土居先生の1961年の著作「精神療法と精神分析」から彼の治療論を追ってみる。主として第9章「治療の終結」(p195~)にそのエッセンスが詰まっているので、いかに抜粋しながら要約する。
甘えと受け身的対象愛との違い
物心が付き始めた幼児は、受け身的対象愛(POL)が満足されないことによる葛藤をすでに持っているので、それを意識的に満足させようとして甘える。(すなわち子供の甘えは葛藤の存在を意味する。)
愛情不足がはなはだしいと、自分に甘えるナルチシズム(自己愛)が発生する。それが憤怒や憎悪や自己卑下に転嫁する。これが強いと去勢不安とペニス羨望を越えられない。
治療により患者の葛藤が順次に解決されて行けば、最後にバリントの言う受け身的対象愛が純粋な形で出てくる。それまでは拘ったり拗ねたり僻んだり、捻くれたりしたが、最後にナルチシズムの核が破れて、不安の伴わない素直な甘えが出現する。バリントもまさにこれを言っている。
「私は、治療の終結期に患者が幼児的本能的願望を表現し、その願望が外界によって滴足されることを要求し始めることを見出した。それらの願望が患者によってはっきりと容認されるのは、多くの困難が克服されて後のことである。私はこの現象を「新しい出発」と呼んだ。そしてこれが、十分深層にまで達したあらゆる分析において終結直前に起き、これが治癒過程の一つの本質的な機制となっていることを見出した。」(バリント)
まさにバリントが言う通りであり、退行を経過してこの状態に至ったのではあるが、それはナルチシズムへの退行ではない。治療者は今患者が自分(治療者)に甘えることを許しているであろう。しかしこれは子供によく見る甘えとは異なる。その意味では治療者は患者を一度たりとも甘えさせたことはなかったのである。これはいわば醇化(じゅんか、まじりけのない純粋な状態にすること )された甘えである。フロイドの用語では、快楽原則にではなく、現実原則にしたがう甘えである。通常の甘えでは、いわば甘えることに甘えている(すなわちナルチシズム)という二重構造が認められるが、この場合にはそれが存しない。したがって患者は現在治療者との関係において甘えが満足されているとしても、それが永続するものでなく一時の賜であることを承知しており、それが取り上げられる日が来ても悲しみに打ち負かされることはない。悲しんでもそれに堪えて、ナルチシズムに逃げ込むことはないのである。
同じことをエクスタインも言っている。彼は「治療により成就するのは、単に基本的な一致ばかりでなく、基本的な分化でもある。感情的疾患における問題は、基本的な一致の経験が完全に欠如していることでは決してなく、むしろ不都合な分離であり個人化ではないか、と私は考えているのである。」(エクスタイン)と言っている。
ここでエクスタインが「基本的な一致の体験」と呼ぶものは、乳児が原始的な不安を知覚する以前に、母子一体と威ずる末分化の精神状態をさしている。これはもちろん直接に確かめ得られるものではなく、想定されたものである。これは葛藤以前の浄福の状態であり、その後の精神葛藤において個体が本能的に求めるものはこの状態を回復することである、と考えられている。この意味において通常の甘えは基本的な一致の体験の再現を目標としていると考えられ、ナルチシズムはその状態を現実に回復できないための自我の苦悩である、ということもできる。
しかしここで問題となることは、この「基本的な一致の体験」自体が現実的な体験であるか、あるいは幻覚的な体験であるか、という点である。私は、これは本来的には幻覚的な体験である、といわねばならないのではないかと思う。その理由は極めて簡単である。すなわち母子はかつて真の意味で一体であることはないからである。私はここで、一致 (unity) という概念を結合(union) から区別して使っている。乳児が受身的対象愛によって母親に結ばれ、そこに不安の蔭を宿さない状態がかつてあるとすれば、それは基本的結合の体験と呼ぶべきである、と考えるのである。
私は以上エクスタインの言葉を批判しているが、それは概念上のことであって、彼のいわんとする所は結局私の論旨と等しいと信ずる。すなわちバリントのいう「新しい出発」の状態は、基本的な一致というよりも、基本的結合の体験である。なぜならばこの状態において患者は治療者と愛情によって結ばれているが、しかし両者は決して渾然と一体になっているのではないからである。むしろこの状態において初めて患者は自分を見出し、真の意味で分化が起きるということができる。それ故に患者はこの際同時に信頼しかつ批判する能力を回復することができるのである。