2018年2月28日水曜日

精神分析新時代 推敲 28


 以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者本人よりは治療者のような周囲の人が気づきやすいような、患者自身の特徴や問題点を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者の仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者の耳には直接入っていない噂話かもしれない。
この場合にも治療者が出来ることに関しては、上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性が確かにあるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字の意味するものが患者にとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は、外から植えつける「示唆」的であっても、それが患者にとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも了解されるだろう。

4.具体例とその解説

ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたい。

<省略>

私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるだろう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその患者にとって盲点となっているらしい事柄の存在に気が付く。
<中略>

 患者さんの連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けている。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(その個人の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているであろう。それはたとえばある患者の見た一つの夢についての解釈が、それを聞いた分析家の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情である。また患者さんの夢についての治療者の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含まれる可能性がある。先ほどの例で言えば、<省略> と言及することは、Aさんの無意識内容への言及という本来の解釈ということになるだろう。ここで患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要であろう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからだ。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのだ。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのである。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その「習得」を試みるにはどうしたらいいであろうか? 私の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否がかかっているというべきだろう。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、患者の有する様々な生活史のパターンを認識する必要がある。しかしそのうえで虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるだろう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるだろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのである。

2018年2月27日火曜日

精神分析新時代 推敲 27


2.解釈と示唆はそれほど区別できるのだろうか?

 技法としての解釈の意義については、上述の定義にすでに盛り込まれている。しかしそれを実際にどのように行うかについては、学派によっても臨床状況によってもさまざまに異なり、一律に論じることは出来ない。特に現代の精神分析において解釈の持つ意味を理解する際には、同時に示唆についてもその治療的な意義を考慮せざるを得ないであろう。
そもそもなぜ示唆はフロイトによりこれほどまでに退けられたのか? この点について振り返っておこう。本来精神分析においては、患者が治療者から直接手を借りることなく自らの真実を見出す態度を重んじる。フロイト (Freud, 1919) は「精神分析療法の道」で次のように指摘している。

心の温かさや人を助けたい気持ちのために、他人から望みうる限りのことを患者に与える分析家は、患者が人生の試練から退避することを促進してしまい、患者に人生に直面する力や、人生の上での実際の課題をこなす能力を与えるための努力を奪いかねない。 

治療者が患者に示唆を与えることを避けるべきであるとする根拠は、フロイトのこの禁欲原則の中に明確に組みこまれていたと考えるべきだろう。示唆を与えることは、無意識内容を明らかにするという方針から逸れるだけでなく、患者に余計な手を添えることであり、「人生の試練から退避すること」を促進してしまうというわけである。
今日的な立場からも、日本の精神分析の世界では、解釈は精神分析的な精神療法において中心的な役割を担うと考えられている。しかしフロイトがそうしたように、示唆を排除する立場をそれに加え、維持するとしたら、治療者の介入のあり方はかなり制限を加えられることになるだろう。実際の臨床場面では、フロイトが考えたような解釈以外のかかわりを治療者が一切控えるということは現実的とはいえないからだ。治療開始時に対面した際に交わされる挨拶や、患者の自由連想中の治療者の頷き、治療構造の設定に関する話し合いや連絡等を含め、現実の治療者との関わりは常に生じ、そこにはフロイトが言った意味での解釈以外のあらゆる要素が入ってくる可能性がある。そしてそれが治療関係に及ぼす影響を排除することは事実上不可能なのだ。解釈は示唆的介入と連動させつつ施されるべきものであるという考えは時代の趨勢とも言えるだろう。
同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ない。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という定義そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからだ。(解釈とはことごとく示唆の一種である― Hoffman, 1992)というHoffmanの提言もその意味で頷ける。
 もちろん無意識内容を伝えることと示唆、教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていた。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのだ。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがある。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのだろうか? そこが最大の問題と言えるだろう。

3.臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得

ここで私の考えを端的に述べたい。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法にも広く役立てることが出来る可能性がある。ただしそのために、以下のような形で、その概念を拡張することが必要であり、また有用であると考える。それは解釈を、「患者が呈している、自らについての一種の暗点化 scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえるということだ。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、患者と分析家が共同作業によりそれをよりよく理解することを促す試みである。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いているが(Freud, 1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとする。
 私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意した。
目の前の患者の背中に文字が書いてあり、彼はそれを直接目にすることができないとする。そして治療者は患者の背後に回り、その文字を読むことが出来るとしよう。あるいは患者が部屋に入ってきて扉を閉める際に背中を見せた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれない。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益だろうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのだろうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのだろうか?

もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかだろう。答えは重層的であり、またケースバイケースなのだ。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さをも意味しているのだろう。
ここでいう、答えがケースバイケースというのは、次のような意味である。患者はすでにその背中の文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。患者がもし何かの文字が書かれていることは知っているとした場合、それを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて治療者に伝えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを知らせてほしいかも知れない。さらにはその文字が解読しづらく、患者との共同作業によってしか意味が通じないかもしれないだろう。このようにさまざまな状況により、その背中の文字の扱い方が異なってくるのである。

2018年2月26日月曜日

精神分析新時代 推敲 26


前章では、「解釈中心主義」という言葉に表されるような、精神分析の治癒機序をもっぱら解釈に頼む姿勢について論じた。この章は、「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場での議論である。その場合には解釈は一種の「共同注視」ともいえる作業となるという主張である。

最初に「ここで解釈という概念を残し・・・」という表現について、注釈をつけておこう。精神分析の世界では、解釈を治療の中心にすえるという立場を取るか否か、という議論は非常に大きなウェイトを占める。それは言い換えれば伝統的な精神分析理論を否定するのか否か、という問いのような、一種の踏み絵のようなニュアンスさえある。おそらく精神分析の伝統を守る立場 (クライン派、自我心理学、対象関係論の一部など) では、解釈を中心に据えた治療を考え続けるであろう。これを第一の立場とするならば、より革新的な立場 (対人関係学派、関係精神分析など) 「解釈を超えた」( )治療機序を重んじるであろう。これが第二の立場だ。しかしここにはもうひとつの立場が存在し、それは解釈という概念を拡大し、そこに「無意識にすでに存在する真実を伝える」という従来の考え方を抜け出し、治療的な要素を含んださまざまな介入に関して、それを解釈と呼ぶという立場が存在する。これを解釈に関する第三の立場と呼ぶのであれば、私は自分はその立場であってもいいと思う。よく考えれば分かるとおり、第二の立場と第三の立場は、実は非常に近縁なものとなりうる。それは解釈をいかように定義するかによりどちらにでも立つことが出来る、いわば両立しうる立場なのである。ではその解釈の定義の違いとは、いかのように表現することが出来るかもしれない。第一の立場においては、解釈とは本来はフロイトが患者の無意識内容を伝えることを意味した。より一般化して言えば「患者の言動の隠れた意味を明らかにする介入」(ラプランシュ、ポンタリス)と定義されるだろう。第二の立場は解釈の定義をそのまま受け、それを中心にすえることを拒否し、たとえば対人関係ないしは関係性そのほかの治療機序を第一に考える立場といえるだろう。それに比べて第三の立場では、解釈は「患者がより洞察を得るために役立つような治療者の介入すべて」とでも定義できるようなものである。
以上を前提として、本題に入っていこう。

Laplanche, J and Pontalis, J.B (1973). The Language of Psycho-Analysis: Translated by Donald Nicholson-Smith. The International Psycho-Analytical Library, 94:1-497. London: The Hogarth Press. P228


1.技法の概要
解釈の定義はすでに上で簡単に触れたが、わが国の精神分析事典によれば次のように記されている。
「分析的手続きにより、被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容やあり方について了解し、それを意識させるために行う言語的な理解の提示あるいは説明である。つまり、以前はそれ以上の意味がないと被分析者に思われていた言動に,無意識の重要な意味を発見し,意識してもらおうとする、もっぱら分析家の側からなされる発言である」(北山修、精神分析辞典)
ただし解釈をどの程度広く取るかについては分析家により種々の立場があると言えるだろう。直面化や明確化を含む場合もあれば、治療状況における分析家の発言をすべて解釈とする立場すらある(Sandler, et al 1992)。
 精神分析において、フロイトにより示された解釈の概念は、二つの意義を持っていたと私は考える。一つはそれが分析的な治療のもっとも本質的でかつ重要な治療的介入として定められたことである。そしてもう一つは、解釈以外の介入、すなわちフロイトが「示唆(ないし暗示)suggestion 」と言い表したさまざまな治療的要素からは、明確に区別されるものであるということである。ちなみにこの示唆に含まれるものとしては、人間としての治療者が患者に対して与える実に様々な影響が、その候補として挙げられる(Safran, 2009)  ともかくも私たちは分析的な治療を行う限りは、解釈的な介入をしっかり行っているのか、という思考を常に働かせているといえるのである。

