2017年10月30日月曜日

公認心理師に向けて ③

精神分析の立場からは
さて公認心理師が特に身に着けていただきたいのは精神分析的な考え方だというのは、私がこの分析学会でお話しする以上は当然のことです。私は特に、支持療法の基本はきちんと身に着けてほしい、と言いたい。例えば「サポーティブ・サイコセラピー入門」(ヘンリー・ピンスカー著)などのテキストを読んでいただきたいと思います。しかし日本には、笠原嘉(よみし)先生の「小精神療法」というのがあります。これは忙しい精神科医でも、力動精神医学的治療を施すことを目的として、笠原先生が考案したものです。これが支持療法に非常に近く、またきわめて応用可能性に富んでいます。例えばうつ病の原則について、彼はいくつか挙げています。

笠原の小精神療法によるうつ病の対応

1) うつ病は病気であり、単に怠けではないことを認識してもらう
2) できる限り休養をとることが必要
3) 抗うつ薬を十分量、十分な期間投与し、欠かさず服用するよう
  指導する
4) 治療にはおよそ 3 ヶ月かかることを告げる
5) 一進一退があることを納得してもらう
6) 自殺しないように誓約してもらう
7) 治療が終了するまで重大な決定は延期する

どうでしょう? 心理士にとっても参考になるところが多いのではないでしょうか?

2017年10月29日日曜日

愛着と精神分析 ①

大変なことになった。このテーマでの原稿の注文である。●木先生からの注文となると、断るわけには行かない。でも何を書くことが出来るだろう。これまでこのテーマではいろいろ書いてきた。それを読み直すことからはじめるべきであろう。ということで数年前に書いた書評。津島先生の渾身の訳 「愛着と精神療法 デイビッド・J・ウォーリン (), 津島 豊美訳 星和書店 (2011)」(David J. Wallin PhD (2007) Attachment in Psychotherapy The Guilford Press.)である。緑色のかなり分厚い本だ。まあ読んでみよう。自分が書いたものだが。
「本書は「愛着と精神療法Attachment in Psychotherapy」という一見地味な表題であるが、中身は極めて斬新でありかつ最新の知見が満載の書である。現代の精神分析、発達理論、および脳科学の粋を集めている点で他に類を見ない。「愛着理論は発達論を関係論化したものである」という著者の表現が言い得ているように、本書は関係論という現代の精神分析の最先端の部分にも通じているという意味では、精神分析家を対象とした本としても通用する。私が本書を書評しようと考えたのは、1ページ毎に読まざるをえないという立場に身をおくことで、本書に盛り込まれた斬新な知識を少しでも吸収したいという実に利己的な意図からであった。そうか、やはり不埒な動機があったのだ。それほどの内容と可能性を秘めた本であるが、ただし本訳書はかなり大部で高価でもある。英語の原書でも366ページの大著であるからその全訳ともなると無理もないであろう。ちなみに6200円なり。
 全体は第一部「ボゥルビィを越えて」、第二部「愛着関係と自己の発達」、第三部「愛着理論から臨床実践へ」、第四部「精神療法と愛着型」、第五部「臨床的焦点を鮮明にする」という五部により構成されている。
以下に章ごとの簡単なまとめを行ってみる。
1章 「愛着と変化」では、発達理論に基づいた視点が、実はマインドフルネス、すなわち「気づいていることに気づいているというメタ意識」に基づいているという点が強調される。そして「マインドフルネスと、安定した愛着は等しい」、というやや大胆な提言がなされている。
2章 「愛着理論の基礎」では、ジョン・ボゥルビイとメアリー・エインズワースの二人三脚が、有名なストレンジシチュエーションの業績につながったという点や、いわゆる無秩序型愛着と虐待との関連について学ぶことが出来る。

まあ、最初はこのぐらい。

2017年10月28日土曜日

精神分析をいかに学んだか? ⑥

 どうぞ精神分析をいったん飛び出してください。私の提言はだんだん大胆で危険になって行きますが、それは精神分析を真の意味で学ぶためには、いったんそこから出る必要があるだろうということです。ただしこれにはいくつかの問題があります。精神分析を学んだ人は、すでに時間、お金の点で投資をしてしまっています。今更どうやって分析から離れることが出来るでしょう。多くの精神分析の学徒は精神科医や心理師になったころから修業を積んでいますから、年齢が40台、50台になってから新たに認知療法だ、EMDRの講習会だ、というわけにはいかないでしょう。これを経済学では埋没費用 sunk cost と言います。投資をしたのだから元を取らなくてはならないという考え方です。その気持ちはわかるのですが、もう一つ計算に入れなくてはならないのが、「人生このままでいいのか」ファクターです。残された治療者としての人生の中で、自分の学んだ精神分析理論を自分流にアレンジし、一番クライエントの益に結びつくような形にするのです。分析的なお作法に縛られる必要はありません。あるバイジーさんが、「私はこのクライエントとのセッションに、どうしても週に一回30分の時間しか取れません。これでは精神分析的な精神療法とも言えないのではないでしょうか?」とおっしゃいました。確かに日本のスタンダードでは、週一度50分は、最低ラインと考えられています。でも特に精神科医などは、週一度30分が精いっぱいということは現実として起きています。それでもクライエントのためになるのであれば、続けるべきでしょう。このようなことに頭を悩ますべきではないのです。

2017年10月27日金曜日

公認心理師に向けて ③

公認心理師関係の発言を、いよいよ本格的に準備しなくてはならない。
某先生によれば、公認心理師は三つの役回りがあるという。
  (1)「保健医療、福祉、教育、司法・犯罪、産業・労働」の5分野「中で」、「心理支援」をする専門職と想定されていること。
(2)チームアプローチや連携が強調されていること。
(3)臨床心理学に加えて、教育心理学、発達心理学、社会心理学、組織心理学などを根拠とする幅広いアプローチが想定されていること。

しかしこれらは公認心理師という制度をもくろんだ人たちが目指していたものであり、実態がどうなるかはわからない。公認心理師になったわれわれ(実はまだなっていないし、なるかどうかも分からない)。一つ言えることは、精神医療はチームアプローチでなくてはならず、そこでは専門性に比較的とらわれない心理がある種の仲介役、あるいはリーダーシップをとることを期待されているということだろうか。何しろそれぞれの専門家が、福祉、教育、司法、産業などを担当し、「心理的支援」という最も大きな共通項で、さしあたってそれらの専門性にとらわれない心理師が一番動きやすく、ある意味では一番具体的な仕事(雑用?)を任せられる(押し付けられる)可能性があることだろう。今でも思い出すが、アメリカのVAホスピタル(在郷軍人病院)では、入院の決定その他は、心理士が行っていた。まさにリーダー役である。あんな役を期待されているのかとも思う。しかし公認心理師に求められる「心理的支援」とはなんと曖昧な役回りなのだろう。


2017年10月26日木曜日

倫理 推敲 2 ④

身近に出会う倫理性の問題の例

最後に精神療法を行う際に必要となる倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、三つ挙げておこう。
.インフォームド・コンセント
治療者の側の倫理としてまず関わってくるのが、昨今議論になる事の多いインフォームド・コンセントであり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。インフォームド・コンセントとは患者に治療の選択肢としてどのようなものがあり、どのような効果やリスクが伴うのかを説明した上で、治療の合意を得るプロセスである。そしてその前提となるのが、患者の病気や障害についての見立てを行い、その情報を開示し、必要に応じて心理教育を行なうことだ。これらのことをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。 ちなみにこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。治療の内容についてあらかじめ患者に語ることは余計なバイアスを与え、治療者のブランクスクリーンとしての機能を損なうものと考えられる傾向にあったからである。


.症例発表の承諾

学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化した場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという選択肢が自由に与えられているかという問題だ。この問題に関連し、ギャバードは以下のように述べている。

[治療を記録してスーパービジヨン等に用いることについては] このアプローチの主要な欠点は、治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということやそのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということである。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(長期力動的精神療法 p.228

このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を失くすことは、分析家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないことを考えると、この問題については私たちが語るまいとする力が一番強いのかもしれない。

3.境界侵犯

境界侵犯の問題は、精神分析が始まって以来の懸案であった。フロイトの多くの弟子が患者との親密な関係に入り、フロイト自身がそれを戒める必要を頻繁に感じていた。分析家たちは治療構造や境界の意識が低く、また逆転移への理解が十分でなく、フロイトの直接の弟子である CJ.ユングも S.フェレンチも E.ジョーンズも患者との性的な関係を持ち、フロイトがそれをたしなめる必要があった。しかしその後は逆転移に関する理解が進むとともに、あらゆるセラピストが境界侵犯に陥る危険を伴うものとして、比較的オープンに語られるようになってその意味では、境界侵犯の問題は先に示したインフォームド・コンセントや個人情報の問題とは異なり、倫理の問題とは別に治療関係における力動を理解する手段としても用いられ、倫理の問題がいかにして生じ、どのように防ぐことが出来るかに対する答えを提供する可能性がある。
境界侵犯は現実的な問題でもある。ある米国での報告では、調査の段階で10パーセント以上の治療者が自ら境界の侵犯を犯したことを認めている。この問題について Gabbard の示す視点が興味深い。彼は境界侵犯を特に上級の分析家が犯した際の、組織ぐるみの抵抗 institutional resistance が生じることを観察している(Gabbard, 1995, 2001)。彼はまた境界侵犯を犯した治療者の心理テストから、彼らが必ずしも自己愛的で反社会的な所見を示すわけではなく、むしろ寂しさや対人関係上の飢えを表していたという。

以上精神療法における倫理の問題に関して論じた。今後の精神療法に関する理論は、この倫理の問題はますます重要性を増すと考える。本稿がこの問題に取り組む際の参考になれば幸いである。Celenza and Hilsenroth (1997) Personality characteristics of mental health professionals who have engaged in sexualized dual relationships: A Rorschach investigation. Bull. Mennin. Clinic. 61:90-107.
GabbardGO (1995) The Early History Of Boundary Violations In Psychoanalysis  Journal of the American Psychoanalytic Association, 43:1115-1136
Gabbard, GO (2001). Speaking the Unspeakable: Institutional Reactions to Boundary Violations by Training Analysts. Journal of the American Psychoanalytic Association, 49(2):659-673


2017年10月25日水曜日

倫理 推敲 2 ③

現代精神分析における「倫理的転回」の動き

以上の議論を踏まえたうえで、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における倫理の問題について論じてみよう。Hoffman, I によれば、技法について論じることは、治療における弁証法的な両面の一方に目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動には、「技法的な熟練」という儀式的な側面と、「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立している。ここで言う「技法」は、本稿におけるフロイト流の治療技法に相当するが、Hoffman の説に従えば、それは分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎないことになる。すなわち慣習的な道徳の側面は分析家の持つもう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、という側面による常に裏打ちされている。そしてこの後者の側面が上述の道徳的な倫理と深く関係してくるのだ。
以上の Hoffman の視点に反映されるように、精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介する。倫理的転回とは、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念と対になる形で提唱されたものだ。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う上での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。

2017年10月24日火曜日

倫理 推敲 2 ②

精神分析における倫理の問題

精神分析の世界における倫理の問題については別の論考(岡野、2016)で考察を加えているが、そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
フロイトが精神分析の治療技法としてまとめたものとしては、匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性も指摘されるようになった。精神分析の草創期には、治療者がこれらの原則や技法が順守されることと倫理的であることに区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることこそが患者の治癒につながると考えられたからだ。すなわちそこで問題となっていたのは、上述の Turiel の分類で言えば、慣習的な倫理の遵守であった。他方では当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るという倫理的な問題が後を絶たなかったが、フロイトはそれを厳格に戒めることはなかった。
やがて米国では1960、70年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果に関する研究への失望や、境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の臨床場面で治療者がいかに支持的に、ないしは柔軟に接するかに臨床家の関心が移行したからである。さらにはフロイト自身は実際には自らが唱えた基本原則からかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もそのような変化の追い風になった。
他方では「オショロフ VS チェスとナットロッジ」の訴訟(薬物療法を行わずに精神分析を行ったことで回復が遅れたことについて患者本人が起こした訴訟)を通じて、精神分析はそれを開始する前に、インフォームドコンセント、すなわちその方針や利点やそれによる問題点などを明確に示して了解を取る必要が生じたのである。筆者はそのような流れが、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」へと変遷しているものとしてとして論じた。たとえば「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(Greenson, 2019)というような分析療法を進める上での教えがその例であろう。
米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)はそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」と書いてはいない。むしろ以下の倫理項目(抜粋)はそれを逆行しているとの印象すら受ける。
●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。
●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んで分析家の治療のあり方を具体的に規定するわけではなく、むしろ分析家は治療原則をむしろ柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「匿名性や中立性などは、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。 ただし禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。
ちなみに精神療法における倫理を考える上で、米国心理学会の動きのまた注目すべきである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代には 倫理原則 ethics code を作成する動きが生じていた。これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。
最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則の「導入と応用範囲」には、 (1)専門家としての判断を許容する。(2) 起きうるべき不正、不平等を制限する(3)広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒するとある。すなわちここでも大きな流れとしては、細かな技法にとらわれず、より道徳的な倫理を重視するという考えである。


岡野憲一郎(2016)心象場面での自己開示と倫理:関係精神分析の展開 岩崎学術出版社 

2017年10月23日月曜日

倫理 推敲2 ①

精神療法における倫理

精神療法における倫理の問題は極めて重要である。それは臨床家としての私達の隅々にまで関係してくる。まず簡単な事例を挙げておきたい。

ある夏の暑い日、汗だくになった30歳代のクライエントが、心理療法のセッションに訪れた。彼は近くのコンビニで買った二本のミネラルウォーターを袋から取り出して、一本をセラピストに渡そうとした。「今日とても暑かったので近くで買ってきました。先生もどうぞ。」それに対するセラピストは、少しこわばった顔で、「クライエントさんからは何もいただけないのです。それに・・・・」と、少し言いにくそうに付け加える。「面談室での飲食は禁止されているのです。」

このようなカウンセラーの反応は特に駆け出しのカウンセラーにはありがちな対応であろう。そこで問うてみる。このカウンセラーの行動は倫理的だったのだろうか? 
もちろんこの問いに正解などないし、このセラピストの行動の是非を論じることが目的でもない。ここで指摘しておきたいのは、このセラピストの行動に関連した倫理性を問う際には、大きく分けて二つの考え方があり、その一方を私たちは忘れがちだということである。それを以下に示す。

  クライエントの気持ちを汲み、それに寄り添う行動だったか?
   「治療者としてすべきこと(してはならないこと)」という原則に従った行動だったか?

私が長年のスーパービジョン体験から感じるのは、このうち②に関連した懸念がセラピストの意識レベルでの関心のかなりの部分を占めているということである。「セラピストとして正しくふるまっているのか」という懸念は、おそらく訓練途上にあるセラピストの頭の中には常にあろう。彼らはスーパーバイザーに治療の内容を報告しなくてはならないかもしれない。彼らには「それは治療者としてすべきではありません」と言われることへの恐れがある。そしてそれは多くの場合、①を検討する機会を奪うことにつながる。またもしクライエントが自分の気持ちを汲んでもらえなかったとしても、それを直接治療者に訴えかけることはあまり起きないかもしれない。その結果としてクライエントは気持ちを無視され、いたたまれない気持ちになってしまう可能性がある。
ところでこのような問題を考える際に、倫理に関するある理論が助けとなる可能性があるが、そのことは臨床家の念頭にはないことが多い。それは1970年代より提唱されている、道徳的倫理か、慣習的倫理か、という分類である。その提唱者の代表である Elliott Turiel は、道徳的な決まりmoral rulesと慣習的な決まりconventional rulesとの区別を挙げ、次のように説明する(Kelly, et al, 2007) 。「前者はより普遍的で、それが守られない場合には具体的な被害者が出るが、後者は地域や文化に依存し、守られなくても具体的な被害者は出ない。」
 この分類は前出の①,②におおむね相当すると言えるだろう。そして臨床家が①、②のどちらを優先させるかで、その振る舞いはまったく異なったものとなる可能性がある。もちろんこれら①、②の間に優劣の関係はない。これらは倫理の異なる側面であり、どちらが優先されるべきかは状況に依存する。②を犯すことは、たとえば治療者として守るべき治療構造を揺るがすことになるだろう。しかし①を犯した場合には、目の前の患者が具体的な被害者となりうるために、臨床において重大な結果を生むことになるだろう。臨床家として常にこの二種類の倫理の存在を念頭に置くことはその治療関係を維持するうえでも極めて重要となるのだ。そしてその上で言えば、現在の心理療法の世界では、従来の慣習的な決まりを重んじる立場から、道徳的な決まりを重要視するという方向性が見られるのだ。

