2026年3月10日火曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 9

  さて米国に移り体験したことは、簡単には言えないが、精神分析の構造や境界は、そこにしっかり引かれていながら、しばしば平気で破られているという現実であった。「境界は破られてナンボのもの」というところがある(誤解を受けやすいが)。そのことへの疑問が後の「治療的柔構造」の概念に繋がるのであるが、ここら辺をまだきっちり書いたことはなかった。この機会にまとめてみよう。  一対一の対面で行われる通常の精神分析の治療だけでなく、精神分析的なメソッドを用いた入院治療も存在する。メニンガー・クリニックでの入院治療がまさにそうであった。しかし私がそこで目にしたものは、まさに治療構造で患者をがんじがらめにするという傾向であった。患者は一日のスケジュールを学校の生徒の様に一時間目から決められる。一時間目はグループセラピー、二時間目は木工作業、3時間目は全体ミーティング、4時間目は治療者との精神療法や精神分析、などと言う風に(もちろん時間割は個人個人で異なる)。患者は入院した時からLOR(責任レベル)という一種の地位を与えられる。入院当初の一番低いレベルでは外出が許可されず、参加できる活動は制限される。精神科入院で、入院したててまだ具合の悪い患者の多くが保護室から出発するのと似ている。徐々にスタッフとの付き添いでの外出OK、そのうち二人の患者一組で、最後に一人で自由に、という風に進む。つまり上に行くほど制限が緩んでいくわけだ。そしてそれぞれの段階で許可されること、されないことがしっかり規定されている。入院してからの患者は治療が順調に行けば「昇格」していくが、その態度によっては降格もある。他の患者に暴言を吐いたりスタッフと喧嘩をしたりすると、1,2ランク落ちることにもなる。表現は悪いが患者にとっては獄中の生活のようだった。

 患者の多くは社会適応が出来ていた人だから、当然これらの治療構造により定められた制限に不満を覚え、それを様々な形で表現する。個人およびグループセラピーでは患者がそのようなフラストレーションを体験しながらどのように自分を律し、またその不満をどのように合理的に表現するかという事が扱われる。基本にあるのは無意識を扱う精神分析的な考え方なので、当然ながら患者の表現されない、あるいは意識化されていない不満や怒りも検討の対象となる。そしてその不満や怒りをこのようなランク付けにより誘発しているというニュアンスも少なからず感じた。  このようなスタッフと患者の関係は、さながら分析家と患者のような、中立的な立場から観察し、管理する分析家の側とそれに従う患者の側というニュアンスがあった。味気ないというか、型にはめられたというか。何よりもそこに患者の自由や、治療者との生きた交流が感じられない。そしてそれを全体として支えているのが、治療構造という名の規則であり、境界であった。その境界は動かすことのできない、「剛構造」的なそれであった。  精神分析治療のメッカとして世界的に有名なメニンガークリニック。さぞかしすごいことが行われているだろうと思ってきたわけだが、そこで行われている「治療」とはこのようなものなのか・・・・。私は疑問を感じながら一年半の見学生としての生活を送った。それから国家試験に受かってアメリカでの精神科レジデントのプログラムに潜り込むことが出来て、その給料で家庭を支えて精神分析のトレーニングに入ることが出来たというわけである。そしてもう少し徹底してこの治療構造の意味を見定めることになる。それからだんだんわかってきたのは、この剛構造的な治療構造が意味がないという事ではなく、それがあって初めて破られることの意味が浮き彫りになるという事だった。   

2026年3月9日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 8

 2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

 ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即したバウンダリー論となる。バウンダリーの概念は極めて奥が深く、およそどのような文脈からも論じられるだけに、何らかの文脈に沿わない限り、具体的な話が出来ないからだ。それに私が本稿で述べたいテーマであるバウンダリーの両義性の問題にたどり着いた過程を示すためには私の個人的な体験について述べることがベストであるからだ。

