2020年1月31日金曜日

揺らがない心と精神分析 4


フロイトは徹底して科学者志向だった

フロイトのものの考え方は、ひとことで言えば、決定論的であったと言える。つまり物事は理論的に説明でき、それにより過去の出来事を解明することができ、また将来を予測することもできるという考えであった。もしそれができないのであれば、それはデータが不足していて、また十分な方法論が確立していないからというわけである。そしてそのような志向は当時の科学者が持っていた典型的なものであった。現在の科学者はもちろん決定論的な考え方を皆がするわけではない。それはある局所的な現象を考えるうえで前提とするだけであろう。ただフロイトが活躍した当時は皆そのような決定論的な考え方をしていたのだ。
特に1800年代の終わり頃は、ヨーロッパではいわゆるヘルムホルツ学派の考えがとても優勢だった。心も物理学や生理学の様な法則に従って展開していく、と考えがこの学派の特徴である。それはいわゆる「実体主義 positivism」と呼ばれる考え方だった。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
そもそもフロイトは、医者になるために医学部を選んだのではなく、あくまで自然科学者を目指していた。フロイトがウィーン大学で過ごした1870年代は、実証主義科学としての医学が確立した時期であり、フロイトの師となった医学者もそうした厳密な実証主義者であった。大学時代のフロイトは動物学の講義を熱心に受講し、フランツ・ブレンターノの哲学の講義に通った。医学生時代にフロイトが発表した論文はヤツメウナギの幼生の神経細胞に関するものであり、脊髄の微細な切片を顕微鏡で観察し、末梢からの刺激を伝える感覚神経がどのように脊髄につながっているのかを明らかにしようとした。それは根気強く丹念な手仕事を持続させる研究であった。そして、この論文の背景にはダーウィンの進化論があった。フロイトにとって進化論は観念としてあったのではなく、観察によってそれを実証しようとしていたのである。
フロイトが師事したエルンスト・ブリュッケはそのヘルムホルツ学派の代表の一人に数えられる生理学者であり、学界の権威であった。ブリュッケはそれ以前の生気論を否定し、生命体には物理、化学的な力しか作用していないという立場に立った。フロイトはプリュッケ教授からそうした生理学の精神を徹底的にたたき込まれていた。ブリュッケの講義録には、精神分析の根本につながる見解を見いだすことができる。また、生理学研究所におけるプリュッケの後継者エクスナーの考察は、ヨーゼフ・プロイアーに受け継がれ、さらにフロイトヘと継承される。こうした意味でも、ウィーン大学生理学研究所は精神分析の一つの始点であった。
 婚約者マルタとの結婚のために科学者の道を捨てて精神科医になった後も、フロイトの決定論的な姿勢は変わらなかった。一方ではヒステリーというそれ自体が極めて予測不可能で科学的な解明が困難な病者と格闘しながら、他方ではヤツメウナギに見出したような神経細胞をいわば素子とした心の成り立ちを考えようとした。フロイトが1895年に試み、断念した「科学的心理学草稿」は、精神を科学的に説明しようとしたいわば最後の試みと言える。しかし心が理論的に説明でき、将来も予測可能であるという考えは、上述の夢判断の執筆のような試みにみられたのだ。
フロイトが科学的心理学草稿を書いていた時期はブタペストの耳鼻科医ウィルヘルム・フリースとの蜜月時代でもあったが、そこでフリースの考えだした周期説をフロイトは真剣に信じ込んでいたところがある。これは人間の活動を一種の周期により占う試みであり、いわば決定論の一つの典型的な表れであるといえた。フリースは生命現象全般には女性の性周期になぞらえた28日周期と男性の23日周期の二つがあり、その組み合わせで人間が健康になるか病気になるかが決まるとした。そして人間の生活はこの女性的成分と男性的成分の二つの要素のバランスで決定されるとし、それを『両性具有説』とした。フロイトの目にはこのフリースの説がとても科学的に見え、それを自分が発見しなかったことを悔やんだという。このように考えると、フロイトが夢の断片一つ一つに意味を見出そうとした意気込みもわからないでもない。

2020年1月30日木曜日

揺らがない心と精神分析 3


「自由連想」がそもそも揺らいでいた・・・

フロイトが夢の分析と共に治療の対象としたのが「自由連想」であったということは述べた。「自由連想」はフロイトの打ち立てた精神分析理論の基本原則の一つとして知られる。患者は寝椅子に横になり、心にふと思い浮かんだ内容を、恥ずかしいとか罪深い、などの気持ちを排除して、言葉にすることを要求される。そうすることで無意識的な心理過程を見いだしていこうとする手法がこの自由連想である。フロイトはそれにより心の底に深く抑圧されている葛藤や願望を読み解いていくことが出来ると考えたのだ。この手法は精神分析においてはフロイトが編み出したままの形で現在でも用いられ、治療の重要な手段となっている。
精神分析家になることを目指す訓練生は、まずこの自由連想を自分自身が体験する必要がある。つまり何年かの分析治療を自分が受けることが必須の条件なのである。そして私自身も訓練生としてカウチに横になり、この自由連想を体験することになった。ところがこの自由連想は、いざ実行しようと思うととても決して「自由」にはいかないことがわかったのである。その自由連想のむずかしさは、おそらく実行したものにしかわからないかもしれないが、ひとことで言うならば、何が「自由に思いついたまま」なのかが分からなくなってしまうということだ。
そもそも心に浮かんだことを語ろうとして体験するのは、「心にはいくつかの内容が同時に発生する」ということなのだ。そのうちのどれを捕まえようとしても、なかなかつかまらない。それはちょうど泡が水面に浮かんでは消えるようなものなのだ。
ある日カウチに横になった私はふとオフィスの窓に目をやった。外にはカンサス州の新緑の景色が見える。この季節は自分の中では一番好きだ。でも景色のことを言ってもしょうがないか・・・・などと言う考えが浮かぶ。そして私はふと、「しまった!」と気が付いた。もうすでに自由連想は始まっており、私はそれを口にすることを要求されているということなのである。しかし時間はもう刻々と過ぎ、それらを口にする時間は失われてしまったのだ。
この自由連想の体験は、人の心、あるいは少なくとも私の心に浮かぶことは、ちょうど沸騰しかけの水のように、浮かんでは消え、浮かんでは消える泡のようなものであり、あるいは風にはためいている旗のように、さらには小川の流れのように、決してひとところに留まらず、揺らいでいるということだったのだ。しかもそれらは言葉の形を必ずしもとっていない。単なるイメージだったり、音だったり、記憶だったりする。つまりその連想のうちのどれを捕まえて言葉にするとしても、そこに一定の選択や創作が入り込んでしまうようなものだ。「自由連想は不自由連想である」とある分析家が喝破したが、まさにその通りであり、そのような心の性質は自由連想を行おうとする試みにより気づかれることになる。心は常に揺らいでいるから、決してそのものを捉えることが出来ない、というのが私の精神分析修行の初めの体験だったのである。