Turiel, E. 1979: Distinct conceptual and developmental domains: social convention and morality. In Howe, H. and Keasey, C. (eds), Nebraska Symposium on Motivation, 1977: Social Cognitive Development. Lincoln: University of Nebraska Press.
Kelly, D., Stich, S., et al (2007) Harm, Affect, and the Moral/Conventional Distinction. Mind & Language, Vol. 22 No. 2 April 2007, pp. 117131.



この慣習的論理から道徳的な論理への移行は、特に精神分析的な文脈において顕著にみられることを以下に示したい。

2017年10月22日日曜日

精神分析をいかに学んだか 5

私が脱学習の結果としていたったのは、
1     精神分析を一つの出会いとしてみることだと思います。というか精神療法はそれが出会いとなることで治療的なインパクトが与えられることになります。
私はよく駆け出しの治療者がスーパービジョンで多くのことを学んだという話を聞くたびに、本当だろうか、と思います。もちろん右も左もわからないときにスーパーバイザーに言われることはみな正しいように聞こえるものです。しかしそのうち必ず、バイザーの言うことに、「これはおかしいのではないか?」と思うことも出てきます。ある意味ではそこからが本当のスーパービジョンというところがあります。そして後は異なる考え方をする人同士のバトルになるわけです。そこでスーパーバイジーは本気でバイザーと対決するべきだと思います。よく分析で被分析者と分析家の間のケンカという話が出ます。でも分析家に理解されなかったからといって被分析者は怒り出す必要はないわけです。ところがスーパービジョンは、ケースという第3者、として最も重要な受益者の運命がかかっていることもあり、よりいっそうの真剣勝負というところがあります。
それにバイザーの言うことには理屈に合わないこともいくらでもあります。よくスーパービジョンで問題になるのが、「何であなたはそういう時しっかり解釈しなかったのか?」というような駄目だしです。しかし治療中にはバイザーには見えないいろいろなことがおきているものです。第3者の立場での視野と実際に治療を行っている治療者(バイジー)の立場には大きな違いがあります。そのことを考慮せずにあれこれ駄目出しされたときの治療者のふがいなさも相当なものだと思います。バイジーはプライドをかけて、自分の立場を主張すべきです。
もちろん「これからもお世話になるバイザーとケンカすることなんてありえません」という立場はよくわかります。しかし通常SVにはお金が発生します。一時間8000円払って意味のないアドバイスを与えられ続けることは時間とお金の無駄です。それを自分に許す人は、健全な自己愛を持ち合わせているとは言えません。
とはいえ、現実には多くのバイジーは、合わないバイザーからは喧嘩をする代わりに静かに離れる事を選択します。時間の都合がつかなかったから、ケースが終わってしまったから、などさまざまな理由をつけるでしょう。しかし大概は自分と合わないバイザーと継続することに意味を見出せないからです。そしてその場合に「先生とは考えが違うのでもう終わりにします」と正直に言うバイジーなどほとんど聞いたことがありません。
私はこれも喧嘩とみなしていいのではないかと思います。自分と合わないバイザーとのSVはさっさと終わらせる。そのときバイザーの気分を害してまでそれを終わらせる必要はないかもしれません。大概はバイザーは一家言を持っていて自分の考え方を容易には変えません。ただある程度こちらの考えを伝えて、どこまで互いに分かり合えるかを探索する必要はあります。少しのバトルは必要で、そのプロセスでバイザーがどの程度聞く耳を持ち、柔軟な姿勢を示すかを見ます。その上で荒っぽい喧嘩をしても何も得ることがないと理解したならば、それを回避するのも大人の判断かもしれません。しかしそれでも何らかの言葉を残しておく必要はあります。それはクライエントとの関係を考えればわかります。クライエントの言葉の中を聞いて、どうしても自分が一言口を挟みたい場合、反論したい場合、それをしない治療者は自分の職務を果たしていることにはならないでしょう。その意味での対決を避ける治療者の態度は決して望ましいとは言えません。


2017年10月21日土曜日

精神療法と倫理 推敲 ⑤

「倫理的転回」の動き
精神分析における技法の問題に、従来とは異なる視点が与えられることになったことは、精神分析における新しい動きにも反映されている。富樫は関係精神分析の流れにおけるいわゆる「倫理的転回 ethical turn」という概念を紹介する。倫理的転回とは、いわゆる「関係論的転回 relational turn」という概念と対になる形で提唱されたものだ。関係論的転回においては、従来の精神分析的な理論が前提としていたような心の明確な構造体や組織がもはや存在せず、心を扱う絵での共通した理論やそれに基づく治療技法が存在しないという理解に基づく、新しい心の理解であった。しかしそれに基づき治療者が具体的にどのように行動すべきかという指針は与えられていなかった。そして倫理的転回は、「精神分析の行動規範や価値観の展開として言い表すことが出来るという。
勿論この倫理的転回が直ちに治療者にいかに振る舞うかという指針を提供するわけではない。しかしこれは確かにある種の視点の「転換」を意味するのであり、それは先に見た規範的な倫理から道徳的な倫理への視点の転換とほぼ重ね合わすことが出来るであろう。
このことは幾つかの倫理綱領が異口同音に示している項目、すなわち理論に左右され過ぎてはならないという項目とも一致するのである。
(富樫公一 (2016) 精神分析の倫理的転回 -間主観性理論の発展 臨床場面での自己開示と倫理 関係精神分析の展開 岩崎学術出版社)
  
身近に出会う倫理性の問題の例

その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、三つ挙げておこう。
1 インフォームドコンセント
一つ目はいわゆるインフォームド・コンセンの問題である。治療者の側の倫理としてまず関わってくるのが、昨今議論になる事の多いインフォームド・コンセントであり、それと密接な関係にある心理教育の問題である。インフォームド・コンセントが何を意味するかはすでによく知られている。患者に治療の選択肢としてどのようなものがあるのか、それぞれについてどのような効果が期待され、それに伴うリスクはどのようなものか、などを説明した上で、特に勧める治療に合意してもらうプロセスである。そしてその前提となるのが、患者の病気や障害についての見立てを行い、その情報を開示し、必要に応じて心理教育を行なうことだ。これらのことをきちんと行なうためには、かなりの時間と精神的なエネルギーを要するし、そのための治療者側の勉強も必要となる。
 しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。

2 症例発表の承諾

もう一つの例が、症例発表の承諾に関する問題である。学会や症例検討会などで症例の報告及び検討は欠かせないものであるが、実はその際に得るべき承諾の問題は、決して単純ではない。症例報告にはことごとく患者の承諾が必要なのか、それとも個人情報を十分な程度に変更したり一般化した場合には、承諾の必要はなくなるのか? これは決して単純に答えを出すことができない実に錯綜した問題である。その根底にある一つの大きな問題は、はたして承諾するか否かを尋ねられた患者の側に、どの程度それを断るという選択肢が自由に与えられているかという問題だ。これについてはギャバードが以下のように述べている。

