2026年2月18日水曜日

バウンダリーについて 9

  昨日の続きについて。ギャバ―ドさんの比喩はこのように考えてはどうか。彼は飛行機のパイロットである。もちろん彼は操縦には自信がある。しかし乗客をたくさん載せた飛行には重大な責任が生じる。その時「ビールの1,2本なんて平気平気」と一杯やってから(なぜか呼気チェックもすり抜けられて)操縦桿を握るだろうか?さすがに私でもこれはいけないと思う。そして患者との個人的な関係に入る事にも同様の問題が生じると論じるのであれば、これはまた別問題である。  しかしこれを論じているうちに、ギャバ―ドさんが言っている「タイムリリース」効果のことが重要に思えてきた。性的な関係はそれにどのような意味が後になって付与されるか分からない。その意味でそれは「のちになって効いてくる薬物のようなのだ。そしてそれは分析家の行動を(かつての)患者にとって決定的に外傷的なものにしてしまう可能性がある。そしてそのようなリスクまで冒して患者と個人的な関係を持つことは決して倫理的に許されないのだ。(ちなみにTimed-release(タイムリリース錠)は、薬やサプリメントの成分が体内で時間をかけてゆっくりと吸収されるように加工された,徐放技術の一種、という事である。)  このトラウマの事後性(こっちの表現の方がよく用いられるな)はもちろん性的な関係に留まらない。いくつかの例をあげよう。親子の関係でも、これまで一生懸命育ててくれた母親が年老いて介護が必要になり、娘にそれを請としよう。そして娘は自分の生活があるので、母親に施設に入ってほしいと言う。それに対して母親は言うのだ。「将来面倒を見てもらうために一生懸命あんたを育てたのに、何てこというの?」  もちろんこれをどのように聞くかは娘次第だが、彼女は衝撃を受けてもおかしくないだろう。「これまでの子育てはすべて、私を将来利用するためのものだったの?」  私は親子の間で交わされる会話は時には大変な誤解や曲解や、あるいは真実の吐露を含む可能性があると思うが、それは長年のお互いの情緒的なコミットメントがこのような一言で反転したり、被害的、加害的な意味付けが行われる可能性があるからである。そしてこれは男女の関係でもいとも簡単に生じる可能性がある。それはその関係性のどの時点でも、何処にさかのぼっても生じる可能性がある。「自分は長い間騙されていた」「自分は裏切られていた」「自分はただ弄ばれただけだった」・・・。  ギャバ―ド先生の論文に戻ると、境界侵犯を伴う治療者―患者間の個人的な関係は、はるかに時を経ても、例えば離婚等による破局の際にはもと治療者側が患者側から訴訟を受けるというケースを多く見てきているという。

2026年2月17日火曜日

バウンダリーについて 8

 ギャバードさんのある論文 (Gabbard GO. Boundaries, technique, and self-deception: a discussion of Arnold Goldberg's "Some limits of the boundary concept". Psychoanal Q. 2008 Jul;77(3):877-81; discussion 915-9.) を読んで考えさせられた。この論文で彼は、Arnold Goldberg (例のコフート派の有名な分析家であろう)の論文(Goldberg, A(2008)Some limits of the boundary concept. Psychoanalytic Quarterly. 77:861-875.)に対する批判を行っている。ゴールドバーグは「境界侵犯をしても被害者は出ないことはあるではないか」と述べる。つまり境界侵犯は必ずしも罪ではないのはそのような例があるからだという。そして上げるのは次のようなケースだ。

長年にわたる精神分析が終了した後、分析家と患者が結婚したとする。二人は合意のもとにそれを行い、それ以降幸せに暮らしたとする。これは何の問題もないではないか、とゴールドバーグは言う。
 これに対するギャバ―ドさんの反論はとても精緻なものだが、アナロジーとして彼が出しているのを読んで「?」と思った。彼はゴールドバーグの主張は、かなりの飲酒をしても事故を起こすことなく車を運転して帰宅したなら、その人に罪はないのか、というのに似ているという。

私はこのギャバ―ドさんの反論はどこか違っている気がするが、なぜだろうか?

