2024年3月31日日曜日

Jeremy Holmes の本 9

 第6章 FEPとアタッチメント

 この項目についてはすでに論じて来たし、かなり理解が出来るはずだ。つまりインプット・アウトプットの活動は、愛着パターンに根差しているという議論である。愛着パターンとは例の「安定型B」「不安定回避型A」「不安定抵抗型C」「無秩序型D」の4つである。そしてこれは4つの「アトラクター」の議論でもあるのだ。
 その為の概念的な準備に関してHolmsが区別している二つの無意識の概念は重要だ。記述的無意識(ベイズ・アプローチが関与する種類のプロセス)と力動的無意識(苦痛や葛藤、破壊衝動に対して特定の気付きが侵食されていること)だという。こうやって「フロイトの無意識の概念にもそれなりの意味を持たせることが戦略的に見ても極めて重要なのである。(その意味でHolms
の試みは,フロイトの「肩の上に載る」ことが出来るのである。

 このフロイトの力を借りるという姿勢は、フロイトが脳科学とどのように格闘したかを説明することにもなる。Holmsはこういう。「ノルトフによると、フロイトが脳から心に移行した大きな理由は,当時の神経科学では外部からしか脳を記述できなかったのに対して、フロイトのプロジェクト(「科学的心理学草稿」のことを差すのだろう)が精神を内部から解剖しようとしていたことになる」(Holmes,p.114, 筒井訳、p.108)。
 つまりフロイトは脳から出発しようにも、そこには神経細胞しか見えなかった為に、いかなる有効な仮説も見いだせなかったということになる。(とはいえHomls のこれまでの論述からは、Friston の自由エネルギー論は、フロイトが垣間見た神経細胞と神経線維を見ただけで打ち立てた仮説は概ね間違っていなかったという前提に立っているのであるが。)
その意味では最近の神経科学の発展は、脳を内側から見ることに大いに貢献していることになる。例えばいわゆるデフォルトモードネットワーク(DMN)は白日夢やP空想 phantasising といった自己志向的 self-oriented 状態を支えている、という風に。
その上でHolmsはボウルビーやエインズワースらの愛着の議論による功績をたたえる。これはHolms自身が愛着をそもそもの関心の出発点としたからだということが言える。(Homls の初期の業績にボウルビーに関するものがある。)そこではボウルビーが自分自身が訓練を受ける中で「頭を抱えていた」ことは、精神分析が、心理的な苦痛が形成されるうえで環境の重要性を軽視する傾向にあったということだという。そしてボウルビーは治療者は知的な解釈ではなく、安心基地 secure base を提供することだと考えていたことである。


2024年3月30日土曜日

Jeremy Holmes の本 8

 Holms はこれまでの議論をまとめて、種々の疾患が自由エネルギー論的に見てどのように説明できるかについてリストアップする。

  •  精神病 ・・・ トップダウンの過剰な重みづけを行う。例えば皆が自分を狙っているという思考は、あらゆるインプットをそれに沿うように理解してしまう。
  • 身体化障害、うつ病・・・ ボトムアップ(内,外受容)の過剰な重みづけ。胸がドキドキする、胃がキリキリする。(ただしそれに過剰な意味付けを行うという意味では、上の精神病と質的にはあまり変わらない気もするが。)

  • トラウマ ・・・ 事前予測の不十分さ

  • うつ病 ・・・ 内受容を抑圧してPEMを利用できなくする

  • 物質乱用、自殺行為、パーソナリティ障害 ・・・ トップダウンとボトムアップの交渉(デュエット・フォー・ワン)に他者を招き入れずに、一人で何とかしてしまおうとすること。

  • OCD(強迫性障害)・・・ ボトムアップによる情報の複雑性を減らせないこと

第5章 トップダウン、ボトムアップの自動性を切り離す(uncoupling) 

 この章も面白い。というか私が考えたこともなかった内容である。トップダウンとボトムアップは、両方が自動的につながっていることが多い。そしてそれが色々な問題を起こす。両者を切り離すことにより、自由連想や夢分析、転移、メンタライジングが可能となるというのだ。本当だろうか?確かに夢も自由連想も、あるインプットにとんでもない解釈の仕方をする。そもそも外界からの情報は極めて多彩で、一義的にとらえられないものである。それに決まりきったパターでしか反応しないことからさまざまな問題が起きる。Holmes は結局それは「転移」なのだという。「この先生はどうせこれまでに出会った大人と同じことを考えているに違いない」というわけだ。メンタライジングや自由連想はこのuncoupling に貢献するというのである。ここら辺の議論はニューラルネットワークの改変というテーマと非常に似ているといっていい

2024年3月29日金曜日

Jeremy Holmes の本 7

 結局こういう事ではないか?Holmes 先生はこの愛着の問題を考えているうちにフリストンの自由エネルギー原理に出会い、それを取り込んだという順番ではなかっただろうか? そしてこのように考えると彼との心的な距離がものすごく近くなる。

第4章 自由エネルギーと精神病理

 この章も非常に示唆に富んでいる。まず不思議の国のアリスに登場する「赤の女王」の言葉が紹介される。「おなじ場所に留まるためには、力の限り走らねばならぬ。どこかほかの所に行きたければ、少なくともその二倍の速さで走らねばならぬ。It takes all the running you can do, to keep in the same place.」  まさにこの通りで、人は色々なストレスを体験しつつも、精神的にその場所に留まっているというフレキシビリティを発揮するためには大変なエネルギーを必要とするのだ。その上相手に何かの有益な示唆を与えようとするならば、(つまり「どこかほかの所に行きたければ」)さらにエネルギーがいるのだ。

 もしそのエネルギーが最初から少なければ、環境からの刺激により、あっという間にどこかに押し流されてしまう。そしてそこにトラウマの問題が絡んでくる(と少なくともHolmsは言う。)
 Holms によればフロイトが言ったprotective shiled 保護障壁の意味が重要になるという。これが壊されること、つまりは予測誤差が慢性的に最小化されない状態で痛みに満ちたnegative valence を生み出すような、最初の障壁の破壊が生じることがトラウマである。それを「外的世界のエントロピーと内なる生きた秩序が引き裂かれる」と言い表しているが、これが様々な精神病理を生む。。

 Holmes はまた、精神科医は予測誤差という言葉で精神疾患を定義付けようとしている、という。そしてPEMは二つの方向でうまくいかなくなる可能性がある。そのことはこれまでの論述からだいたい想像がつく。

1.感覚情報は正常なのに、単純化されたトップダウンモデルに上書きされる・・・精神病 現実はどんなに安全でも、自分は脅かされていると感じること(被害妄想)などが特徴となる。

2.感覚入力の精度が高すぎて世界の生成モデルがおろそかになる・・・自閉症
 ただしこの感覚入力は外部からだけでなく内受容についても起きる。彼らは内臓からの感覚にも極めて過剰な精度の重みづけを行なうという。
 ちなみに私の体験では、2.の自閉症においてもかなり1が生じているように思われる。人が優しくしてくれていても、自分に危害を加えるというメッセージを受けている気がするのだ。

