2026年9月27日日曜日

成田先生のこと 11 

秀逸な概念である「心の井戸」「その場の雰囲気さん」‐和語で語る治療疑念

 ここで先生のよく知られた概念である「心の井戸」と「その場の雰囲気さん」について述べたい。これは先生のかなり関係論的な考え方を表していると思う。先生の晩年のエッセイに「共感をめぐって」(祖父江典人、細澤仁編著(2023)寄添うことのむずかしさーこころの援助と「共感」の壁」2023年、木立の文庫)に特別寄稿として書かれたもの) がある。 この章を読んでもかなり成田先生はフロイト理論と戦っておられる。彼は共感をポール・ブルームの反共感論(ポール・ブルーム著、高橋洋訳 2018年 白揚社)の説に倣って、認知的なそれと情動的なそれに分け、精神分析的な解釈はもっぱら前者によるものとする。そして共感を雰囲気として感じ取るものとして、つまりは情動的な共感として捉え、それを患者に伝えることを実践しているという。その上で彼が掲げるのが、「その場の雰囲気さん」という言葉であり、第三者的な立場の人が治療室にいたらその場の雰囲気をどう感じ取るかをそう呼ぶという。これはトーマス・オグデンやジェシカ・ベンジャミンによる精神分析の「第三主体」の概念をまさに彷彿させ、成田自身がいみじくも、これを the third,すなわち第3の主体と同類のものとしている。 この概念はそれでさえ分かりにくい第三主体という概念を、この「その場の雰囲気さん」という和語で見事にわかりやすく表現しているということである。
 ここで改めて成田先生は関係論的かと問うてみよう。私はそうだと思う。それは成田先生が自分の考えを患者に伝えることに非常に重きを置いているからだ。従来の精神分析では治療者が自分のことに目を向けたり、自分を語るのに非常に抑制がかかっている。それはもちろん徐々に変化しつつある。たとえば逆転移はフロイトの時代以降は、不可避的に起きることで、むしろそれをよく理解する事が大切ということになった。またそれを行動に表すことでさえ、以前は逆転移の行動化と呼ばれ、戒められていたが、最近は逆転移エナクトメントとして、積極的に活用するようになってきている。そして特に大切なのは、それを俎上に載せるという傾向が、関係論にしばしばみられる一つの特徴といえるのだ。その意味で成田の考えは極めて関係論的といえる。

2026年9月26日土曜日

エナクトメントについて 3

 エナクトメントというテーマなのにどうして将棋の感想戦についての話になっているのかと思われるだろう。一言でいえば、エナクトメントについて扱うことは、この感想戦にどこか通じているような気がするからだ。通常の対戦では駒の動きだけがすべてである。対局者はそこに感情を直接的に表現することなく、ポーカーフェイスで進める。ところがその底流に存在し続ける思考や感情は後に感想戦で語られることにより、対局中の思考の流れはある程度の修正を迫られ、それが自分の棋士としての実力の向上につながる。「あの時は~というつもりであそこに角を打ったが、実は別の観点が自分の中にあったら、それよりも優先すべき別の手を思いついただろう」という感じである。つまりはその対局は感想戦をもって新たな意味が与えられ、厚みを持つことになるのである。

エナクトメントと自己開示の要素

 この感想戦の例で明らかなのは、そこで意味を持つのは交流、つまり両者の言葉のやり取りであり、それは必ずある行為の背景にあった考えをその行為者が言語にするというプロセスを含むということだ。それにより相手の行動の背景がわかり、人は安心し、その人の心が今一歩つかめるようになる。得体のしれない手を打つ対局者はもう少し等身大の人間に下りてくるのだ。

 例えば先ほどの例で、治療者が「ムッ」とするというシーンについて書いた。それは患者の側の「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」に反応したものであった。そしてそれに患者が何となく気が付く。これらの動きはそれ自体が謎めいていて、治療者と患者の距離を遠ざける。お互いが相手を得体のしれない存在と考える。もう少し言えば自分自身も得体が知れないと感じているかもしれない。治療者なら「訓練を受けているのに、なぜこんなに腹が立つのだろう?自分は本当に治療者としてこれでいいのだろうか?」と自らに疑いを向ける。「こんな治療者を患者は受け入れることができるのだろうか?」そしてそのインパクトの重大さは、患者側の反応から推し量ることができる。

