2026年9月16日水曜日

私の治療指針 1

 かなり短い原稿依頼。「事典項目」に近い。

疾患メモ 解離症/解離性障害は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合の破綻ないしは不連続性により特徴づけられる。しばしば心的トラウマ(心因、強度のストレス)の結果生じる。解離症/解離性障害は記憶や意識の障害を呈するものと知覚及び運動機能の障害を呈するもの(従来の「転換性障害」)に分類される。(なお後者はICD-11では解離性障害の一つとして分類されるが、DSM-5では身体症状症というカテゴリーに属する。)

診断のポイント 本人の体験に関する認識や記憶が不連続的であり、しばしば健忘を残すことは診断の一つの決め手である。また幻聴や感覚の脱失、不随意的な運動、等が比較的急に現れ、消失するというパターンを取ることが多く、その背景に本人の驚きや恐怖などの情動的な体験が見られることが多い。症状の多彩さから統合失調症などの鑑別がもんだいとなることが多く、また身体科、脳神経内科の受診が先立つことが多い。


2026年9月15日火曜日

AIはどこまで挑発的か? 5 

 チャット君は、この話題は「イドなき自我 an ego without an id」と見事につながっているという。普通なら、id/desire → creativity → surprising thought

と考えたくなる。創造の源泉はあくまでもイドというわけだ。ところがAIは、自我機能のようなもの+生成性 = 驚くべき思考となる。すると、AIはわれわれに、「創造性」「自由連想」「挑発性」「洞察」のどの部分が本当に drive や desire を必要としていたのかを、一つずつ分解して見せているのかもしれない。これはまさに逆照射だと思う。AIについて考えていたはずなのに、結局、人間の創造性とは何なのか。 人間の自由連想とは何なのか。

分析家の解釈を本当にanalyticにしているものは何なのか。これらの問題を改めて問い直してくる。だから “How Provocative Can AI Be?” というタイトルをそのまま付けて取っておく。そして中心命題を一行にするなら、AIは挑発する意図はない。しかしAIはその生成的な性質から真に挑発的な(あるいは変革的 transformative な何かを生みだす可能性がある。


2026年9月14日月曜日

AIはどこまで挑発的か? 4

 さらに面白い「desireなしの創造性」

従来われわれは、

desire → spontaneity → creativity → unexpected production

という一本の系列を暗黙に想定してきた。

ところがgenerative AIは、

no apparent desire → generation → novelty → surprise

という奇妙な系列を見せている。

だからAIがわれわれに迫っている問いは、

Must creativity originate in desire?

なのかもしれない。

さらにpsychoanalyticに言えば、

Must an interpretation originate in the subjectivity of the interpreter in order to be transformative?

もし患者のpsychic organizationを揺さぶる言葉が、分析家自身の無意識やdesireから生じなければならないのなら、AIには原理的限界がある。

しかし、患者が予期していなかったassociationを生成し、その患者の既存の意味構造を揺さぶること自体がanalytic disruptionなのだと考えるなら、AIにも少なくとも機能的には可能になる。


2026年9月13日日曜日

AIはどこまで挑発的か? 3

 AIは coded だから、その output も coded であるという言い方には、少し飛躍がある。ニューラルネットワークの巨大な潜在空間、文脈依存性、probabilistic generation などが組み合わさると、個々の出力は設計者が一つ一つ書き込んだものではなくなる。

つまりコード化されたシステムもそのコードの過剰を生成する可能性がある。A coded system itself might generate an excess over its code?

これは言うならば、コードにより生成された過剰“excess generated by code” という第三のカテゴリーではないか。

human uncoded excess

AI-generated excess

mere programmed response

そして、ここからHarveyの「分析家の挑発性」に戻ると、もっと面白くなる。たとえば患者が、

“I don't think I'm angry with my mother. I've forgiven her.”

と言ったとする。AIが、

“I wonder whether having forgiven her and no longer being angry with her are necessarily the same thing.”

と返したらどうだろう。

これは十分にintrusiveだし、場合によってはかなりprovocativeだ。

ところがAIは患者に腹を立てているわけでもないし、「この防衛を崩してやろう」というdesireもない。

つまり、

Provocation does not necessarily require a wish to provoke.

