2020年2月29日土曜日

揺らぎ 推敲 3


人の心が関与した揺らぎ ― 株価 

私が今から20年ほど前に、最初に揺らぎの不思議さや面白さを感じたのは、株価の変化についての興味であった。これまで私が述べてきたのは、自然界の揺らぎである。風の動きも、地面の動きも、地球の動きも宇宙の動きもすべてそうだった。しかし人の心の関与した物事が揺らぐ、となると全く別の事柄のような気がするだろう。人の心は私たちがコントロールしているはずだ。それが意思の力というわけである。揺らぎがもし生じるとしても、人の心がそれをコントロールすることが出来るはずだ。ということは自然界と違って、人の心の関与したものはそう簡単には揺らがないはずだと思ってもおかしくない。確かにそうかもしれない。
例えば一日は24時間だというのは人が決めたことだ。それが例えば今週は25時間、来週は23時間、中東のドバイでは一日が23.5時間、などという風に「揺らぐ」という話など聞いたことがない。
でも例えば株価はどうだろう?株価は人の投資活動から決定されている。そこには意思が明確に絡んでいる。ところがその結果として起きる株価の変動はどうだろう? これが実は典型的な揺らぎの性質を持つのだ。これは私にとってはとても驚くべきことなのだ。
まず以下の図を見ていただきたい。

これは高安 秀樹先生の  高安 秀樹() 経済物理学の発見 (光文社新書、2004)から拝借した図だが、同様の図はいくらでもネットで探すことが出来る。左右では時間のスケールが違う。左は数か月間の間のある株価の変動であり、右はそのうちの数週間分を取り出して拡大した際の株価の変動である。(もちろん縦の時間のスケールも調整してある。) そして左の図の直線に近いと思われる部分を拡大しても、やはり波打っていることを示しているという図である。先ほど揺らぎは「スケールフリー」だと表現したのはこのことである。)

2020年2月28日金曜日

揺らぎ 推敲 2


第1章   揺らぎの歴史

今でこそ揺らのテーマは大きな関心を集めるようになったが、もちろん揺らぎ自身は宇宙が始まって以来永遠に存在してきた。宇宙の始まりと言われている「ビックバン」は138億年前に生じたと言われているが、最初にして最大の揺らぎ、超々々大波だったかもしれない。(ただしそれ以前に「ビッククランチ」があり、それ以前に存在していた宇宙が大収縮して一点に集まったという説もある。ビックバンはそこから始まったというのだ。すると宇宙は結局収縮と膨張を繰り返しているという説、すなわち「振動宇宙論 oscillatory universe theory」と呼ばれるもので説明されることになる。つまり宇宙は悠久な時間の流れの中で、広がったり収縮したりという揺らぎを繰り返しているだけかもしれない。気の遠くなるような話だが。
ともかくもビッグバンは大変な激震だったわけであり、それにより起こされた擾乱が揺らぎとして全宇宙に、そして量子レベルでの微小の世界に存在し続けているとも言われる。それが宇宙背景放射と呼ばれるものだ。そしてそれから138億年たった今でも、宇宙も私たちの住む地球は、気温は、気圧は、海水温は、あるいは地震計の示す波形さえも揺らいでいる。また私たちの体の体温も、血圧も、脈拍数も、脳波もゆらいでいる。科学やテクノロジーが進んだ現代ではこれらの揺らぎの存在は常識の範囲内かも知れないが、いったんその理由を問い出すと、その明らかな起源など誰にもわからない。ただ宇宙は、現実世界はそうなっているとしか言いようがないのである。

揺らぎは最初は「ゴミ扱い」だった

このように揺らぎは常に存在していたにもかかわらず、それが話題に上るようになってからはまだ半世紀も経っていない。その意味では私たちは最近になって揺らぎを「再発見」したのである。では揺らぎという概念が生まれる前、揺らぎは私たちの目にはどう映っていたのだろうか? 実は人類は長い間、万物が揺らいでいることを知らなかった。そもそも細かな揺らぎを見出すためには正確な基準が必要になる。しかしたとえば時間に関しては16世紀の終わりにガリレオ・ガリレイが振り子時計を発明するまでは、正確な時間の計測は一般人には全く不可能だった。だから脈拍数が揺らいでいることなど知る由もなかっただろう。何しろ人間の脈拍を比較的正確なものと見なし、時計代わりに用いる場合すらあったのである。
ただしそれでも少し注意深い人であったら、脈拍は呼吸の影響を容易に受けていることがすぐにわかるだろう。前腕やこめかみに指を当てて自分の脈を取ってみれば、息を吸い込んでいる時は脈拍数が少しだけ上がり、吐き出している間は少し下がることが確かめられる。肺が酸素を吸い込んで血液が酸素を運ぶ効率が上がる時には脈を上げ、下がる時は脈も下げるという風にして、人間の体は省エネをしているわけだ。ところが少し注意をすれば見出すことのできるこの脈拍の揺らぎも、意味のないノイズ、雑音とされていたわけだ。私たち人間は説明できないものは要らないもの、相手にしなくていいものとする性質がある。

2020年2月27日木曜日

揺らぎ 序章 推敲の推敲


1章 はじめに - 揺らぎの理論はエキサイティング!

本書のタイトルは「揺らぎの理論とこころの理解」であり、最終目的は心の持つ幾つかの諸相について、それらを揺らぎという観点から考察することである。しかしそのためには一般論から始めなくてはならない。それはこころを含めてこの世に存在しているものはことごとく、揺らいでいるという事実である。
「この世に存在するもの」と私はサラッと書いたが、あくまでも現実世界に存在するものだ。さすがに抽象概念までも揺らいでいるわけではないから、ここからは除いている。少なくともこの世に実在する事物はことごとく揺らいでいるようだ。
もちろん例外もあるかも知れない。通常は物事の原則に従わない例を見つけ出すのは至難の業だからだ。ただこの世に実在するものすべてが結局は素粒子により構成されており、その素粒子自身が揺らいでいる以上は、このことはほぼ確定しているだろう。
読者の皆さんはおそらく超弦理論 super-ring theoryという理論をお聞きになったことがあるだろう。この仮説によれば、素粒子はさらに要素に分解でき、それはことごとく有限の長さの紐 string の振動状態により構成されるという。だから「この世に存在するものはことごとく揺らいでいる」というよりは「揺らぎ(振動)がこの世を構成している」というほうが正確なのかもしれない。しかしこの目に見えないレベルの揺らぎの話は別の機会に回し、もう少し私たちになじみのある揺らぎに話を戻そう。
自然界に存在する事物とは、たとえば石ころであり、空気であり、惑星であり、宇宙である。観測方法さえあれば私たちが目でみて確かめることが出来るようなものだ。そしてマクロ的なレベルでも「揺らぎ」を伴わないものなど見当たらない。最近はなんとブラックホールまで「見えて」しまっているから驚きであるが、これも絶え間ざるガスの噴出という形でそれらの中で、激しく「揺らい」でいることが分かっている。こうなるとあたかも揺らぐことが自然の理(ことわり)であるかのようだ。
そしてそれだけでなく、私達の心も揺らいでいるのである。
いま私は「それだけでなく私達の心も・・・」とまたもサラッと書いたが、これは「だから」ではない。心はこの世に実在する事物と同列に扱っていいかは難しい問題であるし、そうなると実在する事物が揺らいでいたとしても、こころもが揺らいでいる必然性はない。白状するならば、私は人の心も揺らいでいるらしい、ということに最近まで思い至らなかったのだ。そしてほんの数年前にこのことに気が付き始めた時、「でもどうして心まで揺らいでいる必要があるのだろうか?」と自分に問いただしたくらいだ。あるいは「自然物が揺らぐことと、こころが揺らぐことは全然別の事情ではないか? たまたま、ではないか?」と問いたいくらいであった。
でも最近考えるようになったのは、こころの揺らぎは、現実の事物の「揺らぎ」と実は深く関係しているのではないか、ということなのだ。こころはたまたま自然物と一緒に、ではなく、自然物の「揺らぎ」の結果として、必然的に揺らいでいるのではないか? それは端的に事物とこころを結ぶ「「脳や神経系が揺らいでいるからではないか、ということに思い至った。そしてそのように理解した時に、心の「揺らぎ」の性質がもう少しわかりやすくなるような気がしてきたのである。

