催眠術師への依存がモルヒネ依存と同等の強さを持っていたという事情など、現在の私たちからは想像できない事ばかりである。


第12章 「トラウマ後ストレスの治療」は、バンデアハートとバンデアコークというトラウマの世界での二人の偉大なオランダ人による共著である。これを読むと、ジャネがいわゆるトラウマケアの三段階説、つまり①安定化②トラウマ記憶の扱い③再発予防、人格の再統合、リハビリテーションを先取りしていたということがわかる。(233)彼はその意味ではPTSD(彼の時代にこの言葉はなかったが)の治療論を唱えた最初の心理学者であったことがわかる。その中で興味深いのが②であり、トラウマ記憶を扱うことの難しさにジャネが取り組んだ様子が書かれているが、彼が行ったいわゆる「代用法」すなわちトラウマ的なイメージを中立的、ないしは肯定的なイメージに変えるという試みが興味深い。ジャネは催眠を用いてトラウマ記憶にさかのぼり、例えば幻覚的なトラウマ的イメージを花が咲いている絵に置き換えることに成功したとある。これについては Richard Kluft などによる、「トラウマを否認するプロセスへの加担だ」というネガティブな評価があるものの、ジャネの治療的な試みとして評価すべきであろう。

なおジャネの概念の中で理解の難しい心理的力と心理的緊張についての解説もありがたい。

心理的力 利用可能な精神的エネルギーの総和

緊張 エネルギーの組織化のレベルと、有能で創造的かつ内省的な活動を行う能力


2026年1月29日木曜日

ショア書評 ④

 第4章 右脳の感情調整 

(152)ショアの業績の一つの特徴は自分の研究をフロイトに基礎づけていることである。フロイトが論じていた無意識は要するに右脳の暗黙的自己なのだ、という提言がそれである。これがすなわちショアの「全方位外交」的アプローチである。

第5章 治療的エナクトメント

もっとも楽しみな章だ。しかも数十ページも続く途方もない長さである。ショアはブロンバーグらにより更新されたエナクトメントの概念はパラダイムシフトと一致していると言い切っている。これはどういうことか。つまり意識的認知から無意識的情動へと関心が移ったこととエナクトメントの概念は関係しているという。彼はこれを「情動革命」と呼ぶが、要するにエナクトメントは「無意識の強い感情」の表出であるという。彼はフロイトの無意識=右に局在化された「情動脳」がその生物学的基盤だとした上で、以下のように主張する(199)。「エナクトメントは、初期に形成された右脳の自動的生存メカニズムのリアルタイムでの再現を表す」。つまりエナクトメントは常に情動脳の興奮を伴い、その程度によりその深刻さが表されるのであろう。ショアはこれが右脳に局在化された皮質―皮質下系に関与するという。そして内側側頭葉の右皮質下過程もそこに関与し、そこにこそ情動的な記憶が保存されるという。そしてその上でエナクトメントは、関係外傷に到達するための手段だというのだ(200)。

以下、いくつかの重要なポイント。

(201)知覚と認識は後右皮質半球の側頭頭頂野により処理されるが、それがトラウマによりダメージを受ける。そこには精神的苦痛が深く関係し、知覚体験を変化させてしまう。ブロンバーグのいう象徴された次元のコミュニケーションとは高次右皮質系、象徴されていない次元の準象徴的コミュニケーションとは低次右皮質下系が関与し、その両者が切断されている状態が解離である(202)。従って解離は右半球の機能不全の変化と関連している(204)。「最近の臨床家は、エナクトメントは特に解離に関係しているとする」(204←ショア自身はあまりこのことを明言していない。)

(206)そして治療が進むと解離性防衛が働かなくなる。

眼窩前頭皮質(OFC)は皮質で処理された外界からの情報と皮質下で処理された情動ないし身体的自己状態を統合する場所である(219)。

エナクトメントは、皮質(OFC)-皮質下(扁桃体)の再接続を可能にする可能性がある(220)

エナクトメント中に、深いPI(投影同一化)をキャッチするためには、治療者はOFCをオフラインにする必要がある(220)つまり一種の解離を起こさなくてはならない。それを起こすことにより患者からのコミュニケーションを受け取れるということ???


(230)エナクトメント中には、共感的共鳴を維持することは無理だ!!
(230)エナクトメントが起きるということは、彼らがまだ「感じて」いない何らかの根拠である可能性がある

(233~4)エナクトメントも一種の解離が起きる事になるが,それは前方向性を有するのだ。

OFCとは要するに前意識だ。

(239) 小さな課題は左脳、重度のストレスは右内側前頭前野の刺激。多少のストレスなら左脳で解決する。それは通常慣れ親しんだ状況下で確立した行動パターンを制御することに特化している。(他方では右半球は情動覚醒の主要な場所である。)
(243)エナクトメントでは、凍結されていたトラウマが復活する。

(247)よく出てくる耐性の窓の図。調律することで、耐性の領域の幅を示す白い枠の縦幅が高くなるのがポイントになる。つまりここでは治療者と患者が調律、同期化出来ているという事が大事である。時系列的に言えば、最初は興奮を伴う「上の方」の窓で対処できていたが、それでだめだと「下の方」(解離的な枠組み)が優勢になる、ということだ。あるいは上の窓が狭いとすぐ下の方に行くという風にも言えるであろう。そして窓を広げるためには、多少なりともストレスが必要ということだ。それは(244)ブロンバーグが言っている。ただしそれはトラウマを生の形で思い出させるというのではない。それをプレイフルネスの中において生じさせ、耐性の上限に対するチャレンジが多少なりとも入ってこなくてはならないということなのだ。

(245)二つの治療のモダリティが示される。ここでも二つの耐性の窓でのワーク。上では関係的虐待の経験の記憶処理、下では関係的ネグレクトに関連した記憶処理を行うという。