 ちなみに私の属する世界で用いる精神分析では、バウンダリーはシンプルに「境界」、そしてそれが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界についての私の意識が生まれたのは、私が精神分析と出会った時である。その少し前に精神科医になっていたわけだが、精神科医としての臨床の仕事に特にこの問題は関わってこなかった。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 ある時患者さんが分析治療の開始に3分遅れたという話になったが、そこでS先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人は無意識に治療に抵抗しているんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。かねてから人の心に興味を抱いていたから精神科を選んだわけだが、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の無意識にことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくはこの患者の遅刻のことを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。
 人が約束の時間に少し遅れて来るなんてことはいくらでもある。3分どころか10分の遅刻もあるし、場合によっては3分早くついてしまうこともある。かと思えば絶対にその時刻ぴったりに来る人もいる。私自身だってそうだ。でもそれが起きるたびにその無意識的な理由について問う事に意味があるのだろうか? 確かにその患者が3分遅れた時には、治療者に会うことに心のどこかで抵抗していたのかもしれない。

 しかしほかにも遅刻の原因は山ほどありえるだろう。電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。決まりが少し破られること(大げさに言えば「境界侵犯」)は偶発的にいくらでも起こりうる。その一つ一つを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか?事実その日S先生とのケース検討は、この最初の遅刻の部分で大部分の時間を費やしてしまったのだ。
 そうこう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。
 何ともはや単純で理系的な発想である。しかし私はその頃はまだ精神分析は一種のサイエンスだと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の分精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では3分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」私はそれに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ. Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時の彼の返事は忘れられない。彼はあきれたように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー?」と私。「そういう事か。精神分析のトレーニングを受けるとはそのような深い意味があるのだ…」
 私が3年後にアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「これこそ心の探求のための真の道筋なのだ。」


2026年3月8日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 7

 昨日の文章(バウンダリー6)を書いているうちに少し方向性が見えてきた。章立ても浮かんできた。

1.バウンダリーの起源

2. そもそもの問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」

3.バウンダリーの本質としての両義性と「治療的柔構造」の概念

4.境界侵犯と相転移、トラウマ


1.バウンダリーの起源


 バウンダリーの歴史についての考察という事で原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深いテーマである。精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場である私にとってはとりわけ関心を持たざるを得ないテーマであるため、その立場からの考察になる。
 私にとってのバウンダリーの問題はとりわけ二つの意味において重要である。一つには精神分析や精神療法において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているということだ。そしてもう一つは、そのバウンダリーが乗り越えられたり侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。そこでこれらの二つのテーマについて主として論じることとする。
 最初にバウンダリーの問題は広く深いと述べたが、その原型は私たちが持つ身体そのものに関連している。私達は身体が自由に動ける一定の範囲の空間を必要とする。私たちは常に収まりがよく、活動のしやすいような身の置き所、空間を探しているのだ。いわゆるパーソナルスペースと呼ばれるものに近い。そしてそこに他者が表れて同じような空間を必要とするなら、両者の境目の問題は必然的に生じる。そしてそれは身体を持つ(「受肉している」存在、ないしは生命体)であれば進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁を見回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物は自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩く。他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだ。そしてそれは生物としての私たちにも同様である。それは日常生活のあらゆる面に関わってくる。しかし新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況でしかあまり意識化されないかもしれないが。

 この様にバウンダリーは他者と生きる私たちの身の安全を保つためにやむを得ず引かれるものというニュアンスがあるが、それはまた社会生活を営む私たちにとっては利便性の面でも重要になってくる。一日の時間をバウンダリーを設けることでいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは隣人達と活動を共にする上では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。その意味でバウンダリーの歴史はそのまま人間としての私たちの社会の発展とともに細かく張り巡らされ、その上に載って私たちは生きている。そうして大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。

2026年3月7日土曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 6

 やがて私は米国にわたり精神分析のトレーニングを受けるうちに、私の疑問や迷いは実は正しかったんだと思うようになる。  私の中では深まっていったこの境界に関する考察から明らかなことは、私の論じていることは境界(侵犯)の問題には留まらないという事だ。あらゆる人間の些細な言動は、偶発的な側面と必然的な側面を併せ持つ。治療時間に5分遅れることには、偶発的な原因(電車の乗り過ごしなど)以外にも必然的な部分がある。後者は例えばその人の「ちょっとくらい遅れても大丈夫だろう」という気のゆるみのせいかもしれず、それなら5分遅れはある程度意図的に選択されている。ただしこれは「治療に抵抗している」という以外にも「治療を軽んじている」とか「治療者に甘えている」かもしれない。そしてどれがどれだけ関与しているかはとても複雑な問題で解明のしようがない。さらに、である。そのうちのどれが無意識的で、どれが半ば意識的かを知る由もないことが多い。

