ある患者の精神分析のセッションが、午後2時に開始し、2時50分に終了するという設定を考える。つまり治療時間は2本のバウンダリーにより挟まれていることになる。そして3時までの10分間は治療者が記録をつけたり洗面所を使ったりするための休み時間である。この場合日本ではしばしば患者は「ちょうど2時」に治療者のオフィスをノックする(あるいはブザーを鳴らす)という申し合わせがなされているのが普通だ。なぜなら治療者の私的なオフィスでは、家賃の都合上待合室は用意できないからだ。 さてこの「ちょうど2時」という設定をめぐってさまざまなことが起きるのだ。まず治療者は当然ながら2時きっかりか、それ以降のノックには素早く反応して患者を招き入れなくてはならない。なぜなら彼の2時からの50分はいわば患者への「売り物」だからだ。 ただし治療者にとっての開始時間というバウンダリーは、2時以前に関しては異なる意味を持っている。つまり患者の少し早めのノックに反応するか否かについては、治療者の側のある程度の裁量がある。たとえば患者が2時きっかりより5秒だけ早くノックしたとしよう。治療者が「まあいいか」と多めに見てドアを開けることはよくあるだろう。患者の時計が数秒だけ進んでいたのかもしれない。こうして2時より5秒どころか10秒、20秒前のノックでもドアを開けることは治療者の側の「持ち出し」としては十分にありうるのだ。 しかし治療者は2時より2,3分ほど早いノックにはそれほど鷹揚にはなれないだ。治療者はそれをルール違反と感じ、それについては無視するか、「しばらくお待ちください」と声をかける事になるだろう。そもそも前の患者さんがその終了時間がなぜか遅れに遅れてまだ立ち去っていないかもしれないからだ。 このような意味で治療者にとっての2時というバウンダリーは後ろ向きには弾力性が乏しく、前向きにはよりしなやかであると表現できるだろう。そして前向きのしなやかさは、治療者のサービス精神、あるいは大雑把さなどとかかわっていると言えるだろう。 さて興味深いことに、患者にとってはその2時というバウンダリーのこの弾力性の向きが治療者のそれとは逆であることがわかる。患者にとっては、2時以降は自分の時間だという感覚がある。だから2時に10秒遅れてもさほど気にしないかも知れない。それに2,3分遅れることで治療者の側もほんの少し延びた休み時間にほっとしているかもしれない。しかし遅刻はまた治療者の機嫌を損ねるかもしれない。患者があからさまに5分ないし10分遅れることは、治療への抵抗だと思われかねず、さすがになかなか実行できないかもしれない。 それに比べて患者は2時以前に、例えば5分前にドアをノックすることにはよほどの事情や勇気が必要だろう。治療者はさぞかし迷惑に思うだろうし、第一ドアを開けてもらえないだろう。契約違反を犯しているという感覚も伴うはずだ。このように患者にとっての2時というバウンダリーは、後ろ向きには弾力性があり、前向きには弾力性に乏しい、という治療者のそれとは逆の関係があるのだ。この後ろ向きの弾力性は患者の自由さの発揮、自発性、治療者への反抗心などを反映していると言えるだろう。 さて実際の治療場面は、患者と治療者の双方がこれらのニュアンスを様々にまといながらバウンダリーをめぐる駆け引きを行う。そして現実の治療開始時刻は揺らぐものなのだ。その意味で治療構造は実際には「柔構造的」と言える。こうして私はすでに大野裕先生が唱えておられた「治療的柔構造」という概念に行きついたのである。ちなみに柔構造とはもともと建築学の用語であり、コンクリートのように固くしなやかさのない西洋建築を剛構造と呼び、それとの対比でしなやかで柔軟な和風の建築を柔構造と呼ぶのである。)
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist
精神科医が日常的な思いつきを綴ってみる
2026年4月8日水曜日
2026年4月7日火曜日
バウンダリー論 推考の推考 9
1.はじめに-バウンダリーの起源
始めは「バウンダリーの歴史」というテーマで原稿をお引き受けしたが、バウンダリーとはとてつもなく広い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には無理と判断した。精神科医であり精神療法及び精神分析を専門とする私としては、バウンダリーに関する臨床的な立場からの考察とさせていただくことにした。
最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがいいような「身のおき所」を探しているのだ。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。
たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。
他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも日常的に体験される。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験しているだろう。
バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透している。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。
(以下略)
2026年4月6日月曜日
バウンダリー論 推考の推考 8
5.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる
これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。個人の中ではそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、それをめぐって両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。またバウンダリーそのものの破壊や修復が生じる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。
このような性質を持つバウンダリーは、そこで遊びや創造性が発揮され、その意味で極めて豊饒で生産的な場となる。しかしまたバウンダリーは、いきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかをかいつまんで述べてみよう。
先ずはバウンダリー上での遊びや発見について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の庭から一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭の垣根を超え出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている庭のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働いつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていくのだ。しかしこの段階では、幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進んでみる。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。2026年4月5日日曜日
バウンダリー論 推考の推考 7
4.何がバウンダリーに力を及ぼすのか
上の例は何を示しているのか? それは名目上のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる患者と治療者の間のやり取り、ダイナミズムが生じるということだ。そこには彼らはバウンダリーを厳密に守り切れないという現実がある。もちろん毎回開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療者が間発入れずにドアを開けるということが繰り返されれば、そこには何も生じようがない。それはテレビ放送で、2時までの番組と2時以降の番組のディレクターどうしでもめ事を起こしようがないのと同じだ。しかしそこに生身の人間が関与している以上、両者の綱引きが生じ、実際の開始時間は名目上のバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、その時々で一種の妥協の産物として「柔軟に」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーの実態はもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自らを示す。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、いざとなったら自己防衛のできる人間としてそこに存在し続けるのだ。
このように描かれた治療者の態度を私は柔構造的、と言い表しているが、もしそうでなく、到着時刻への遅れを治療抵抗として扱うという治療構造の一般的な考え方はどのように言い表せるだろうか? それを私は柔構造との対比で剛構造的(すでに示した、固くぶれのない性質の)と表現する。剛構造的な考えを持つ治療者は患者の少しの遅れを「今日は3分遅れましたね」と指摘するだろう。その質問自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じ、治療者を血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。
ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。
「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」
つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。
ところで名目上は剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。
ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。
ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、後者を「儀式」としたのだ。
私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音に触発されて寝床を飛び出そうという力と、目覚ましを無視してもうひと眠りしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。先に「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。
ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。
2026年4月4日土曜日
バウンダリー論 推考の推考 6
1.バウンダリーの起源
始めは「バウンダリーの歴史」というテーマで原稿をお引き受けしたが、実はバウンダリーとはとんでもなく広く深い概念であり、その歴史にまでさかのぼって論じることは自分には無理と判断した。私は精神科医であり、かつ精神療法及び精神分析を専門とするが、それらの分野にも深く関与するテーマであるため、バウンダリーに関する臨床的な立場からの考察となることを最初にお断りしておく。
最初にバウンダリーの問題一般についてであるが、その起源は私たちの身体性に根差しているといえる。身体を有する私たちは自由に動ける一定の範囲を常に必要とする。常に収まりがいいような「身のおき所」を探しているのだ。そしてそのすぐ隣に他者がいて同じような空間を必要とするなら、たちまち境目、バウンダリーの問題が生じる。そしてそれは身体を持つ生命体であれば、進化上のどのレベルにおいても関わってくるテーマだ。
たとえばコブダイは自分のテリトリーである岩礁の周りを常に泳ぎ回り、そこに侵入してくる魚を厳しくチェックする。コブダイにとっては自分の岩礁はパーソナルスペースの一部だろう。あるいはサバンナの野生動物の中には自分の家族を構成するグループの縄張りを示すために草に尿をかけ、においでマーキングをして歩くものがある。
他の個体と共存するためには、バウンダリーの問題は最初から関わってくるのだが、それは生物としての私たちにも日常的に体験される。新幹線や飛行機で隣の乗客との間に設けられた細い肘掛けを奪い合うという状況は誰でも体験しているだろう。
バウンダリーはまた社会生活を営む上での利便性の面でも重要だ。一日の時間をいくつかに区分する、一年をいくつかの月に分ける、といった手続きは共同生活では必然となろう。絶海の孤島で一人で自給自足の生活を営み、好きな時に寝て空腹を感じたら食物を求める生活には、これらのバウンダリーはほとんど意味をなさないはずだ。
こうしてバウンダリーは生物としての私たち、社会に生きる私たちにあらゆる形で浸透していく。それは不文律として、道徳律や法律として、条例や校則や社則や服務規定として、さらには宗教における教義として、あるいは国境や土地の境界線として網の目の様に私たちの生活に入り込んでくる。しかし大抵は、なぜそのようなバウンダリーが存在するのかについてあまり考えなくなっていくのだ。
2. 私にとっての問題意識としてのバウンダリー・・・「患者が3分遅れる」
ここからは精神科医であり、精神分析家としての私の経験に即した臨床的なバウンダリー論となる。バウンダリーについての私の意識が生まれたのは精神分析と出会った時である。精神科医としての新人の頃、私はかねてから気になっていた精神分析を学びたくて精神分析研究会に参加し始めた。そして当時の精神分析の大御所の小此木啓吾先生の門下生であるという先輩医師のS先生の指導の下に参加者が持ち寄るケースの検討を行っていた。そしてこのバウンダリーという問題に出会ったのだ。
ある時私たちの一人が報告した患者さんが分析治療に遅刻したという話になった。S先生は次のようなことを言った。「まずこの患者さんが定刻の2時に3分遅刻してきたのに注目しなくてはならないよ。この人はこうすることで無意識に治療に抵抗していることになるんだ。まずそれを扱わなくてはならないね。」それを聞いたときは私にはハッとして、目からうろこが落ちた気がした。私はかねてから人の心に興味を抱いていたが、それまでは日常的な些細な出来事に無意識的な意味を見出すことはなかった。そしてしばらくはこの患者さんの遅刻のことが頭を離れなかったが、そのうち疑問にぶつかった。
2026年4月3日金曜日
バウンダリー論 推考の推考 5
4.バウンダリー上では遊びが生まれ、トラウマも生まれる。