2020年1月29日水曜日

揺らがない心と精神分析 2


フロイトがもっとも詳細に論じた夢として「イルマの注射」が挙げられる。フロイトは夢判断でこの自らが体験した夢を例に挙げ、その内容を細かく分析して自らの無意識的な内容を解釈するという大胆な試みを行っている。
「大きなホール。われわれはたくさんの客を迎えている。その中にイルマがいる。私はすぐさま彼女を脇の方に連れ出して、いわば彼女の手紙に答えるかのように、彼女が例の「解決法」をまだ受け入れていないことを非難する。私は彼女に言う、「まだ痛むと言ったって、実のところそれは君のせいではないか」。彼女は答える、「今だってどんなに痛いか、あなたにお分かりいただけたらねえ。頸とか胃とか、それにお腹全体が、締め付けられるようなんですよ」。私は驚いて彼女をよく見る。彼女は青白く、それにむくんで見える。私は思う、それではやはり、私は何か器質的なものを見逃していたのか。私は彼女を窓辺に導いて、喉の中を観察する。そのとき彼女は、入れ歯をしている女性のように、少しいやがる。彼女にはそんな必要はないのに、と私は心の中で思う。――するとしかし、口が大きく開いた。右側に大きな白斑があり、他の場所には、見たところ鼻甲介のような形をした、しわになった異様なできもの、あるいは広汎な灰白色のかさぶたが見えた。私は急いでM博士をこちらへ呼び寄せた。M博士も診察を繰り返して、それを確かめた……。M博士は普段とはまるで違って見える。ひどく青白く、足が不自由で、あごひげがない……。いつのまにか友人オットーが、イルマのそばに立っている。友人レ‥オポルトがイルマの小さな身体を打診して、左下に濁音部があります、と言う。レーオポルトはさらに、左肩の、浸潤した皮膚部分を指摘するそれについては、彼と同じく私も、彼女が服を着たままでも感知した)……。M博士は言う。間違いない、これは感染症だが、何でもない。さらに赤痢も合併してくるだろうが、毒物は排泄されるだろう……。われわれは、感染がどこから来たのかを、直接に知っている。それほど前のことではないが、彼女の具合が悪かったときに、友人オットーが、彼女にプロピル製剤の注射をしたのだ。プロピレン……プロピオン酸……トリメチルアミン(その化学式が、太字で印刷されて私の目の前に見えたY…。このような注射はそんなに軽はずみにはやらないものだが……。たぶん注射器も清潔ではなかったのだろう。」
これだけの夢の内容に関して、フロイトはほとんど一字一句と言っていいほどに解釈を加えていく。たとえば「プロピル製剤の注射……プロピレン……プロピオン酸」というくだりについて。
フロイトは考察する。「どうしてこんなものが出てきたのだろう。私がこの夢を見るもとになつたあの病歴をしたためていたちょうどその晩、私の妻がリキュールの瓶を開けてくれた。そこには「アナナス」と書いてあるのが見えた。またそのリキュールは、他ならぬ友人オットーからの贈り物だった。というのはオットーには何かというと贈り物をする癖があつて、いつか結婚でもすればこんな癖も治るだろうと言われていた。しかし瓶の蓋を開けると、よくあるフーゼル油の臭いがつんときて、ちょっと飲む気になれなかつた・・・。」と延々と続いていく。そして最終的にはこの夢全体が、イルマという患者の治療に関して持っていた懸念や同僚との人間関係について、フロイト自身が抑圧していた事柄が明らかになっていく。
これほどの論述を示されて、フロイトが心の理論に偉大な貢献をしたことを疑う人はいるだろうか? しかしフロイトの夢分析以降、夢についての理解が飛躍的に進んだというわけではない。夢の分析はそれから一世紀以上立っても、科学の一部にも医学の一部にもなっていない。それは心理臨床の専門家の一部が、それぞれ個別的にその意味を探ることを臨床の一部に取り入れているが、それ以上のものとはなっていない。フロイトの理論の何かが間違っていたのだろうか? しかし他方では夢の分析は決定的に誤っているという理論も聞かない。夢は場合によっては夢を見る人の心の大事な部分を映し出しているであろうし、場合によってはあまり深い意味を追求されるべきものではないかもしれない。夢は心の奥底の何かを現している場合もあれば、単なる偶発的なものかもしれない・・・・。それがおそらく夢の分析に関する真実なのであろう。そしてそこに関与しているのが、揺らぎという現象なのである。


2020年1月28日火曜日

顕著なパーソナリティ特性 6


顕著なパーソナリティ特性


はじめに
本稿ではICD-11におけるパーソナリティ障害において採用されたディメンショナルモデルにおいて掲げられたパーソナリティ特性である否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性などについて論じる。すでによく知られている通り、現在の精神医学におけるパーソナリティ障害をめぐる議論の趨勢はディメンショナルモデルに向かっているようであるが、2013年に発表されたDSM-5における二つのモデルの提示、そして2018年のICD-11におけるディメンショナルモデルの全面的な採用は、パーソナリティ障害をめぐる現在の混乱をそのまま表しているともいえる(林、2019)。ただしこれはまたこれまで十分なエビデンスの支えもなく論じられてきたパーソナリティ障害の概念がより現代的な装いを新たにするために必要なプロセスかも知れない。そしてこの議論にとどまる保証はない。最近極めて頻繁に論じられる発達障害の問題もこれに絡んでくる可能性があるとしたら、まだ続く可能性があるのである。
林直樹 (2019)パーソナリティ障害と現代精神科臨床 精神医学 61:144-149

最初にICD-11PDについてその外観を示したい。ICD-11ではまずPDが存在するか否かを示し、その深刻さ、すなわち経度、中等度、重度のいずれかを示す。そしてPDとまでは言えないものをパーソナリティの問題 personality difficulty と示すとある。そしてそれぞれに関連した特性はそれが心理社会的な機能の障害となっている時のみ記載するというのだ。これは分かりにくいのではないか。つまりパーソナリティの問題や障害の中で、割と純系なものについてはその特性を記載せよ、ということである。するとここでさっそく難しい問題も起きてくるだろう。例えばいろいろな問題を抱えて、どれ一つとってもその純系とは言えない人がいたとする。かなり反社会的でありながら引きこもりがちで、強迫的な人を考えよう。その人の診断は「深刻なPD、おしまい」となってしまう。深刻なPDの人なら、「どのような人か?」はまず示してほしいのだが、それが出てこない。かと思えば衝動的な問題が主としてあるが、それが軽度な場合は「軽度のPD,脱抑制的」という診断も出てくる。しかしこの後者なら「軽度なら脱抑制的であろうとそれ以外であろうと、さほど問題にはならないだろう(だから特に断らなくてもいいだろう)。」と言われるはずだ。それともう一つの問題がさっそく持ち上がるだろう。果たして「軽度のPD」と「パーソナリティの問題」とは簡単に分けられるのか、ということだ。
次にICD-11PDのディメンショナルモデルに掲げられたこの5つの特性に、DSM-5において掲げられている精神病性を加えた合計6つの特性について簡単に述べたい。それらは否定的感情、離隔、非社会性、脱抑制、制縛性、精神病性だが、どれも日本語で聞いた場合にそのニュワンスが十分伝わらないかもしれない。それぞれ negative affectivity否定的感情detachment 離隔disinhibition 脱抑制dissociality 非社会性anankastism 制縛性)、psychoticism(精神病性)となっているが、どの日本語も英語のニュアンスを直接伝えているようには思えない。さらにanankastism のように、英語の口語でも用いられていないような用語は、それ自身があまりなじみがないかもしれない。
ディメンジョナル・モデルとは、PDがそれぞれどの程度ある人のPDを構成しているかという観点からPDの分類を試みるものである。この概念はDSM-IVまで踏襲された、いわゆる多軸診断に近いものと言っていい。
従来のカテゴリカルモデルは診断自体にオーバーラップが在り、またhigh heterogeneity があり、そもそも10のPDは実在するのか,という問題が問われ続けてきた。結局これは次の様なことを言っていることになる。
実際の調査が始める前から、従来人にはジャイアンタイプの人、スネオタイプの人、のび太タイプの人がいると考えられてきたとしよう。それぞれのプロトタイプはドラえもんのアニメに描かれているものとして人々の頭には思い描くことが出来る。しかしそれを実際の人々、たとえばAさん、Bさん、Cさんに当てはめようとすると、 ある人はAさんをジャイアンタイプに、別の人はのび太タイプに、というふうにバラバラに診断を下すということがわかり、それがBさんにもCさんにも起こり、結局診断を下す人によってA,B,Cさんが持つ診断はかなり重複してしまうという問題が起きてしまうことがわかったのである。そして果たしてジャイアンタイプのパーソナリティそのものが存在するのか、という議論になってきたということだ。あえて言えば、たとえば別のアニメでは、ジャイアン、スネオ、のび太とは少し異なる3人の登場人物が現れ、そちらで分類しようという人も出てくるかもしれず、するとそもそもジャイアンタイプの人というのは私たちの心のイメージにだけ存在し、実在はしないという問題も生じてしまうのである。
このことはたとえば、循環気質、分裂気質、癲癇気質などの分類を考えれば実際に起きていることだとわかるだろう。

