2026年11月8日日曜日

エナクトメントと治療作用 3

  ここで治療者が気まずい沈黙の後にどのような言葉を発するかが、この治療者のあくびに関連したエナクトメントが扱われるかどうかの鍵となる。 ここでいくつかの例を挙げてみよう。 1.治療者:「失礼‥‥」 これは最もシンプルな治療者の側の返しと言えるかもしれない。ただしここで終わってしまえば、このエナクトメントはそれとして実を結ばなくなる可能性がある。つまり治療者が暗に自分があくびをしたことを認めて謝罪することで、ここでのやり取りにピリオドが打たれてしまうことになるからだ。もちろんそれ以降に治療者がこの件に立ち返るか、患者の側が立ち返るかしてこの情緒的なやり取りが継続するかもしれないが、その場合は別である。

2.治療者:「私があくびをしたと思ったのですね。どのように感じましたか?」(解釈的)

これはある意味では最も古典的な応答ということになるかもしれない。このようなかかわりについて(解釈的)と記したのもそのような意味である。治療者はあくまであくびをしたかどうかについての自分の立場を明らかにせず、それを患者の心の探索に注意を向ける。そしてそれに素直に応じた患者が、「先生が私の話に退屈しているのではないかと心配になりました・・・・」などと応じて治療者が「これまでにも自分の話に対する相手の様子が気になることはありましたか?」などと聞くことで治療者はますます自分のあくびについてのアカウンタビリティを回避することになるだろう。


2026年11月7日土曜日

エナクトメントと治療作用 2

 ここで一つの臨床例を挙げてみる。

患者の話を聞いていた治療者が思わずあくびを漏らしてしまうとしよう。それに対して患者が敏感に反応する。そして呟く。「あれ、先生、今あくびをなさったようですね・・・」

それを聞いた治療者は言葉にならない反応をしてしまう。「はぁ(ため息)・・・・・」そしてその直後に両者の間に気まずい沈黙が流れるとする。

ここで両者の心に起きた情動に注目しよう。患者の心には「先生があくびをした…私の話がよほど退屈なんだろうか?」という焦りとも失望ともつかない感情が起きる。それが「あれ、先生、今あくびをなさったようですね・・・」という率直な言葉になったのだ。ところがそれを聞いた治療者の側の情動も動く。しかし何と表現したらいいか分からず、それが「はあ…」というため息のような声になって表出される。このままでは両者の間にはある種のすれ違いが生じたままである。そしてお互いに相手の心の中で起きていることを測りかねず、モヤモヤした状態が残るだろう。もちろんここで「心の出会い」などは生じていない。ある種の得体のしれない「心のぶつかり合い」が起きただけである。

ちなみにこの状況では「はあ」というため息を聞いた患者の側にさらに起きる情動にも注目しなくてはならない。


2026年11月6日金曜日

エナクトメントと治療作用 1

  さてここで、治療場面でいかにエナクトメントを扱うかという議論になる。もちろんロケットの打ち上げを皆が一緒に喜ぶというような状況は、治療場面ではなかなか起きにくいだろう。敢えて言うならばどちらかの言ったことがおかしくて、二人で声をあげて笑うなどの状況が考えられるが、日常的にそのような状況が訪れるわけではないだろう。  しかし実はエナクトメントの種というべきものは、治療場面で常に起きていると言っていい。というのも人の言動は常に意識化の様々な要因を反映しているのであり、エナクトメントとしての性質を持たない言動を拾い出すことの方が難しいかもしれないからだ。そしてそこで特に注目するべきなのは、両者の間である種の交流が起き、そこで情動が動くような瞬間を見逃さないということである。  患者と治療者の間である種の情緒を伴う体験が生じた時、それが心の出会いの可能性を秘めるエナクトメントとして扱われるべきものとなりうる。ただし上に述べたような場合を除いて、その情動が動いた瞬間に心の出会いが生じるわけではもちろんない。それはある種の行き違いや誤解の瞬間かも知れない。そしてそれは俎上に上らせて話し合わない限りは誤解のままで終わる可能性がある。両者がそこで起きたことを言葉を用いて話し合うことで「心の出会い」の体験が心に定着することになる。ただし二つの心の出会いは、一瞬それが生じたと感じられたのちに齟齬が生じ、それを修復するという弁証法的な運動を生む。


2026年11月5日木曜日

「心の出会い meeting of minds」 とは?

  これについての私の考え方は、一緒に何かを喜び(悲しみ)、その時に自分が孤独ではなく、他者とつながっていると体験されることだと考える。その時相手に気持ちを「わかってもらえた」と感じること、そしてその時相手の気持ちを「わかった」と感じること、それがその瞬間に起きているはずだ。  ここに掲げてあるのは、2026年10月20日にH3ロケット10号機の打ち上げが成功し、火星衛星探索機MMXが地球上の軌道に乗った時のスタッフたちの反応の写真である。ここに写っている人たちは顔を見合わせて笑顔を浮かべ、喜びに浸っている。おそらくここにいる誰もが生涯この瞬間のことを忘れないであろうし、そこに一緒に写っていた仲間と出会えば、この時の体験の話に花が咲くはずである。将来別々の人生を歩んでも、その時の仲間を見ると不思議な連帯感を生むであろうし、心が通じ合っている相手として認識するであろう。  この例を取り上げたのは、彼らに生じた「心の出会い」はかなり確かなものとして定着するであろうし、それはなぜならば彼らが「H3ロケット10号機の打ち上げ成功」という、そこにいた誰もが共有していたそして歴史上の出来事として記録されている瞬間を体験したからである。その意味では彼らは「あの時、何が嬉しかったの?」等と確かめる必要はない。  またこのことは複数の人間がある悲しい出来事、例えば震災や火災の犠牲者としてそこにいる場合にも言えることである。そこにいる人たちは同じような気持ちを持ち、そのために抱き合ったり慰め合ったりしてその感情を共有するであろうし、そのプロセスを通じてお互いの気持ちをわかり合い、心を通じさせたという気持ちを持つであろう。  これは例えば二人の人間が感情的に衝突したり、気まずくなったりしたという体験とは対照的である。後者の場合恐らくは両者は一つの出来事について、互いに全く違う感じ方をしており、そしておそらくはそれを言語的に共有することで少なくとも両者の相違について共有するようなチャンスを持つ機会は非常に少ないからである。