これまで検討した私たちのバウンダリーの体験は、緊迫感をはらんだ綱渡りの様に感じた方がいてもおかしくないだろう。そこでは個人の中でそれを超えるか超えないかの葛藤が体験される。そして二者の間で成立しているバウンダリーは、そこを越えるか超えないかに関して両者の間の様々な思惑が働く。それはハラハラする危険と隣り合わせの体験となることが多い。そして実際にそのバウンダリー自身の破壊や修復が生じる事も少なくない。あたかも二つの紛争中の国の境目の様に、そこでは侵攻と反撃が様々なレベルで間断なく起きている可能性があるのである。
しかしこのような性質を持つバウンダリーは、またそこで遊びや創造性が発揮され、その意味でこれほど豊饒な場はないと言ってもいい。そしてバウンダリーは、そこがいきなり踏み越えられることで様々な不幸、トラウマが生じる境域でもある。バウンダリーが孕むそれらの数多くのテーマについては、この短いエッセイで論じつくすことは不可能であるが、最後にそれらのいくつかをかいつまんで述べてみよう。
先ずはバウンダリー上での心地よい体験について考えよう。幼児が慣れ親しんだ我が家の外に一歩足を踏み出すという体験を想像しよう。まだ自宅の庭を出たことのない彼は、その日は少し浮き浮きした気分で、いつも遊びなれている場所のほんのちょっと外を見てみたいと思う。そこで家事に忙しい母親の目を盗んで門の隙間から、足を踏み出す。そこには見慣れぬ景色が広がり、出会ったこともない人が歩いている。彼は一歩、二歩とさらに踏み出すだろう。一方の好奇心や探求心と、他方の不安や恐怖の双方が働きつつ、ジワジワと彼の行動範囲が広げられていくのだ。しかし幼児はこれを明らかに楽しんで行っている。これは遊びの範囲での体験であり、いざとなったら走って帰れる距離に自宅があるからであろう。だからちょっと勇気を出してもう何歩か進む。すると近所の家の庭に広がる花畑に遭遇する。色とりどりの花、香しいにおい! こうして彼はバウンダリーを少しだけ踏み出すことで新たな世界を発見したのである。
しかしこのようにバウンダリーをめぐるワクワクする体験は、いとも簡単に恐怖体験に移行する可能性がある。家の周囲の探索に夢中になり過ぎていた彼は、ふと振り返ると自宅が見えないほどの遠くにまで来てしまったことに気がつく。そしてどの方角から歩いてきたかもわからなくなっていることを知る。思わず「ママ―!」と叫んでみる。しかしこれまでは何があっても飛んできてくれる母親の姿はない。彼は取り返しのつかないことをしてしまったことを知る。自らの慣れ親しんだ安全なエリアをはるかに踏み越えていることを知ったその幼児の恐怖心や寄る辺のなさはどれほどだろうか?そこでは自分の身を守るすべを失い、世界が終わるかのような体験をすることになる…これがトラウマの原型である。
私はこれを書きながら、他方では幼な子の姿が見えなくなって半狂乱になっている母親の姿を想像している。彼女はすぐに半開きになっている門扉に気がつき、近所を探し回る。もちろん彼はそれほど遠くに行っているはずはない。道端で泣いている息子を見つけて駆け寄り、抱きしめる。トラウマは深刻なレベルでは起きなかった。しかし自然界ではこうはいかない。母親からはぐれたライオンの子は、すぐにでもハイエナの餌食になり命を落としかねないのだ。← なんでこんな余計な文章を書いているのだろう? それはともかく‥‥
この様にバウンダリーを超える体験は様々な「事件」につながる可能性がある。それは喜びや興奮を伴う場合もあれば、恐怖や絶望を生むこともある。そしてそれはバウンダリーという状況が生む一つの宿命でもある。すでに述べたように、バウンダリーとは二つ(以上)のちからの均衡により成り立つ。それは一見動かないように見えて、実はその内側に大きな力が加わって、互いを支え合っているというところがある。ちょうど二人の力自慢の腕相撲の様に、あるいは力の拮抗した二つのグループの綱引きの様に、そのバランスが少し破綻したことから一挙に勝負が決まってしまう可能性があるのだ。
バウンダリーのその種の性質は、臨界状況、ないしはリミナルスペースとして現代科学の一つの大きなテーマとなっているが、今回はそれに触れることは出来なかった。
2026年4月2日木曜日
バウンダリー論 推考の推考 4
上の二つの例は何を示しているのか? 一つは終了時間についての例、もう一つは匿名性・自己開示の例であった。両方ともある種のバウンダリーが引かれていることで、それをめぐる二人の間のダイナミズム、やり取りが生じている。しかしそれはバウンダリーを厳密に守る事に徹することによって、ではない。常に開始時間の2時に一秒の狂いもなくドアがノックされ、治療が開始されるのでは、何事も起きないであろう。しかしそこに生身の人間が関与している以上、ブレが生じ、治療者も患者も常にバウンダリーを念頭に置きつつ、それをめぐる綱引きが生じる。そして実際の開始時間はバウンダリーの近傍で揺らぎつつ、「柔らかく」決定される。それが治療設定の柔構造的な在り方なのだ。そしてここが大事なのだが、その駆け引きを通して、実はそのバウンダリーはもっとしっかりとした、太くしなやかなものとなって行くのだ。そうしてそのバウンダリーのマネージメントを通して、治療者は患者に対して自分の生きた、安全な存在を明らかにしていくのである。心穏やかでかつ毅然とした態度を内に秘め、自己防衛のできる人間としてそこに存在し続け、その姿を患者に示すのだ。
