2026年11月1日日曜日

成田先生のこと 番外 1 

 成田先生に関する執筆は一応終わっているのだが、色々な連想がいまだに湧いてくる。結局成田の「正直さ」「白状する」の背後にあるのは、人間はみな同じであるというサリバン流の理解ではないかと考えるようになった。例の「心の井戸」論とも結びつく。下に降りていくと「寂しさ」という点で苦悩を患者と共通するという考え方だ。人と人との理解の背後にあるのは、この同型性 isomorphism の感覚ではないか。動物だって同種の間ではお互いに捕食せずに群れる傾向にある。同様のDNAと本能の共有をしているという感覚が、他者とのつながりへの希求を生む。すると人がなかなかAIとの間に分かり合えたという感覚が成立しないとしたら、それはそれで無理のないことであろう。  しかし成田のこの患者との同型性の問題は博愛主義とはかけ離れたものである。それは自分を理解するということともつながっている。自分という生き物を理解するためには、自分一人ではできない。同型の他者が必要となるわけだ。他者の中に自分を見出し、自分の中に他者を見出すという現象。その意味で他者は自分の心を映す鏡というところがあるわけだ。人は通常、他人は自分とは異なるという前提を持つ。他者とはその視線で自分を突き刺す存在として立ち現れるからだ。その他者は異様で不気味であり、いつ自分に襲いかかってくるかもわからない。増してやその他者が自分のことなど分かってくれないと思うのが自然ではないか。その意味で他者は最初は常に向こう側(「他極」)に存在する。ところが有難いことに乳幼児は「自極」由来の他者を味方につけている。それは最初は自分とつながっていて、徐々に「自分ではない自分」としての他者の様相を呈するようになった他者、すなわち母親である。母親のことをわかると感じられるのは、最初は自分と別れていなかったからだ。だから自分が痛いと思う時、母親はそれを自動的に察知することを前提としていた。このように「自極由来の他者」をプロトタイプとして持つことで、人はようやく正真正銘の他者をも扱うことができるのであろう。もちろんこういう時はその人は程よい母子関係を持てたことが前提となっている。かつては甘え、自分と一心同体のように思えていた人との体験が、正真正銘の他者もひょっとしたら自分と同じかもしれないという発想を抱かせるのであろう。  ところが不幸にしてその様な体験が持てないと、他者は何をしてくるか分からない不気味な存在であり、その他者が仕掛けてくることはみな自分を害することのように感じられる。もちろん生存のためにはこの「人を見たら泥棒と思え」というこの感覚こそがわが身を救ってくれるわけであるが、その場合他者は決して一緒に安らぎを体験できる人にはうつらない。  さて治療関係においては患者は不思議な体験をする。目の前の治療者は自分の味方であるという前提がある。それは当然ながら自分を救ってくれるであろうし、そのためにお金を払って通ってくるのである。しかしその治療者は自分の話を深堀りし、値踏みし、時には馬鹿にし、軽蔑するかもしれない存在でもある。味方の振りをして、実は御金を巻き上げるだけのペテン師かも知れないのだ。そのような治療者を前にして自分の苦悩を語っても、決して親身になって聞いてくれない可能性がある。どうやってそんな治療者を信頼することなどできるだろうか?  さて患者の話を聞いている治療者の側はそれを逆の側から考えている。自分は治療代を頂いて患者の話を聞く。しかしその自分に何が出来るのだろうか? 患者は苦しみを話す。しかしそれは治療者自身の苦しみではない。それをわかろうとして傾聴するが、決してその苦しみを同じレベルで感じ取ることは出来ない。そしてそこに最大のジレンマが存在する。治療ってなんだろうか?自分はそのような力や権利をそもそも持っているのだろうか?  ここで本文にも引用した成田の言葉を示す。

「治療的野心とは、より根本的に、完全に、徹底的に直したいという治療者の欲である。その背後には、患者の心を切り刻みたいというサディスティックな欲求が時にひそんでいる。こういう治療者の欲が深すぎると、患者の負う傷が深くなる。少なくとも患者の従来の殻や枠が壊されて生身が露呈してしまう。こういう事態を引き起こした治療者は罪の意識を感じるであろう。精神を治療しようなどそもそも罪深いことである。」(p.71) (成田(2012)精神療法の深さー成田善弘セレクション 金剛出版 p.65₋79)

