2021年5月31日月曜日

オンラインと精神療法 1

 あるのっぴきならない事情があって精神分析的な治療とオンラインについて考察するが、これは2部に分かれる。一つはオンラインによる治療が分析のセッションにカウントされるべきかということであり、この問題はさらに「オンラインセッションが質を担保するか、ということと形式上の規定を満たすかということに分かれるであろう。そしてもう一つはフロイトの週4回以上、寝椅子を用いるという形態以外のセッションがどの程度「分析的」かという問題であり、これはオンライン以外の形態についてもいえることである。それこそ電話を用いたセッション、メールを用いたセッションまで含まれるかもしれない。
 まずは例によってこの問題に関する総論である。私はこれを常日頃一番大切にしている。
 私の体験から話せば、ZOOMを用いたセッションは、寝椅子を用いたセッションにとても似ているという印象を持った。ただしカメラオフ、という条件がある。私はカウチを用いたセッションの一番の特徴は、クライエントが横になり連想をするということ、そしてもう一つはお互いに視線を合わせないということである。その意味ではZOOMでお互いにカメラオンで行う面接は、設定によっては相手の顔が大写しになり、場合によっては自分の顔も大写しになるという特徴がある。ZOOMを用いるようになり、私たちの多くはセッション中の自分の顔をまじまじと見るという体験を初めて持ったのではないか。そしてこれは一部の自己愛的な傾向を有する治療を除いては、あまり心地いい体験とはなっていないようである。私自身は私の顔は見えないようにして、相手の顔もかなり小さくしてあまり相手や自分の顔を意識しないようにするという風にしている。 
 それに比べてお互いにカメラオフにして行うセッションは、私がこれまで寝椅子を用いたセッションを行ったクライエントさんにのみ行っているが、すこぶる快適という気がする。最初だけカメラオンにして挨拶をした後オフにすることで、寝椅子に横になる前とセッション終了時に体を起こす時だけ顔を合わすという形が保たれ、同様の質が保たれているように感じる。ただそれは週一度のケースであり、週4回のケースに対して行ってはいない。週4以上のケースでは同じカメラオフで面接を行った場合にどこまで同じやり方が通用するかはわからない。そこでできるだけ対面で(といっても対面で対面せず、というややっこしい状況なわけであるが)という方針はそれなりによくわかる気がする。
 ギャバードはセッション中にノートをとることがラポールの形成の妨げになり、また治療者が時々時計に目をやるのを気が付くことで患者がupset するために、面接室での時計の位置に配慮が必要であるとする。これらはことごとく対面で行うセッションを行うことに伴う懸念である。これらの問題はカウチを用いることで完全に解消しないまでもかなり軽減するであろう。
 オンラインのセッションの利点としては、言うまでもないことであるが、セッションに通うための時間が浮くために、それをほかのことに使えるということがある。もちろんそのための交通費もかからない。これは治療のために遠隔地から通うクライエントにとってはこの上ない利点といえる。これにより国内の異なる地方に在住の治療者、あるいは外国の治療者の治療も受けられることになる。
 もう一つオンラインセッションのメリットは、クライエントの「帰宅問題」を解消してくれるということがある。(中略)
 ただしオンラインのデメリットもある。一つにはおそらくクライエントの側に、プライベートな空間を保証することが難しい場合があるということである。しばしばクライエントさんは自宅の中で防音がしっかりして声が家族に漏れないような場所を確保することに困難さを有する。時にはセッション中に部屋に押し入ってくる幼い子供の面倒を見たり、餌を欲しがって泣きつく犬の世話のために中座したりしなければならず、それでなくても家人に聞かれているのではないかとの懸念で内緒声になったりする。治療を受けていること自体を家族に伏せているようなケースでは、事実上オンラインの治療は不可能であったりする。さらに細かいことにはなるが、設定がうまくいかず、相手の声が聞きづらかったり、途中で回線が途切れてセッションがいきなり中断を余儀なくされるなどの問題は頻繁に起きる。
 しかしこの最後の問題などは、私たちがオンライン治療を行うことを余儀なくされた一年以上前に比べれば、はるかに多くの経験を持ち、多くの経験値を積むことによりかなりスムーズにそれを行えるようになってきていると思う。私の偽らざる感想を言えば、私たちがこのような文明の利器を手に入れて、四半世紀前までだったら考えもしなかったような遠隔地の間でのセッションが可能になったことに、はっきり言って実感がないほどである。たまたまこのシステムがフロイトの時代に確立したなら、新し物好きのフロイトがZOOMによるセッションを取り入れてオンラインセッションを取り入れたことはほぼ間違いないと思われる。婚約者マルタに1000通を超える書簡を送り、フェレンチとは数百通の手紙を交わしたフロイトが今の世にいたら、ラインやメールを死ぬほど活用したであろうし、ブタペストのフリースとは毎日のようにズームでやり取りしたであろうことはほぼ間違いがないであろう。ただそれにより交流の進展も加速し、フリースやフェレンチとの関係も実際よりずっと早く進展して、収束してしまったかもしれないと想像する。

2021年5月30日日曜日

嫌悪 2

 ところで嫌悪の精神病理ということだが、大したことは書けないことは目に見えている。すぐにブラックボックスに行きついてしまい、誰にも確かなことは言えないというのは目に見えているからだ。それはこういうことである。
 「快の錬金術」でも書いたことだが、生体は嫌悪を催すものを回避するように、あるいは快を得られるものを志向するようにできている。それを「Cエレ君」の例を使って描いた。Cエレガンス(線虫)にとってその生存を脅かすものに対して不快と感じ、促進するものを快と感じて接近する個体がいたとしたら、結果的にそのような傾向を持った個体は生き延びて繁栄していく。適者生存だ。だからCエレ君がたとえ快や不快を「いやだ!」とか「気持ちいい!」とか感じていないとしても、結果的に彼は回避や接近行動を起こすだろう。そうやってこそ生き延びてこられたからだ。しかしその中枢神経を調べるならば、不快な時はある神経が興奮し、快の時はそれとは別の神経が興奮しているはずだ。なぜなら両者の体験はかなり敏感にその個体により「体験」されるであろうからだ。そしてその際に異なるクオリアを体験しているに違いない。痛い、とか、気持ちいとか。だから「痛い」や「気持ちいい」は幻であって差し支えないのだ。ということは嫌悪にも快にも実体は伴わないことになる。

さてこのように書くと、先天性無痛覚症の人の体験はかなり異色のものとなるであろうことがわかるはずだ。先天的に痛みを感じない人は、生傷や骨折などを頻回に体験する。痛みにより外傷的な状況を回避することができないからである。それについては当事者の方々によるHPがあり、そこから多くのことを学ぶことができるので、それを時々参照しようと思う。
 ところで話は飛ぶが、私は最近幸福感について考えるうえで、この快、不快の問題が大きな関与の仕方をしているように思える。日ごろから心地よさを体験することは、幸福感に深刻な影響を与え、ある意味では損なっているのではないかと思う。私たちは一世紀ほど前の人間に比べて格段に快適さを味わっているのであるが、私たちは彼らに比べて幸福かといえば恐らくそうではない。快適さは私たちの感覚のある種のものを鈍麻させる可能性がある。逆に言えば苦痛や嫌悪はいわばスパイスとして必要なものではないか、ということである。

2021年5月29日土曜日

母子関係 推敲 1

日本における子育てと「甘え」

 日本ないしはアジアにおける子育てを欧米型との対比で論じることはすでに多くなされている。キリスト教においては子供は悪魔であり、厳しいしつけが必要であるという考えが一般的である(Jolivet, 2005)とされる一方で、アジアでは子供は天使であるという見方が多い(Chao and Tseng 2002)とされる。本論文の冒頭に紹介したベネディクトの文章にも表れているが、おそらく多くの西洋人にとって、日本の子育ては甘やかし overindulge と思われるであろう(Okano, 2019.)
 日米の比較研究として有名なベネディクトの「菊と刀」には以下の趣旨の内容が描かれている。「赤ん坊が泣くと、日本人の母親ならすぐ抱いてお乳を与えて泣き止まそうとするが、西洋人は決まった時間にしか乳は与えないでないままでほうっておく」ルース・ベネディクト 菊と刀The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture.1946」
 子供に対する寛大さや自由さを許容する傾向がいつの時代から存在するかを知る一つの手がかりとして、江戸期に日本を訪れた西欧人の記録が参考になる。それによれば、全く自由で放任の日本人の姿である。そこでは町全体が子供の遊び場のようになっていて、車夫も子供に道を譲り、叱ったりするといった様子を見せないという。オールコックはそれを「子供の楽園」と称し「町はほぼ完全に子供たちのものだ」といったという(渡辺、p.388,389)。また日本では子供が大人により鞭打たれたり折檻されたりするのないのを見聞した西洋人はとても驚いたとされる。渡辺京二 (1998)「逝きし日の面影」葦書房.
 しかしその子供は年下の子が生まれた時点で今度は世話をする。やがて長ずれば、今度は子供に道を譲るというシステムが伝統的に存在していたらしい。
 私の研究分野である精神分析では、土居の「甘え」は一つの鍵概念として扱われる。甘えは「甘える」という動詞の名詞形であり、「甘える」とは「他者のやさしさに頼ってそれを前提とすること to depend and presume upon another's benevolence’.」 (Skelton,R.(Ed.).2006. The Edinburgh International Encyclopedia of Psychoanalysis).などと表現される。この用語は土居により1950年代に導入された。これは日本人の対人関係を描くために導入されたが、無意識的には文化を超えて起きているものであると考えられた。土居によれば、甘え、すなわち愛されることに進んで浴することは治療の初期からみられ、転移の核になるものであると考えた。彼は健全な形の甘えとその結果としての成熟した依存関係が極めて大切であると考えた。
 土居の甘えの概念は海外に大きなインパクトを与えた。西欧においては分離個体化による自己の達成こそがその個人の成熟と見なされる傾向にあったからだ。精神分析においては、子供の独立はエディプス的な状況で醸成、促進される。そこでは懲罰的な父親が息子が母親と親密になることを阻止する。父親に向けられた敵意は去勢不安を引き起こすが、それは母親に対する欲望の結果として自分が去勢されてしまうのではないかという恐れである。その不安と対処するために、息子は父親と同一化し、母親への願望を他の女性への願望に置き換える。しかしこの理論は日本の場合にはあまり当てはまらないことが多い。なぜなら甘えに基づいた母子の緊密な関係性は社会で受容されているからだ。甘えについては後にまとめて論じるので、ここまでにとどめたい。

2021年5月28日金曜日

嫌悪 1

 何の前触れもなく、「嫌悪の精神病理」という依頼が舞い込んだ。「えー? 嫌悪の精神病理?そんなこと言われたって」、というのが最初の反応である。そもそも私は嫌悪の専門家ではないし、そんな論文は書いたことがない。しかしそう思いながらもこれは興味が尽きないテーマである。私は「報酬系オタク」を自任している。「快の錬金術」という本を3年ほど前に出版して全く売れなかったトラウマを引きずっているわけだが、それのネガについての議論だからだ。そう考えるとあの本を奇特にも読んでいただいた編集者の先生の誰かが私にこの話題を振ることを思いついたのかもしれない。まだ方針は全く定まっていないが、書いていくうちに結局はいつも考えているテーマにつながるだろうという楽観的な気持ちで始める。
 まず私たち生命体は明白に、あるものを嫌悪し、それを回避しつつ生きている。1950年代に報酬系が発見されるまで、心理学は「生命体は不快を避ける」という命題に従っていたというのが面白い。動物の脳をいろいろ突っついても不快刺激にしかならなかったかららしい。だから脳のどこかに不快を感じさせる部分があるだろうという予想はついたわけだ。ところが快感の中枢(報酬系)が見つかって、心理学者や哲学者や脳科学者は驚いたわけだ。でもどうしてだろう?「生命体は快を求め、不快を避ける」のほうがよっぽど直感的にわかるのではないだろうか。
 私の想像だが、人類は昔からあまり強烈な快感を味わうことがなく、むしろ不快を避けながら生きてきたのではないか?だから脳のどこかのボタンを押したら強烈な快感が味わえるという発想がなかったのではないか?しかしそれにしては、フロイトの時代からモルヒネもあれば、コカインもあった。フロイト自身がコカインの体験を通じて、快感中枢の存在を思いついてもよかったのではないか。しかしフロイトはかなり単純な発想のほうを選んだ。つまり「快は不快のネガである」という命題である。ここがフロイトの不思議なところだ。フロイトはコカインやモルヒネを吸引することで幸せになれることを自分自身の体験で知っていた。それなのにフロイトの快のモデルはあくまでリビドーの発散というものだった。つまりリビドーがうっ滞して不快が高じた際に、それが一気に放出されると快感につながるというわけだ。
 もちろんリビドー発散論には一理ある。私の快は、不快の解消によってももたらされるからだ。排泄、摂食などを考えればよく分かることである。モルヒネだってきわめて苦痛な渇望状態 craving になれば、その使用による解消はそのものが快だ。しかしそれなら初回のモルヒネやコカインの使用は、もともと渇望がないわけだがしっかり快感の体験につながる。だから賢明なるフロイトがコカインによる多幸感をこれにより説明したとはどう考えても思えない。まあフロイトにこだわってもあまり意味がないか。
  しかしこのように書いているうちに、私が精神科医になった当初に最も興味を持ち、やみくもに書いていたのが、まさにこのテーマについてだった。土居先生に提出してバッサリ否定されてしまった文章である。その時のテーマは、「なぜ人は将来の快のために、現在の不快を耐えることができるか?」であった。今だったら例の「マシュマロテスト(子供に目の前の一つのマシュマロを一定時間食べずに我慢できたら、二つあげる、という課題を課す)」などに関する研究なども引いてくるかもしれないが、当時はだれかの研究を引っ張ってこようなどという発想もなく、ひたすら考えていたのである。こう考えると「嫌悪の精神病理」というテーマをよくぞいただいたものである。

2021年5月27日木曜日

離隔 推敲 2

たった2800字の原稿に悪戦苦闘している。今回以下の部分を付け加えた。これで2400字くらいか。

 なお従来のパーソナリティ障害の概念との関連では、シゾイドパーソナリティ障害と回避性パーソナリティ障害が考えられる。前者は「社会的関係からの離脱と感情表出の範囲が限定される」(DSM-5,p.635)と定義され、ほとんど離脱の特徴をとらえていると言っていいであろう。また後者は「社会的抑制、不全感、および否定的評価にして売る過敏性を示す」とされている。(DSM-5,p.635)。

更に離隔の概念について現代的な理解からは、それを性格特性だけではなく発達障害との関連で理解することも今後必要になる可能性がある。多くの研究が自閉症スペクトラム障害(以下、ASD)における愛着の問題や、情緒的な離隔の傾向について論じている。まだこの問題に関する文献は乏しく、そもそも性格特性と発達障害との関連を論じる理論的な素地は事実上見られなかったと言っていい。しかしASDの特徴としては、DSM-5によれば「複数の状況で社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥があること」とされ、さらに「社会的関心の欠如、減少、または非定型性があって、それは他者への拒絶、消極性、または攻撃的または破壊的に見える不適切な働きかけとしてあらわ得る」とある。しかしそれはまた人によりその程度に大きな差があり、これらの特徴が比較的軽度な形で対人関係においてみられた場合には、それは離隔傾向と非常に類似する可能性もあろう。むろん生得的で神経学的な異常を基盤にしていると考えられる発達障害と、「その人が属する文化から期待されるものから著しく偏り、広範でかつ柔軟性がなく、青年期又は成人期早期に始まり、長期にわたりかわることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式」(DSM-5,p.635)とでは同一の俎上に載せられないともいえる。

