2026年9月22日火曜日

成田先生のこと 9

 つまりこういうことだ。ある治療者がどれだけ自由かは、「どれだけ学派に捉われていないか」ではなく、「どれだけ捉われかけているかを自覚できる」ということなのだ。すでに述べたとおり、は少なくとも初心の段階では何らかの文化の影響下にあるのがふつうであり、それから逃れることは難しい。しかしその捉われについて客観視できることが大事なのだ。
 しかしどうしてこの点がそれほど重要なのだろうか? それは患者の側は基本的に無文化だからだ。特殊な事情、たとえばある学派に属していることで有名な治療者A先生に教育分析を受けることで、その学派の臨床を生きた形で吸収しようという目的で治療を受けるという場合を除いては、患者は自分の人生においてある悩みや疑問を持ち、それについての援助を求めて来談する。それは基本的には学派と無関係なことなのだ。例えば孤独に苦しむ人の場合、その苦しみは学派には関係はない。各学派はその種の苦しみをどのように捉えるかという違いのみが存在するだけだ。
 しかしもちろん患者が文化を背負っている場合もある。「フロイトは神経症的な苦しみを治療により取り除かれたのちに、通常の人生の苦しみが残る、と言ったが自分の苦しみの場合はどうなのか?」など。しかしその治療者はそれをフロイトの立場に立ってのみ論じられるかと言えばそうではない。フロイト的な考えに捉われているゆえの苦しみであるならば、フロイト的な考えの外に立って考える必要も出てくるだろう。
 さらに言えば、患者の話を聞いているうちに、自分に自信が持てないというその悩みは、治療者自身の「自分に自信が持てない」という、おそらく現在の自分やかつての自分が持っていた悩みに通底し、そこからは学派を越えた個人的な問題に立ち戻るのである。そしてその問題は無文化的であり、なぜならその苦しみを少しでも和らげるためにはどの学派の考えでも構わないからである。そして「どの学派でも構わない」はいたって無文化的な発想であり、それこそ喫緊の問題であり、患者がお金と時間を費やしてでも通ってくるモティベーションにもなっているのである。
 ただしこの「どの学派でも構わない」という姿勢自体は、その治療者が慣れ親しんだ文化を捨てるということではなく、おのずとそれに従って考えている文化が行き当たり、それ以上進めない時にそれをいかに無視し、自分の思うままに進むかということだ。そしてそれが私が治療者の自由度として考えることである。

2026年9月21日月曜日

成田先生のこと 0

成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係になったわけではなく、SVをお願いしたこともない。年に一度学会でお姿をお見掛けするだけであった。私は先生の著作のファンであったが、先生の本を隅から隅まで読んだわけでもない。しかし私の中での先生の位置は特別なものであった。それはどのような意味でであろう_

これを考えると、かつて先生が古沢賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はその時の受賞講演の司会の役をいただき、 最初に 先生を簡単にご紹介したのである。その時私は最後に「成田先生は精神分析学会の良心です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ」と苦笑なさったことも含めて明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり「分析学会の良心」であったと思うのだ。この文章は私がそれで意味するところをできるだけ簡潔にお伝えしたいと思う。


2026年9月20日日曜日

成田先生のこと 8

 私が今あげた例は、治療者が自由度を失った状態を示すことを目的としていたわけではない。初診の治療者が誰でも通る道をわかりやすく示したかっただけである。もちろん治療者は経験を積む中で、治療場面で起きたことに自分ひとりで臨機応変に対応するようになるだろう。つまり彼はある意味での自由度を獲得していくことになる。しかしそれでも彼は自分が学んだ学派の考えや、過去のバイザーによる刷り込みを逃れることは出来ていないことが多い。そしてそれが本当の自由度なのかどうかは、分かりにくいことが多い。
 では本当の自由度とは、目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか、そして今の自分はそれに見合った対応が出来ているかを考える能力であり、できれば両者を矛盾のない形にすべく、治療者としての自分の在り方を形成していく力ということになる。
 ここで「目の前の患者の立場に立った場合にどうして欲しいか」は、もっと端的に言えば「自分が教育分析(個人セラピー)により、患者の立場に立った時に感じること」ということになる。もちろん共感性の高い治療者なら目の前の患者の気持ちに合わせることは出来るであろうが、本当にそれがわかるのは、自分が患者の立場に実際に立たされた体験を持つことである。もし過去に同様の状況で贈り物を拒絶した経験がある治療者は、自分が同じ立場で治療者に買ってきたお土産を受け取ってもらえないという体験を持った時に初めて「あの時」の治療者としての自分の対応を振り返ることになる。そして「あの時は学派の考えとかバイザーの教えに従っていたけれど、本当に治療的なのは~だったな。自分も一人の治療者として、あの時の間違いを繰り返してはならないな」という、ロジャース的な「自己一致」に準ずる考えを持つことが出来たら、その治療者は本当の意味での「自由度」を獲得できたことになる。そしてその自由とは、学派の縛り、バイザーからの縛りからの自由ということになるのだ。


