2025年3月22日土曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 4

 高野氏と類似の立場を主張する岡田暁宜氏の論文についても取り上げたい。フロイトは純金としてたとえられる精神分析に、示唆 suggestion 等の(銅のような)余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその比喩を受けて、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言う。そして「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であり、それが『週一回』の意義である」とする。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。 「序説」では平井正三氏の論文も参考になった。彼は一方ではストラッキーの変容惹起性解釈についてそれを精神分析の治癒機序として挙げているが、同時に米国では「週一回」は合金でも、英国では週一と週4以上は本質的には変わらないという考えの方が優勢であると指摘している(Tayllor, 2015)。 「序説」の中で私が一番注目したいのは村岡倫子氏の「治療経過とターニングポイント」である。彼女はBohmの論文(1992)での記述「ターニングポイント(「新たな予期せぬ部屋の新しい扉が開く瞬間」)」を「治療者・患者の双方に予期せぬ驚きをもった出会いが生じる局面」と言い換える。そして村岡氏が用いている小此木の引用は貴重だ。少し長いがここに示そう。「治療者の意図を超えて与えられるか、治療者・患者間に気づかれないまま形成されている治療構造を認識し、その意味を吟味したり、治療者が意図的に守ろうとしている治療構造が偶発的ないし一時的に破綻したり、あるいは意図しない要因がそこに介入したりする場合に、そこにどんなあたらな治療関係が展開するかを理解し対応する技法などを含んでいる」(小此木の「治療構造論」からの引用。p20) 小此木先生がおっしゃっていることは(お師匠さんなので呼び方が変わる)構造は実はそれが破綻することを通じて実感されるということだ。そして村岡氏のターニングポイントも同様の契機を指している。構造が破綻しかかる時に出会いが生じる、とはある意味ではそれを活用するというところにも治療構造の存在意義があるということだろう。相撲を見ていると、まさに土俵際での攻防という感じがするが、あれはまさに土俵という境界が存在することにより生じるのだ。(土俵の真ん中で勝負がつく、ということはほとんどない、ということは考えてみれば興味深いことだ。)  ところで彼女の理論は「治療構造にまつわる現実的要因」(128)に根差したものだという。その意味では上述の岡田氏の考えに近い。そしてそれがある種の治療者―患者間の出会いの契機のようなものを生むと考えている。これについては村岡氏は以下の様に記述する。 「週一回の治療を複数回のそれと比較したとき、治療外の現実の要素が大きく作用し、転移・無意識的幻想といった内的力動を生き生きと扱うのが困難であるという難点がある。だからこそ、その困難をいかにクリアしていくかが、週一回の治療のだいご味ともなるのだと私は考えている。そこで私が注目したいのが、「生きた転移」が宿る場としての、治療構造にまつわる現実的要因である。」 ただしこの種の現実は精神分析で起きてもおかしくないのではないか。週に複数回だと内的な作業が優勢となり、週1回だと外的現実がいわばその障害物として現れる、という考え方がそこにはあるが、週4回だって山あり谷ありで、偶発的なことばかりだ。ようするにそれを取り上げるかどうかという治療者の姿勢が問われるのであり、それはエナクトメントをいかに治療手段として重視するかということだ。それは週4回以上でも週1回でも変わらないのではないか。