2026年10月15日木曜日

成田先生のこと 推敲 11

 成田の目指す正直さや率直さ

 成田は精神療法とはいかにあるべきかについて常に考え続けていた人である。それが「精神療法」そのものを主題とした数多くの論文や著作に表されている。その全体として浮かび上がってくるのが、その正直さや率直さである。それは彼の人柄を表すと同時に、彼が精神療法家の在り方として追及した姿にも通じている。見事な「自己一致」がここに見られるのだ。
 その率直さが見られるのが成田の著作の特徴である。成田の精神療法についての理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near にどちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。そして大事なのは、その根底に率直さ、正直さが流れているからだ。だから読者は常に我が身に引きつけて彼の文章を読むことができる。
 この正直さのゆえに、成田には自分の弱さや足りなさを率直に開示したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと、運動が苦手だったこと、分析学会誌に原著論文を掲載していないのに学会の会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。そしてそれに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りが非常に薄いように感じる。つまり通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。
 だから成田には自分の理論を死守するために強弁するというところがない。しかしその臨床的な感性はかなり早くから既にあり、臨床経験を積み重ねる途上で出会う理論を場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念によっては語られない。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られるものである。

 この率直さが先述の成田の自由さや、上述の「困ったときは正直に言う」という態度に結びついていることは理解するに難くない。

 成田は精神分析の世界で治療者の自己開示がいかにタブー視されて来たかについて十分熟知したうえで、それから「自由」な自分の治療感をこう述べる。(ひとりごとp.93)は「セッション内の治療者の主観的体験(患者の言動に対する反応)は出来るだけ開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを『白状する』と称している」という。ある臨床例で(同、p94)成田は話が分かりにくい患者に「あなたの言っていることがもう一つよくわからなくて、あせりや無力感を感じる。おそらく今あなたも同じような気持ちではないか」と言い、それが「自分でも自分の気持ちがよくわからない」という患者の反応を引き出した例を出す。


2026年10月14日水曜日

成田先生のこと 推敲 10

 真に自由な成田が精神療法のエッセンスとして掲げているのは何か。 
 成田は「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木(すぎ、わぼく)の会)同 p.3)と述べる。
 成田が掲げているこの二つの原則は、それ自体が彼の臨床観が極めて相互交流的 interactive であることを示している。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は心理療法を抽象的に捉えるのではなく、どのように患者にとって役に立つかを常に考えている。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、受け身的に話を聞くことは、効果的に患者に言い、患者に尋ねるための手段というニュアンスがある。

(以下略)

2026年10月13日火曜日

成田先生のこと 推敲 9

成田先生の自由さ
 ここまで論じた自由さという見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いことがわかる。そのことを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えればかなり勇気がいることと言える。
 そのような成田の立場を垣間見せてくれるのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さ―成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71にも所収)

(以下略)



2026年10月12日月曜日

成田先生のこと 推敲 8

 成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係にあったわけではなく、スーパービジョンをしていただく機会もなかった。年に一度精神分析学会で長身のお姿をお見掛けし、時々言葉を交わさせていただくだけであった。私は先生の著作を隅から隅まで読んだわけでもなかったが、私の中での先生の位置は特別なものであった。しかし改めてそれはどのような意味でであろうか?
 これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時の司会の役をいただき、最初に先生の御略歴を簡単にご紹介した後に、「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことと共に明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」として特別な存在であったのだ。この文章は私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
(以下略)

2026年10月11日日曜日

チャット君からのお返事

 私の主張に対するチャットGPTからの返事はとてもまとまったものだったので以下に掲載。

全体の主張は、こうすると一番強いと思う。あなたの現在の文章を僕なら四段階に凝縮する。

第一に、superintelligenceはomnipotenceではない。 Intelligenceがreal-world powerになるには、energy、infrastructure、weapons、networks、institutionsなどへのaccessが必要である。

第二に、superintelligenceのbehaviorが本当に予測不能なら、extinctionだけをdefault outcomeとするには追加のargumentが必要である。 Utopiaも保証されないが、doomも論理的必然ではない。

第三に、conscious desireがなくてもfunctional agencyは成立し得る。 したがって「AIにはdesireがないから安全」とまでは言えない。しかし逆に、instrumental goal-directednessを人間的なself-preservationやaggressionと同一視することにも慎重であるべきだ。

第四に、より近く確実な危険は、人間が強力なAIを自らのdesireに奉仕させることかもしれない。 AIにdestructive unconsciousが生じるのを待つ必要はない。われわれはすでにそれを持っている。

そして最後を、

Perhaps the most dangerous combination is not a superintelligent AI with a destructive unconscious, but a superintelligent AI without one, placed at the service of human beings who do have one.