10(「スーパービジヨンの使用」)に記したように, このアプローチの主要な欠点には,治療を行なう二者のプライバシーが侵害されるということやそのような環境では機密性が犯されていると患者が感じてしまう危険があるということがある。そのような状況で行なわれるインフォームド・コンセントが本当に自由意志によるものであるのかどうかには疑問符が付く。なぜなら,転移が強力すぎて嫌とはいえないのかもしれないからである。(長期力動的精神療法p228

このことはおそらく治療が終わった際の承諾にもある程度言えることであろう。さりとて症例提示を失くすことは、分析家としてのトレーニングや学術交流のためにありえないことを考えると、この問題については私たちが語るまいとする力が一番強いのかもしれない。
 3.境界侵犯

 境界侵犯の問題は、精神分析が始まって以来の懸案であった。フロイトの多くの弟子が患者との親密な関係に入り、フロイト自身がそれを戒める必要を頻繁に感じていた。分析家たちは治療構造や境界の意識が低く、また逆転移への理解が十分でなく、フロイトの直接の弟子であるユングもフェレンチもジョーンズも患者との性的な関係を持ち、フロイトがそれをたしなめる必要があった。しかしその後は逆転移に関する理解が進むとともに、あらゆるセラピストが境界侵犯に陥る危険を伴うものとして、比較的オープンに語られるようになってその意味では、境界侵犯の問題は先に示したインフォームドコンセントや個人情報の問題とは異なり、倫理の問題とは別に治療関係における力動を理解する手段としても用いられ、倫理の問題がいかにして生じ、どのように防ぐことが出来るかに対する答えを提供する可能性がある。
境界侵犯は現実的な問題でもある。ある米国での報告では、調査の段階で10パーセント以上の治療者が自ら境界の侵犯を犯したことを認めている。この問題について Gabbard の示す視点が興味深い。彼は境界侵犯を特に上級の分析家が犯した際の、組織ぐるみの抵抗 institutional resistance が生じることを観察している(Gabbard, 1995, 2001)。彼はまた境界侵犯を犯した治療者の心理テストから、彼らが必ずしも自己愛的で反社会的な所見を示すわけではなく、むしろ寂しさや対人関係上の飢えを表していたという。

2017年10月20日金曜日

日本における対人ストレス 推敲 ④

相手の気持ちを読む感覚器官としての「皮膚」


ところで日本社会には西洋にあまり存在しない表現がある。それは「空気を読む」という表現である。辞書的には、read the situationtake a hint などと訳されることもあるが、いまひとつピンとこない。それは集団において、非言語的な想定や要求が生じていることを察知してそれに応じることである。たとえばある会合などでみなが疲れてお開きにしたいものの、ホスト役がそれを言い出せないという状況を考えよう。ホストがその場の「空気を読んで」まだ自分は名残惜しくても積極的にお開きを提案することを期待されるであろう。もちろん西欧社会でもおきることではあろうが、日本においては非常に重要となる。食事を終えた際に誰がお金を払うか、という場合などでも的確にこれを読まないと、人の気持ちがわからないということになる。このような感覚はもちろん、相手の欲していることを読む場合の感覚と非常に近いことになる。すると、それを読むための一種の器官を想定してもいいであろう。
 日本の精神分析家の鑪 (タタラ)幹八郎は「皮膚自我」という概念でこれに近いことを言い表している。彼の理論に「アモルファス自我論」というものがある。そしてそこにこの皮膚自我と言う概念が出てくるのだ。彼はこれをアンジューとは別に(というか彼の「モワポー」理論は知らずに)提唱している。要するに日本人においては、社交的な文脈での皮膚が自我の重要な役割を占めるという理論だ。「顔色を伺う」という表現を見れば分かるだろう。相手の表情を見ながらこちらの表情を決める。相手の振る舞いから内側の心を察する。この理論をそのままウィニコットの偽りの自己、本当の自己の概念と組み合わせてもいいだろう。言うならば、日本人にとっては、偽りの自己に主たる重きが置かれ、本当の自己こそが形骸化していたり、空虚だったりする・・・・・。待てよ、そんなことを言ったら、日本人は精神病水準ということになってしまわないか?否、そんなことはないだろう。ただしこの皮膚自我の概念は、それを通して、true self, false self という概念はいったいなんだったんだ、ということを考えさせられるようなものでもあるのだ。
 ちなみにこの文脈で、もう一人の分析家が提唱した皮膚自我という概念についても触れておかなくてはならない。Didier Anzieu ”le Moi-Peau”(皮膚自我)という概念である。この皮膚自我の概念は、鑪のそれとはかなり異なる。生物の由来として、神経と皮膚が伴に外胚様系と言う共通の起源を持ち、感覚のオリジンは皮膚感覚であり、・・・というような難しい話から入り、フロイトの概念との様々な交錯について語り、ギリシャ神話に遡り・・・つまり思弁的なフランス人に特徴的なムズかしい本なのだ。日本の皮膚自我がかなり対人関係論的な文脈で論じられたこととの比較で興味深い。


2017年10月19日木曜日

公認心理師に向けて ②

 そこで分析学会として望むことは何か。それは力動的な考えを身に着けてもらうということか。でも力動的、ということを誤って捉えられると、これまたややっこしいことになる。力動的、ということと心因論的、ということは驚くべきである。
 例えばある架空の事例について考えてみる。ある来談者が長年のモラトリアム生活を続けていることを報告したとしよう。彼は長年親密な関係をもてないでいる。彼には慢性的な自殺念慮があるとしよう。力動的な捉え方にはさまざまなものがあるが、例えば彼は強い親密さと親密さに対する深刻な恐れが存在し、また彼の自殺願望は自らに向かった攻撃性であり、それは本来は自分をないがしろにした両親に向けられたものだという理解もありうる。力動的な考え方は、患者の表層にある訴えの向こう側を見るべきだという風に捉えられうる。
 もう一つ分かりやすい例。ある男性患者が女性のパートナーを見つけて親密になる。その背後には、治療者との関係が終了になることが分かっている。治療者はその女性とのかかわりを、治療の終結に対する患者のアクティングアウトとみる。これもまたきわめて力動的である。これなどもクローズドシステム的な考え。そう、力動的な考えは同時にクローズドシステムの考えなのだ。
 私はそれに100パーセント賛同を評した上でこう言いたい。実はそのような力動的な理解は、精神分析の諸学者が飛びつくものであると。私が日常的に接触する心理士の多くは精神分析と無関係であるが、「裏を読む」傾向は顕在である。というよりプロのカウンセラーになることは、そのような裏読みは定番になっているという印象を受ける。そしてそれらのある部分は非常に穿っていて、あるものは判断の下しようがないものなのである。私は精神分析の内側の人間だから、この辺の議論に対してはマイルドであるが、行動療法や認知療法の立場からは、もっと舌鋒するどく力動的な考えについて異を唱えるであろう。アーロン・ベックは現代の心理療法においては、患者の中の見えない何かが原因となり問題が生じ、それを見るためには治療者の力が必要である、という想定が存在するという。そしてそこに訓練を受けた専門的な治療者の存在が必要になるというわけである。

2017年10月18日水曜日

公認心理師に向けて ①

公認心理師のカリキュラムで医療保健分野の実習を必須としていることからも、公認心理師は精神医学の立場からも様々な思惑があることは明らかであろう。精神科医からの要望については、精神神経学会からの意見書に詳しい。20163月に、「公認心理師法カリキュラム作成に際しての要望書」が提出されているが、具体的な7つの項目のうち、「精神医学をしっかりトレーニングせよ」という主張は一か所しかない。ウーン、この発表、どの方向に持っていこうかな。分析の立場から、医師の立場から、という二つの方向性がある。
私は次のようなイメージを持っている。あくまでも症候学的な知識を身に着けること。私はこのことをいろいろなところで言っているのであるが、心理士は、精神分析家は、診断について臆病になってはいけないと思う。どんどん診断を付けるべき。しかしそれは結局は仮説であり、ラベリングでしかないことを同時に認識することが大事だということである。
考えてみれば精神分析家だってラベリング焼き目付を常に行っていることを自覚するべきだ。フロイトは症状に対して抑圧された同性愛願望とか、夢の内容について性的なファンタジーの象徴化されたものとかの言い方をした。現在の分析家だって、これは患者の気持ちの投影同一化だとかいうのだ。

