2026年4月12日日曜日

バウンダリー論 推敲の推考 14

 この部分はかなり修正をした。

3.バウンダリーの概念の深化と「治療的柔構造」


 渡米してからの臨床経験を通じて知ったことは、それまで持っていた「治療においてバウンダリーは守るべきものである」という考えと現実との大きなギャップであった。臨床においてバウンダリーはしばしば、それも当たり前のように破られるのである。そしてどのような場合に患者の抵抗の表れで、どのようなときに偶発的なものかをかぎ分ける嗅覚も、さほど鍛えられなかった様に思う。その代わりに学んだのは、精神分析に関わるバウンダリーの問題は、実は開始時間に留まらず、ありとあらゆるものに及んでいるということだった。
 分析的な治療に際しては、それこそ分析家に必要な態度としての受け身性や匿名性に留まらず、分析家の声の抑揚、挨拶の仕方、頷く調子などもそれぞれの治療関係により概ね定まっている。そればかりか面接室の冷房の効き具合、枕の柔らかさなどもほぼ一定に保たれることで安全で安心な環境を提供する。そしてこれらは一定のレベルや範囲を超えないという意味ではことごとくバウンダリーの問題としてとらえることができる。
 小此木先生自身も、治療構造を分類し、眼に見えないものの治療者と患者により体験されているものを内的な治療構造とし、それ以外の眼に見える外的な治療構造と分けて論じていたのである。つまり私のそれまでの治療構造の概念の理解が浅過ぎたのだ。

 そしてむしろ次のように考えるようになった。

 バウンダリーはそれ自体が定まっていることで、それをめぐる微妙なやり取りが患者と治療者の間に繰り広げられる。そしてその駆け引きには患者だけでなく、治療者もまた参加しているのである。つまりバウンダリーは実際には固定されていず、柔らかく変動するのだ。これが後に私が「治療的柔構造」と呼ぶ考え方となったわけであるが、このような考え方も小此木先生の論文にはその原型が記載されていたのである。この柔構造的な考え方を説明するために、ある例を示そう。


(以下略)


2026年4月11日土曜日

バウンダリー論 推敲の推考 13

 実に不思議なことだが、あれほど迷走したバウンダリー論だが、ようやく収束してきたのである。締め切りまで3週間を切っているので本来はこの頃にはもう眼鼻はついているはずだが、これも結局そうなった。しかしかなり不本意で、まとまりのないエッセイという自覚はある。むしろ書かない方が紙の無駄とならずに済んだかもしれない‥‥。


バウンダリーの本質 ― 臨床の立場から


1.はじめに-バウンダリーの起源を問う


 最初は「バウンダリーの歴史」というテーマでの執筆をお引き受けしたが、改めて考えるとバウンダリーとはとてつもなく広い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には全く力不足だと判断した。そこで精神科医であり精神分析を専門とする立場からこのテーマに関する臨床的な考察を書かせていただくことにした。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているのは間違いないであろう。身体を有する私たちは、比較的自由に動ける「身のおき所」を常に必要とする。もしすぐ隣に同じような他者がいるなら、たちまち両者の境目、バウンダリーの問題が生じる。それは身体を持ち動き回る生命体であれば、進化のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。サバンナで自分の尿を草木にかけてテリトリーを守る哺乳類も同様だ。そしてもちろん私たち人間も同じ問題を抱えて生きている。新幹線や飛行機(グリーン車やビジネスクラスは除く)で隣の乗客とを隔てる細い肘掛けの奪い合いは、多くの方が体験しているであろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性も提供してくれる。一日の時間を区分したり一年をいくつかに分けるバウンダリーは、共同生活を営む上では必然となろう。ただし絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じた時に食物を採集する生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずである。
 こうしてバウンダリーは生物として、そして社会の中に生きる私たちの生活のあらゆる場面に浸透している。それは国境や土地の境界線としていたるところに存在するし、法律や条例、あるいは校則や社則や服務規定として、さらには道徳律や宗教における教義として存在する。それはあまりにも遍在し当たり前すぎて、改めてそのようなバウンダリーの存在意義について考えなくなっているほどなのだ。