2020年2月26日水曜日

ポリヴェーガルと感情 推敲 1


本稿では「ポリヴェーガル理論と感情」というテーマについて論じる。
最近のトラウマに関連する欧米の書籍で、「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」に言及しないものを見ないことはあまりない。それほどにこの理論は、トラウマ関連のみならず、解離関連、愛着関連など、あらゆることに関わり、また強い影響を及ぼしているという印象を受ける。スティーブン・ポージスStephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱しているこの理論は一体どのようなものであり、どのように感情の問題に関連しているかを論じることは簡単ではない。しかしその輪郭だけでも示すことで、この理論が私たちが感情についての新たな見地を提供してくれる可能性を示すことが出来るのではないかと考える。
  この理論の骨子となるのはPorgesが「腹側迷走神経複合体」と呼ぶシステムを基軸とする「社会神経系」に関するものである。これは自律神経系の中で私たちがその存在を認識しないでいた新たな自律神経系として彼が命名し、注意を喚起したものである。自律神経系でありながら、なぜ彼がこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分と考えられるからだ。つまり誰かの気持ちを汲み、癒しを与える際に自己と他者に同時に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経というわけである。そしてこの自律神経系を、従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系との複雑な関わり合いを含めて論じるのが、このポリベーガル理論なのである。
このポリヴェーガル理論の解説に入る前に、近年身体と感情について一つの有力な仮説を与えてくれた、いわゆる「ソマティックマーカー仮説」に触れておきたい。

ソマティック・マーカー仮説
脳生理学者Antonio Damasio は人間の決断の際に、感情や身体感覚が、選択対象野価値を示すマーカー(指標)として働くという説を提唱した。これがソマティック・マーカー仮説である。

人間は高度な知性と豊かな感情を併せ持ちつつ情報処理をおこない、それは脳と身体感覚の ループ(body loop)を形成し、それが再び予測される際にシミュレーションを行う「かのような」ループ("as if" loop)をも想定する。このループは扁桃核、VMPFC 腹内側前頭前野、体性感覚野などと体を結ぶループであり、それらが注意とワーキングメモリの機能を担う背外側前頭前野という部分を介して連合するとされる。

2020年2月25日火曜日

遊びと揺らぎ 推敲 6


遊びの原点に立ち返る

ここで遊びの原点について少し考えたい。子供が積み木を積み上げる。34個なら難なく積めるかもしれない。しかし7、8個になると不安定になり、うまく上に載せていくことができずにガラガラと崩れるだろう。子どもはその音に驚き、あっけにとらわれるが、また二つから積み上げ始める。かなり高く積み上げた積み木が、最後の一つで崩れてバラバラに飛び散る。これを繰り返す。ここで起きているのは、自分が積み木を一つ積み上げることによる、ある種の急激な変化である。そしてそれを自分が起こしているという能動感がある。この二つの要素がないと遊びは成立しない。行動心理学では心理学者White,RW.(1959) が提唱した effectance motivation (効力動機)がこの能動感これに相当する。幼児は自分のちょっとした行動で世界が大きく変化したり、大きな音がしたりすることが楽しくてしょうがない。そしてそこにはおそらく適応的な意味がある。子どもは(そしておそらく動物の子供も含めて)自分の行動で世界が変わるというパターンをマスターせねばならない。そしてそれに快が伴うことで、繰り返し体験してマスターすることが促され、自立的な機能を高めていく。そしてそれがその個体の生存に役立つのだ。そして積み木遊びのみならず、フロイトのFort-Da もこの効力動機によるものだと考えるほうが自然だ。もちろんそれにより母親の別れを克服している、というフロイトの説も悪くない。というよりずっとそのほうが学者にはアピールするだろう。そしておそらくそのような治療的、辛さを克服するという意味もあるのかも知れない。ただしそこにはもっと単純で生物学的なメカニズムが働いているというほうが分かりやすいだろう。そしてそれが遊びの原点であるというのが私の主張である。
この文脈から見た遊びは、揺らぎの問題とも結びついてくる。
子どもの積み木積みも、フロイトのFort-Da も揺らぎを楽しむことと言えそうだ。積み木は order 秩序と disorder 無秩序の間を揺らぐ。糸巻は出現と消失の間を揺らぐ。そして両者は不可逆的ではなく、一度消えたものがまた出現し、一度崩れたものがまた秩序を取り戻す、ということ、すなわち同じものの状態像の違いでしかない、というのが揺らぎたる所以なのだ。そしてそれを知っているから積み木を崩すことができ、また糸巻をベッドの下に放り込むことができる。自分で崩したものを救出でき、救出したものを壊す、という出来事を生み出すということがたまらなく面白く、快につながるというのが遊びの本質なのだろう。
ところでこう考えると、アスペルガー的な遊びがどのように違うかも自然と理解されるだろう。砂の粒が手の間からこぼれ落ちるのを眺める。そして繰り返し手で砂を掬い、同じことを繰り返す。私はこれが病的だとは考えたくない。むしろこれは特殊な能力といえる。なぜなら砂粒の落ち方は一回ごとに微妙に異なるからであり、そこにも揺らぎが存在している。そしてそれを味わう特殊な能力が彼らには備わっていると考えることができる。さらにそれを調節しているのは自分の手であり、指であるとすれば、そこに効力動機も加わっているのだ。そして一般人はその砂の落ち方の微妙な違いを敏感に感じ取り、感動するだけの能力がないのではないか。臨床家はそれを常同行為と呼ぶであろうが、それは失礼な話だろう。それらは彼らにとっては決して一回ごとに「同じ」ではない可能性があるからだ。
例えば万華鏡を考えよう。筒をくるくると回すと、次々と新しい模様が目の前に広がる。特別視覚的な情報に敏感でなくてもそれに感動する人は多いだろう。これを私たちは常同行為とは呼ばないのだ。しかし発達障害の人が万華鏡よりは砂の落ち方に興味を示すとしたら、彼らには万華鏡や積み木による刺激はあまりにも情報が大きく、むしろ不快を起こさせるのかもしれない。彼らにとっては積み木がガラガラと崩れるときの音に耐えられないのかもしれない。だから彼らの感受性にちょうどあった程度の情報の揺らぎに惹かれるとも考えられるのである。
発達障害においては、情報が通常より過大に感じられる、という風に考えると、彼らの「こだわり」にも別の見方ができるだろう。ある発達障害の方が、アサリの模様の違いに魅せられたという。そして海岸でアサリの貝殻をたくさん拾ってきて、家に膨大な貝殻のコレクションを持っているという。アサリの模様はどれ一つとして同一なものはなく、微妙に揺らいでいるのだろうが、それに感動するためには極めて微妙な感性が必要となるだろう。そしてその人の家族は部屋の一角を占める、一見ごみのような膨大な貝殻に迷惑な思いしかしないかもしれない。そしてこれは、たとえば昆虫に魅せられる人が、種の違いによる羽の模様の微妙な違いに魅せられる一方では、大部分の私たちはその違いが分からないという事情と同じだ。 
このように考えると、「イナイイナイバア」の面白さも、別の見方ができる。イナイイナイバアは、発達障害の人にとっては、揺らぎどころか大波過ぎて、情報過多でとても楽しめるような代物ではない、ということではないか。彼らは彼らで自分たちの身の丈に合った揺らぎを楽しみ、それと遊んでいるということになるのだろう。