で締める。

これはかなり強烈だと思う。しかも単なる「AI楽観論」ではなくなる。Yudkowskyの危険を否定するのではなく、危険の主体と時間軸をずらす議論になるんだ。

2026年10月10日土曜日

Harari 氏への反論

最近 Yuval Noah Harari 氏の短い講演をユウチューブで聞いたが、彼は「AIは道具ではない。例えばナイフはナイフでも、何に使うかを自律的に決めれるナイフ、そして新たなナイフを生み出せるナイフだ」と彼は言っている。つまり自律性 agency を有するナイフというわけだ。だから危険だというわけだが、しかしこれも、Yudkowsky派の議論に似ている。真に自律的なナイフなら、それを人類にとっていい目的に使うか悪い目的に使うかそのものが私たちの予想を超えている。ところが Harari はAIがそれを悪い目的に使うものと決めつけて警告しているように思える。しかしそうだとすると、そのナイフは自分の潜在的な力を勝手気ままに、無判断に使っていることになり、真のagency を有する存在として扱っていないようだ。
私の言いたいことを繰り返すと、AI脅威論は、AIの有するsuperintelligence がまだ中途半端なレベルで危険な振る舞いをする可能性について強調しているということが問題だ。真の意味でのsuperintelligence はもっと予想不可能で、人類を滅ぼしもすれば繁栄をもたらす可能性もある。つまり楽観論も悲観論も可能なのだ。(そしてこれは単なる楽観論ではない。)それ以前に必要なのは、凶器にもなりうる自律性を持ったナイフをいかに人が悪用しないかを考えることが先決、ということだ。

2026年10月9日金曜日

Yudkowsky派への反論

 最近AIにより人類は滅亡するという言説が多い。「超知能AIをつくれば人類は絶滅する」(エリーザー ユドコウスキー, ネイト ソアレス他)等の著書の影響が大きいかと思う。 原著は If Anyone Builds It, Everyone Dies: Why Superhuman AI Would Kill Us All、Eliezer Yudkowsky と Nate Soares の2025年の本。
 彼らはMIRI(Machine Intelligence Research Institute)を長く率いてきたAI alignment / existential risk論の代表的論者で、主張はかなり強い。「危険性がある」ではなく、現在に近い方法でsuperintelligenceを作れば、デフォルトの帰結は人類絶滅だという立場だ。
 これについての反論を私は以下に考えてみた。
Yudkowsky派の考えは一理あるようにも思えるが、基本的にはAIに関する議論を越えて、この世の中に superintelligence というものが存在したら何が起きるのか、という議論のように思える。わたしならば高度に発達した知能は、もはや自分の生存を優先するという自己中心的な目的ではなく、共存共栄を求めるのではないかとも考える。ましてやAIに desire がないならば、自分たちだけが生き残るという方向に行く理由がよくわからない。superintelligence がどのような振る舞いをするか予測できない、というのはその通りだが、それは最終的に人類を絶滅させるのではなく、むしろそれの繁栄をもたらすという可能性だってありうるだろう。だから彼らが最終的に人類の滅亡が不可避だとだけ主張しているのはなぜか私にはわからない。
 それよりも私が懸念するのは、superintelligence がまだコントロール可能な段階で、世界の誰かがそれを悪用して自分たちの利益のために用いるという危険性の方だ。結局はAIはそれを用いる人間により、善にも悪にも使えるという議論に行きつく。つまり私の議論はそんな先のことを考えるまでに、人間によるその悪用をいかに防ぐかの方がよほど先決問題であるということだ。
 それともう一つ、Yudkowsky派は、superintelligence 自体を神格化し、それが全能であるという誤解を生んではいないだろうか。高度のIQを持つ人間が現在の世の中でどれだけその力を行使しているかを考えてみればいい。彼らは社会の中で圧倒的な力を行使して、自己の利益を高めているだろうか? まったくそんなことはない。メンザのメンバーを見ても、おそらくバラバラな活動をしていて、中にはニートのような生活を送っている人もいる。世界を支配するのは、高知能ではなく、もっと別の力ではないか。少なくとも高知能=他者を欺いて世界を支配する能力という考えは誤解を生むだろう。
 それともう一つ、これはバッシングを承知でYudkowsky派への反論。彼らは「AIが危険になるのに malice(悪意)はまったく必要ない」という。しかしAIが本当に危険になるのは、それが何らかの形で「覚醒」し、つまり意識や願望を持つことだ。それさえないsuperintelligence 何て計算能力の高いだけの、ただの木偶の棒である可能性だってある。そんなに危険なほど高度のintelligence に、意識や願望を想定していないという彼らの議論は矛盾していると思う。そしてもう一つ、悪意のないAIであればこそ、それを悪用しかねない人間の方がよほど危ないのではないだろうか?結局一番の問題は我々の無意識的な破壊衝動だ、という分析的な考えに帰着する。