2026年3月2日月曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 3

 ゆるい境界、ないしは「柔構造」の概念

 精神分析では境界の問題についてとりわけやかましいという事情を多少なりとも説明したが、いったんこの世界に入り、自分自身が分析家から分析を受け、そして自分が分析的な治療を行うという立場になると、境界の問題は非常に生々しく、しかも日常的な問題として迫ってくる。先ほど精神分析は境界に関して両義的であると言ったが、精神分析の実践の場もまた境界に関して両義的である場合が非常に多い。

 精神分析においておそらく一番大きな境界線は、患者と治療者の間に引かれていると言っていい。精神分析を受ける患者にとって、分析家は一種の不可侵の領域にあり、近寄りがたい存在として映る。分析家は分析治療の場面では無表情なことが多い。分析家の前のカウチに寝た患者の位置からは通常は分析家の姿は見えないせいもあり、患者はますます分析家の表情やその下に隠された内面を知り得ない状態になる。まるで分析家のまわりに半透明の幕のようなものが張られて、そこに立ち入ることが出来ないような感じがする。患者は初めて分析家のオフィスでセッションを開始した瞬間から、あるいはその前の段階から漂う雰囲気でそのことを知る。普通の対人場面で生じるのとは全く異質の空気がすでにそこに漂うのだ。
 もちろんそこで勇気ある患者は治療者を人間として認めようとし、その感情や表情を伺う。具体的に質問をしたりもするだろう。ところが分析家はたいていはそれをはぐらかし、能面のような無表情さを保つ。質問をしても通常の社交場面での返し方を分析家はしてこない。分析家はその質問を無視するか、あるいはその質問についての意味をただしてくる。「どうしてそのようなことを尋ねるのですか?」あるいは「それについてあなたはどう想像しましか?」という感じだ。何か質問をしたことを責められている気がする。つまり患者の側からは、通常の会話を行う手段を奪われ、お互いに知らない異国語を話す者同士がコミュニケーションの手段を絶たれたような状態になる。
 少し大げさな書き方になったが、このような分析家の態度はある意味では古き良き時代のそれであり、最近の精神分析家はかなり違った、より人間的な対応をする可能性がある。しかし私が精神分析を学んだ1990年代は、まだこのような古風な関係を持つのがオーソドックスであった。

 ところが一つ厄介なことがある。いったん分析家のオフィスを出ると、患者はその分析家といろいろなところで出くわすのである。というのも患者はしばしばトレーニング中の精神科レジデントだったりスタッフとして同じ職場で働いていたりするからだ。  私が精神分析を学んだメニンガークリニックは一つのコミュニティであり、病院の食堂(患者と職員の共用)や、始終開催されるカンファレンスやパーティなどで、自分の分析家と遭遇することがあった。その時はドキドキして、いったいどういう表情で出会えばいいか分からない。しかも分析家の側も同じような戸惑いを感じていたりするから厄介だ。

 特に精神科のレジデントは、自分の分析家が授業を担当し、ジョークを飛ばし、普通に話しかけてきたりすることに混乱した。近寄りがたいはずの分析家はいきなり普通の人間として登場する。しかし翌日の分析のセッションではそんなことはおくびにも出さずに、ポーカーフェイスで自分をオフィスに迎え入れるのである。


2026年3月1日日曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 2

 さて以上の記述からは、精神分析とは治療構造を重んじ、そこでは境界の設定とその維持はとても重要な意味を持つという印象を与えたかもしれない。ただ精神分析にはもう一つ、境界を踏み越えることの意義もまた含まれる点が興味深い。  例えばフロイトが定めた治療原則としての「自由連想」というものがある。患者はカウチの上で頭に自由に浮かんできたことを話すことを促される。そこでは「これを言ったらおかしいとか罪深いとか思われてしまう」という意識に抵抗して心にあるありのままの内容を語るのである。これはある意味では社会における通常の対人場面で言っていい範囲を踏み越えることを意味する。あるいは患者は夢の内容を語ることを促されることで、夢が象徴的に表していると考えられる患者の無意識内容についても語ることを促される。つまりここでは意識的な内容と無意識的な内容との間の境界を踏み越えることを意味する。  以上の意味では精神分析は境界に関して両義的であると言える。つまりそれは外的に与えられた治療構造という境界は守りつつ、心の中にある境界を無視し、あるいは踏み越えるという営みというわけである。実は後に述べるように治療構造における境界を厳密に守ることは不可能であり、また心に浮かんだことを何でも話すことも不可能である(自由連想は「不自由連想」である)が、それゆえにこの精神分析をめぐる議論を活発にしたという事も言えるのである。