2018年2月25日日曜日

精神分析新時代 推敲 25


本当に自分を知りたくなる時
ただし私達には、本当に自分を知りたいと思う時が訪れることがある。自分の何が問題なのかを真剣に考えざるを得ない場合である。それまで私たちの中で守られていた自己愛的な防衛の一角が崩れ、心が深刻な痛みを発している時などがそうであろう。そのような時に私達は自分に漠然とした、あるいは時には非常に明確な違和感や不安を持ち、それを何らかの形で明らかにしたくなる。このような場合に私達は大きな苦しみを味わうとともに、おそらく自分の心に最も向き合うことを迫られるのである。ある種の修行の期間、挫折や敗北の後、指導者や上司の声を受け入れることが自らの向上につながるという可能性をいやおうなしに受け入れる必要が生じるのだ。
しかしそうならば、「来談者が自ら発見することを手助けする」という分析的なスタンスは、必ずしもそのようなタイミングに見合っていない可能性が高いであろう。救急に訪れた人に、救急医はただ安静にして自然治癒を促進すべくアドバイスをするだろうか。しかも解決の道が患者の心にすでに存在しているというのなら話は別であるが、そうではないばかりか、おそらく治療者自身にもそれは見えていない可能性がある。そこからはまさに共同作業が開始されるべきなのであり、治療者はそれに対して受け身的なスタンスばかりを取ることは適切でないということになる。
もう一つの問題もある。それは自分の問題を明らかにしたいという願望は、苦しみがある程度収まってしまった後は消えて行ってしまい、人はまた心の安定や自己愛的な居心地の良さを求めるようになるということだ。
私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きのものということである。そして「自分をよりよく知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

私たちが主として求めているのは「洞察」である

もし「自分をよりよく知ること」が、治療目標として維持することが容易ではないならば、より実質的な治療の目標として何を考えたらいいのだろうか? それを私は「洞察」として以下に示したい。そして洞察は、必ずしも解釈のみによりもたらされるわけではない。それをまず説明しよう。
まず以下の文章を読んでいただきたい。日本精神分析協会のホームページに掲載されているものである。
私たちは誰でも、ある種の無意識的なとらわれのなかで生きています。そのとらわれが大きすぎると、苦しくなり、ゆとりを失い、ときにはこころの病になります。 精神分析は特別なやりかたで、分析を受ける方と精神分析家とが交流する実践です。分析を受ける方がしだいに自分自身を無意識的な部分も含めてこころの底から理解し、とらわれから自由になり、生き生きとしたこころのゆとりを回復させることをめざしています。(日本精神分析協会公式ホームページ「精神分析とは」の一節、一部を強調。)
この「とらわれ」、という言い方が大事なのは、特にこれを無意識的、と断っていないからである。自分でも気がつかないうちに繰り返してしまう行動や言動について、その正体を知ることが洞察である。それが無意識的かどうかについてこだわる必要はあまりない。無意識的、と断り書きを付けると、そこには抑圧された欲動やファンタジーを想定していることになる。しかしそれは決まり切っていて無反省に用いられている思考かも知れない。認知療法ではそれを「自動思考」と呼んでいるわけである。そしてここで重要なのは、その洞察の対象は、客観的な現実や真実であるという保証はないということだ。
ここで改めて洞察とは何か? 私はある思考やナラティブが、強いリアリティ(信憑性)を伴う形で得られることと考える。そしてそれがとらわれの存在を浮き彫りにし、それへの対処法を示してくれるようなものである。そのような洞察が得られるプロセスとしては、私は以下のものを考える。
    脳科学的には、幾つかの思考のネットワーク間に成立する新たな結びつき。これまで慣れ親しんでいた二つの思考回路に一度連絡路が開かれるとそれは半ば永続的に強化される可能性がある。それは二つの湖の間に穿たれた水路のようなものであろう。たとえば「お父さんとの関係がここでも繰り返されていますね。」という介入などはそうであろう。
    来談者の人生をよりよく説明するようなナラティブとして取り入れられるもの。ある思考が他の思考や体験の意味を明確にしてくれるのであれば、それはそれを示された後は繰り返し頭に浮かび、新たな洞察として成立することになるだろう。これには「あなたが弟さんの引きこもりの問題の原因だってどうして思うんですか?」という介入などが挙げられるだろう。
   「あらたな主観」(治療者)から取り入れられるもの。自分がそのような発想を持っていなかったことでも、それが人から与えられることで自分のそれまでの体験に新たな意味を与えるという形で、何度も繰り返し反芻されることがある。これはたとえば「私は自分のあるがままを受け入れていいんだ。」などの体験が挙げられるだろう。

