2026年6月26日金曜日

甘えの理論の先駆性 7

 土居(1961)「精神療法と精神分析」(p195~)をもとにまとめる。

おおむね言えることは、土居についての精神分析はそのまま甘えの理論であるということだ。一言で無意識内容や無意識的葛藤と言っても、様々なものが考えられるであろうが、土居が無意識的葛藤として提示するものはいずれも甘えに関与している。それぞれについて、精神分析により至る洞察は少なくとも文章の上では明確に示されている。そして「抵抗が克服され、洞察が出現すれば、治療は終結の運びとなる」(p.195)と述べる。

 土居は無意識的な葛藤を三つに大別する。(あずき色部分は土居の原文から)

1.甘えたいが、甘えることは自分の弱さをさらけ出すことなので出来ない(男性に多い)。⇒ 甘えることは致命的な弱さではないという洞察。
2.いくら甘えても、甘えだけでは足りないと感じる(女性に多い)。
   ⇒ 甘えることによって何かを自分にほしがっても無駄であるという洞察。
3.甘えることを知らず人を避けようとする(男女を問わない)。
   ⇒ 甘えても裏切られるとは限らない、という洞察。


 物心が付き始めた幼児は、甘えられない体験をすでに知覚しているので、そのために甘えようとしている。

何らかの理由により愛情不足が甚だしい時は、幼児は甘えることをほとんど経験せず、自分に甘えるナルチシズム(自己愛)の状態が発生し、憤怒や憎悪や自己卑下・自己嫌悪、去勢不安とペニス羨望が生じる。

治療により患者の葛藤が順次に解決されて行けば、ナルチシズムの核が破れ、「素直な甘え」が出て終結となる。(これはバリントの言う受け身的対象愛の出現であり、「新しい出発」である。)

エクスタインの言葉で言えば、「基本的な結合」が幻覚的に体験されることであるが、それは同時に基本的な分化であり「自分がある」状態となる事である。

終結においては治療者は甘えを許しているが甘えさせてはいない。これは現実原則に従う甘えであり、甘えの充足は一時的であることを知っているので、結局ナルチシズムには逃げ込まない。

岡野の意見:最後に出てくるのは、実質的には「素直な甘え」とは全く別物であり、それは「大人の甘え」というべきだろう。


2026年6月25日木曜日

精神神経学会に出席して

 トラウマ治療および研究の権威の金吉晴先生とはいろいろな場所でご一緒しているが、先週の日本精神神経学会(6月17~19日、於パシフィコ横浜)のシンポジウム「PTSD概念の臨床と脳科学の連携」に登壇したこともとても良い学びの機会になった。このブログでもここでの発表の準備のための草稿を長期にわたって書いていたが(ストレスとDIDシリーズなど)、PTSDの生物学的な研究の最近の流れを新たに知ることが出来た。

 その一つが脳内のグルタミン酸という神経伝達物質の異常に関する研究である。ネズミを使った研究などで明らかになったのは、ストレスに置かれた際に脳内の扁桃体、海馬などにおけるグルタミン酸の伝達が亢進しているということである。PTSDのフラッシュバックなどの体験においては脳の過活動がいわば神経毒として働き、海馬などの萎縮を招くことが知られているが、そこにグルタミン酸が絡んでいることが知られるようになっている。そしてそのグルタミン酸のリセプターのうちNMDA型と呼ばれるものの拮抗剤がトラウマ記憶の改善につながるという研究がなされたのである。ここで非常に都合のいいことに、この拮抗剤として機能するメマンチンという薬剤は、すでにに認知症の治療薬として用いられており、その安全性も確認されており、それがPTSDの治療として有望だという研究が進んでいるというわけだ。いずれはメマンチンがPTSDの治療として認可される可能性もありうるというのが、金先生や、今回発表を行った堀弘明先生(国立精神神経医療研究センター)の見解でもある。一方で精神療法的、他方で薬物療法的な研究が手を携えて進んでいるのが現在のトラウマ研究なのである。