2026年2月28日土曜日

共感とその限界 1

  さてここからは今日の私の話の本題である、支持療法の有効性と限界というテーマについてお話しする。私自身は支持療法の重要さを十分理解しているつもりであるが、とりわけそこでの共感の意味を重んじている。共感と言えば、日本の臨床家ならカール・ロジャーズやハインツ・コフートの唱えた概念であり治療メソッドであるという認識を持つ方が多いと思うが、既に一昔前の概念という印象をお持ちになるかもしれない。しかし最近は愛着に基づく精神療法との関連で新たな光が当てられている概念でもある。

あらためて「共感」の持つ有効性を考える

 ここで改めて、共感はどのような形で支持療法における要となるのかについて考えてみよう。私はそれについては二つ挙げられると思う。まずは他者から見守ってもらい、わかってもらっているという感覚が安心感、安全感を生むということだ。それがなぜそれほど大切かと言えば、私たちはみな恐らく孤独を恐れ、回避しているからである。もちろんだからと言って私たちが常に他人と群れていることを望むかと言えばそうではないだろう。一人で時間を過ごすことを好む人もたくさんいるはずだ。しかしそれでも世界から隔絶されていることを望む人は極めて例外的ではないかと思う。
 たとえば山にこもり座禅をする毎日を過ごす修験者であっても、世界のどこかで誰かとつながっているという感覚はあるかもしれない。それは宇宙との一体化という形で体験されるかもしれないし、場合によっては霊界の住人とつながっているという感覚を求めていたり、実際に持っていたりするかもしれない。

 療法家とはたとえ週に一回、あるいは月に一回しか会えないとしても、患者にとって自分が理解されてその世界を共有されているという感覚は何事にも代えがたいと考える患者も少なくないのではないか。ただし療法家がどれだけ患者の孤独を和らげることができるかについては、ケースバイケースであろう。だから「共感により私たちは根源的な孤独感からの救いをある程度は得られる可能性がある」というだけに留めたい。

 共感のもう一つの役割は、それが患者の内省力や創造性を開放する力を有するという事である。私たちは自分の本当の姿を見ることに大きな抵抗がある。自分がとるに足らないないしは恥ずべき存在であったり、罪深い存在であったりすることへの危惧は多かれ少なかれ私たちが持つものである。その時に共感してもらえる存在があることで、自分を見つめる勇気や動機付けが与えられることになる。
 私たちがSNSであれほど求めている「いいね!」は恐らく私たちが世界や自分を探求してより生産的な生き方をする上で必要なエネルギーを与えてくれるものでもある。

「共感」の持つ限界?

さて以上述べたように、共感の持つポジティブな意味は大きいが、その限界についても私たちは十分理解しておく必要があると思う。もっとも根本的な疑問は、私たちはいったいどこまで他人の気持ちをわかることができるのか、という問題である。簡単に共感、共感というが(というより私もこの瞬間までそうしていたわけだが)、人の心をわかるというのはそんなに簡単なことではない。「自分をわかってもらえた」という感覚は、実はバーチャルである可能性は非常に高い。

 もし「わかってもらえた」という感覚がバーチャルなものであっても、それで本人が心地よさを感じるのであれば、それでいいのではないか、という議論もあるかもしれない。しかし「わかってもらえた」がバーチャルであれば、「全然わかってもらえていない!」もバーチャルな形で生じやすい、という事である。

