2026年5月19日火曜日

ストレスとDID 13

  少なくとも交代人格のかなり多くが、主人格を補助し、いざとなった時に救いの手を差し伸べるという例はよく聞かれる。ある患者さんはストレス的なことがあると、小さい子供の人格にポイ、と渡していたので、自分自身はあまり辛さを感じないでいたという。しかしその人格からは「僕のこと忘れないで!」という言葉が時々聞こえてきた。ところが「ああこの人格に世話になっているんだなあ」と思うようになると、その子供の人格の声は聞こえなくなってきたという。

解離は症状か防衛機制か?


 ここで改めて問うてみる。「解離は症状か防衛機制か?」この問題は解離を一つの能力とみなすという立場からはより重要になってくる。

 Putnam のテキストには以下のようにある。「解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられている」。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい(p9)。

 解離が防衛として働くという考えはある意味では常識的なとらえ方である。最初にトラウマが生じた時に自らをその状況から隔離するという形で解離が起きたと考えられるからだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で、それ以外のあまり危機的ではない状況でも繰り返されるようになるということである。

 実はこの問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識が背景にある。私の経験では自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で、かなり既遂自殺は少ないという実感がある。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかと思う。それは端的に言って、最初の危機的状況で解離が当人を救ってくれたからだ。自殺の瀬戸際にあるという第二の危機的な状況で解離が「生き延びるための価値」を発揮して、本人を救わないというのは理屈に合わないであろう。

 この生き延びるための価値を、解離の有する能力と捉えるというのは自然な発想であろう。すると以下のようにまとめられる。

能力としての解離(解離能) → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める??

という関係があるのではないか。

 これら二つは全然違う方向性である。同じ解離という現象が人を死から遠ざけることもあれば、むしろ近づけることもあるという矛盾した主張のように思われるかもしれない。しかしこのように考えてみてはどうだろう? 解離という現象それ自体は一つの心の働きとして多くの人に程度の差こそあれ存在する。いやなことを考えまいとする、いわゆる抑圧などと同様の心の働きだ(正確にはこのような時に働くのは抑圧、ではなく抑制という心の働きである)。それは適応的にも不適応的にも働くわけであり、少なくとも適応的な意味があることは、進化の過程でそれが残されているということが証左となっているのであろう。そしてストレス関連障害は純粋な解離部分とそれ以外の部分(併存症としての鬱、その他を含む)に分けられるのではないか。そして自殺傾向に関与しているのは後者の「それ以外の部分」と考えられるのである。

 (以下略)


2026年5月18日月曜日

ストレスとDID 12

 相転移としての解離

 ここに表れる解離の性質は、それが心に不連続性を生み、それ以前とは全く異なる状態が出現するという点である。それはある組織が一つの状態からもう一つの状態にジャンプするとでも表現できるであろう。それは一つの心に起きた変化、というよりはもう一つの心が出現する現象と言えるかもしれない。先ほどの体外離脱がまさにそれを表している。
 しかし心が実際に二つに分かれるという現象を想像できにくいとすれば、それに近い現象がいわゆる相転移である。

 ここで手っ取り早く相転移を定義しようとして、ググると必ずAIの回答が出てくる。

「相転移とは、温度や圧力などの外部環境の変化により、物質が固体・液体・気体といった「相(状態)」を不連続に変化させる物理現象です。氷が水に溶ける、水が蒸発する、磁石の磁性が消えるなどが代表例であり、アボガドロ数程度の多数の原子が絡み合うことで生じるマクロな変化です。」そんなことは分かっている。

 要するに物理現象に限らず、組織の構造の在り方が全面的に、かつ不連続的に生じることだ。 氷と水の間に生じるのは相転移の典型であるが、この中間状態もまた面白い。いわゆるフラクタル現象が見られるのはそのような時だ。水の分子が集合を作り出し、その集合がみるみる増えていき、その際の集合の大きさと数が、スケールフリーになり、冪乗則に従う。私はフラクタルオタクなのですぐこっちのほうに話を持っていきがちだが、とにかくある種の刺激で水から氷になるという変化は、人格AからBにスイッチするという現象ととても似ている。

