そもそも精神療法の実態は極めて漠然としたものである。患者と治療者は対話により患者が持ち込む問題の解決を模索するが、その内容も、その解決のされ方も漠然として言語化しがたいことが多い。患者の側は、毎回のセッションでの治療者とのかかわりが心地よく感じられるか、それとも無意味に感じられたり腹が立ったりするか、といった自分の中の情緒的な反応でしか、そこで起きていることを感じ取っていない可能性がある。
ただし患者の多くは、少なくとも治療者は治療で何が起きていて、どのような方向に進んでいくかについて明瞭な意図や考えを持ち、それをもとに自分を導いてくれていると想像する。「先生は何をしてくれているのですか?」という上述の患者の質問は、ある程度理由があってのものである。しかしまた同時に、患者は治療者が生身の人間であることをどこかで十分知っており、自分の持ち込む問題を解決できないかもしれないという一種の覚悟や諦念を持っているかもしれない。それは自分が持つに至った問題の責任の所在は自分にしかないということを知っているからだ。だからこそ患者は「いくら治療を続けても少しもよくならない」と治療者を責めるのは、どこか無理筋であることを、たいていの患者は気が付いているのである。そして治療者に「すみません。私の力不足です」と「白状」されることで、患者は結局自分の問題に責任を持つのは自分自身なのだという冷たい現実に立ち返ることになる。つまり治療者の「白状」は、患者が治療者に過剰に期待していたことへの気づきを促すことになるのである。
治療が成果を結ばなかった場合に、その時間は果たして無駄だったのだろうか?それでも患者の多くは治療者が誠意をもって治療を試みてくれたことでそれなりに諦めがつくものだ。治療は成功しなかったがある種の治療関係が築けたという記憶は残る。そこでは治療者と患者がお互いに同じ人間であるということを確かめる。成田の言う「心の井戸」すなわち「治療とは患者の心の探求というよりは、治療者がともに心の奥深くまで下りていき、そこに『一人ぼっち』であることを見出すことである」とはこのような体験をさすのであろうと私は考えるのだ。もとより見事な解釈が華々しい成果を生むというプロセスを、成田はあまり信じていなかったのであろう。その代わりに治療者が「正直に言う」ことが心の井戸」の体験を共有することにつながるとしたら、成田はそれでよしと思っているに違いない。
最後に
私がこの一文を依頼されたことは大きな意味を持っていた。私はいかに自分が言いたいことをほぼそのまま成田先生(敬称に戻す)が語ってくれていたかを知ったのである。いや、そういうのはおこがましい。明らかに成田先生は私が臨床上考えていたことをはるかに奥深く考え、言葉を残していった。成田先生が残した膨大な文章をこれから一つ一つ丹念に読んでいきたいと思う。そして彼ほどではないにしても「自由さ」をさらに獲得していきたい。