 恋愛の体験を考えよう。恋に落ちた時に、「この人は初めて私のことをわかってもらえた」と感じることも少なくない。ところが二人が意気投合して同居を始め、結婚してから20年、30年とたつに従い、だんだん二人の間に距離が出来、お互いに相手のことが分からなくなり、相手にわかってもらえるどころか、相手そのものの正体があやしくなり、宇宙人の様にさえ見えてくることがある。おそらく最初の「わかってもらえた」も後の「宇宙人であるかのようにわからなくなった」もどちらも極端なのであろう。しかしどちらも同じようなインパクトを私たちに与えてくるのだ。


2026年2月27日金曜日

バウンダリーとその侵犯の歴史 1

 バウンダリーとその侵犯の歴史

 私はこの度バウンダリーの歴史というテーマでお引き受けしたが、精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とする立場からは、とりわけ関心を持たざるを得ないテーマである。それらは主として二つの意味においてである。一つにはこれらの治療において問題となる治療構造という概念が、バウンダリーをいかに設定していかに扱うかというテーマに直結しているからだ。そしてもう一つはそのバウンダリーが乗り越えられたり、侵されたりすることにより生じる問題、すなわち「バウンダリー(境界)侵犯」がいかに生じ、どのような形で患者に影響を及ぼすかというテーマもまた重要なのだ。私にとってのバウンダリーのテーマはこれらに直結する問題なので、これらの二つのテーマについて主として論じる事になる。

 先ずは私の属する世界で用いるタームとしては、バウンダリーはシンプルに「境界」、それが侵されることは「境界侵犯」と呼びならわされているので、以下はそれらの表現を用いて話を進めさせていただく。

 境界そのものについては、精神分析を行う上でほとんど常に頭を去らない問題である。精神科医としての患者との関りではさほど問題意識を持つことがないとしても、精神分析的な関わりという事になると、なぜこれほど境界が問題になるのだろうか、と思うほどである。これは精神分析という世界が本来的に持っていた関心事であり、概念であると言っていい。精神分析(ここでは精神分析的精神療法も含めて論じよう)的に患者に会う場合は、いつ開始し、いつ終わるか、治療者としての役割はどこまでで,どこから踏み越えてはいけないか、という事は極めて重視される。それは通常「治療構造」と呼ばれている。そして大抵は初心の頃はこれらをいかに厳守するかという事に注意が向けられるのだ。私は精神科医になり、この精神分析のやり方を学んだときは、まるで別世界に来たような気がしたものだ。そしてその理由として教え込まれたのは、境界から外れることにはことごとく意味がある、ということだ。

 例えば午後2時に来るはずの患者が5分ほど遅れる。するとそこには必ず何らかの意味があるのだ、と教えられた。これはそれまであまり考えてこなかったことなので、とても斬新であったことを覚えている。私が精神分析の世界に入った第一歩であった。