先ず飲酒運転に関して。もし運転手がものすごくベテランで、自分が行きつけのバーでコップ2杯のビールを飲んだくらいでは全く運転技術に支障が出ないことを知っていたとしよう。(実は飲酒運転が合法であるどこかの国で、さんざん経験済みだとしよう。)そして帰宅先はなんと、直線距離50メートルくらい先だ(だったらどうして最初からバーに歩いて来なかったのか、と突っ込まれるかもしれないが。)これは問題だろうか?私だったら大して良心の呵責もなく50メートルの距離を「安全運転」して帰宅するかもしれない。いわばこれは「軽い」違法行為で、結構起きていることかもしれない。60キロ制限の道路を62キロで走行するようなものだ。

分析における境界侵犯の例として同じようなレベルのものを考えてみる。例えば分析家が分析の関係を終了させた後、患者をお茶に誘い、10分ほどよもやま話をして別れたとする。ただの一回だけだ。そしてその後はもう会わないとしよう。これは上の飲酒運転の深刻さになぞらえることが出来そうな気がする。もと治療者と患者が個人的な付き合いをしてしまった点は境界侵犯にあたるだろうが、患者の側に被害はないとみなせるし、その意味ではゴールドバーグの「被害者の出ない境界侵犯」の例と言える。(ちなみに精神分析の世界では、分析家の卵、つまり協会の候補生が卒業して分析家になった後には、自分の教育分析家と同僚の関係になり、一緒にクラスを教えたり、一緒に飛行機に乗って学会に参加したりするのが普通であり、この種の「境界侵犯」は日常茶飯事である。そしてそれが深刻な問題に発展したという話も聞かない。
 ここまでは飲酒運転のアナロジーは説得力がある気がする。しかし‥‥(続く)

2026年2月16日月曜日

バウンダリーについて 7

 ギャバードさんは精神分析の草創期におけるフロイトの弟子たちの過ちに対して、フロイトはその火消しに躍起となっているとし、その例を山ほど挙げている。しかし最後にフロイトも聖人では決してなかったことを強調している。フロイトは性的な意味での境界侵犯こそなかったが、それ以外の境界侵犯についてはそれをいくつか行っていたことが知られる。一つよく知られるのは娘のアンナに対する分析を行ったことであるが、アンナも自分のことをケースとして報告して分析家となったという意味では決して単なる犠牲者であったわけでもない。それでも彼女は自分が父親に報告した夢が無断で使用されたことについて不満であったとギャバ―ド先生は書いている。  フロイトの境界侵犯については、比較的最近になって明らかになったホレイス・フリンクをめぐる問題の方が強烈だ。私がこのブログでちょうど10年前に書いたもの(2015年12月31日)を再録しよう。

[このいわば「フロイトスキャンダル」とでもいうべき問題は]私がメニンガー・クリニックで精神分析のトレーニングを受けている頃に明らかになったものである。1990年の3月にそれが公表された新聞(New York Times, 1990316日付) のコピーをスタッフが競って読んでいたのを思い出す。

 これはフロイトがある患者に対して行った治療に関する新たな史料が発見されたことに起因しているが、そのあらましを記してみよう(Edmunds, 1988)1920年代にホレイス・フリンクというアメリカの精神科医が、自分の精神の病の治療をかねてウィーンでフロイトの分析を受けた。一世紀以上も前の話だ。フリンクは当時、自分自身の患者である既婚女性アンジェリカ・ビジューと関係を持ってしまっていた。
 このフリンクによる分析治療が問題だったのは、こともあろうにフロイトはフリンクに、彼自身も妻と離婚して、アンジェリカも夫と別れさせた上で二人が結婚するように勧めたということだからだ。つまりフロイトは患者と関係を持ってしまっている自分の患者に、それを制止するどころか、それをさらに教唆したということだ。そしてそこにはある金銭的な事情がからんでいたらしいというのが、この一連の話のポイントである。
 そこにはアンジェリカが銀行の跡取りである大資産家であったということが関係していた。フロイトはフリンクに、「あなたは潜在的な同性愛者であり、しかもそれが顕在化してしまう恐れがあり、それを防ぐためにはアンジェリカと結婚する」必要があると説いたという。そしてフロイトは、フリンクにさらにこう言ったという。「あなたが自分の潜在的な同性愛に気がつかないということは、私を金持ちにしたいという願望に気がつかないことと同じだ。」そしてアンジェリカとの結婚による資産を精神分析に寄付することを迫ったというのだ。しかし二人の結婚はそれぞれのもとの配偶者の人生を狂わせ、フリンク自身も精神病を発症し、それほど犠牲を払った結婚はすぐに破局を迎え、フリンクはその後非業の死を遂げることになる。アンジェリカの夫はフロイトを告発する文章を新聞に出そうとするが、結局はその機会のないままに病死をしてしまう。これらの経緯から見て、フロイトが彼らの人生を破壊してしまったといっても過言ではなさそうである。