 つまり成田が言っているのは、この精神療法にひそむ根源的なジレンマについて語っているのだ。そしてそれに対する唯一の扱い方は、それが否認している一つの事実、すなわち治療者もまた人間であり、その意味では患者と何も変わらない、という事実なのであろう。

 

2026年10月31日土曜日

成田先生のこと 推敲 27

 そもそも精神療法の実態は極めて漠然としたものである。患者と治療者は対話により患者が持ち込む問題の解決を模索するが、その内容も、その解決のされ方も漠然として言語化しがたいことが多い。患者の側は、毎回のセッションでの治療者とのかかわりが心地よく感じられるか、それとも無意味に感じられたり腹が立ったりするか、といった自分の中の情緒的な反応でしか、そこで起きていることを感じ取っていない可能性がある。
 ただし患者の多くは、少なくとも治療者は治療で何が起きていて、どのような方向に進んでいくかについて明瞭な意図や考えを持ち、それをもとに自分を導いてくれていると想像する。「先生は何をしてくれているのですか?」という上述の患者の質問は、ある程度理由があってのものである。しかしまた同時に、患者は治療者が生身の人間であることをどこかで十分知っており、自分の持ち込む問題を解決できないかもしれないという一種の覚悟や諦念を持っているかもしれない。それは自分が持つに至った問題の責任の所在は自分にしかないということを知っているからだ。だからこそ患者は「いくら治療を続けても少しもよくならない」と治療者を責めるのは、どこか無理筋であることを、たいていの患者は気が付いているのである。そして治療者に「すみません。私の力不足です」と「白状」されることで、患者は結局自分の問題に責任を持つのは自分自身なのだという冷たい現実に立ち返ることになる。つまり治療者の「白状」は、患者が治療者に過剰に期待していたことへの気づきを促すことになるのである。
 治療が成果を結ばなかった場合に、その時間は果たして無駄だったのだろうか?それでも患者の多くは治療者が誠意をもって治療を試みてくれたことでそれなりに諦めがつくものだ。治療は成功しなかったがある種の治療関係が築けたという記憶は残る。そこでは治療者と患者がお互いに同じ人間であるということを確かめる。成田の言う「心の井戸」すなわち「治療とは患者の心の探求というよりは、治療者がともに心の奥深くまで下りていき、そこに『一人ぼっち』であることを見出すことである」とはこのような体験をさすのであろうと私は考えるのだ。もとより見事な解釈が華々しい成果を生むというプロセスを、成田はあまり信じていなかったのであろう。その代わりに治療者が「正直に言う」ことが心の井戸」の体験を共有することにつながるとしたら、成田はそれでよしと思っているに違いない。 

最後に

  私がこの一文を依頼されたことは大きな意味を持っていた。私はいかに自分が言いたいことをほぼそのまま成田先生(敬称に戻す)が語ってくれていたかを知ったのである。いや、そういうのはおこがましい。明らかに成田先生は私が臨床上考えていたことをはるかに奥深く考え、言葉を残していった。成田先生が残した膨大な文章をこれから一つ一つ丹念に読んでいきたいと思う。そして彼ほどではないにしても「自由さ」をさらに獲得していきたい。



「甘え」は本当に受け身的か?

  ところでこの甘えの受け身性に関してはかつて議論の焦点となったことがある。甘えに関する論争としては、当時ニューヨーク在住の精神科医竹友安彦との間でのそれが知られるが(竹友, 1988, 土居,1988)、そこでの中心となったテーマがこの甘えと受け身性の問題であった。この詳しい内容については割愛して要点のみを述べるならば、発端は竹友が同じ留学仲間である意味ではライバルでもある土居の甘えについての批判的な論文を発表したことである(竹友、1988)。土居自身がそれへの反論の中で「氏の方が私の説を全面的に否定する以上、私も氏に対して対決姿勢を取らざるを得ない」(甘えさまざま、49)とまで述べている以上、その対立は苛烈を極めたものであったと言える。その否定的な文脈の中で、竹友は「甘えの概念はすこぶる曖昧であるとした上で、「甘えは受け身に愛されたい動機である」と書いた。これは土居自身が用いた表現を竹友が引用した形になるが、それに対して土居はこう応答した。「確かに自分はそうは定義したが、甘えは決して受動的ばかりではない」(土居,1988)。土居は甘えの概念に関して竹友が匂わせた「単なる」受け身性という雰囲気に反発したのであろう。そして次のように述べている。  「『甘える』には『愛される』という受動態が入っているのは事実としても、この言葉が自動詞であること自体、そこにある種の積極性、主体性が含まれる」(p53)。そしてさらに「ただ愛されているだけでなく、愛されることを子どもが楽しんでいることを示唆している」という。   ここで土居が甘えの概念が含意している、単なる受け身性を越えた能動性について苦心しながら表現しようとしている気持ちは私にはよくわかる。確かに「甘える」はそれ自身は積極的な態度を含んでいるようである。それが私が「能動的な受動性」と表現した甘えの性質である。


