2026年6月23日火曜日

甘え理論の先駆性 5

 ここからはある意味でのthe making of Amae にお付き合いいただきたい。これなしではおそらく土居の甘え理論の真意を掴めないからだ。  土居が1950年に内科から精神科へ転向した時点にさかのぼる。彼は米国留学のガリオア奨学金を獲得し、それを喜んだ古沢の推薦でメニンガーに2年間留学する。ちなみにこの時の体験が「甘えの構造」を各出発点となっている。 そこで土居はルドルフ・エクスタインの講義を受けて感化される。  留学中に土居は古沢からの誘いで「通信分析」を帰国するまで一年おこなう。 1952年に帰国した後は古沢から分析ではなくSV(監督分析)を受けたが、1954年より「暗礁に乗り上げ」「患者の治療上の技術に関しての意見の相違が起き」、さらに「もっと全面的な相違に発展した」という。 以上引用は「土居:われわれはどんな風に成因分析を学んできたか 精神分析研究 Vo.5.No 6 1958」 この時の土居と古沢の間の葛藤は詳しく語られていないが、ある意味では次の土居自身の言葉でその様子を垣間見ることは出来るのではないか。 「(古沢)先生は分析としての立場から私のこのような態度を分析的に理解し、同時に私をどこまでも容認しようとなされましたが、私にはそれがまた我慢できない事でありました。私はついに先生を離れて再び米国に留学し、かの地で始めから教育分析を受けてみようと決心するに至ったのであります。」(土居、精神分析研究 Vol.5₋6 1958) 「『自分が米国に行くのは、古沢先生の治療態度について、別の分析医との接触によって疑問を解くためだ』と言って(土居先生は)米国に旅立った。」

(小此木 精神分析研究 選集 2 2005年 p112)

私は土居先生(急に「先生」付きになる)はこだわりがあり、頑固な人だったと思う。自分の主張に固執なさる。ある時土居先生は私が著作の中で「患者さん」という表現を用いているのを慇懃無礼だと仰った。それはそうかもしれない。しかしこれは一種の好みの問題であり、人それぞれではないだろうか。

 

2026年6月22日月曜日

甘え理論の先駆性 4

 ところでこのような考えに従った土居の理論は、どの程度先駆的だったのだろうか、という本題に入る。別稿で検討したように、愛着に基づく精神療法では、治療とは愛着関係を再現し、そこで治療者・患者の間の心の、生理作用の、脳の同期化を目指すものである、というのがフォナギーやショアやホームズの理論であった。  このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なる方向性になる。でははたして土居の理論は、これらの流れに先駆する理論であったのか?その答えを以下に探る。  その骨子をまとめるならば、もし愛着に元ずく精神療法が愛着関係を取り戻すという方向であるならば、おそらく土居の方針はそれとは大きく異なり、むしろ真逆なところすらある。土居が繰り返し言うように、本当の意味での甘えは実現しないということを理解することが治療であるという考えを彼は持っていたからだ。しかしそれはどのような意味なのだろうか?フロイトは治療の最後には「素直な甘え」が登場すると言っている。つまり素直な甘えを治療者に表現することになるわけだ。でもこれは甘えを満たす体験ではない、とも土居は言う。ここの関係はいったいどうなっているのだろうか?


2026年6月21日日曜日

甘え理論の先駆性 3

  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。「相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望」。

これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく(岡野,1999,Okano,2024)「条件付き conditional 」な愛だからである。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両

断なのである。

(ちなみに以下は土居先生の還暦の頃の写真である。私が最初に面会をした頃の先生は、このように若く精悍であった。)

 

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、精神分析研究 Vol.14, No3,1968 P120)

わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。


2026年6月20日土曜日

甘え理論の先駆性 2

 土居先生のアメリカでの原体験については、「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言える。このようなところを読む限り土居先生はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 アメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かは、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。


2026年6月19日金曜日

甘え理論の先駆性 1

  土居健郎先生の甘え理論はどのくらい先駆的であったか、というテーマで論じる。私はたまたま昨年11月に、ある学会の「甘え」に関するシンポジウムに招待され、甘え理論を再考する機会を持った。その結果以下の疑問が生まれた。

 一つには世界的に知られている甘え理論の何が画期的だったのか?(本当に画期的だったのか?)ということである。甘えは日本の精神分析にとって一つの記念碑と言ったニュアンスがある。それだけこの理論は世界中で一定の認知度と評価を得ている。でも我が国の精神分析で甘え理論を発展させた業績というのはあまり知られていないのも確かである。また世界レベルでもあまり盛んな議論を巻き起こしているとは言い難い。それはなぜだろうか?私たちはこの貴重な遺産を正しく評価しているのであろうか?それが一番問うべき問題である。

ただしこういう私も去年のシンポジウムがなかったらこの問題に着手する事はなかったのを思えば、私自身が甘え理論に特別関心を寄せていなかったのも確かである。それはなぜなのか?これは私自身への問いということにもなる。

もう一つの疑問は土居先生は甘え理論を「実践」していたか?