以上の事実は、フリンクの娘の調査により明らかになったという。そこで見つかったフロイトからフリンクへの直筆の手紙が何よりもの証拠になったのである。非常に筆まめなフロイトがみずから招いた不幸とも取れようが、もちろんフリンクをはじめとしてこの一連の悲劇に巻き込まれた人々が最大の被害者であることは言うまでもない。

このような経緯を見る限り、いわゆる「フロイト神話」は崩れる一方にあるとしても無理ないであろう。1980年以降、公にされる資料や行われる研究はほとんどが、フロイトが理想的な治療者とはいかに異なっていたかについて明らかにする。なぜこのようなことが生じるのだろう? 私たちはそれでもフロイトを「信じる」べきだろうか?

ただしこの種の疑問は的外れなのであろう。なぜならその背景にあるのは、私たちの持つ、過度の理想化に走りやすい傾向だからだ。もとよりフロイトは高潔で公平無私の人間などではなかった。特別高い倫理観を備えていたとも言い難いところがある。冒頭で述べたとおり、フロイトを理想化し、その人間としての偉大さを強調しようとする限りは、それを否定するような材料はこれからでも続々と出てくる可能性もある。またこれは後に述べることだが、フロイトの人間性についてその完璧さを願いつつ資料に当たっても、結局はその倫理性に関してはむしろ俗人に近い印象を受ける。ではフロイトの何がすごかったのか? 彼の真価はどこら辺にあったのだろう?

2026年2月15日日曜日

バウンダリーについて 6

  引き続き精神分析の草創期について。ギャバ―ド先生は言う。「精神分析の歴史の早期には、分析家たちは患者の向ける転移の強さに驚いたが、逆転移の意味についての理解が洗練されていなかった‥‥」え?そういうこと?という事は分析理論が十分でなかったから「患者の強烈な転移ゆえに」境界侵犯が起きたという風に理解できる。しかしだったら後になって精神分析の理論がより発展して、その結果として問題がなくなったのかと言えば、そうではない。境界侵犯や治療者による患者の性的搾取の問題は起きるべくして起きているのだ。ただし一つ違うのは、ユングやフェレンツィなどの様に悪びれることなく境界侵犯を行うケースは減ったという事であろうか。現代では境界侵犯は倫理的に大変問題であると自覚し、またそのように扱われることも知っているのだ。でも秘密裏に依然としてそれは起きていると考えるべきであろう。どうもこのギャバ―ド先生の説明にも「誘った患者が悪い」的なニュアンスが透けて見えるようだ。  1118ページには大切なことが書いてある。精神分析には誘惑の要素が確かにあった。Friedman が述べているように、フロイトは精神分析が患者からの恋愛転移に力を得て進められるというような考えを持っていた(p.1119にあるように、フロイトは性愛的な魅力を治癒を真に導くものと考えた。Freud regarded erotic attraction as the true vehicle of cure….)。患者からの愛をそれに代わる代替物(それ自体があまり定義されていないが)を与える形で治療が進むとしたら、治療者が返すものの中になにがしかの「愛らしきもの」が必然的に混入することになり、これは境界侵犯にきわどく迫る事になりはしないか。こんなことを考えていたフロイトはやはり問題だろう。  精神分析では患者との個人的な関係に関しては、治療を終えてからはよろしい、とか終えてから一定期間が経ったらよろしい、などと考えた時期もあったが、ユングとシュピールラインの関係がそうであったように、そのような約束は何にも意味をなさなかったのだ。


2026年2月14日土曜日

バウンダリーについて 5

 ギャバ―ド先生の、古典となっている論文がある。

Gabbard GO. The early history of boundary violations in psychoanalysis. J Am Psychoanal Assoc. 1995;43(4):1115-36.