2020年2月24日月曜日

遊びと揺らぎ 推敲 5


揺らぎが作る可能性空間、そして不確定性

この様に考察を進めていくと、ウィニコットが提唱した可能性空間という概念そのものが、揺らぎの問題と密接に結びついていることがわかる。しかもそれは最初は観念的なものではなく、実際の事物、すなわち移行対象を介したものであるということが大事なのだ。フロイトの孫の糸巻の遊びも、積み木遊びも、それが実際のものであり、いわば実在性、物質性を有していて、子供が現実にコントロールできることが大事だ。「毛布であることのポイントは、その象徴的価値よりもその実在性 actuality にある。毛布は乳房(や母親)ではなく、現実であるが、それは毛布が乳房(や母親)を象徴している事実と同じくらいに重要である」(W,p8, 1971
この移行対象の実在性、物質性は二つの意味を持っている。一つはそれを自分で扱うことが出来て、コントロール可能だということだ。ぬいぐるみは自分の布団に持ち込むことが出来る。それは自分の意のままになるというところがある。自分がそれを所有し、だれにも渡さなくていい。突然取り上げられることもない。しかしそれはもう一つの重要な要素を持っている。それはある意味では物質であるがゆえにコントロールの領域外でもあることだ。ウィニコットはこの点にも言及していて、それを不確かさuncertainty と表現する。「遊ぶことについては常に、その個人にとっての心的現実と、実在する対象をコントロールする体験との相互作用の不確かさがある。」
つまり現実の移行対象は思わぬ変化を遂げる。例えば劣化だ。これを書いているとどうしても浮かんでくる絵本がある。「こんとあき」という本だ。子供が小さいころ母親(カミさん)が読み聞かせているのを聞いて衝撃を受けた。あきという女の子が、「こん」というキツネのぬいぐるみをいつも連れて歩く。「こん」は何でもあきの言うことを聞いてくれる。こんとはいつも一緒だった。ところが・・・衝撃の行がカミさんの口から読まれた。「月日は流れ、やがてこんは古くなってしまいました。」えー! 
こうしてこんは修復が必要になってしまうわけだが、私が「古くなる」という言葉に衝撃を受けたのは、こんがファンタジーの世界での生き物であると同時に、モノであることのギャップを、あるいはその揺らぎを衝撃的に味あわされたからだ。そしてあきは何かを確実に学ぶわけである。
「こんとあき」はともかく、このモノの持つ意外性、主体のコントロール外の性質、ウィニコットの言ったuncertainty とは、まさに揺らぎの一つの重要な性質であったことを思い出していただこう。揺らぎはそれ自体が先が読めないという性質を有するのである。

私がむしろ健全で、精神発達にとって促進的である遊びの典型として取り上げたいのは、「イナイイナイ・バァー」である。それは明確に対人関係に根差し、しかもその確立はある発達上の一ステージへの到達とみなすことができるからだ。それに比べてフロイトの例は、自閉的なにおいがする。糸巻遊びに興じる彼の1歳半の孫エルンストは、おそらく健全に育ったのであろうが、もし彼が5歳になっても10歳になってもこの「Fort-Da」の遊びを繰り返していたら、かなり心配になる。それはむしろ回転いすを延々と回し続けたり、砂場の砂を掬って指の間から漏れるのを一心不乱に眺める自閉症児の姿により近いであろう。
ともあれこの種の遊びの決め手になるのは快、スリルであることに間違いない。イナイイナイバァーを子供のころ体験したことを生々しく覚えている人は多くないかもしれないが、子どもを持った人ならほとんどが体験しているだろう。もちろん子供に付き合わされて繰り返す場合もあるだろうが、やっていて実際面白い。スリルが伴う。なぜだろう? 子供はつらい体験を克服するためにやっているとはあまり思えない。フロイトには悪いが、非常にシンプルに、楽しいからやっているように思える。それにエルンストが糸巻遊びをしているとき、彼はおそらく母親のことなど考えていないのだ。ただ楽しいからやっているはずだ。もちろんそれが母親との別れの辛さを克服するという意味を持っていなかったと言い切るつもりはない。案外そんなことが起きているのかもしれない。でもまず楽しくなければ、子供はその遊びには興じない。だからフロイトが「なぜこれが快原則と整合的なのだろう?」と考えたとき、彼は何か遠回りをして考察を加えていたことになるだろう。フロイトはどちらかといえば遊びを知らない人といえないだろうか。あるいはとてつもなく頭がいいといえるのか。だから孫の糸巻遊びを見て深い洞察を得て論文が一本出来てしまうのだ。

2020年2月23日日曜日

揺らぎと遊び 推敲 3


遊びについての心の理論

遊ぶことと心の揺らぎはきわめて深い関係を持つというのが私の主張だが、そのとっかかりとしては、まずはフロイトの「糸巻遊び」を論じなくてはならない。精神分析理論に詳しい方でなくてもよく知られているこの「糸巻遊び」は、フロイトが1920年に書いた「快楽原則の彼岸」という論文に収められている「Fort-Da」の遊びとも呼ばれている。フロイトの一歳半の孫が、母親の不在を体験した時に、ひものついた糸巻きと遊ぶ様子が描かれている。彼は糸巻をベッドの下に投げ入れ、「Fort(いない)」を意味する「オー」という発声をし、それからひもを手繰って糸巻きをベッドの下から引っ張り出して、姿を見せた糸巻きをみて「Da(あった)」を意味する「アー」という発声をする。彼はそれを延々と繰り返して、母親がいなくなった時の苦痛を劇化していると解釈する。そしてそうすることで「欲動満足に対する断念」が行われるというのだ。そしてフロイトは、「苦痛な体験を遊びとして反復することは、どのようにして快原則と整合性が付くのだろうか?」と問い、そこから死の欲動を発想したことになっている。
このように遊びがある種の心の苦痛を和らげ、それに一方的に苦しめられる立場から、それをコントロールする立場にかえるという理論は、その後分析の世界ではかなり一般化する。もちろん精神分析だけには限らない。一般的に遊びが外傷体験の克服として用いられるという考え方は、むしろ私たちにとってなじみ深いもののようだ。
このテーマでは「地震ごっこ」や「津波ごっこ」のことが思い出される。以前書いた論文(2001)(岡野憲一郎(2001)災害とPISD-津波ごっこは癒しとなるか?-『現代思想』39-12、青土社、pp.89- 97)で強調したのは、「津波が来たぞー」といって興じる子供たちの多くは自らの外傷体験を克服することにそれを役に立てるとしても、一部にはそれが津波の悪夢を蘇らせるものとなってしまうかもしれないということだ。「遊び = トラウマ体験のコントロール」という説はそれほど簡単なものではないかもしれないのだ。
さて、糸巻の出し入れの反復は、糸巻の「隠れる ⇔ 姿を現す」の揺らぎ、ということになるが、これが繰り返されるのには理由がなければならない。それ自身が心地よかったり、それがある種の不安を和らげるという役割を持っているのであろう。その一つは自分がモノをコントロールできるという能動感かもしれない。母親は自分を置いて行ってしまい、それをどうすることもできない。しかし自分は糸巻を隠したり出したり、と能動的に操ることが出来るのが快感ということだろう。