まあそんな極端なことは言わないで。私は日本では物事をあまりにぼかし過ぎると思う。その結果として得るところも失うところも多い。しかし心理士が精神医学的な知識を身に着け、脳のプロセスを考慮に入れることの益は大きい。しかし問題は、これがどうして分析学会のテーマになるか、ということだ。

2017年10月17日火曜日

精神分析をいかに学んだか 4

あるいはクライン理論。メラニー・クラインの中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。
以上の二つは思い付きで、最近どこかで行った自己愛の講演の影響がまだ頭になるから出てきた言葉です。もっといい論じ方があるかもしれません。 
さて、何を脱学習するか?
ここで私は二つの点についてお話します。
一つはやはり理論にとらわれないということです。このことについて、精神分析の世界で起きていることを一つお伝えします。それは従来の理論にとらわれない、ということが倫理的な姿勢として唱えられているということです。これは皆さんもにわかには信じがたいでしょうね。フロイトの時代には治療原則を守るということが正しい道だったのですが、今やさまざまな理論を考えに入れよ、ということが言われているようです。これはもう少しはっきり言うならば「フロイトの言ったことにこだわるな?少なくともそれにより臨床を犠牲にしてはならない」ということです。この経緯についてはいろいろ論じていますが、ここでももう一度紹介しましょう。
 フロイトは精神分析の治療技法としてまとめたものとしては、に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多い。またそれ以降の精神分析的な理論の発展の中で、転移解釈の重要性が唱えられた。精神分析の草創期には、これらの原則や技法が順守されることと治療者が倫理的であることに区別はなかったといえる。なぜなら正しい技法を用いることが患者の治癒につながると考えられたからだ。しかし当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密な関係に陥るケースは後を絶たなかったが、フロイトはそれを厳格に戒めることはなかった。
やがて米国では196070年代を経て、そのような倫理観に変化が生まれた。精神分析の効果判定に対する失望や境界パーソナリティ障害の治療の困難さを通して、分析的な技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の精神分析の臨床場面でそれをどのように柔軟に運用するのかというテーマへ臨床家の関心が移行したからである。フロイト自身は実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もその追い風になった。またオショロフVSチェスとナットロッジの裁判を通じて、精神分析がその方針や利点、そしてそれによる負荷 burdern を明確に示す必要が生じたのである。岡野はそのような流れを、分析的な「基本原則」から臨床上の「経験則」への変遷として論じた。たとえば「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(グリーンソン)というような分析療法を進める上での教えがその例であろう。
米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)はそのような流れを反映したものと言える。そこには「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」と書いてはいない。むしろ
●自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。
●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない
などの項目が見られるのである。これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。むしろ分析家は治療原則をむしろ柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。
ここで述べていることは、比較的消極的である。ここからは私自身の脱学習の成果を述べたいと思います。


2017年10月16日月曜日

精神療法と倫理 推敲 ④

米国心理学会の動向

精神療法における倫理を考える上で一つの参考になるのが、米国心理学会の動きである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代にはethics code 倫理原則を作成する動きが生じていた。
これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。
最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則のIntroduction and Applicability には、 (1) allow professional judgment on the part of psychologists,専門家としての判断を許容する。(2) eliminate injustice or inequality that would occur without the modifier, 起きうるべき不正、不平等を制限する(3) ensure applicability across the broad range of activities conducted by psychologists, or 広く応用可能なものとする。(4) すぐに時代遅れになってしまうような頑なな規則に警戒する guard against a set of rigid rules that might be quickly outdatedとある。
  
関係性精神分析における技法と倫理性
以上の議論を踏まえたうえで、現代的な精神分析理論、特に関係精神分析における技法論について論じてみよう。
 精神分析はこの半世紀の間に実に様々な技法論を生み、多種多様な理論的立場が提唱されている。このことは、技法論の一元的なテキストを編むことをますます難しくしているといっていいだろう。また立場によっては技法の持つ意義に対する根本的な疑問すら唱えられている。たとえばいわゆる間主観性理論の立場や関係精神分析においては、技法を越えた治療者と患者の関係性の持つ治療的な意義に重点が置かれる傾向にある。そのような空気の中で、精神分析的な技法論という大上段に構えた著作は影を潜め、精神分析的なかかわりの持つ技法以外の側面が強調されるようになったのである。
  現在の精神分析においては、一般に分析状況における技法を超えた治療者と患者のかかわりや出会いの重要性がますます強調されるようになってきている。ボストングループではそれを、暗黙の関係性の了解 implicit relational knowing, 出会いのモーメントmoment of meeting などと称している( 14 )Renik (13) によれば、治療関係はいつも、目隠しをして飛行をしているようなもので、何が有益だったかは、あとになってわかるようなものであるとする。
 これらの議論は精神分析が技法を学ぶことによりマスターされるといった見方から、より臨床経験を積み、また自らの教育分析の経験を役立てることの意義が問われるといってよいであろう。それは先ほどの分類で言えば「基本原則」からのますますの乖離であり、またそれぞれの立場からの経験値の蓄積、すなわち「経験則」の積み重ねということも出来る。
倫理性の問題は、関係精神分析における関係論そのものの基本概念ともつながる。関係精神分析の立場にあるHoffman, I 7)によれば、技法について論じることは、治療における弁証法的な両面の一方に目を注ぐことにすぎないことになる。彼によれば精神分析家の活動には、「技法的な熟練」という儀式的な側面と、「特殊な種類の愛情や肯定」という自発的な側面との弁証法が成立しているという。この理論に従えば、技法は、分析家の行う患者とのかかわりの一部を占めるに過ぎないことになる。
 彼の主張によれば、分析家が技法を用いることに伴う権威主義は、もう一つの側面、すなわち分析家もまた患者と同じく死すべき運命にあり、患者と同じ人間である、というもう一つの側面を併せ持つことにより意味があるという。その意味で、分析家のかかわりは、結局は患者が幼少時に持つ事が出来なかった母親との関係の代用に過ぎないという側面を持つことになる。彼の文章を引用しよう。

しかし私たちは分析家が限られた予定時間内の料金による関係の中で、早期の情緒的な剥奪を補ってくれることをどの程度期待出来るのであろうか? それは実際に、現実の世界における誰かとの良好で親密な関係の、まさに不出来な代用でしかないようであり、ましてや神との信頼すべき関係のようなものではないのは言うまでもない。そして確かに精神分析には、支払う側の方が支払われる側よりも援助を必要としかつ傷つきやすいという側面があり、それは最適とは言えず、有害で搾取的でさえあるという言い表し方も無理からぬ側面がある(中略)。しかしその不満で頭がいっぱいになっている患者は、おそらく分析の外で親密な関係を築く上でも同様の不満を持つことで、ハンディキャップを負っているであろう。結局それらの親密な関係も、両親像との早期の理想的な結びつきの空想にはかなわない限り、不出来な代用として経験されるであろう。こうして分析的な関係の持つ目を覆うべき限界にもかかわらず、その価値を評価して高めていく方法を見つけられる患者は、他の関係性についても、それを受け入れて最大限に活用したりするためのモデルを作り出していくであろう。(ホフマン「儀式と自発性」第一章)

つまり精神分析における治療者患者関係は、それ自体が、分析家の権威主義に抗する形での平等主義を内在化したものとして説明される。分析家の態度が権威により引っ張られる傾向にある分だけ、分析家自身の持つ倫理性はより大きな意味を持つということになる。ただしこのことは、分析家の技法を用いる態度を否定するものではない。分析家という専門技能を有し、それを用いることに伴う権威は、むしろ分析家の人間としての側面が治療的な意味を持つためには必要な要素と言えるだろう。



