2026年5月16日土曜日

ストレスとDID 10 

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験(ACE)ハンドブック ― 基本的知識から臨床実践まで」である。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害について、ストレス因との関連から論じる。

 解離性障害がDSM₋Ⅲに診断名として正式に採用されて以来、ある種のストレスが解離症状という反応を起こす、という考え方は一般的に受け入れられているとみていい。DSM-Ⅲに同時に採用されたPTSD等のトラウマに関連した障害の最大の特徴は、トラウマという環境因により発症するという因果関係が強調されたことである。そしてそれは戦争や虐待や性被害等が人間の精神にもたらす影響の重大さが再認識されるという時代の流れと軌を一にしていたのである。そして一つの焦点となったのが、トラウマにより一方ではPTSDのような症状が生まれ、他方では解離性障害を来すという違いがどこに由来するのかという問題であった。

このような問題がいち早く関心を持たれた頃の米国にいた私は、この「どのようなストレスや環境因が解離の病理を引き起こすか」というテーマで、Dissociogenic stress (解離原性のストレス)というテーマの論文を書いたことがある(Okano, 1997,1998)。

 

Okano, K (1997) A notion of "dissociogenic stress" Dissociation. Volume 10, No. 2, p. 130-134.

Okano, K (1998)  Dissociogenic stress: A transcultural conceptPsychiatry and Clinical Neurosciences. 52:576-581.


 そこでの要旨をまとめるならば、ネガティブな心的内容を投影したり外在化したりすることが抑制されるという形でのストレスが解離を生みやすいであろう、という考えであった。そしてそれは外部の対象から直接虐待の事実をに関する秘密を強要されるというだけでなく、被害者が抱く恥や罪の意識からそれを表すことが出来ないことなどもその機序として考えた。それは数多くの解離を有する患者が、等の両親により虐待を受けていたり、家庭外での被害を両親に決してわかってもらえなかったという背景を持っているという臨床的な事実から生み出された理論であった。

 私がこの頃印象深かったのは、患者はしばしば母親の前で「母親仕様の」顔を保つということである。母親が自分にこうあって欲しいというイメージを的確に読み取り、それに合わせるという能力を彼らは持っているようであったが、それは決して彼らが意図的に「演技」をしているわけではなく、それはもっと自然で、あえて言えば身体的な反応なのである。しかしそれは確実に、母親に対するネガティブな感情が除外されたものである。母親からすれば、子供は本当に自分のことをわかってくれていて、価値観も趣味も自分と一致していると感じるであろう。そのような時の母親は優しいであろうし、子供は愛情をかけられていると感じられるであろう。だからその時の顔は、「優しい母親仕様の」と呼ぶべきかもしれない。

 しかし子供が母親から受ける影響はポジティブなものばかりではない。母親を怖ろしく感じたり、憎しみを覚えたりするという体験も当然ながら存在する。しかしそれはこの「優しい母親仕様の」顔には組み込まれない。おそらくそちらは「怖い母親仕様」の顔に自動的に仕分けられるからだ。


2026年5月15日金曜日

ストレスとDID 9 

  昨日たまたまポージズ( S.Porges) の neuroception の論文 (2004) を読んでいるうちに、一つひらめいたことがある。彼は人が親愛の情を向ける人と、自らを脅威に陥れる可能性のある人とでは、全く異なる反応をすることを論じている。それを嗅ぎ分けるのが彼の言うニューロセプション(ポージスの造語、無意識的な皮質下のシステムを通して生じるもの、認知レベルで上がってくる知覚 perception と区別することを意図した用語だ)というわけである。確かに野生の動物は人間に対して非常に攻撃的になる一方では、子供の頃から世話をしたり、罠にかかっているのを助けた際などは、全く異なる親愛の情を示すことがある。凶暴な虎が育ててくれた人間に対してはデレデレになるという動画を見ていつも驚いているわけであるが、ポージスはこのような二つの両極端の反応がいかに生じるかについて論じているようだ。  解離においては危機的状況で感情的な人格が現れる場合と、安全な環境で子供の人格が現れる場合という両極端な反応がこれに対応することになるであろう。以前から解離が危機的状況で発動するならば、子供の人格の出現はどのようにとらえるべきかを考えていたが、後者はむしろ適応的な反応と考えることができるのではないか。そして少なくともそこで働いているのはポージスのいう腹側迷走神経系VVCなのである。ここが働くことで、闘争逃避反応も、フリージングも抑制される。つまり交感神経系と背側迷走神経DVCが共にこれにより抑えられる。

Porges SW. (2004). Neuroception: A subconscious system for detecting threat and safety. Zero to Three: Bulletin of the National Center for Clinical Infant Programs 24:5,19-24. 