2026年2月26日木曜日

バウンダリーについて 17

 昨日の続き。よくわからないまま思索を続ける。結局CSAの問題はそこでのトラウマ性は単に年齢の差があったり、表面上の力の差が存在していたり、という事には帰着できない気がする。昨日の例に戻ると、Bさんに振られたことによるAさんの心の痛みは、自分が未成年であり、相手が成人(22歳という想定であった)であるという事実には直接かかわってこないだろう。そしてAさんに、Bに騙され、搾取されていたという感覚が伴わない限りは、それをトラウマとしていて位置付けることは難しいであろう。Aさんがあくまでも一個人の自由意思に従ってBさんと付き合った結果だとしたら、たとえCSAの条件を満たすとしても、通常の失恋の痛手以上の要素を考えるのは難しいのではないか。  トラウマの成立にはある種の裏切り、虚偽のために人間そのものへの不信感を植え付けられるような要素が必要であるとしたら、そこには相手に服従せざるを得ないような関係性があったり、相手が自分の力を利用することで特別な関係に陥らざるを得なかったり、という事情が関係しているはずだ。それらが存在しないとしたらそこにトラウマ性を見出すことが出来ない事になるのだろう。しかし今書いたこの「トラウマ性」とはいったい何だろう?よくわからなくなってきた。  ともかくも、ここに境界侵犯の問題はどのように関わるのか。それは境界侵犯が伴うことで、後になって相手に利用され、搾取されたという感覚を生む可能性が高いからなのだろう。そしてそこには境界が侵犯されたという認識が、搾取されたという体験を新たに生むという事もあるだろう。いわゆる不貞行為が境界侵犯に相当するかは別だとしても、恋愛関係にあった相手が妻子持ちであると知った時の傷つきなどはその例かも知れない。相手に独身だと嘘をつかれていた人は、妻子持ちであるという事を知って騙されていた、弄ばれていたという感覚を持つことで、それまでの心地よい体験は一瞬のうちに悪夢になる可能性がある。  それにしても失恋がトラウマになるかどうかについては、考え出すとよくわからなくなる。その時の身の置き所のないような辛さはよくわかる。もう相手を信じることなどできない、恋愛はもうこりごり、と思う人も多いだろう。でもそれはトラウマと呼べるものだろうか。一つ言えるのは、失恋の痛手は相手への恨みへと比較的容易に変換されるものだという事だ。ストーカー被害のケースなどは、男性(時には女性?)の側に以前の恋人への恨みが募り、時には殺意にまで至るプロセスが見られる。 ともかくもバウンダリーに関する思考は、このところ全く進んでいない。これで何か論文が仕上がるのだろうか?


2026年2月25日水曜日

バウンダリーについて 16

 結局境界侵犯の典型例であるCSAの問題も、私がすでに示していた考えに行きつく。それはハイリスクであり、危険水域にある関係性である。「臨界状況」での出来事であると言っていい。そしてトラウマとしてのポテンシャルを多く含んでいる。しかし現実のトラウマとなるかどうかには高い偶発性が介在するのだ。  これを書いていて、通常の恋愛についても考えてみたくなった。両者が合意し、そしてそこに力の差 power differencial のない二人が恋愛関係に入るとする。そこにトラウマ性は? もちろんあるのだ。恋愛のかなり多くが(大部分が?)破局に終わることを考えればいい。大抵の場合両者は程度の差こそあれ、傷ついて別れていくのだ。  このように考えると恋愛はそれそのものがトラウマ的、ないし悲劇的である可能性がある。しかしそれにもかかわらず私たちはそこにかなりポジティブな価値を置くのはなぜか。そして失恋において振った方が振られて傷ついた人への加害責任を通常は問われないのはなぜだろう? それは恋愛に入る場合は、お互いにそこに自主的な選択があったという前提があるからだ。すると結果的にどちらかが傷ついたとしても、それは自己責任という事になる。ここで鍵となるのは自由な選択であり、だからこそCSAのように自由な選択が一方に与えられていない場合の加害性が問題となる。  書いているうちにますますわからなくなってきたが、よくわからないままに書き進んでいこう。二つのシナリオを考える。  シナリオ① 対等な関係の成人(ともに22歳としよう)AさんとBさんとの恋愛が始まるが、やがて破局を迎える。そして振られたAさんが言う。「Bさんは最初は私のことを『心から愛している』と言ったんです。将来結婚しようとまで言いました。しかし後になって『もうAさんには興味がなくなった』と言ったんです。これは一種の詐欺です。」そこでAは訴訟を起こそうとする。  しかしAさんは周囲に止められる。「もともとあなたがBさんを誘ったのでしょう。」これでお終いだろう。あるいは逆に最初にBさんの方からの誘いがあって始まった関係であっても「あなたはBさんと同い年で社会人なのだから、Bさんとの付き合いを最初から拒否できたはずでしょう。 」で終わるのが社会常識である。(もちろん結婚を約束してさんざん相手に貢がせたうえでの破局であれば問題はずっと複雑になるーたぶん後述。)  ところが少しシナリオを変えて、シナリオ②:Bさんは成人(22歳)で、Aさんが未成年(17歳)であったとする。たとえAさんからの誘いによる関係により始まったとしても、Aさんが傷つきを覚えて訴訟を起こしたならばまったく事情が違ってくる。Aさん(ないしはその保護者)は恐らく正当にBさんを訴えることができる。いったいどこが違うのだろうか?  一つにはシナリオ①も②も、同じ質のトラウマが生じている。Aさんの苦しみの質は類似しているはずだ。「相手は愛を誓っていたのに自分を裏切った。さんざん弄ばれた上に捨てられたのだ。」  さてそこに②の場合は歳の差(22歳と17歳)が加わることでAさんのトラウマは、本質的に異なるのだろうか?Aさんは「Bさんは17歳で社会人でもなく、正常な判断が出来ない私をかどわかしたんです!そこが絶対に許せないところです!!」となるだろうか。あまりそうならない気がする。ここからがよく分からなくなってくるところだ。おそらく多くの場合Aさんは次のような反応をするかもしれない。私は17歳でもう大人です。精神年齢から言ったらBさんと本質的に変わりません。というよりBさんの方がよほど幼稚で浅はかだと思います‥‥。」

