2026年7月10日金曜日

甘え 推敲 4

土居と同じ路線のウィニコットの脱錯論

 土居のこの議論はウィニコットのそれとほぼ重ね合わせることができる。「原初的没頭」にある母親が、乳児の欲しいものを差し出すことで、乳児は自分がそれを魔術的に創造したという錯覚を起こし、それが乳児の万能感を持つ。乳児は徐々にそれが叶わないことによる「脱錯覚」を体験することで、対象としての母親を見出し、現実を知る事になる。 「まだ一度も授乳を経験したことのない赤ん坊を想像してみよう。空腹感が生まれ赤ん坊は何かを思おうとしているところである。赤ん坊はニードから満足の源を想像する用意がある。だがしかし,そこで何が期待できるかを赤ん坊に示すための体験がまだない。もしこの瞬間に母親が赤ん坊が何かを期待しかけているところへ彼女の乳房を置いてやるなら,そしてその子に十分な時間が与えられ多分匂いの感覚とともに,口や手であちこち触りつくせるなら,赤ん坊はちょうどそこに見つけられたものを‘創造’したのである。ついに赤ん坊は,現実の乳房がまさしくニードと貪欲さそして原初的な愛の最初の衝動から創り出されたものであるという錯覚を得る」(Winnicott, 1964,p.90)

 ほぼ同様の文脈でフェレンツィやバリントは「一次愛」や「受身的対象愛」について論じた。土居は精神分析の世界でも、彼らの概念が「甘え」に相当するものであることを知った。

 フェレンチが「タラッサ」において提出し、更にバリントにより引き継がれた受け身的対象愛 passive object love(Balint,1968, Ferenczi,1924)の概念は「他者から愛されたい願望」として表現されるが、土居はこれが事実上甘えについて論じているとし、バリントも土居との文通の中でそれを肯定した。後にバリントはこれを primary love と言い換え、土居はこれを「最初の愛」「根本愛」などと訳した。このように考えると土居の言う「甘え」は普遍的に存在すると考えざるを得ない。



2026年7月9日木曜日

甘え 推敲 3

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、甘えをめぐって精神分析研究 選集2 Vol.14, No3,1968 P120)

 わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。

相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望。  これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく「条件付き conditional 」な愛だからである(岡野,1999,Okano,2024)。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両断なのである。

岡野憲一郎(1999) 甘えと「純粋な愛」という幻想 北山修 編(1999)日本語臨床3「甘え」について考える に所収

Okano, K(2024)Passivity in amae relationships and the fantasy of “unconditional love” in The Journal of the Japan Psychoanalytic Society, Vol.6 39-47.



2026年7月8日水曜日

甘え 推敲 2

 土居の甘えの理論は初めての渡米の際のカルチャーショックに端を発していると言われる。そしてその体験は「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。  初めての渡米(1950年,30歳)で知人宅で「あなたはお腹がすいているのか、アイスクリームがあるのだが」と聞かれ、お腹は減っていたが、いきなり初対面の相手にお腹がすいているとも言えず、「すいていない」と返事をすると、「あー、そう」で終わってしまった。日本人なら、お腹がすいているかなどと不躾に聞くことはせず、何かあるものを出してくれるのに‥‥と思ったそうある。 「甘えの構造」には同様の経験が書かれており、そこで彼が思ったこともかなり批判的な口調で書かれている。それらを引用しよう。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


 どうだろう。これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言えないだろうか。これらを読む限り、土居はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 土居のアメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かの該当者は、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。


2026年7月7日火曜日

甘え 推敲 1

土居健郎先生の甘え理論はどのくらい先駆的であったか、というテーマで論じる。私はたまたま昨年11月に、ある学会の「甘え」に関するシンポジウムに招待され、甘え理論を再考する機会を持った。その結果以下の疑問が生まれた。

 一つには世界的に知られている甘え理論の何が画期的だったのか?(本当に画期的だったのか?)ということである。甘えは日本の精神分析にとって一つの記念碑という意味合いがある。それほどにこの理論は世界中で一定の認知度と評価を得ているのだ。しかし我が国の精神分析で甘え理論を発展させた業績というのはさほど多くないというのが現実である。もちろん国内では様々に議論されている。しかし世界でレベルでもあまり盛んな議論を巻き起こしているとは言い難い。それはなぜだろうか?私たちはこの貴重な遺産を正しく評価しているのであろうか?それが一番問うべき問題である。

 もう一つの疑問は土居先生は甘え理論を「実践」していたか?ということだ。それは一つには土居先生はお弟子さんを甘やかす、ということとは程遠い存在だったということも関係している。それを先生に散々お世話になった私が言うことは恩知らずと思われても仕方がないかもしれない。でも私の土居先生のイメージは、とにかく果敢に自分の意見を舌鋒鋭く述べる、いわば「戦う人」というイメージなのだ。

 もちろん甘えの理論を唱えた土居先生が患者や弟子の甘えの願望を満たすことを意味するかと言えば、全く違うかもしれない。しかしそれでは治療者としてあるべき姿として彼が唱えていたのはどのような態度だったのか。これを私はまだ十分に理解していないことをこの度自覚したのである。