ウィニコットと二重の現実性の間の揺らぎ
遊びについて精神分析の立場から精緻な論述をしたのがドナルド・ウィニコットである。彼の理論を追っていくと、遊びと揺らぎの関係がもう少し明らかになるだろう。
ウィニコットは子供が遊びを通じて現実を受け入れていくプロセスについて、きわめて説得力ある論述をした分析家である。彼の論述は非常に緻密で論理的だが、決して現実から遊離していないのが特徴といえるだろう。常に現実に起きている母子を頭に浮かべている。だから彼の理論は信頼がおけるのだ。
ウィニコットがその代表作「遊ぶことと現実」等で提出した「移行対象 transitional object」の概念はまさに彼の思索の結晶であり、画期的であった。乳児は生後23か月になると、「原初の“自分でない所有物not-me possession”」(Winnicott, DW. 1971,P2)すなわち移行対象を作り出し、それと遊ぶようになる。それは毛布やデティ・ベアのぬいぐるみなどである。そしてこれが主体に象徴と他者性をもたらす、という。
Winnicott, Donald (1971) London, Tavistock. (橋本雅雄訳 遊ぶことと現実 岩崎学術出版社 1979.
この移行対象についての以下のウィニコットの説明は、私にとってはそれでも少し「ほんとかな?」と思うようなところもあるが、おおむね納得がいくものである。それはこんな説明だ。乳児は、大切なもの、例えばお母さんの乳房が最初は自分の一部であるというファンタジーを持つ。それはいつもそこにあり、自分がおっぱいを欲しいと思うときに差し出されるから、自分がそれを持っているものだと思い込む。それはちょうど自分の親指はいつでもそこにあり、しゃぶろうとすればいつでもそうすることが出来るのと同じである。つまり母親の乳房は、赤ん坊にとっては最初は客観的な対象としては認識されないのである。
ここで重要なのは、「オッパイ欲しい」という欲求とそれの満足に最初は遅延がない、ということだ。あるいは少なくともウィニコットはそう考えた。ところが徐々に赤ちゃんはそれがときどき起きていることに気が付く。どうやら乳房は何時も望んだ時にはそこにある、というわけではなさそうだ。「そこにあるはずの乳房がそこにない …・」これは赤ちゃんにとって深刻な体験である。厳しい現実との直面だ。しかしそこで赤ちゃんはそこから「対象を創り出す、考え出す、引き出す、考え起こす」という力を発揮するという。それが人間の人間たるゆえんだ。そしてその一つが移行対象なのである。お母さんがいない時に、代わりに触ったりだっこしたりできるものとして、例えばクマの縫いぐるみを用い、それでとりあえず母さんにだっこされたことにする。足りない分は想像力で補う。つまり移行対象は母親(や彼女の乳房)の不十分な代替物ということになるのだ。
さてこの文脈でウィニコットが、そしておそらく多くの私も含めた分析関係者が関心を持つのは、自分がこうだと思い込んでいる対象イメージと、現実の対象の在り方のギャップだ。ズレ、差異、と言ってもいい。そしてウィニコットはこのズレこそが心を生み出す、とさえ言っている。そしてそれが生まれるのが「ポテンシャルスペース」、「可能空間」であるとした。ウィニコットはそれを「主観的な対象と、客観的に知覚される対象の間の、つまり自分の延長線上と自分でないものの間の、可能性のある空間」(W.1971, p135)とした。これは主観世界と客観世界の間の揺らぎと言っていい。そしてそれを形として象徴しているのが、移行対象ということになる。
皆さんはこう思うかもしれない。「移行対象と言えば、すでにモノ、物体であって、揺らいではいないで確固としてそこにあるではないか」。例えばクマのぬいぐるみがどうして揺らいでいるのか、という主張だ。しかし実はぬいぐるみは揺らいでいるのだ。それはある瞬間にはただのモノであり、ある意味では愛すべき生きた対象なのだ。つまりクマのぬいぐるみそのものが揺らいでいるのではなく、それを見る目が揺らいでいるのである。そしてこれは、フロイトの孫が糸巻を動かすことによりコントロールしたのとは異なり、心の中だけで揺らぎを生み出しているということである。
これを書いていてひとつ思い出した。昔ピカチューの顔のドーナツを見つけて、ピカチュー好きの息子に与えて見た。すると彼はそれを食べられない、と言う。「エ、単なるドーナッツなのに…」。それもそうだと思いなおしてかぶりつこうと思っても次の瞬間には生きたピカチューに見えてしまい、やはり食べられない。ピカチュードーナッツが「揺らいで」いた何よりの証拠である。ドーナッツなのに。でもそれを食べるとかわいそうだというわけである。
ちなみにおそらくこの種の商品はおそらくあまり売れないであろうし、少なくともコレクターアイテムとしての意味しか持たないであろう。アイドルを印刷したトイレットペーパーなども同じ運命をたどるのである。なんだか揺らぎの話から逸れてきたが・・・・。。

2020年2月22日土曜日

揺らぎと遊び 推敲 2


遊びにおける揺らぎの問題

笑いと関連して遊びのテーマに面を転じよう。笑いは意味の揺らぎを前提とすると述べた。すなわち極めて高度な知的能力を必要としているということになる。では遊びはどうだろうか? 笑いと遊びは似たようなものだとお感じになるだろうか? 両方ともある種の快感を伴った体験である。しかし遊びは実は動物のレベルで生じていることを忘れてはならない。動物は笑うことはなくても、遊ぶことはできるのだ。
ところで私にはどうしても不思議なことがある。私の考えでは、この笑いの問題は遊びやじゃれ合いと深く結びついている。ところが遊びやじゃれ合いは、動物の世界ではごく当たり前に起きていることなのだ。心というものが存在するのは霊長類からだろうか、という問題が真剣に語られる一方では、ワンちゃんだって生まれて結構すぐから一緒に生まれたきょうだいとじゃれ合い始める。じゃれ合っている子犬に心があることなど自明だろう。しかも彼らのやることはとても手が込んでいる。相手を攻撃するようで爪はしっかりひっこめている。ギリギリのところで本格的な攻撃を回避する。それをお互いに際限なく繰り返すのだ。もちろん動物学者はもっともらしく説明するだろう。これはその個体が身体能力を高めるためのものなのだ、とか狩りの予行演習なのだ、などである。しかしどうしてこんな芸当が可能なのだろうか、と私は不思議になる。
系統発生的に考えてみよう。爬虫類や両生類にじゃれ合いは可能か? 卵からかえったオタマジャクシ同士が追いかけっこをして遊んでいる、という話など聞いたことはない。ワニの子供たちがお互いに甘噛みをして遊んでいる、という光景は想像できない。どう考えても哺乳類からである。グーグルで「じゃれ合い、動物」で動画を検索してみると、やはり出てくるのは猫、犬、馬、パンダ・・・。おそらく海の中ではイルカやクジラだったら可能だろう。
専門家によれば、爬虫類や鳥類にも、遊びらしき行動はあるが、一時的、偶発的で、持続的な社会行動としての遊びは、哺乳類に特徴的なものであるということだ(津田、p344)。
じゃれ合いということについて揺らぎとの関連で言えば、これは心や身体活動が攻撃と愛情表現という二つの体験の間を揺らいでいることを前提としている。そしてこの両者のギャップが生み出されることで興奮やスリルや笑いをもたらすのだ。例えば仲間の動物に、あたかも本気で襲い掛かり、攻撃をするようなふりをすることで、逃走・逃避反応の発動間際まで起こさせ、その寸前でその手を緩めて、「ナーんちゃって」といって中止し、ギャップを楽しむのが遊びということになる。その前提になるのは、相手の心に浮かんだ一瞬の恐怖を推し量ることができる能力だ。なぜなら相手がそれを真の攻撃と体験することで逆に反撃される危険を冒すことは許されないからである。そしてこれは意味の揺らぎや自他の揺らぎを体験できないと成立しないのである。
ここで少し視野を広げてみよう。子供が親にお乳をねだる様子や、オスとメスの交尾の様子を考えよう。するとかなり系統発生の下の方のレベルにまでさかのぼれそうだ。昆虫のレベルでもオスとメスが体を合わせる、イチャイチャする、という一見じゃれ合い風の様子が見られるからだ。
ところが昆虫のレベルでの交尾は、実はいちゃつきや遊びとは全く異なるものになる。というのも彼らにとって交尾とは一歩間違えれば相手に殺されかねない危険な賭けでもある。
サソリの交尾の様子。決してアソビでは済まない。

 サソリの交尾を例に取ってみよう。オスは一歩間違えばメスに尾の先の針で一刺しされそうなリスクを負いながらメスに近づき、相手に刺されないようにその鋏をガッチリつかんで距離を保ちつつ目的を遂げようとする。というのもメスはオスが気に食わなければ本気で襲い掛かってきかねないからだ。このような姿を哺乳類のカップルと比べよう。健康的なカップル同志のいちゃつきはどこか子供のじゃれ合いに似た、平和で幸せに満ちた関わり合いのように見えるだろう。ところが遊ぶことのできない下等動物にとっては、交尾はまさに命をかけた真剣勝負という形をとるしかなくなってしまうのである。