2020年1月27日月曜日

揺らがない心と精神分析 1


ここで話題を心理療法に近づけよう。心のデフォルト状態としての揺らぎという議論は、心の臨床にどのように関連するのだろうか。実は心の揺らぎの問題を心の臨床に結び付ける試みは、実はやっと始まったと言っても過言ではない。というのもそもそも心を理解するという試みは、心を揺らぎのない、ある一定の法則に従ったものとして捉えるということからしか出発し得なかったからである。
過去100年を振り返って心の理論の土台をつくった人間を挙げるとしたら、まずはフロイトとユングを考えなくてはならない。フロイトの伝記を読み、精神分析の理論が生まれて発展していった様子をたどると、当時の分析学者たちが持っていた、心に関する並々ならぬ関心がうかがえる。フロイトが1900年代の最初に打ち立てた心の図式に従って治療を行うことは当時の分析家たちが命がけであり、そして大きな期待を寄せていたのだ。
私がこの表題をモデルをあえて「『揺らぎのない心』という前提に立ったフロイト」としたのは、彼の理論がすでに見たデフォルトネットワークモデルや、神経ダーウィニズムで表現したような揺らぎに基づく脳の働きの理解とは一線を画していたからだ。すなわちフロイトの頭の中では、心とは決定論的な展開を行うものとして想定されていたからだ。彼の意識、無意識と言った局所論モデルも、超自我、自我、エスといった構造論もその路線で立てられた議論なのだ。
フロイトの理論は、ある意味では心はある種のロジカルなプロセスとして解明できるという主張であった。これまでは特に意味を与えられなかったことの背後には、無意識的なプロセスがあると説いたのである。そしてその理論の正しさを最も典型的な形で示すのが彼が表した「夢分析」(1900)に見られるような、夢の内容の分析である。そこには夢の内容の詳細がいかにその人の無意識に抑圧された記憶から作られているかが表されていた。フロイトにとっての無意識は、その人のそれまでの人生で体験した意識的、無意識的な内容を克明に記録したハードディスクのようなものであり、そこから複雑なプロセスを経て夢が生成されるという説を唱えた。フロイトそれと同じ論理で、人間が覚醒時にも夢に類似した内容を語ることを促すことにした。それには寝椅子に横たわって、あらゆる検閲、すなわちこんなことを言って恥ずかしい、罪深い、などの抵抗を振り払って語る内容を、同じように分析することで、無意識内容が理解されるのではないかということを考えた。それが「自由連想法」と言われる手法である。

2020年1月26日日曜日

こころのデフォルトとしての揺らぎ 推敲 4


デフォルトネットワークと創造性

さてこのデフォルトモードネットワーク、最近では創造性を生み出すネットワークとしても注目されている。スリニ・プレイ氏の著書『ハーバード×脳科学でわかった究極の思考法』(千葉 敏生 翻訳、ダイヤモンド社、2018)を参考にする。
プレイ氏によれば、DMNの消費エネルギーは、集中状態の時に消費されるエネルギー量と比べ1520倍も多く、DMNはそれだけ重要な働きを持っているはずだと現在の研究者たちは考えているという。本当かな。そしてDMNを「鍛える」手段まで上げている。それらは運動、瞑想、独り言、空想や物思い、であるという。要するにこれらの活動をしているときは、脳はDMNの活動を示しているということだ。そして本書で著者が勧めているのが、マルチタスク能力を高めるということだ。これはどのようなことだろうか。
又吉氏のひらめき(NHKサイトより)
この問題は 201824日放送のNHKスペシャル「人体」第5集・脳で、お笑い芸人で芥川賞作家でもある又吉直樹氏の脳の画像を紹介しながら、創造性というテーマで放映されたのでご存じの方もいるかもしれない。この番組ではさらにDMNの活動の際、脳の広い領域が活性化してネットワークの全体がその結びつきを高めている状態として論じている。そこで動画で紹介された又吉氏の脳の画像がこれだが、ここで黄色く光っている部分がDMNの正中線領域そのものであるというわけだ。そしてその際、「このネットワークが、無意識のうちに私たちの脳の中に散らばる「記憶の断片」をつなぎ合わせ、時に思わぬ「ひらめき」を生み出していくのではないか、と今大注目されている」と紹介する。
 このように考えると、実はDMNは脳がそれまでの記憶や局所的な活動をいったん中断して、その全体を見渡して必要部分についての結びつきを強めるという非常に大事な役割をしているということが想像される。人は(あるいは動物一般といってもいい)その時その時でいろいろなタスクを行い、基本的には外部から入ってくる情報を処理し、それに適応して生活を行っている。ところがそれを継続しているだけでは、個々の情報はバラバラで関連性を持たない。そしてせっかく成立しかけたネットワークはいわば「通電」されないことで次第に衰退してしまう。それに対してDMNは個別的な作業を中止して、いわば脳の回路の全体を温め直す。そしてそこで思わぬ予想外の結びつきが成立する可能性をも与えているのであろう。
ただしDMNが興奮しているだけではおそらくあまり意味がないのであろう。先ほどプレイ先生が挙げたDMNを鍛えるための「運動、瞑想、独り言、空想や物思い」について考えてほしい。もしこれだけをひたすらやったとして、その人の人生は実り多いものとなり、創造性が発揮されるのだろうか? おそらくそうではない。ある創造的な活動を思い描くといい。偉大な発想を持った天才があるひらめきを持ったとする。すると彼はあたかも夢から覚めたように、その発想の科学的な根拠を精査するだろう。DMNは直ちに課題遂行ネットワーク(TPN)に移ることで、それを形にする必要があるのだ。そしてそこでやはり必要となるのが、DMNTPNとの絶えざる揺らぎといえるのだ。

2020年1月25日土曜日

こころのデフォルト状態としての揺らぎ 推敲 3


デフォルトモードは瞑想状態なのか?

DMNの理解がいまいち進まないのは、いわゆる瞑想状態との関連が複雑だからだ。デフォルトモードでは、心はぼんやり浮遊していて、何事の焦点を定めない。その状態はまるで瞑想のように思える。ところが瞑想はこのDMN とは逆の活動なのだ、という説明によく出会う。瞑想にもさまざまな種類が提唱されているが、最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMN に向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされているのだ。
最近は脳科学の発展によりDMN に関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を論文等で発表するのだが、それらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の独自の理解である。
まず瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMN を高める瞑想といえる。そして洞察瞑想、あるいはマインドフル瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。
ここで私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。まずマインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。マインドフルネス瞑想でしばしば注意を向けるように促されるのが呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくのだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだ (Nakano et al. 2013)。
(Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.)


もしDMN が何らかの形で私たちの心的機能にとっての意味を持つとしたら(何しろ脳が使うエネルギーの75%を消費しているというのだから)TPN(課題遂行)はいずれはDMN に戻って行くという事になる。するとマインドフル瞑想が鍛えているのはこのDMN からTPN へのスイッチングという事になる。これは実は脳がDMN TPN の間を本来揺らぐものであり、その揺らぎの在り方をより心身にとってより良いものにするためのトレーニングという事になるだろう。
結論から言えば、DMN も課題の遂行も、どちらも心の働きとして必要であり、どちらにも過剰に流されず、両者の間を浮遊し、揺らいでいる状態が最も理想であり、それはある程度はいくつかの瞑想を組み合わせることで達成できるのである。  

