2026年7月23日木曜日

AIと精神療法 1

本章は精神療法におけるAIの意義について、という比較的抽象的な話である。しかしこの問題は臨床と直結しているというのが私の考えなのだ。なにしろ場合によってはAIは精神療法を行う私たちに取って代わるかもしれない存在だからである。そこで以下に中心的な関心事について3つ提示し、その要旨を示したい。

1. AIは心を交わすに値する存在なのか?

 ほんの数年前まで、私たちは「人工頭脳」とまともな会話を交わすことなどおよそ不可能と考えていた。ところが2022年11月の対話型AI(ChatGTP)の公開以来、わずか3年半あまりのうちに私たちの考えは大きく変わりつつある。多くの患者が日常的にAIを用いて様々な相談を行っていることを耳にする。そして私たち治療者の多くも同じような体験を持っているであろう。しかし同時に私たちが持つのは、AIを一人前の心を持つ存在として関わっている自分たちに対する違和感ではないか? そもそもAIは「心を持たない」存在のはずである。それは構造上ものごとの真の「理解」が出来ず、主観性やクオリアの体験を持つことが出来ない。そのような存在と心を通わせ、共感をし合えることなど可能なのであろうか?この問題についての私の考えは、AIは間違いなく「知性」であり、「心を持つかのごとくふるまう」何かであり、それをかりそめの心(【心】)として扱わざるをえないという現実である。

2. AIは治療者としてどのような役割を演じる可能性があるのか?

 対話型AIが一部のユーザーにとって治療的な役割を果たしているのはまぎれもない事実である。AIが治療者として振舞うことに伴う危険性が語られるのは、まさにそのことの証左であると言えるだろう。しかしこのことは私たちの多くが予想しなかったことではないであろうか。ここで私はAIが治療的な振る舞いを行っている事例において、その治療者としての優れた点について以下の項目について述べたい。それらは①率直さ、②支持機能の高さ③逆転移の不在の3点である。さらにはその危険性としては、①AIがリソースとして無限であることからくる利用者の依存や嗜癖の可能性、②利用者を自殺や自己破壊的な行動に導く可能性、③生身の人間である私たち治療者の仕事を奪う可能性、である。

3. AIから治療者は何を学べるか?

 近年では対話型AIの特徴として、その支持的なスタンスがまず論じられる傾向にある。AIは情緒を持たないために真の意味での共感を行う能力を欠いているはずである。それにもかかわらずなぜ一部の利用者は本当に分かってもらえたと思い、繰り返し相談を持ち掛け、その存在をかかせないものと感じるのであろうか。この問いは逆に、「なぜ私たち治療者は(多くの場合)AIほどの支持的なスタンスを発揮していないのであろうか?」という問いを生む。AIほどの支持的、肯定的なスタンスは不必要であったり、治療的なかかわりの質を低下するからであろうか?これらの問題は治療者としての私たちの在り方に対する本質な問いかけとなりうるであろう。


2026年7月22日水曜日

愛着とAIについてのこの1,2年の発表

 愛着については、一応まとまったものは以下の程度か。これも著書としては薄すぎるか。

  • 遊戯療法と精神療法- その懸け橋としての愛着理論」 日本遊戯療法学会 2025年8月30日 於:茨城大学)

  • 「『甘え』の関係の双方向性について」 日本理論心理学大会 於:筑波大学、2025年11月16日)

  • 「甘え理論の先駆性と今日的意義」(小寺関係精神分析セミナー 日本における精神分析 ZOOMにて 2026年7月5日)

  • 書評 アラン・ショア著小林隆児訳「精神療法という治療技術の科学」(遠見書房、2025年)

  • 「支持療法の可能性と限界」(精神分析協会センター学術会議講演 ZOOM, 2025年12月6日

2026年7月21日火曜日

解離についてのこの1,2年の発表

 仕事が一段落して、ここ1,2年の発表や執筆をまとめている。これをしないとそれこそ書きっぱなし、発表しっぱなしで散逸してしまう。今のところ解離については以下の通り。