2021年5月26日水曜日

母子関係の2タイプ 7

母子関係の二タイプ
 土居の議論はこのまま愛の二タイプを提示していることになる。私はそれを土居に代わって行っているだけだ。
「日本型」甘え(受身的愛 passive love)への反応性の高さに特徴づけられる。
 「西欧型」甘え(受身的愛passive love)への反応性の低さに特徴づけられる。
 ただしここでの「反応性」は生得的な部分と文化に由来する部分の双方を加味したものとする。ちなみにこのことは土居によれば自由と感謝の双方に絡んでくる問題として表現されていることは重要である。
 「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)」People in the West,however,as the Vives quotation suggests,seem to feel that thanks carry with them shame,which in turn hinders the feeling of gratitude. In the attempt to wipe out the sense of shame the Westerner,one might suspect,has striven for long years not to feel excessive gratitude, and thus passive love.(Anatomy of D, p.86)という土居の言葉は重い。なぜ西洋人は甘えを感じにくいのかに関する土居の考えが端的に凝縮していると言っていい。Rothbaumにより提起された敏感性仮説の問題は実は土居の言葉にその回答に向けてのヒントがあったのである。あるいは自由の感覚にしてもそうだ。日本の子供は昔からやりたい放題で、周囲はそれに対する条件を整えてあげたのだ。

2021年5月25日火曜日

母子関係の2タイプ 6

土居が「甘え」の概念で提起したアブないこと

 「甘えの構造」(1971)をあらためて読んでみると、土居先生は注目すべきこと、ないしはかなり大胆な考えを述べているが、これはこの本が国内向けに書かれたことと関係しているかもしれない。場合によっては欧米人を差別するような発言ともとらえられかねないが、土居先生の意思を尊重する形で述べたい。アメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた土居先生はこんなことを言っている。
 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16)」
 つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」まあこれはこれで大変なテーマだが先を急ごう。
「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」
幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
 つまり自分が「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことをする自由は他人によって与えられるものではない。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。「好きにさせて!」には重い責任が付きまとうのだ。そして土居はルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96) 「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)」
 この文章は、一見極端で意味が通じにくいが、誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。そしてこのVivesのいう恥を「負い目」と読み替えるのであれば分かる。他人から何かをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。
 この土居先生の主張から何が結論をして導かれるのかをもう少し探ってみる。そのために成人の間での甘えと、幼少時の甘えを分けて考えてみよう。
 まず母子関係における甘えは愛着における基本的な情動であり、バリントが受け身的対象愛、ないし一次的対象愛といったものと同じであるとしている。日本においては甘えはより意識化されやすく、母子関係においてもそれが顕在化しやすい。土居先生の引用を思い出そう。
 日本の子供は母親に「愛している」とは言わない。それは彼らはお互いに非言語的な甘えにより交流しているからだ。西洋においては子供のいう「愛している」は「甘え」の代用になっているのだろう。 そして西洋の成人の転移性の愛はその背後の「甘え」を隠しているということになるだろう。
 つまり欧米の母子関係は、甘えという概念や言葉を欠いていることで(土居先生はこれを「文化的条件付け」とも言い換えている)「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えない、という主張のように見受けられる。そしてこの「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。それは転移性愛をそうとして感じ取ることが出来ないという問題にもつながる。するとこの考えでは、幼少時の問題と成人したのちの問題は本質的に同じであり、それは「愛して欲しい」という相手の欲求に対する敏感さが西欧人では不足している、という事になる。日本人こそが「甘え」という概念を有することでよりよくお互いの情緒的なニーズをとらえられているという事になろう。
 ところが、である。そのような日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味での個の独立、という事なのだろう。日本人が甘えをよく知り、それを体験しながら個として独立していないとなると、これはおかしな話である。もし日本人の方が感受性が豊かであるがゆえに個として独立できない、とはおかしな話ではないか。やはりそこにあるのは優劣の問題ではなくて文化差なのである。
 もし土居のいう「人間の心の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事」が日本と西欧の違いであるとしたならば、それでこの個の独立の問題も説明できるのだろうか? 私は出来ると思う。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。そして日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。自分は甘ったれていたんだ、となるだろう。でもそこから日本人は外国人対する態度を変えることで適応していくのが普通だ。
 このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。
 ところでこのようにまとめたとしても、やはりここには二つの問題が混同されている気がする。一つは感受性の問題。西洋人は相手のニーズに鈍感であるという議論。もう一つは自由の概念の違い。こちらは自分も自分のニーズを他者に満たしてもらおうと期待しないし、他者のニーズに気遣ってはいられないという話だ。これらは異なる問題である。土居先生はどちらのことを言っているのだろう?
 例えば他人がどのくらいおなかが空いているかを検知する能力を考える。土居先生は一方では、①日本人はその能力が高い(西洋人は低い)といっているが、他方では②日本人はそれを検知して反応するが、西洋人は(たとえ検知しても)あえて反応しない、とも言っている。この二つを言っておくことは実は重要で、①だけだと差別意識に通じてしまう。②のような言い方をして、これは文化の差なのだ(おなかが空いたら自分からそれを表現するべき社会だから、西洋人が鈍感というわけではないのだ)と言い逃れをすることができる。

ちなみに私は土居先生が英語で発表したものには、①は主張できなかったのではないかと思うが、考えてみれば甘えの構造はAnatomy of Dependence として英訳されているということはそこの部分も英語で読めることになる。
例えばP.21
At the end of 1961,again at the recommendation of William Candill,I was invited as visiting scientist to the National Institute of Mental Health at Bethesda in Maryland. During the total of fourteen months Ispent there,I had a fresh opportunity to see how American psychiatrists dealt with their patients in practice. I frequently observed interviews with patients and their relatives conducted in rooms with one-way mirrors. I began to feel that generally speaking, American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients. patients. In other words, they were slow to detect the concealed amae of their patients.

p22の文章にも同様

Although 1 foresaw this to a certain extent, I was still rather surprised to find that even psychiatrists, who laid claim to being specialists on the psyche and the emotions-and those, moreover, who had received a psychoanalytical training should be so slow to detect the amae, the need for a passive love, that lay in the deepest parts of the patient's mind. It brought home to me anew the inevitability of cultural conditioning.
土居先生、言っちゃってる!
 だから結論としては次のように言える。「土居は甘えの問題に関する日欧格差で二つのことを言っているようである。一つは感受性の違いの問題で、西洋人は相手のニーズに鈍感であるという議論を展開しているようだ。それは以下の彼の言葉に表される。
「American psychiatrists were extraordinarily insensitive to the feelings of helplessness of their patients.」
 もう一つは自由の概念の文化的な違いであり、西洋的な自由を謳歌する彼らはそれを他者によって保障されることを期待せず、他者の自由も許容する責任感とともに体験しているのに対して、日本人にとっての自由は他者により享受されるという感覚がある。それが自らのニーズは積極的に表現すべきであるという観念に結びついていると考えることができる。つまり他者の甘えのニーズに関して、西洋においてはそれに対する感受性が低いと同時に、それを甘受する必要さえも感じていない可能性があるのである。


2021年5月24日月曜日

離隔 推敲 1

  「顕著なパーソナリティ特性」離隔 detachment
しばらく寝かしておいた「離隔」書き直してみたらまだ1800字。これをどうやって2800字まで膨らませればいいのだろう。ASDとの関連の問題など、書きたいことはたくさんあるが、「教科書」的な原稿だから、好き勝手に書くわけにはいかない。

離隔についてICD-11の草案では以下のように示されている。

 「 離隔特性の中核は,対人的な距離や情緒的な距離を遠くに保つ(対人的な離隔,情動的な離隔)傾向であり,社交的な交流や交友、親密さを回避し、また感情の体験や表現が限局され、人と打ち解けないという傾向を指す。
 対人的な離隔に関しては、その特性が高い人は対人交流を楽しむことをせず、むしろ窮屈で不快なものと感じ、できるだけ対人接触や対入場面を避けようとする傾向を有する。他者から話しかけられても、世間話をして軽く応じることを回避する。職業としても対人接触が少ない職種を選び、そのためには昇給や昇格を避けることもある。したがって友人や知人の数は限られ、家族との交流も最小限または表面的となりがちである。性的な親密さを求めることにも関心が薄かったり煩わしく感じたりする。
 情動的離隔に関しては、言語的にも非言語的にも限られた表面的な感情表現しかせず、また自らも狭い情緒体験しか持たない。他者といて楽しむ力に乏しく、あるいはそれよりは苦痛のほうが勝ることが多い。そのために他者からは何を考えているのかをつかみがたいと感じられる。
 ちなみに2013年に発表されたDSM-5では同じdetachmentが「離脱」と訳されているが、内容は同じである。
なおDSM-5では離脱を以下の6つの側面に分けて解説している。
引きこもり 他者と一緒にいるよりも1人でいることを好むこと:社会的状況で寡黙であること:社会的接触および活動を回避すること:社会的接触を自分から持とうとしないこと。
親密さの回避 親密な関係または恋愛関係,対人的な愛着,および親密な性的関係を回避すること。
快感消失 anhedonia 日常の体験を楽しめず、それに参加せず、またはそれに対しての気力がないこと;物事に喜びを感じ興味をもつ能力がないこと。
抑うつ性 落ち込んでいる,惨めであるおよび/または絶望的であるという感情:そのような気分から回復することの困難さ 将来に対する悲観:常に感じられる pervasive 羞恥心と罪責感,またはそのいずれか、低い自尊心、自殺念慮および自殺行動。
制限された感情  情動を引き起こす状況にほとんど反応しないこと;情動体験および表出が収縮していること;普通は人を引きつける状況に対する無関心さ,および,よそよそしさ。
疑い深さ 対人的な悪意または危害の徴候を予期すること,および,過敏であること: 他者の誠実性および忠実性を疑うこと:他者にいじめられている、利用されている、および/または迫害されているという感情。
 なお離隔は外向性とは対極的な存在として理解される。そして外向性と内向性という性格特徴を論じたのはユングであった。それをドイツ出身でイギリスに帰化した心理学者ハンス・アイゼンクが採用して、「神経症傾向」と合わせてパーソナリティの類型化を行なった。い「モーズレー性格検査 MPI」イギリスを始め、ヨーロッパで広く利用され、最近はアメリカにも進出している国際的な性格検査のひとつであるという。ただしこの概念の難しいところは、なおユングは対人関係よりも、興味の対象が外の事物か、内側の思考かに注目した。ちなみにアイゼンクは、反・精神分析的で、外向性を皮質覚醒レベルが変動しやすいことに関係すると提案した。そして内向者は外向者よりも慢性的に皮質が強く覚醒していると仮説を立てた。「外向的な人に比べると、内向的な人のほうが大脳皮質の覚醒水準が高く、1秒あたりにより多くの情報を処理することができるという。つまり、内向的な人は、たとえば賑やかな繁華街など刺激の多い場所に出かけると、すぐにキャパシティオーバーになるため、過剰な情報から自らをシャットダウンしようとする傾向がある。対照的に、外向的な人はすぐには覚醒しないため、より刺激的な環境に身を置こうとするのだという。」(以上ネットから引用)。この議論は自閉症を考えるとその通りとも考えられる。
 ちなみにDetachment やその他の社会との協調性を示す行動は、線条体という部位のドーパミンD2受容体の濃度とネガティブな相関があることが知られている。この概念はビッグファイブの一つとして取り上げられ、それが不足している状態が離脱として概念化されている。他方ではその生物学的な基盤についての研究も進んでいる。そして線条体のドーパミンマーカーと離隔やその他の社会との協調性のスコアの低さが示されている。
Breier, et al (1998) Dopamine D2 Receptor Density and Personal Detachment in Healthy Subjects. American Journal of Psychiatry, 155: 1440-1442.

2021年5月23日日曜日

母子関係の2タイプ 5

 ただしその間にこの問題に関して一つの議論を提示した研究者Rothbaum(2000)の理論を挙げたい。RothbaumらはSSPが日本において適応されることの困難さについて説いた。彼らは愛着理論は西欧社会以外の文化、特に日本文化における親子関係を正確に説明することが出来ないと主張した。(Rothbaum et al. (2000)
 その説によると、エインスワースたちは愛着の前提として親の持つ敏感な応答性 sensitive responsiveness を考えた。愛着理論では、赤ん坊は探索行動とアタッチメント行動の間のバランスが存在し、そこで養育者が、「敏感性」(子供の愛着欲求に敏感に応答する力)を有する必要があるとされる。このバランスが安定しているか不安定化が問題になってくるのだ。そしてその安定性を知るためのテストがSSPということになる。ところがこの肝心の敏感性の性質に文化差があることをRothbaumは説いた。米国における応答性は、子供が表現するニーズに対して向けられているが、日本においては、子供のニーズが表現される前に、先取りしてそれに対応することの応答性が問題にされるという。そして後者のような親の態度は子供を身体的に近い距離に置き、依存を促進する一方で、表立ったニーズの表現を抑制する。ところが米国においては、その様な態度は不安定な愛着を助長してしまうと考えられるという。
Rothbaum et al. (2000) Attachment and culture: Security in the United States and Japan. American Psychologist, 55(10), 1093-1104.