以下略



2026年4月10日金曜日

バウンダリー論 推考の推考 12

 5.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。個人の中ではそれを超えるか超えないかの葛藤(ホフマンの言う「弁証法」)が生じている。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、それをめぐって両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして名目上のバウンダリーは常にその破壊や修復が生じるとも言える。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、一方ではそこで遊びや創造性が発揮され、その意味で極めて豊饒で生産的な場となる。しかしそこはまた、予測できずに唐突に踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかを駆け足で触れておこう。

 先ずはバウンダリー上での遊びや創造的な発見について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の庭から一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。彼はまだ自宅の庭のバウンダリーである垣根を超え出たことのない。彼はいつもは「一人で外に出てはいけませんよ」という母親の教えを守っているが、しかしその日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている庭のほんのちょっと外を見てみたいと思う。母親はたまたま家事に忙しく、こちらに注意を払っていないようだ。
 そこで幼児は門の隙間から足を踏み出してみる。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに外に踏み出すだろう。彼の好奇心や探求心は、多少の不安や恐怖に抗われつつも、ジワジワと彼の行動範囲を広げて行く。この段階では、幼児はこのスリルを明らかに楽しんでいると言えるだろう。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してさらに何歩か進んでみる。すると何軒か先の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼は新たな世界を発見したのである。
 しかしこのバウンダリーを踏み越えるワクワク体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほど遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知り、突然不安に襲われる。思わず「ママ―!」と叫んでみるだろう。しかしこれまでは何があってもすぐに飛んできてくれる母親の姿はそこにはない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。その時の幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型といってもいいだろう。

 この様にバウンダリーを踏み越える体験は突然の事件につながる可能性がある。それは喜びや興奮と表裏一体の恐怖や絶望を生むこともあり、バウンダリーの侵害という状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとはその付近で二つ(以上)のちからの均衡を生む。それは一見安定して動かないように見えながら、実はその内側に大きな力が加わっていることが多い。ちょうど太陽が中心部からの核融合による膨張力と、他方で自身の重力による縮圧とのバランスであの大きさを保っているように。あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことで一挙に破滅が生じる可能性があるのだ。バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっているが、今回はそれに触れることは出来なかった。

2026年4月9日木曜日

バウンダリー論 推考の推考 11

 4.治療におけるバウンダリーの本質

 上の精神分析の例は何を示しているのか? それは2時という治療開始時間が明確にバウンダリーとして存在することで、それをめぐる患者と治療者の間のやり取りやダイナミズムが生じるということだ。これは「2時ぐらい」という大雑把な開始時間の場合にはなかなか生じ難いことだ。そしてそれは治療の開始という作業が実際には人間により行われるために、そこに偶発的、ないしは心理的な様々な要素が入り込む余地が生まれる。
 もし治療者も患者もロボットの様に毎回2時きっかりにドアがノックされ、治療者が間発入れずにドアを開けるというような「剛構造的」な仕組みが存在するならば、そこには何の力動も生じようがない。それはちょうど時間に厳密なテレビ放送で、2時の前後の二つの番組のディレクターどうしにはもめごとが起きないのと同じだ。しかしそこに生身の人間が関与している以上、両者の綱引きが生じ、実際の開始時間は名目上のバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、毎回が一種の妥協の産物として「柔軟に」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。
 そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーの実態はもっとしっかりとした、太くかつしなやかなものとなって行くのだ。そのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自らを示す。理想的に言えば心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、いざとなったら自己防衛のできる人間としてそこに存在し続けるのだ。

 このように描かれたバウンダリーの在り方を私は柔構造的、と言い表しているが、もしそうでなく、剛構造的なバウンダリーの在り方はどのようなものになるだろうか?実は私が日本を発つときに考えていた治療者のイメージがそれに相当するのだ。治療者がバウンダリーを定め、それを患者が守るかを観察する番人としての役目を果たすのだ。その考え方は、実際の治療開始時刻などのバウンダリーが治療者と患者の様々な思惑でぐらぐら揺れるという現実をあまり考慮しない場合の考え方ということが出来るだろう。