 ただその中にその意味を明らかにすることが治療的な意味を持つものが含まれる。例えばこれまで遅刻のなかった患者が5分遅れて何も理由を告げないとしたら、そこに何らかの非偶発的(必然的)原因がある可能性を治療者は頭に置いて治療を進める必要があるのだ。

 このような意味での必然的な些事は境界が定まっていることで、それの乗り越えを感知することが出来、そうすることで意識的に取り上げることが可能になる。その意味で治療が構造を有することは必要なのだ。もし私の研修医時代の精神分析研究会の様に、だいたい8時くらいに始まり、S先生自身が平気で15分遅れてくるような設定では、そこに意味を考えることは出来ないだろう。

 このように考えると、巷で言われるような「治療構造は守るべき原則である」のニュアンスが大分違ってくる。治療構造は、守られるべきものとして私たちを縛るという意味を持つのは確かだ。でもそれは「守るべきもの」ではない。それがあることでその存在を意識させるようなもの、である。それは一方で私たちが無構造の世界に生き、なにものにも制限を加えられずに自由奔放に生きるという方向性に対して向こうから「待った」をかけてくるもの、規範、決まり、法律、習慣、不文律などと呼ばれているものである。そして両者のせめぎあいにより私たちの生活は成り立っている。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」、後者を「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と名付けた。分析家のホフマンは前者を自発性、後者を儀式とした。

 治療の開始時間について言えば、午後2時(が開始時間であるとしよう)という境界は、それを守ろうとする力と破ろうとする力のせめぎあいが起きることだ。それが生じるようにポンとそこに設定されているに過ぎない。この際開始時間が早まるという事を治療者が選択しないのがふつうであるから、守ろうとする力と遅らせる力のせめぎ合い事が起きる事になる。おそらく治療者の側がその境界をしっかりその場所に留めようと力を入れているだろう。そして患者はそれを遅れるという形で押してくる。治療者は時には力を緩めて境界線を外に広げるかもしれない。患者の側はそれを意外に思って力を緩めたり、逆にここぞとばかり押しまくるかもしれない。つまりそこで色々なせめぎあいが起きるだろう。
 たとえば「すみません、ちょっと電車を一本乗り過ごして・・・」と呟きながら遅れて入室した患者に「そうですか、大変でしたね」と治療者が応答するという事で終わるかもしれない。しかし何らかの理由で治療者がプライドを傷つけらてムッとして、「大事な時間が無駄になりますよ…。今度から気を付けてくださいね」と言う。それに対して患者が「細かいことを言う人だな。」と反応したり「しまった。先生に失礼なことをしてしまった。」とヒヤッとしたりするといった境界をめぐる駆け引きが行われ、そのような形で開始時間2時という設定が維持されるのだ。

私が「治療的柔構造」と言う概念でこのような境界の意味を論じた時に、それは単なる数字や決まりではなく、生きた境界であるという側面を重んじたことになる。

 研修医時代の疑問に戻ろう。「患者が5分遅れたら、それを抵抗とみなす」という教えはその時は目からうろこであった。でも「それがセイシンブンセキだ」と考えたのは全くの誤りだった。より真実に近いのは次のようなことだ。「治療時間に患者が5分遅れた場合、治療者がそれに対してどのように反応し、それに対して患者がどのように返すか、という一連のやり取りが生じ、それを一緒に検討する事に治療的な意味があるだろう。」
 ここには、患者の5分の遅れが、偶発事なのか意図的なものなのか、あるいは無意識的なものなのかを決定する必要は存在しない。どちらでもありうるのだ。しかし治療者がそれをどのように感じるか、そしてそれをどう扱うか(自分の心に留めるか、患者にそれを表現するか)、そしてそれを患者がどう感じ、どう返すかにこそ意味がある。それをなるべく明示的に、つまりお互いにオープンに話すのだ。(もちろんしつこ過ぎてはよくない。患者がそこに意味を見出せない場合には、かえって治療関係に逆効果だろう。)そしてそれは最近の精神分析でよく語られるエナクトメントの理念と同じなのである。


