どうもうまく書けていない部分があり、何度も書き直している。文章を書くとは本当に厄介な作業だ。
解離は脆弱性か、それとも能力か?
解離をトラウマに対する防衛機制や防御反応としてとらえる場合、その発症機序はトラウマ理論でしばしば用いられるモデルにどれほど適合するのだろうか?いわゆる Stress-diathesis model(ストレス―脆弱性モデル、SDモデル)は、ストレス因に当人の脆弱性が関係して発症するというモデルだ。このモデルはその内容に多少なりとも変更は加えられているが、精神疾患の発症を説明する標準的な理論とされている。
しかし解離はこのモデルでは十分説明ができない可能性がある。上述の「生き延びる価値」の例として挙げたOBEは、当人が仮死状態のようになってその場をしのぐ機制として理解される。これはその個体の闘争能力が一瞬にして奪い去られるという意味では脆弱性としてとらえられなくもない。ところがDIDの臨床場面でしばしば見られるのは、危機的な状況で別の人格(交代人格)が登場し、その状況に対応するという様子である。そしてその交代人格はあらかじめ存在していて、かねてから主たる人格を内側から観察していたという事情が、その交代人格から語られるのである。
さらには人格のスイッチングは危機的状況とは逆の、安全性が保たれた治療関係においても生じる。その場合には治療者の受容的な態度や治療室内のぬいぐるみやクレヨンなどに反応して、子供の人格が「遊びに」出現するという様子が見られるのだ。
以上のような交代人格の形成のされ方は、脆弱性と理解することは難しく、むしろ創造的なプロセスと見なすことが出来よう。Putnamの言う「解離の生き延びるための価値」は、危機的状況においてのみ発揮されるのではなく、その個人の適応を永続的に促進するという意味を持ち、その意味では解離はある種の能力や創造性と考えることができるのではないだろうか。なおこれらの二種類の人格の出現の仕方については、のちにポリヴェーガル理論との関連で再び論じる。
創造の過程としてのイマジナリーコンパニオン
上述の心にあらかじめ交代人格が形成されているという現象は、いかにして生じるのであろうか。そのヒントとなるのが、いわゆるイマジナリーコンパニオン (イマジナリーフレンド、以下 IC)であろう。IC は周囲の人にはその存在が感じられないものの、本人にとっては実在していると体験される「空想上の友だち」である。人間や動物、ぬいぐるみ、あるいは架空の生き物の姿をしており、当人は一緒に遊んだり会話をしたりする。ICは健常な子供に広く見られ、ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告されている(Pearson, 2001)。
ICの存在自身はその子供の病理を反映するものではなく、基本的にはその子を助け、恐怖を和らげたり補助自我的な役割を演じる(Putnam, 1989)。その数は通常は二人以内で、ともにいて居心地の良い存在である。ただしICはDIDのように交代人格となって当人に代わって表に現れることはなく、ただDIDに見られる人格間のスイッチングの素地を作っていると考えられるのである。
ちなみにDIDにおいても幼少時にICが報告されることが多いが、それは通常よりより高い頻度で見られ(McLewin, LA, Muller, RT (2006)健康な発達に見られるICに比べてネガティブな要素を有し、その数も多く、本人の体をコントロールしたり行動を強制するといった性質が報告されている((Huolman, M, Peltonen, M, 2022))。ともかくもICがこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間にほとんどデフォルトとして備わっている能力と考えることは出来ないであろうか。
このICが形成されること自体が心の驚くべき創造性を表していると筆者は考えられるが、それは実はよくあることであり、特に驚くに当たらないと思われるかもしれない。実際ある人のイメージを心に抱くことが出来、時にはこちらから語りかけ、向こうからも何らかのメッセージが伝わってくるように感じられる。そのような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。
ところがICはある意味で新たに創造された対象であり、しかも当人が作り上げたという実感は伴わない。それはいつの間にか形成され、ひとりでに動き出して自主性や主体性を獲得しているのである。そしてここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。ICが動き、語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局はその子供の脳のどこかに存在するとしか想定しようがないころになろう。つまり一般人におけるICの存在は、私たちが複数の主体を脳内に持ちうることを明らかにしているのである。