2026年7月6日月曜日

解離とリスク 5

  こでBPDやPTSDにおける自殺傾向と、解離性障害における自殺傾向とではかなり異なる意味合いを持っているということを図を使って説明したいと思う。この図にある通り、BPDやPTSDやアルコールによる酩酊自殺傾向は何らかの生活上のトリガーにより賦活される。しかしこの自殺念慮は多くの場合、彼らの意識からそれほど遠くないと見ていい。

 この生活上のトリガーとしては様々なものがあり、配偶者との口論から一気に強い自殺念慮に見舞われる場合や、ネット上での中傷を受ける、試験や投資に失敗するなどの例が挙げられる。しかし時には何の前触れもなく抑うつ的な気持ちになったり、夜寝付かれずにネガティブなことを考えているうちに自殺願望が頭をもたげてくることもある。アルコールによる酩酊などでは、情緒的に非常に不安定になった挙句に衝動的に自傷や自殺行為に及ぶという場合もある。

 ところが解離においてはかなり事情が異なる。それは「自殺傾向を有する人格」という形を取り、普段は解離というカプセルに入った状態である。その保護膜は厚く、それがいたずらに賦活されないように守られている。そしてこのカプセルは、それ以前に自殺企図が生じた際に、それ以上の暴発を抑えるために冷凍保存している可能性があるのだ。

 ただし生活上のトリガーの種類によってはかえって容易にその人格が賦活されることがある。それがおそらく解離における自殺企図の多さに表されるであろう。しかしそれはまたほかの保護的な人格の牽制を受ける事になる。 

 そしてこの図が表していることは二つある。一つは解離のカプセルの存在が自殺傾向を誘発しているのではなく、自殺傾向の結果としてカプセルが出来上がっているということ、そして二つ目はほかのカプセルがその自殺傾向をけん制している可能性があるということである。


臨床例)

<中略>

Bさんのケースでは解離は既遂自殺を促したのか、それともそれを数年間遅らせたのか?

最後に本発表の結論を示す。

  • 解離においては頻回に自殺企図が見られるが、解離がそのの原因になると信じる根拠はない。

  • 解離は自殺にとっての危険因子でありうるが、少なくとも保護因子としての意味を有するであろう。

    • もし実際にDIDにおいては自殺未遂に比して既遂自殺が少ないのであれば、その証左となる可能性がある。

  • 解離の機制は障害であると同時に能力や創造性としての側面を持つことを明らかにすることはDIDの患者に対するエンパワメントにつながる可能性がある。

2026年7月5日日曜日

解離とリスク 4

報告者の仮説的な見解
ここで私の仮説的な見解を述べておこう。 解離という現象は、イマジナリーコンパニオンや体外離脱体験等が一般人にも広くみられることから、多くの人間にデフォルトとして備わっている機能である可能性がある。
最初の危機状況での解離は Putnam の言う「生き延びるための価値」としての防衛機制が発揮されたものと考えられるであろう。つまり解離は「保護因子」として働いている可能性がある。
DIDにおいては過去の被虐体験を担う人格による自殺企図が繰り返される可能性が高いが、それを抑制する人格も多く存在するであろう。
DIDにおいて自殺企図が必ずしも既遂自殺に至らないのは、自殺の瞬間の人格間の抑制の結果ではないだろうか? ここで私が最近投稿した論文の要旨を示したい。

解離現象はトラウマに反応して生じる防御反応であるだけではなく、それ自身が生存の価値を持った創造的なプロセスであると考えられる。それはイマジナリーコンパニオンに見られる内的な人格の創成と、体外離脱を祖型とするスイッチングに特徴づけられ、その説明の図式としてポリヴェーガル理論を用いることができるであろう。
(精神科〇〇学 2026年 第41巻 増刊号)

症例A

「昨日マンションから飛び降りようとしたが、死んでたまるか、という自分が抑えていた。

<以下略>

2026年7月4日土曜日

解離とリスク 3

 Foote ら(2008) の研究から見えにくいこと

ここでこのフートらの研究からは見えにくい点について示したい。

先ず言えるのは、これをこのまま読むと、解離性障害 → 自殺企図増加 → 既遂自殺増加

という一直線の図式を頭の中で描いてしまう。つまり「解離症状は自殺を引き起こす危険なもの」という先入観を抱かせるのである。しかし実際に示されているのは、解離性障害は複数回自殺企図との相関を示すということである。つまり解離は自殺企図の「予測因子 predictor」とは言えるが、因果因子 causal factor とは言えない。
DIDの患者は確かに大きなトラウマを抱えている。しかし彼らにとっての解離は、少なくとも「危険因子」であるだけでなく「保護因子」として働いている可能性がある。

解離の既遂自殺のリスクについて: エキスパートたちの見解

さて、では肝心の既遂自殺についてはどうなのだろうか?これについては十分な研究がないので、過去のエキスパートたちの記載を見てみよう。

F.Putnamら(1986):DID100例の研究では、71%に自殺未遂が、1%(一名)に 既遂自殺が見られた。またC.Ross&Norton (1989):236例の研究では、MPD/DID患者の 72% に自殺未遂がみられ、2.1% に既遂自殺が見られたとと報告している。さらにR.Kluft (1995) は DID患者6例の既遂自殺 を臨床観察として報告している。

ここで文献検索のまとめをしておく。

DIDでは確かに自殺企図および自傷の頻度が著しく高いことが繰り返し報告されている。ただし解離と自殺企図の因果関係は依然示されていない。

他方、既遂自殺率については十分な研究がなく、一部の報告では比較的低率である可能性も示唆されている。