ということになる。この挑発する意図のない挑発がとても重要なわけである。


2026年9月12日土曜日

AIはどこまで挑発的か? 2

 チャット君は「人間の分析家は患者の既成のpsychic organizationをdisruptできるが、LLMにはそれができない」という主張に対して、かなり正面から返せる論点になっているという。そして 「挑発的である」ことを二種類に分けることを提案する

人間の分析家が挑発的になるのは、分析家自身に欲望、無意識、逆転移、攻撃性、好奇心などがあるからだ。つまり、subjective provocation とでも呼べる。一方AIには、少なくとも現在のLLMには、その意味での「あなたを揺さぶってやろう」という欲望はない。しかし、それとは別に、AIの答えはユーザーもデザイナーも驚くようなものもあり、それは generative provocation と呼ぶことを提案する。


https://images.openai.com/static-rsc-4/eDOyZS6S-bpaW5O9Psx2GOoaLFVLWku3z8bm6fv-BN0P2eHQ68Pgz6HRgutLMby6hrPFt-iizPig6OcYoZYeenDoEvvxuN5u89lYuvj0nVUKXL_qdboAPb6YAe4In0_PigD-F7fAYHV_ICGfa3vAmZMjPxU8QhzRDc6BtBT0jRP-CgJRh155jwAv_qG1eDTe?purpose=fullsize


後者のいい例は、AlphaGoの「第37手目」という例。(2016年のLee Sedolとの第2局の有名な手)。重要なのは、AlphaGoが「独創的な手を打って李世乭を驚かせてやろう」と欲したわけではない。それでも結果として、人間の予測を破り、それまでの囲碁の「良い手」の感覚そのものを揺さぶった。これを「創造的ではない」と言い切るなら、逆に創造性とは何なのかをかなり狭く定義しなければならなくなる。つまり創造性は創造的な主体を必ずしも必要としないということになる。ただしCさんの「コード化されていない過剰さ」を完全に否定する必要はないと思う。

人間の発話には、身体、欲望、prosody、slips、repression、transferenceなどから生じる、発話者自身にも制御できない「過剰」がある。これは確かにLLMには同じ形では存在しない。しかしAIのoutputは、そのcodeから完全に予測可能でもない。つまり、

coded system ≠ completely predetermined output


2026年9月11日金曜日

AIはどこまで挑発的か? 1

以前誰かが「人間の分析家はいい意味で挑発的で侵入的でありうる」ということを言っていた。ところがAIにはそれがない、という文脈だ。それいらいそのことをずっと考えている。本当にそうだろうか。今のところ人間の言葉(思考?二次過程)は「コード化されていない過剰さ」があるが、AIにはそれが薄いという前提はそのままにしよう。ところが私たちはGAIという言葉が示すとおり、AIが生成的 generative であることを前提にもしている。生成的であるということは、どこかに創造的で自発的で、挑発的な面を含むのではないか? AIには desire はないはずなのに、どうしてそうなるのか? 

AIは真の意味で創造的ではないかもしれない。でもアルファー碁は人が絶対差さないような手を差した(有名な「第37手目」)。これって創造的じゃないの?

このように心や主体性がないはずのAIが実は「コード化されていない過剰さ」のようなものが見られるというのはAIに関する議論で一番悩ましい点ではないかな?

これについてチャット君はこう返してきた。

「ニューラルネットワークの巨大な潜在空間、文脈依存性、蓋然的な生成 probabilistic generation などが組み合わさると、個々の出力は設計者が一つ一つ書き込んだものではなくなる。」そう、この意味でのAIのアウトプットはかなり創造的なのだ。問題はそれが内側にdesire を含んでいない事だろう。創造主なき創造、ということだ。


2026年9月10日木曜日

成田先生のこと 6

「精神分析と私」(精神分析研究 59(2)153₋159、2015)を読むと、精神科医成田の「メーキング」が見えてくる。最初に Rogers にひかれたことからわかる通り、彼の最初の、そしておそらく生涯を通しての関心は、患者と一緒の空間を通して相手を「わかる」とはどういうことかということだった。患者は色々な悩みを持って訪れるが、そこで治療者に分かって欲しいという気持ちは共通している。(もちろん、分かられたくない部分、簡単にわかってほしくない部分もあるだろうし、それ等の気持ちもわかって欲しいということになるだろう。) おそらくわかって欲しい自分と「わかっていない」自分のギャップと、そこからくる不甲斐なさが成田の原点にあるのだ。そしてその不甲斐なさを解決するために依拠したのは精神分析である必要はなかったのだ。ただしわかる、共感するという問題を扱う上であるヒントを与えてくれるのは精神分析だったのであろう。そして彼は無論それにのみ捉われるわけではない。

私が印象付けられるのは、成田が持っている理系的な探求心である。囲碁の高段者でもある成田は治療プロセスを理詰めで考え、理論化する事にも関心がある。従って彼には精神療法を体系化するような著書が多い。それらは以下のとおりである。『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012