2024年3月28日木曜日

Jeremy Holmes の本 6

 第2章「精神分析との反響点」はもちろん興味があるテーマだ。話の流れとしては大体追うことが出来る。人は常にPEM(予測誤差最小化)をしている生き物として捉えるのが、フリストンの理論の理解には必要だが、治療もそれに関連している。PEMを促進させるのが幼児期における母親のメンタライゼーションの機能であり、患者が幼少時にこの能力を十分に育てることが出来なかった場合に、それが治療状況においても再現され、扱われることになるだろう。  ここで「借り出された脳モデルBorrowed brain model」 というのが興味深い。すこし調べてみると、Holmes 先生はなんと「AIP(愛着に基づいた精神療法 attachment informed psychotyerapy)」なるものを提唱していることを知った!! この治療では治療者が自分の脳を提供する形で、患者との同期化を図るという事まで言っている。 Holmes 先生のこのような試みは、いわゆる「生物行動学的同期性の研究 biobehavioral synchrony」の研究にも関連している。この研究では例えば男女のカップルの生理学的な指標(皮膚の電気活動など)が同期している場合に、カップルは旨くいくというのだ。それを言わば治療でも行うというのがこの「借り出された脳モデル」という事だが、これはかなり最先端の考えを示しているといっていいだろう。アラン・ショアが母子の右脳どうしの脳波の同期化について言っているが、それとも関連している。しかもそれを自由エネルギー原理の観点から述べている。つまりAIPはこのPEMの話と結びついているのだ。  結局こういう事ではないか?Holmes 先生はこの愛着の問題を考えているうちにフリストンの自由エネルギー原理に出会い、合流したという順番ではなかっただろうか? 

2024年3月27日水曜日

Jeremy Holmes の本 5

   この後「最節約」と「アトラクタ」の話になるが、両方ともとても重要だ。私にとってはアトラクタ、と言われるとすぐピンとくる。つまりその人が嵌(ハマ)っている考え、傾向、好みのことだ。たとえばロックミュージックはだいたい好きだが、その中でもクイーンの楽曲となると途端に関心を向ける、そのバンドの歌を聞くと急に覚醒する、勇気を貰う、などの状態の人はクイーンという狭く深い落とし穴のようなアトラクターを持つ。それでこの混とんとした現実の中でも情報に溺れることなく体験が成り立っていく。

 私達は普段ものすごい量の情報に晒されるが、それを最大に節約することでより意味のある生活を送れる。毎日たくさんの人に出会うが、自分にとって天敵となる上司の表情一つには特別に特化した注意を払う。スーパーに行っても数多ある商品には目もくれず、自分の好きなあのチョコレートの売り場に直行する、など。これが最節約原理 principle of parsimony (いわゆる Occam's razor) である。ある意味ではこれをやれるところが人間の脳の真骨頂と言ってもいい。AIではとてもこうはいかないからだ。
 この最節約化については、二つの方向に逸れる可能性がある。一つは節約しなさすぎ、もう一つはし過ぎである。単純化され過ぎたモデルでは非機能的になる。しかしその逆では環境の自分自身に持つ意味を判断しかね、「複雑性を刈り込めない inability to prune complexity」という問題が生じるという。これもいい表現だ。Pruning 刈り込みという言葉で連想するのは、シナプスの刈り込みである。これもまた節約の原理と関係しているわけである。
 さてこの次に出てくるのが、いわゆる愛着のパターンがこの問題に絡んでくるという説明である。未来予測をする私たちの脳を著者は「ベイズ予測装置」と呼ぶが、それにはいくつかのパターンがあるという。最適な応答を見せるのが、「安定型」、過大活性化を起こすのが「不安型」(不安、抑うつを招く)、過少活性化(リスクテイキングを招く)を起こすのが「回避型」だという。「棒か蛇か」の例が分かりやすい。適切に判断するのが「安定型」、なんでも蛇に見えてしまう「不安型」、なんでも棒に見てしまうのが「回避型」、というわけだ。なるほど。 それを本書では「ランかタンポポか」という例えを用いている。ランは特化した環境で大繁栄するが、環境の変化に弱い。それだけ環境のリスクに敏感ということだ。他方タンポポはだいたいどんなところにでも育つが、その分環境からの被害に対する注意も不十分で、その分環境の毒性を被るリスクにさらされている。
 そしてこの文脈で「ゴルディロックス注意」という言葉が出てくる。金融証券用語らしい。過熱しすぎでも閑散でもない 「適温相場」のこと。童話「3匹のくま」に出てくる「熱くもなく冷たくもないスープ」の例えに由来し、主人公の少女の「Goldilocks」という名前に由来するという。
 もう少し棒か蛇かの例を考えよう。極端に蛇を恐れる人は、なんでも蛇に見えてしまう。逆だとなんでも棒に見えてしまう。ここで棒とは、それで遊ぶおもちゃと考えよう。環境と適度に遊べて適度に恐れるゴルディロック的な予想をする人はインプットの幅をそれなりに広げるだろう。より面白いおもちゃが手に入るかもしれないからだ。そして環境から何が来るかという気持ちの準備については、「多分棒が来るだろうが、時々蛇も来るかもしれない」くらいのスタンスでいる。
  フリストンはこれが実際の神経系についても当てはまるという。例えば網膜には、視覚野からの下向性の錐体細胞(ニューロン)も、外界からの光を感知する上行性の錐体細胞もある。両者が適度にその情報量を絞り込むことで、ちょうどいい感じで両者が出会う。つまりすべてを蛇に見立てるということも、すべてを棒に見立てるということもなく、両方が上手くかみ合って興奮するような状況が出現する。それは実際に過去に蛇に遭遇した時の両方向性の錐体細胞が同時に興奮したパターンに近くなるだろう。

しかし本当によくできた理論だ。

2024年3月26日火曜日

Jeremy Holmes の本 4

 ホームズの本を読んでいると、色々調べなくてはならないことが出てくるが、今まであまりわかっていなかったアロスタシス allostasis (動的適応)の概念がはっきりした。これはこれで楽しい。

アロスタシスは概念としては20世紀末と比較的新しい。要するにストレスが過剰になると、それに対する対抗手段として生じてきた反応が自分にとって害を及ぼすようになるという理論だ。(福岡伸一先生の「動的平行」の概念とも似ているな。)これ自体は常識的な理解として持っていたが、これが先ほどのPEM(予測誤差最小化)と同じことであるという。

 例としてはこうだ。例の新型コロナの感染症で肺炎が引き起こされる時、肺を蝕むのはコロナウイルスではなく、過剰な免疫反応であり、免疫細胞が放出する炎症性サイトカインが自分の組織を破壊する結果と言える。つまりアロスタシスの調節が狂って、行き過ぎた反応が生じているのだ。(自己免疫疾患などは、もともと外部からの病原菌やウイルスの侵入がないのに、生体が免疫反応を言わば自作自演している状態である。
 ホームズはこの概念とフロイトの理論を結び付けて説明する。つまりフロイトが言う「生命体はエネルギーを抑える方向に働く」とは結局アロスタシスのことだという。しかもホームズはこれが幼少時のトラウマと関連しているという。ヒエー 😱!!フロイトの理論はトラウマともストレス反応とも結びついていたと主張するのだ。そして以下の様にまとめる。

