2025年3月20日木曜日

関係論とサイコセラピー 推敲 2

 「週一回」の議論のいわば火付け役としての役割を果たしたのが、もと精神分析学会長の藤山直樹氏である。(彼の議論は第4章「関係性以前の接触のインパクト」に詳しい。)彼は2014年に精神分析学会の会長を退く際の「会長講演」で、週4回以上のカウチを用いた精神分析による治療は、週一回の精神療法とは質的に異なるという点について論じた。この背景にあるのは、1993年のいわゆる「アムステルダムショック」であり、それまでは我が国では「週一回」がほぼ精神分析とみなされていたという背景がある。その後は一方では週一回の精神療法が週4回の精神分析とは異なるものという認識が生まれたものの、この事実に対する「見て見ぬふり」(山崎、2017)が存在していたとされる。そして藤山氏の講演はこの点を正面から取り上げた画期的なものであったということになる。

藤山氏の説を簡単にまとめるならば、週4回以上ではスムーズに、ないしは精神分析理論に沿って展開する治療が、週一回では大きな困難にぶつかる、というものである。それは端的に言えば週に1度治療者と会っただけで残りの6日間は治療を受けないという構造が非常に外傷的であり、治療においては冒頭部分においてそれを扱うことに多大な労力が割かれてしまうということだ。週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになり、「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性がある」(p.67). 治療者としてはこの問題を扱うことが先決であり、それを扱わないことは分離のトラウマを治療者自らが否認していることにある。 この発表の中で藤山氏の有名な「平行移動仮説」という用語が示された。それは週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(ストレイチー)などが、そのまま(平行移動して)週一回の分析的治療でも行われるという考え方で、基本的には藤山説はこれを否定するという形をとっている。 藤山氏はいう。「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(p.60)しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。その意味で「平行移動仮説」は棄却されるというのが藤山の趣旨だ。 藤山氏の論文を読むと結局は週一回の治療はできれば避けるべきだと主張しているようである。それは経験を積んだ精神分析家がより注意深く扱うことによってはじめて外傷的とならずに治療的となりうるからであるが、藤山氏は週一回の独自性や存在意義については特に言及していない。 藤山直樹氏の主張をさらに遡るならば、彼はこの「週一回」の議論に関連してこれまで2012年、2015年、2016年、2019年の4本の論考を発表している。

藤山直樹(2012)精神分析的実践における頻度一「生活療法としての精神分析」の視点.精神分析研究,56(1);15-23. 藤山直樹・妙木浩之(2012)セッションの頻度から見た日本の精神分析.精神分析研究,56(1);7 藤山直樹(2015)週1回の精神分析的セラピー再考.精神分析研究,59(3);261-268. 藤山直樹(2016)精神分析らしさをめぐって.精神分析研究,60(3)i301-307.藤山直樹(2019)関係性以前の接触のインパクト:週1回セラピーにおける重要性.精神分析的心理療法フォーラム,7;4-9

この中で一つ興味深い点は、藤山氏のこの一連の論文のうち最初のもの(「精神分析的実践における頻度」,2012年)で、週2回は、週一回より週4回の精神分析に近い、と述べていることだ。「ある意味で週2回は、週一回より精神分析の方に近いように感じられる。単に量的な面で言えば、圧倒的に週一回に近いと感じられるだろうが、私の実感ではそうではない。」(p.20)。つまり初期には藤山氏は週4回 VS 週1回という対立軸よりは、週二回以上 VS 週一回という対立軸を考えていたらしいということだ。

さて藤山氏は週4回以上の精神分析のプロセスを、患者にとってある種の特別な体験であり、「人生の一時期、覚醒時と睡眠時を丸ごと巻き込む」「ある意味『生活療法』なのである」(2012, p.18)とする。そして述べる。「分析家が」6日間の社会生活を送る患者を見る視線は、一人の大人を見る視線であり、それは明日会う患者を見る時の子供を見守る視線とは違う。」(2012,p.20)。そして「乳児的部分が十分に抱えられている設定においては、患者の心の中の関係性と今ここでの患者と分析家の間の関係性はスムーズに交流しやすい。同じ関係性が連想内容と『今ここで』と同型の反復を持つ。それは相当に病理が重い患者でも部分的には起きる。」と述べる。