 わかりやすく言えば、米国では赤ん坊からのシグナルという情報への敏感さであり、日本では情動的親密さに基づく敏感さであるというのが彼の主張だ。さらには「日本の敏感性は赤ん坊の社会的関与に対する欲求に敏感であり、アメリカの敏感性は赤ん坊の個体化に対する欲求に敏感であると思われる」(Rothbaum, Weisz, et al. 2000: 1096―1097)と表現し、この問題が文化的な含みを持っていることを示唆する。(「アタッチメント、『甘え』、自分 — アタッチメントの文化研究における『甘え』の取り扱いに関する一考察」 杉尾浩規著)
 ちなみにこのRothbaum の議論はある意味では重要な点を指摘しているが、種々の批判を受けることとなった。彼の理論には実証性が十分でないこと、特に日本の研究においても敏感さと愛着の安全さとの関係は実証されているという点を実証されなくてはならないとされた。ちなみに、この「待つか、先に与えるか」の議論、研究によって差があるという事で、Mesman et al.(2016)によれば、現在の母親はむしろ他の文化と近い見方をしているという結論が得られたという。
 ところでRothbaum の理論は本論文でも取り上げる土居の甘え理論を援用している点が特徴とされる。日本的な「敏感さ」は甘えを基盤とした日本文化に特有のものであるという主張である。しかし後にみるように、土居によれば甘えは人類に普遍的だど考えた。西洋でも東洋でも甘えという基盤は存在する。バリントの一次的対象愛(愛されたい、という受け身的な愛情)がその証左だ、という立場だ。その意味ではRothbaumが甘えは日本特有と考えている分は土居理論の曲解ということになる。ただ日本における母親の敏感さは、非言語的で情緒的で、先回り的であるという意味で西欧のそれとは違う、という指摘はその通りであろう。さらには土居自身がその著作の中で、日本人が他者のニーズに敏感であるという理論を展開しているフシもあり、この議論は結構根が深いともいえる。先回り的ということではウィニコットがそれを、子供の幻想を守る母親の役割として語っていたとは思うが、この点についての考察はあまりなさそうだ。
 ちなみにRothbaumは最近さらに研究を発表し、自らの主張に関する実証的な裏付けを示している。
Rothbaum,F., Nagaoka, R, Ponte, IC(2006)Caregiver Sensitivity in Cultural Context: Japanese and U.S. Teachers' Beliefs About Anticipating and Responding to Children's Needs. Journal of Research in Childhood Education. 21;23-40.
 彼の論文は要するに西洋では子供の明示的なニーズの要求に対する敏感さであるのに対し、日本では子供のニーズの非言語的で微妙な表現を予期anticipate することの敏感さであるという違いがある。この違いをつかむための実証的なデータは今のところない。そこで学童期前の先生を米国9人、日本11人を集めて実験を行った。すると米国の先生は明示的なニーズにこたえるのに対し、日本の先生は、子供のニーズを予期する方を選んだ。そしてアメリカの子は自らに依存し、自分たちのニーズを明らかにすることを教えられる一方では、日本の子供は先生に依存することを教わる一方で、先生は子供のニーズを明らかにし、それを予期する必要があるという違いが明らかになったという。
 ところで日本では依存を促進し、欧米では分離個体化を促進するという二分法に関しては、1990年代の初めに、Markus とKitayama見解として一般化されている。彼らによれば日本と欧米では二つの異なる自己構成の仕方が示されるとする。日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感である。

精神分析的アプローチと土居の甘え理論
 ところでRothbaum が提起した問題、すなわち母親的な態度が子供が助けてほしいというサインを敏感に感じ取るか、それとも先に手を差し伸べてしまうか、ということをめぐる一つの議論は精神分析の世界においては歴史的なものともいえる。それはいわゆる「最適な欲求不満optimal frustration」 か、それとも「最適な現前Optimal presence」ないしは「最適な提供optimal provision」 か、という議論である。精神分析理論を創始したフロイトの基本的な考えは、患者の欲求充足に関しては抑制的であった。フロイトのいわゆる「禁欲規則 rule of abstinence」は、「治療者は患者からの愛の要求を満たしてはならない」とした。それは欲動がすぐに満足してしまうと、患者は自分自身の欲求についての洞察を得る機会が奪われるからということを根拠にしていた。このような考え方は古典的な精神分析的考え方の主流を占め、後に共感の重要性を説いたコフートにも同様の考え方が見られた。
 それに対してウィニコットはこの欲求不充足はある意味で必然的に生じてしまうという考え方を示した。彼は最初は赤ん坊は自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。しかし赤ちゃんがその自我機能が成熟していく段階で自分の欲求がすぐには満たされないということを知り、脱錯覚を起こし、現実の在り方を知るようになると考えた。この錯覚が生じる段階においては、親がおっぱいを差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と生じることがからであり、だからこそ子供はそれを「錯覚」するのである。
 実際の子育ての場面を想像した場合にこの点は容易に理解されよう。母親は赤ちゃんが機嫌が悪いのに気が付き、おっぱいを欲しがっているかもしれないと思う。そういえば前回の授乳から少し時間がたっている。赤ちゃんがおなかがすいてぐずっているのか、それ以外の理由で機嫌が悪いのかはわからない。上述の「敏感さ仮説 sensitiveness hypothesis」仮説によれば、このとき欧米人のお母さんの頭にこんな疑問が浮かぶことになるだろう。「もしおなかがすいていないのにおっぱいをあげたら、この子の『おっぱいちょうだい』という明確なメッセージを出す機会を奪うかもしれない」。他方日本人のお母さんは「おなかがすいているかもしれないから、とりあえずおっぱいをあげましょう」。でも、実際の子育てではこれらの判断がさらにあいまいなことはいくらでもあろう。前者なら「ぐずっていること自体が空腹を明確に訴えているということになるかもしれない。」母親が解釈して授乳につながるかもしれないし、後者であれば「でもさっきおっぱいをあげたばかりという気もするし、それに今別のことで忙しいし」となると結果的に授乳行動は遅れるであろう。そしていずれにせよ完璧に赤ちゃんのニーズを把握することのできるお母さんは少ないだろうから、現実的なフラストレーションはいずれの文化でも子供によって不可避的に体験される。それはどんなに細やかに子供のニーズにこたえる母親といても起きることなのだろう。
 結局ここで何が言いたいかといえば「マーカスー北山説」の「日本では相互依存的な自己感、欧米では独立した自己感が重んじられる」というのは自己感の両面であり、どちらも必要なのだ、ということである。それが文化を超えて養育の場面で起きてくる過程をWinnicott の理論は示しているのだ。(Winicott はすべてお見通しだった、ということの一つの例である。)

2021年5月22日土曜日

どのように伝えるか? 解離性障害 8

解離性障害とはどのようなものか?についての説明
 精神科医師は患者に対する心理教育を行う際に、たとえ話や比喩を用いることが多い。例えばうつ病であれば「ストレスによる心の疲れ」とか「過労による体調不良」、「精神的な疲労」などの表現が、漠然とうつ病の姿を描き出す。統合失調症やその他の精神病状態の場合は、「現実と空想の区別がつかなくなった状態」や「自分の妄想の世界にとらわれてしまった状態」などと表現できるだろう。また神経症一般については、「気の病」「神経質」「心身症」などの表現がなされ、多くの人が自分の日常心性をそれに重ねることが多い。「自律神経の乱れ」などの表現はこれらの精神疾患を曖昧に言い表す場合に用いられることが多い。
 ところが解離性障害の場合、そのように一般的な言葉でその病気を伝えることはなかなか難しい。臨床的な文脈でしばしば用いられる「知覚や思考や行動やアイデンティティの統合が失われた状態」(ICD-11, DSM-5)という説明も、具体性に乏しく、今ひとつ説得力に欠けるようにも思える。それに加えてDIDのように複数の人格が一人の中に存在するという現象は、それ自体が常識を超えていて荒唐無稽に聞こえてしまう恐れがある。そのことが解離性障害を理解し、説明教育を行う上での大きな問題となりうる。
 私自身は解離を脳における神経伝達路のレベルでの異常と考えている。上に示した神経症や精神病や気分障害には比較的緩やかに始まり、その回復にも時間を要するという特徴がある。それは全体として炎症反応になぞらえることが出来るであろう。ところが神経伝達上の問題は、癲癇発作等に見られるように急激に発症し、回復するという特徴がある。そのために心を脳の神経ネットワークとして理解してもらうことが一番の近道であると信じる。
「解離性障害とは何かを一言で言い表すのは難しいのですが、次のように考えてもらえば比較的わかりやすいのではないかと思います。心とは一種のネットワークだと考えてください。このネットワークは神経細胞と神経線維からなるので、これを神経ネットワークと言います。神経細胞は結び目、神経線維はそれらを幾重にも結ぶ電線のようなものだと想像してください。私たちが何かを覚えるときは、あるネットワーク上のつながりのパターンが出来上がることですし、体からの感覚や体を動かす運動は、そのネットワークが皮膚や筋肉に繋がっていてそことの信号のやり取りをすることです。私たちは普通意志の力でそのネットワークの働きをコントロールしていますが、時々混線が起きて、筋肉に信号がいかなくなったり、記憶のネットワークの内容を取り出せないという不思議なことが起きます。すると心の機能や体の機能がバラバラになってしまい、いろいろ不思議な症状が起きます。急に物を思い出せなかったり、急に声が出なくなったり、という事はそうしておきます。どうしてこの混線が起きるかは詳しいことはわかっていません。」
 ただしこれではDIDの説明にならないので、DIDに関しては次のように説明します。「さてDIDについては少し込み入ったことが起きます。私たちの心、というのも実は一つの大きな神経ネットワークから生まれてくるものなのです。ところが人間の脳にはいくつかの神経ネットワークが同時に出来上がるという不思議なことが起きます。すると一人の頭の中にいくつかの心が同時に存在するという事が起きます。でもお互いに別人のように感じるのです。なぜならそれは複数の脳が共存している状態、つまりひとつの家に同居している状態にかなり近いからです。そしてその複数の人が一つの体、つまり一組の耳、目、口を共有するので、混乱してしまうという事が起きるのです。」
 ここまで説明した時にパソコンにある程度詳しい人なら次のように伝えてもいいかもしれません。「実は一つの人格はパソコンやケータイに入っている一つのアプリのようなものと考えてもいかも知れません。私たちはいくつかのアプリを同時に立ち上げることが出来ますね。ユーチューブなどで、いくつかの映像を同時に流してしまい、声が重なったりすることがあるでしょう。DIDではそれと似たようなことが起きているのです。

何が原因なのか?
 身体疾患や精神疾患の際に、患者や家族はしばしばその「原因」を問う。よく私たちは「どういう育て方をしたらこうなるのか?」「育て方を失敗した」などという表現を用いることからも明らかである。そしてそれは解離性障害についても同様である。また両親は自分たちから何かの要因が遺伝したのではないか、と思うことも多い。さらに最近では様々な外傷的な出来事、例えば家庭での虐待や学校でのいじめなどに原因を探ることも多い。また患者当人が「自分がこうなったのは親のせいだ」という考えを持つことも多い。これらの原因はある場合には大いにあり得ることで、また別の場合には考慮する必要があまりないこともあり、応え方は非常に難しくなる。
 心理教育の立場からは、「何が原因なのか」という問いかけに対しては、以下のような一般的なものが適当と考える。
「一般的に言えば、子供が幼少時に体験したトラウマや深刻なストレス体験が、精神疾患にかかるリスクを押し上げています。それは精神疾患一般に言えることすし、解離性障害についても同じです。特に幼少時の深刻な性的身体的虐待を含めた幼少時のストレス体験が発症に深く関係しているようです。さらには生まれつき催眠にかかりやすい傾向の人たちがいて、その人たちは解離という心の働きを起こしやすいことが知られています。それに比べて子育ての仕方は、各家庭ごとに様々なバリエーションがありますが、それが精神疾患の発症に影響を与えるとしても間接的で偶発的な形でしかないと考えられます。」
「ただしここで一つ重要なことがあります。子供が小さいころに親からひどい育て方をされて、それを恨んでいたり、傷つけられたと感じている場合、親の側からは、実際の子育ての場面でトラウマ的なことが生じていなかったように思えても、子供にとってはトラウマになってしまう場合があります。そこでそれは不幸な出来事として受け入れざるを得ないこともあります。」そして次に付け加えたいのは、私が最近実感していることである。
「子育ての時期は、親は子供に対して絶対的な力を持っています。その親に叱られたり無視されたりすることは、実は子供にとって想像以上につらく、恐ろしい体験だったりします。もちろんそればかり考えていたら、親は子供を叱ったり、時にはほかのことに気を取られて子供の注意を払わなかったり、ということは一切してはならないことになってしまいかねません。もちろん親も普通の人間ですから、そのような機会を完全に避けることは無理でしょう。でも親の子供へのあらゆるかかわりが、絶大なインパクトを持ちかねないことを念頭に置くことは大切でしょう。」

2021年5月21日金曜日

解離性健忘 推敲 2

鑑別診断
 正常の健忘:日常の出来事の軽度の想起困難や幼児期早期の出来事の健忘は正常人でも起きうる。しかしそれらの出来事は重大な心的ストレスやトラウマに関することではない。
 心的外傷後ストレス障害(PTSD), 急性ストレス障害(ASD):PTSDにおいてはフラッシュバックや鈍麻反応などの診断基準を満たすだけでなく、トラウマ的な出来事の記憶が断片的となったり健忘されたりする場合には解離性健忘の診断も下る。ASDにおいてもストレス因となった出来事に対する一時的な健忘を含むことがある。
 解離性同一性症(DID): DIDにおいても、部分的DIDにおいても、それを体験した人格がその後に背景に退くことにより、解離性健忘に類似した臨床像を呈することがある。ただしその場合はその記憶を保持している明確な交代人格が存在することが確かめられることで解離性同一性症の診断が優先される。
 神経認知障害群: いわゆる認知症に伴う健忘の場合は、器質因によるその他の神経学的な所見(認知,言語,感情,注意,および行動の障害)の一部として埋め込まれる形をとる。解離性健忘では,記憶障害は自伝的記憶に限定され、それ以外の知的および認知的機能は特に障害されないことが特徴である。
 物質関連障害群: アルコールまたは他の物質・医薬品を使用した際には、それらの影響下において、いわゆる「ブラックアウト」(一定の期間の出来事に関する記憶を失うこと)という現象が起きることがある。
 頭部外傷後の健忘: 頭部外傷により健忘が生じることがある。その特徴としては,意識消失,失見当識,および錯乱,等が同時に見られることである。さらに重度の場合には,神経学的徴候(例:神経画像検査における異常所見,新たな発作の発症または既存の発作性疾患の著しい悪化や視野狭窄,無嗅覚症)が含まれる。
 癲癇: 癲癇の発作中、または発作後に無目的の放浪などの複雑な行動を短時間に示すことがある。解離性遁走の場合はより目標指向的で、その期間も数日間~数か月間と長く続く傾向にある。
 一過性全健忘(TGA): 初老期に多く、前行性健忘を伴って突然発症し、長くとも24時間以内に回復する。発作中も自分のアイデンティティの認識は保てるが、過去の数分に起きたこと以外は思い出せず、また新たな記銘も障害される。脳血管障害のリスクとは無関係と考えられ、また予後も良好とされる。あくまでも新しいことの記銘ができないだけであり、過去のことは想起できる点が解離性健忘と異なる。

解離性健忘の治療

ここでは全般性健忘や解離性遁走に対する治療について主として論じる。便宜的に初期、中期、後期の三段階に分けて論じたい。第一期は安全や安定の確立,第二期は記憶の再構成、第三期 リハビリテーションや社会復帰が目標となる。

第一期:安全や安定の確立
 第一期では当人の置かれた安全や安定の確立を目指す。可能な限り責任ある仕事や役割を離れ、ストレスのない安全な環境で過ごすことを心がける。その際に当人や家族に対する情報提供や心理教育、今後の治療方針についても、必要に応じて伝える必要がある。そこには解離性健忘がトラウマやストレスをきっかけに起きる傾向にあること、ただし時にはそのような明らかなトラウマの体験が思い当たらない場合もあり、原因を必要以上に追究するべきではないことも伝える。そして解離性健忘は予後が比較的よく、繰り返されることも少なく、基本的には社会復帰を目指すことが可能であることを説明する。また記憶は何年かたって突然戻ることもあるが、それを期待したり記憶を甦らせようと本人や周囲が躍起になることは効果があまりなく、むしろ当人のストレスを増すことになる可能性を伝える。当人には記憶の欠損以外に精神科的な症状は見られない場合が多いが、復職や社会復帰は急がずに、当人が好きだったり興味を持てたりする趣味その他の活動をしつつ平穏な毎日を送ることを心がける
 この時期には家族も当人への対応に戸惑い、疑問に持つこともあるために、家族へのサポートも重要である。当人が忘れたふりをして家族への責任を回避しているのではないかと疑う家族には、解離性健忘という疾患についての理解を促し、演技ではないことを伝える必要も生じてくるであろう。