フロイトのいう一次過程=ボトムアップのプロセス(感覚上皮から生じる)
フロイトのいう二次過程=トップダウンの言語表象、感情調節

そして「フロイトが強調したトラウマ記憶、つまり調節や調整を受けずに破壊的なまでに拘束されないままの記憶」(16)とも言い換えている。何かぞくぞくしてくる展開だが、先に行こう。
 ホームズはその上でベイズ理論を取り上げ、フリストンの自由エネルギー理論の説明に入る。ベイズ理論は何と1700年代のものであり、いわばフリストンらによって発掘されたということか。ベイズ確率 Bayesian probability は少しややこしい。定義としては「確率の概念を解釈したもので、ある現象の頻度や傾向の代わりに、確率を知識の状態を表す合理的な期待値、あるいは個人的な信念の定量化と解釈したものである。An interpretation of the concept of probability, in which, instead of frequency or propensity of some phenomenon, probability is interpreted as reasonable expectation representing a state of knowledge or as quantification of a personal belief.」という定義が一般的だが、まあここは難しい議論を飛ばして先に進もう。

 さて自由エネルギー理論の創始者カール・フリストンの唱えたことは、ある意味ではとても分かりやすい。(こんなに分かりやすくていいのか、と思うほどだ。)生命体は生存のために常に環境を予測する。これは環境は個人にアフォーダンスを提供するという言いかたも出来るという。
 取ってのついた引き出しを開ける時、それに向かう手はすでに無意識的に取っ手をつまむ手の形をしている。これがアフォーダンスの例としてよく出てくるものだ。あるいは講義の最中の教室に忍び込む時は、自然と真面目で低姿勢で真面目な顔になっている、など。
 そしてその基本にある考えは、脳はサプライズを忌避する、ということだと言う。それは生体をたちまちのうちに危機に瀕させるからだ。(ただの木の棒と思って近づいたら蛇だった、などの例を考えればいいだろう。)そしてそのための生体の反応はquick and dirty である。大雑把であっても危急の際には役に立つのだ。これにピッタリの表現。「巧遅拙速にしかず。」またこのサプライズを避けるための方便にはメンタライズ、つまり相手の心を読むという作業も含まれるという。なるほど、ここにメンタライゼーションの概念を入れ込むのだ。


2024年3月25日月曜日

Jeremy Holmes の本 3

 さて中身に入る。さっそくホームズ先生は私が考えていなかったことを言ってくれる。「自由エネルギーは間違いなく創造性の基礎を作るが、拘束を受けていない場合、準備が追い付いていない神経系を圧迫し、それが負担になる。だから自由なエネルギーをなるべく拘束するというのが、私たちの生の営みなのだ」。  何か自由エネルギーは悪いもの、というニュアンスだが、これはそうなのだろうか?私は自由なエネルギーを余剰分として残したいと思うが。ただし私たちが不安に駆られた場合は、確実にこのエネルギーの最小化を試みるだろう。不安な場合は、拘束されていないエネルギーはそのまま等量の不安に翻訳されるという感じだからだ。それを拘束する、すなわち未来に起きることを予測し、確定することは不快の減少に繋がるのである。(ちなみにフロイトの「草稿」での用語では自由エネルギーはφ、拘束エネルギーはψだったな。そしてこのエネルギーの概念は結局リビドー論につながったわけだ。)  ちなみにこの議論は私が一時とても影響を受けたウォーコップ・安永の理論と関連している。彼らが言った生命エネルギーはここでいう自由エネルギーに相当するが、これは基本的には快に結びついたものであった。

第1章 「自由エネルギー原理」

脳が階層的な「推論機械 inference machine」であるというのアイデアは、実はヘルマン・ヘルムホルツに由来するという。例のヘルムホルツ学派のヘルムホルツだ。そしてすごいことを言っている。それはボトムアップ(感覚上皮からの入力)と、トップダウンの、つまり皮質由来の構成概念との相互作用と言い表されるという。  この考えをもっと説明すると、私たちの現実の体験は決して客観的なものとはいえず、そもそもが主観的な投影から始まるということだ。よく出てくる「木の枝と蛇」の例え話で言えば、頭上から落ちてくる細長い木の枝を目の端で捉えた私たちは、それを「蛇だ!」と認識して身構える。でもそれは基本的には私達の構成概念を投影しているに過ぎない。「自分を襲ってくる長くて恐ろしい生き物(=ヘビ)」は基本的に私たちの脳(大脳皮質)の産物だ。しかしこれは頭上から落ちてくる細い枝という現実との交互作用として起きたという意味ではヘルムホルツの言う通りなのである。

2024年3月24日日曜日

Jeremy Holmes の本 2

  ここでもう少し明かしてもいいだろうか。宣伝効果にもなるし。実はこの本は心理療法は脳にどう作用するのか ―精神分析と自由エネルギー原理の共鳴―」筒井亮太先生訳、岩崎学術出版社としてこの夏に出版予定なのだ。私はその序文を頼まれて、それでこの原書と遭遇したのである。  最初の方から目を通していく。いくつかのキーワードが紹介される。FEPとは「自由エネルギー原理 free energy principle」のこと、そしてPEMは「予測誤差最小化 Prediction Error Minimization」のこと。このPEMは現在の心理学において一つのトピックである。人間は要するに予想する機械であり、常に未来に何が起きるかを予想し、それに対する心の、ないしは身体的な準備を行なっているのだ。PEMをいかに最小にするかは、生命全体が負っている課題と言っていい。何しろこれは生死に直結するのだ。  目の前の生命体が天敵なのか、餌なのかを見極め、近づいた時に攻撃されてこちらが死に瀕するか、それともこちらが餌としてありついて生命エネルギーを獲得できるかは極めて重要な問題だ。そしてPEMが最小であるということは、より少ないエネルギーの消費でよりよい餌を捕獲することであり、乾期のサバンナで生き抜くライオンにとっては最も重要だ。逆に失敗したPEMの試みにおいては、餌となると予想していた動物が大変な毒を有し、あるいは鋭い牙を持ち、こちらが瀕死の重傷を負ったり、食べられてしまったりする状況であり、すなわち死を意味する。

 さっそく脱線であるが、このPEMはまたドーパミンシステムの仕組みを決定づける問題でもある。将来一定の快をもたらすであろうものを補足し、その時点で快を先取りした興奮を味わわせるというこのシステムは、その快を予想通り得られなかった場合には負の興奮、すなわち苦痛をもたらす。素晴らしい味わいを期待して買った高価なワインの栓を抜いてみたら、とんでもないブショネ(コルクの汚染によりひどい味になっている欠陥ワイン)だった時の失望を考えればいい。