このように描かれた治療者の態度は柔構造的、と言えるが、もしそうでなく、境界へのチャレンジを常に治療抵抗として扱うという方針を持つ治療者ならどうだろう? それは剛構造的な治療態度という事になるが、患者は少し時間が遅れたり、治療者のプライバシーに少し踏み入ったような質問をした時には、患者はすぐに指摘されたり、ピシャッと跳ね返されたり、あるいは何事もなかったかのように無視されたりするだろう。「私の来週のキャンセルの理由をどうしてお尋ねになるのですか?」という質問はそれ自身はニュートラルであったとしても、患者は咎められている感じがするだろう。あるいは治療時間を過ぎても話が終わらないと、剛構造的な治療者は「はい時間ですね!」と強制終了させられることになる。患者には治療者は血の通っていないロボットのように感じられるかもしれない。
ここで私が日本を発つとき頭にあった「治療抵抗であるか偶発的かは、トレーニングを積めばわかる」というS先生の教えに戻りたい。それに触発されて私は渡米して精神分析のトレーニングを受けることを思い立ったのだった。そしてかりそめにもトレーニングを終えた私が40年前のその時の私に対して言うとしたら次のようなことだろう。
「確かに患者が3分遅れて到着した時、それが偶発的か、治療抵抗かが分からないという事は今でも起きているよ。はっきり言えば、精神分析はその種の直感を鋭くする方向にはあまり役立たないのだ。でもそのどちらかを見極めることはそれほど重要なことじゃない。それは多くの場合そのどちらとも決められないからだ。」
つまりこう言えるのだ。精神分析のトレーニングは、直観を鍛えることにはならなかった。ただしその種の出来事を柔構造的に扱うことが出来るようになるのである。
ところで剛構造的なバウンダリーの何が柔構造的な運用のされ方をするかは、そのバウンダリーの性質によることになる。揺らぎようのないバウンダリーは確かにある。治療の行われる場所やその料金などはそれに相当するだろう。
しかしそれ以外の要素の多くは揺れ動く余地を持っているし、それは常に交渉により変わりうるものだ。治療終了時刻にしても、患者が気分が悪いから早退することもあるだろうし、治療者が少しうっかりして終了時間を遅くしてしまうこともある。つまりそれが柔構造かどうかは、それが両者によって動く余地があるものとして扱われるかにより違ってくるのである。
ところで柔構造については次のように一般化できるだろうか。ある種の決まりや秩序に対する私たちの態度は二通りある。一つは「それを破ってしまえ、無視してしまえ」という自由奔放さであり、もう一つは「それを破ったら大変な事になるかもしれないので、しっかり守らなくては」という警戒の念だ。私たちの行動はことごとくこれらの二つの意志の間のせめぎにより成立している。ウォーコップ・安永は前者を「生きる行動 living behavior」と「死を回避する行動 death-avoiding behavior」と表現し、分析家のホフマンは前者を「自発性」、後者を「儀式」としたのだ。
私たちの個人的な生活における行動はことごとくこの種のせめぎあいの産物である。起床する時は目覚まし時計の鳴る音通りに起きるという力と、目覚ましを無視してもう一休みしたいという願望がせめぎ合う。スナックを食べる時は、「もうダメ!」と制する声と「もう一枚!」という囁きがせめぎ合う。
しかしこれは二者関係においては一段と複雑なものになる。相手があることで、押したり引いたりする力の要素は「対人化 interpersonalize」されるのである。以前、「患者と治療者にとって境界はそれぞれにとって一方向性である」と言った。患者は時間を減らす自由はある程度あるが(「今日はお先に失礼します」)、それでも「あまりに早く退出するとさすがにまずいだろう、まるで治療をサボっているように思われてしまうから」という抑制がかかる。また時間を超えて話し続けることには「それをしては駄目」という内なる声以外にも、治療者の側からの実際の抵抗に出会うだろう。そしてそれと逆向きの方向性を治療者は有する。つまり治療者は時間を延長する方向への自由度を持つが(といっても患者さんが急いで帰宅しなくてはならない場合、あるいは分析家の顔をそれ以上見たくはない場合には別であるが)、患者さんの時間を奪うような形で早めに切り上げることはよほどの事情がなと出来ないであろう(治療者が何かの身体疾患の発作を起こしてそれ以上セッションを継続できなくなった場合、或いは火災が発生して緊急避難をしなくてはならない時など)。この場合自由度の高い行動ほど「自発性」に基づき、自由度が低い行動ほど「儀式的」で超自我により(「お互いの時間を奪ってはいけない」)規定されたものであることがわかる。
ホフマンがこの種の議論を精神分析に持ち込んだおかげで、分析家たちは精神分析という場を極めてダイナミックで複雑な出来事の舞台として認識できるようになったのではないだろうか。