2020年1月24日金曜日

こころのデフォルト状態としての揺らぎ 推敲 2

そもそも私たちの脳は、「何もしない」「なにも考えない」という活動は許されない。少なくとも脳は何もしていなくても、莫大なエネルギーを消費して「活動」を行っている。それは現在の脳科学では常識になりつつあるが、その知見も比較的最近になって得られたことだ。
脳科学者ノルトフは、以下のように記載している。(「脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る ゲオルク・ノルトフ (著), 高橋 洋 (翻訳) 白揚社、2016年」)
人間の中枢神経系は、何もしていないとき、安静にしているときでも自発的な活動をしており、それは脳の中央部に集中した領域で、彼が「正中線領域 CMS」と呼ぶものである。そしてそこでの活動は「安静時活動resting-state activity」と呼ばれる。そしてその動きを脳波という形で記録すると、その波形は非線形的であり、非連続的、予測不可能なものとして特徴づけられるというのだ。一見単調な繰り返しに見えて実は一回ごとに異なり、決してその将来を予測できない。つまりはまさに「揺らぎ」なのだ。そしてその視点から心のあり方を考えるのが、彼らの提唱する「神経哲学neuro- philosophy」という分野であるという。
ここで安静時活動というものの意味についてだが、従来は、精神の活動は外界からの刺激に反応することにより確かめられていた。それが外因的かつ認知的な脳へのアプローチだが、脳は外からの刺激に反応をする以外は、静かに休んでいるものと思われがちだった。しかし決してそのようなことはなく、休んでいるように見えても、活発な活動を行っていることが最近のfMRIなどの研究によりわかってきたのだ。
そしてそれが後に述べる「デフォルトモード・ネットワーク」の活動に対応するのである。このデフォルトモード・ネットワークの活動は、脳全体がグローバルに情報を伝達処理する活動に相当する。脳の一部でしか処理されていない情報は無意識にとどまるが、それが脳全体に広がる際に意識が生まれる。そしてその際ゲートキーパーの役割を果たすのが、この正中線領域に属する前頭前野・頭頂野であるという。これらの部位は、局所的な動きを全体に移して意識化させるか、それが無意識にとどまるかを決めるという。
この脳のデフォルトモード・ネットワークにおける脳の安静時活動は、実は私たちが持つアイデンティティの感覚に重要であるとノルトフは言う。そして活動が「通時的な不連続性」により特徴づけられるという。これは私たちが本書で論じているような揺らぎの性質をまさに言い表している。脳波が連続的でパターン化し、最終的に定常状態に達した場合、さらにはフラットな状態になったり、逆にてんかん発作時の高振幅のリズミカルな棘波-徐波パターンが出現した場合は、意識の消失を意味するということから分かる。そしてさらに議論は自己連続性に時間のファクターが決定的であるという点に移る。

2020年1月23日木曜日

心のデフォルト状態としての揺らぎ 推敲 1


デフォルトモード・ネットワークと揺らぎ

揺らぎとの関連で最初に論じなくてはならないのが、いわゆる「デフォルトモード・ネットワーク」の話だ。と言ってもこの言葉にはあまりなじみのない方も多いかもしれない。デフォルトモード・ネットワークdefault mode network は心が初期状態、デフォルト状態で活動をしているネットワーク、という意味である(以下はDMNと略記しよう)。このことが最近しきりと話題になっている。MRIなどにより脳の働きが可視化されると、脳の一定の興奮パターンが発見されるようになった。そして脳がいわばアイドリング状態、つまりボーっとしている時にも、意外なことにしっかり活動していることが知られるようになったのだ。その時に活発な活動を示すのが、脳の中心軸とも言うべき部位にある広範囲にわたる神経ネットワークであり、それをデフォルトモード・ネットワークと呼ぶのだ。
しかしこのデフォルトモード・ネットワークが脳トレや瞑想との関連で様々に論じられる割には、その正体がつかめない。私も脳科学者ではないので非専門家と言わざるを得ないが、おそらく脳の基本的なあり方を論じる際にどうしても深い意味を持っているとしか考えられないだけで、その正体はまだなぞが多い。
このDMNが注目されたのは、そもそも何ら活動せずにぼんやりしている状態の脳で、かなり活発な活動が行われているという事が学者たちにとって予想外だったからだ。ここに示したのはDMNの際に活動している脳の部位を赤く示したものだが、これらは前頭葉内側部と後部帯状回と呼ばれる部位だ。これらの部位は脳が何もせずに脳がアイドリング状態にある時に光るわけであるが、何か注意を集中させている時には、これらとは別の部位が光るという事が分かった。そして脳の活動には大雑把にいって3つのパターンがあるのではないか、という事が分かってきた。それらはDMN以外にも、課題遂行ネットワーク(TPN)、そしてDMNTPNの間をつなぐスイッチのような主要ネットワーク(SN)がありそうだ、という事が分かり、一気にこの議論は熱を帯びてくるようになった。
ところがDMNについて調べると、私たちは奇妙な体験をすることになる。それはDMNが脳にとって果たしていい働きをしているか、悪い働きをしているかという事がよくわからなくなってくるのだ。DMNは私たちがボーっとして何もしていないようだが、脳の使うエネルギーの75%はその状態で使われていると言われる。つまり脳がスムーズに活動を行う上で常に準備状態にしておくという重要な役割を果たすことを、このDMN の発見者であるワシントン大学のマーカス・レイクル Marcus E.Raichle 博士が論じている。(Marcus E.Raichle, ME (2010) The Brains Dark Energy. SCIENTIFIC AMERICAN. (養老孟司, 加藤雅子, 笠井清登訳「脳を観る認知神経科学が明かす心の謎」の中で(日経サイエンス社、1997

2020年1月22日水曜日

遊びと揺らぎ 4


揺らぎが作る可能性空間、そして不確定性

この様に考察を勧めていくと、ウィニコットが提唱した可能性空間 potential space という概念そのものが、揺らぎの問題と密接に結びついていることがわかる。しかもそれは最初は観念的なものではなく、実際の事物、すなわち移行対象を介したものであるということが大事なのだ。フロイトの孫の糸巻の遊びも、積み木遊びも、それが実際のものであり、いわば物質性 materialiry を有していて、子供が現実にコントロールできることが大事だ。「毛布であることのポイントは、その象徴的価値よりもその実在性 actuality にある。毛布は乳房(や母親)ではなく、現実であるが、それは毛布が乳房(や母親)を象徴している事実と同じくらいに重要である」(W,p8, 1971
この移行対象の実在性、物質性は二つの意味を持っている。一つはそれを自分で扱うことが出来て、コントロール可能だということだ。ぬいぐるみは自分の布団に持ち込むことが出来る。それは自分の意のままになるというところがある。自分がそれを所有し、だれにも渡さなくていい。突然取り上げられることもない。しかしそれはもう一つの重要な要素を持っている。それはある意味では物質であるがゆえにコントロールの領域外でもあることだ。ウィニコットはこの点にも言及していて、それを不確かさuncertainty と表現する。「遊ぶことについては常に、その個人にとっての心的現実と、実在す対象をコントロールする体験との相互作用の不確かさがある。」
つまり現実の移行対象は思わぬ変化を遂げる。例えば劣化だ。これを書いているとどうしても浮かんでくる絵本がある。「こんとあき」子供が小さいころ母親が読み聞かせているのを聞いて衝撃を受けた。あきというおんなのこが、「こん」という狐のぬいぐるみをいつも連れて歩く。「こん」は何でもあきの言うことを聞いてくれる。ところが・・・衝撃の行がカミさんの口から読まれた。「やがてこんは古くなってしまいました。」えー!
こうしてこんは修復が必要になってしまうわけだが、「古くなる」という言葉に衝撃を受けたのは、こんがファンタジーの世界での生き物であると同時に、現実の世界ではモノであることのギャップを、あるいはその揺らぎを衝撃的に味合わされたからだ。(何か書いていて大げさだなあ。)でもこうしてあきは何かを学ぶわけである。現実に直面して、その世界を生きるようになるということか。それにしてもいい絵本だったなあ。こんのぬいぐるみもネットで売られているぞ。まあ脱線はともかく・・・・・。
このモノの持つ意外性、主体のコントロール外の性質、ウィニコットの言った uncertainty とは、まさに揺らぎの一つの重要な性質であったことを思い出していただこう。揺らぎはそれ自体が先が読めない、予測不可能、という性質を有するのである。