 ここで治療者は患者からの「あれ、先生は気分を害しましたか?」に対するある程度率直な返答は決定的であることがわかるだろう。それにより治療者は得体のしれない存在から一人の人間になり、患者にとっての自分自身もそうなるのである。

 ではここで治療者の自己開示がどの程度決定的かということについて今一歩考えると、それは必ずしも必要ではない場合もあろう。例えばムッとした治療者の気配を感じて、患者は思うかもしれない。「明らかに先生はムッとしているな。ということは先生も人並みに感情を持っているんだ。」そしてそれが分かっただけでも患者にとっては収穫であったという場合である。つまり相手の気持ちがわかる、という場合には必ずしも治療者の「白状」が必要ではないことになる。もちろんその場合は、「ああ、先生は率直で正直な人なんだ。ありがたい」という気持ちは得られないことになる。でもその場合は実際に治療者は「率直な人間」ではないということになり、それはそれで仕方がないことである。「先生は人間的な感情を持つのだ」という理解だけでもいい。そしてそこで患者は得体のしれない他者からリアルな他者という遷移は体験することが出来たわけである。つまりまとめれば、エナクトメントは自己開示を含むことで、より効果的になる場合があるということだ。


2026年9月25日金曜日

エナクトメントについて 2

  ここで私のエナクトメントについてのアイデアを膨らます。突然であるが、私は囲碁や将棋、スポーツ一般の観戦が好きである。それは不正の入る余地がないからだ。人と人とのかかわりはたいていは忖度とか遠慮とか不正が介入する。人同士のやり取りには、常に一種の化かし合いのニュアンスがある。二国間の紛争など特にそうだ。一方が他方に先制攻撃をする。攻められた方は「相手に先制攻撃をされたから」応戦するという口実が生じる。ところが本当は「先制攻撃をされた」という訴えが偽りだったりする。あるいは先制攻撃したほうが、「実は歴史的には相手国にこれまで蹂躙され、攻撃を受けてきたのだ。だからこれは一種の自衛である」とかなんとか言い、結局どちらが攻撃を仕掛けたかが曖昧になる。そして両者は相手を欺くことばかりを考え、決して本音を言わない。企業によるデータの改竄や政界の汚職、脱税など数限りない不正がこの世では生じる余地がある。  ところが将棋はどうだ。(別に囲碁でも相撲でもいいが。)不正の介入はあり得ない。駒を盤に置いた後、「あ、間違えた」と打ち直すなどということは絶対に反則なので起きようがない。駒を置く瞬間に「あ!待った!」とか言い、実際に駒が盤に触れたか触れないかがビデオ判定になる、などということは普通は起き得ない。つまり不正はあり得ないのだ。  そして私が感動するのが感想戦である。勝った方も負けた方も対等に意見を出し合う。実際の対局中に起きた様々な妙手なども、感想戦では「あの時あそこに角打ちをしようかと思いましたが、その先の詰みを見通せないので止めました」「ああ、そうだったんですね。」等の会話は、そこにお互いに相手への思いやりはあっても下心はなく、両者が純粋に将棋道の真理を追求することを目的としているという気がする。本当に将棋が好き、という共通項がないと出来ない芸当だと思う。あれほど闘志を燃やして戦い、負けた方はさぞかし悔しいし相手を恨む気持ちが湧いてもおかしくないのに、あの潔さは何だろう?(実はあれほど真剣勝負なのに、裏に壮大な八百長があるって?ありえない!)。  エナクトメントというテーマなのにどうして将棋の感想戦についての話になっているかというと、思われるだろう。一言でいえば、エナクトメントについて扱うことは、この感想戦にどこか通じているような気がするからだ。

2026年9月24日木曜日

成田先生のこと 10 彼は関係論者だったか?