2017年10月15日日曜日

日本における対人ストレス 推敲 ③

 ここで思い出されるのは、土居健郎の甘え理論の発端となった彼の異国体験の例である。「甘えの構造」(1971)の冒頭部分で、彼は次のようなエピソードを紹介している。彼は米国である家に招かれた際、「あなたは空腹ですか? アイスクリームがありますが」と問われた。彼は実際は空腹だったが、遠慮して「空いていない」、と答えた。そしてもう一度勧めてもらうのを期待したのだ。しかし相手は「あ、そう」と言ったきり、なんの愛想もなかったという。土居はこの時、アメリカ人にこちらの気持ちを汲んでほしかったのだ。当然日本での人間関係ではそうするのであるが、そのやり取りが米国では生じない。このことが彼を甘えの考察へと導いた。土居はこのくだりを描いた際に細かい分析をしていないが、私がもしするとしたら、先ほどの「海外に出ることで解放感を味わった人々」と裏表の現象として理解する。相手が何を欲しているかの読みあいは、時には喜びを生み、時にはストレスを生むのである。そのストレスとなる場合の方を考えよう。
相手が痛みを感じているとする。米国人も日本人も、相手の痛みを感じ取るところまでは同じだ。しかしそこから違うのが、相手がそれをどのように望んでいるかを米国では読んでもらうことを期待しないのに、日本においては、それを期待され、それに応えるようにして「読む」ことになる。しかしこれは出口のない展開を見せてしまう場合が少なくない。「相手が読んでいるかを読む。」「相手が読んでいるかを読んでいるかを読んでもらう。」・・・・・。日本におけるコミュニケーションのパターンはこれなのだ。そしてこれは甘える、甘えられるという関係に似ている。「相手にこちらの気持ちを分かってもらうことを期待する。」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかる」「わかって欲しいと期待している気持ちをわかってもらうことを期待する」…。これは無間地獄である(大げさだ)。
贈り物だって似ているぞ。「つまらないものですが」ってどうなんだろう?「あなたは欲しいでしょう?だから持ってきました。でも捨ててもいいんですよ。どうせつまらないものですから。」 相手が贈り物を迷惑がって捨てたい場合を想像して気遣っている。「あなたはピアノが習いたいんでしょう?だから申し込んであげた。」 というのも全く同じ、という気がする。少し脱線してきたな、。でも相手にこちらの欲していることを読んでもらうのは心地よい。でもそれは私が何を欲しいかを押し付けられることでもある。おもてなしは攻撃的でもある。

甘えと相互の心の読みあい mutual mind reading


ここで甘えの問題を少し論じることにしよう。その目的は、上に示したような相互の心の読みあいは、甘えの根本に根差しているということを示すためである。すでによく知られているように、土居は「甘えの構造」の中で、甘えが特殊な形での依存であり、西洋の言語にはそれに相当するものがないこと、それは甘える側が受身的な姿勢を保ちながら相手をコントロールするという事実について論じた。そこで大事なのは、子供が甘えるとき、親も実は身代わり的に甘えを体験しているということである。甘えは相手からの愛を引き出すが、そこには相手の側の甘えニーズに訴えかけるからだ。土居はこれをフェレンチやバリントが述べた「受身的対象愛 passive object love」に近いものとして論じたのである。この受身的対象愛は、愛されたいという欲求を他者に示すことであり、そこに愛するという能動的な対象愛との違いが強調されているのだ。そしてフェレンチやバリントがこれを自らの文化における母子関係を想定しながら論じていたことからもわかるとおり、甘えに基づく関係性は、実は万国共通なものであるはずだ。そしてそれは少し考えれば当然なことである。赤ん坊は自らの欲求を伝えられない。最初はその存在すら了解していないだろう。赤ん坊が空腹で泣くとき、母親は赤ん坊がおっぱいを欲しがっているのだと想像して赤ん坊に差し出す。満腹になった赤ん坊が母親に微笑みかけるとき、母親は微笑みかけてほしい、愛されたいという子供の願望を想像する。それもまた母親の側の mind reading であるとするならば、それが存在しない母子関係はいかに寂しいものだろう。
同様の母親の機能は、ウィニコットの論じた、母親の幻想を維持する機能にも描かれている。子供は空腹なときにおっぱいを幻覚として体験する。するとそこに実際に差し出されたおっぱいは、子供にとっては自分が想像したものであるという錯覚 illusion が生まれるとウィニコットは説明する。そしてその場合に不可欠なのが、母親が子供に向ける mind reading なのである。これは土居が論じた甘えの関係と考えていい。ウィニコットが土居の甘え理論を知ったなら、わが意を得たりと思ったに違いない。
  すると最大の疑問がここに生じる。日本社会に見られるような甘えを基盤にした人間関係は、なぜ西欧では社会的な関係としては存在しにくいのだろうか? しかし本稿ではこの問題を扱うことを目的としていない。むしろ甘えの関係が生むストレスについてさらに考えることにする。