実はこれは非常に悩ましい問題だ。土居先生は御自分の二回の教育分析に関して、それが波乱に満ちて、中断の形をとったことを自ら明かしている。しかしそのことから自分が得たことはとても大きかったとも語る。それが甘え理論とどのように関わるのか?その理論は自らの苦しい教育分析によって得られたものと関連しているのか。

 しかし実に意地悪な見方をするならば、教育分析に「失敗」した彼にそれを語ることは出来るのか、となる。先生自身が自らの失敗体験(?)を開示していることに、私たち後身は何を学ぶことができるのか?


2026年6月18日木曜日

土居先生と精神分析 7

  少ししつこいようだが、今までの私自身の理解を確かめるために書き記しておく。

「この人はいつも自分のそばにいて、私のことをわかってくれて、こちらが望む前にいつでも手を差し伸べてくれる」という幻想は、初期の養育者との関係の中で生まれるという仮説が、エクスタインの「基本的な一致 unity 」であり土居の「素直な甘え」である。その後に現実を体験してそれが現実の世界ではかなわないと知ることで脱錯覚が起きるわけだ。そしてその代わりに心の中で「誰かがどこかで自分のことを本当にわかってくれる」という気持ちを持てるようになることが「基本的な結合 union 」の成就ということになる。後者に至ることが私たちの目標になるわけだが、これはやはり幻覚的な要素を持つことは確かであろう。
 ところでこの結合はかなり矛盾を含んでいて、そもそもそれは現実の他者との結合ではない。自分の心の中だけで起きているからだ。しかしそれは確かに対象イメージを含んでいるから、一応結合と呼んでいいのだろう。「お前は大丈夫、特別だ」というメッセージはやはり外部性を含まなくてはならない。そしてある程度は外部の実際の関係性により析出され、高められる必要がある。それがいわゆる自己対象の機能であろう。

 とにかく自分のことを百パーセント認めて欲しい、夢であってもいつか叶えて欲しい、たとえあの世であっても…という考えは狂気に近いが、それを自分が持っていて、同時にそれが今の現実の世界ではかなわないことも認めることが「素直な甘え」ということだろう。つまり自分の中に狂気を抱えつつ、それを容認していることが「基本的な結合」なのだが、その祖型を作ってくれたのは、初期の愛着関係であると考えることができる。それはその時期の養育者との脳のシンクロの体験であり、その時にできた脳の回路が原型となっている可能性がある。そしてそれを治療者がブーストするのが「愛着に基づく精神療法」の意義なのではないか。またそのブーストは日常の人間関係でも少しずつ起きている可能性がある。親しい友人や配偶者との関係である種のやさしさに触れると「この人は基本的な結合の『かけら』を与えてくれている」と思えること。あとは自分で幻想を膨らませればいいのである。

2026年6月17日水曜日

土居先生と精神分析 6

北山先生は「錯覚と脱錯覚」のp.120 でこう言っている。

「この乳房を介した錯覚は離乳と共に脱錯覚を被るが、実世界や現実において我々は自分の望むものを作り出すことが出来るかもしれないという「希望」を抱くときの基盤となる。」「そこには現実原則の受容、痛みを抱えるための包容力の発達、自動的で魔術的要素の衰退、さらに大人においては社会に貢献するための創造力の確立などを伴わなければならないが‥‥」なるほどね。  さて後の人生の中で子供は新しい対象に出会う。それはメンターでも恋人でも配偶者でも、そして自分の子供でもいい。その対象を愛するということは、おそらくその幻覚を一時的に共有できた相手であり、多分それだけで存在価値があるのであろう。もし共同生活をつづけたとしても、幻覚を共有したというだけであり、過度の依存も期待もないはずである。  さてそのような段階に至った人は「素直な甘え」の境地にあるという土居の議論ははっきり言ってよくわからない。裏切られても相手を恨んだり、自己愛の境地に逃げ込むことがないというのが「素直な甘え」だとしたら、土居が匂わせている原初的で母子一致の状態を彷彿させるとしても、実はかなり高い自我機能を前提とした、つまり「現実原則に従った」関係性といえるだろう。それと母子一致の状態での甘えの共通点といえば、相手からの裏切り、脱錯覚による痛手や、それへの不安が存在しない、それらの懸念から解放された境地と言える点だけではないだろうか。  間違っているかもしれないが、私はこう思う。治療の終結で現れる素直な甘えは、内的な対象像との間のそれであり、おそらく直接かかわっている相手に対する甘えを含んだ行為とは程遠いものなのだ。あるいは以下に述べる「大人の甘え」であろう。  さもなくば、終結期の純粋な甘えや、バリントの言う受け身的対象愛のレベルは、人は容易に到達しないのではないかと思う。それは自己愛を捨て去った悟り済ました境地ということになるが、バーチャルにしか存在しないのではないか。だいたい人からの裏切りを恐れないということは結局人に一切期待しないということになるが、そんな関係は現実にはあり得ないだろう。完全な世捨て人やAIでもない限り。だから「純粋な甘え」は近似的にしか体験できないと考えるべきであろう。  ただし小此木先生も語っているようないい意味での甘えの関係は、程よく抑制がかかっていて、甘えの相互性が成立していて、色々な意味で「素直な甘え」に近いのであろう。でもこれは言い方を変えたら「大人の甘え」ということだ。これを母子一致の時期の甘えと同じようなものとして語ると逆に混乱のもととなるのではないだろうか。