2026年2月24日火曜日

バウンダリーについて 15

  話を元に戻す。リンド論文では、一般集団におけるCSA(子供の性的虐待)に関する基本的な通念は支持されなかったと結論づけているという話。一般に論じられているCSAのトラウマ性や有害性と大きく矛盾する結果となったのだ。これをどう考えたらいいのか。  実は私は似たような体験を持っている。精神医学的なある「常識」が一般人を対象にした研究と大きく矛盾するということを知ったのだ。「脳から見えるトラウマ」(2025年)での「トラウマと記憶」(p.46~7)という章で、私は次のようなことを書いた。  「2001年にPorter & Birt は  “Is Traumatic Memory special ?” (トラウマ記憶は特別だろうか?) という論文で、通常の記憶とトラウマ記憶にどのような差がみられるかについて研究を行った(Porter & Birt, 2001)。彼らは306人の被験者に対して、これまでの人生で一番トラウマ的であった経験と、一番嬉しかった経験を語ってもらったという。すると両者の体験の記憶は多くの共通点を持っていた。つまり双方について被験者は生々しく表現できたという。またよりトラウマの程度が強い出来事ほど詳細に語ることが出来た。それをもとに彼らはそれまで一部により唱えられていた説、すなわち「トラウマ記憶は障害されやすい」という説はこの実験からは否定される、とした。さらにトラウマ記憶についてはそれが長期間忘れられていた後に蘇ったのはわずか5%弱であり、嬉しかった記憶についても2.6%の人はそれが忘れられていた後に蘇ったという。この研究ではまた長期間忘れていた後に想起されたトラウマに関して聞き取りをしたところ、それらの記憶の大部分は無意識に抑圧されているわけではなかったという。それらはむしろ一生懸命意識から押しのけようという意図的な努力、すなわち抑制 suppressionという機序を用いたものであったというのだ。この学術的な研究からは、トラウマ記憶が抑圧され、後に治療により回復される、という理論は概ね誤りであるという結論が導かれることになる。しかし実は一時的に失われていた記憶が治療により、あるいはそれとは無関係に蘇るという現象は、精神科の臨床では稀ならず見られる。それはトラウマを扱う多くの臨床家にとってはむしろ常識的な了解事項とさえいえる。これはいったいどういうことであろうか?」 わかり易く言えば、この一般人を対象とした研究では「忘れていたトラウマ記憶を思い出すというのは神話だ」と主張しているのに対して、でも臨床場面ではそれはよくある事なのに、なぜそのような研究結果になるのだろう、と私は考えたのだ。  実はリンド論文に関する私の立場も同じなのだ。CSAの有害性が臨床的にはこれほど明らかなのに、なぜ研究には表れないのか。その点が重要なのだ。