第2期 :外傷記憶の想起とその処理 
<個人年表づくり>
当人の社会復帰に応じて、当人の過去の生活歴の中で知っておいたほうが適応上好ましい出来事は、知識として獲得したほうがいい場合がある。本人の通った学校やそこでできた友達、当時はやっていた事柄、社会状況などについては、治療者が力を貸しつつたどるようにし、個人年表を作ることも助けとなる。ただしそれが当人のストレスにならない限りにおいてである。またその過程で不可抗力的に過去のトラウマ的な出来事が想起された際はそれに応じた治療的な介入も必要となろう。
なおその際健忘が生じた当時の生活や仕事の環境をたどる中で、当人のストレスになった可能性のある状況が明らかになり、今後はそれを回避しつつ人生を送る必要があるとの洞察が得られることもある。例えば技術職として適応していた人が昇進して管理職を任されたことでストレスが高じて解離性遁走が引き起こされた場合などである。なお解離性健忘が何らかのトラウマ的な出来事に引き続いて起きたことが明らかな場合は、自らのトラウマ記憶に向き合い,それにまつわる不安や恐怖を和らげ,それを克服することがこの段階での中心となる段階でもある。これらの活動をしつつ、徐々に健忘以前の生活スタイルに復帰することを促す。病前に興味のあったこと、新たに関心を見出したことについては残存しているスキルを再び用いることが出来るという意味では有効であろう。しかしそれがトラウマと結びついている場合は当然ながらその限りではない。
第3期:リハビリテーションや社会復帰
これまで不安や恐怖によって避けていた活動についても積極的に挑戦し、様々なストレに対してうまく対処することができるようになることを目指す。当人の社会的な能力は保たれていることが多く、特に過去に獲得して失われていないスキルや能力を活用して社会復帰につなげる努力は重要であろう。但し発症前に持っていた趣味や嗜好が取り戻せないことも多く、以前に適応していた職業への復帰を目指すことは必ずしも目標とはされないであろう。抑うつや不安などの症状が見られない場合は、健常人と同じレベルまでの社会適応を目指すことが出来るであろうが、当人にとってストレスであるような状況を回避したうえでの人生設計が望まれる。

2021年5月20日木曜日

解離性健忘 推敲 1

教科書のような意味を持つ文章は、決して真面目路線を外せないというわけだが、書いていてそれなりに面白いところがある。(しかしやはり書いていて退屈だ。)ただし、いかにも学術的に確立しているかのような書き方で、自分だけの考えを入れてしまえるところも面白い。

診断に必須の特徴:

 解離性健忘の症状は、自分にとって意味を持つ最近の出来事、特に外傷的ないしは大きなストレスを伴う出来事に関する記憶(エピソード記憶)を想起する能力が失われることであり、それは単なるもの忘れでは説明できない。健忘された記憶は、個人生活、家族生活、社会生活、学業、職業あるいは他の重要な機能領域において生じ、時には深刻な機能障害をもたらす。但し当人はしばしば、自分の記憶の障害に気づかないこともある。同様の健忘は中枢神経系に作用する物質(アルコールやその他の薬物)の使用、神経系の器質的な疾患(側頭葉てんかん、脳腫瘍、脳炎、頭部外傷など)でも生じうるが、それらは除外される。

解離性遁走の有無

解離性健忘では、空間的な移動を伴う解離性遁走(自分自身のアイデンティティの感覚を喪失し、数日~数週間ないしはそれ以上にわたって、家、職場、または重要な他者のもとを突然離れて放浪すること)を伴う場合がある。

診断的特徴

解離性健忘においてはそれが生じる際に解離が関与していることが前提となる。すなわち記憶内容は心のどこかに隔離され保存されていることになり、それらは催眠その他により想起できる可能性がある。通常は健忘の対象となる出来事が起きている最中には通常と異なる意識状態(人格状態)であり、そこで記憶されたことが、もとの人格状態に戻った際に想起できないという形をとる。ただし通常の人格状態で記憶されたことを、後に別の人格状態になった際に想起できないということもあり、その場合は解離性同一性障害との鑑別が重要となる。また健忘される出来事が起きている最中に解離性のトランス状態や昏迷状態にあり、記銘力そのものが低下している場合には、その出来事の想起はそれだけ損なわれることになる。
 一般的に情緒が強く動かされる体験はより強く記憶される傾向にあるが、トラウマやストレスにより扁桃核が刺激された際には、記銘の際に重要な役割を果たす海馬が強く抑制されることで、通常のエピソード記憶の記銘自体が損なわれることにもなりうる。するとその出来事のうち情緒的な部分のみが心に刻印され、自伝的な部分を欠いた、いわゆるトラウマ記憶が生成される。するとその記憶はそれに関するエピソードとしては想起できないものの、感覚的、情緒的部分のみが断片化して突然フラッシュバックや悪夢等の形でよみがえることが知られている。

 解離性健忘に関連するストレスとしては、様々なものが考えられる。例えば幼児虐待,夫婦間トラブル, 職場でのパワーハラスメント、性的トラブル,法律的問題,経済的破綻などである。健忘とこれらのストレス因との関連について、本人の認識が十分でない場合もあり、また健忘の事実が本人に気づかれない場合もある。

分類

解離性健忘は、限局性健忘、選択的健忘、全般性健忘、系統的健忘等に分類される。
限局性健忘:限定された期間に生じた出来事が思い出せないという、解離性健忘では最も一般的な形態である。しかし当人は記憶欠損の重大さを過小評価し、それを認めるよう促されると不安になることがある。通常は一つの外傷的な出来事が健忘の対象となるが、児童虐待や激しい戦闘体験、長期間の監禁のような場合にはそれが数力月または数年間の健忘を起こすことがある。

選択的健忘:ある限定された期間の特定の状況や文脈で起きた事柄を想起できない。例えば職場で働いていた記憶はあるが、そこで上司からトラウマを受けたことを思い出せない、などである。

系統的健忘:ある文脈についての記憶のみ想起できない。たとえば学校のクラブ活動でトラウマ体験があった場合、その頃の生活全般は想起できても、そのクラブ活動にかかわった顧問や仲間、あるいはその活動そのものを思い出せないということが生じる。しかし同時期のその他のことは想起できるために、当人が健忘そのものに気が付かないこともある。

全般性健忘:自分の生活史に関する記憶の完全な欠落である。突然発症し、一定の期間(通常は数時間から数日、時には数か月も及ぶ)しばしば放浪などの空間的な移動を伴う。そして我に返った時には自分の名前さえも想起できなくなることも多い。
有病率
米国での成人を対象とした小規模研究において,解離性健忘の12カ月有病率は18%(男性10%,女性2.6%)であつたとされる。(DSM-5)
症状の発展と経過 全般性健忘は従来わが国では全生活史健忘とも呼ばれていた。その中でも特に臨床的に注意が喚起されるのが、遁走を伴うもの(解離性遁走)である。その健忘の対象は当人の生活史全体(幼少時からの全体、ないしはその一部)に及ぶ。通常その発症は突然であり、そのために社会生活上の混乱を招くことが多い。典型的な例では仕事でのストレスを抱えていた青年~中年男性が通勤途中で忽然とその行方が分からなくなり、しばらく遠隔地を放浪したり野宿をしたりして過ごす。その間は意識混濁を伴った解離状態ないしトランス状態となり、その期間は通常は数時間から数日、時には数か月も及ぶ。そして我に返った時には自分についての個人史的な情報、時には名前さえも想起できないことがあり、当人は通常は非常に大きな困惑感を持つ。
 発見された時点で救急治療の対象となることが多く、しばしば器質的な異常が疑われて種々の検査(MRI,脳波その他)が行われるが、通常は何も異常を発見できない。帰宅後も家族や親を認識できず、社会適応上の困難をきたすものの、記憶の喪失以外による当惑以外にはうつ症状を含めた精神症状は見られず、平穏に社会適応を回復していくことが多い。遁走から戻ってからの記憶は通常保たれるが、それ以前の失われた生活史の記憶がどの程度回復していくかはその程度やタイミングに大きな個人差があり、時には遁走の期間も含めた幼少時からの記憶の全体を回復せず、自分の両親や妻子さえも他人としてしか認識できないままで時を過ごす。事例によっては発症時までの記憶を徐々に、ないし突然回復するが、遁走していた時期の出来事を想起することはまれである。
 全般性健忘を呈する人はそれ以前に解離性の症状を特に示さなかった場合も多く、その後も同様の健忘のエピソードを示さずに一生を送ることも少なくない。ただしDIDにおいて特定の人格が一時期独立して生活を営んだ後に人格交代が生じた場合も、その病態が全生活史健忘に類似することがある。
 ちなみに健忘の対象はエピソード記憶に限定され、過去に取得したスキルや運動能力(パソコン、自転車、将棋など)については残存していることが多く、それが適応の回復に役立つことが少なくない。
 解離性遁走に見られる一見目的のない放浪がともなわない全生活史健忘もあるため、DSM‐5やICD‐11で前者が後者の下位分類となったという経緯がある。また短期間に見られる解離性健忘は臨床的に掬い上げられていない可能性もある。また一時的にストレス状況、例えば戦闘体験や監禁状態に置かれた際に生じた健忘は比較的短期間で回復することも少なくない。
疫学その他
 解離性健忘は、その発症に先立ちトラウマやストレス体験が生じていることが多い。それらの例としては職場や学校でのストレスやトラウマ以外にも小児期の被虐待体験、戦闘体験、抑留などが挙げられる。また解離傾向などの遺伝的な負因も関与している可能性がある。なお高度に抑圧的な社会では文化結合症候群などに結びついた解離性健忘に明確なトラウマが関与していない場合がある。」

2021年5月19日水曜日

どの様に伝えるか? 解離性障害 7

 結局DIDの診断には症状の縦断的な流れを聴取することがとても重要になる。実際にはDIDにおける幻聴や周囲との関係性に関係念慮的なニュアンスが加わることもあり、それは重症対人恐怖症における精神病様症状の鑑別の困難さに通じるところがある。幼少時から生じている解離様症状については、それがDIDの症状であるという可能性をより強く考えつつ、場合によっては統合失調症との併存を考え、場合によっては抗精神病薬を用いることで反応を見ることも考えるべきであろう。
 通常解離性障害における精神病様症状は抗精神病薬にあまり反応しないが、とりあえずは少量を用いて反応を見ることに関しては問題はないであろう。事実DIDの方で抗精神病薬を少量服用することでより安定している患者さんはいる。ただしそれは統合失調症の可能性をより強く示唆するともいえないであろう。
詐病のような振る舞いをすること
 これについては前回以下の内容で書いたが、あまり変える必要を感じない。しかしこのままコピペをすると「自己剽窃」になってしまいかねないから手を入れなくてはならない。

「 解離性障害について患者に説明をするうえで重要なのは、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。そしてそのために詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。ある患者は診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から主人格に戻った。その変化が瞬間的に見られたために、それを観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格の姿を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。」

           👇

「 解離性障害について患者に説明をするうえで重要なのは、その症状のあらわれ方が、時には本人によりかなり意図的にコントロールされているように見受けられることである。その理由についてはすでに述べたことであるが、精神科のみならず身体科のあらゆる症状を示す可能性があるからであり、これは一般科の医師のみならず本人にとってもどこまでそれを意図的にコントロールしているかがわからなくなってしまう場合もある。あるクライエントはネギをトントンと刻んでいるうちに(中略)コントロールが出来なくなってしまったという。その症状はほどなくして治まったが、そのような訴えを聞いて「自作自演ではないか」という疑いの目を向ける精神科医も少なくないであろう。一般人なら「そんなものは病気ではない、気のせいだ」と一蹴されてしまうであろう。またある患者はDIDの診断は確定していたが、診察室を一歩出た際に、それまでの幼児人格から瞬時に主人格に戻って受付に普通に会釈をした。その様子を観察していた看護師から、患者がそれまでは幼児人格を装っていたのではないかと疑われた。
 これらの事情から解離性障害は詐病扱いをされたり、虚偽性障害(ミュンヒハウゼン症候群)を疑われたりする可能性が高い。一般に解離性障害の患者は、自分の障害を理解して受容してもらえる人には様々な人格を見せる一方で、それ以外の場面では瞬時にそれらの人格の姿を消してしまうという様子はしばしば観察され、それが上記のような誤解を生むものと考えられる。治療者はその様な扱いを患者が受け続けてきた可能性も含めて話を聞き、場合によってはそれまでの苦労に理解を示すことも重要になってくるであろう。そして何よりも、解離性障害の臨床においては、そのような「疑い」の気持ちを起こさせる性質を自分たちの中に気づくことも大切と言えよう。」

2021年5月18日火曜日

母子関係の2タイプ 4

日本におけるストレンジ・シチュエーション
 日米の子育て環境についての研究としては、いわゆるストレンジ・シチュエーション・プロシージャ―(SSP)の研究が挙げられる。1984年に行われた札幌での研究は、しかしその後多くの議論を巻き起こし、結果として日欧の子供の在り方をめぐる比較研究は不幸にも頓挫したままであるとの印象を受ける。その経緯について簡単に述べたい。
 SSPはメアリー・エインスワースが子供の愛着のパターンを知るために考案して一大センセーションを巻き起こした実験的な手続きのことである。それはある部屋に母親が子供(9~18か月)と一緒に入り、次に見知らぬ他人が入って来て、さらに母親は子供をおいて出て行く。そしてそれに対する幼児の反応を観察し、次に母親が戻ってきた時のそれに対する子供の反応を観察する、という一連の流れにより構成されている。このSSPはその中に子供が母親から置いておかれるというプロセスを含むために、それに対する日本と欧米の子供の反応の違いが見られるという期待があった(要引用文献)
 エインスワースは子供の反応について、それをA型「不安定(回避)型」(戻ってきた母親に無関心。母親が出て行っても戻ってきてもあまり関心を示さない。)、B型「安定型」(母親に抗議するが、すぐ落ち着く。)、C型「アンビバレント(両価)型」(お母さんが部屋に戻ってきたときに抵抗を示す。身体接触は求めるが同時に抵抗も示す。たとえば抱き上げようとすると泣き、おろそうとすると怒ってしがみつく。お母さんが部屋から戻って来るとお母さんを求めて泣きだすが、お母さんのもとへ近寄ろうとしない。お母さんが近付くと、抵抗を示す。)その後、メインとソロモンが上記3つに当てはまらない愛着のタイプを発見し、D型「無秩序型(無方向型)」を追加した。
 ちなみにエインスワース自身の研究による各タイプの比率構成は、A タイプが 21%、B タイプが 67%、C タ イプが 12%というものであった。ちなみにこの比率は、その後、世界 8 カ国で行われた 39 の研究、約 2000 人の乳児のデータを総括して得られた、各タイプの比率とほとんど変わらないものである(van IJzendoorn & Kroonenberg,1988)。ただし社会文化による違いが存在しないという訳ではなく、例えば、ドイツでは Aタイプの比率が、またイスラエルのキブツや日本ではCタイプの比率が相対的に高いということが知られているのだ。
 日本では1984年に札幌の三宅、高橋らの手によりこのSSPが日本の母子を対象にして施行された。しかしそこでの結果は欧米における結果と大きく異なるものとなった。日本のサンプルでは、A型がゼロで、C型が30パーセントであると報告されたのである。つまり約三分の一がアンビバレント型であり、子供は自分を残して出て言った母親が戻った際に大きな情緒的な反応を見せたのである。
 これについて三宅らは、このSSPの結果が日本の子供の愛着スタイルの異常を示すという見解は取らなかった。日本の母子はいつも一緒にいるので、SSPという設定自体にさらされた子供自体が驚いてしまい、むしろそれが正常に近い反応であろうと主張した。すなわち日本でC型が多いからと言って、不安定な愛着が起きているとは言えない、と説いた。
 三宅によれば「日本の母子は常に近い身体接触を持つので、この実験状況自体があまりにも奇妙でストレスフルであるという反論が書いてある。だから日本におけるCの多さは不安定な愛着を示してはいないのだとされた。Owing to the facts that Japanese mother and infant relationship is typically characterized by constantly close physical contact and by the infrequency of separation from the mother, and that the Japanese infants tend to have a temperamental disposition towards fearfulness and irritability, it can be expected that the Strange Situation will be too strange and too stressful for Japanese infants. Thus they did not consider the C type of response of the Japanese infants as a direct reflection of a greater tendency to be insecurely attached. (下線部は岡野の強調)。(Ujiie, T(1986): Is the Strange Situation Too Strange For Japanese Infants? 乳幼児発達臨床センター年報, 8, 23-29.)
 この日本におけるSSPの結果については、その背景に、社会文化間に存在する子どもやその養育に対する基本的考え方(Harwood et al.,1995)および実際の家族形態や養育システム(van IJzendoorn & Sagi,1999)の差異などが関与している可能性は否定できないという議論も見られた。
  それから30年が過ぎて、初めて札幌でSSPの実験が行われたが、結果は三宅らのものとあまり変わらなかったという。(Kondo-Ikemura, K et al(2018) Japanese Mothers' Prebirth Adult Attachment Interview Predicts Their Infants' Response to the Strange Situation Procedure: The Strange Situation in Japan Revisited Three Decades Later Developmental Psychology 54 (11)
 「例のA,B,Cの分類は似たような結果になったという。そこでは不安定型の子供のうち両価的な子供が主たる位置を占めた。そして解体型の割合も世界と同じレベルだった。そして解体型の子供の反応は、母親の未解決の心的状態によって予測されていた。」