治療者ができることは「オブザベーション(コメントをすること)」である

ではこのような洞察に至るためには何が必要だろうか? 可能性のあるものをいくつか挙げてみる。
                  解釈を通して?
                  直面化を通して
                  明確化を通して
                  「オブザベーション」を通して
                  支持的介入を通して
                  現実(仕事や学業上の失敗、上司、同僚からの忠告、アドバイスなど)に直面して

このように列挙したのは、洞察に至る経路は様々なのであり、解釈を通してのみではないということを示したいからである。極端な話、「自分は自分のままでいいんだ」、という洞察は、患者が治療者から受け入れられるという支持的な介入から得られることもあるわけである。ここで私はGlen Gabbardのテキストからある表を紹介したい。

この図の中で左側の群が、これまで私たちが解釈に類する介入としてまとめていたものであるが、その中で私が代表としてあげたいのが、左から二番目にある「オブザベーションobservation」である。ただし表に見られるように、これは「観察」と訳されているものである。しかし英語でobserve とは、そこにいて観察し、それを伝えることまでも含む。そこで気が付いたことをそのまま言葉で伝えるというニュアンスがあり、何かを説明しようとしたり,つなげようとしたりを含まないものである。その意味では「指摘」「コメント」という表現が一番近いかも知れない。治療者は,行動や,発言の順序や,瞬時の感情や,治療内でのパターンを単に指摘するだけで、動機や説明には触れないままである。実際英和辞典にはobservation の意味として、3.〔気付いたことの〕所見、見解とある。
Gabbard がこのobservation の例として挙げている例は以下の通りだ。
l       「あなたのお姉さんについて尋ねたとき,あなたは涙を流されましたね」
l       「お帰りの際にあなたはいつも私と目を合わせるのを避けられますね」
l       「お父さんに見捨てられたことに私が話をつなげようとすると,あなたはいつも主題を変更なさいますね」
そしてこれには、直面化や明確化も含まれることになる。私がここで解釈をその代表にしないのはなぜかと言えば、解釈だけが治療者が最初に答えを知っていて、それを指摘する、というニュアンスを伴っているからである。しかし治療者が解釈を行うような特権を有することは誰にも証明できないからだ。
 そもそも精神療法とは何をするところなのか?
ここからは、本章の後半部分である。前半では、治療者の役割のうちの解釈部分は、治療者が自分の無意識を知りたいという前提があって初めて意味を持つのであろうが、そこで主要な介入とはオブザベーション(指摘)であるという内容だった。しかしそもそも患者が何を求めて来談するかという問題に関する答えには至っていない。そこで「そもそも精神療法とは何をするところなのか?」というテーマにまで戻りたい。
実は精神療法とは何をするところなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを定義することが出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングという立場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストとクライエントが一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そしてクライエントが再びセラピストを訪れる意欲や動機を持ち続ける限りは、そのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的な事態(治療者による患者の搾取など)が生じないならば、かなりの範囲のかかわりが精神療法として成立し得るであろう。
そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが患者さんの中に維持されうるかを考える。ここではふつうは具体的な動機付けが先ず考えるのであるが、私は逆を行きたい。それは患者にもわからないような動機である。たとえば私たちがヨガに通うとき、マッサージに通うとき、囲碁のクラスに通うとき、おそらく家を出る際には、それらの場所を訪れたときの雰囲気や、そこから帰った時の気分を思い浮かべるであろう。おそらくは私たちは間違いなくある種の漠然とした心地よさを予想しているはずである。あるいはそれを継続すると決めたことによるある種の達成感ということもあるだろう。そしてその心地よさがどこから来るかは、本人にも詳細はわからないのである。ただしそこで面接室の雰囲気、行き帰りの時間等を考えるであろう。それらの総合なのだ。「今日はセッションに行こうか?それともキャンセルしようか?」と深刻に思う際、非常に総合的な評価が無意識によってなされている。ある患者さんは、「セッションに行くと、そのあと気分が持ち上がる、いい気持ちになる、達成感がわく、ということがあるんです」と言ったが、それは彼の治療がうまく行っていることの表れと言えるだろう。それが治療者に会いたい、そこでは居心地良く過ごすことが出来る、などの体験を生む。そこには様々な要素が考えられよう。私は特に以下の三つを考える。