  このように考えつつ成田の著作を読むと、その基本的な考えはいくつかの項目に集約されるという思いが強くなる。それらは彼が漠然と信条にして治療をしているというよりは、彼の中では一つのメソッドとして出来上がっているという印象を受ける。それが彼の膨大な著作に表れている。つまりそれ等は『精神療法の第一歩』(診療新社、1981)『精神療法の経験』(金剛出版、1993)『心と身体の精神療法』金剛出版 1996 『精神療法の技法論』金剛出版 1999 『精神療法家の仕事 面接と面接者』金剛出版 2003 『セラピストのための面接技法 精神療法の基本と応用』金剛出版 2003 『治療関係と面接 他者と出会うということ』金剛出版 2005 『精神療法面接の多面性 学ぶこと、伝えること』金剛出版 2010 『精神療法を学ぶ 精神医学の知と技』中山書店 2011 『精神療法の深さ 成田善弘セレクション』金剛出版 2012  失礼ながらその文章には繰り返しが多いので、どれを読まなければいけないという種類の文章はない気がする。どれを読んでも切り口には同じような主張が見られる。(その意味ではコフート的、という印象も持つ。)  御存じの方も多いと思うが、成田は囲碁の達人であり、文学をこよなく愛したが本質的に理系人間である。彼の中では(周囲の目からは)成田理論とでもいうべき体系が漠然と流れていたかのように見える。  しかし成田のこれらの理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near に語られているからである。そして大事なのは、その根底に正直さが流れていることだ。だから読者は常に身に引きつけて彼の文章を読むことができる。  その証拠に成田には実に自分の弱さや足りなさを暴露したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと。運動が苦手だったこと。分析学会誌に原著論文を掲載していないのに会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。わざわざ言わなくていいのに、と思うほどであるが、その正直さは露悪的でなく心地よい。そしてそれと同時に彼の野心があまり感じられない。その意味での、言わば通俗的な意味での自己愛は彼には希薄といっていい。  だから彼は自分の理論を死守するために強弁するというところがない。場合によっては相手を取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念は出てこない。何時も和語で語られる優しいものである。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」などなど。  成田の感性にも触れようか。彼にはある種の納得感を大事にすることがあり、それは治療者が患者とどのような会い方をするかということだ。そしてそこには彼独特の感性が働いている。成田には患者を助けようとする殊勝な考え方はなかったというが、そこで何がどのように作用するかはとても興味があった。そしてその最大の理由は、彼が患者の気持ちを良く感じることが出来たからであろう。それは患者の「わかってほしい」という気持ちであり、それにどのように応えるのか、そしてそのための彼の心構えは何か、ということを追求した。成田が師匠である伊藤氏から教わった「患者の着ぐるみに入れ」はその表れであり、「その場の雰囲気さん」もそうである。

2026年9月23日水曜日

エナクトメントについて 1

 Tジェイコブスの論文以来、エナクトメントは北米での理論と考えられているが、そこでの単一の概念は存在しないとも言われる。決して一枚岩の概念ではないのだ。それぞれの論者が異なる意味で用いているのが現状である。  歴史的にも押さえておかなくてはならないのが、エナクトメントは無意識的な事柄が意識化されることなく行動に移されたという、いわばアクティングアウトと同類の概念として扱われる傾向があり、それは当分続くであろうということだ。つまりそれはそのままでは分析空間を破壊ないし侵害するものだというニュアンスを伴い続ける。 IPAの「IRED」のエナクトメントの項目にも、ラテンアメリカでは、エナクトメントは発散や行動で分析的フィールドが侵入 invade されることとして論じられていると述べられている。つまりよくないこと、解釈などにより解消されなくてはならないこととして扱われているのだ。ただしそれがジェイコブスの論文により、治療者の側からも生じるという認識が生まれ、それがより臨床的な形で論じられるようになったということであろう。

 ただし私自身が考えるエナクトメントの潜在性はそこにはない気がする。エナクトメントが何かを伝える可能性を持つこと、としてそのために何らかの「セカンドルック(見直し)」がなされる対象であるということには同意する。しかしそれが取り除かれるべきもの、という考え方には納得がいかない。それはむしろ常に起きていて、機会があったら見直しをすることでより豊かな何かを創造する可能性を秘めているということだ。そしてそれは半ば必然的に、治療者の側の「あれ?やってしまったかな?」的な気づきを伴う。何しろ患者の側の言動について「あれ?彼は何かやってしまっているかな?」は明確化や直面化などの対象になるだけであり、エナクトメントは呼ばないであろう。エナクトメントは、治療者の側の「何が起きているのだろう?(そして自分はどうしてこんな反応をしているんだろう?)」という体験を必然的に伴うわけである。その意味で「エナクトメントは治療者の側から生じる」というのはある意味では正しい理解になる。同じ現象が患者の側から生じても、それはエナクトメントと呼ぶ必要がないという意味で、である。それはほぼ確実に治療者の側の「あれ?」を持って始まるのである。そしてその「あれ?」という気付きはそれが起きない限りは非治療的かと言えばそういうわけではない。  ある例を出そう。ある時ある患者が「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」という。それに対して治療者一瞬はムッとした。もちろん表情には出さなかったが、その患者の言葉に対しての頷きは少し遅れたであろう。  この「ムッとした」はエナクトメントと言って差し支えないだろう。でもこれは治療者の無意識の何かがそうさせたのであろうか? いや、実はその治療者は「どうしてムッとしてしまったのだろう?」とは思わない。ムッとした理由はとてもはっきりしている。というより相手に責められていい心地がしないのは普通のことだ。しかしおそらくこのエナクトメントは俎上に上らない。このままでは使い道がないからだ。それは例えば患者の「あれ先生、気分を害したのですか?」という反応を待って、すなわち治療者のエナクトメントを患者の側が感じ取り、それを何らかの形で表明したことで使えるようになる。「先生、気分を害しましたか?」という言葉は必ずしも必要でないが、治療者の情緒的な反応が患者に伝わった何らかの印が必要になろう。そのやりとりで二者の間でいわば情緒的な連鎖が生じる必要があるのだ。  さてここからが私が通常のエナクトメントの概念と恐らく異なるイメージを持っている点だ。私はこれが俎上に載せられ、患者と一緒に観察されることに意義があると考える。それが治療者の側の何を意味しているかという探索は、大切ではあるが、第一義的ではない気がする。それはどういうことか?