2020年2月21日金曜日

揺らぎと遊び 推敲 1


前章では揺らぎの欠如と発達障害傾向のある人々についていろいろ考えたが、発達障害的な心の在り方とは反対側に位置すると考えられるような一群の人々のことが私の心には浮かんでくる。それは私たちがテレビで毎日目にしている「お笑い芸人」と呼ばれる人たちである。
私は個人的には彼らに非常に感謝している。いつもとても笑わせてもらっているからだ。それに彼らは絶好の人間観察の機会を与えてくれる。お笑い芸人がなぜ観察対象として素晴らしいかと言えば、彼らにとっては職業上、内面をさらけ出すことは、半ば必然になるからだ。彼らは笑いを取るためには自分のプライドを捨て、自分にとっての恥部をもギリギリまでさらけ出す。恥ずかしいことをさらけ出すことによる恥辱は、笑いを取れないで立ち尽くす(スベる)恥辱よりは、はるかにましだからだ。その意味で彼らはいつも自分を切り売りする覚悟を持っている。彼らは表舞台でのパフォーマンスの時でさえも、私が日常出会う人々よりも一歩も二歩も内側を見せてくれるのだ。そして私がここで提案したいのは、揺らぎが時には過剰なまでに豊富な状態、私たちが発達障害で見た状態とはちょうど反対に位置する心の状態が彼らに見て取れるということだ。あるいはもう少しストレートに表現するならば、笑いは意味や情緒の揺らぎを前提として、あるいはそれを利用することで成り立つのである。そして自分が意味の揺らぎを体験し、作り上げ、それを聴衆の心の中に送り込むことで、笑いを生み出していくのが彼らお笑い芸人の仕事だと言えるのだ。
笑いが意味の揺らぎを用いて作られる、という点に関しては説明が必要だろう。そのために例を挙げよう。つい先ほど見たTEDトークで、あるブラックジョークを聞いた。こんな感じだった。
「病でもう余命いくばくもない男が、我が家のベッドに臥せっている。ふと隣のキッチンから漂ってくるクッキーの香りに惹かれる。このところしばらくは食欲などというものとは無縁だった彼が死を前にして嗅いだ焼きたてのクッキーの香り。男は最後の力を振り絞ってベッドからはい出し、キッチンにたどり着いた。そして妻がオーブンから出して皿に盛ったばかりのクッキーの一つに手を伸ばす。すると妻は夫の手をピシッと叩く。「あんた、何やってんの! これはあんたのお葬式にくるお客様に出すものよ!

私はこの落ちを聞いた瞬間に、自然に笑うことが出来た。このジョークは少なくとも私にとっては成功したし、実際に会場からも笑いが起きていた。しかし不思議なことに、理屈で考えてもこのジョークがどうしておかしいのかがよく分からないことだ。それはおそらく笑うということの裏にある心のメカニズムがかなり込み入ったものだからだろうか。そこに起きていることを理屈で考えても、つまりそこにバロン=コーエンのいう「システム化的」な、論理的分析的な思考を当てはめても、表層的な分析だけでは笑いのなぞは解明しないのだろう。それでもう少し頑張ってみる。
このジョークの面白さは、奥さんの場違いな振る舞いや言動だろう。夫の手をピシッと叩くのは、子供のいたずらを叱る母親のシーンを思い起こさせるが、妻が夫の子供っぽい仕草をたしなめるシーンも連想させる。これはこれでよくある状況であろうし、自然なことだ。例えば家で誰かのお葬式をあげることになっている場合に、そのために焼いたクッキーを旦那さんが一つ失敬しようとして、奥さんからピシッとたしなめられるとしたら、そこには何の意外性もなく、笑いを誘うことはないだろう。そこにはもう一つの仕掛けがいるのだ。それは何だろうか。
この五行ばかりのジョークを読んだ読者は、死を前にして最後にクッキーを一口味わって、昔のおふくろの顔でも思い出し、穏やかで幸せな気持ちで死に向かっていく男を思い浮かべているはずだ。そしてそのクッキーの皿に手を伸ばす・・・・。そこまではいい。そして最後のどんでん返し、あるいはギャップが笑いを起こすのだ・・・・。
たいていはここで説明は終わるのだ。しかしもう少しその先を探ることは出来ないだろうか。その手がかりとして、このジョークを台無しにしてしまう要素、いわゆる「スポイラー」を考えてみよう。例えばジョークがこんな感じだったらどうだろう。
「妻は夫の手をそっと優しく止めて、言う。『ごめんなさいね。あなたが食欲を取り戻してクッキーを食べてみたくなったのはすごくうれしいわ。ただこれはあなたのお葬式のためにお客様に出すものなの。』」
これではパンチはほとんど失せてしまっている。(ちなみにご存じの通り、英語では、ジョークの最後の一言はpunch line という。)しかしこれがどうしてジョークを殺してしまうのだろうか。この妻の言葉がジョークを聞いた人の心の中で体験するべきギャップを埋めてしまうからだろう、ということくらいは言えるだろう。
スポイラーをもう一つ考えた。ジョークをこう書き換えてみる。
「しかしベッドからはい出してキッチンに向かった男は、妻のキツイ性格も知っていた。そしておずおずとクッキーに手を伸ばした。そしてやっぱり言われてしまったのだ・・・・」これも完膚なきまでにパンチを殺してしまっている。これも男の行動についての説明が先を予想させてしまっているので、実際の妻のセリフは全く効果を発揮しない。
このようなスポイラーはことごとく、どんでん返しにおけるギャップの効力を消す効果を持つ。崖から突き落とされて地面に激突することで生まれる笑いの効果は、スポイラーにより崖からなだらかな坂に作り替えられ、その衝撃を失ってしまうのだ。ではそもそもそのギャップとは何かと考えるならば、それは意味の揺らぎの一種と考えられるというのが私の主張だ。二つの意味とは以下の通りだ。
l  夫の「いたずら」を厳しめにたしなめる妻
l  死を前にした夫に、あり得ないほどの過酷な言葉をかける妻(あるいはその過酷さを体験した夫)

ジョークとは、この二つの状況を心に置くことが出来る場合に、その落差として体験される。つまり異なる立場にある人が心に浮かべることを、同時にないしは時間差で想像し、そこに生まれるギャップを頭の中で感じ取り、あるいはそのようなギャップを作り出すという能力が前提となる。いわば図と地が反転するような衝撃が体験されることで、そのまま笑いのエネルギーとなるわけだ。それにお笑い芸人が優れているとしたら、それは様々な立場にある人々の心を自分の中に置いてみる、あるいはそれらの人々の心に入って共感してみる、ということであろう。そしてこれは、意味の多義性、揺らぎにつながることなのだ。クッキーに手を伸ばすということ、あるいはそれをはねつけるということが持つ意味が、人により全く異なるということの理解を前提として初めてギャップを体験することが出来るから、というわけだ。

2020年2月20日木曜日

揺らぎの欠如 推敲 7


治療者の揺らぎの姿勢としての「柔構造」

さて治療者が揺らぎの心を有しつつ患者と会う際、ひとつの心がけとして考えるべきなのが、治療者の持つ柔構造的な姿勢である。治療構造とは心理士がクライエントと会う際に備えている枠組みのことである。これは、外的、物理的なものでもありうるし、内的、心理的なものでもありうる。たとえば患者が午後5時にAクリニックに訪れ、50分間のセッションを持ち、8000円の料金を支払う、というのはいずれも外的な構造だ。そしてそこで治療者は基本的には黙ってクライエントの話に耳を傾ける態度を示す、というのは内的、心理的な構造となる。クライエントの話の邪魔をしたり、反対したりという価値判断を示したりしないということもこの内的な構造に含まれるだろう。
この種の治療構造が患者と治療者、あるいは治療関係全体を保護するという考え方は極めて重要であり、わが国でも多くの臨床家がその原則を守ってきた。それは確かにそのとおりである。精神療法が決められた枠組みで行われることは患者にも安心感を生み、より落ち着いて自分の心について考えることが出来る。また治療者の側もスケジュールに沿って患者と会うことで仕事も効果的にこなすことも出来、一定の収入を得ることが出来る。
しかしこの治療構造をいわゆる剛構造としてとらえると、融通が利かず、柔軟性や人間味を欠いた治療態度になってしまう。治療構造はあくまでも柔構造でなくてはならない。
この柔構造、剛構造という表現は、私がかつて「治療的柔構造」という題で発表した著書でも詳しく解説している。もともとは建築用語であり、柔構造は日本家屋に見られる、鉄筋やボルトなどを使わない、木材を組み合わせたしなやかで地震にも強い建築の様式である。他方の剛構造は西洋建築に見られ、古くは煉瓦を組み合わせ、近代以後は鉄筋コンクリートや鋼材を用いた、緩みのない建築を意味する。柔構造は地震や風雨によりポキント折れることのない五重塔のような構造をイメージしていただくといい。中心にある「心柱」自身がしなやかで外力をたわみにより受け流し、それが建物の全体をつっている形なので崩れる心配もない。しかし足を踏み入れると全体がぐらぐら揺れるようで、足元がおぼつかないかもしれない。
私が大学に入りたての頃に住んでいた建物はかなり古い学生用の住宅で、階段を上る時はそれこそ建物全体が揺れ動く体験をした。柔構造のことを思うたびにあの時の感覚が蘇る。柔構造は使いにくい、というのはその通りである。それに比べて剛構造は使い勝手がいい。安定性があり、また構造がしっかりとしていて、部屋と部屋との境界線がはっきりしている。でもなんとなく冷たい感じ、人工的な感じがする。また特別な免震構造を備えない限りは地震によりぽっきり折れてしまう恐れがある。わが国でも西洋建築が導入された明治時代に起きたいわゆる「明治地震」(1894年、明治27)では、洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立ったために、煙突地震とも呼ばれたという話だ。
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以上揺らぎについて心の臨床という観点から論じた。心の揺らぎは治療者の持つべき姿勢の重要な特徴ではあるものの、その揺れの中心部分はおそらくその治療者に固有のものであり、それが臨床的に活用されるには、自らの揺れの性質を十分にわきまえていることが大切であるという点を強調したつもりである。