2024年3月23日土曜日

Jeremy Holmes の本 1

  ある事情があり、ジェレミーホームズ Jeremy Holmes という大家の「脳は独自の心を持っている The Brain has a mind of its own」という本を読んでいるが、これは大変な本なのである。しかも副題が「愛着、神経生物学、そして精神療法の新しい科学Attachment, Neurobiology, and the New Science of Psychotherapy」となって、要するに精神療法と神経科学を愛着を媒介として結ぶという企画なのだが、これだけでもスケールの大きさが分かるだろう。そしてその割にこの本は読みやいサイズで、原書はかなり大きな文字で索引を入れても200頁くらいしかないのだ。

 そしてこの本は一読して、フロイトの幻の著作とも言われる1895年の「科学的心理学草稿」に沿ったものだということが分かる。この一世紀前に試みられ、その後忘れ去られていたかのような理論を、最近 Kalr Friston の自由エネルギーの理論に被せて再興しているのだ。この本を評してPeter Fonagy 先生も「自由エネルギーの論客として、数学的な直観が他者との交流を説明する様を見るのは、目から鱗であり、真の喜びである。本書はこの分野に起きる今世紀の最も貴重な貢献の一つである。」と言わしめている。またGwen Adshead によれば「もしフロイトが生きていたなら、ぜひこの本を読むように」と強く薦めるであろうとも書いている。
 ちなみに著者ホームズ先生は35年にわたって王室ロンドン大学の精神医学及び医学的精神療法の顧問であったと紹介されている。
 さっそくユーチューブにあげられたホームズ自身による短い解説を見ると、こんなことを言っている。今求められているのは、「関係神経科学 relational neuroscience」とも言えるものであり、 そこでは精神分析と愛着と神経科学の統合が行われる。そして精神療法はトラウマを受けた人が、いわば治療者の脳を借りて、それを理解され創造的に発展させることが出来るようにするのだ。またこれまで一人の人間について考えられていた神経科学を、対人的なそれとして理解することであると主張する。何と壮大な試みであろう。

実は私はフロイトの自由なエネルギーと拘束されたエネルギーの理論(「科学的心理学草稿」の主要テーマである)と、最近話題となっているフリストンの自由エネルギーの理論の関係がよく分からないでいた。しかしこれらの関係を教えてくれるのがこの本なのである。


2024年3月22日金曜日

脳科学と臨床心理学 第3章 加筆部分

 近未来の【心】を夢想する

優秀な【心】を所有することができた私たちの近未来像を,私なりに思い浮かべてみる。これはとても楽しい作業だ。(ちなみに私はこの想像を論文にしたことがある。詳しくは岡野(2019)を参照。)

将来私たちは一人に(少なくとも)一台ずつ,カスタマイズされたAIを有することになるだろう。それは人型のロボットの形をしているかもしれないし,パソコンやタブレットの中に現れる二次元のイメージかもしれない。ひょっとしたらホータブルで机上に浮かび上がるホログラフィ―という事もありうる。ボーカロイドの進化版という形だろうか。ともかくそれなりの姿かたちや性質を持ち,それを私たちは普通の心と錯覚するだろう。

例えば精神分析家ならフロイト先生のAIを持ちたいと思うかもしれない。私はそれを「フロイトロイド」と命名し,ロボットのような姿をにさせたい。フロイトロイドは私にとっての治療者でもあり,スーパーバイザーでもある。それはフロイトの著作集,伝記,フロイト関連のあらゆる情報を網羅したデータベースを備えている。そして臨床的な質問に答えるだろう。

「フロイト先生,私はこんなケースを担当することになりました。どのように診断し,理解したらいいでしょう?」と言ってそのケースのプロフィールについて説明し,ついでにいくつかの夢もインプットして答えを待つ。あるいはもっと直接的で個人的な質問をしてもいいかもしれない。「フロイト先生,私は××のような問題に悩んでいます。どうしたらいいでしょう?」

ドクター・フロイトロイド近影(Microsoft Bingで著者が作成)


それに対するフロイトロイド先生の答えは、一応日本語であるが、ドイツ語なまりの少し甲高い声であり(ユーチューブで見ることのできる実際のフロイトの英語も少し高い声だった)、その内容も持ってまわった、その意味では「フロイト的」なものだが,とても説得力がある。それに非常に頭の回転がよろしい。文献の引用など一瞬でやってのける。ただその言葉の一つ一つは岩波版フロイト全集(全23巻)のどこかに出てくるような表現をつなぎ合わせたような印象を受けるが、まあそれは愛嬌だろう。というよりそれでこそフロイトロイドの本領発揮と言えるだろうか。

フロイトロイド先生のとても素晴らしいところがある。それはたとえ日曜日であろうと夜中であろうと、突然話しかけても,あるいは夜通し何時間も使い倒しても決して疲れを見せないことだ。それにいやな顔一つせず、淡々としている。彼には【心】はあっても心はないことを前提としているからだ。(もし将来万が一AIが心や感情を持ってしまっても大丈夫である。背中に「心オフ」ボタンも装備しているからだ。
 もっともフロイトロイド先生自身は,こちらが問いかけない限りは受け身的で中立的で,沈黙が多く、やたらとこちらに「自由連想」を求めるという癖が備わっているのだが。

というわけで私はこの空想上のフロイトロイド先生にかなり満足をしている。フロイトロイド先生は疲れ知らずで、しかも劣化知らずである。まあ時々「プログラム更新のお知らせ」が来てアップデートしなくてはならないが。
 でも読者の中にはこんな質問がわくかもしれない。

「でも感情を持たず,本当の心を持たないフロイトロイド先生の話を信頼して聞くことができますか?」

そうか……と私は一瞬たじろぐ。そしてこう言えるような準備を施しておく。

「でももう一つのボタンを用意しているのです。それはフロイトロイド先生があたかも本当の心を持ち,感情や良心が備わっているような受け答えをするというボタンです。それをオンにします」

しかしフロイトロイドの話をしだすと、いくらでも空想が膨らむので、このくらいにしておこう。


2024年3月21日木曜日

「トラウマ本」 共感の脳科学 加筆部分 1

  ちなみに共感と言えばまずCarl Rogersの名前が浮かぶ。彼が「来談者中心療法」の文脈で1950年代から共感の重要性を説くようになったが、Freud は共感について特に扱わなかったことは述べた。しかしFreud以降は精神分析の世界では共感をどのように扱って来たのか?