2026年3月6日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 5

 このテーマに書いているうちにいよいよ迷宮入りし、どうしてもエッセイ風にならざるを得ない。要するに考えがまとまっていないからだ。テーマから脱線する形になるが、しばらく書き進めるしかない。

 境界についての私の考えが変わったのは、おそらく境界を守るとはどういうことかについて徹底して考える機会を持ったからだと思う。きっかけは私の研修医時代にさかのぼる。
 新人の頃、私は精神分析にとても興味をひかれたが、同時に精神分析に全く無知であった。つまり何となく精神分析という言葉や雰囲気に魅かれたのである。そして精神科医の新人を集めた精神分析研究会に参加し始めた。そしてそこで小此木先生の門下生であるという先輩医師のS先生とケース検討をしていて、この境界という問題に出会ったのだ。
 そこではある患者さんが5分ほど開始時間に遅れた事について話していたが、S先生は次のようなことを言った。「この患者さんが治療時間に5分遅刻してきたのには無意識的な理由があるだろう。つまり治療に対する抵抗なのだ。だからこの遅刻は分析の対象になるのだ。」それを聞いたときは私には目からうろこだった。心に興味を抱いていたとはいえ、それまでは日常的な些細な出来事に潜むであろう人の心の動きにことさら「意味」を見出すことはなかった。そして「そ、そうだったのか‥‥!」と感心したわけである。そしてしばらくは常にそれを念頭に置いて考えるようになった。こうして一週間ほどずっとそれを考えていたが、そのうち疑問にぶつかった。

 例えば患者が5分遅れてくるという類のことは日常的に起きる。逆に5分早く訪れることもあるし、いつも定刻ぴったりに表れる患者もいる。そして私自身が何かの約束に5分遅れることもあるのだ。それが起きるたびにその無意識的な理由について問う事は極めて難しいのではないか。
 患者は5分遅れた時には、私と会うことに無意識レベルで気が進まなかったのかもしれない。しかしほかにも原因は山ほどあるだろう。5分の遅れは電車の遅延でも、患者が家を出てから忘れ物に気がついて取りに帰った場合にも起きるだろう。つまり境界侵犯(少し大げさだがこう呼ぼう)は偶発的にいくらでも起こりうる。患者はそれ以外にも時間を延長したがるかもしれないし、支払いをしぶるかもしれない。つまり「通常なら~はずである」という想定から外れるような出来事は一回の面接に山ほど起きるのだ。境界侵犯はあらゆるところに満ち溢れている。そのうちどれを分析的に取り上げるべきかを考えだしたらきりがないのではないか。
 そう考えているうちに一つひらめいた。「そうか、精神分析では、とにかく患者が少しでも遅れたら、とにかくそれは治療に抵抗している、という仮説に基づき無意識の探求をする手法なのだ」。何ともはや単純で理系的な発想だ。しかし私はその頃はまだ精神分析は学問だと思っていた。そこには明確な方法論があり、それを行うための手法が定まっていると思っていた。だからそのように結論付けるしかなかった。

 そこで次の精神析研究会でS先生に次のように聞いたことを覚えている。「つまり精神分析では5分遅れた場合には治療に抵抗している、という仮定で治療を行うというわけですね。」それに対してS先生からの「その通りだよ。それがセイシンブンセキだよ.Welcome to the club.」という返事を期待したわけである。ところがその時のS先輩の返事は忘れられない。彼はあきれたように、無知の初学者である私を窘めるように言った。「いや、もちろんそれはケースバイケースだよ。明らかに偶発的で、治療の抵抗とは考えられないのに、それを治療で扱うことはないよ。」(「そんなの当り前じゃない?どうしてそんなことを考えるの?」という口調であった。)

 それに混乱した私はS先生にさらにこう聞いた。「でもどの場合に治療への抵抗を意味し、どの場合には偶発的なものとわかるんですか?その判断の根拠は何なんですか?」すると彼は決定的なことを言ったのだ。「それがわかるようになるために精神分析のトレーニングを受けるんだよ。」「えー、そうか‥‥」。  私が医学部を卒業後5年経ってアメリカに精神分析を学びに留学した時点では、私はまだこのレベルにとどまっていたと思う。「自分の無意識を知れば、患者の無意識もわかるようになり、患者の無意識の抵抗もわかるようになるんだ。「これこそ心の探求の真の学問だ。」しかし一抹の疑問は抱えていたのである。