 実はこのような突然の変化はもちろん身体レベルでの変化を伴う。それを見事に表しているのが、ポージスのポリベイガル理論であろう。「ポリヴェーガル理論」(津田真人)を読むと「危機ないし脅威の環境では、皮質レヴェルは作動することなく、あるいはその前に、偏桃体~中脳水道周囲灰白質 (PAG) などの防衛システムが即座に作動する」とある。このシステムはあまりに長たらしいので「APAG」と呼ぼう。そして安全だとこのAPAGが、側頭葉により抑制されているために、皮質と結びついた向社会的行動が生じやすいという。「ニューロセプション」が危機を察した時に発動するこのAPAGは一種のスイッチの役割を話し、それが相転移(人格のスイッチング)にも関与しているのではないか。ただしここで不思議なことは、子供人格の出現は、APAGの発動とは程遠い状況で起きるということだ。これはポージスの考えを借りるならば、向社会的な反応の結果と見なせるのであろうか?

2026年5月17日日曜日

ストレスとDID 11

  いずれにせよ私は、心は危機的な状況でそのネガティブな心的内容を体験している自分自体を隔離する必要があることから解離が生じやすいと考えたわけである。しかしこれは今から考えると抑圧の機制で説明できないこともないとも考える。そして抑圧の場合は、それが身体症状や抑うつや不安という形を取るということになるだろう。  あらためて考えるならば、なぜ解離が生じるかと言えば、危機的状況で当人が解離という手段を用いたから、としか言いようのない事態が起きているのかもしれない。  解離反応の一つの典型例として、私はいつもOBE(幽体離脱)を思い浮かべる。自分が襲われそうになった時に、ふと意識がその体を離れ、それを見下ろしている自分が出現する。それは通常はまったく意図的ではなく、自然に体の反応として生じるのである。そしてそれは明らかに進化論的にかなりプリミティブな段階で生物に備わっているものと見なすことができる。ライオンに駆られたインパラはもがき暴れることなく捕食者のなすがままに任せているように見える。  同様の反応は様々にみられる。動物の子供は首を掴むことでいきなり力が抜け弛緩した状態になる。動物の子供が首(後頭部から肩の皮膚)をくわえられると、急に動かなくなり弛緩する現象は、科学的に「輸送反応(Transport Response)」と呼ばれているという。親が敵から逃げる時や巣を移動する際、子供が暴れると移動の邪魔になったり、敵に見つかりやすくなったりする。そのため、首をくわえられたら動かずにいることで、親は子供をスムーズかつ安全に運ぶことができるという。  そしてこの反応は、心拍数を低下させ、泣き声を止め、体を丸めて運ばれやすい姿勢にする効果があるという。このように考えると、ライオンが捕食の際に首に噛みつくのは、そこに頸動脈があるからだけでなく、この輸送反応により捕食者を大人しくさせるという目的があるのかもしれない。  ここであるケースが語っていたことを思い出す。「外に出ている人格に引っ込んでもらう時、私は奥の手を使います。その人格の首のあたりを掴むんです。するとその人格はおとなしくなり、私が取って代わります。」

2026年5月16日土曜日

ストレスとDID 10 

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験(ACE)ハンドブック ― 基本的知識から臨床実践まで」である。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲに診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状という反応を起こす、という考え方は一般的に受け入れられているとみていい。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、トラウマという環境因により発症するという因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されるという時代の流れと軌を一にしていたのである。そして一つの焦点となったのが、トラウマにより一方ではPTSDのような症状が生まれ、他方では解離性障害を来すという違いがどこに由来するのかという問題であった。

このような問題がいち早く関心を持たれた頃の米国にいた私は、この「どのようなストレスや環境因が解離の病理を引き起こすか」というテーマで、Dissociogenic stress (解離原性のストレス)というテーマの論文を書いたことがある(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural conceptPsychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨をまとめるならば、ネガティブな心的内容を投影したり外在化したりすることが抑制されるという形でのストレスが解離を生みやすいであろう、という考えであった。そしてそれは外部の対象から直接虐待の事実に関する秘密を強要されるというだけでなく、被害者が抱く恥や罪の意識からそれを表すことが出来ないことなどもその機序として考えた。それは数多くの解離を有する患者が、当の両親により虐待を受けていたり、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているという臨床的な事実から生み出された理論であった。

