2026年10月9日金曜日

Yudkowsky派への反論

 最近AIにより人類は滅亡するという言説が多い。「超知能AIをつくれば人類は絶滅する」(エリーザー ユドコウスキー, ネイト ソアレス他)等の著書の影響が大きいかと思う。 原著は If Anyone Builds It, Everyone Dies: Why Superhuman AI Would Kill Us All、Eliezer Yudkowsky と Nate Soares の2025年の本。
 彼らはMIRI(Machine Intelligence Research Institute)を長く率いてきたAI alignment / existential risk論の代表的論者で、主張はかなり強い。「危険性がある」ではなく、現在に近い方法でsuperintelligenceを作れば、デフォルトの帰結は人類絶滅だという立場だ。
 これについての反論を私は以下に考えてみた。
Yudkowsky派の考えは一理あるようにも思えるが、基本的にはAIに関する議論を越えて、この世の中に superintelligence というものが存在したら何が起きるのか、という議論のように思える。わたしならば高度に発達した知能は、もはや自分の生存を優先するという自己中心的な目的ではなく、共存共栄を求めるのではないかとも考える。ましてやAIに desire がないならば、自分たちだけが生き残るという方向に行く理由がよくわからない。superintelligence がどのような振る舞いをするか予測できない、というのはその通りだが、それは最終的に人類を絶滅させるのではなく、むしろそれの繁栄をもたらすという可能性だってありうるだろう。だから彼らが最終的に人類の滅亡が不可避だとだけ主張しているのはなぜか私にはわからない。
 それよりも私が懸念するのは、superintelligence がまだコントロール可能な段階で、世界の誰かがそれを悪用して自分たちの利益のために用いるという危険性の方だ。結局はAIはそれを用いる人間により、善にも悪にも使えるという議論に行きつく。つまり私の議論はそんな先のことを考えるまでに、人間によるその悪用をいかに防ぐかの方がよほど先決問題であるということだ。
 それともう一つ、Yudkowsky派は、superintelligence 自体を神格化し、それが全能であるという誤解を生んではいないだろうか。高度のIQを持つ人間が現在の世の中でどれだけその力を行使しているかを考えてみればいい。彼らは社会の中で圧倒的な力を行使して、自己の利益を高めているだろうか? まったくそんなことはない。メンザのメンバーを見ても、おそらくバラバラな活動をしていて、中にはニートのような生活を送っている人もいる。世界を支配するのは、高知能ではなく、もっと別の力ではないか。少なくとも高知能=他者を欺いて世界を支配する能力という考えは誤解を生むだろう。
 それともう一つ、これはバッシングを承知でYudkowsky派への反論。彼らは「AIが危険になるのに malice(悪意)はまったく必要ない」という。しかしAIが本当に危険になるのは、それが何らかの形で「覚醒」し、つまり意識や願望を持つことだ。それさえないsuperintelligence 何て計算能力の高いだけの、ただの木偶の棒である可能性だってある。そんなに危険なほど高度のintelligence に、意識や願望を想定していないという彼らの議論は矛盾していると思う。そしてもう一つ、悪意のないAIであればこそ、それを悪用しかねない人間の方がよほど危ないのではないだろうか?結局一番の問題は我々の無意識的な破壊衝動だ、という分析的な考えに帰着する。

2026年10月8日木曜日

愛着と愛着トラウマ 加筆部分

従来はどのような理論でトラウマを説明してきたか?← 実はほぼ不在だった
 以上CPTSD的な病像について述べたが、このような様子を示す患者に対して私たちはどのような姿勢や心構えを持って臨むべきであろうか?
 一つ言えるのは、いわゆる古典的な精神分析にそれを扱うすべを見出すことはあまり出来ないということだ。Freudの精神分析理論には性的なファンタジーや攻撃性やそれらの抑圧という話は出てきたが、「トラウマ」や「解離」は表立っては語られなかった。一つの根拠を上げるならば、Freud の忠実な継承者であったAnna Freud (自我と防衛)の提示した防衛機制にも解離は出てこない。抑圧、退行、反動形成、隔離、打ち消し、投影、取り入れ、自分自身への向け変え、反転、昇華・・・・・どこにも解離は見当たらないのである。
 ただしトラウマを扱った理論、いわゆる「トラウマ理論」はFerenczi, Winnicott, Balint, HS Sullivan などによっては語られていた。だからトラウマや解離は精神分析の中では傍流に属する、いわば辺縁での理論としては語られていたのである。しかし精神分析の黎明期には、Freud 自身により、トラウマや解離理論が開拓されていたことは驚くべきであろう。
Joseph Breuer は当時でウィーンで名の知れた精神科医であった。ウィーンでの開業を迫られていた当時のFreud はこの臨床の大先輩から様々なアドバイスや援助を受けた。その中でもBreuer の体験したアンナOとの治療についての語りは、若き Freud を魅了したと言われる。アンナOは父親の病や病死に際して様々なヒステリー症状を呈していたとされるが、現代的な見地からは、トラウマを体験し様々な解離症状を呈していたものと見なせる。Breuer はアンナOのもとに頻繁に往診し、その治療に力を尽くしたが、特にアンナに対して語りによる治療を試みた点は異色であった。当時のウィーンではヒステリーの患者に対する催眠等のかかわりは試みられていたが、今でいう精神療法的な言葉による関りはほとんど行われていなかった。Breuer はアンナOがしばしば患者は催眠をかけられたような朦朧状態を呈することや、患者に過去のトラウマ体験を語らせることでしばしば症状が一時的に改善することを見出した。これがいわゆるカタルシス療法であり、いわゆる語りによる治癒 talking cure と呼ばれるものであった。