そこには精神分析の草創期にいかに多くの分析家たち(フロイトを除いた著名人のほぼ全員)が境界侵犯を犯していたかが描かれている。フロイトとユングやフェレンツィ、A.ジョーンズとの書簡集は精神分析の研究の歴史の中では遅くなってから公開されたが、そこには精神分析の歴史の偉大な先輩たちの様々な境界侵犯の例が描かれている。 ギャバ―ド先生はこれらの問題はもはや隠されるべきではないという自覚が生まれ、またこの問題がごく一部の人々に限られているのではなく、私たちすべてがそれに陥る可能性がある all of us are potentially vulnerable.(1116) と述べている。ちなみにこの表現は重要だ。私が「男性はしょうもない」と自重を込めて言う時はまさに同じことを考えている。もちろん「私もそのような問題を犯しかねない」と言っているのではない。「私もそのような問題を犯しかねないリスクを負っている」と言いたいのである。別の意味では私たちは当事者側なのだ。
 さらにギャバ―ド先生は言う。離婚や家族の死やほかの破局的な出来事の際には、いかに分析を受けてエキスパートと呼ばれる人でも判断を誤る可能性があるという(1117)。ただしこう書きながら私は思うのだ。ギャバ―ド先生はこれによりかなり加害者を免責しているのではないか。私の考えでは慢心や油断や自己愛によりそのような問題が起きやすいと言えないであろうか、という事である。


2026年2月13日金曜日

バウンダリーについて 4

 前回は臨界状況について述べた。それはそこで相転移が起こりかけている状況だと言った。だからこそエキサイティングで不安を誘い、事件性を秘めている。そしてその臨界状況を超えることは時には breakthrough になり、ときにはトラウマティックである。

ところで「臨界」と聞いてまず想像するのは、例の原発ではないか。ちょっとググってみると、最近ではAIの模範的な回答が出てくる。

「臨界(Criticality)とは、原子力発電において、核分裂の連鎖反応が一定の割合で自発的に持続している状態のことです。この状態を原子炉内で制御棒などを用いて安全にコントロールし、エネルギーを取り出すのが原子力発電の仕組みです。一方、制御不能な状態で臨界に達すると、大量の放射線や熱が発生する「臨界事故」となります。」

私は少し前までは、臨界事故=核爆発だと勘違いしていた。さすがに臨界事故ではそこまで行かないが、メルトダウンがその結果であり、チェルノブイリ事故や福島の原発事故のようになる。(しかし臨界を超えた最大の事故といえば、メルトダウンどころではない、まさに核爆発であり、それを実は人為的に引き起こすのが核兵器という事になるだろう)。

というところでここからは(多少強引だが)boundary violation 境界侵犯の話になる。これがわれらがG.ギャバ―ドさんが若い時から扱っていたテーマの一つである。  


2026年2月12日木曜日

明日の授業の準備

 明日のとある授業のために、ルイス・アロンの「心の出会い」を久しぶりに読んでいる。アロンの本の特徴を一言でいえば次のようになるだろうか?


本書の一番のテーマは、「治療者の主観性」を現代的な精神分析ではどのように扱うのか、という事に尽きる。古典的な考えによれば、患者は自由連想で即興で、衝動的にものを言い(つまり「一次過程」をそのまま表現し)
、治療者は客観的でバイアスのない中立的な観点からその自由連想にコメントや解釈を加えるという図式が成立している。つまりこちらは完全に二次過程である。いわば分析家は患者の心を見通すことが出来ると考えていたわけである。それも患者の意識だけでなく無意識過程も。ところが患者だけでなく治療者も、衝動的で主観的であることがわかってきた。両者は変わらぬ、生身の人間だからだ。それを分析家たちはしぶしぶ認めるようになった。考えても見よう。裁判だってあれほどの冤罪がある。分析家だって同じだ。だから謝った人間観により打ち立てられた精神分析理論を脱構築しなくてはならない事になる。

それにしてもよく書かれた本である。