2020年1月21日火曜日

遊びと揺らぎ 3


ウィニコットと二重の現実性の間の揺らぎ
遊びについて精神分析の立場から精緻な論述をしたのがウィニコットである。彼の理論を追っていくと、遊びと揺らぎの関係がもう少し明らかになるだろう。
ウィニコットは子供が遊びを通じて現実を受け入れていくプロセスについて、きわめて説得力ある論述をした分析家である。彼の論述は非常に緻密で論理的だが、決して現実から遊離していないのが特徴といえるだろう。常に現実に起きている母子を頭に浮かべている。だから信頼がおけるのだ。
ウィニコットがその代表作「遊ぶことと現実」等で提出した「移行対象 transitional object」の概念はまさに彼の思索の結晶であり、画期的であった。乳児は生後23か月になると、「原初の“自分でない所有物 not-me possession”」(Winnicott, DW. 1971,P2)すなわち移行対象を作り出し、それと遊ぶようになる。それは毛布やデティ・ベアのぬいぐるみなどである。そしてこれが主体に象徴と他者性をもたらす、という。
この移行対象についての以下のウィニコットの説明は、私にとってはそれでも少し「ほんとかな?」と思うようなところはあるが、それなりに納得がいく。それはこんな説明だ。乳児は、大切なもの、例えばお母さんの乳房が、最初は自分の一部であるというファンタジーを持つ。それはいつもそこにあり、自分がおっぱいを欲しいと思うときに差し出されるから、自分の一部だと思い込む。それはちょうど自分の親指をしゃぶろうとすればいつでもそこにあるようにそこにある。だからそれは赤ん坊にとっては最初は客観的な対象として認識されない。
ここで重要なのは、「オッパイ欲しい」という欲求とそれの満足に最初は隙間がない、ということだ。あるいは少なくともウィニコットはそう考えた。ところが徐々に赤ちゃんは気が付く。どうや乳房は何時も望んだ時にはすぐにそこにあるというわけではなさそうだ。「そこにあるはずの乳房がそこにない…。」これは赤ちゃんにとって深刻な体験である。厳しい現実との直面だ。しかしそこで赤ちゃんはそこから「対象を創り出す、考え出す、引き出す、考え起こす」という力を発揮するという。それが人間の人間たるゆえんだ。そしてそれが移行対象であるという。お母さんがいない時に、その代わりに触ったりだっこするもの、例えば縫いぐるみを見出し、それでとりあえず母さんにだっこされたことにする。足りない分は想像力で補う。つまり移行対象は母親(や彼女の乳房)の不十分な代替物ということになるのだ。
さてこの文脈でウィニコットが、そしておそらく多くの私も含めた分析関係者が痛く注意を向けるのは、自分がこうだと思い込んでいる対象イメージと、現実の対象の在り方のギャップだ。ズレ、差異、と言ってもいい。そしてウィニコットはこのズレこそが心を生むとさえ言っている。それがいわゆるポテンシャルスペース、可能空間だ。「主観的な対象と、客観的に知覚される対象の間の、つまり自分の延長線上と自分でないものの間の、可能性のある空間」(W.1971, p135)これは主観世界と客観世界の間の揺らぎと言っていい。そしてそれを形として象徴しているのが、移行対象ということになる。
皆さんは移行対象と言えば、すでにものであって、揺らいではいないで確固としてそこにあるではないか、と思うかもしれない。例えばぬいぐるみがどうして揺らいでいるのか、という主張だ。しかしぬいぐるみは揺らいでいる。それはある意味ではただのもので、ある意味では愛すべき対象なのだ。
代わりにピカチュウドーナッツ
これを書いていてひとつ思い出した。昔ピカチュウの顔のたい焼きがあった。それをピカチュウ好きの子供にあげたら、彼はそれを食べられない、という。エ、たい焼き(正確に言えば、ピカチュウ焼き)なのに。でもそれを食べるとかわいそうだというわけである。確かにそうだ。おそらくこの種の食べ物は売れないだろうし、それはピカチュウ焼きは、単なるモノであって、しかも同時に「ピカチュウ」でもあり、つねにその間を常に揺らいでいるからだ。時間軸上を揺らいでいるから、ある瞬間はかぶりつきそうな気がして、でも次の瞬間にそれが出来なくなってしまうのである。

2020年1月20日月曜日

遊びと揺らぎ 2

遊びの原点に戻って少し考えたい。子供が積み木を積み上げる。34つならいいが、7、8個になると不安定になり、うまく上に載せていくことができずにガラガラと崩れる。子どもはその音に驚き、あっけにとらわれるが、また一から積み上げ始める。かなり高く積み上げた積み木が、最後の一つで崩れて再びバラバラに飛び散る。これを繰り返す。
ここで起きているのは、ある種の急激な変化である。そしてそれを自分が起こしているという能動感がある。この二つの要素がないと遊びは成立しない。行動心理学では心理学者 White が提唱した effectance motivation (効力動機)がこれに相当する。幼児は自分のちょっとした行動で世界が大きく変化して、大きな音がしたりものが壊れたりすることが楽しい。なぜ楽しいかといえば、おそらく適応的な意味があるからだ。子どもは(そしておそらく動物の子供も含めて)自分の行動で世界が変わるというパターンをマスターせねばならない。するとそれに快が伴うことで、繰り返し体験してマスターすることになり、自らの機能を高めていく。そしてそれがその個体の生存に役立つのだ。フロイトの Fort-Da でもよい。積み木遊びでもいい。これらはこの効力動機によるものだと考えるほうが自然だ。もちろんそれにより母親の別れを克服している、というフロイトの説も悪くない。というよりずっとそのほうが学者にはアピールするだろう。そしておそらくそのような治療的、辛さを克服するという意味もあるのかも知れない。ただしそこにはもっと単純で生物学的なメカニズムが働いているというほうが分かりやすいだろう。
子どもの積み木積みも、フロイトの Fort-Da も揺らぎを楽しむことだ、ということを言いたいわけだ。積み木はorder 秩序とdisorder無秩序の間を揺らぐ。糸巻は出現と消失の間を揺らぐ。でも両者が正反対の状態ではなく、一度消えたものがまた出現し、一度崩れたものがまた秩序を取り戻す、ということ、すなわち同じものが形を変えたに過ぎない、というのが揺らぎたる所以なのだ。そしてそれを知っているから積み木を崩すことができ、また糸巻をベッドの下に放り込むことができる。自分で崩したものを救出でき、救出したものを壊す、という出来事を生み出すということがたまらなく面白く快につながるというのが遊びの本質なのだろう。
 ところでこう考えると、アスペルガー的な遊びがどのように違うかも自然と理解されるだろう。
砂の粒が手の間からこぼれ落ちるのを飽きずにみる。そして繰り返し繰り返し手で砂を掬い、落ちるのを見る。
私はこれが病的だとは考えたくない。むしろこれは特殊な能力といえる。それは砂粒の落ち方は一回ごとに微妙に異なるからだ。それこそ揺らぎの極致といえる。そしてそれを味わう特殊な能力が彼らには備わっていると考えることができる。さらにそれを調節しているのは自分の手であり、指である。つまりそこに効力動機も加わっているのだ。しかし一般人はその砂の落ち方の微妙な違いを敏感に感じ取り、感動するだけの能力がないのではないか。臨床家はそれを常同行為と呼ぶであろうが、それは失礼ではないだろうか。それらは彼らにとっては決して一回ごとに「同じ」ではない可能性があるからだ。
例えば万華鏡を考えよう。筒をくるくると回すと、次々と新しい模様が目の前に広がる。特別視覚情報に敏感でなくてもそれに感動する人は多いだろう。これを常同行為とは呼ばない。しかし発達障害の人が万華鏡よりは砂の落ち方に興味を示すとしたら、彼らにはその種の刺激はあまりにも情報が大きく、むしろ不快を起こさせるのかもしれない。彼らにとっては積み木がガラガラと崩れるときの音に耐えられないのかもしれない。だから彼らの感受性に丁度あった程度の情報の揺らぎに惹かれるのではないだろうか。
発達障害においては、情報が通常より過大に与えられる、という風に考えると、彼らの「拘り」にも別の見方ができるだろう。ある発達障害の方が、アサリの貝殻の模様の個体差に魅せられたという。そして海岸で貝殻を拾ってきて、家にたくさんのアサリの貝殻のコレクションを持っているという。アサリの模様はどれ一つとして同一なものはなく、微妙に揺らいでいるのだろうが、それに感動するためには極めて微妙な感性が必要となるだろう。ちょうど昆虫に魅せられる人が、種の違いによる羽の模様の微妙な違いに魅せられるのと同じだ。
このように考えると、「イナイイナイバア」の面白さも、別の見方ができる。イナイイナイバアは、発達障害の人にとっては、揺らぎどころか大波過ぎて、情報過多でとても楽しめるような代物ではない、ということではないか。

