2026年6月22日月曜日

甘え理論の先駆性 4

 ところでこのような考えに従った土居の理論は、どの程度先駆的だったのだろうか、という本題に入る。別稿で検討したように、愛着に基づく精神療法では、治療とは愛着関係を再現し、そこで治療者・患者の間の心の、生理作用の、脳の同期化を目指すものである、というのがフォナギーやショアやホームズの理論であった。  このような前提を踏まえた場合は、精神療法における治療関係はある種の愛着関係の再構築としてのニュアンスを持つことが示唆される。これは従来の精神分析における解釈を中心とした認知的なプロセスをその治癒機序として考える流れとは大きく異なる方向性になる。でははたして土居の理論は、これらの流れに先駆する理論であったのか?その答えを以下に探る。  その骨子をまとめるならば、もし愛着に元ずく精神療法が愛着関係を取り戻すという方向であるならば、おそらく土居の方針はそれとは大きく異なり、むしろ真逆なところすらある。土居が繰り返し言うように、本当の意味での甘えは実現しないということを理解することが治療であるという考えを彼は持っていたからだ。しかしそれはどのような意味なのだろうか?フロイトは治療の最後には「素直な甘え」が登場すると言っている。つまり素直な甘えを治療者に表現することになるわけだ。でもこれは甘えを満たす体験ではない、とも土居は言う。ここの関係はいったいどうなっているのだろうか?


2026年6月21日日曜日

甘え理論の先駆性 3

  結局甘えとは何かということについては、私はかつて以下のようにまとめている。「相手に対して持つ欲求を、こちらから求めることなく、相手から先に、積極的に満たして欲しいという願望」。

これに尽きるであろう。ではこのような「甘え」はなぜ生じるのか? これも当たり前すぎるような疑問である。こちらから要求して満たしてもらってもあまりうれしくない。それは無条件の愛ではなく(岡野,1999,Okano,2024)「条件付き conditional 」な愛だからである。問題はこれは日本人だけが思うことだろうか?ということだが、ここら辺は土居も一刀両

断なのである。

(ちなみに以下は土居先生の還暦の頃の写真である。私が最初に面会をした頃の先生は、このように若く精悍であった。)

 

土居は次のような表現をしている。まず日本人は主格分離を何とかして否定しようとする甘えの方向に常に働く。ところが欧米人は主格分離を建前とするので甘えを否定し、基本的本能的欲求としての甘えの概念に到達出来なかったのだ。(土居、精神分析研究 Vol.14, No3,1968 P120)

わかり易く言うと、日本人は甘え合う文化であり、それを是とする。ところが西欧文化ではこれを否定する。つまり自分と他者は分離しており、甘えのような両者の融合を目指すようなことは建前上否定する。ところが本心は甘えの願望を持っている。それを彼らは抑圧しているのだ、というわけである。


2026年6月20日土曜日

甘え理論の先駆性 2

 土居先生のアメリカでの原体験については、「甘えの構造」にしっかり書かれている。そこを引用するならば以下の通りだ。

  • 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである」(同、p.16)

  • 「[米国では]精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。」(同、p.16)


これはかなりアメリカ人に喧嘩を売っているような表現と言える。このようなところを読む限り土居先生はかなり文化的なバイアスがかかった物言いをしていたことがわかる。ある意味では反米的で、渡米したころからかなり挑戦的であったことがわかる。しかしそれでいてとても英語が堪能で、早くから海外に出ることを考えていらっしゃった人でもある。
 アメリカ人に対する批判には歯に衣着せないものも含まれる。ある時メニンガークリニックに久しぶりに訪れた土居先生は、聴衆に向かって、「久しぶりにアメリカに来てみたら、太り過ぎの人がとても多くなってびっくりしました」と言ったという。すると聴衆の何人かは、席を立って帰ってしまったという逸話を聞いた。そういうところがあるのである。「甘えの構造」はさっそく英訳されて海外でも読まれるようになったが、これらの引用部分など、米国人が皆どんな思いで読んでいるのかとひやひやするところがある。


2026年6月19日金曜日

甘え理論の先駆性 1

  土居健郎先生の甘え理論はどのくらい先駆的であったか、というテーマで論じる。私はたまたま昨年11月に、ある学会の「甘え」に関するシンポジウムに招待され、甘え理論を再考する機会を持った。その結果以下の疑問が生まれた。

 一つには世界的に知られている甘え理論の何が画期的だったのか?(本当に画期的だったのか?)ということである。甘えは日本の精神分析にとって一つの記念碑と言ったニュアンスがある。それだけこの理論は世界中で一定の認知度と評価を得ている。でも我が国の精神分析で甘え理論を発展させた業績というのはあまり知られていないのも確かである。また世界レベルでもあまり盛んな議論を巻き起こしているとは言い難い。それはなぜだろうか?私たちはこの貴重な遺産を正しく評価しているのであろうか?それが一番問うべき問題である。

ただしこういう私も去年のシンポジウムがなかったらこの問題に着手する事はなかったのを思えば、私自身が甘え理論に特別関心を寄せていなかったのも確かである。それはなぜなのか?これは私自身への問いということにもなる。

もう一つの疑問は土居先生は甘え理論を「実践」していたか?