 よくよく考えると治療構造にはこのように硬いバウンダリと柔らかいバウンダリーの二種類があることになる。たとえば料金(一回1万円としよう)は普通は揺らぎようのないバウンダリーだ。患者は「今日の分析家は少し眠たそうであまり聞いてもらった気がしないので、9500円だけ振り込んでおこう(銀行振り込みによる支払いの場合)とはならない。あるいは今日は疲れたからちょっと近場で分析を受けようとはならない(そんなところにオフィスが移動するわけはない)。

 さらに言えば、分析的な治療には、いつもだいたい決まっていて明文化されてはいないが「内的な」構造というのはいくらでもある。分析家の声の調子、頷きの頻度、オフィスの暖房の効き具合、カウチの枕の柔らかさ等ことごとくがだいたい定まっていて、見えないバウンダリーとして機能しているおかげで分析のセッションに安全な環境となっている。そしてそこにあらゆる力動が入り込んでいる余地があるのである。

 ところで柔構造においてバウンダリーを前後に押す力は何に由来するのか。これについて論じている分析家がいるのでその考えを引用しよう。トピックとしては少しマニアックだが面白いテーマだ。

 例えば開始時刻2時の10秒前に患者がブザーを押した時、治療者の反応として二種類を示した。一つは「ちょっと早いな。でもいいか。多めに見よう!」という反応であり、そこには治療者の鷹揚さや大雑把さが反映されるであろう。しかし他方では「治療開始時間は厳守しなくては。しばらくはドアを開けずに定刻まで待とう」という超自我的な抑制も働く。このようにして私たちの行動はバウンダリーをめぐって自由で規則に捉われない自発的な方向性と、それをかたくなに守るという厳密に規則を守ろうとする強迫的な方向性を有する。いつもこの両方がせめぎ合って最終的な行動が決められていく。
 ちなみにこれは個人の心の中ではほとんど常に起きていることだ。起床する時は目覚まし時計の鳴る音に触発されて自らを律して寝床を飛び出そうとする力と、それを無視してもうひと眠りしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
この種のせめぎあいについて、アメリカの精神分析家アーウィン・ホフマンは前者を「自発性spontaneity」,後者を「儀式 ritual」 としたのだ。そしてこの二つがいわば弁証法的にせめぎ合うものとして人間の行動を大胆に描いたのである。

 しかしこの種のせめぎ合いは、治療開始時間の様に二者が関係している場合には一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」され、いくつもの要素が絡む。そこでは患者の「開始時間に少しぐらい遅れたっていいだろう!」という方向性には、自身の「いや、きちんと時間を守らなければ」という儀式性が拮抗するであろうが、それはまた治療者の側の「開始時間を厳守すべし!」という儀式性も加勢するだろう。患者はそれを当然感じ取っているはずだ。しかし他方では「遅刻してしまえ!」は治療者の側の「自発性」によって後押しされている可能性もある。治療者にも遅刻を大目に見てあげようという気持もあり、それは彼が昔子供の頃に遅刻をしても咎められずに済んだ時の安堵感が反映されているかもしれない。あるいは時間厳守を強要された過去への反動が関係している可能性もあるだろう。こうして患者の遅刻は数え上げただけでも4つの異なる力のせめぎ合いにより実際の遅刻という行動としてあらわされるのである。