2020年1月19日日曜日

遊びと揺らぎ 1


9章 遊ぶことと揺らぎ

遊ぶことと揺らぎはきわめて深い関係を持つのだが、そのことのとっかかりとしては、まずはフロイトの「糸巻遊び」を論じなくてはならない。精神分析関係の方でなくてもよく知られているこのテーマは、フロイトが1920年に書いた「快楽原則の彼岸」という論文に収められている。フロイトの一歳半の孫が、ひものついた糸巻きと遊ぶ。彼は糸巻をベッドの下に投げ入れ、「Fort(いない)」を意味する「オー」という発声をし、それからひもを手繰って糸巻きをベッドの下から引っ張り出して、姿を見せた糸巻きをみて「Da
あった)」を意味する「アー」という発声をする。彼はそれを延々と繰り返して、母親がいなくなった時の苦痛を劇化していると解釈する。そしてそうすることで「欲動満足に対する断念」が行われるというのだ。そしてフロイトは、「苦痛な体験を遊びの劇として反復することは、どのようにして快原則と整合性が付くのだろうか?」と問い、そこから死の欲動を発想したことになっている。
このように遊びがある種の心の苦痛を和らげ、それに一方的に苦しめられる立場から、それをコントロールする立場になるという理論は、その後かなり分析の世界では一般化する。否、精神分析だけではない。一般的に遊びが外傷体験の克服として用いられるという考え方は、むしろ私たちにとってなじみ深いもののようだ。
より最近では「地震ごっこ」「津波ごっこ」のことが思い出される。そういえばそんなテーマで論文を書いたなあ。「岡野憲一郎2001「災害とPTSD-津波ごっこは癒しとなるか?-」『現代思想』39-12、青土社、pp.89- 97」そこで強調したのは、「津波が来たぞー」といって興じる子供たちの多くは自らの外傷体験を克服することにそれを役に立てるとしても、一部にはそれを津波の悪夢を蘇らせるものとして極力回避することになるかもしれない。遊び = コントロール論はそれほど簡単なものではないかもしれないのだ。
さて、糸巻の出し入れの反復は糸巻が「隠れる⇔姿を現す」の揺らぎ、ということになる。ただし「ほらね、糸巻遊びは揺らぎでしょう。だから遊びとは揺らぎなのです。」などという単純な議論をしようと思うのではない。問題はこの種の揺らぎがある種の快感を呼ぶために繰り返され、それがたまたま適応的に働くらしいということだ。すなわちその種の仕組みを私たちの神経系が持っているということだろうか。
私がむしろ健全で、精神発達にとって促進的である遊びの典型として取り上げたいのは、「イナイイナイ・バァー」である。それは明確に対人関係に根差し、しかもしれの確立はある発達上の一ステージへの到達とみなすことができるからだ。それに比べてフロイトの例は、実は自閉的なにおいがする。糸巻遊びに興じる1歳半の孫は、健全に育ったのであろうが、もし彼が5歳になっても10歳になってもこの「Fort-Da」の遊びを繰り返していたら、かなり心配になる。それはむしろ回転いすを延々と回し続けたり、砂場の砂を掬っては手の間から漏れるのを一心不乱に眺める自閉症児の姿により近いであろう。それに比べて「イナイイナイバァー」を延々と繰り返す子供には少なくとも発達障害の臭いはしてこない。
ともあれこの種の遊びの決め手になるのは快、スリルであることに間違いない。イナイイナイバァを子供のころ体験したことを生々しく覚えている人は多くないかもしれないが、子供を相手に繰り返した経験を持つ人は多いだろう。子どもを持った人ならほとんどが体験しているだろう。もちろん子供に付き合わされて繰り返す場合もあるだろうが、やっていて実際面白い。スリルが伴う。なぜだろう? 子供はつらい体験を克服するためにやっているとは思えない。フロイトには悪いけれど。楽しいからやっているのである。それにエルンストが糸巻遊びをしているとき、彼はおそらく母親のことなど考えていないのだ。ただ楽しいからやっているはずだ。だからもっと言えば、フロイトが「なぜこれが快原則と整合的なのだろう?」と考えるとき、彼は勘違いをしていることになるだろう。フロイトはどちらかといえば遊びを知らない人といえないだろうか。あるいはとてつもなく頭がいいといえるのか。だから孫の糸巻遊びを見て深い洞察を得て論文が一本出来てしまうのだ。

2020年1月18日土曜日

揺らぎと笑い 2


じゃれ合うことの意味
ところで私にとってどうしても不思議なことがある。私の考えでは、この笑いの問題は遊びやじゃれ合いと深く結びついている。ところが遊びやじゃれ合いは、動物の世界ではごく当たり前に起きていることなのだ。心というものが存在するのは霊長類からか否か、などという問題が真剣に語られる一方では、ワンちゃんだって生まれてすぐから一緒に生まれたきょうだいとじゃれ合い始める。しかも彼らのやることはとても手が込んでいる。相手を攻撃するようで爪は決して立てない。ギリギリのところで本格的な攻撃を回避する。それをお互いに際限なく繰り返すのだ。もちろん動物学者はもっともらしく説明するだろう。これは狩りの練習をするためだ、など。しかしそれにしてもどうしてこんな芸当が可能なのだろうか、と私は不思議になる。
系統発生的に考えてみよう。爬虫類や両生類にじゃれ合いは可能か? 卵からかえった子ガエルがじゃれ合っている、という話など聞いたことはない。ワニの子供たちがお互いに甘噛みをして遊んでいる、という光景は想像できない。どう考えても哺乳類からである。試みにグーグルで「じゃれ合い、動物」で動画を検索してみる。やはり出てくるのは猫、犬、馬、パンダ・・・。おそらく海の中ではイルカやクジラだったら可能だろう。しかしサメ同士の追っかけっこなど想像できない。frolicking, animals と Youtube で英語で入れてみても同じようなものだ。
ちなみにポリベーガル理論についての大著を書いた津田先生によると、「爬虫類でも鳥類でも、遊びらしき行動はあるが、一時的、偶発的で、持続的な社会行動としての遊びは、哺乳類に特徴的なものであるという(津田、p344)。」 としっかり文献を引いて解説している。
揺らぎとの関連で言えば、これは心の中に攻撃と愛情表現という二つの体験の間の揺らぎやギャップを生み出しているのだ。例えば仲間の動物に、あたかも本気で襲い掛かり、攻撃をするようなふりをすることで、逃走・逃避反応の発動寸前まで起こさせ、その寸前でその手を緩めて、「ナーんちゃって」といってそれを中止し、ギャップを楽しむのが遊びということになる。その前提は、相手の心に浮かんだ一瞬の恐怖を推し量ることができる能力だ。なぜなら相手がそれを真の攻撃と体験することで逆に反撃される危険を冒すことは許されないからである。そしてこれは意味の揺らぎや自他の揺らぎを体験できないと成立しないのである。
ここで少し視野を広げてみよう。子供が親にお乳をねだる様子や、オスとメスの交尾の様子を考えよう。すると昆虫のレベルでもオスとメスが体を合わせる、イチャイチャする、という一見じゃれ合い風の様子が見られる。ところが昆虫のレベルでは、実はこれはいちゃつきや遊びとは全く異なるものになる。というのも彼らにとって交尾とは一歩間違えれば相手に殺されかねない危険な賭けでもある。サソリのオスは一歩間違えばメスに尾の先の針で一刺しされそうなリスクを負いながらメスに近づき、相手に刺されないようにその鋏をガッチリつかんで距離を保ちつつ目的を遂げようとする。というのもメスはオスが気に食わなければ本気で襲い掛かってきかねないからだ。このような姿を哺乳類のカップルと比べよう。健康的なカップル同志のいちゃつきはどこか子供のじゃれ合いに似た、平和で幸せに満ちた関わり合いのように見えるだろう。ところが遊ぶことのできない下等動物にとっては、交尾はまさに命をかけた真剣勝負なのだ。