2026年11月4日水曜日

なぜエナクトメントを扱うことが「治療作用」として働くのか?

 ここで端的に問うてみようと思う。なぜエナクトメントを扱うことが「治療作用」として働くのか?この問いに答える前にある前提を示したい。それは、他者との情緒的な交流そのものが心の成長を促す(治療作用として働く)という考えが数多く提案されているということである。この視点は恐らくDaniel Stern により最初に明確に示されたものと理解している。彼はいわゆる「出会いの瞬間 moment of meeting 」ないしは「プレゼントモーメント present moment」という概念と共にそれを示した。

その例として、それまでカウチに横になって居た患者が「起き上がってあなたの顔を見てみたいわ」と状態を起こし治療者を振り返った瞬間を描写する(175)。

Stern, D (2004)Present Moment. 『プレゼントモーメント:精神療法と日常生活における現在の瞬間』ダニエル・スターン著、奥寺崇監訳・津島豊美訳、2007年、岩崎学術出版社)

その後 Louis Aron は「心が出会うこと」でそれを論じている。彼は(1996)はそのテキストの第7章「エナクトメント、相互交流、そして投影同一化」で、「相互エナクトメント」、「転移―逆転移エナクトメント」等の概を用いて広く論じ始めた。


2026年11月3日火曜日

成田先生のこと 番外 3 

 成田論で書き損なっていたこととして、それはは決して単なる支持療法ではないこと、ということを強調しておきたい。例えば成田はBPDの治療を通じて、自分の問題を患者自身が取り組むべきものとし、こちらに丸投げさせないことが大事であることを強調する。一方的に患者の愚痴を聞き続けるのは、こちらにも精神衛生上悪い。それに患者の側も、耳の痛い言葉に直面して自分が変わるということは確かにあるからである。そしてこのことと、成田の「正直に言う」ということは実は深く関係している。 「正直に言う」はある意味では患者に「言うべきことははっきり伝える」という態度表明でもある。そしてこれが大事なのだが、成田には「それで治療関係が結果的に切れたとしても、それはそれ」という姿勢が見える。成田はある患者との関係が終わる時にその患者にこう言われたという。「先生、口は災いのもとですよ」。これを彼自身が書いているということはとても教えられる。恐らく成田は長年の治療経験の中で、時にはズバズバものを言い、一部の患者は憤慨して出て行ってしまったということもあるのではないか。つまり治療関係はそれが終わらないように細心の注意を払うという類のものではないということを成田は教えてくれている。それはある意味では一期一会の関係であり、火花が散ることも十分あり得る。ある種の契約としてスタートした以上、どちらかが相手の振る舞いや治療を受ける(行う)態度に不満を感じて、関係を解消したくなることは十分ありうる。それも含めての治療関係と考えているようなところが成田にはある。

2026年11月2日月曜日

成田先生のこと 番外 2

  他人は自分と同型であるということは、もちろん患者自身がそれを知ることで人生が変わる可能性がある。(もちろん簡単にそれを「知ること」などできるわけもないが。)自分の苦しさを他人も同じように味わっているということに本当の意味で合点がいくと、人を見る目が変わってくる。安っぽい言い方になるが、「他人に優しくなれる」ということか。  例えばある日私が仕事先のオフィスに戻り、エアコンがつけっぱなしになっていることに気が付く。誰かが何かの用事で私のオフィスを訪れることはある。そのオフィスは他のスタッフが使うこともあるからだ。そこで誰かがエアコンをつけたまま出て行ったのだろうと考え、「誰なんだろう?ちゃんと部屋を出る際にはエアコンのスイッチを切るという基本的なこともできないなんて。まったく‥‥」などとと腹立たしいと思う。しかしよくよく考えると、昨日は最後にオフィスを出たのは私自身であり、自分がエアコンのスイッチを消し忘れたという可能性以外には考えられないことに気が付く。すると先ほどの苛立ちは何だったんだろうということになる。自分がそれを行ったのだ。自業自得であり、もちろん自分を不甲斐ないとは思ってもその自分をゆるすだろう。実に当たり前の話だが、自分自身、あるいは自分の身内が行ったことについては私はこの上なく寛大になるのである。そして他人のしたことに対して許せない気持ちになっている時に、それが許せるようになるとしたら、その人が自分の身内であるという自覚が芽生えた時であろう。  他者に対する様々な気持ちは、その事情を知り、他意がなかったことを知ることで許すことができる。他者に同型性を見出すことで人はこれほど寛容になれる。逆にそうではない場合、私たちは他人のあらゆる言動が許せなくなるのである。