2026年4月8日水曜日

バウンダリー論 推考の推考 10

  ある患者の精神分析のセッションが、午後2時に開始し、2時50分に終了するという設定を考える。つまり治療時間は2本のバウンダリーにより挟まれていることになる。そして3時までの10分間は治療者が記録をつけたり洗面所を使ったりするための休み時間である。この場合日本ではしばしば患者は「ちょうど2時」に治療者のオフィスをノックする(あるいはブザーを鳴らす)という申し合わせがなされているのが普通だ。なぜなら治療者の私的なオフィスでは、家賃の都合上待合室は用意できないからだ。  さてこの「ちょうど2時」という設定をめぐってさまざまなことが起きるのだ。まず治療者は当然ながら2時きっかりか、それ以降のノックには素早く反応して患者を招き入れなくてはならない。なぜなら彼の2時からの50分はいわば患者への「売り物」だからだ。  ただし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは、2時以前に関しては異なる意味を持っている。つまり患者の少し早めのノックに反応するか否かについては、治療者の側のある程度の裁量がある。たとえば患者が2時きっかりより5秒だけ早くノックしたとしよう。治療者が「まあいいか」と多めに見てドアを開けることはよくあるだろう。患者の時計が数秒だけ進んでいたのかもしれない。こうして2時より5秒どころか10秒、20秒前のノックでもドアを開けることは治療者の側の「持ち出し」としては十分にありうるのだ。  しかし治療者は2時より2,3分ほど早いノックにはそれほど鷹揚にはなれないだ。治療者はそれをルール違反と感じ、それについては無視するか、「しばらくお待ちください」と声をかける事になるだろう。そもそも前の患者さんがその終了時間がなぜか遅れに遅れてまだ立ち去っていないかもしれないからだ。  このような意味で治療者にとっての2時というバウンダリーは後ろ向きには弾力性が乏しく、前向きにはよりしなやかであると表現できるだろう。そして前向きのしなやかさは、治療者のサービス精神、あるいは大雑把さなどとかかわっていると言えるだろう。  さて興味深いことに、患者にとってはその2時というバウンダリーのこの弾力性の向きが治療者のそれとは逆であることがわかる。患者にとっては、2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それに2,3分遅れることで治療者の側もほんの少し延びた休み時間にほっとしているかもしれない。しかし遅刻はまた治療者の機嫌を損ねるかもしれない。患者があからさまに5分ないし10分遅れることは、治療への抵抗だと思われかねず、さすがになかなか実行できないかもしれない。  それに比べて患者は2時以前に、例えば5分前にドアをノックすることにはよほどの事情や勇気が必要だろう。治療者はさぞかし迷惑に思うだろうし、第一ドアを開けてもらえないだろう。契約違反を犯しているという感覚も伴うはずだ。このように患者にとっての2時というバウンダリーは、後ろ向きには弾力性があり、前向きには弾力性に乏しい、という治療者のそれとは逆の関係があるのだ。この後ろ向きの弾力性は患者の自由さの発揮、自発性、治療者への反抗心などを反映していると言えるだろう。  さて実際の治療場面は、患者と治療者の双方がこれらのニュアンスを様々にまといながらバウンダリーをめぐる駆け引きを行う。そして現実の治療開始時刻は揺らぐものなのだ。その意味で治療構造は実際には「柔構造的」と言える。こうして私はすでに大野裕先生が唱えておられた「治療的柔構造」という概念に行きついたのである。ちなみに柔構造とはもともと建築学の用語であり、コンクリートのように固くしなやかさのない西洋建築を剛構造と呼び、それとの対比でしなやかで柔軟な和風の建築を柔構造と呼ぶのである。)

2026年4月7日火曜日

バウンダリー論 推考の推考 9

 1.はじめに-バウンダリーの起源

 始めは「バウンダリーの歴史」というテーマで原稿をお引き受けしたが、バウンダリーとはとてつもなく広い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には無理と判断した。精神科医であり精神療法及び精神分析を専門とする私としては、バウンダリーに関する臨床的な立場からの考察とさせていただくことにした。
 最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがいいような「身のおき所」を探しているのだ。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。

 たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。
 他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも日常的に体験される。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験しているだろう。

 バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
 こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透している。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。

(以下略)


2026年4月6日月曜日

バウンダリー論 推考の推考 8

 5.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる

 これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。個人の中ではそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、それをめぐって両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。またバウンダリーそのものの破壊や修復が生じる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。

 このような性質を持つバウンダリーは、そこで遊びや創造性が発揮され、その意味で極めて豊饒で生産的な場となる。しかしまたバウンダリーは、いきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかをかいつまんで述べてみよう。

 先ずはバウンダリー上での遊びや発見について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の庭から一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭の垣根を超え出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている庭のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働いつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていくのだ。しかしこの段階では、幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進んでみる。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。

(以下略)