2017年10月14日土曜日

脳と心を分けたがる人たち 推敲

●脳と心を分けたがる自分に、「快、不快」を問いなおす

「快の錬金術」という本を上梓した。すると同僚から「また脳の本ですね?」と言われてしまう。「それにしても、人はどうして脳と心をこんなに分けたがるのだろう?」と私は思ってしまう。
 先日あるところで「脳科学と心理療法」という講演を行った。そこでは最近の脳科学的な知見が無意識の概念にどのような影響を与えるか、などについて話した。すると後の情報交換会で、参加者の中からこのような声を聞いた。「精神分析の話しか聞いたことのなかった先生がいきなり脳の話をしたのでびっくりしました。」これを聞いて「えっ?」と私は思う。しかし同時に「なるほど」とも思う。心の問題(たとえば精神分析)を語る人間が、同時に脳を語ることにはこれほどの違和感が伴いかねないのだ。あたかも心を語る人と脳を語る人が別々の考え方を持つ人々であるかのような印象を与えるらしい。しかしなぜだろう? 人はどうしてそこまで脳と心をわけるのだろう? しかしそういう私もやはり同じ過ちを犯していることが最近判明した。その私自身の例を示そう。
3年ほど前に死生観についての講演を行ったとき、私は森田正馬の最後の様子について読む機会があり、興味を持った。森田正馬といえば、かの森田療法を創出した人だが、その今際の時の様子について次のように伝えられている(原典は省略する)。
「森田正馬は,死をひかえた自分自身の赤裸々な姿を,生身の教材として患者や弟子たちに見せることによって,今日言うところのデス・エジュケーションをおこなった人である。彼は1938年に肺結核で世を去ったが,死期が近づくと,死の恐怖に苛まれ「死にたくない,死にたくない」と言ってさめざめと泣いた。そして病床に付き添った弟子たちに「死ぬのはこわい。だから私はこわがったり,泣いたりしながら死んでいく。名僧のようには死なない」と言った。いまわの際には弟子たちに「凡人の死をよく見ておきなさい」と言って「心細い」と泣きながら逝ったと伝えられている。
 これが本当に彼の最後の姿だろうか? 森田がその人生をかけて取り組んだ死生学は、実際の死の恐怖を前にして何の意味を持たなかったのだろうか? そうだとしたら森田のそれはまがい物だったのだろうか、とまで思ったものである。「死ぬ瞬間」などの著作で有名な、エリザベス・キュブラーロスでさえ、死ぬ直前には決して穏やかではなかったと伝えられる。先人が到達したはずの諦念や死生観とは、所詮そんなものか、と思っていたのである。
この問題を考え直すヒントになったのは、先日見たNHKのドキュメンタリーである。平成29918日に放映されたNHKドキュメンタリー「ありのままの最期 末期がんの“看取り医師” 死までの450日」は、末期の膵臓がんで余命わずかと宣告された田中雅博氏(当時69)のドキュメンタリーである。彼は医師として、そして僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取りのスペシャリスト」だ。これまで千人以上を看取った田中さん自身の「究極の理想の死」までの道のりを記録しよういうのが番組スタッフの意図であり、もちろん田中医師も快諾した。しかし実際の死が近づくと、それまで落ち着きを保ち、自分の死に泰然自若としていた田中氏から余裕の表情が消え、何かにおびえたようになる。自分の立ち上げた懇談会に最後まで出るといっていた彼が、直前になって「帰る」と言い出し、介護をする奥方に「眠らせてくれー」と駄々をこねるように繰り返す。穏やかで眠るような死を迎えることを誰もが予想していた田中氏の死は、それとは随分異なる姿となった。私は「彼もまたそうだったのか・・・」そう思いかけたときである。しかし常に夫に付き添って看病をしていた、医師でもあり見取りのスペシャリストでもある奥方の言葉が、私には決定的な意味を持っていた。
「もう譫妄が始まっている・・・」。
これで私の考えはひっくりかえってしまった。そうか、それを忘れていた。私も脳と心を分けていたのだ。
譫妄とは、人が代謝異常などにより脳の正常な機能を損なわれた結果生じる、妄想や幻覚、不安や恐怖を伴う意識障害のことである。つまり田中氏の脳は明らかに通常の機能を失い、精密機械の歯車が逆回転しだしたような、激しい症状を呈することがある。それが田中医師にそれまでとは人が代わったような様子を呈していたのである。
私は頭ではよくわかっているつもりである。人間の脳はある意味で作品なのだ。多くの経験を積み、知識を蓄え、磨き上げられた、いわば花瓶のような芸術品なのである。見事にくみ上げられたコンピューターのプログラムにたとえてもいい。そしてふとしたことからヒビが入ったり、バグが生じて著しく損なわれ、無に帰してしまったとしても何の不思議もない。森田正馬も田中医師も、その脳は、そして心は死の直前には以前の姿を留めていなかったのだ。それなのに私は、「彼らは本物ではなかったのか?」などと考えていた。愚かしい話だ。やはりどこかに私は心は物質を超えた崇高なものと思い込んでいたらしい。
「心とは魂であり、それは物質を超越したものである。」すごく納得がいくような表現だ。でも物質を超越したはずの心は、少しでも血流が途絶えたり、アンモニアが増加したり、あるいはそのほんの一部を切除しただけでまったく別の姿を現したりする。物質を超越した心を考えることはどう考えても無理なのである。それなのになぜ私たちは心を脳から分けておきたいのか?
私は一応この問いについては次の様に理由付けしている。人は死が怖い。死を自分で体験することは決して出来ない。(いわゆる「臨死体験」はアヤしいと考えている)。そして死は未知であるからこそ不安を掻き立てるものである。心が物質を基盤とする以上のものでなければ、意識を支える物質的基盤である脳が滅ぶことで、心の消失は確定してしまう。それではどうしても困るのだ。それにどう考えても、私にとって両親は、小此木先生は記憶の中で生きていて話しかけてくれるのだ。そしてそれを外に投影してしまう。彼らが生きているのではなく、私が生きているだけなのに。結局「脳と心は別物である」、と考えるよりは、「脳と心は別物であるということを忘れがちなのは人間の性(さが)だ」と考える方が無難かもしれない。
「快の錬金術」を書いている最中に、私はこの心と脳の問題を常に考え続けていたといっていい。それは脳と心をつなげては切り離す、そしてつなげる、という作業でもあった。快、不快は心と脳を直結させる体験なのだ。私たちの味わう心地よさや苦痛は、心の存在をもっとも直接的に反映しているものと考えていいだろう。私たち、と言ったが実は人間よりはるかに下等な生物全体にいえることだ。その中枢神経に見られるドーパミン系のニューロンが快感には常に伴う。C.エレガンスという下等な線虫にさえ存在するドーパミン系。そこから生まれる快感に基づき、線虫も私たち人間も捕食し、生殖活動を営む。心と脳の対応関係を生む最小単位は、ドーパミン系(脳)と快(心)だと私は考える。
「われ快を味わう、ゆえに我あり」ということだろう。


2017年10月13日金曜日

精神療法と倫理 推敲 ③

精神分析における倫理の問題

精神分析の世界における倫理の問題については別の論考で考察を加えている。
そこでの骨子を述べるならば、以下のとおりである。
フロイトは精神分析の基本規則として、まず患者の側の「自由連想」および「禁欲規則」を挙げた。それらは後に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多いが、彼の時代においては倫理的であることはこれらの治療原則を守ることと同等だった。なぜなら正しい技法を用いることが患者の治癒につながると考えられたからだ。しかし当時は分析家と患者が治療的な境界を超えて親密になるケースは後を絶たなかったが、フロイトはそれを厳格に戒めることはなかった。
やがてフロイト以降の技法論にはある変化が生じた。それは精神分析の効果判定や境界パーソナリティ障害の治療などを通して、フロイトの技法を厳格に遵守するという立場よりも、実際の精神分析の臨床場面でそれをどのように柔軟に運用するのかというテーマへ臨床家の関心が移行したからである。フロイト自身は実際にはそれとはかなり外れた臨床を行っていたという報告(Lynn, 1998など)もその追い風になった。たとえば「転移の解釈は、それが抵抗となっているときに扱う」(グリーンソン)というような分析療法を進める上での経験則が論じられるようになった。この「経験則」は時には「基本原則」との齟齬すら生じる。またオショロフVSチェスとナットロッジの裁判を通じて、精神分析がその方針や利点、そしてそれによる負荷 burdern を明確に示す必要が生じたのである。そしてそれらの流れの中で米国精神分析協会による倫理綱領(Dewald, Clark, 2001)を一つ一つ読むと、それが反映されていることを感じる。倫理規定は決しては、「フロイトの基本原則を守り、正しい精神分析療法を施しなさい」ではない。むしろ●自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。●理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。●分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。●患者や治療者としての専門職を守り、難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならないなどの項目が見られるのである。これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。これらのことは分析家は治療原則をむしろ柔軟に応用する必要を示しているのだ。中立性や受身性も、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、それを治療者に当てはめたもの、すなわち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。結局上に述べた「経験則」のほうは関係性を重視してラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、といえるが、それは倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。


2017年10月12日木曜日

日本における対人ストレス 推敲 ②

外国体験により解放される日本人たち

日本という国民性がどのような形で個人にストレスを与え合っているかを知る上で非常に参考になるのが、長期の外国滞在を体験した人たちの感想である。彼らのうち何人かが伝えているのは、海外に出ることである種の緊張感から解放され、伸び伸びと過ごすことが出来たという体験である。彼らの滞在先は概ね英語圏であるが、米国、カナダ、英国、オーストラリア、フィリピンと多様である。しかしいずれも対人間の煩わしさが少ないことに多少なりとも驚いたという。ある自傷を繰り返す20代の女性は、3か月間の米国滞在の間に一度も自傷が起きなかったという。彼らは特に英語が流暢とは言えず、日常生活におけるコミュニケーションで少なからず不自由さを体験していたはずである。しかし彼らが語るのは、「外国に出ると、人がどう思っているかをいちいち考えなくてもいい。」という体験である。そしてその理由を問うていくうちに、「彼らがそもそもこちらのことを気にしていないから、こちらが彼らのことを気にしないでも良いということがわかった」とのことである。もちろん彼らは外国人として他人からの注視を浴びるだろう。しかしその注視は、「気を使っている」注視ではない。おそらく自分のパーソナルスペースを侵してこないか、という意味での注視だ。そしてそうでないとわかると、注視をやめて、自らの関心事へと戻る。彼らは、「この人は自分に何をして欲しいと望んでいるのだろうか?」という目でこちらを見ているわけではない。「もし必要ならそういってくるだろう(自分だったらそうするだろう)」ということを暗黙の前提としている。そこにあるのは、憶測や想像力を働かせず、またその必要もないという考えである。想像力はエネルギーを使うし、誤解も多い。特に多民族国家では自分が必要なものを相手に暗に伝えるという想定はない。異郷で一人ぼっちでいることは一方では心細く、こちらのニーズを読んでもらえないことはつらいであろう。しかしその関係は互いのニーズを読みあう社会society of mutual mind-reading にはないある種の開放感を与えてもくれるのである。