2026年10月30日金曜日

成田先生のこと 推敲 26

 「正直に言う」ことの臨床的な意義 

  この成田の正直さの持つ臨床的な意義についてもう一歩踏み込んで考えてみたい。先ず前提として、成田はこの「白状」をやみくもに行うとは言っていない。それは治療者が窮地に陥った時に初めて意味を持つ可能性がある。そのような時、たいてい治療者は自分の能力を正面から問いただされて防衛的になっている。患者からの「先生は何をしてくれているのですか?」「全然状態は改善しないではないか?」等の問いかけに、治療者は明確に答えられないどころか、それらはどこかしら正当な訴えである気がするだろう。
 このような状況で治療者は別の気持ちも持っていることが多い。「精一杯頑張っている自分が患者に
どうしてここまで責められなくてはならないのか?」という無力感や理不尽さである。
 このような状況で治療者が自分の気持ちを「正直に言う」としたら次のようになるかもしれない。「おっしゃるとおり、私はここでは治療者として十分なことはできていませんね」。ただしそれを開き直って堂々と言うのではなく、「大変残念なことではあるが」というニュアンスを含める方がより「正直」であろう。ただし治療者が同時に持つ理不尽さまで口に出してしまってはおそらく台無しであるので、それはひかえておく方が無難だろう。
 無論多くの治療者はこのような「白状」をすることには抵抗を感じるものだ。それは何よりも治療者自身が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるからであろう。しかしこの「白状」が最善かどうかは別としても一つの重要な選択肢であることは確かだ。何しろこのような状況で治療者はただ沈黙で応えるというわけにはいかないのだ。精神分析家なら「そのように問いただすことであなたは何を求めているのでしょう?」とボールを相手のコートに打ち返すかもしれない。しかしそれを防衛手段として用いるならば、それを察知した患者は追及の手を緩めないだろう。 
 ところで成田が実際に挙げている「白状」の例にはそれなりの良好な結末が描かれているものの、実際にはケースバイケースであろう。中には患者の怒りに拍車をかける場合もあるかも知れない。「やはりそうなんですね。ではもうここには伺いません!」と席を立つ患者の姿も思い浮かぶ。
 ただしそれでもこのように治療者の方が武装解除することは、ある種のポジティブな変化を患者の側にもたらす可能性があると私は考える。それはどういう意味においてであろうか。最後に成田になったつもりでその理由を考えたい。

2026年10月29日木曜日

成田先生のこと 推敲 25 

 しかしまた同時に、患者は治療者が生身の人間であることをどこかで十分知っており、自分の持ち込む問題を解決できないかもしれないという一種の覚悟や諦念を持っているかもしれない。それは自分が持つに至った問題の責任の所在は自分にしかないということを知っているからだ。  例えば子供の肺炎を看病していて自分も感染してしまった母親を考える。そもそも肺炎になった子供に責任を転嫁しても始まらない。あくまでもうつってしまった自分の問題だとして受け入れ、不注意に誰か身近な人に感染させてしまったとしたら全面的な責任感を覚えるだろう。そして内科を受診して抗生物質を出されても治らないとしても、それで内科医を訴えるという気持ちは普通はあまり起きないであろう。「すみません、起炎菌の推測を誤りました」と医師に謝られても、「普通の抗生物質が効かないような変な菌に感染した自分が悪いのだ」と思ったりするのである。  同様のことは精神科医もよく経験することだ。患者さんの鬱状態に対して、ある抗うつ剤を投与する。そして残念ながら吐き気がするばかりで何も効果が得られない場合、「私の出した薬が効かずに申し訳ありません」という気持ちをにおわすと、多くの患者は「とんでもありません。先生のせいではありません」という反応を示す。どこかに自分の鬱状態について最終的に責任を取るのは自分でしかないという気持ちがあるからであろう。  精神療法にも同様のことが言えると私は考える。「いくら通ってきていても、先生は私のことを分かってくれないし、少しも良くしてくれない」と治療者を責めるのは、どこか理不尽なことであるということを、たいていの患者は気が付いているのである。そして治療者に「すみません。私の力不足です」と「白状」されることで、患者は結局自分の問題に責任を持つのは自分自身なのだという冷たい現実に立ち返ることになる。つまり治療者の「白状」は、患者が治療者に過剰に期待していたことへの気づきを促すことになるのである。