 奇しくもRogers と同時代にシカゴで活動をしていたHeintz Kohut は1957年に「内省、共感と精神分析」を発表した。共感の重要性を説く、かなり画期的な論文だったが、精神分析の世界にあまり波紋は与えなかった。それは何よりその理論がそれまでの精神分析理論とはかなり異質だったからだ。それはどのような意味だろうか?
 Kohutはその論文で「共感は身代わりの内省である」と定義した。内省とは自らの心の中を振り返る事であり、そうなると共感とは基本的に意識野の体験をさす。私達は意識にないことを「内省」は出来ないからだ。つまりKohutは無意識ではなく意識的な体験の重要性を説いたことで、精神分析の理論とはみなされなかったのである。このことにKohutは当惑したが、その後自論を展開して「自己の分析」(1961年)を発表した。精神分析会の権威たちからは当然のことながら黙殺された(後に詳述)。Kohutの共感についての理論は、当の精神分析の世界では少なくともオーソリティたちからは決して「共感」してもらえなかったのである。


市民権を得た「共感」



 その後の精神分析においては共感は、Kohut理論とは別に、いわゆる「支持的療法」における一つのアプローチとして位置づけられて行った。しかしその支持的療法自体が、精神分析の世界では精神分析の本流からは外れた技法であるとして、長い間軽視される傾向にあったのである。

ここに示した図はGabbard による表出的-支持的スペクトラムであるが、支持的な極に近いところに「共感的支持」という項目を見て取ることが出来る。


2024年3月20日水曜日

「トラウマ本」 トラウマと解離性健忘 加筆部分 2

書き足したらキリがなくなってくる‥… 

解離性健忘の特徴

人が過去に起きた出来事を思い出せないということは日常的に生じている現象だ。誰でも昔起きた何らかの出来事について、その時にそばにいた誰かに話を聞き「そんなことあったっけ?」と驚きを持って聞き返すことがあるだろう。私達は過去の出来事についてことごとく記憶することは通常は出来ないし、またその必要がない。それだけでなく過去の出来事を忘れることが出来ないという問題を持つことで様々な問題を抱えるという例(いわゆる超記憶症候群 hyperthymesia)もある。

 私達にとっての記憶は、通常は人生を支え実際に生活に役に立つものである。そしてそのために日常生活上の体験のうち、不要なものは忘却され、必要なものが残っていく。そしてその際の記憶の重要度は、ある体験がその人の人生において持つ意味の大きさに従う。さらに具体的には、その体験が起きた時にそれがその人にどの様な情緒的な反応を引き起こしたかにより概ね決定されるのだ。
 ある出来事がその人に大きな喜びを与えたり、逆に悲しみや驚きを起こしたのであれば、その記憶は脳の扁桃体という部分によりいわばアンダーラインを引かれた形になり、それだけ長期記憶に残りやすいのである。ただしどの体験がその人に情緒的な意味を持つかには個人差がある。だから何人かの人が同じ体験を同時にしたとしても、何年後かにそれを克明に覚えている人もいれば、きれいさっぱり忘れてしまう人もいるということが起きる。

 ところが過去において重要な意味を持ったはずであり、当然覚えているべき出来事が当人にとってすっぽり抜け落ちるということが生じる場合がある。事情を知っている周囲の人もそのことに驚き、当人もそのことに当惑を感じたりする場合もある。そこに薬物の試用や頭部外傷等の器質因が伴わない場合、通常はそこに解離という仕組みが働いた結果であると想定して解離性健忘が診断として浮かび上がってくるのである。

 ここで解離という現象を改めてわかりやすく表現するならば、脳の状態が通常のそれと異なり、その時の体験を通常の仕方で記憶にとどめるということが出来ない状態になるという現象である。そしてそのような状態で体験された出来事を想起できない現象を解離性健忘と呼ぶのである。
 ただしこの「健忘」という用語は、実は不確かなものであることを認めざるを得ない。なぜならその時の記憶が頭の中のどこにも残っていないという状態とも異なる可能性があるからだ。その記憶はふとしたきっかけで急に蘇ってくることもあり、通常のエピソード記憶とは異なる形で脳内に残っていることが分かる場合もある。そこで健忘という表現よりは「想起不能状態」の方が適切かもしれない。
 ただしこの健忘と「想起不能状態」が明確に区別できる可能性は比較的少ないと言えるだろう。なぜならある記憶に関する解離性健忘がある時点で生じているとしても、その人が将来何らかのきっかけでそれを想起することが出来、すなわち純然たる健忘ではなく「想起不能状態」であったかどうかは、その人が一生を終えるまでは(あるいはそれ以降になっても)わからない場合が少なくないからである。
 解離性健忘(ないし想起不能状態)が生じる場合、その出来事はその人にとって大きな意味、すなわち心的な負荷を及ぼしたり、驚きや恐怖等のトラウマ体験であることが多い。ただしトラウマ体験には驚きや恐怖などとは異なり、離人感や非現実感などの解離症状を伴い、ボーっとした感じや意識が薄れる場合もあることが知られていることに注意すべきであろう。

2024年3月19日火曜日

「トラウマ本」 トラウマと解離性健忘 加筆部分 1

 解離性健忘の症状の特徴は、自分にとって大きな意味を持つ最近の出来事、特に外傷的ないしは大きなストレスを伴う出来事に関する記憶(エピソード記憶)を回復する能力が失われることである。つまりそれは単なるもの忘れでは説明できない。単なる物忘れの場合は、忘れられる記憶は自分にとって意味が少ない記憶からということになる。

 健忘された記憶は、個人生活、家族生活、社会生活、学業、職業あるいは他の重要な機能領域において生じ、そうなると特に社会生活上深刻な障害をもたらす。仕事場では単に「忘れていました」では済まされないからだ。それに比べて個人生活や家族との同居では記憶の障害はごまかしたり容赦してもらえたりすることが多い。
 ただし当人はしばしば、自分の記憶の障害に気づかないこともある。網膜の障害等で視野の一部が欠けていても、その部分が自然と補完されて気付かれずにいることが多いが、それと同様である。時には健忘している部分を思い出そうとする努力への抵抗を感じたりする。
 解離性健忘と同様の健忘は中枢神経系に作用する物質(アルコールやその他の薬物)の使用、神経系の器質的な疾患(側頭葉てんかん、脳腫瘍、脳炎、頭部外傷など)でも生じうるが、それらは解離性健忘からは除外される。しかし脳内で生じていることはかなり類似している可能性がある。

解離性遁走があるかないか

解離性健忘では、空間的な移動を伴ういわゆる「解離性遁走」を伴うかどうかの分類もある。解離性遁走とは自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪することで、その時は「自分は誰か」という自覚もなくしている。だからこそ帰宅する努力をせずに、時には何か月も時間が経過することがある。
 DSMやICDの以前の分類では、この解離性遁走は独自に一つの疾患として提示されていた。そしてそれとは別個に解離性健忘という診断があったのである。それから診断基準が代わり、解離性遁走は解離性健忘の下位に分類されることになった。そこにはいくつかの理由がある。一つには遁走が生じた場合に見知らぬ場所で混乱する、あるいは新たな人生を歩むということで社会の耳目を集めることが多く、そのために事例化しやすかったのであろう。しかしもちろん遁走を示さない解離性健忘も、遁走程には目立たないにしても存在することは確かであり、また遁走を伴う解離性健忘と伴わないそれを明確に分ける必要もないという考えから解離性遁走が単独で診断されることはなくなったものと考えらえる。
 ただし私は遁走は解離性健忘にかなり特徴的ではないかと考える立場である。突然解離が生じて自分を規定する様々な諸条件から解放された時に、人は放浪する性質を有しているのではないだろうか。その様に考えるのは、解離性遁走における解離性健忘はかなり特徴的な性質を有するからだ。