2026年9月22日火曜日

成田先生のこと 9

 つまりこういうことだ。ある治療者がどれだけ自由かは、「どれだけ学派に捉われていないか」ではなく、「どれだけ捉われかけているかを自覚できる」ということなのだ。すでに述べたとおり、は少なくとも初心の段階では何らかの文化の影響下にあるのがふつうであり、それから逃れることは難しい。しかしその捉われについて客観視できることが大事なのだ。
 しかしどうしてこの点がそれほど重要なのだろうか? それは患者の側は基本的に無文化だからだ。特殊な事情、たとえばある学派に属していることで有名な治療者A先生に教育分析を受けることで、その学派の臨床を生きた形で吸収しようという目的で治療を受けるという場合を除いては、患者は自分の人生においてある悩みや疑問を持ち、それについての援助を求めて来談する。それは基本的には学派と無関係なことなのだ。例えば孤独に苦しむ人の場合、その苦しみは学派には関係はない。各学派はその種の苦しみをどのように捉えるかという違いのみが存在するだけだ。
 しかしもちろん患者が文化を背負っている場合もある。「フロイトは神経症的な苦しみを治療により取り除かれたのちに、通常の人生の苦しみが残る、と言ったが自分の苦しみの場合はどうなのか?」など。しかしその治療者はそれをフロイトの立場に立ってのみ論じられるかと言えばそうではない。フロイト的な考えに捉われているゆえの苦しみであるならば、フロイト的な考えの外に立って考える必要も出てくるだろう。
 さらに言えば、患者の話を聞いているうちに、自分に自信が持てないというその悩みは、治療者自身の「自分に自信が持てない」という、おそらく現在の自分やかつての自分が持っていた悩みに通底し、そこからは学派を越えた個人的な問題に立ち戻るのである。そしてその問題は無文化的であり、なぜならその苦しみを少しでも和らげるためにはどの学派の考えでも構わないからである。そして「どの学派でも構わない」はいたって無文化的な発想であり、それこそ喫緊の問題であり、患者がお金と時間を費やしてでも通ってくるモティベーションにもなっているのである。
 ただしこの「どの学派でも構わない」という姿勢自体は、その治療者が慣れ親しんだ文化を捨てるということではなく、おのずとそれに従って考えている文化が行き当たり、それ以上進めない時にそれをいかに無視し、自分の思うままに進むかということだ。そしてそれが私が治療者の自由度として考えることである。

2026年9月21日月曜日

成田先生のこと 0

成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係になったわけではなく、SVをお願いしたこともない。年に一度学会でお姿をお見掛けするだけであった。私は先生の著作のファンであったが、先生の本を隅から隅まで読んだわけでもない。しかし私の中での先生の位置は特別なものであった。それはどのような意味でであろう_

これを考えると、かつて先生が古沢賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はその時の受賞講演の司会の役をいただき、 最初に 先生を簡単にご紹介したのである。その時私は最後に「成田先生は精神分析学会の良心です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ」と苦笑なさったことも含めて明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり「分析学会の良心」であったと思うのだ。この文章は私がそれで意味するところをできるだけ簡潔にお伝えしたいと思う。