以下、延々と続くので省略




2026年3月5日木曜日

共感とその限界 3

  (承前)

 このAIからの返答を読む限り、これは相手を「褒める」ように指示されているというよりは、マナーを守ってより高い水準のコミュニケーションを成立させようと言う試みの一環であることがわかる。つまりこういうことである。AIが目指すようにセットされているのは、対話者(すなわち人間)と少しでも質の高いコミュニケーションを達成することであり、単に相手を褒めていい気持ちにさせて会話を切り上げる、というような短期的な目標によるものではない。むしろそのような短期的な目標を持つのは常に人間の側である。  例えばある交渉事を有利に進めたい場合には、相手を少しでも持ち上げて警戒心を下げ、こちらの言い分が通るように話を持って行きたいかもしれない。あるいはそのような功利的な目標を持っていなくとも、普段の会話の中で相手の優れた点を指摘することは、それにより相手からの感謝や好意を向けられることで自分もいい気持ちを味わいたいということであろう。つまりそれは結局はこちら側のエゴである。  ところがその種の感情を持たないAIの場合、そのような目先の目標は意味をなさないのである。AIは首尾よく会話を切り上げよう、などとは考えない。感情がそもそもないからだ。むしろどのように話者と長期的な意味で質の高いコミュニケーションを維持するかという事を追求する上で、「相手の主張のポジティブな部分は積極的に評価する」はいくつかあるほかのストラテジーと並列して存在するのであろう。そしてそれはその通りなのである。私たち一人一人が自らに問えば当然、相手に自分の主張のポジティブな面をとらえ、それに言及して欲しいであろう。ただしそれを自分から対話者に対して行うかどうかは全く別の問題である。私たちはみな多少なりとも自己愛的であり、自分が与えるより多くのものを相手から享受したいと思い、普段はその事実に気がつかないのだ。そしてAIにはその種の自己愛は存在しない。


2026年3月4日水曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 4

  それにしてもこのバウンダリーの話、もう3週間ほど書いているのに、話は広がるばかりで一向に収束していく気配がない。まず一通り書いて、それから推敲していく、という波にすら乗れないのである。結構難物を抱え込んでしまったらしい。

 とにかくここで一生懸命に言おうとしているのは、精神分析では一方で境目を重視し、それを守ることを推奨しながらも、他方ではそれを破る、乗り越えることを目指すという矛盾した営みであるということだ。そしてそれが精神分析を複雑でかつ多産的な試みにしているのである。  そのような精神分析的な関りに関して、私が一つ提案した概念があった。それが「治療的柔構造」という概念である。実はこの概念は大野裕先生の発表した論文が最初である。さらには単なる「柔構造」という概念については建築関係で、特に耐震構造の文脈で議論されている。つまり概念としては私のオリジナルではないことはお断りしておきたい。  私のこの概念についての著作は2008年のものであるから、もう18年も前の話である。(「治療的柔構造 心理療法の諸理論と実践との架け橋」岡野憲一郎 岩崎学術出版社 2008)

 そしてこれは精神分析に出てくる境界という悩ましい概念をどのように理解すべきかを考えていくうちに出てきた概念だ。  この「治療的柔構造」では私はこんな議論をした。「精神分析ではとにかく『治療構造を厳守せよ』と叫ばれているが、そもそも治療構造は破られてナンボではないか?」。  こう書いてみると非常に乱暴だし誤解を生みやすい。よくこんなことを書いたものだ。でもその時頭にあったのは以下のような内容だ。  境界は実は何かに刻印されて動かないのではない。それは出来上がってしまった後にはそのように見えるが、実際の生(なま)の境界はその時その時で揺らぎ、互いの交渉により最終的に決まっていくものである。それを遵守することを治療者が求めても、例えば「セッションは一回50分ということになっていますから」と言って一秒も延ばすことが出来ないとしたら、それはそのような構造を治療者の側が押し付けているというニュアンスがあることを認識すべきなのだ。構造を設定しておくのは、両者にとっての利便性のためであり、もっと言うと多くは治療者の側の利便性や都合によるものだ。