改めて考えてみよう。解離性健忘とは、現在の主体がある過去のことがらを想起できないということだ。他方その健忘の対象となっている出来事が起きていた時は、その時の主体はおそらく何が起きているかを把握していたであろうから、その病理性を問われることはない。なにしろ「健忘」はまだ生じていないからだ。つまりそこにある問題は、健忘している今の主体と、かつての出来事の主体は別々の存在であり、両者が「解離」しているということだ。そして病理性が問われているのは、現在の主体の方である。
 ところが解離性遁走の場合はどうだろう。上述の議論に沿えば、後者の健忘されてしまった出来事における主体が、解離性遁走の主体に相当することになる。そしてその時の主体が病理性を問われていることになる。つまり一般的な解離性健忘と逆の関係にある。それに実際恐らく遁走の最中にある人の挙動は普通とは違うであろう。
 このことからして解離性健忘と解離性遁走とは互いに異なる病理としてとらえたほうがいいということになる。

ここで遁走している最中の主体が問題視されるということについてであるが、通常遁走の間の出来事は後に想起されることは極めて少ない。それは遁走中の主体はいわば朦朧状態であり、おそらくその時に職務質問を受けたとしても、満足な答えが出来ないという可能性があるからなのだ。


2024年3月18日月曜日

解離ーそれを誤解されることのトラウマ 1

 今回🔵先生と共に編集を任せられた当誌「●●●●」の特集のいくつかのテーマの一つは、解離をめぐる誤解や否認についてである。  このテーマに関連して、2年ほど前に興味深い執筆依頼を受けた。「精神看護」誌の2023年1月号の特集「この10年で覆った常識とは-不要な神話を手放した人たち」への寄稿論文である。それは「解離性同一性障害の臨床における『出会い』-『交代人格は無視する』ではうまく行かない」という形で発表された。(精神看護 2023(1)pp.18-21)  この論文の発表はそのタイトルからもうかがえる通り、結果としてある事情を前提としていたことになる。それは「『交代人格は無視する』という神話」が従来存在していた(そして今でも存在している)ということである。そしてそのことは、日本における精神科の臨床において、解離性障害、特に解離性同一性障害の認知度が精神科医の間に依然として低く、それが臨床的に存在しているにもかかわらず、的確に診断されないことが実に多いという私の体験から来たものであった。  さてその様な印象を持ち、著作によりそれを主張するということを20年足らず続けているのであるが、私は結局はある驚きや意外さを日々体験している。それは解離性障害の認知度の低さが、結局は依然として見られ、解離が解離として診断されないでいるというケースを依然として体験することの驚きである。  実はこの驚きや意外さには三段階あるということを申し上げないと正確ではないかも知れない。一段階目は今申し上げた事実、つまり解離性障害が臨床家により認識されない、あるいは否認される傾向が強いということである。そして二段階目は、精神科看護に寄稿した論文にもつながることである。それは「解離性障害を認知したうえで、それでも交代人格にあったり認めようとしなかったりする傾向が多く見られる、ということだ。そして三段階目は、例え交代人格と出会い、それを扱う事を行なったとしても、交代人格の存在を病的なものとして扱い、出来ればそれを失くすこと、すなわち人格の統合を図ることが半ば解離の治療の常識となっているということである。

話の整理の為に以下の様に述べよう。解離の誤解の三つの段階とする。いずれも解離性同一性障害と診断されるべき患者に対する否認という意味でである。

第一段階 解離性障害は存在しない
第二段階 交代人格は無視すべきである
第三段階 交代人格はやがて統合されるべきである

ただこの第三段階については誤解を受ける前に断り書きをしておきたい。統合はそれが自然と生じる場合にはそれは恐らく望ましい方向性と言え、その可能性を否定するものではないということだ。あくまでも治療者がその統合を望ましいものとして積極的にそれを促す場合について言えることだ。

2024年3月17日日曜日

脳科学と臨床心理学 第12章 療法家にとっての脳科学 加筆部分(ほんのちょっと)

 3.脳科学が示す非決定論的な心の世界

 最後に脳科学的に理解された心の最も基本的な特徴、すなわち非決定論的な性質が臨床家に何を促すかについて述べておこう。ちなみにこの点については、連載第4回の「脳の表面では神経ダーウィニズムが支配する」で述べたことにもつながる。脳で起きていることは無数の玉突き現象のようなものであり、その意味で脳(ニューラルネットワーク)はいわゆる複雑系と理解すべきシステムである。そこは偶発性や非線形的な動きが支配する非決定論的な世界なのだ。

 複雑系としての脳や心は、例えるならば地球の動きのようなものだ。そこでは常にどこかで火山活動や地震が生じている。また各地でさまざまな気象現象が生じている。そしてその長期的な動き(巨大地震の再来、氷河期の到来など)は概ね予測し得るものの、細部は偶発的で予想不可能である。脳の動きも、その産物としての心の動きもその大雑把なパターンを同定することは出来るが、その細部は常に予測不可能なのだ。

2024年3月16日土曜日

脳科学と臨床心理学 第8章 左右脳 加筆部分

 分離脳が示す人の心の在り方

最後に分離脳から見えてくる人間の脳と心の在り方について私なりの見解をまとめたい。私は左右の脳は相互補完的であり,2つがあって1つなのであるということを述べた。しかしその上で私は左右脳のうちで優位なのは右脳の方だとやはり言いたい。右脳は主で,左脳は従である。

 左右の脳の優劣など付けるべきではない、という言葉も聞かれそうだが、実は最初に両脳に対して差別的だったのは精神医学である。というのも精神医学では言語野のある方(ほとんどの場合左脳)を優位半球,反対側(ほとんどの場合右脳)を劣位半球と呼ぶという習わしがある。しかしこれは不正確で誤解を招きやすいと私は考える。

本当は右脳が優位であるという点を忘れるとどうなるだろうか。それは左脳の産物を絶対視してしまうことにつながる。そしてそれは私たち現代人が,特に欧米風の考え方に毒されかけた場合に陥ってしまう問題でもある。

例えば私たちの行動を規制しているのは,自然法則であり,法律である。そしてそれらは左脳により生み出され,磨き上げられるのである。自然科学の分野であれば,この左脳の優位性は必然なのだろう。最近の例であるが,常温での超電導物質が発見されたという研究がアジアの某国で発表された。しかしその報告が人類にとっていかに朗報となる可能性があっても,厳密な論文の審査でその正当性が認められなければ,それが却下されざるを得ない。

しかしもう一つの左脳の産物,すなわち法律はどうか。それが具体的に運用された時のことを想像しよう。あなたは被告の席に座り,原告の訴えがいかに誤っているかを主張している。そして非常に多くの場合,あなたは次のような体験を持つのだ。「いくらこちらの主張の正しさを法的根拠をもとに主張しても,裁判官はそれを聞き入れてくれないではないか」目の前の裁判官があなたの主張を生理的に好かないとしたら,最初からあなたの話を論理的に追うことを放棄するかもしれない。それどころか裁判官は,あなたが用いたものとは別の法的な根拠をもとにあなたの主張を却下しかねない。そのような体験を通してあなたが知るのは,法律はしばしば,誰かの右脳による行動を極めて巧みに正当化すべく用いられることが非常に多いということである。

