「正直に言う」ことの臨床的な意義
この成田の正直さの持つ臨床的な意義についてもう一歩踏み込んで考えよう。先ず前提として言えることは、成田はこの「正直に言う」や「白状」をやみくもに行うのではないということだ。それは特に治療者が治療場面で窮地に立った時に意味を持つ可能性がある。そのような時、たいてい治療者は防衛的になっている。それは治療者としての能力を正面から問われるような事態だ。「先生はどう思っているのか?」「先生は何をしてくれるのか?」「全然状態は改善しないではないか?」「今の私の問題をどのように捉えているのか?」「先生の見立ては何なのか?」等であろう。そして治療者はそれに明確に応えられない状況に立つ。それらの患者からの問いかけはいずれも正当なものであると一方では認識する。しかし他方では明確にそれに対して答えられない。患者の中で何が起きているのか、治療者患者間で何が起きているのか、患者さんの問題をどのように見立てているのか、いずれもあまりに複雑で、不明瞭で、時には不可知的である。分析家であれば、それを理屈で説明しようとするかもしれない。分析理論を用いて、例えば「あなたは父親への感情を私に移し替えて(転移して)いるのでしょう」など。しかしそれが妥当でないとしたら、それは治療者が言っている傍から、あるいは患者が聞いている傍から嘘くさく感じられてしまう。
結局こういうことだ。患者の心で正確に起きていることも、自分と患者の間で起きていることも雲を掴むようで理屈で説明は出来ない。しかしあたかもそう出来ているようにふるまっている。それは精神療法家、あるいは精神科医として看板を掲げて、患者が相談に訪れ、治療者が時間を取り、その分の料金を受け取っている以上当然期待されることである。しかし心理療法の世界では確かなことは何一つ存在しないと言っても差し支えない。例を挙げよう。
患者「最近気分がふさぐんです」
治療者「どのようなことがあったんですか?」
患者「よくわかりません。でもこの九月の長雨が関係しているのかもしれません。」
治療者「いつも季節の変わり目や天候の崩れが気分に影響していますか?」
患者「そんな気もしないでもないですが。あと最近仕事でストレスを抱えているというのも関係しているのかもしれません。よくわかりませんが。」
治療者「なるほど・・・・」
とこんな感じで会話が重ねられていく。どこでも聞かれそうな会話の断片である。しかしこのような調子で話が続いた場合、治療者は患者の気持ちの塞ぎをどの程度理解し、どの程度確証をもってそれを説明するのか。精神科医だったら「そういえば五苓散という漢方が効くことが多いので、お出ししましょうか?」「お願いします」でお茶を濁すこともできるだろうが、心理療法ではそうもいかない。患者の気持ちの塞ぎはそれがある明確な出来事に関連して起きているのではない限り、治療者にとっても、患者自身にもその理由や対処法がわからないことが多い。
このような会話が終わった後、普通患者は「ではまた次回もお願いします」と料金を支払って帰ってくるかもしれない。そしてその患者が「結局30分お話を聞いてもらっても、ただのお喋りみたいだし、何の解決にもなりません。お金を返してください」とはならない。ところが時にはそれが起きてしまう。半年も一年もこのようなやり取りが続いた挙句、その日に特に気分がすぐれない患者がある日治療者にその不満をぶつけるかもしれない。「ここにきて一体なのが変わったのか分かりません。先生は何をしてくださったのですか?」それまで毎回一生懸命傾聴を続けつつ、出口を見出せない気持ちになっていた治療者は、たちまち患者の詰問の矢面に立たされるだろう。