2026年10月7日水曜日

成田先生のこと 推敲 7  

精神分析における中立性や受け身性の概念は徐々に変化しつつある。たとえば逆転移はフロイトの時代以降は、不可避的に起きることで、むしろそれをよく理解する事が大切ということになった。また逆転移が行動に表れる現象については、以前は逆転移の行動化と呼ばれ、戒められていたが、最近は逆転移エナクトメントとして、それはある程度不可避的に生じるのであり、むしろ積極的に活用するようになってきている。そして特に大切なのは、それを俎上に載せるという傾向が、関係論にしばしばみられる一つの特徴といえるのだ。その意味で成田の考えは極めて関係論的といえる。
関係論的、とは結局形式にこだわらないということであるが、それはドグマに捉われず、つまり「治療は~でなければならない」にはとらわれず、患者が必要としていることをせよ、ということだが、これにはとても勇気がいることだ。

2026年10月6日火曜日

成田先生のこと 推敲 6

 ここで改めて成田先生は関係論的かと問うてみよう。私はそうだと思う。それは成田先生が自分の考えを患者に伝えることに非常に重きを置いているからだ。成田は「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木の会)同 p.3)という。  成田が掲げているこの二つの原則は、それ自体が彼の臨床感が極めて相互交流的 interactive であることを示している。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は心理療法を抽象的に捉えるのではなく、どのように患者にとって役に立つかを常に考えている。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、受け身的に話を聞くことは、効果的に患者に言い、患者に尋ねるための手段というニュアンスがある。  従来の精神分析では治療者が自分のことに目を向けたり、自分を語るのに非常に抑制がかかっていた。それは精神分析的療法それ自体が受け身性を基礎としていたからであろう。自由連想を促すことにより、自然と無意識内容が浮かび上がってくる、そして治療者が余計な口出しをすることはその無意識内容にバイアスをかける事につながるというのが精神分析である。

2026年10月5日月曜日

成田先生のこと 推敲 5 

ところでとある文献から貴重な文章をピックアップ。(成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木の会)他にも掲載しているであろうが目についた。
①「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」(同 p.3)
②「私は他人を羨望するという感情をあまり自覚していません。他人と自分を比較するという発想もあまりしたことがない。」(同 p.5)
③「それであなたはどうするつもりですか?」成田善弘(2012) 精神療法の深さ‐成田善弘セレクション 金剛出版,p.225

特に②に関しては色々考えさせられる。成田の治療者としてのたたずまいの素晴らしさはその謙虚さ、あるいはそれと表裏一体の「自信のなさ」が関係しているように思う。そしてそれは羨望があまり湧いてこないという恐らく成田本来の性格的な特徴が関係しているのであろう。ということはもうこれは知識やテクニックを越えた一種の資質の問題であることがうかがえるのだ。 これらをうまく使って文章を組み立てる。

2026年10月4日日曜日

成田先生のこと 推敲 4

秀逸な概念である「心の井戸」「その場の雰囲気さん」
 ここで先生のよく知られた概念である「心の井戸」と「その場の雰囲気さん」について述べたい。

<以下、殆ど修正する部分なし。省略。>


この概念はそれでさえ分かりにくい第三主体という概念を、この「その場の雰囲気さん」という和語で見事にわかりやすく表現しているといえる。

2026年10月3日土曜日

成田先生のこと 推敲 3

  このように考えつつ成田の著作を読むと、その基本的な考えはいくつかの項目に集約されるという思いが強くなる。しかし彼が漠然とそれを信条にして治療をしているというよりは、彼の中では一つのメソッドとして出来上がっているという印象を受ける。それが彼の「精神療法」を主たるテーマとした数多くの著作に表れている。それ等は(省略)。
 失礼ながらそれらの文章には繰り返しが多いので、どれが必読というよりは、どれを読んでも切り口には同じような主張が見られる。(その意味ではコフート的、という印象も持つ。)
 御存じの方も多いと思うが、成田は囲碁の達人であり、文学をこよなく愛したが本質的に理系人間である。彼の中では成田理論とでもいうべき体系が流れていたように感じる。
 しかし成田のこれらの理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near にどちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。そして大事なのは、そしてその根底に率直さ、正直さが流れているのだ。だから読者は常に我が身に引きつけて彼の文章を読むことができる。
 この正直さのゆえに、成田には自分の弱さや足りなさを率直に開示した逸話が多い。自分は昔孤独で人と交われなかったこと。運動が苦手だったこと。分析学会誌に原著論文を掲載していないのに会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。そしてそれに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りが薄いように感じる。つまり通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。
 だから成田には自分の理論を死守するために強弁するというところがない。しかしその臨床的な感性はかなり早くから既にあり、臨床経験を積み重ねる途上で出会う理論を場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念によっては語られない。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られるものである。
 成田の臨床的な感性についてもう少し触れようか。彼にはそもそも患者と出会うことそのものについての限りない興味があった。その最大の理由は、彼自身が患者の気持ちを良く感じることが出来たからであろう。そして特に患者の「わかってほしい」という気持ちにどのように応えるかに腐心した。成田が名大の先輩である伊藤克彦氏から教わった「患者というぬいぐるみに入れ」はその表れであった。しかしそれは患者に共感し一体化するといったロマンティシズムとは異なる。成田には患者を助けようとする殊勝な考え方はなかったというが、そこで何がどのように患者に作用するかということは恐らく成田の
最大の関心事であったようだ。