2020年2月19日水曜日

揺らぎの欠如 推敲 6


揺らぎと心の臨床

ここでは私が専門とする精神分析や心理療法と揺らぎの関係について論じる。精神分析の世界ではここ230年ほどの間にとても大きな動きが起きている。それがいわゆる「ツーパーソン・サイコロジー」ないしは関係精神分析の流れである。この用語やそれに類する概念自体はマートン・ギル、ロバート・ストロロー、ルイス・アーロン、エマヌエル・ゲント、その他数多くの分析家により1990年代には提出されていたが、そしてこの流れが、心を揺らぎとして捉えるという見方と見事に合致しているのである。
フロイトが一世紀以上前に創出した精神分析は、心を理解して治療を行う上できわめて大きな影響力を発揮した。1900年代になって次々と生まれた精神療法はいずれもこのフロイトの精神分析をヒントにしたり、それを改良したりしたものだったのである。しかしそれはどうしても一方通行の治療法であった。つまりそれは治療者が患者の話を聞き、そこに表れた病理や問題を理解し、伝える、介入するという形を取っていたのである。その意味で、問題を持った患者という一人の人間を相手にするという意味でワンパースン・サイコロジーと呼ぶべきものだった。そしてそこで起きていることは、たとえ一瞬ではあれ時間を止め、治療者が患者をフリーズさせ、あるいは顕微鏡でのぞいて観察する、というニュアンスを持っていたのである。
しかしこのワンパースン・サイコロジーは、正確さや客観性を担保するための試みと言えたが、それには実は大きな問題があった。体に問題を抱えていたり、脳に問題を抱えている場合には、そのようなアプローチで問題がないわけだが、心を扱う心理療法では、患者と治療者の関わり方そのものが患者にとって大きな影響を与えることが明らかになってきたからだ。
いまや数多くの精神分析家が異口同音に唱えていることがある。それは治療関係はそれを構成する二人(ツーパーソン)相互の力動的な関係性により成り立つということだ。それを専門的な表現で言い表すならば「相互互恵的影響  mutual reciprocal influence」 と呼ぶことが出来るが(Wallin,)、この考え方がまさに揺らぎの精神療法、心理療法とも言えるのである。
このツーパーソン・サイコロジーと揺らぎの関係を説明するために、前章で例に出したABさんの関係を例に挙げよう。ただしあれから4年の時間が経っている。今やA君は心理士となって心理療法の臨床を行うことになったとしよう。そう、あのゼミは臨床心理士になるための大学院におけるゼミだったのだ。そしてBさんは役割を大きく代えていただき、大学では全く別の学部のゼミに属しており、その頃A君との出会いはなく、A君が臨床のトレーニングを始めて最初に出会った患者さんとして登場する。Bさんは普通の感性を持った素敵な女性で、A君は面接室で顔を合わせたクライエントのBさんのことを魅力的な女性と感じるだろう。しかしさすがに自分の立場をわきまえているため、もちろん心理士として適切に対応するべきことは自覚している。

2020年2月18日火曜日

揺らぎの欠如と発達障害 推敲 5


揺らぐ心と揺らがない心

以上、発達障害を二つの意味での揺らぎの減少した、ないしは欠如した状態とみなすことについての説明を行った。ただし私はこの二つの心の在り方に優劣をつけるつもりはない。というよりは両者はともに必要な心性なのだと思う。そしてこのうちどちらか一方が欠如してしまうことが問題を生むと考えている。言葉を変えれば「揺らがない心も必要だ」と私は言っていることになるが、本書ではもっぱら揺らぐことの意義や重要さを強調してきた手前、この主張は意外に感じられるかもしれない。しかしこの点は強調しておかなくてはならないのであるが、そもそも私たちが理屈や理論に従って物事を処理するときは、必然的に揺らぎを極力抑えて思考をする傾向にあるのだ。
3部の第2章で述べたように、人が白黒の決着をつけ、排他的に決断をすることは、生命維持のために必要なことだったのだ。それはある事柄を遂行する際には特に際立って重要になる。目の前に現れた生き物が、自分の天敵なのか、それとも逆に自分が捕食をするべき獲物なのかはおそらく瞬時に決断をしなくてはならないことである。すぐに逃げないと逆に捕食されてしまうであろうし、またすぐに捕まえないと捕食する機会を失ってしまう。その際はあらゆる具体的な情報を勘案して、即断しなくてはならない。そしてその決断を下すうえで不明であったり得られていない情報があったりすれば、それを即座に追及する。この時の心の動きは、どちらかと言えばAI(人工頭脳)的と言えるだろう。あいまいさのない、理論的な推論に従った即断即決が最優先されるのだ。そしてそれはちょうど先ほどのA君の例でいえば、Bさんの断りのメールへの、間髪入れない対応だったのだ。
それではこのような曖昧さのない、揺らぎのない思考の何が問題なのだろうか?それは二点あげられる。第一点はこのような思考方法は一種の個人的なこだわりへと発展することである。論理的に物事を判断し、それに従って行動をするという方針は、それにまつわる様々な事柄を一義的に決めていくことにつながる。そしてもう一点は、揺らぎの欠如が人との情動的なコミュニケーションを阻害するということだ。そしてそれが例示されていたのが、これまでみたA君とBさんのやり取りだったのだ。これらの問題について、以下の実際の例を見ながら。もう一度検討を加えてみよう。