2021年5月16日日曜日

離隔 4 (ドーパミンシステムとの関連)

 ここで少し面白い記事を発見。1998年というかなり古い論文だが、このNIMHのBreier 先生のチームの研究によると、従来離隔やよそよそしさとドーパミンの関係が取りざたされていたという。こんな研究デザインだ。Karolinska Scales of Personalityというパーソナリティスケールがあるという。そのうちの一つがDetachment scoresで、離隔傾向を調べるというのだ。このスケールの得点と、その人が線条体でD2リセプターの濃度ととても顕著な相関関係が見いだされたという。これが示すことは次のような事だろう。D2の過剰刺激が統合失調症で生じているとしたら、いわゆる分裂気質的な傾向を持つ人にも同じようなことが言えないであろうか、と考えて実験をしてみたところ、同じようなことが言えた。だからこれは統合失調症のドーパミン仮説を裏付ける結果と考えていいだろう、と。しかしこの研究が最近あまり進んでいない印象だ。なぜなら「detachment, dopamine D2」 で検索してもあまりヒットしないからだ。でも2003年の論文を見つけた。これによるとこの見解をサポートする結果が得られた、とある。
Erik G Jönsson (2003) Association between a promoter dopamine D2 receptor gene variant and the personality trait detachment. Biol Psychiatry, 53:577-84.
2012年のある研究(Cervenka,S (2012) Changes in dopamine D2-receptor binding are associated to symptom reduction after psychotherapy in social anxiety disorder. Translational Psychiatry, 40)は、線条体以外の、例えば前頭葉や辺縁系など、社交不安障害に関連していると考えられている部位のドーパミンD2受容体を調べたところ、これが治療により症状が軽快するとともに低下してきたという結果を報告している。この論文でこんなことが書かれている。A role for the dopamine system in social behavior has been demonstrated in both animal research and human studies. Molecular imaging studies have shown negative correlations between striatal DA markers and the personality trait detachment as well as different measures of social conformity and low social status.
ドーパミンシステムと社会行動の関係は人間でも動物でも確かめられている。そして線条体のドーパミンマーカーと離隔やその他の社会との協調性のスコアの低さが研究されている。
という事で次のことくらいは書けそうである。

外向性(対内向性)という性格特性は、アイゼンクの提案以来性格特性の一つとしてとしてしばしば話題とされてきた。Detachment やその他の社会との協調性を示す行動は、線条体という部位のドーパミンD2受容体の濃度とネガティブな相関があることが知られている。この概念はビッグファイブの一つとして取り上げられ、それが不足している状態が離脱として概念化されている。他方ではその生物学的な基盤についての研究も進んでいる。そして線条体のドーパミンマーカーと離隔やその他の社会との協調性のスコアの低さが示されている。
Breier, et al (1998) Dopamine D2 Receptor Density and Personal Detachment in Healthy Subjects. American Journal of Psychiatry, 155: 1440-1442.
Jönsson, EG (2003) Association between a promoter dopamine D2 receptor gene variant and the personality trait detachment. Biol Psychiatry, 53:577-84.
Cervenka,S (2012) Changes in dopamine D2-receptor binding are associated to symptom reduction after psychotherapy in social anxiety disorder. Transl Psychiatry. 2012 May; 2(5): e120.

2021年5月15日土曜日

どの様に伝えるか? 解離性障害 6

幻聴などの精神病様の現われ方をすること

 解離性障害のもう一つの問題は、それがしばしば精神病様の症状を伴うために、診断を下す立場の精神科医の目を狂わす可能性が高いということである。しばしば語られることであるが、DIDの患者さんはシュナイダーの一級症状を統合失調症以上に満たすとされる。このことをリチャード・クラフト先生が昔発表した時に、私たちはとても驚いたものだ。ちなみに以下の9つが一級症状である。

1. 対話性幻声 (問答形式の幻声、複数の声が互いに会話しているような幻聴)
2. 行動を解説する幻声 (自分の行為にいちいち口出ししてくる幻聴)
3. 思考化声 (自分の考えが声になって聴こえる)
4. 思考吹入 (他者の考えが自分に吹入れられる)
5. 思考奪取 (他者に自分の考えを抜き取られてしまうような感じ)
6. 思考伝播 (自分の考えが周囲につつ抜けになっているように感じる)
7. させられ体験 (感情、思考、行為が何者かにあやつられているような感じ)
8. 身体的被影響体験 (何者かによって身体に何かイタズラをされているような感じ)
9. 妄想知覚 (見るもの聞くものが妄想のテーマに一致して曲解・誤認される)

以下もウィキ様から引用する。

「1939年に発表されたもので、シュナイダー (Schneider,K.) はこの1級症状のうち一つ以上が存在すれば「控え目に」統合失調症を疑うことができるとした。 しかしクラフトは、DIDの可能性を示す主な兆候として15項目をあげ、その11番目に「妄想知覚を除くシュナイダーの第1級症状」をあげている。「身体的被影響体験」も解離性障害でみられることはまずないが、その2つ以外はむしろDIDに多く該当する。」

 ただしこの記述のうち、「身体的被影響体験は」私はしばしば耳にするのである。しかし自分の考えが声になる、自分の考えが相手に伝わる、あるいは妄想的な着想を得る、という話は解離の方からは聞かない。
「実際に統合失調症患者ではこのシュナイダーの1級症状の適合は1 - 3項目ぐらいであるに対し、DID患者では3.6項目とほとんど倍ぐらいである Kluft, 1987)。但しは見られなかったそうだ。」

 私はこの見解に賛成である。考想化声、思考伝播、妄想知覚以外のシュナイダーの一級症状はむしろDIDに頻繁に聞かれる。そしてこのことはある重要な疑義を呈しているのだ。果たしてシュナイダーが見ていたのは、統合失調症の患者だったのか、それともDIDとの混合だったのか。DIDの概念が精神科医の間で整備されていなかったことを考えると、シュナイダーやブロイラーがあっていた患者さんはひょっとしたら、DIDだったかもしれないのだ。これには歴史があり、スピッツァーなどの考えにより、させられ体験と会話しコメントする声は、DSMIIIに始まりICD-10に至るまで、統合失調症の診断の一部に組み込まれたくらいである。ところがDSM-5により大きく方針が変更となり、一級症状を重んじる立場は否定されることとなった。
  私がここで強調したいのは、統合失調症のようなメジャーな疾患でさえも、その診断基準や分類はその時代により大きく変わり、それはそれまでも常識をも覆すことがある。(破瓜型、妄想型、緊張型などの分類がDSM-5で消えてしまったことを考えればそれがよく分かる。)そしてそのことは「幻聴と聞いたら統合失調症」という従来の常識をも疑い直さなくてはならないという事を意味するのである。

2021年5月14日金曜日

離隔 3

「顕著なパーソナリティ特性」離隔 detachment
 離脱について改めて書き直すわけだが、そもそも自分はパーソナリティについて分かっていない。離隔についてICD-11の草案は次のように示している。
 「 離隔特性の中核は,対人的な距離や情緒的な距離を遠くに保つ(対人的な離隔,情動的な離隔)という傾向であり,以下のような共通した表現を伴う.社交的な離隔(社交的な交流の回避・交友の欠如,親密さの回避)・情動的な離隔(打ち解けなさ,高慢、限局された情動的な表現や体験)」
 これをDSM-5の「離脱 detachment」と比べてみる。
「社会情動的体験を回避することであり,(日常的な友人との交流から親密な関係にわたる)対人的相互関係からの引きこもりと,制限された感情体験および表出,とりわけ快感を感じる能力が限定されていることの双方が含まれている。」
どちらもあまり変わらない。実は私はこの離隔の項目を書くことに気が進まない。なぜならこの「離隔」は書きにくいのだ。なぜならば、これは典型的な「構成概念」だからである。もし典型的な「離隔」的な人がいたとしよう。それらの人を集めて、その人たちはA,B,C,D・・・・という性質を持っていたとする。それは脳や心の機能にある種の原因があり、例えばその人の脳が「離隔」菌に冒されて離隔的になっているのであれば、その本質を探っていくことになるが、そういうわけではない。マクリー、コスタが作り上げたビッグファイブの性格特性の一つとして掲載され、いわば概念が最初に出来てしまった感じ。それを最初に作ってからその本質を探れと言われてもなかなかその気になれない。それらがDSM-5に記載されているように、「引きこもり」、「親密さの回避」、「快感消失」、「抑うつ性」、「制限された感情」、「疑い深さ」という6つの要素に分かれると言われても、それではそれぞれの一つずつについて解説すれば、全体として「離隔」を説明することになるのか。でもこれらの要素のいくつか、例えば「親密さの回避」と「制限された感情」は全然別のことのような気がする。親密になった時の感情が苦しいからそれを回避するのであれば、感情に制限があるどころか、感情が激しすぎるという事にもなるだろう。しかし、である。この
 6つのファクターを共通して持っている人を考えよう。何となくイメージが浮かび上がってくるような気がするではないか。「離隔」パーソナリティ障害とでもいうべき人が。とするとOCEANの開放性、誠実性、外向性、協調性、神経症傾向のそれぞれについて、それが欠けたパーソナリティ障害がある、と考えるならば、DSMのこれまでのパーソナリティ障害とどこが違うのか。
 私はこのビッグファイブの繁栄が因子分析により生み出されたことによるという事はわかっているつもりである。これらの5つがそれぞれある程度独立変数として動くことが分かっているからだ。という事はこれらの5つについて、ひょっとしたらある種の脳科学的な基盤があるのかもしれない。という事で日本語版のウィキペディアを調べてみると、「近年、パーソナリティ研究は心理学の領域のみならず、脳神経科学、遺伝学、進化論、政治学、精神医学、犯罪学などと結びつき、新たな知見をもたらしている」と書いてある。やはりね。しかもこの記事はとんでもなく膨大なものだった。実はこのパーソナリティに関する研究はとてつもない奥行きを持っているらしい。
 という事で本質的な事にはあまり手を付けず、私は離隔、あるいはそれとペアになる「外向性」との関連について2800字以内に収めて概説をすることにしよう。
 ちなみに離隔は外向性のネガという事になっているようだ。「社交的/エネルギッシュ」対「孤独/控えめ」という次いで考えられる。「外向性は、活力、興奮、自己主張、社交性、他人との付き合いで刺激を求める、おしゃべりであることを表している。過度の外向性はしばしば注意を引き、威圧的であると認識される。外向性が低いと内気で内省的な性格が現れ、それはよそよそしい、または自己完結的であると受け取られることがある。このような状況では、内向的な人とは対照的に、外向的な人が社会的な状況でより優勢に見えることがある」(Wiki様)。そしてこの概念は、アイゼンクの「外向性・内向性」に由来するという。このことも念頭に置いて、調べていこう。

2021年5月13日木曜日

母子関係の2タイプ 推敲 3

1. 日本における子育てと「甘え」
 日本ないしはアジアにおける子育てを欧米型との対比で論じることはすでに多くなされている。キリスト教においては子供は悪魔であり、厳しいしつけが必要であるという考えが一般的である(Jolivet, 2005)一方で、アジアでは子供は天使であるという見方が多い(Chao and Tseng 2002)とされる。本論文の冒頭に紹介したベネディクトの文章にも表れているが、おそらく多くの西洋人にとって、日本の子育ては甘やかし overindulge と思われるであろう(Okano, 2019.) そしてその一方で父親の影は薄いとされる(Shwalb, et al, 2004)
Shwalb, D. W., Nakazawa, J., Yamamoto, T., & Hyun,J.-H. (2004). Fathering in Japanese, Chinese, and Korean Cultures: A Review of the Research Literature In M. E. Lamb Ed.), The role of the father in child development (pp. 146–181).