  ポージスの理論で重要なのは、ストレスでアクセルとブレーキを両方踏むという異常事態を回避する役目をVVCが担っているという点である。このこととDIDにおいてほぼ確実にみられる子供の人格状態とには関連があるのだろうか。あたかも危機的な状況で部分的にVVCが発動して幼児人格を形成するという形を取るのだろうか。あるいは幼少時にわずかに得られた安全な機会に緊急避難的に作られるというニュアンスを持っているのかもしれない。しかし前者に関してはあまり考えられないであろう。なぜなら幼児的な人格は相手に気を許せる状況で出現することが一般的であるからだ。あるケースでは面接者のデスクの上にあったお絵かき用のクレヨンに反応して出現した。あたかも相手との関係性を成立させるための人格状態が発動したという印象を受けるが、これも意識的、意図的な選択ではない。危機的状況での闘争逃避反応と同じくらいに、愛着を求める行動も本能に根差しているというべきだろうか。

2026年5月14日木曜日

ストレスとDID 8 

  さてここに解離は能力でもある、という考えを組み込むとしたらこうなる。「解離は能力であると同時に、場合によっては脆弱性ともなりうる」。この問題に関しては、昨今の発達障害の議論と重なっている部分があることを否めないのでそちらを見ておこう。  この発達障害に関しては、最近問題となっているのが、ASDをその個人の個性、ライフスタイル、DEI、ニューロダイバーシティと見なすか否かという議論である。それを個性とみなす以上、「能力であると同時に場合によっては脆弱性」という考え方が成り立つ。そしていわゆるインクルーシブな考え方は社会モデルとも呼ばれ、社会が勝手にバリアを作っているのであり、本人に罪はないという立場だ。(それに対する医学モデルは、その人に問題、ないしは障害が内在しているというものだ。)  実はこのインクルーシブネスの議論は、それなりに問題含みであるという。ASDにおいて高機能の人には「それは個性ですね」で通じても、低機能の人にはそれでは通じない、ということだという。それは確かにそうかもしれないが、解離についても似た議論が成り立つのだろうか。つまり高機能の解離はそれを活用できるが、低機能だとそれに翻弄されてしまうという考え方である。しかし解離の機能を高いレベルで活用すると言ったことが考えられるだろうか? 私には今ひとつピンとこない。それはなぜなのだろうか?一つの考えとしては、それが一種の生理的な反応として私たちの身に備わっているからであり、それを必ずしも意図的に使えないということが関係しているだろうか。  実は解離を自在にコントロールできている人を想像してみた。しかしピンと来ないのである。たちどころに睡眠に入る能力、とか急に涙を流す能力を持つ人を考えにくいのと同様、ある種の身体的、生理的な反応を含み、それは基本的には意志のコントロール下にないことと関係しているようなのだ。  ここでPorges のポリベイガル理論が参考になるだろうか。あるストレスにおいて背側迷走神経系が刺激されることが解離の最初のきっかけだったのだろう。これを一種のスイッチングとすると、交代現象にはおそらく同様の仕組みが働き、基本的にはそれを当人はコントロールできない。たとえそれを出来ている人でも、予想外の危機的な状況で起きるスイッチングをコントロールできないのではないか。私が臨床的に出会うのは、従来はスイッチングが起きてしまっていた状況を、いかにそれなしで耐えることが出来るようになったか、というタイプの体験なのだ。  やはりこれらの考えを総合すると、相転移の考えに至ってしまう。それは一つの心の中で処理することが出来ずに、それ自体が別のものに代わってしまう現象だ。だから人格Aと人格Bの間にあれほどの不連続性が見られる。そしてこれを能力と見なせる一つの根拠は、人格Bにおいては、人格Aには備わっていない能力や感性が見られることが多いからである。そう、やはりこの部分なのだ。能力と理解すべきなのは。

