創造の過程としてのイマジナリーコンパニオン
心にあらかじめ別のアイデンティが形成されるという現象ははたして起きるのであろうか。そのヒントとなるのが、いわゆるイマジナリーコンパニオン (以下、 IC)の体験であろう。IC はイマジナリーフレンドとも呼ばれ、周囲の人には感じられないものの、本人にとっては実在していると感じられる「空想上の友だち」である。人間や動物、ぬいぐるみ、あるいは架空の生き物の姿をしており、当人は一緒に遊んだり会話をしたありする。ICは健常な子供に広く見られ、ある研究では5から12歳の一般人の二人に一人が幼少時にこのような体験を持つと報告されている。
Pearson D, Rouse H, Doswell S, Ainsworth C, Dawson O, Simms K, Edwards L, Faulconbridge J. Prevalence of imaginary companions in a normal child population. Child Care Health Dev. 2001 Jan;27(1):13-22.
Huolman, M, Peltonen, M (2022) Dissociative features related to imaginary companions in the assessment of childhood adversity and dissociation: A pilot study, European Journal of Trauma & Dissociation,Volume 6, Issue 4.
ICの存在自身はその子供の病理を反映するものではなく、基本的にはその子を助け、恐怖を和らげたり補助自我的な役割を演じる(Putnam, 1989)。その数は通常は二人以内で、ともにいて居心地の良い存在である。ただしDIDにおいてはその幼少時には通常よりより高い頻度で現れ(McLewin, LA, Muller, RT (2006)健康な発達に見られるICに比べてネガティブな要素を有し、その数も多く、本人の体をコントロールしたり行動を強制するといった性質が報告されている((Huolman, M, Peltonen, M (2022))。ともかくもICがこれほど多くの人々に見られるということは、このような解離のプロセスは大多数の人間にほとんどデフォルトとして備わっている能力と考えることは出来ないであろうか。
このICの存在は解離という心の働きの驚くべき創造性を表していると考えられるが、それは一般人にはあまりピンと来ないかもしれない。心に誰かのイメージを抱くことは極めて自然で一般的なことと考えるのが普通かもしれない。そのような心の働きは精神分析ではいわゆる内的対象像として記載されるであろう。それはいわば「瞼の母」的な存在であり、その人のことをイメージで思い浮かべることが出来、時にはこちらから語りかけ、向こうからも何らかのメッセージが伝わってくるように感じるかもしれない。
つまり内的対象とは実在する重要な人物を心の中に写し取ったイメージである。ところがICはある意味で創造された対象であり、ひとりでに動き出してある種の自主性や主体性を獲得しているのである。ICとしての縫いぐるみと会話をしたりするときは、それはあくまでもその縫いぐるみのキャラを持っているわけだ。絵本の「こんとあき」で言えば、「こん」は「こん」であり、実在するそれを心に思い浮かべているわけではない。
ここでもう一歩想像力を飛躍させる必要がある。「こん」が動き、あることを語りかけてくるとき、その主体はどこにあるのか。それは結局は「あき」の脳の中にあるとしか想定しようがない。つまり「あき」の脳の中に「こん」の主体が宿っているのである!
もちろんこう言うとたちまち反発が来るであろう。「そんなことはないだろう。あきはこんの言いそうなことを想像して言わせているに過ぎない。だからこんの主体性など考える必要はないのだ」。しかし両者は明確に異なり、それはちょうど表象と知覚の区別に似た議論になる。例えばリンゴを思い浮かべる(表象)。そのリンゴを眺めまわしても、何ら驚く部分はないだろう。それはあなたが作り出したからであり、そのリンゴを回してみたら、そこに虫が食っていたのを発見して驚く、ということはあり得ない。しかし知覚像の場合には、自分の想定を裏切る側面を見せるのが特徴であり、それが知覚の他者性である。
このように考えると、実はICは実に驚くべき現象であることがわかる。少なくとも解離性人格の存在に驚くのと似たレベルの驚きが伴っても不思議ではない。(もっと言うと夢を見るという現象も、実は驚くべきことである。そこには様々な他者が予想外の振る舞いを見せるからである。)