 私がこの頃印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 しかし子供が母親から受ける影響はポジティブなものばかりではない。母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。


2026年5月15日金曜日

ストレスとDID 9 

  昨日たまたまポージズ( S.Porges) の neuroception の論文 (2004) を読んでいるうちに、一つひらめいたことがある。彼は人が親愛の情を向ける人と、自らを脅威に陥れる可能性のある人とでは、全く異なる反応をすることを論じている。それを嗅ぎ分けるのが彼の言うニューロセプション(ポージスの造語、無意識的な皮質下のシステムを通して生じるもの、認知レベルで上がってくる知覚 perception と区別することを意図した用語だ)というわけである。確かに野生の動物は人間に対して非常に攻撃的になる一方では、子供の頃から世話をしたり、罠にかかっているのを助けた際などは、全く異なる親愛の情を示すことがある。凶暴な虎が育ててくれた人間に対してはデレデレになるという動画を見ていつも驚いているわけであるが、ポージスはこのような二つの両極端の反応がいかに生じるかについて論じているようだ。  解離においては危機的状況で感情的な人格が現れる場合と、安全な環境で子供の人格が現れる場合という両極端な反応がこれに対応することになるであろう。以前から解離が危機的状況で発動するならば、子供の人格の出現はどのようにとらえるべきかを考えていたが、後者はむしろ適応的な反応と考えることができるのではないか。そして少なくともそこで働いているのはポージスのいう腹側迷走神経系VVCなのである。ここが働くことで、闘争逃避反応も、フリージングも抑制される。つまり交感神経系と背側迷走神経DVCが共にこれにより抑えられる。

Porges SW. (2004). Neuroception: A subconscious system for detecting threat and safety. Zero to Three: Bulletin of the National Center for Clinical Infant Programs 24:5,19-24. 

  ポージスの理論で重要なのは、ストレスでアクセルとブレーキを両方踏むという異常事態を回避する役目をVVCが担っているという点である。このこととDIDにおいてほぼ確実にみられる子供の人格状態とには関連があるのだろうか。あたかも危機的な状況で部分的にVVCが発動して幼児人格を形成するという形を取るのだろうか。あるいは幼少時にわずかに得られた安全な機会に緊急避難的に作られるというニュアンスを持っているのかもしれない。しかし前者に関してはあまり考えられないであろう。なぜなら幼児的な人格は相手に気を許せる状況で出現することが一般的であるからだ。あるケースでは面接者のデスクの上にあったお絵かき用のクレヨンに反応して出現した。あたかも相手との関係性を成立させるための人格状態が発動したという印象を受けるが、これも意識的、意図的な選択ではない。危機的状況での闘争逃避反応と同じくらいに、愛着を求める行動も本能に根差しているというべきだろうか。

2026年5月14日木曜日

ストレスとDID 8 

  さてここに解離は能力でもある、という考えを組み込むとしたらこうなる。「解離は能力であると同時に、場合によっては脆弱性ともなりうる」。この問題に関しては、昨今の発達障害の議論と重なっている部分があることを否めないのでそちらを見ておこう。  この発達障害に関しては、最近問題となっているのが、ASDをその個人の個性、ライフスタイル、DEI、ニューロダイバーシティと見なすか否かという議論である。それを個性とみなす以上、「能力であると同時に場合によっては脆弱性」という考え方が成り立つ。そしていわゆるインクルーシブな考え方は社会モデルとも呼ばれ、社会が勝手にバリアを作っているのであり、本人に罪はないという立場だ。(それに対する医学モデルは、その人に問題、ないしは障害が内在しているというものだ。)  実はこのインクルーシブネスの議論は、それなりに問題含みであるという。ASDにおいて高機能の人には「それは個性ですね」で通じても、低機能の人にはそれでは通じない、ということだという。それは確かにそうかもしれないが、解離についても似た議論が成り立つのだろうか。つまり高機能の解離はそれを活用できるが、低機能だとそれに翻弄されてしまうという考え方である。しかし解離の機能を高いレベルで活用すると言ったことが考えられるだろうか? 私には今ひとつピンとこない。それはなぜなのだろうか?一つの考えとしては、それが一種の生理的な反応として私たちの身に備わっているからであり、それを必ずしも意図的に使えないということが関係しているだろうか。  実は解離を自在にコントロールできている人を想像してみた。しかしピンと来ないのである。たちどころに睡眠に入る能力、とか急に涙を流す能力を持つ人を考えにくいのと同様、ある種の身体的、生理的な反応を含み、それは基本的には意志のコントロール下にないことと関係しているようなのだ。  ここでPorges のポリベイガル理論が参考になるだろうか。あるストレスにおいて背側迷走神経系が刺激されることが解離の最初のきっかけだったのだろう。これを一種のスイッチングとすると、交代現象にはおそらく同様の仕組みが働き、基本的にはそれを当人はコントロールできない。たとえそれを出来ている人でも、予想外の危機的な状況で起きるスイッチングをコントロールできないのではないか。私が臨床的に出会うのは、従来はスイッチングが起きてしまっていた状況を、いかにそれなしで耐えることが出来るようになったか、というタイプの体験なのだ。  やはりこれらの考えを総合すると、相転移の考えに至ってしまう。それは一つの心の中で処理することが出来ずに、それ自体が別のものに代わってしまう現象だ。だから人格Aと人格Bの間にあれほどの不連続性が見られる。そしてこれを能力と見なせる一つの根拠は、人格Bにおいては、人格Aには備わっていない能力や感性が見られることが多いからである。そう、やはりこの部分なのだ。能力と理解すべきなのは。