2020年1月17日金曜日

揺らぎと笑い 1


揺らぎの欠如と発達障害について考えると、発達障害的な心の在り方とは反対側に位置すると考えられるような人々のことが浮かんでくる。それは私たちがテレビで毎日目にしているお笑い芸人と呼ばれる人たちである。
私は個人的には彼らに非常に感謝している。いつもとても笑わせてもらっている。それに彼らは人間観察の絶好の機会を与えてくれる。お笑い芸人がなぜ観察対象として素晴らしいかと言えば、職業上、彼らが内面をさらけ出すことは、半ば必然になるからだ。彼らは笑いを取るためには自分のプライドを捨て、自分にとっての恥部をもギリギリまでさらけ出す。恥ずかしいことをさらけ出すことによる恥辱は、笑いを取れないで立ち尽くす(スベる)恥辱よりは、はるかにましだからだ。そこで彼らは表舞台でのパフォーマンスの時でさえも、私が日常出会う人々よりも一歩も二歩も内側を見せてくれるのだ。
私がここで提案したいのは、揺らぎが時には過剰なまでに豊富な状態、私たちが発達障害で見た状態とはちょうど反対に位置する心の状態が彼らに見て取れるということだ。あるいはもう少し簡略化していうならば、笑いは意味や情緒の揺らぎを前提として成り立つのである。そして自分が意味の揺らぎを体験しながら、そして揺らぎを作り上げて聴衆の心の中に送り込むことで、笑いを生み出していくのが彼らお笑い芸人の仕事なのである。
TEDトークで、あるブラックジョークを聞いた。
「病でもう余命いくばくもない男が、我が家のベッドに臥せっている。ふと隣のキッチンから漂ってくるクッキーの香りに惹かれる。もうほとんど食欲などというものとは無縁だった彼が死を前にして嗅いだ焼きたてのクッキーの香り。男は最後の力を振り絞ってベッドからはい出し、キッチンにたどり着いた。そして妻がオーブンから出して皿に盛ったばかりのクッキーの一つに手を伸ばす。すると妻は夫の手をピシッと叩く。「あんた、何やってんの! これはお葬式に出すものよ!

私はこれを普通に笑うことが出来たが、不思議なのは理屈で考えても、このジョークがどうしておかしいのかがよく分からないことだ。それはおそらく笑うということの裏にある心のメカニズムがかなり込み入ったもので、そこに起きていることを理屈で考えても、つまりそこにシステム化的な、論理的分析的な思考を当てはめても、笑いの鍵は見当たらないということなのだろうか。それでも少し頑張ってみる。
このジョークが面白いのは、当然ながらこの奥さんの振る舞いが場違いだからだ。夫の手をピシッと叩くのは、子供のいたずらを叱る母親のシーンを呼び起こすが、妻が夫の子供っぽい仕草をたしなめるシーンも連想させる。これはこれでよくある状況であろうし、自然なことだ。例えば家で誰かのお葬式を挙げることになっている場合に、そのために焼いたクッキーを旦那が一つ失敬しようとして奥さんからピシッとたしなめられられるとしたら、そこには何の意外性もなく、それで笑いを誘うことはないだろう。そこでもう一つの仕掛けがいる。それは何だろうか。
この五行ばかりのジョークを読んだ読者は、死を前にして最後にクッキーを一口味わって、昔のおふくろの顔でも思い出し、穏やかで幸せな気持ちで死に向かっていく男を思い浮かべているはずだ。そしてそのクッキーの皿に手を伸ばす・・・・。そこまではいい。そして最後の行でのどんでん返し、あるいはギャップ。そう、このギャップが笑いを起こすのだ・・・・。たいていはここで笑いの説明は終わるのだろう。しかしもう少しその先を探ることは出来ないだろうか。
その手がかりとして、このジョークを台無しにしてしまう、いわゆる「スポイラー」を考えてみよう。例えばジョークがこんな感じだったらどうだろう。
「妻は夫の手をそっと優しく止めて、言う。『ごめんなさいね。あなたが食欲を取り戻してクッキーを食べてみたくなった、というのはすごくうれしいわ。ただこれはあなたのお葬式のためにお客様に出すものなの。』」
まあ多少笑いは取れるかもしれないが、パンチはほとんど失せてしまっている。(ちなみに英語では、ジョークの最後の一言は punch line という。)しかしこれがどうしてジョークを殺してしまうのだろうか。この妻の言葉がジョークを聞いた人の心の中で体験するべきギャップを埋めてしまうからだろう、ということくらいは言えるだろう。
スポイラーをもう一つ考えた。ジョークをこう書き換えてみる。
「しかしベッドからはい出してキッチンに向かった男は、妻のキツイ性格も知っていた。そしておずおずとクッキーに手を伸ばした…」これもすっかりパンチを殺してしまうだろう。これも男の言葉がギャップを予想させてしまうので、実際の妻のセリフは全く効果を発揮しない。
うーん。スポイラーは思いつくが、ギャップ仮説を除いては、どうしてジョークがこれらにより殺されてしまうかまだよくわからない。ただしジョークを聞いている人の頭の中で、夫の病状を当然心配しているはずの妻、夫の最後の望みなら当然喜んで聞いてあげるはずの妻のイメージが一方にあり、他方に実に無慈悲に夫の願望をはねつける妻のイメージがあり、その両方が真正面からぶつかる、そしてそのことに妻自身が気が付いていない、という状況が笑いを誘う、ということくらいは言えそうだ。(もはやこれを書いていてもこのジョークは全く面白くも何ともない。)あるいは妻に手をはたかれて唖然としている夫の気持ちを想像する部分に可笑しさがあるのかもしれない。
ただしここで大事なのは、ジョークがなぜ面白いかということよりはむしろジョークがわかる、ジョークを考え出すことが出来るという能力とは何かということだ。そしてそこには様々な立場にある人が心に浮かべることを、同時にないしは時間差で想像し、そこに生まれるギャップを頭の中で疑似体験し、聞き手に成り代わって感じ取り、あるいはそのようなギャップを作り出すという能力である。それにお笑い芸人が優れているとしたら、それは様々な立場にある人々の心を自分の中に置いてみる、あるいはそれらの人々の心に入って共感してみる、ということであろう。そしてこれは、意味の多義性、揺らぎにつながることなのだ。クッキーに手を伸ばすということ、あるいはそれをはねつけるということが持つ意味が、人により全く異なるということの理解を前提として初めてギャップを体験することが出来るから、というわけだ。

2020年1月15日水曜日

顕著なパーソナリティ特性 5


今日は、脱抑制と制縛性の部分を訳した。

パーソナリティ障害やパーソナリティの問題 における脱抑制 disinhibition
 脱抑制の特性域の中核となる特徴は、直接の外的ないしは内的な刺激(すなわち感覚、情動、思考)に対してそれがネガティブな結果を生むことを考えずに唐突に行動を取るという傾向である。脱抑制は、それがある時点においてある個人にすべて表出されるわけではないが、以下のような共通した表現を伴う。衝動性、注意を逸らされやすいこと、無責任、無謀、計画の欠如。
  以下は原文 Disinhibition in personality disorder or personality difficulty
The core feature of the Disinhibition trait domain is the tendency to act rashly based on immediate external or internal stimuli (i.e., sensations, emotions, thoughts), without consideration of potential negative consequences. Common manifestations of Disinhibition, not all of which may be present in a given individual at a given time, include: impulsivity; distractibility; irresponsibility; recklessness; and lack of planning.