2017年10月11日水曜日

精神分析をいかに学んだか? 3

脱学習とは
ここで脱学習という概念に触れておかなくてはなりません。ヘレンケラーは、私は大学で沢山学んだが、そのあと沢山unlearn 学びほぐさなくてはならなかった。さてこの脱学習の難しさは何か。誰も教えてくれない。教えられたならば、その教えてくれた人をlearn するだけになってしまう。結局学びほぐす時は全くの一人なわけです。でもそれをやらないと自分になれない。その意味では最も楽しく、また最も難しいのが、この精神分析の脱学習ということだと思います。
そこで学びほぐしについて。この絶妙な表現は鶴見俊輔のものであるという。鶴見氏はこんな体験を持ったという。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだ(ラーン)が、そのあとたくさん、まなびほぐさ(アンラーン)なければならなかった」と彼女は言ったという。彼の頭には、型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたという。実は2006年12月27日(水曜日)朝日新聞(朝刊)13面「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」という記事があったらしい。実はこれをネットで手に入れたが、ヘレンケラーの話は直接は出てこなかったからこれをソースにするわけにはいかない。でもともかくもほぐす、という彼の訳語はこの毛糸のイメージから来ていると思えばわかりやすいわけだ。
学びほぐしが必要な決定的な理由
この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(そういう私も実はそうしているかもしれません。)フロイト自身の理論にもクラインの理論にも、盲点があり、防衛としての側面があるからです。こう考えると理論には必ず脱学習すべき点が隠されているといっていいでしょう。
では理論は何を隠ぺいするのでしょうか? それが一番隠蔽している可能性が高いのが、理論を唱える人自身の自己愛の問題です。もう少し詳しく見てみましょう。フロイトは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えた。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えた。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりものすごく革新的だったと言えます。でもそれと同時にフロイトがある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうと考えた、野心的で自己愛的な部分はどこに絡んでくるでしょうか? それは精神(病理)の根幹とは言えないでしょうか? しかしフロイトはそのようなあまりに人間的で世俗的なことは表立って論じる気にもならなかったのです。それは彼のプライドが許さなかったと言ってもいいでしょう。
あるいはクライン理論。メラニー・クラインの中にはかなり激しい怒りがあったことがうかがえます。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられたり、人に指摘されたりすることで誘発されます。これはコフートの言葉では自己愛憤怒です。しかしクラインにとっては怒りをプライマリーなものにすることで、自分の恥の部分の存在を認める必要はなくなります。
以上の二つは思い付きで、最近どこかで行った自己愛の講演の影響がまだ頭になるから出てきた言葉です。もっといい論じ方があるかもしれません。

2017年10月10日火曜日

精神分析をいかに学んだか? 2

さてここで精神療法を「精神分析的」と「それ以外」、と言う大雑把なわけ方をしましょう。こんな分類は意味がない、とおっしゃる方もいるかもしれない。しかしこの会場には少ないでしょう。なぜならここにいらっしゃる皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことだとおもいます。すると皆さんはどこかで正反対の二つのうちのどちらかを混乱せずに無事に選んでいらっしゃるわけです。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを、批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。でもそこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重んじるという立場では一致していても、詳細な内容に及ぶと、たちまち学派による違いが明らかになります。先ほどの自己開示の問題などはその例かもしれません。ある学派は自己開示を厳しく戒め、別の学派は治療的であればいいじゃないか、と言う風に異なるわけです。結局はそこで自分で決める時が来ます。頼りになる先輩はもはや確信を持って答えを出してくれないでしょう。あるいはあなたが「Xかな?」と思っていたことについて、その先輩に「絶対Yだ!」と言われてしまい、もうついていけないと思うかもしれません。結局どこかで一人で、誰に尋ねることもなく判断することになります。そしてそれを決める基準は、自分自身の感覚、英語で言うgut feeling なのです。これ、辞書で調べてみました。すると直感、第六勘と書いてあります。心から(胃の腑から)、あるいはフィーリングで、感覚的にそう思えると言うことです。そのときに脱学習が起きます。脱学習とは、学んだものを捨てる、ではなくて学びなおす、あるいは自分のものにする、ということなのです。


私は精神分析学を基礎として学んで治療を行っています、ということを聞く。しかし私は精神分析学を学んだだけではいけないと思う。精神分析理論をいかに学ばないかということも必要であり、そこに私たちの臨床家としてのアイデンティティがかかってくると思います。私はこれまでに優れた臨床家を目にすることが多くありましたが、誰一人として、フロイトの書いたこと、クラインの書いたこと、ラカンの書いたことをそのまま素直に実践している人はいませんでした。それらの臨床家に「どうしてフロイトの教えとは違うことを実践しているのですか?」と問うたらどのような答えが返ってくるでしょう? おそらくそれは「私は最初はフロイトから学び、あとは個別の臨床場面では、自分で考えて臨床をしています」と答えるでしょう。ということは、どこかで精神分析理論を脱学習unlearn しているということになるのです。

2017年10月9日月曜日

精神分析をいかに学んだか? 1

精神分析をどのように学んだか?


脱学習をする時は完全にひとりである

先日あるセミナーで講師を務めてきました。そのセミナーは3人の先生方が「治療関係」という大きなテーマについて連続して講義をするというものでした。しかしあいにく土、日にかけて行われるため、3人の講師が最後に一緒に質問を受ける、ということができませんでした。そしてその後に回収されたアンケート用紙に、ある受講生の方が次のように書いていらっしゃいました。
「患者さんからの電話を取る基準について、講師Aの言うことと、講師Bのいうことが違っていたので、講義を聞く側としては混乱してしまった。」
この講師Aとはある精神療法の世界の大御所です。そしてこの講師Cとは私のことです。「治療関係」というテーマでの話で、患者さんとの具体的なかかわりに話が及び、そこでA先生がおっしゃったことと、私が言ったことにくい違いがあったことをこの受講生(Cさんとしましょう)が問題にされたのです。おそらく私のことだから、電話を取る基準として私自身が用いている甘くいい加減な基準を話し、A先生はその逆だったのだろうと想像します。
私はCさん(および同様の感想を持った方)に対して、混乱を招いてしまったことは残念なことだと思いますが、精神療法について考える上で非常に重要な点を私たちに考えさせてくれると思います。それがこの脱学習 unlearning というテーマです。ちなみにこれには、「学びほぐす」という絶妙な大和言葉があてられています。
私は精神分析や精神療法の世界では、スーパーバイザーごとに、あるいはテキストブックごとに、異なる見解が書かれているのは当たり前だと思います。というよりは講師ごとに、著者ごとに意見が概ね一致しているようなテーマ自体がむしろ少ないのではないでしょうか?例えば治療構造は重要である、ということくらいしか思いつきません。
考えてみれば、精神療法という広い世界の中で唱えられていることは、その療法ごとに極めて異なるということはむしろ当たり前と言えるのではないでしょうか? 一方では無意識の意義を重んじ(精神分析)、他方では意識レベルでの認知を重んじる(認知療法)といった具合です。この間はある家族療法の大家が、「家族療法では自己開示は当たり前である。みんな破れ身なのだ。」とおっしゃり、精神分析の隠れ身の姿勢と対比されていました。

ちなみにどうして夢の解釈にしても精神療法のやり方にしてもいろいろなものが提唱されているかについて、皆さんはどのようにお考えになるでしょう?それは心の問題が私たちの理解を超えているからです。心がはるかに複雑だから、心はAである、という考えと心はBであるという考えがいつまでも両立し、拮抗してしまうのです。たとえ話をするなら、宇宙の成り立ちを知らない頃の私たちは、ある人々は天動説を唱え、別の人々は地動説を唱えていました。もし天文学が中世からまったく発達しなかったら、おそらく今でも天動説派と地動説派は対立し、拮抗していた可能性があるわけです。しかしコペルニクスの登場以降、この種の意見の対立はまったく意味を失ってしまいました。認知療法と精神分析が共存して、どちらもお互いに相手を説得しえない状況は、結局複雑な心をどちらも捉えきっていないということです。まあ、それはともかく…・