揺らぎのなさと強いこだわり

意味の揺らぎが最小限に抑えられることで自己や周囲にどのような問題が生じるかを見るために、18世紀の英国の天才ヘンリー・キャベンディッシュに登場していただこう。
キャベンディッシュは化学、物理学の分野で華々しい成果を上げたが、様々な奇行でも知られていた。彼は生涯同じ散歩道、同じ服装を通すなど、私生活上の強いこだわりを見せたとされるが、現代的な見地からは、彼には対人恐怖傾向の強いアスペルガー障害としての兆候を多く備えていた(自閉症の世界 スティーブ・シルバーマン 正高信男,入口真夕子 訳 講談社 ブルーバックス 2017
科学者としてのキャベンディッシュは物事の計測に熱中し、緻密で正確無比な実験を行ったが、それは彼の学者としての成功を約束していた。物事の条件を一定にし、そこで起きることを観察するのは科学の常道だ。チャールズ・ダーウィンは「キャベンディッシュの脳は細かく測定をしては違いを明らかにするエンジンだった」(同P.25)と称したというが、キャベンディッシュが対象のみならず、自分の思考も同様に計測し、コントロールしようとしたことは想像に難くない。そしてそれらの思考や行為には、当然のごとく一種の快感が伴っていなくてはならない。その結果として、その計測やコントロールは、彼の生活の隅々にまで行きわたっていたに違いない。
問題はこだわりが、その人個人に留まればいいのだが、社会で生きるうえで出会う様々な人々との齟齬を生み出すということである。生涯独身だったというキャベンディッシュだが、仮に奥さんをめとり、共同生活が始まったとしよう。彼女は決して生涯同じ時間に同じ散歩コースを彼と歩き続けてはくれないであろうし、計測するための様々な機器によって部屋が埋もれることを許してはくれないはずだ。それどころか彼を天才とは認めずにとんでもない変人として扱う可能性が高いだろう。
ではどうして発達障害の人はこだわりが強く、一度決まったパターンを変えるのがそれほど苦痛なのだろうか? どうしてキャベンディッシュは、毎日決まった時刻にグラハム・コモン地区の家から出て、ドラグマイヤー通りからナイチンゲール通りを数マイル歩くというコースを生涯にわたって変えようとしなかったのだろう? 単純に考えれば、パターンを変えることが不快だったからだ。これは一種の固着とでも言うべき現象であり、これまでのやり方と同一のパターンを繰り返すことで一種の快と安堵が感じられると同時に、それから少しでも外れることは不快や不安を呼び起こすのだ。そしてそこにはおそらく深い生物学的な理由が関与していることだろう。下等生物がある決められたパターンを繰り返すという場合には、それが遺伝に組み込まれた本能としての意味付けを有する。それは一定のパターンを守れば快、外れれば不快というかなり明確な条件付けが生まれつき成立していることになる。そしてそうすることで生殖というきわめて手の込んだプロセスを踏むことが出来るのだ。 
ミステリーサークルならぬ、アマミホシゾラフグの産卵巣
この写真は2014年に発見されて話題になったフグの一種の作り上げる産卵巣だ。どこかでご覧になった方も多いだろう。海底に見事に描かれた砂の芸術に、最初の発見者は一種のミステリーサークルのような不思議な印象を得たようだ。つまり誰かが人為的に海底に描きあげたのではないかと疑われたのである。しかしやがて新種のフグが一週間かけて作り上げることが判明した。このフグのメスは、オスが作った出来栄えが見事なこのサークルをみると、引き付けられたようにその中心に陣取り、そこで産卵をするという。そしてオスはそのために必死になってこの作品を作り上げたわけだが、彼らは誰からも手取り足取り(ひれ取り?)教わったわけではないだろう。ある時期と条件が整えば、憑かれたように一心にこれを制作するであろうし、おそらく少しの誤差もゆるがせにしないだろう。少しでも歪んでいたり、対称性が損なわれていたりしたら、メスたちは他のオスのサークルの方に行ってしまうからだ。そして少しでもサークルの形がゆがみそうになっていることに気が付いたオスは、何か強烈な不安や不快感に捉われるはずだ。それはおそらくキャベンディッシュがやむをえない事情でいつもの散歩の時間をずらさざるを得なかった時の不安や不快感と同じような質を伴っているはずだ。
このアマミホシゾラフグほどではないにしても、ある動作にこだわりを持つというのは実は私たちのほとんどが多かれ少なかれ持っている性質と言える。部屋に入った時に正面にかかっている絵の額縁がわずかに傾いでいることに気が付いたとしよう。こだわりの強い人なら何となく落ち着かなかったり、苛立ったりする人の方が多いのではないだろうか。それでも他人の内の部屋なら見て見ぬふりをすれば済むが、それが自分のオフィスや自宅の居間であったら、さっそく「正しい位置」直すかもしれない。同様に机の周りにゴミが散らかっていれば、すぐに片づけたいと思う人のほうがむしろ普通だろう。ところが同居人がそれを気にせずに散らかしっぱなしにしたり、逆にそれにいちいち注意を促す同居人に逆に苛立ちを覚えたりしたら、両者の共同生活はそれだけギスギスしたものになる。そして発達障害の人には、その種のこだわりを通常の何倍も持っている場合が多い。

2020年2月17日月曜日

揺らぎの欠如と発達障害 推敲 4


A君に不足している「自他の揺らぎ」

このA君(あくまでも架空の人物である)の心の働きに見られる揺らぎの欠如として、もう一つ提案したい。それは「自他の揺らぎ」、とでも言うべきものである。つまり自分自身として感じることのできる主観的な心と、自分を外から見た客観的な自分の心である。これには少し説明がいるだろう。
人はだれかと対面した時に、ある複雑な心の動きをする。それは自分自身として相手を体験すると同時に、そのような自分を外側から、ないしは相手側から体験するというものである。これは実際例を考えていただければすぐに理解できる。
私たちが町中で身を晒されているとき、必ず外から見た自分を感じ取っている。だから私たちはパジャマ姿で外出することはないだろう。若い女性ならスッピンではコンビニにすら行かないという話も聞く。つまり外から見た自分がヤバいことになっている!という警鐘が鳴らされるからだ。
しかしだからと言って私たちは私たちであることをやめない。ある考え事をしながら街を歩いているとき、それに没頭すると私たちは外から見た自分のことを忘れがちになるだろう。そして何かを思いついて「あ、そうか!」などと大きな声で独り言を言って周囲から訝しげな眼で見られてハッとして顔を赤らめたりするのである。しかし大抵は、私たちは人前では自分をモニターする視点を時々織り込むのだ。
あるいは誰の目もないところで一人で行う活動も、実はこの自他の揺らぎを含みうる。例えば私がこの文章を書いているとき、それがどのように読まれるだろうか、ということを同時に考えている。そして「これは意味が通じにくいな」「これはおかしな表現に聞こえるかもしれない」と気が付いて文章を訂正したりしているのである。
私がここで「自他の揺らぎ」と呼んでいるものは、これは哲学でいう即自 en soi と対自 pour soi という体験とほぼ同義である。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre 190580)は、即自存在(être en soi)を、それ自体として肯定的に存在する事物のあり方とし、この即自存在に客観的にかかわる意識的存在を、対自存在(être pour soi)として規定した。つまり「自他の揺らぎ」とはこの対自存在と即自存在との間の行ったり来たり、ということなのだ。
そこでA君の場合に戻ってみる。彼がBさんのメールに即座に「ではその次の日曜日はどうですか?」という返事を書いた時、彼はそれがBさんにどのように受け取られるかについておそらくあまり考えていないだろう。あるいはそれについての一方的で的外れの思い込みしか持っていない可能性がある。例えばA君は「Bさんに『この人は何を焦っているのだろう?』とか『このように畳みかけるようにメールを返すことを迷惑に感じるのではないか?』と思われていないだろうか?」という懸念は持っていないはずだ。つまり「自」ばかりで「他」の視点が足りないのである。もちろん先ほど述べたように、メールの文章を書くときは、一人かも知れない。相手は目の前にいないのだ。しかし私たちはそれがどのように相手に読まれるかを考えるものだ。そしておそらくA君は人と直接会っていても、メールのやり取りをしても、結局この「自他の揺らぎ」を十分体験しないために、他人から疎まれる結果となっている可能性があるのだ。

2020年2月16日日曜日

顕著なパーソナリティ特性 推敲 1

はじめに ― 
カテゴリカルモデルとディメンショナルモデル
本稿ではICD-11におけるパーソナリティ障害において採用されたディメンショナルモデルにおいて掲げられた5つの顕著なパーソナリティ特性である否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性(セイバク、と読む)などについて論じる。
すでによく知られている通り、現在の精神医学におけるパーソナリティ障害をめぐる議論の趨勢は、従来のいわゆるカテゴリカルモデルから、ディメンショナルモデルに向かっているようである。カテゴリカルモデルとは、正常とは画然と区別されるべきいくつかの典型的なパーソナリティ障害を列挙するモデルであり、ディメンショナルモデルとは、パーソナリティ障害をいくつかの次元 dimension に分けてそれぞれの病理の深刻さの組み合わせにより示すという方針である。しかし2013年に発表された DSM-5 においては、結局これまで通りのカテゴリカルモデルが前面に示され、他方では 2018年に Web 上に公開された ICD-11 においてはディメンショナルモデルが全面的に採用されたということは、パーソナリティ障害をめぐる現在の混乱をそのまま表しているともいえる(林, 2019)。ただしこれはまたこれまで十分なエビデンスの支えもなく論じられてきたパーソナリティ障害の概念がより現代的な装いを新たにするために必要なプロセスかも知れない。さらには最近極めて頻繁に論じられる発達障害とパーソナリティ障害との関係性をめぐる問題も今後さらに絡んでくる可能性もある。
林直樹 (2019)パーソナリティ障害と現代精神科臨床 精神医学 61:144-149
ここでカテゴリカルモデルとディメンジョナルモデルがはらむ問題点とは何かについて、少し復習しよう。カテゴリカルモデルは古くはクレッチマーやシュナイダーなどのドイツ精神医学の伝統にさかのぼり、DSMではIVまで踏襲されたものである。しかしこのモデルは診断自体に重複が多く、また高い異種性 high heterogeneity すなわち様々な性質の混在であることが指摘されてきた。さらにはそもそも10掲げられてきたパーソナリティ障害(PD)について、その実在性に科学的なエビデンスがあるのかが問われてきたのである。
これらの問題の理解を多少なりとも理解しやすくするために、たとえ話を用いよう。従来から私たちの性格は「ドラえもん」に出てくるのび太タイプ、ジャイアンタイプ、スネオタイプに分かれているといわれてきたとする。人はそれぞれの典型例をアニメを頼りに思い浮かべることができるので、あまりこの分類を疑問には思われなかった。まあ、血液型のようなものである。しかしこのタイプ分けがどれほど実質的な意味を伴うかを知るために、たとえばAさん、Bさん、Cさん、Dさん・・・・について何人かの研究者がどのタイプに分けられるかを調べると、大きな問題が生じた。Aさんをある研究者はジャイアンタイプに近いと判断し、別の人はのび太タイプに近い、というふうにバラバラに診断を下すということがわかったのである。そしてそれはBさんにもCさんにも起こり、結局診断を下す人によってA,B,Cさんが持つ診断はかなり重複してしまうという問題が起きてきた。さらにはのび太タイプを定義するためのいくつかの条件は、ジャイアン、スネオのそれと一部重複せざるを得ないことも分かったのだ。(例えば素行の悪さ、とか学校の成績、など。)そしてそもそもジャイアンタイプの人というのは私たちの心のイメージにだけ存在し、純粋にジャイアンのような子供など、全校生徒のうち1,2名しかいないことも分かってきたのである。
このことはたとえば、循環気質、分裂気質、癲癇気質などの分類を考えればいいであろう。これらは教科書に載っていたというだけで、私たちはそれをあたかも実在するように感じていたからである。こうしてカテゴリカルモデルの信ぴょう性は失われていった……。