2026年9月19日土曜日

成田先生のこと 7

 この文章のタイトルにあるように、成田先生は比較的自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、その縛りは比較的少なかったのではないかと思う。そして人間として自由であることその治療者としてのスタイルは極めて関係が深く、ある意味では治療者であるうえで決定的な資質とも関係しているように私には思われるのである。
 成田先生について語る前に、この治療者としての自由さということについて述べておきたい。少なくとも我が国において、精神療法(特に心理療法とは区別せずこのような呼び方をしておく)を行う際、何らかの学派の影響を受けていないということの方が稀であると考えて差し支えないだあろう。精神科医あるいは心理士として大学教育や卒後教育を受ける時点で、例えば精神分析や認知行動療法やロジャース派の理論を学んでいるであろうし、その学派に属するスーパーバイザーについて指導を受ける可能性が高い。そして初めて患者を担当する際には、おのずとその学派で常識とされている考え方に最初は従うであろう。
たとえば精神分析学会に属し、分析関係者のSVを受けているとしたら、分析的な考え方に従った治療を行う傾向にあるであろう。その意味でその治療者は本当の意味で「自由」ではない可能性がある。もし臨床場面で一つの方針を立てようとしている時、「これは分析的にはあまり薦められないな」という考えが浮かび、その方針を変更する時、その治療者は倫理的に正しいのだろうか?
例えば患者がそれまでの週一回の頻度の面接を、次回から隔週にして欲しいと望むとする。初心の治療者ならそれをそもそも聞き入れるべきか、その要求をどのように理解するべきかということに関して途方に暮れ、それだけで身動きが出来なくなる可能性がある。急な面接頻度の変更にどのように対処するべきか?それは分析的な精神療法のテキストに書かれている事だろうか?バイザーはこれについてどのような判断を下すのだろうか?・・・・ おそらくその時に患者がどのような気持ちなのかについて考えるという作業は、それをしないということはないまでも、おそらく二の次になる。なぜなら治療者は「間違った対応をしてはいけない」という不安に駆られているからである。

2026年9月18日金曜日

私の治療方針 3

 治療の実際

【解離性同一性症】

 一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週) 

 二手目 患者の日記ないし手記の作成を出来る範囲で促し、治療に活用。

【解離性遁走】 

 一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
 二手目 記憶の欠損部分に関する個人年表の作成

【FND】 

 一手目 安全・安心を与える環境での支持的な精神療法(毎週~隔週)
 二手目 脳神経内科へのコンサルテーションないしはそれとの並行治療

いずれの項目に関しても第三手目としては併存症(気分障害、パニック、PTSDその他)の薬物的治療


私のTips 

治療の経過でも診断的な見直しや併存症の確認が極めて重要となる。また症状の悪化を招くようなトラウマ因を除外ないし回避することも極めて重要である。


2026年9月17日木曜日

私の治療方針 2

 私の治療方針・処方の組み立て方

解離症の治療はその正しい診断的な見極めとその患者への説明や情報提供に始まる。解離症状は極めて多彩なために他の身体疾患や精神疾患と誤診されやすく、またそれらの症状に併存して見え隠れしている可能性がある。注意深い身体疾患や脳神経学的な疾患の有無の検討の上に解離症の診断が得られた場合には、その症状の表れ方を理解し、それを患者やその家族に説明し、それが演技や作為によるものでないことを説明する。一般に解離症状そのものに有効な薬物がなく、解離性の陽性症状(幻聴、幻視など)が抗精神病薬の処方により改善することはあまり期待できない。しかしそれらの少量の使用は興奮や気分障害などの併存症の症状を抑える意味で有効であることが多い。鬱症状への気分安定薬や抗うつ剤も同様である。抗不安薬の使用は不安の解消に有効であるものの、場合によっては解離症状を悪化させる可能性もあるので注意を要する。


2026年9月16日水曜日

私の治療指針 1

 かなり短い原稿依頼。「事典項目」に近い。

疾患メモ 解離症/解離性障害は、意識、記憶、同一性、情動、知覚、身体表象、運動制御、行動の正常な統合の破綻ないしは不連続性により特徴づけられる。しばしば心的トラウマ(心因、強度のストレス)の結果生じる。解離症/解離性障害は記憶や意識の障害を呈するものと知覚及び運動機能の障害を呈するもの(従来の「転換性障害」)に分類される。(なお後者はICD-11では解離性障害の一つとして分類されるが、DSM-5では身体症状症というカテゴリーに属する。)

診断のポイント 本人の体験に関する認識や記憶が不連続的であり、しばしば健忘を残すことは診断の一つの決め手である。また幻聴や感覚の脱失、不随意的な運動、等が比較的急に現れ、消失するというパターンを取ることが多く、その背景に本人の驚きや恐怖などの情動的な体験が見られることが多い。症状の多彩さから統合失調症などの鑑別がもんだいとなることが多く、また身体科、脳神経内科の受診が先立つことが多い。