2026年10月28日水曜日

成田先生のこと 推敲 24 

 (承前) 私はここに二つの意味があると考える。一つにはそうすることで患者が治療者の弱気で怯えている部分を初めて垣間見ることになり、それが治療関係を大きく変える可能性があるからだ。患者が治療者に不満をぶつける時、大抵は治療者の側はびくともせず、むしろいくら言っても聞く耳を持たないのではないかという思いがあることが多い。権威的な相手に容赦なく不満や怒りをぶつける時、相手に一矢くらいは報いるという感覚はあっても、それ以上の衝撃を与えているという実感はないものだ。ちょうど幼児が母親をボカボカ殴りつける時 、幼児は母親をあたかもそのくらいではビクともしない存在であるととらえているであろう。つまりは相手を生身の人間とは見ていないことになる。そしてその意味で治療者と患者の関係は対等であるには程遠いのだ。

 すると治療者が弱気で動揺している部分を「白状」することで、患者は治療者を自分と同じ弱さを持つ対象として、つまりは等身大の人間として見ることにつながるかもしれない。つまり現実に一歩近づくわけだ。そして治療者に詰問する中で表現していた怒りによる相手のダメージのことを思い至り、後ろめたさや後悔の念に駆られるかもしれない。
 ただし私はこの理由が問題の本質にかかわっているようにはあまり思えない。もう少し別の理由が、それも精神療法の在り方そのものに関係した事情がそこにあるのではないかと考えるのだ。

 このもう一つの意味は、以前述べた精神療法の持つ曖昧さと関係してくる。精神療法はある種のサービス業だと私は考えているが、実はその実態は極めて漠然としたものである。患者と治療者は対話により患者が持ち込む問題の解決を模索するが、その内容も、その解決のされ方も漠然として言語化しがたい。そして患者も治療者もそれをどこかで意識している。患者の方は自分が治療に望むことが多くの場合不明であり、また治療者とのかかわりがどのように作用してそれが改善ないし悪化しているのかもよくわからない。患者が比較的明確に感じるのは、毎回のセッションでの治療者とのかかわりが心地よく感じられるか、それとも無意味に感じられたり腹が立ったりするか、といった自分の中の情緒的な反応であろう。そして時々は治療者の言葉が強く印象に残ったり、自分の気持ちを分かってもらえたという満ち足りた感覚を抱くであろう。しかしそれにより傷つき、不信感を抱く結果となることもある。そしてそのような時、多くの患者は治療者は治療関係の中で何が起き、どのような方向に進んでいくかについて、自分よりは明瞭な意図や考えを持ち、それをもとに自分を導いてくれていると思うだろう。つまりは治療に通うということを積み重ねることにどのような意味があるかを、少なくとも治療者の側は理解し説明できることを期待しているのである。


2026年10月27日火曜日

成田先生のこと 推敲 23 

  さてこのような状況での治療者の本音を考えよう。例えば「確かに自分はこの患者のことをよくわかっているとは言えない。少なくとも簡潔に今起きていることを言葉に言い表すことはできない。その意味では確かにこの患者の言うとおりだ。」と考えているかもしれない。  そこで正直にその気持ちを「白状」したとしよう。たとえば「おっしゃるとおり、私はここでは治療者として十分なことはできていませんね」と言う。もちろんそれを開き直ったように堂々と言うのではなく、「大変残念なことではあるが」というニュアンスを込める必要はあるだろう。  ところが普通治療者はこのような「白状」をすることには抵抗を感じる。何よりもそうすることが自分にとって不利になると感じるからだ。それは治療者自身が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるからであろう。  しかしこのような時、治療者は別の気持ちも持っているはずである。「自分は一生懸命この人の話を聞いている。しかしそれでも『わかってもらえていない』と思われるとしたら、いったい自分はどうしたらいいのだろう?」という当惑の気持ちである。さらには「精一杯頑張っている自分が患者にどうしてここまで責められなくてはならないのか?」という怒りも感じるかもしれない。

        <以下略>