 私の研究分野である精神分析では、土居の「甘え」は一つの鍵概念として扱われる。甘えは「甘える」という動詞の名詞形であり、「甘える」とは「他者のやさしさに頼ってそれを前提とすること to depend and presume upon another's benevolence’.」 (Skelton,R.(Ed.).2006. The Edinburgh International Encyclopedia of Psychoanalysis).などと表現される。この用語は土居により1950年代に導入された。これは日本人の対人関係を描くために導入されたが、無意識的には文化を超えて起きているものであると考えられた。土居によれば、甘え、すなわち愛されることに進んで浴することは治療の初期からみられ、転移の核になるものであると考えた。彼は健全な形の甘えとその結果としての成熟した依存関係が極めて大切であると考えた。
 土居の甘えの概念は海外に大きなインパクトを与えた。西欧においては分離個体化による自己の達成こそがその個人の成熟と見なされる傾向にあったからだ。精神分析においては、子供の独立はエディプス的な状況で醸成、促進される。そこでは懲罰的な父親が息子が母親と親密になることを阻止する。父親に向けられた敵意は去勢不安を引き起こすが、それは母親に対する欲望の結果として自分が去勢されてしまうのではないかという恐れである。その不安と対処するために、息子は父親と同一化し、母親への願望を他の女性への願望に置き換える。しかしこの理論は日本の場合にはあまり当てはまらないことが多い。なぜなら甘えに基づいた母子の緊密な関係性は社会で受容されているからだ。私はかつてある論文で次のような記述をした。
 「日本の家庭内では、子供は父親ともとても近い関係にある。しかし母親との関係ほど親密ではない。子供は西洋の家族とは異なり、両親と一緒の寝室で寝ることが多い。日本の父親の注意は職場に向けられることが多く、夕刻や週末の時間は会社のために割かれることが多い。ある意味では日本の息子は、さほど去勢不安を刺激されることなく母親の注意をひくことが出来るのである。このように彼らの去勢不安はかなり軽減されているはずだが、だからと言ってエディプス的な父親が日本の家族には見いだせないという意味ではない。伝統的な日本の家父長は子供に厳しく、母親の甘やかしとバランスを取っているという所もあった。しかし日本の父親はさほど母親を独占するという傾向はない。日本の両親は子供の両側に寝ることで子供は両方から守られているという気持ちを持つ。父親によっては、子供が母親と近いことはうれしいものの、自分だけ仲間外れにされたという気持ちを持つかもしれない。ともかくも日本の父親はさほど去勢的ではないわけだが、彼らは仕事場や共同体の中で彼ら自身が去勢不安を感じているという可能性がある。彼らはそこで職場に対する忠誠を要求されているからだ。」
 すでに述べたように、日本社会における懲罰的な力は家の中における父親的な存在ではない。それは個人が所属している団体だったりするのだ。日本社会では、目立つことはそれが社会をかき乱すという意味で目を付けられる。共通の利益にとって最も大切なのは、平和と強調なのである。人は他者と同じようにすることに努力を傾けることで排除されずに済むのだ。エディプスの話では、タブーなのは父親に対する敵意である。しかし日本社会では、それを統率している不文律に挑戦することなのである。

2021年5月12日水曜日

どの様に伝えるか? 解離性障害 5 

最初からの書き直し、という感もあるが …。

 本論文では解離性障害の当事者に対して行う「実感と納得に向けた病気の説明」について論じるが、その背景には最近米国で論じられることの多い「Shared decision making (SDM) 一緒に決めていくこと」という概念がある。これはいわゆるインフォームドコンセント(説明をした上での同意、以下IC)の先を行く概念であり、ICよりさらに丁寧なバージョン、患者寄りのバージョンと考えてもいいかもしれない。
 ICにおいては医者は患者に対して「このお薬はこのような作用と副作用がありますが、それをご理解なさった上でよろしければこの書類にサインしてください。」と働きかける。それは確かにそれ以前にありがちだった「黙って私の出す薬を飲みなさい。」という医師の態度よりははるかにましだろう。しかしそれでも患者の立場からは次のような不満が聞かれる筈だ。「もっと分かりやすく、他にどのような薬があるのか、飲まなければどうなるかも説明して欲しい。」
 患者さんの側からすれば全くその通りなのである。ただ医師の立場からすれば、これはとても時間のかかることでもある。しかも薬Aを最初に出すときに説明をすればいいというわけではない。例えば薬をAからBに変えるにしてもBの副作用のリストアップをして、AからBに切り替えるときにどうするのか、Aを少しずつ量を減らして言って、いつからBの少量を初めて・・・・・。と説明するのには膨大な時間がいる。そしてそのための患者さん一人当たりの外来の時間を延ばす余裕は全くないのだ。いや、延ばそうと思えばできないことはない。しかし一日例えば30人の患者さんに費やす6時間は、それにより12時間になりかねない。しかも患者さんに費やす時間が倍になっても収益は少し増えるだけである。すれば出来ないことはない。一人の患者さんに使う時間を倍にすることはできるだろう。しかし日日の患者さんの数は変わらない。そう、DSMを行うためには、医師が扱う患者さんの量が制限されなくてはならない。

1. 解離性障害の診断を惑わす要素

まず説明をする医師の側に私の方から「説明」をさせていただきたいことがある。それは解離性障害を理解し説明することに対して、なぜ多くの臨床家が苦手意識を持つのかということの説明である。

解離性障害が含みうる症状が幅広いということ

解離性障害の分類は徐々に精緻化しているが、最新のICD-11の分類では、例えば従来の転換性障害の代わりに「解離性神経症状症 Dissociative neurological disorder という分類となったが、それはさらに以下の下位分類を持つ。

  • 視覚症状を伴うもの、
  • 聴覚症状を伴うもの、
  • めまいを伴うもの、
  • その他の感覚変容を伴うもの、
  • 非癲癇性の痙攣を伴うもの、
  • 発話障害を伴うもの、
  • 脱力または麻痺を伴うもの、
  • 歩行症状を伴うもの、
  • 運動症状(舞踏病、ミオクローヌス、振戦、ジストニア、顔面けいれん、パーキンソニズム、のうちのいずれか)を伴うもの、
  • 認知症状を伴うもの。

これらの細かい細分化は、解離症状が神経や運動に関するあらゆる症状を呈する可能性があることを表している。つまり解離性症状はまさにキメラのような症状を呈する可能性があり、それは精神科、あらゆる身体科の症状をカバーする。もちろんこのような精神疾患は他にない。そして大概の場合症状が現れた時点で神経内科や身体科を受診することとなり、そこで診断がつかずに最終的に精神科に送られることになり、最終的に解離性の病理が同定されるケースも多い。

解離性障害を専門に扱うべき精神科の領域においてさえも、この障害は十分に認識されてこなかった。現在私たちが解離性障害として理解している病態が古くから存在していたことは疑いない。しかしそれらがヒステリーの名と共に認知されていた時代は著しい偏見や誤解の対象とされてきた。

20世紀になり、統合失調症が大きく脚光を浴びるようになると、解離性障害はその存在自体が過小評価されたり、精神病の一種と混同されたりするようになった。昨今の「解離ブーム」により解離性障害に新たに光が当てられ始めているが、その診断はしばしば不正確に下され、統合失調症などの精神病と誤診されることも少なくない。

解離性の身体症状の中でも痙攣はしばしば精神科医と神経内科医の両方にとって混乱のもととなっている。これが従来偽性癲癇、ないしはNon-epileptic seizure (NES, 非癲癇性痙攣)と呼ばれる病態であるが、難しいのはこの偽性癲癇の患者の50%は真正の癲癇を伴うという報告もある(Mohmad, et al. 2010)。すなわち真性癲癇と偽性癲癇は共存する(!!)という事にもなるのだ。

2021年5月11日火曜日

母子関係の2タイプ 推敲 2

(中略)
 さてここから先の部分は英語でしか書いていないので、日本語に直しつつ書き進める。この後に何が起きたのかと言えば、彼らの息子はその後「夜驚症」を発症した。これは寝入ってからしばらくしてパニック状態のようになり、宥めても本人には全く通じず、そのうち寝てしまうというエピソードで、これが一日おきくらいに起きるという事が3年ほど続いた。本人は全く覚えていないのだが、少年の両親にとっては、それが起き始めたタイミングからも、これが4歳にして二回も開腹を受けた影響であろうかと思った。その後もこの子供は夜寝るときも母親に手を握ってもらうことを要求したという。彼の両親はこんなことでは子供を余計に甘やかしてしまうのではないかと思ったという。そして精神科医の私にも相談を持ち掛けたというわけである。私は自分の息子にそのようなことが起きたらどうするだろうと思いながら、「まあ、好きにさせればいいんじゃないですか?」とだけ言っておいた。そして心の中では、この子供が将来どのように育っていくのかをしっかり追っかけさせていただこうと思ったわけだ。
 さてそれから数年して私は帰国後の日本で彼ら夫妻に久しぶりに会い、彼らの息子さんのその後の様子を聞いた。すると「あれから夜驚症はおさまって、思春期になるとあっという間に自分の部屋に閉じこもり、親とはあまり口を利かなくなり、大学に入るとともに地方での一人暮らしを開始し、盆と暮れに顔を見せるくらいになってしまったという。彼は依存的な青年になるどころか、一人暮らしを満喫し、実家に寄り付かなくなってしまったのである。
 私はここで一つのことを学んだつもりになったが、それは「好きなだけ甘やかせても、子供は独り立ちをする」であった。しかしこれをもう少し掘り下げてみると、むしろ親の側の甘やかしを押し付けていた分があり、それが彼らの息子を追いやったのではないか、という事である。おそらくもともとは寂しがり屋だった彼らの息子は、親元を離れたくないという気持ちもあったのであろう。彼は大病をしたせいもあり、幼少時はどちらかと言えば病弱だったために、彼らの両親は過保護気味に彼を扱っていたこともあり、彼はそれを心強く思う分と、気恥ずかしく情けない部分の両方を持っていたのだ。そこで彼は大学入学を期にポーンと家を飛び出し、親のことなど少しも思い出さないかのような振る舞いをしている可能性はないだろうか。
 ともあれここで私の多少なりとも強引な仮説を示す。
「甘えさせ」は場合によっては分離個体化を促進する・・・。土居先生でも「まあ、それでもいいじゃないの?」とは言ってくれない気がするが、まああり得ないことでもないだろう。というか私自身胸に手を当てると、これが当てはまるようなところがあるのである。

2021年5月10日月曜日

解離性健忘 書き直し 9

 解離性健忘の治療

便宜的に初期、中期、後期の三段階に分けて論じたい。第一期は安全や安定の確立,第二期は記憶の再構成、第三期 リハビリテーションや社会復帰、である。
第一期 安全や安定の確立

第一期では安全や安定の確立を目指す。可能な限り責任ある仕事や役割を離れ、ストレスのない完全な環境で過ごすことを心がける。その際に当人や家族に対する情報提供や心理教育、今後の治療方針についても伝える必要がある。それは解離性健忘の特徴、すなわちトラウマや大きなストレスを体験した時に、心がそれを処理しきれない時に起きる防衛本能として健忘が生じるという説明をする。ただし時にはそのような明らかなトラウマの体験が思い当たらない場合もあるので、原因を必要以上に追究する必要はないことを伝える。そして解離性健忘は、基本的には社会復帰を目指すことが可能な、予後が比較的よく、繰り返されることも少ない病気であることを説明する。また記憶は何年かたって突然戻ることもあるが、それを期待したり記憶を甦らせようと本人や周囲が躍起になることは当人のストレスを増すことになる可能性を伝える。当人には記憶の欠損以外に精神科的な症状は見られない場合が多いが、復職や社会復帰は急がずに、当人が好きだったり興味を持てる趣味その他の活動をしつつ平穏な毎日を送ることを心がける。

この時期には家族も当人への対応に戸惑い、疑問に持つこともあるために、家族へのサポートも重要である。当人が忘れたふりをして家族への責任を回避しているのではないかと考える家族には、解離性健忘という疾患についての理解を促し、演技ではないことを伝える必要も生じてくるであろう。

 2段階 :外傷記憶の想起とその消化 

<個人年表づくり>

当人の社会復帰に応じて、当人の過去の生活歴の中で知っておいたほうが適応上好ましい出来事は、知識として獲得したほうがいい場合がある。本人の通った学校やそこでできた友達、当時はやっていた事柄、社会状況などについては、当人が抵抗を示さない限りにおいてはリストアップし、年表を作ることも助けとなる。ただしそれが当人のストレスにならない限りにおいてである。またその過程で自然と想起される事柄もあるであろう。またその際に不可抗力的に過去のトラウマ的な出来事が想起された際はそれに応じた治療的な介入も必要となろう。

なおその際解離性健忘が生じた時の生活や仕事の環境の中でストレスになった可能性のあるものは今後は回避すべきであろうとの洞察が得られることもある。例えば技術職として適応していた人が昇進して管理職を任されたことでストレスが高じて解離性健忘を引き起こした可能性のある場合は、それを考慮した症例の職業選択も必要になる。なお解離性健忘が何らかのトラウマ的な出来事に引き続いて起きたことが明らかな場合は、自らのトラウマ記憶に向き合い,それにまつわる不安や恐怖を和らげ,それを克服するこが中心となる段階でもある。これらの活動をしつつ、徐々に健忘以前の生活スタイルに復帰することを促す。病前に興味のあったこと、新たに関心を見出したことについては残存しているスキルを再び用いることが出来るという意味では有効であろう。しかしそれがトラウマと結びついている場合は当然ながらその限りではない。
3段階:再結合とリハビリテーション 日常生活における不安や恐怖を克服し,日常生活に積極的に関与する段階.この段階はこれまで不安や恐怖によって避けていた日常生活の範囲を次第に広げ,様々なストレスに対して うまく対処することができるようになる.全生活史健忘の場合、当人の社会的な能力は保たれていることが多く、特に過去に獲得して失われていないスキルや能力を活用して社会復帰につなげる努力はむしろ重要であろう。

最後の方はかなり流して適当に終わらせているところがある。

 

2021年5月9日日曜日

解離性健忘 書き直し 8

有病率
米国での成人を対象とした小規模研究において,解離性健忘の12カ月有病率は18%(男性10%,女性2.6%)であつたとされる。(DSM-5)
症状の発展と経過
 全般性健忘はわが国では従来全生活史健忘とも呼ばれていた。その中でも臨床的に注意が喚起されるのが、従来解離性遁走と呼ばれていた病態である。その健忘の対象は自分の生活史全体(幼少時からの全体、ないしはその一部)に及ぶ。通常その発症は突然であり、そのために社会生活上の混乱を招くことが多い。典型的な例では仕事でのストレスを抱えていた青年~中年男性が通勤途中で行方が分からなくなり、しばらく遠隔地を放浪したり野宿をしたりして過ごす。その間は意識混濁を伴った解離状態ないしトランス状態となり、その期間は通常は数時間から数日、時には数か月も及ぶ。そして我に返った時には自分についての個人史的な情報、時には名前さえも想起できないことがあり、当人は通常は非常に大きな困惑感を持つ。
 発見された時点で救急治療の対象となることが多く、しばしば器質的な異常が疑われて種々の検査(MRI,脳波その他)が行われるが、通常は何も異常を発見できない。帰宅後も家族や親を認識できず、社会適応上の困難をきたすものの、記憶の喪失以外には精神症状はなく、徐々に社会適応を回復していく場合もある。しかしその記憶の回復の程度には個人差があり、時には発症の期間も含めた過去の記憶を回復しないままで両親や妻子を他人としてしか認識できないで過ごす。事例によっては発症時までの記憶を回復するが、トランス状態で遁走していた時期の出来事まで想起することはまれである。
 ちなみに健忘の対象はエピソード記憶に限定され、過去に取得したスキルや運動能力については残存していることが多い。過去に獲得した技能(パソコン、自転車、将棋など)や語彙などは保たれていることも多く、それが適応の回復に役立つことが少なくない。なお遁走していた時期の記憶が回復することは例外的と言える。症例はそれ以前に解離性の症状を特に持たなかったことも多く、別人格の存在も見られないことが多い。(ただしDIDにおいて特定の人格が一時期独立して生活を営んでいた場合も、その病態がこの全生活史健忘に類似することがある。)
 解離性遁走に見られる一見目的のない放浪がともなわない全生活史健忘もある。また短期間に見られる解離性健忘は臨床的に掬い上げられていない可能性もある。また一時的にストレス状況、例えば戦闘体験や監禁状態に置かれた際に生じた健忘は比較的短期間で回復することも少なくない。
疫学その他
 解離性健忘は、その発症に先立ちトラウマやストレス体験が生じていることが多い。それらの例としては職場や学校でのストレスやトラウマ以外にも小児期の被虐待体験、戦闘体験、抑留などが挙げられる。また解離傾向などの遺伝的な負因も関与している可能性がある。なお高度に抑圧的な社会では文化結合症候群などに結びついた解離性健忘に明確なトラウマが関与していない場合がある。」
鑑別診断
 正常の健忘:軽度の想起困難や幼児期早期の出来事の想起の健忘は正常時に起きうる。しかしそれらの健忘の対象が重大な人生の出来事や、高い心的ストレスやトラウマに関することではない。
PTSD,ASD:これらにおいてはトラウマ的な出来事の記憶が断片的となったり健忘されたりする場合がある。その際フラッシュバックや鈍麻反応などの診断基準を満たす場合には、解離性健忘の診断はそれに付加される形となる。急性ストレス反応の症状もとストレス因となった出来事に対する一時的な健忘を含むことがある。これらの健忘は時間がたてば部分的に回復することもある。
解離性同一性症(DID): DIDにおいても、部分的DIDにおいても、それを体験した人格がその後に背景に退くことにより、解離性健忘に類似した臨床像を呈することがあるただしその場合はその記憶を保持している明確な交代人格が存在することで解離性同一性症の診断が優先される。
神経認知障害群: いわゆる認知症に伴う健忘の場合は、健忘はその他の神経学的な所見、すなわち認知,言語,感情,注意,および行動の障害の一部として生じる。埋め込まれている。解離性健忘では,記憶障害は本来自伝的情報についてであり,知的および認知的機能は特に障害されないことが特徴である。
物質関連障害群: アルコールまたは他の物質・医薬品による度重なる中毒という状況において,“ブラックアウト"のエピソード,すなわちその人が記憶を失う期間があるかもしれない。
頭部外傷後の健忘: 頭部外傷により健忘が生じることがある。その特徴としては,意識消失,失見当識,および錯乱,等が見られることである。さらに重度の場合には,神経学的徴候(例:神経画像検査における異常所見,新たな発作の発症または既存の発作性疾患の著しい悪化や視野狭窄,無嗅覚症)が含まれる。