2026年5月13日水曜日

ストレスとDID 7 

  このところかなり本題からずれた話を続けている。そもそも最初のテーマさえ忘れかけている。それは「解離性同一性障害についてストレス因との関連から論じる」ということだった。ただしこのテーマはいかにもストレス―脆弱性モデルに従ったものであるが、現実に起きていることはこのモデルでは論じにくいという事情がある。これまでの議論からわかるとおり、本稿で進むべき方向は「トラウマ決定論から差異感受性モデルへ From Trauma Determinism to Differential Trauma Susceptibility」である。  私は基本的にはトラウマ論者である。最初はかなりはっきりと「トラウマ決定論」的な考えを持っていた。それは言語的、身体的暴力に苦しみ、発症した数多くの人々が長年非常に軽視されてきたという歴史があるからだ。しかし現在は「トラウマが精神障害を来す」という言い方には慎重になるべきであると考えるようになっている。なぜなら「トラウマ」と呼ぶ時点でそれが「本来障害を招くべきストレス」という含意があるからだ。しかし誰にとってもPTSDを生むような出来事というものは恐らく存在しない。(その代わりに不安や抑うつや身体的な症状を生む可能性は高いだろうが。)そうである以上それはある種の環境の刺激、ないしは環境因としてしか呼べないものと考えざるを得ない。  そしてその上で私が29年前に考案した「解離原性のストレス」について改めて考えると、多少なりとも修正を加えなくてはならない。この概念はストレスにはいくつかの種類があり、その中には解離を起こしやすいものとそうでないものがあるという考え方だ。しかし解離を起こしやすい人とそうでない人というファクターも見逃せない。そうでない人はいかに解離を起こしそうなストレスでもそれ以外の反応を起こしてしまう(あるいは反応をそもそも起こさない)その意味ではまさにストレス―脆弱性モデルにそのまま当てはまるべきものという気もする。これを言い直せば、ストレスの中でも解離を起こしやすいもの×ストレスに対する反応が解離という形を取りやすい人により解離性障害が起きる、ということになる。  さてこれがBelsky のDSモデルに従えばどうなるのか。彼のモデルの最大の売りは、「感受性=リスク」ではなく「感受性=可塑性 plasticity」と定式化したことである。つまりは解離反応はストレスにより自分を大きく変容させることであり、それ自身が弱さの表現ではないということだ。解離そのものではなく、それをコントロールできないことに弱さ、脆弱性がある、というべきであろうか。しかしコントロールできない≒弱さ、と決めつけることも出来ない。少なくとも危機的状況で自分が変容することは、十分適応的だからだ。獲物に狙われた袋ネズミが仮死状態のようになるのは、「弱さ」ではないだろう。それは生物学的には適応的に働いていたのだ。そしてこれは一種のブレーカーのような形で心身の機能をシャットダウンすることで急場をしのぐことができる。しかしこのブレーカーがそれほど大きな危機的状況でないにもかかわらず働いてしまうとしたら、そこに問題が生じてしまうわけである。

2026年5月12日火曜日

ストレスとDID 6

  ただしこのDSモデルををASD等にあてはめてもうまくいかない。彼らは過敏だが、よくない体験に対して被害的になる一方では、良い体験をそのまま受け入れてはくれない。これはDSがすべてには当てはまらない一つの例と言える。つまりDSは一般論ではないのだ。ちなみにASDで起きていることは、「社会的共感」など特定領域では構造的制約(processing limitation)があるという。つまりこれは 可塑性ではなく「特異的な処理特性」ということになるが、これこそ障害としてとらえるべきことであろうと私は考える。Belsky だったらASDは「differential susceptibility」ではなく“vulnerability”または“neurodevelopmental constraint” つまり「より悪くなる」ことはあっても「より良くなる」方向には広がらないということだ。つまりBesky はvulnerability という言葉をなくしたいのではなく、そう表現せざるを得ないものもあるが、ことごとくそのようにとらえる必要はないということか。

 ちなみにASDの話の続きで。これは性格の一部(つまりそれはいい方向にも悪い方向にも向かうもの)というよりはハンディキャップということになろう。(逆に言えば、一般的に性格と言われているものはこのDSに従うような、ある特定の分野でのその人の持つ可塑性(ないしはその低さ)ということだろうか。)例えば穏やかな人(感情的な可塑性の低い人)はいいことにも悪いことにもあまり反応しないから、一緒にいて安心だが物足りない、という風に。いずれにせよ性格ならバタフライ型の分布を示すが、そうでない場合はどちらかにのみ大きく広がるという分布の仕方。

 さてこれと解離とを結びつけよう。解離の場合は環境の突然の変化に対して、自らを変える、自らをなくして相手に同一化する、自らをシャットダウンするというような反応であろう。これは受容的な環境で相手に同一化するという重要な反応を起こすが、侵害的な場合には自らをシャットダウンしたり、相転移を起こしたりするといった極端な反応が起きる。その一つはPorges のいう腹側迷走神経系の反応ということになるが、これ自体がかなり相転移的な反応と言えるだろう。同一化とはある意味では相転移的と言えるが、これで解離のすべてを説明できるとは限らないが。ただここで一つの重要な発想の転換はDS:同一相内での振幅の違いのに対して、相転移モデル:相そのものが変わるということ。この視点を入れると、ASDの話も整理できる:ASDは「別の相の構造」だからDSの“両方向性”が成立しないという考えかたが成り立つのだ。

2026年5月11日月曜日

ストレスとDID 5 

 今、Belsky らの提唱している differential susceptibility(差異感受性モデル、以下、DS)(Belsky, J., & Pluess, M. (2009). Beyond diathesis stress: Differential susceptibility to environmental influences. Psychological Bulletin, 135(6), 885–908.