実はこれは非常に悩ましい問題だ。土居先生は御自分の二回の教育分析に関して、それが波乱に満ちて、中断の形をとったことを自ら明かしている。しかしそのことから自分が得たことはとても大きかったとも語る。それが甘え理論とどのように関わるのか?その理論は自らの苦しい教育分析によって得られたものと関連しているのか。

 しかし実に意地悪な見方をするならば、教育分析に「失敗」した彼にそれを語ることは出来るのか、となる。先生自身が自らの失敗体験(?)を開示していることに、私たち後身は何を学ぶことができるのか?


2026年6月18日木曜日

土居先生と精神分析 7

  少ししつこいようだが、今までの私自身の理解を確かめるために書き記しておく。

「この人はいつも自分のそばにいて、私のことをわかってくれて、こちらが望む前にいつでも手を差し伸べてくれる」という幻想は、初期の養育者との関係の中で生まれるという仮説が、エクスタインの「基本的な一致 unity 」であり土居の「素直な甘え」である。その後に現実を体験してそれが現実の世界ではかなわないと知ることで脱錯覚が起きるわけだ。そしてその代わりに心の中で「誰かがどこかで自分のことを本当にわかってくれる」という気持ちを持てるようになることが「基本的な結合 union 」の成就ということになる。後者に至ることが私たちの目標になるわけだが、これはやはり幻覚的な要素を持つことは確かであろう。
 ところでこの結合はかなり矛盾を含んでいて、そもそもそれは現実の他者との結合ではない。自分の心の中だけで起きているからだ。しかしそれは確かに対象イメージを含んでいるから、一応結合と呼んでいいのだろう。「お前は大丈夫、特別だ」というメッセージはやはり外部性を含まなくてはならない。そしてある程度は外部の実際の関係性により析出され、高められる必要がある。それがいわゆる自己対象の機能であろう。

 とにかく自分のことを百パーセント認めて欲しい、夢であってもいつか叶えて欲しい、たとえあの世であっても…という考えは狂気に近いが、それを自分が持っていて、同時にそれが今の現実の世界ではかなわないことも認めることが「素直な甘え」ということだろう。つまり自分の中に狂気を抱えつつ、それを容認していることが「基本的な結合」なのだが、その祖型を作ってくれたのは、初期の愛着関係であると考えることができる。それはその時期の養育者との脳のシンクロの体験であり、その時にできた脳の回路が原型となっている可能性がある。そしてそれを治療者がブーストするのが「愛着に基づく精神療法」の意義なのではないか。またそのブーストは日常の人間関係でも少しずつ起きている可能性がある。親しい友人や配偶者との関係である種のやさしさに触れると「この人は基本的な結合の『かけら』を与えてくれている」と思えること。あとは自分で幻想を膨らませればいいのである。

2026年6月17日水曜日

土居先生と精神分析 6

北山先生は「錯覚と脱錯覚」のp.120 でこう言っている。

「この乳房を介した錯覚は離乳と共に脱錯覚を被るが、実世界や現実において我々は自分の望むものを作り出すことが出来るかもしれないという「希望」を抱くときの基盤となる。」「そこには現実原則の受容、痛みを抱えるための包容力の発達、自動的で魔術的要素の衰退、さらに大人においては社会に貢献するための創造力の確立などを伴わなければならないが‥‥」なるほどね。  さて後の人生の中で子供は新しい対象に出会う。それはメンターでも恋人でも配偶者でも、そして自分の子供でもいい。その対象を愛するということは、おそらくその幻覚を一時的に共有できた相手であり、多分それだけで存在価値があるのであろう。もし共同生活をつづけたとしても、幻覚を共有したというだけであり、過度の依存も期待もないはずである。  さてそのような段階に至った人は「素直な甘え」の境地にあるという土居の議論ははっきり言ってよくわからない。裏切られても相手を恨んだり、自己愛の境地に逃げ込むことがないというのが「素直な甘え」だとしたら、土居が匂わせている原初的で母子一致の状態を彷彿させるとしても、実はかなり高い自我機能を前提とした、つまり「現実原則に従った」関係性といえるだろう。それと母子一致の状態での甘えの共通点といえば、相手からの裏切り、脱錯覚による痛手や、それへの不安が存在しない、それらの懸念から解放された境地と言える点だけではないだろうか。  間違っているかもしれないが、私はこう思う。治療の終結で現れる素直な甘えは、内的な対象像との間のそれであり、おそらく直接かかわっている相手に対する甘えを含んだ行為とは程遠いものなのだ。あるいは以下に述べる「大人の甘え」であろう。  さもなくば、終結期の純粋な甘えや、バリントの言う受け身的対象愛のレベルは、人は容易に到達しないのではないかと思う。それは自己愛を捨て去った悟り済ました境地ということになるが、バーチャルにしか存在しないのではないか。だいたい人からの裏切りを恐れないということは結局人に一切期待しないということになるが、そんな関係は現実にはあり得ないだろう。完全な世捨て人やAIでもない限り。だから「純粋な甘え」は近似的にしか体験できないと考えるべきであろう。  ただし小此木先生も語っているようないい意味での甘えの関係は、程よく抑制がかかっていて、甘えの相互性が成立していて、色々な意味で「素直な甘え」に近いのであろう。でもこれは言い方を変えたら「大人の甘え」ということだ。これを母子一致の時期の甘えと同じようなものとして語ると逆に混乱のもととなるのではないだろうか。