 制縛性
 パーソナリティ障害やパーソナリティの問題における制縛性 Anankastia
制縛性の特性域の中核となる特徴は、当人の頑なな完璧主義や正誤に関して求める頑なな水準や、それらの水準に見合うように自分自身や他者の行動をコントロールすることに意識を集中させることである。制縛性は、それがある時点においてある個人にすべて表出されるわけではないが、以下のような共通した表現を伴う。完璧主義(たとえば社会での決まりや義務や善悪の規範へのこだわりや、詳細で頑なで組織だった日常のルーチンへのきめ細かな注意や、極度に詳細なスケジュールやプランを立てることや、整理や秩序や整頓へのこだわりなど)、情動的ないし行動的な制限(たとえば情動的な表現をかたくなに制限したり、頑固で融通が利かなかったり、リスクを避けたり、常同的で熟慮しすぎること)
以下は原文 Anankastia in personality disorder or personality difficulty
The core feature of the Anankastia trait domain is a narrow focus on one’s rigid standard of perfection and of right and wrong, and on controlling one’s own and others’ behaviour and controlling situations to ensure conformity to these standards. Common manifestations of Anankastia, not all of which may be present in a given individual at a given time, include: perfectionism (e.g., concern with social rules, obligations, and norms of right and wrong, scrupulous attention to detail, rigid, systematic, day-to-day routines, hyper-scheduling and planfulness, emphasis on organization, orderliness, and neatness); and emotional and behavioral constraint (e.g., rigid control over emotional expression, stubbornness and inflexibility, risk-avoidance, perseveration, and deliberativeness).

2020年1月14日火曜日

顕著なパーソナリティ特性 4

今日は頑張って、離隔と非社会性を訳してみる。

パーソナリティ障害やパーソナリティの問題 personality difficulty における離隔 detachment

 離隔の特性域の中核となる特徴は、対人的な距離や情緒的な距離を遠くに保つ(対社交的な離隔、情動的な離隔)という傾向である。離隔は、それがある時点においてある個人にすべて表出されるわけではないが、以下のような共通した表現を伴う。社交的な離隔 (社交的な交流の回避、交友の欠如、親密さの回避)・情動的な離隔 (引きこもり、高慢、限局された情動的な表現や体験).

原文は以下の通り:Detachment in personality disorder or personality difficulty
The core feature of the Detachment trait domain is the tendency to maintain interpersonal distance (social detachment) and emotional distance (emotional detachment). Common manifestations of Detachment, not all of which may be present in a given individual at a given time, include: social detachment (avoidance of social interactions, lack of friendships, and avoidance of intimacy); and emotional detachment (reserve, aloofness, and limited emotional expression and experience).

パーソナリティ障害やパーソナリティの問題 personality difficulty における非社会性 dissociality

 非社会性の特性域の中核となる特徴は、他者の権利や感情を無視することで、それは自己中心性や共感の欠如の双方を含む。非社会性は、それがある時点においてある個人にすべて表出されるわけではないが、以下のような共通した表現を伴う。自己中心性(例えば強い権利意識や他者からの尊敬を期待すること、陽性ないしは陰性の注意を惹くための行動、自分のニーズや欲望や心地よさにこだわり、他者のそれらにはそうでないことなど)、共感の欠如(たとえば自分の行動が他者に迷惑であったり傷つけたりすることへの無関心であり、それは他人に対して欺いたり、操作的だったり、搾取的だったり意地悪で暴力を振るったり、他人の苦しみに対して無関心だったり、自分の目標を達成するためには無慈悲だったりする、など)。
原文は以下の通り: Dissociality in personality disorder or personality difficulty
The core feature of the Dissociality trait domain is disregard for the rights and feelings of others, encompassing both self-centeredness and lack of empathy. Common manifestations of Dissociality, not all of which may be present in a given individual at a given time, include: self-centeredness (e.g., sense of entitlement, expectation of others’ admiration, positive or negative attention-seeking behaviours, concern with one's own needs, desires and comfort and not those of others); and lack of empathy (i.e., indifference to whether one’s actions inconvenience hurt others, which may include being deceptive, manipulative, and exploitative of others, being mean and physically aggressive, callousness in response to others' suffering, and ruthlessness in obtaining one’s goals).



2020年1月13日月曜日

ポリヴェーガル 3

悩ましい「ジリツシンケイ症状」
ここで私はある造語を試みる。「ジリツシンケイ症状」というやつだ。実は精神科、心療内科、そして内科一般にとって実に悩ましい問題がある。それは、体の症状があるが、その原因がわからない、という状態だ。先ほどの、自律神経、ストレス、あるいは気のせい、心の病、という言い方を全部ひっくるめた言い方だ。それらは時に「自律神経ね」と片づけられるので、それをやや皮肉の意味を込めて、こう呼ぶことにする。
これらの症状に対して、従来の識者は心の問題の体への変換、ないしは身体化だと考えた。それがいわゆる転換性障害 conversion disorder, 身体化障害 somatization disorder と言われてきたものだ。転換症状という表現はフロイトの言葉で、要するに無意識的な葛藤が体に象徴的に表れる、と考えた。例えば便秘は、ものをため込んで、排出したりあきらめたりすることに対する葛藤を体で表現している、などと説明した。しかし精神分析にあまりなじめない専門家たちは、症状にそこまで象徴性を見出さないまでも、「心の問題が体に現れるものである(身体化する)」というもう少し大雑把で漠然とした理解で済ませようとして現れたのが、身体化障害、というわけである。そうなると「いったい何が体に現れたのか?」と問われるので、これもかなり漠然と「それは精神的なストレスでしょう」ということになる。そう、「ストレスのせい」というのはこうしてここに絡んでいる。「身体化」するためには何らかの心の側の理由が必要となる。すると心にある種の無理が働く、負荷がかかるというニュアンスを伝えるために、ストレス、というのは格好の用語ないしは概念なのである。
こうして結局「医学的に原因のつかめない身体症状 ≒ 自律神経の失調によるもの ≒ ストレスによるもの≒精神科や心療内科で扱うべきもの」が一括して、ふさわしい呼び名を与えられることなく、今私がジリツシンケイ症状と命名した状態が存在し続け、医学も精神医学も進んだ現在でも、この心身の関係性の問題はあまり大きな進歩は見られていなかった(これから説明するポリヴェーガル理論はその意味では例外的ともいえる)。
このジリツシンケイ症状の考えにはいくつかの重大な問題が隠されていることは間違いない。一つにはそもそも医学的な検査が詳細な異常を検出できないでいたという事情もあった。つまり医学の限界の問題を、医者たちは人の心の問題のせいにしていた可能性が大あり、というわけだ。例えば突然人が倒れてけいれんを起こす癲癇発作も、その発作のあいだは意識を消失して全身が震えるメカニズムが、脳波が発見されて明らかになるまでは、このジリツシンケイ症状として収まっていたことになる。(その頃はヒステリーの症状の一部と考えられていたはずだ。)
もう一つの問題はさらに患者さんを悩ますことになる。それは先ほどの等式である「医学的に原因のつかめない身体症状 ≒ 自律神経の失調によるもの ≒ ストレスによるもの≒精神科や心療内科で扱うべきもの」は、さらにあらぬ方向に向かう可能性があるからだ。それは「精神科や心療内科で扱うべきもの ≒ 心の問題によるもの ≒ 気のせい ≒ 考え過ぎ ≒ 自作自演 ≒ 演技 ≒ 詐病」とつながっていく可能性である。これは病の犠牲者としての患者が何と他人に迷惑をかける人、加害者という方向にまで誤解を受ける可能性を示唆している。
さてこのジリツシンケイ症状を、「自律神経のせい」にするのが「スマートだ」と先ほど言ったが、「でも体の問題だからね」と釘を刺しておくという意味を持っていたからだ。それによりジリツシンケイ症状が演技や詐病という誤解を受ける可能性を最小限に食い止める役割を果たす可能性があるのである。
ただし2013年のDSM-5,昨年のICD-11はジリツシンケイ症状の問題にかんして、ある画期的な進歩をもたらしたと言っていい。それはこれらの身体化障害、転換性障害という呼び方を止めて、「身体症状を伴う解離性障害」、あるいは「身体的苦痛障害 disorders of bodily distress or bodily experiences」、と言ったきわめてシンプルで、そのまんまの呼び方を採用しているということだ。つまりこれらの病名が示すのは、「(原因不明ながら)体の症状を示す病気」というそのまんまの、他意を差し挟ませないような考え方なのである。
ところで今日のブログでなぜこんな長々とした文章を書いているか自分でもわからないが、言いたいのは次のことである。「私たちの体の症状は実に様々で、その中には原因が見つからないものも多い。それらの一部は自律神経のバランスが崩れることや、ストレスに関係しているらしい(けれどその確証はない)」