2026年6月24日水曜日

甘えの理論の先駆性 6

  サンフランシスコで分析のトレーニングを開始した土居は、ライダーとの教育分析について以下のように語る。 「私の体験したことはあまりにも身近なことであるために、いまだこれを十分に整理することが出来ませんし、またこれを整理されないまま生の形で皆さまにお話しすることは、私にとってあまりにも苦痛の多いことでございます。従って詳細は控えますが、ただ結果だけを述べますと、私は予定のコースを完了することなく1956年に帰国したのであります。」 「これには種々の外的事情も関係していますが、教育分析の観点から言えば、これを打ち切ることが唯一の解決であるという行き詰まりに逢着したためであります。実際このことは私の精神に深大な効果を及ぼしました。私はそこから逃げようとしていた現実にいやおうなしに直面することを強いられましたし、そのためにいまだかつてなかった不安を経験しました。」(精神分析研究、1958)   教育分析で、土居は最初は「傷ついた獣のごとき心境に陥ってしまった。しかし私は次第にその傷の意味を理解し、それによって真に精神分析を理解するに至ったと思っている。実に本書執筆の最大の苦闘は、教育分析に引き続く自己分析の完成にあったのである。」と述べている。(精神療法と精神分析、1961、P2)  土居はそれについてその後語ろうとしないが、「分析しても終わらない」という考えを重視していた。 「私は『実際上健康と目される人間の分析が未完成に終わることはやむを得ない」というフロイトの言葉を思い出します。(分析研究、1968、p110) 「だいたい私自身、私の中にひそむ甘えを自分の分析の中で自覚するのでなければ、甘えの重要性を認識するに至らなかったということが出来ます。(土居、1968 vol 14 No3 選集2p117))。 

2026年6月23日火曜日

甘え理論の先駆性 5

 ここからはある意味でのthe making of Amae にお付き合いいただきたい。これなしではおそらく土居の甘え理論の真意を掴めないからだ。  土居が1950年に内科から精神科へ転向した時点にさかのぼる。彼は米国留学のガリオア奨学金を獲得し、それを喜んだ古沢の推薦でメニンガーに2年間留学する。ちなみにこの時の体験が「甘えの構造」を各出発点となっている。 そこで土居はルドルフ・エクスタインの講義を受けて感化される。  留学中に土居は古沢からの誘いで「通信分析」を帰国するまで一年おこなう。 1952年に帰国した後は古沢から分析ではなくSV(監督分析)を受けたが、1954年より「暗礁に乗り上げ」「患者の治療上の技術に関しての意見の相違が起き」、さらに「もっと全面的な相違に発展した」という。 以上引用は「土居:われわれはどんな風に精神分析を学んできたか 精神分析研究 Vo.5.No 6 1958」 この時の土居と古沢の間の葛藤は詳しく語られていないが、ある意味では次の土居自身の言葉でその様子を垣間見ることは出来るのではないか。 「(古沢)先生は分析としての立場から私のこのような態度を分析的に理解し、同時に私をどこまでも容認しようとなされましたが、私にはそれがまた我慢できない事でありました。私はついに先生を離れて再び米国に留学し、かの地で始めから教育分析を受けてみようと決心するに至ったのであります。」(土居、精神分析研究 Vol.5₋6 1958) 「『自分が米国に行くのは、古沢先生の治療態度について、別の分析医との接触によって疑問を解くためだ』と言って(土居先生は)米国に旅立った。」

(小此木 精神分析研究 選集 2 2005年 p112)

私は土居先生(急に「先生」付きになる)はこだわりがあり、頑固な人だったと思う。自分の主張に固執なさる。ある時土居先生は私が著作の中で「患者さん」という表現を用いているのを慇懃無礼だと仰った。それはそうかもしれない。しかしこれは一種の好みの問題であり、人それぞれではないだろうか。

 

2026年6月22日月曜日

甘え理論の先駆性 4

 ところでこのような考えに従った土居の理論は、どの程度先駆的だったのだろうか、という本題に入る。別稿で検討したように、愛着に基づく精神療法では、治療とは愛着関係を再現し、そこで治療者・患者の間の心の、生理作用の、脳の同期化を目指すものである、というのがフォナギーやショアやホームズの理論であった。  このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なる方向性になる。でははたして土居の理論は、これらの流れに先駆する理論であったのか?その答えを以下に探る。  その骨子をまとめるならば、もし愛着に元ずく精神療法が愛着関係を取り戻すという方向であるならば、おそらく土居の方針はそれとは大きく異なり、むしろ真逆なところすらある。土居が繰り返し言うように、本当の意味での甘えは実現しないということを理解することが治療であるという考えを彼は持っていたからだ。しかしそれはどのような意味なのだろうか?フロイトは治療の最後には「素直な甘え」が登場すると言っている。つまり素直な甘えを治療者に表現することになるわけだ。でもこれは甘えを満たす体験ではない、とも土居は言う。ここの関係はいったいどうなっているのだろうか?


2026年6月21日日曜日

甘え理論の先駆性 3

  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。「相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望」。

これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく(岡野,1999,Okano,2024)「条件付き conditional 」な愛だからである。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両

断なのである。

(ちなみに以下は土居先生の還暦の頃の写真である。私が最初に面会をした頃の先生は、このように若く精悍であった。)

 

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、精神分析研究 Vol.14, No3,1968 P120)

わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。


2026年6月20日土曜日

甘え理論の先駆性 2

 土居先生のアメリカでの原体験については、「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言える。このようなところを読む限り土居先生はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 アメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かは、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。