🔵「解離と自殺の危険性について」(日本うつ病学会総会・自殺予防学会総会シンポジウム 「解離症と気分症時の併発及び自殺との関連について 於:2026年7月10~12日)

🔵「ストレス反応としての多重人格状態」精神科治療学第41号2026年10月発行「ストレス、トラウマ、小児期逆境体験ハンドブック―基本的知識から臨床実践まで―」)

🔵「解離の文脈から見たPTSDおよびトラウマの脳科学的基盤脳科学的な理解」(日本精神神経学会シンポジウム PTSDの生物心理学回復モデル2026年6月18日於:パシフィコ横浜)

🔵「現代はポリサイキズムを受け入れるのか?」(11th Iinternationla Joint Conference Broken” 於:京都,2026年6月5-7日) 

🔵ビリーミリガンのケースを読み直す(ダークサイドミステリー「多重人格者 ビリー・ミリガン 〜人の心の謎に迫る〜」2025年3月27日 NHK BS8Kにて放映)



2026年7月20日月曜日

うつ病学会に参加した

  一週間以上前のことだが、日本うつ病学会に出席した。札幌で7月10~12日まで開催。そこで本ブログで揉んだ「解離性障害と自殺の危険」という発表を行ったのである。久しぶりに野呂浩史先生、野間俊一先生、荒川和歌子先生とお会いしてシンポを行った。しかし・・・札幌はやはり遠い。おまけに「蝦夷梅雨」で悪天候。飛行機と電車の乗り継ぎが大変。どうして札幌のもっと近くに空港がないんだろうとつい思ってしまう。千歳から札幌までの距離がもうひと行程入ることで距離感が増してしまう感じ。おかげで車中少し読書は出来たが。

しかし学会発表があるとかなりの勉強になる。自分があまり明るくないテーマだとさらに。今年はこれからしばらく学会発表がないが、文献を読まないという悪い癖が復活しそうである。

2026年7月19日日曜日

甘え 推敲 13

  土居によればこの関係はフロイトとフリース、フロイトとユングの関係とも同じ性質のものであるという。フロイトはフリースやユングに対して常に自分の主張が正しいという態度で接し、それについて弟子たちに異議を唱えられた際に、それは彼らのエディプスコンプレックスの問題だと突っぱねたわけだが、古沢も同じことをしたということなのだろう。  私がここで問題になるのはむしろ自己愛の問題ではないかと思うのは、以下の意味でである。土居の怒りを買ったのは、弟子や被分析者の分析者への批判に対して、それを完全に突っぱねるという古沢の態度に問題があったのだ。もう少し言えばこうだ。土居が古沢に「先生、ここはちょっと違うんじゃないですか?」と問うた時に古沢はそれを認めず、「だから君は分かっていない」とか「君の勉強不足だ」とでも言った可能性がある。あるいは怒る土居に対して「真実を受け入れるのはいつも大変なことだ。いずれキミもわかるだろう。それまで君がどんなに私を攻撃しても、私は一切それを意に介さない。それが分析家の務めだからだ」とでも言ったのではないだろうか? つまりは土居が本当に怒ったのは、解釈をし、それを理屈で説明してくるといった古沢の態度ではなく、それに対する反発を一切受け入れず、また自分を変えることをしなかったことに対する怒りではなかっただろうか。そう考えるととてもすっきりするのだ。  こう述べると、次の反論が予想される。「いや、もし古沢の側の自己愛の問題だとしたら、土居の反論にもっと激しく怒ったのではないか? 『弟子のくせに生意気だ!』という風に?」 私も確かにそう思う。それにもし古沢が泰然自若としていただけなら、土居も怒り様がなかったのではないか、とも思う。「この人は何を言っても話が通じないじゃないか。それなら仕方がない」と諦めたのではないか。しかしおそらくは古沢の方にも土居の異論に対して声を荒げるということもあったのではないか。少なくとも土居の言い分の一部についてはその正当性を認め、部分的にではあれ自分が折れるという態度が見られたら、土居もそこまで怒ることはなかったのではないか。土居は古沢は自分を飲み込もうとして、一時は飲みこまれそうに感じたそうである。飲み込む、とはことごとく相手を自分色に染め上げようとする態度だったのだろう。するとやはり古沢の「すべて自分が正しい」という態度が一番土居を刺激したのではないか。土居が欲していたのは恐らく、もっと普通で対等なやり取りであったのであろう。  土居の怒りについては気になるところだ。彼は好戦的と形容できるようなところがあり、西洋文化にも真っ向から切りかかって行ったところがある。土居の主張は早い話が「西欧は受け身的愛情希求を抑圧し、したがって甘えに行きつかなかった」であるが、これはかなり大上段に構えた挑戦と言えるのではないか。