2020年2月15日土曜日

揺らぎの欠如と発達障害 推敲 3


今日の部分、ほとんど書き直しはなかった。


ある男性A君の例

あるとても優秀だが発達障害の傾向のある若い男子大学生A君に登場してもらう。彼は実在は私が過去に見聞きした発達障害傾向のある同年代の方々のイメージの中から私が生み出した架空の人物ということにしておこう。
A君は新学期に同じゼミで出会った女子学生Bさんをとても素敵な人だと感じた。A君は次の週のゼミでさっそくBさんからメールアドレスを聞き出し、「次の日曜日に映画を見に行きませんか?」と誘ってみた。しかしBさんはあまりその誘いに興味が持てなかったため、少し時間をおいてから返事をした。それは「ごめんなさい、今度の日曜日は予定があっていけません」というシンプルなものだった。するとA君から間髪を入れずに「ではその次の日曜日はどうですか?」とメールが来た。Bさんは少し圧倒された気持ちになったが、その日曜日もまた都合がつかない、という言い訳も通用しない気がした。そこでA君にはあまり興味がないことをもう少しはっきりと伝えるために、次のようなメールを送った。
「ごめんなさい、私は休みの日は外出せずに家にいる方がいいのです。」
ただしA君のメールが来た時から、半日ほど空けるようにした。彼の畳みかけるようなペースに合わせると、こちらまで自分のペースを崩される気がしたからだ。すると今度もA君は30分と経たずに返事を返してきた。そして今度は「それでは平日の夕方ならどうでしょうか?」と誘ってきたのである。
この時点でBさんはさすがに心配になり、同じゼミのほかの友達に相談することにした。するとA君はほかの男性のゼミ生たちからもすでに何となく遠ざけられ始めていることが分かった。ゼミでこれからしばしば出会うことになるA君と今後どのような関係を持ったらいいかが分からなくなったという。
このエピソードに似たケースはたくさん起きていることと思う。A君はあるていどアスペルガー傾向を持ち、Bさんの返事を字義通りに受け取り、その行間に込められた気持ちを読もうとしない(あるいは読むことができない)。ここに揺らぎの欠如の問題がどのように関係しているだろうか?

A君が不得手な「意味の揺らぎ」

一つ重要なことは、通常は私たちは言葉を様々な用途で用い、それは一つのことを伝達すると同時に、別のことも伝えるということだ。そしてそれは実はきわめて込み入ったプロセスでもある。Bさんの「今度の日曜日は予定がある」は、それ自身はほかのいくつかメッセージを可能性として含みうる。それらは「実際に次の日曜日には別の予定が入っているから映画には行けない」という具体的な意味を持つかもしれないが、「あなたとのデートはお断りです。」かもしれない。そして確かに「別の日曜日なら都合がつく」でもありうる。「今度の月曜日(火曜日、水曜日・・・・)なら予定はないわよ」かも知れない。「それでもあきらめずに私の誘うつもり?」でもありうるし、「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの。もう一度誘われれば考えるわ。」の可能性も否定できない。「本当は行きたいけれど、貴方にこれ以上惹かれてしまうのが怖いの」かも知れない。「男性からの誘いはどれも断れ、と父から言われているの。ごめんなさい。」も可能性としてはゼロではない。
これらの可能性はいずれも否定はできないし、それこそデートの誘いを断られた側は、ある程度理性を失っていて、より好意的な解釈をしたがるだろう。ちなみにあるストーカー体質の人は、このような状況で繰り返し断られたデートの誘いに対して、怒りを爆発させたという。「どうして君は、僕への好意に正直に向き合わないんだ!」
 このように考えると私たちは、結局は言葉が持つ意味の揺らぎの中で、それをある程度的確に読み取ることで社会生活が成り立っているということが分かるだろう。「今度の日曜は予定がある」という返事を受け取った時点では、は確かに「その次の日曜なら大丈夫です」という意味も持っている可能性はあった。と言ってもすでに状況はかなり厳しいが。あるいは「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの・・・・・。」という可能性も少しは残っているかもしれない。しかしそのような返事を受け取ったA君のような立場にある男性は、たいていは、二つの可能性の間に立たされたという感じを持つだろう。まずは相手に断られた、フラれたという可能性であり、これが心に占める割合をおよそ80パーセントくらい、としておこう(ただしこれはいかにも適当な数字である)。そしてそれとは別に、肯定的な可能性、つまり「別の日なら大丈夫よ」という意味が込められている、という可能性に一縷の望みを繋ぐことになる。こちらは20パーセントとしておこう。
これらの二つの可能性は互いに矛盾しているため、心はそのどちらかにグラグラ揺れることになるだろう。白でもなく黒でもなく、しかしかなり黒に近い灰色としての体験と表現する人もいるかもしれない。しかし実際には自分を拒絶するBさんのイメージを思い浮かべた瞬間には黒を体験して落ち込み、私に微笑みかけているBさんを思い描いた時には白を体験して少しホッとする、ということが起きている。おそらく心は一瞬体験するのは白か黒か、という二者択一的なものと考えるが、心はこの白と黒の間の行ったり来たりの弁証法を延々と繰り返すことになる。大体それを41の割合で行うだろうというのが、80% 対 20%という数値の意味だ。
このような揺らぎを体験しつつ、私たちはその先に起きるであろう事態に向けて心の準備をしていることになる。もう一度誘って断られると、おそらく今度は95%5%という割合でBさんとは縁がなかったという現実の重みが増し、それを受け入れていくことになるであろう。それを受け入れるような心の準備を行い始めるはずであるし、これが大方の私たちの心のあり方だ。そしてBさんから二回目のさらに希望を失わせるようなメールの返事を受け取ったた場合には、それに対してさらに食い下がることを当分は見合わせるのがふつうだろう。それはそもそもBさんからのメッセージが持つ曖昧さに対するリスペクトとも言える。対人関係でお互いの言葉の行間を読む、空気を読むとはそういうことだ。
それに比べて発達障害的な心性を持つA君はこのような動かし方をしない。「今度の日曜は予定がある」というBさんからのメッセージはまさに字義通りであり、裏に含まれている可能性のある意図は汲み取られない。黒は黒、白は白として理解され、どちらとも取れるメッセージについてはそれを明確にするための質問を畳み掛けるようにする。そしてこの畳み掛け方が、揺らぎの欠乏を反映している。というのも相手からのメッセージを揺らぎを持って体験することは、それに対する自分の返事のメッセージもまた相手に揺らぎを持って体験されることを想定することにつながり、そのための熟慮の時間も当然あってしかるべきだからだ。