2026年5月13日水曜日

ストレスとDID 7 

  このところかなり本題からずれた話を続けている。そもそも最初のテーマさえ忘れかけている。それは「解離性同一性障害についてストレス因との関連から論じる」ということだった。ただしこのテーマはいかにもストレス―脆弱性モデルに従ったものであるが、現実に起きていることはこのモデルでは論じにくいという事情がある。これまでの議論からわかるとおり、本稿で進むべき方向は「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」である。  私は基本的にはトラウマ論者である。最初はかなりはっきりと「トラウマ決定論」的な考えを持っていた。それは言語的、身体的暴力に苦しみ、発症した数多くの人々が長年非常に軽視されてきたという歴史があるからだ。しかし現在は「トラウマが精神障害を来す」という言い方には慎重になるべきであると考えるようになっている。なぜなら「トラウマ」と呼ぶ時点でそれが「本来障害を招くべきストレス」という含意があるからだ。しかし誰にとってもPTSDを生むような出来事というものは恐らく存在しない。(その代わりに不安や抑うつや身体的な症状を生む可能性は高いだろうが。)そうである以上それはある種の環境の刺激、ないしは環境因としてしか呼べないものと考えざるを得ない。  そしてその上で私が29年前に考案した「解離原性のストレス」について改めて考えると、多少なりとも修正を加えなくてはならない。この概念はストレスにはいくつかの種類があり、その中には解離を起こしやすいものとそうでないものがあるという考え方だ。しかし解離を起こしやすい人とそうでない人というファクターも見逃せない。そうでない人はいかに解離を起こしそうなストレスでもそれ以外の反応を起こしてしまう(あるいは反応をそもそも起こさない)その意味ではまさにストレス―脆弱性モデルにそのまま当てはまるべきものという気もする。これを言い直せば、ストレスの中でも解離を起こしやすいもの×ストレスに対する反応が解離という形を取りやすい人により解離性障害が起きる、ということになる。  さてこれがBelsky のDSモデルに従えばどうなるのか。彼のモデルの最大の売りは、「感受性=リスク」ではなく「感受性=可塑性 plasticity」と定式化したことである。つまりは解離反応はストレスにより自分を大きく変容させることであり、それ自身が弱さの表現ではないということだ。解離そのものではなく、それをコントロールできないことに弱さ、脆弱性がある、というべきであろうか。しかしコントロールできない≒弱さ、と決めつけることも出来ない。少なくとも危機的状況で自分が変容することは、十分適応的だからだ。獲物に狙われた袋ネズミが仮死状態のようになるのは、「弱さ」ではないだろう。それは生物学的には適応的に働いていたのだ。そしてこれは一種のブレーカーのような形で心身の機能をシャットダウンすることで急場をしのぐことができる。しかしこのブレーカーがそれほど大きな危機的状況でないにもかかわらず働いてしまうとしたら、そこに問題が生じてしまうわけである。