てんかん: てんかんの人は,発作中,または発作後に引き続く健忘に伴う形で、無目的の放浪などの複雑な行動を示すことがある。解離性とん走の場合はより目標指向的で,数日間~数か月間続くことがある。
一過性全健忘(TGA): 初老期に多く、前行性健忘を伴って突然発症し、長くとも24時間以内に回復する。発作中も自分のアイデンティティの認識は保てるが、過去の数分に起きたこと以外は思い出せず、また新たな記銘も障害される。脳血管障害のリスクとは無関係と考えられ、また予後も良好とされる。あくまでも新しいことの記銘ができないだけであり、過去のことは想起できる点が解離性健忘と異なる。

2021年5月8日土曜日

解離性健忘 書き直し 7

今回もネットでただで手に入るありがたい論文から情報を得よう。
Arena,JE, Rabinstein, AA(2015)Transient global amnesia. Mayo Clinic Proceedings 90:264-72.

 この論文のAbstract に書かれていることも、だいたいこれまで得られた情報の域を出ない。ただし「突然始まる前行性健忘(つまり何も記銘できないこと)」という記述が最初に出てくる。それに繰り返しの質問(ここはどこ、などと同じことを何度も聞くのは聞いたことをすぐさま忘れるからである)、時には逆行性健忘の要素が加わり、24時間以内に収まる。そしてその際にほかの神経学的な問題は生じないという。静脈の不全、動脈の虚血、片頭痛のタイプ、あるいは癲癇など、いろいろな原因が考えられたが、結局原因不明であるし、予後もよく、脳卒中や転換などのリスクも高まらないという。これはあたかも海馬の機能が一時的にフリーズした状態といえないだろうか。しかしそれがなぜその人の人生の中で多くの場合はただ一回、それも数時間だけ生じて、それから繰り返さないのだろうか。謎は深まるばかりだし、これって解離とどこが違うの、と言われても難しいのではないだろうか。
 この論文を丹念に読んでいくと、やはり出てくる。これを起こしやすいのが、バルサルバ法(要するに「いきむ」こと)、セックスを含む激しい身体運動、冷水での水泳、気温の変化、心的ストレス。それと何度も出てくるので書くが、要するに「パペッツ回路」のどこかに異常が発生しているはずであるという記述。パペッツ回路とは、海馬―脳弓ー乳頭体―視床前核―帯状回―海馬という一回りの脳の構造で、これを脳の解剖で覚えこまされて苦労したわけだが、要するに記憶にはこの一回りの回路がかかわっているであろうという説があり、するとTGAはここのどこかに異常をきたしているのだろう、ということである。
パペッツ回路
 患者はだいたい様子がおかしいと思った第三者が救急に連れてくる。自分ではどうしたらいいかわからず戸惑っているからだ。混乱していたり不安に感じたりしている。そこで認知テストをしてもだいたいは異常がない。(ただしself-orientation も問題ないと書いてあるが、どうだろうか?まあ「自分が誰かが分かっている」くらいの意味だろう。)また逆行性健忘は診断基準には入っていないが、最近の1,2年のことが思い出せないという形をとって現れることもある、と書いてある。
そこでもう一度整理してみよう。
「一過性全健忘(TGA)初老期に多く、前行性健忘を伴って突然発症し、長くとも24時間以内に回復する。発作中も自分のアイデンティティの認識は保てるが、過去の数分に起きたこと以外は思い出せず、また新たな記銘も障害される。脳血管障害のリスクとは無関係と考えられ、また予後も良好とされる。」
 という書き方をしたが、「あくまでも新しいことの記銘ができないだけであり、過去のことは想起できる点が解離性健忘と異なる」と付け加えると親切だろう。ただしTGAでも逆行性健忘を伴う場合があるのでそれだけ鑑別は難しくなる。
 もう一度解離性健忘との違いを明らかにしよう。
解離では
人格状態A → 人格状態X(数時間~数か月)→人格状態B

ただし人格状態Xはトランス様、いわば「顔なし」状態である。またそこから回復した人格がそれ以前の人格状態Aではなく、新たなBであることが特徴で、すなわち過去の記憶にアクセスすることができない新たな人格状態である。ここには海馬の機能障害はXの間以外は起きていないことになる。

またTGAでは
人格状態A → 人格状態Y(24時間以内)→ 人格状態A

となる。つまり元通りの人格に戻るのだ。ただし人格状態Yは、解離の際のXとは別の性質を持ち、その間は海馬が機能していないので有名な「症例HM」(実際の症例。両側の海馬を損傷し、ちょうどTGA状態に常になっている)ないしは「博士の愛した数式」(小川洋子、ただし記憶は80分持つ、という想定)状態になる。
ええっと、この理解で間違ってないかな?こんなに丁寧に説明しているテキストなどないだろう。

2021年5月7日金曜日

母子関係の2タイプ 推敲 1

はじめに
 この論文の目的は、日本型の教育モデルの中でも特に母子関係におけるモデルを提供することである。
 最初にこの試みの持つ意義を述べたい。この論文は教育学の文脈の中で書かれるが、実は母子関係を教育学の文脈から論じることにはいくつかの困難さがある。一つには母子関係は教育学の見地からだけでなく、心理学的、精神医学的、社会学的な立場からも論じられている問題である。それらの議論や知見を援用しつつ教育学的な見地から論じることは、議論の焦点付けを難しくする可能性がある。さらに筆者の専門とする立場が心理学、精神医学、精神分析学に偏っており、社会学的な立場からの視点を論じるだけの学問的な背景に乏しいことも、この論文に独特のバイアスを与えることになりかねない。
 そこで本論文は主として精神分析学的な考察をベースにして心理社会学的な文献を渉猟しつつ行われることを最初にお断りしておきたい。筆者が主として多く言及するのは土居の甘え理論であるが、この理論は幸い国際的な認知度が高く、また土居自身が精神科医であり精神分析家であったこともあり、主として精神分析的な土壌で論じられたため、筆者にとってなじみが深く論じやすいテーマだからである。
 またこの論文では最終的に母子関係の二つのプロトタイプを提案することになるが、それは大雑把に言えば欧米型と日本型という形になる。しかし私はこれらのどちらかに優劣をつける目的も、またどちらかを二者択一的に用いるという目的も持たない。それは物事を理解する上での一つの区分という意味合い以上を持たないことを最初にお断りしておきたい。

本研究のバックグラウンドとしての個人的な体験

このテーマのモチーフを示すうえで、筆者の個人的な異文化体験について述べることにしたい。から出発することをお許しいただきたい。私と妻が子育てを行ったのはアメリカの中央平原にある、カンサス州トピーカという田舎町だった。この町はメニンガークリニックという精神分析の世界では比較的有名な病院があるだけで、それ以外はこれと言って特徴のない小さな田舎町であった。大きな都市なら日本人のコミュニティもできやすく、また日本語での教育を行う施設も整っているであろうが、この街にはそのような施設はなかった。ただし日本からの精神科医や心理士の数家族が精神分析を学ぶために2,3年の期間そこに滞在し、それらを中心として小さな集団が維持されていたのである。
 そのような米国暮らしの中で生まれた我が家の一人息子は、幼稚園から小学校に進む間、常にクラスや学年で唯一の日本人という状況が続いた。そこで私と妻は子供の成育環境を通して異文化体験を豊富に持つことになった。米国では友達同士がお互いの部屋に泊まりに行き、その送り迎えを親がすべて車で行い、お互いの家に滞在していた時の様子を簡単に報告し合うという事が頻繁に行われた。こうして子供を通して米国の複数の家族との付き合いが深まることとなった。そして日本では常識的と思われる私たちの子育てと、アメリカ人の中流家庭での子育てを、それこそ左右に並べて比べるようなことを十年以上行ったわけだ。そしてそこで私たちはとても顕著な形で両文化の違いを体験することとなった。
 その中で私たちが一番文化の違いとして感じるのは、親と子供との密着度の違いであった。私たちはもちろん夜は一緒の寝室で親子三人、川の字で就寝した。それは私たちが幼少時に日本でそのようにして就寝していたからに他ならない。また私たち夫婦は息子をベビーシッターに預けて外出するという発想は持ちえなかった。これは平均的なアメリカの家庭ではベビーシッターがしばしば登場することを考えれば顕著な違いであった。もちろん私が息子を見ている間に妻が外出するということは当たり前にあったので、妻は息子から離れることに特に不安があったわけではないが、おそらくベビーシッターをあまり信用していなかったのだと思う。というより子供を預けて私たち夫婦が外出しなくてはならないような重要な出来事に遭遇しなかったのかもしれない。
 ただしもちろん私たち夫婦の両親や親戚は遠く離れた日本にいたので、もし彼らが近くにいたら、子供を彼らに任せて夫婦で外出するということは起きていただろう。それに日本では幼い子供を保育園に預けて母親が仕事に出かけることは普通になってきている。ただしそれでも親が幼い子供から離れることへの抵抗という点でやはり私たちは日米の大きな違いを感じたのである。

2021年5月6日木曜日

解離性健忘 書き直し 6

今日書く内容も、本当に知ってよかった。この項目の執筆依頼があってこそ、これを調べることができた。私はこんな機会がないと勉強嫌いで知らないことばかりで過ごすことになる。 勉強(強いられる学び)は本当に大切だ。

<鑑別に追加>一過性全健忘(TGA

ところで私は気になっていたことがある。それは医学生の頃TGAという病気について聞いていたからだ。Transient global amnesia 日本語では一過性全健忘、となる。確か海馬を養う椎骨動脈の血栓で生じるような、純然たる脳障害と思っていたが、結構違うらしい。これを調べなくては。ところがTGAは解離の本にも鑑別診断としてあまり出てこないし、TGAを脳の病気として記載する論文を読むと、鑑別診断に解離性健忘が出てこない。そこで降ってわいたように解離性健忘の鑑別診断としてこの疾患が浮かび上がってきた。

ところでこのTGA,結構ややこしい。初老期に多く、原因は不明という。エー?じゃあますます解離との鑑別が重要ではないか。症状としては突然生じる著しい記憶障害、同じ質問を繰り返す。 24時間以内で自然軽快し、他の神経機能を損なわないという。50~80歳に多く、朝の発症が多い。だいたい続時間は1~10時間。何やら診断基準があるようだ。次のような診断基準が書かれている。

診断基準:

1)発作が目撃され、発作中の情報が観察者から得られる

2)自分が誰かというアイデンティティは保たれる。

3)意識混濁・見当識障害がなく、高次機能障害は健忘による減弱のみに限られる。 

4)発作中、神経学的局所徴候は合併せず、発作後もない。

5)てんかんの特徴がない。

6)発作は24時間以内に消失する。

7)頭部外傷や活動性のてんかん(抗てんかん薬内服中また は、2年間以内に1度以上の発作)がないこと。

少し安心させるのは、改善後の管理は不要であると記載されていることだ。 発作が改善していたら治療の必要はなく、帰宅で良い。運転 制限ふくめ、日常生活の制限は必要なし。また高血圧や高コレステロールは危険因子として含まれないという。つまりこれは血管の問題とは異なるらしいということだ。性差もない。

英語のWIKIの記載が非常に詳しい。そこからもう少し詳しい情報も得られた。TGAの発作が起きた人は、かなり複雑な認知能力も示すことができるが、自分は誰だかわかるし、家族も認識できる。しかし不思議なことに記憶に関しては過去2,3分に起きたこと以外は何も思い出せない。それから数時間以内に記憶は戻り、今度はこの発作のことは健忘される。約三分の一のケースで先行して何らかのきっかけが見られ、それらはセックスを含む激しい身体運動、冷水での水泳、気温の変化、心的ストレスなどであるという。1990年代までは、TGAは一種の血管障害と考えられていたという。でも現在ではTGAの既往は脳卒中などとは関係ないという。(私が医学生だった頃だ。)

これを知らなかったら解離性と間違いやすいだろう。一つの特徴としては、これが多くは数時間で回復するということだ。そしてその特徴は前行性健忘と記銘障害。つまり今言ったことを覚えられないから何度も同じことを訊く、ということが起きるという。自分の名前は言えるという。するとこれが一番の鑑別といえるかもしれない。しかしそれにしてもこの基準に「記銘力の低下」が挙げられていないのはどうしてだろうか。また調べていくうちに、実は海馬に空砲がたくさん見られるケースがある、とか微妙な認知的な問題が回復後も見られる、などの最近の研究も出てくる。何かもっと詳しく調べたくなったが、一応この項目としてはこんな感じで書けるだろうか。

一過性全健忘(TGA)初老期に多く突然の記憶障害を持って発症し、長くとも24時間以内に回復する。発作中も自分のアイデンティティの認識は保てるが、過去の数分に起きたこと以外は思い出せず、また新たな記銘も障害される。脳血管障害のリスクとは無関係と考えられ、また予後も良好とされる。

 

2021年5月5日水曜日

解離性健忘 書き直し 5

久しぶりの解離性健忘。そんなに書いていて辛い、ということはないが、まあ楽しい仕事ではない。「何とかの手引き」の原稿なので、将来専門家が参照するために、手が抜けない。

分類

解離性健忘は、限局性健忘、選択的健忘、全般性健忘、等に分類される。
限局性健忘:限定された期間に生じた出来事が思い出せないという、解離性健忘では最も一般的な形態である。通常は一つの外傷的な出来事が健忘の対象となるが、児童虐待や激しい戦闘体験、長期間の監禁のような場合にはそれが数力月または数年間の健忘を起こすことがある。

選択的健忘:ある限定された期間の特定の状況や文脈で起きた事柄を想起できない。例えば職場で働いていた記憶はあるが、そこで上司からトラウマを受けたことを思い出せない、など。

系統的健忘:ある文脈についての記憶のみ想起できない。たとえば学校のクラブ活動でトラウマ体験があった場合、その頃の生活全般は想起できても、そのクラブ活動にかかわった顧問や仲間、あるいはその活動そのものを思い出せないということが生じる。