いかに弱者を守り,強者の不正を取り締まるべく法律を整備しても,常に勝つのはそれを巧妙に利用する強者達だ。彼らは自らの右脳に基づいた行動を巧みに正当化するために左脳を利用するのである。もちろんそれをなし得るのは,ごく一握りのお金と権力を有する人たちなのである。しかしその力や影響力は決して侮れない。

だから某国Aが某国Bに軍事侵攻を開始する時,Aの首相や大統領の左脳はこう言うのだ。「B国にいるわがA国民を守るための自衛の手段だ。その意味では先に仕掛けたのはB国の方だ」。弱肉強食の国際社会での紛争ほど,人類の左脳の産物(国家間の条約,国連憲章など)が意味をなさないという例はないだろう。その意味では人間社会もまた,言葉を持たない野生動物の右脳同士の戦いと少しも変わらないのである。


2024年3月15日金曜日

脳科学と臨床心理学 第2章 ニューラルネットワーク 加筆部分 2

 マクロ的に見たニューラルネットワーク

このように書くとニューラルネットワークにおいて生じることそのものが非常に漠然としてつかみどころがないという印象を与えるかもしれない。しかしニューラルネットワークの活動は、それをマクロ的に見ることも可能なのだ。例えばスポーツ観戦に集まった数万の大観衆が熱狂的な声をあげたら、かなり離れたところまで響き渡るかもしれない。それと同様に、先ほど例に挙げたてんかん波のように、たくさんの神経細胞が一斉に興奮すると、それが脳の広範囲まで波及して全身のけいれんを引き起こすのである。

このニューラルネットワークの全体としてのパターンが私たちの精神活動に反映されていることを示す研究があるが、これはニューラルネットワークに私が惹きつけられた一つのきっかけでもあった。その例を挙げてみよう。(以下は岡野(2018)精神分析新時代.岩崎学術出版社.を一部引用する。)


2024年3月14日木曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 加筆訂正部分 3

  結局脳は環境に適応して生き残る生命体としての私たちの一部であり、心はそれに付随して生じる現象(「随伴現象」として第5章に登場する)に過ぎないとしたらそこにソフトウェアを想定するのは本末転倒ということになる。  心のソフトウェアを追求することをやめるとしたら、心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を観察することだ。この見解には、多くの脳科学者が同意するだろうと思う。そしてそれを支えてくれるツールとしては2つが挙げられる。

1つには脳の画像技術の発展である。例えばfMRIにより見ることのできる脳の興奮の経時的なパターンは,その時心が刻々と体験している内容にかなりよく対応している。ノセボ効果による痛みと医学的な根拠のある痛みが脳の特定部位における同様の興奮のパターンを示すことなどはその一例だ。

そしてもう1つは,いわゆるニューラルネットワークモデルの発展であり,それを飛躍的に精緻なものにしたディープラーニングの技術である。きわめて膨大なスケールの人工的な神経ネットワークというハードウェアに繰り返し自己学習を行わせることで,人間的な知性と見まごう能力が獲得される。

ということでこの第一章は、最初は脳科学嫌いであった私がなぜそれに大いに興味を示すようになったかについて、後に続く章の内容を匂わせつつ論じた。以下に続く11章はかなり完全に筆任せに書き進んでいくが、理論というよりは私の体験に基づいてエッセイ風に書いていきたいので,どうかお付き合い願いたい。


2024年3月13日水曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 加筆訂正部分 2

 心のソフトウェアは存在しない?

心とは不思議で魅力的で、かつ謎めいたテーマであることは改めて言うまでもない。フロイトが創始した精神分析はその謎を解いてくれるという期待を抱かせる。しかしそれに対する熱意は、少なくとも医師になって最初の数年間に比べるとやや醒めかけているように感じる。その分脳科学への関心が深まったという事情は否定のしようがない。そしてそこには私の中で起きたある種の気付きが関係していた。それは心のソフトウェアなるものはおそらく存在しないという事であった。

 もし心がソフトウェアに例えられるなら、それをデザインした存在があるはずだ。それが心を有する私達自身でないとしたら、それは神でしかないであろう。しかし神もまた私たちの心の産物であるなら、心の作者はどこにもいなかったということであろう。それどころか心そのものが、私達の幻想の産物でしかない。それは私が心とはどのように動くのかについて考え続けてきた結果至った非常に素朴な気付きなのである。心にいくら法則のようなものを見出したつもりになっても、結局のところは例外に遭遇する。
 たとえばフロイトが言った「夢は無意識の理解に至る王道である」や「人間は想起する代わりに反復する」などは、人の心のあり方を大胆に捉えているという点では見事であると思う。しかし個々の心はあまりに蓋然性に満ち、予想不可能な動きをたどるのだ。
 もちろん人の心にある種の決まり事や法則がないわけではない。たとえば人は多くの場合は他者から肯定され見守られることで安心や心地よさを体験する。逆に自分を認めてもらえないことで深刻な心の痛手を被る傾向にある。あるいは人は自分が生きていることに、あるいは自分の行動に、そして他者の行動に、さらには自然現象に様々な意味づけをせずにはいられない。また深刻な傷つきを体験した後にはそれを思い出したり直面したりすることを死に物狂いで、あるいは衝動的で不適応な行動により回避する。

しかしこれらの一見法則や決まりと呼べるような性質は、心の仕組みというよりは生命体として生存するための条件程度としか言えないであろう。そしてその生命を維持することでさえ、時々人間は自ら放棄してしまうのだ。それをどうやって整合的に理解し説明することが出来るだろうか?

心というソフトウェアが存在しないのではないかという私の意図は以上のようなものだが、それは人の思考や行動はいくつかの本能的な動き以外は実際の経験を経て自然と出来上がっていくものだという理解に導く。そもそもソフトウェアを備えない人間は成長する過程で、何も教え込まれない。例えば日本に生まれ育つうちに、大多数の子供は日本語をごく自然に話すようになる。しかし日本語のソフトは介在していないのだ。

あるいは子供は歩くという行動をおそらくごく自然に習得するであろうが、特にそれを教え込まれるわけではない。ただ周囲の人の模倣をすることにより歩けるようになるのである。おそらくそこにはある行動をする人を目の前にして、ごく自然にそれをコピーするという仕組みは備わっているのだろう。


2024年3月12日火曜日

脳科学と臨床心理学 第1章 加筆訂正部分 1

 脳とコンピューターの比喩

さてここで精神分析と脳科学の関係を表すうえで、一つの比喩を示しておきたい。なぜ私が精神分析と脳科学に、おそらくは別々な意味で矛盾なく興味を感じるかについて、一層理解していただけるであろうからだ。

私の用いたい比喩とは、コンピューターに関するものだ。それは精神分析と脳との関係はコンピューターのソフトウェアとハードウェアとの関係のようなものだというものである。分かりやすく示しておこう。