について理解しようとしている。これが従来のストレス―脆弱性モデル(SD)にとって代わるものである以上、これを十分わかっておかなくてはならない。このDSの重要な点は、人がある環境による刺激に感受性が強いということは、必ずしも悪いことではなく、その欠如は、よりよい方向に働くという考えだ。

対比的に示そう(AI自身の言葉を借りて)。

ストレス―脆弱性モデル(SD)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる」

DSモデル(Jay Belsky)→ 感受性が高い人は「悪い環境でより悪くなる 、良い環境でより良くなる」

そこで重要になってくるのが、脆弱性 vulnerability  の代わりに可塑性 plasticity という言葉を用いることの重要性だろう。そしてDSについて論じる上で一番有名なのは、5-HTTLPR(セロトニントランスポーター遺伝子多型)で、短い型(short allele)の人は、ストレス下 → 抑うつ・不安が増えやすいが、良い養育環境 → むしろ平均以上に適応が良くなるという結果がみられる。つまりSSの人ほど感受性(可塑性)が高いという例。  これ以外の例も知られる。よく出される例として、ドーパミン関連遺伝子(DRD4など)、行動抑制気質(inhibited temperament)、高反応性乳児(high-reactive infants)等があり、高反応性の赤ちゃんは不安定な養育 → 強い不安・問題行動だが、安定した養育 → むしろ非常に社会的・適応的になるという。  ちなみに私の好きな比喩は Thomas Boyce という人の言っている「dandelion theory(蘭とタンポポ)」モデルで、蘭(敏感)は悪環境で枯れるが、良環境で最も美しく咲くのに対して、タンポポ(鈍感)はどこでもそこそこ生きるというもの。(私が昔論じた過敏型自己愛の概念に似ている。)  ドーパミン関連遺伝子については、7リピートの人は高感受性でnovelty seeking などが見られ、悪く働くと不良になり、よく働くと高い探索性や柔軟性、社会適応の良さなどに表われるという。日本人は2とか4リピートの低感受性なのであまり面白くない性格ともいえる。つまり極端に悪化する人も少ないが、伸びる人も少ないという。  ちなみにチャット君はこのセロトニントランスポーターやD4受容体の話は、実は一時騒がれたほど再現されていないという。つまりそこにはきわめて多くの遺伝子が関係していてあまりクリアーカットには説明できないらしい。

2026年5月10日日曜日

ストレスとDID 4 

  Belsky らのDS(differential susceptibility)モデルの定義をもう一度繰り返す。「ある人々は不利な環境により傷つきやすいだけでなく、良い環境からもより大きな恩恵を受けやすい」。これに基づく理論は従来の考え方である「トラウマにより解離が生じる」と若干異なる。私の28年前の「解離原性のストレス」という発想もそれに基づいたものだ。背景にあるのは、「ある種のストレスを体験すると人はみな解離する」という考えだ。つまりは環境因の種類を重視した考え方だ。  しかし実際は「一部の生まれつき解離しやすい人たちがいて、彼らは様々なストレスに解離的な反応を起こしやすい」という方が正しい。しかし実はこれも正確ではない。「ストレスには様々な種類があり、解離を起こしやすいものと起こしにくいものが確かにあり、また人にも解離を起こしやすい人とそうでない人がいる」の方がより正確であろう。すると「環境×その人の感受性」の組み合わせが解離を起こすということだ。  しかしここにもう一つ込み入った事情が存在する。それは解離そのものが病理とは言い切れないということだ。いわゆるストレス―脆弱性モデルとは、特定のストレスが特定の脆弱性を持った人により体験されることである種の病理を生む、というモデルだ。これが不安とかうつ状態とかなら病理と言えるであろうが、解離はそれとは少なくとも異なる。それが Putnam のテキストにも出てきた、解離が survival value を持つという考え方である。つまりはそれ自体はプラスにもマイナスにも働きやすい、それ自身としてはニュートラルな現象なのである。  さてその事情をどのように説明すべきかということで私が至ったのが「解離=相転移モデル」とでもいうべきものである。その一つのヒントとなったのが、Belsky の感受性の考え方である。彼は脆弱性ではなく感受性ととらえた。脆弱性なら弱く、つぶれるだけである。しかし感受性は心がある種の反応を強く起こすという考え方だ。弱く、潰れやすいというだけではないから、それはある意味では適応的にも働くと Belsky は考える。すると解離傾向を持つ人がそれを最も極端な形で表したものが、それまでの心の在り方を別のものにスイッチするという反応であり、それがDIDにおいて生じることなのだ。  このように考えるとなぜ病理学者が解離の説明に苦しみ、時には誤った理解の方向に進むのかがわかりやすくなる。もともと人の心の病理に相転移の考え方はなかった。つまりは病理をきたす心それ自体は、それ以前の心と同一のものだ。そして解離によりそれまでの心と異なる心の状態に切り替わった後も、人はそれを最初の心に起き続けていると考える。その結果として解離を起こしている人を「嘘つき」と見なしたりするのである。