全般性健忘:自分の生活史(幼少時からの全体、ないしはその一部)に関する記憶の完全な欠落である。いわゆる全生活史健忘、あるいは解離性遁走と呼ばれる病態を包括する。通常その発症は突然であり、それまで通っていた職場や学校に向かう途中で多くは意識混濁を伴った解離状態となり、一定の期間(通常は数時間から数日、時には数か月も及ぶ)しばしば放浪などの空間的な移動を伴う。そして我に返った時には自分についての個人史的な情報、時には名前さえも想起できないことがあり、当人は通常は非常に大きな困惑感を持つ。しばしば器質的な異常が疑われて種々の検査(MRI,脳波その他)が行われるが、通常は何も異常を発見できない。それ以降に過去の記憶は回復する場合が多いが、それには個人差があり、時には発症の期間も含めた過去の記憶を回復しないままでその後の人生を送ることもある。事例によっては発症時までの記憶を回復するが、トランス状態で遁走していた時期の出来事まで想起することはまれである。ちなみに健忘の対象はエピソード記憶に限定され、過去に取得したスキルや運動能力については残存していることが多い。

 

解離性健忘をもつ人はしばしば,自分の記憶の問題に気づかない(または部分的にしか気づかない).多くの人,特に限局性健忘をもつ人は,記憶欠損の重大さを過小評価し,それを認めるよう促されると不安になることがある.系統的健忘の人は,ある特定領域の情報についての記憶(例:その人の家族や、特定の人物や、小児期の性的虐待に関するすべての記憶)を失う。

2021年5月4日火曜日

母子関係の2タイプ 11

 この土居先生の主張から何が結論をして導かれるのだろうか?彼は成人の間での甘えと、幼少時の甘えを微妙に分けているようだから、そのように分けて考えてみよう。
 まず母子関係における甘えは愛着における基本的な情動であり、バリントが受け身的対象愛、ないし一次的対象愛といったものと同じであるとしている。日本においては甘えはより意識化されやすく、母子関係においてもそれが顕在化しやすい。土居先生の引用を思い出そう。
 日本の子供は母親に「愛している」とは言わない。それは彼らはお互いに非言語的な甘えにより交流しているからだ。西洋においては子供のいう「愛している」は「甘え」の代用になっているのだろう。 そして西洋の成人の転移性の愛はその背後の「甘え」を隠しているということになるだろう。
 つまり欧米の母子関係は、甘えという概念や言葉を欠いていることで(土居先生はこれを「文化的条件付け」とも言い換えている)「甘えによる交流」を日本の母子関係ほどスムーズに行えない、という主張のように見受けられる。そしてこの「愛して欲しい、という形での愛」を感じることに欧米人は非常に鈍感であるともいう。それは転移性愛をそうとして感じ取ることが出来ないという問題にもつながる。するとこの考えでは、幼少時の問題と成人したのちの問題は本質的に同じであり、それは「愛して欲しい」という相手の欲求に対する敏感さが西欧人では不足している、という事になる。日本人こそが「甘え」という概念を有することでよりよくお互いの情緒的なニーズをとらえられているという事になろう。
 ところが、である。そのような日本人は「結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとしている」「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている」という言い方をして、あたかも日本人が対人関係に甘えを持ち込むことで個の独立が阻まれていると言っているようである。ただしおそらく土居が言っている「個が独立せず、甘えている日本人」というのは、西欧的な意味でのこの独立、という事なのだろう。日本人が甘えをよく知り、それを体験しながら個として独立していないとなると、厄介なことになる。もし日本人の方が感受性が豊かであるがゆえに個として独立できない、とはおかしな話ではないか。やはりそこにあるのは優劣の問題ではなくて文化差なのである。
 もし土居のいう「人間の心の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事」日本と西欧の違いであるとしたならば、それでこの個の独立の問題も説明できるのだろうか? 私は出来ると思う。西欧では幼い子はあまり自分のニーズを汲んでもらえないという体験を持つであろう。そして自分がして欲しいことを表明するようになる一方では他者に先回りして欲求を満たしてもらうという期待をあまり持たなくなるだろう。そしてこのことは、自分も他者の要求を知る努力をあまりしない、という事になる。非常にドライでそっけなく、しかし分かりやすい対人関係がそこに成立するわけだ。そして日本での「個」なら相手のニーズをある程度先取りして満たすと同時に自分のニーズも先取りして満たしてもらうことを期待する(つまり甘える)。つまりこのギブアンドテイクの人間関係の中で生きていくのが、日本における「個」の在り方だ。そしてそのような「個」の在り方とは違うタイプの「個」の在り方が成り立っている社会に属することになれば、当然カルチャーショックを起こすことになる。
 そうか、このように考えると土居先生の議論は一貫しているのだ。日本人は西洋における個の独立は達成していなくても、おそらくそれはまだその文化に適応していないだけであり、やがて英語と日本語を使い分けるようにして両文化でそれぞれうまくやっていくのであろう。とすると「日本型」として発信すべきは甘えの感受性の高さについて肯定的な意味付けを行うと同時に、西洋における個の独立に備える必要があるという事を主張することにとどめるべきなのだろう。

2021年5月3日月曜日

母子関係の2タイプ 10

 さて「甘えの構造」をあらためて読んでみると、土居先生は注目すべきこと、ないしはかなりヤバいことを述べている。アメリカにわたってさほど長くない時期にそこでの医療に触れた土居先生はこんなことを言っている。
 「アメリカの精神科医は概して、患者がどうにもならずもがいている状態に対して恐ろしく鈍感であると思うようになった。言い換えれば彼らは患者の隠れた甘えを容易に感知しないのである。」(p.16) つまり患者の苦しみを汲み取ろうとしていないと驚くのだ。でもそこまで言っていいのだろうか。土居先生は時々歯に衣着せぬ言い方をなさった。私も怒られたことがある。まあこのズバッという所がまたいい(日本人離れしていている?)のだが。そして多くの精神科医の話を聞いて彼が以下の結論を下したという。
「精神や感情の専門医を標榜する精神科医も、精神分析的教育を受けたものでさえも、患者の最も深いところにある受け身的愛情希求である甘えを容易には関知しないという事は、私にとってちょっとした驚きであった。文化的条件付けがいかに強固なものであるかという事を私はあらためて思い知らされたのである。(p.16)」
 つまり自分から助けを求めない人を先回りをして何かをするというのは彼らの精神にあわないのだという。そして言う。
「私は自立の精神が近代の西洋において顕著となったことを示す一つの論拠として、『神は自ら助けるものを助ける』(p.17)という諺が17世紀になってからポピュラーになって事実を指摘した。」
「実際日本で甘えとして自覚される感情が、欧米では通常、同性愛的感情としてしか経験されえないという事実はまさに我彼の文化的相違を反映する好材料と考えられたのである(p.17)」まあこれはこれで大変なテーマだが先を急ごう。
「甘えるという事は結局母子の分離の事実を心理的に否定しようとするものであるとは言えないだろうか?(p.82)」
幼少時の甘えが正常であることに対し、成人後は甘えるという事が母子分離の否認、という事だという。
「西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っている(p.96)」
 つまり「好きなことをする」自由は、他の人の「好きなことをする」と抵触しないという前提がある。だから好きなことは他の人にやらせてもらう事とは違う。自由と責任ないしは代償が一つになっているという事を土居先生は言わんとしている。そしてルネッサンス期に活躍した学者 Juan Luis Vives (1492~1540)の文章を以下に引用する。
「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生じる。ところで感謝は常に恥と混じり合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」(p.96) 「感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。そこで西洋人は恥の感覚を消そうとして、感謝をあまり感じないように、したがって受け身的愛を感じないように長年努めて来たのではないか。(p.96)」
 この文章は、恥を「負い目」と読み替えるのであれば分かる。だって人に感謝することには恥を伴う、っておかしいじゃないか。もちろん Vives さんや土居先生言いたいことはわかる。こちらの自尊心を低めるというニュアンスなのだろうか。誰かに「ありがとう」という事には気恥ずかしさが伴うことは確かだ。それをしてもらうことで恩恵を被るという事は、自分の中の不足な部分、至らない部分を認めることになる。目の前に食べ物を差し出されて心から「有難う!」と言えるとしたら、その人はお腹が空いていることになる。

2021年5月2日日曜日

母子関係の2タイプ 9

 さてロスバウムの研究は結構批判されているようだ。一番の問題は土居先生の甘え理論を彼が曲解しているということだろうか。土居先生は甘えは人類に普遍的だど考えた。西洋でも東洋でも甘えという基盤は存在する。バリントの一次的対象愛(愛されたい、という受け身的な愛情)がその証左だ、という立場だ。ところがロスバウムは甘えは日本特有と考えているらしい。ただ日本における母親の敏感さは、非言語的で情緒的で、先回り的であるという意味で西欧のそれとは違う、という指摘はその通りであろう。先回り的ということではウィニコットがそれを、子供の幻想を守る母親の役割として語っていたとは思うが、この点についての考察はあまりなさそうだ。
 ここで私が何日か前に書いた二つのタイプ、つまり甘えタイプと西欧タイプのことを思い出していただきたい。一言でいうと日本では子供は放任 laisser faire で、好きなことをさせて甘やかす。最近寝る前に読んでいる「逝きし日の面影」(渡辺京二著)という本には、江戸期の日本を訪れた西欧人の記録がたくさん掲載されているが、

とにかく昔の日本は子供の天国で、何をしても許されるという環境だったと彼らは驚いている。それがとにかく伝統だとしか言いようがない。そしてそれでも人が育つということは、甘やかすことへの後ろめたさをさほど持たなくてもいいということではないだろうか。それがうまくいかないとしたら、それは土居がなぜ西欧では甘えという言葉がないのかについて考えたことを探ってみる必要がある。それを最後の帰結とすることができるだろうか。否、それだけでは物足りない。
 ということで私の考察の方向は次に向かった。「土居先生は、西欧社会ではなぜ『甘え』という概念なしに成立していると考えたのだろうか?」
 土居先生の文章は結構読んだつもりだが、それでもピンとこない分がある。そこで精神分析の世界で土居先生の著作を調べてみると(日本語の著書の英訳という以外では)、二本しかなかった。
Doi, T. (1989). The Concept of Amae and its Psychoanalytic Implications. Int. R. Psycho-Anal., 16:349-354.
Doi, T (1993/2016)Chapter 3: Amae and Transference-Love  Psychoanalytic Inquiry, 36:171-186
この193年の論文に手掛かりがあった。彼によれば、
「甘えの感情はそれ自身が非言語的であるということを忘れてはならない。それは非言語的に伝えられ、それとして感得されなくてはならない。だからこれは明示的な情動ではなく、静かな情動なのだ。(おそらくだから多くの言語は「甘え」のような言葉なしでいられるのであろう。)」It is important to remember in this regard that the feeling of amae in itself is nonverbal. It can be conveyed only nonverbally and should be acknowledged thus. Therefore, it is not a manifest emotion, but rather a silent emotion. (Perhaps it is why many languages manage without a word like amae.) (p.179)
「この点に関して興味深く思うのは、日本の子供は母親に「愛している」とは言わないということである。それは日本語にそのような表現がないからでは必ずしもない。多分彼らはお互いに非言語的な甘えにより交流しているのだろう。この思考の流れでいえば、西洋においては子供のいう「愛している」は「甘え」の代用になっているということになりはしまいか? そしてそれを外挿するならば、西洋の成人の転移性の愛はその背後の「甘え」を隠しているということになりはしまいか。私はこれは十分にありうると思うのだ」。It may be of interest in this regard that Japanese children don’t say “I love you” to their mothers, not necessarily because there is no expression equivalent to this in Japanese, but rather, I believe, because they know how to communicate with each other in nonverbal amae. Along this line of thought one may say, therefore, that the “I love you” of the children in Western societies does stand for amae.. Along this line of thought one may say, therefore, that the “I love you” of the children in Western societies does stand for amae. Isn’t it possible, then, to assume by extrapolation that behind the transference-love of Western adults as well hides the psychology of amae? I believe this to be a quite plausible proposition.(p.181~182)
 これを読む限り、土居先生は、甘え概念の欠如を西洋社会において抑圧されたものを表している、というような大上段に構えた議論をしてはいないことになる。

2021年5月1日土曜日

母子関係の2タイプ 8

 このロスバウムの研究は、日本ではどのように受け止められているのか。ネットでダウンロードできた 「アタッチメント、『甘え』、自分 — アタッチメントの文化研究における『甘え』の取り扱いに関する一考察」 杉尾浩規著を読んでみる。あまりロスバウムの理論をわかっていない気がするので、この論文の力を借りよう。

そもそも愛着理論では、赤ん坊は探索行動とアタッチメント行動の間のバランスが存在し、そこで養育者が、「敏感性」(子供の愛着欲求に敏感に応答する力)を有する必要があるとされる。このバランスが安定しているか不安定化が問題になってくるのだ。そしてその安定性を知るためのテストがSSPということになる。さてこの理論に異議を唱えたのがロスバウムだ。米国では赤ん坊からのシグナルという情報への敏感さであり、日本では情動的親密さに基づく敏感さであるという。

このような考え方について反論を展開したのがロスバウムである。ロスバウムは3つの点に関して反論する。一つは養育者の「敏感性」について。これは米国と日本では違うものに向けられているというのだ。ただしそのロスバウムの主張として杉尾氏が述べているまとめが理解できない。「日本の敏感性は赤ん坊の社会的関与に対する欲求に敏感であり、アメリカの敏感性は赤ん坊の個体化に対する欲求に敏感であると思われる」(Rothbaum, Weisz, et al. 2000: 10961097)え、アメリカの赤ちゃんだって、固体化よりは依存欲求を示すことへの敏感さが要求されるのではないの?

 ここはすでにロスバウムの曲解という気がする。米国は分離個体化を求め、分離したい子供のサインに親は敏感になる、というわけだが、もともと愛着理論における母親の敏感さとは、「アタッチメント欲求」に対するそれであるはずだ。うーん、ここはよくわからない。

ロスバウムの反論のもう一点は分かりやすい。アタッチメント理論は、愛着が安定しているのが、将来の「有能性」(まあ、生きやすさ、ということになるだろうか)に結びつくというが、アメリカの場合の有能性とは、自律性、自存し、探索、などに結び付けられ、依存について過小評価している。ところが日本の場合にはその有能性には他者との依存や集団の中での協調や和を成立させる方向で考えられるという。これはそれなりにわかる。ステレオタイプだが。

3つ目の批判は「安全基地」に向けられたものだが、これは少しわかりやすかった。ロスバウムによれば、アメリカの愛着における安全基地は探索と個体化のためのものというバイアスがあるが、日本においては甘えられる環境や関係性であるという違いがある、と彼は言う。そしてもともと日本では子供を一人にしないので、SSPのようなことをすると子供は戻ってきた母親に「なんてことするの!!」とカンカンに起こり、結局C型(アンビバレンズ型)が多くなる。しかしこれはそのような不安定な愛着を生み出している日本の母親がいけないというわけではないという。ロスバウムという人はどうやらかなり日本びいきだという印象を生むが、ともかくもこの説明はある程度ピンとくる。米国におけるSSP状況では、ふらっといなくなってしまう母親に気が付いても、「また例によってどっか行っちゃった、やれやれ」という反応なのではないか。日本だと普通母親はそんなことをしないので子供は動転してC型の反応をするというわけだ。