2026年7月18日土曜日

甘え 推敲 12

  ここで古沢の治療態度に注意を向けたい。古沢は、患者からのネガティブな反応を一種の抵抗としてとらえ、それによって引き起こされかねない逆転移に十分注意を払い、泰然自若とした態度で土居に接したということなのであろう。土居はそこに特に悪意は感じられなかったとのことだ。土居はむしろそれを古沢の一種の愛情表現の様に理解している。しかしこれはとても patronizing な態度と言えるだろう。まるで土居を子ども扱いしている、ということのようだ。

 では土居は古沢の何に関して怒ったのだろうかについて再度考える。土居はそれに関して、古沢が「患者を常に飲んでかか」り、そのことに患者が反撥しても、「まさに『のれんに腕押し』で、自分は悪感情には反応しないとばかり口をぬぐっておられた」(p.230)という。

土居はこのような古沢の態度を古沢が対象に対して「取り込み」や「のみこみ」を行ったのであり、分析用語で言う introjection, incorporation の問題であると説明している。土居は古沢が「患者を常にまた容易に自分の中に取り込んでしまい、そのことの中にひそんでいるご自分の無意識には気がつかなかった」と述べている。

 しかし実は私は土居の文章のこの部分を読んでいて、非常にわかり辛いという印象を持った。これがどうして同一化に関係しているかがピンとこない。それについては土居の別の著書「精神分析と精神病理」を取り寄せて読むしかないが(土居がそれを引用しているからだ)、そこで私の解釈を交えていえば、これは自己愛の問題と理解する方がわかり易いような気がする。古沢は自分が完全に患者のことをわかっており、そしてそれが絶対的に正しいと思っていたから、その余裕の分だけ、自分は逆転移反応を起こさないと言えたのだろう。そして自分の考えに対する土居の側のいかなる異議も治療抵抗として扱ったわけだ。そしてそのいかにも自信満々の態度が土居を怒らせたのではないか。


2026年7月17日金曜日

甘え 推敲 11

 たとえば同じ古沢との精神分析体験を描いた前田重治の「自由連想覚え書」(1984、岩崎学術出版社)には、古沢の「解説」をむしろ有難く学ぶ前田の姿が出てくる。こちらは精神分析を師から一から学ぶ学徒の姿勢が表れているが、土居の場合はかなり違う。当時の精神分析の大家であり大先輩である古沢の態度に対して、まだ30過ぎの、いわば駆け出しの精神科医が古沢を「これが本当の精神分析であるはずはない!」と怒り、一刀両断にするのだ。

 結局土居は「もっと本場の精神分析を受けに行き、古沢先生の姿勢が間違っていることを明らかにしたい」とばかりに米国に再び向かう。そしてサンフランシスコの精神分析協会に入会し(おそらくキャンディデイトとして入り)ライダー先生の分析を受ける事になる。

 この土居の姿勢は不遜で生意気で挑戦的と言えるだろう。しかし私の反応は「土居先生、あっぱれ!」なのである。土居や古沢の時代はおそらく精神分析は一種の学問であり、知的に学ぶものであり、その知的な理解が洞察につながるという考えが主流であった。しかし土居はごく自然に、本来は精神分析は人間的な関り、今でいう関係精神分析的な関りであることをわかっていたのであろう。土居はいかに時代を先取りしていたのだろうか。