2026年6月16日火曜日

土居先生と精神分析 5

  そして一定の期間一致 unity の体験を持つことで養育者像はようやく自分とは異なる外の存在として認識され、したがってそのコピーを作って内在化させることができる。つまり子供の心の中での自分と養育者コピーとの結合 unification が起きるわけだ。おそらくこれはかなり生物学的なプロセスであり、脳のあらたな配線が形成されるのであろう。ここで達成されるのは基本的な二者関係であり、reciprocity の成立であり、要するに相手の心に自分を見出し、自分の心に相手を見出すという体験である。これは甘えの文脈では甘えの相互性ということになり、「甘える ⇔ 甘えさせる」が同時に「甘えてあげる ⇔ 甘えてもらう」にもなっているという関係だ。  そのような関係に導いてくれた養育者は、おそらく何があっても自分を大事にしてくれる、自分を優先してくれる存在として、つまりかなり粉飾された形で心に定着する。そしてそれに絶対的に肯定されているという感覚を生むのだろう。そこに至るまでに、子供は養育者が自分を犠牲にしているという感覚が伴ったのであろう。自分よりも子供、という感覚を得られた子供は、その養育者を内在化でき、ある意味ではその外的な養育者をもう必ずしも必要としなくなる。つまり一人の存在として自立できるわけだ。自分は一人であっても、実は結合のおかげで一人でないからこそ、常に安心感を与えてくれる。心に隙間風が入ってこないから寒さを感じないのである。その時人から貶められたり、蹴落とされたりということがあっても、それにより深刻に肝を冷やしたり絶望的になることはない。いや、たとえ一時的に落ちたとしてもたかが知れているのだろう。それはもう孤独ではないからである。  もしここに至らずに成長したらどうなるのか。土居の言葉を借りれば、素直な甘えは育たずに、ナルチシズムに退行した状態となる。養育者は自分のことをすべて肯定してくれるべき存在であると信じ、そうでない姿に対して激しい失望と怒りが生まれる。これは unity をまだ夢見ている状態だ。そしてその怒りがすでに年老いている養育者に直接ぶつけられるのが特徴である。ここで注意しなくてはならないのか、そのような養育者は、まだ正式な対象ではないということだ。ただしここでいう対象とは、対象関係が成立している関係性における相手のことを言う。つまり「内的対象」のことだ。対象関係が成立すると、養育者は既に内側にある。目の前の養育者はは仮の姿でしかない。だから別に亡くなっても、あるいはこちらを深刻な形で裏切ってもさほどダメージはない。「おふくろも年だな」とか「自分にとってのおふくろはもういないんだな」という反応だろう。ただし相手を見る目とか、世界観とかは多少揺らぐかもしれないが。要するに外的対象はまだ実在したとしても、仮の姿、あてにならない、何を言い出すか分からず、つかみどころのない存在である。それは何より「他者」だからなのだ。そう、内在化された後の実在の対象は、もう他者なのである。それはある意味では最初からそうであり、それを自分と同じ存在だと錯覚し、それを内在化させてもらったあとの残滓なのだ。  ただしその対象とは、ある一時期特別な関係が生じ、両方が相手に同一化し、脳をシンクロさせる時期があった。それが愛着期である。その後お互いに他者どうしになった養育者と子供は、おそらく錯覚の時期を彷彿させる間柄である可能性がある。幻覚体験といってもいい。それはある時期の体験をフラッシュバックさせてくれるというだけでその存在価値があるのだろう。  対象関係における対象とは、実在しなくなっても、しっかりと自分の中にコピー,というよりは原本がデータとして入っているから大丈夫なのである。(←ここら辺の記述、かなり誤解を受けそうだな。)私自身の母親も確かにその存在を感じる。そしてその内的対象とは、ある意味では幻覚的な関係は残っているというべきであろう。それは希望といってもいい。