  • 脳(物理的な機械) = ハードウェア

  • 精神分析(心についての理論)= ソフトウェア

 ちなみにソフトウェアという言葉の定義もここに書いておく。

ソフトウェア(: software)とは、「コンピューター分野でハードウェア(物理的な機械)と対比される用語で、何らかの処理を行うコンピュータ・プログラムや、さらには関連する文書などを指す」(大辞林、ブリタニカ国際大百科事典)

イメージとしてはこうだ。脳とはいわば臓器であり、1300グラム程度の肉塊である。そしてそれは私たちが体験的に知っている心の働きを生む。それは脳の中で起きる情報交換であり、それについての解説ということになる。脳のトリセツ、という言い方をしてもいい。

分かりやすく言えば脳というコンピューターのハードウェアに、心やその動きについての解説というソフトウェアがインストールされているというイメージである。そして精神分析は、その優れた解説書の一つというわけだ。パソコンやIT関係に非常になじみ深くなっているはずの読者なら,容易に納得していただけるのではないか。そして私の関心は過去40年の間に,精神分析というソフトウェアについての解説書から脳というハードウェアそのものに移ってきたわけである。

この発想は私の中では結構新しいものだ。私が精神科医になった1980年代前半は汎用性のあるパソコンそのものが存在しなかった。後にハードウェアとかソフトウェアとかの用語や概念を用いるようになってから振り返り,そのような比喩を思いついただけである。そしてその意味での心のソフトウェアとしては,精神分析理論が最も出来栄えがいいものと、少なくともその当時はみなしていたのである。
 もちろん心は非常に巧妙かつ複雑に作られており,もちろんそのソフトの作者は「神のみぞ知る」存在としか言いようがない。しかしそのあり方を解明することが心を理解することに繋がり,そのソフトウェアの本質にかなり接近しているものとして,精神分析に興味を持ったのだ。

他方ではハードウェアとしての脳について私が当初は興味を持たなかったのも無理もないと言える。それは私達がコンピューターに寄せる関心と似ている。ゲームや映像などのソフトウェアは関心を向けても,それを動かすハードウェアとしてのパソコンのCPUやRAMやハードディスクや,それらをつなぐ細かな配線に同様の関心を示す人は少ないだろう。


2024年3月11日月曜日

「トラウマ本」 トラウマと記憶 加筆修正後 4

 過誤記憶を助長するいくつかのファクター

 このように人工的に成立し得る過誤記憶は、幾つかのファクターにより助長されることになる。そのいくつかを以下に示そう。

催眠による働きかけ

催眠は想起された記憶と虚偽記憶というテーマで欠かせない。テレビ番組などで催眠術者が被験者に深い催眠をかけ、彼がそれまで思い出すこともなかった子供時代のあるエピソードについて滔々と語るというようなシーンを見た方もいらっしゃるかもしれない。これは実際に可能なのだろうか?
 ある研究によれば、アメリカの大学生の44%はそのような現象を信じているという。ところが研究結果はその実証性を示してはいない。いわゆる退行催眠(催眠状態で年齢を遡らせる施術)による実験でもその信憑性は疑わしいとされる(Shaw, 2016)。
 ボストン大学のセオドア・バーバー(Barber, 1962)によれば、1962年の研究で、退行催眠をかけられた被験者の多くが、子供の様なふるまいをし、記憶を取り戻したと主張したという。しかし詳しく調べてみると、その「退行した」被験者が見せた反応は、子供の実際の行いや言葉、感情や認識とは一致しなかったという。
 バーバーの主張によれば、被験者たちには子供時代を追体験しているかのように感じられたのだろうが、実はその体験は再想起された記憶というより、むしろ創造的な再現だったという。同様に、心理療法中に暗示的で探るような質問に催眠術を組み合わせると、複雑で鮮明なトラウマの過誤記憶が形成される可能性があるという。
 以上が一般の心理学における一つの見解であることは了解したとしても、一つの重大な問題が生じる。退行催眠が可能な人のいったい何人に、DIDを有する人が混じっている可能性があるのだろうか?そもそも催眠にかかりやすい人としては、結局解離性障害を有している人を多く拾ってはいないだろうか? この問題は本論稿の最後に改めて論じることにしよう。 

洗脳

洗脳は最近ではむしろそのネガティブな印象を避けるために感化 influence という表現を用いることの方が多い。この感化は、実は私たちが日常的に多少なりとも体験していることでもある。私たちは「自分は洗脳などされてはいない」と思いがちである。しかしこの日本という国に生まれてごく当たり前に生きているだけで、すでに数多くの考えを前提とし、あるいは信じ込んでいるものだ。
  信仰などはその一例となり得るが、国際問題、自然環境問題、防衛問題など社会的な論争を引き起こすあらゆるテーマにおいて、私たちは多くの場合一定の立場を取っており、それと異なる立場の主張に関しては、誤った主義主張に感化された状態と見なす傾向にある。このように考えれば私たちのほとんどが、ある種の洗脳状態にあるのである。ここで一つ確かなことは、私たちはある考え方をいったん受け入れると、それを無自覚的にかなり頑強に守るという傾向があるということだ。それらのうちいくつかは洗脳ないし感化と同等の現象といえるだろう。
  ちなみにこの感化には報酬系が深く絡んでいると見なすことが出来る。かつて日本社会を震撼させたある教団の元信者がインタビューに応じるのを見たことがある。彼は刑に服した後も、元教祖との間柄について問われると、陶然とした表情になり、いかに元教祖に自分を受け入れてもらい、生きる目標を与えられたかを熱心に語り始めた。つまり洗脳状況ではある思想や思考を持つことは強烈な快感でもあるという意味で、一種の嗜癖と考えてもいいだろう。だからそこからなかなか逃れられないのである。 

サブリミナル効果

サブリミナル効果とは意識に上らない程度の刺激を与えられることで、人間の行動に変化が生じるという現象を指す。下記の1950年代の有名な実験以来、このテーマの研究は色々行なわれているが、それでも今後その詳細がさらに明らかにされていくべき現象である。しばしば例に挙げられる1957年のジェームズ・ヴィカリーの調査とは次のようなものだ (Shaw, 2016) 。彼は米国ニュージャージー州のある映画館で上映中のスクリーン上に、「コカコーラを飲みなさい」「ポップコーンを食べなさい」というメッセージが書かれた映像を1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し映写したという。するとコカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことである。
 この実験は大きなセンセーションを巻き起こしたが、後に追試された同様の実験ではそのような効果はなかったとされる。1958年2月に、カナダのCBCが行った実験で、ある番組の最中に352回にわたり「telephone now(今すぐお電話を)」というメッセージを一瞬だけ映してみたが、誰も電話をかけてこなかったという。さらには放送中に何か感じたことがあったら手紙を出すよう視聴者に呼びかけたが、500通以上届いた手紙の中に、電話をかけたくなったというものはひとつもなかったというのだ。後になりヴィカリーは、アメリカ広告調査機構の要請にも関らずこの実験の内容と結果についての論文を発表せず、また数年後にはヴィカリー自身が「マスコミに情報が漏れた時にはまだ実験はしていなかったし、データも不十分だった」という談話を掲載したという。また一部にはこの実験そのものがなかったという指摘もされているという。