1 自分の話を聞いてもらい、分かってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して説明をしてもらうこと。
3.治療者の存在に触れることで孤独感が癒されること。 
ただし私はここに「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。それはすでに前半で述べたからだ。それ以外の理由を考えていただきたい。もちろんこの三つ以外にもあるかもしれないが、これら三つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。
1.に関しては、人が自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして自分達の体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかしそれだけではないだろう。
2.については、ある意味では治療者をより本格的な精神療法過程へと引き込むことになる。これは要するに自分に起きていることを、言葉で表現することで頭におさめたいということだが、要するに物事の因果関係を明らかにするということだろう。そのためにはどうしても言葉が必要になるのだ。「いま私には何が起きているのだろう?」「私はどうしたらいいのだろう?」すべてのせっぱつまった疑問に対する答えは、ある種の因果関係を示すことなのだ。「AだからBが起きたんだよ。」するとそれだけで納得でき、心に収めることが出来るかもしれない。その中にはたとえば「起きたことはたいしたことないから、心配することないよ」「単なる気のせいだよ。」という説名すら意味を持つかもしれない。
ここで例を一つ出す。2017年にフィギュアスケートの浅田真央さんが引退したが、その特集のテレビ番組で流された一つの印象に残る一シーンがあった。演技を前にして佐藤コーチが何か真央さんに言っている。それに彼女は一生懸命うなずく。よく聞くと「メダルを取ることなんていいんだ。とにかく自分の演技をしなさい。これまでの自分を信じるんだ。」という言葉が聞こえた。真央ちゃんはそれを真剣に聞き、うなずいてリンクの中央に向かって滑り出していく。
あのコーチの言葉は何だろう? どのような意味を持っているのか。今流行の言葉で言えば、あれは一種のナラティブだ考えられよう。一つのまとまった意味。それは私たちに安心感を与える。それがないと不安でいられないのだろう。人生はまさにカオスである。何が起きるかわからない。本来はとても怖い世界であることを実は私たちは感覚的に知っている。そのときに一つでもそこに意味を見出すことで安心するのだ。あるいはこんな例だっていいだろう。何となく体がだるい。何が自分に起きているのだろう? ふと喉の痛みに気がつく。熱も少しある。「そうか、風邪なんだ」と納得する。この「おそらく風邪だろう」はそれより悪性の、場合によっては致命的な何かではなさそうだ、という安心感を与えるのだ。
しかしそれにしても昔の人たちは大変だったはずだ。たとえば日食が起きて急に空が暗くなったとしても、「この現象は不吉な出来事の前兆に違いない」となったのである。今の私たちだったら意味のないこのナラティブは、おそらく日蝕に関する科学的な説明、つまり何年かに一度起きる天体現象であり、無害であるというナラティブに取って代わることで私たちを安心させてくれたわけである。
さて3.これも実に侮れないどころか、実は心理療法が継続される際の最大のモティベーションとなっているのではないかと言える。そしてこれはもちろん1.とも関係している。さもないとセラピストは患者の孤独感を決していやしてもらえないだろう。人間関係の中には、長年連れ添った夫婦や、成人後も生活を共にする親子関係なので、身体的には互いに近い場所で生活をしていても、精神的には極めて希薄な関係しかなかったり、一緒にいることでもっと寂しくなる、という、いわば「在の不在」としての他者さえいる。その中で治療者は常に患者の側に立って、しっかり「在の在」としての役割を発揮してくれる。

それでは治療者は来談者を心地よくさせればいいのか?

これが最後の疑問である。治療が継続する大きな要因が、患者さんの居心地の良さであるとしたら、治療者はそれを提供することを第一に考えるべきであろうか? 私はそれを否定しないが、治療者が向かうべき問題はより大きなものである。それは来談者の人生の質(QOL)の向上に最善を尽くすことである。それがその時の来談者に安心感を提供したり、孤独を救うことを意味したりするのなら、それでいいのである。しかしその時に来談者が洞察を得ることが将来的なQOLの向上に役立つのであれば、それも大切なことである。すると治療者がどのようなスキルや力を備えていることが、来談者のQOLの向上につながるのだろうか? おそらくそれは来談者の体験を的確に知る認知能力と共感能力、そして倫理観、愛他性ということになるだろうか。治療構造、精神分析の(相対的な意味での)基本原則はそれを最大限にするために用いるものである。



2018年2月24日土曜日

いかに学ぶか 推敲 3

脱学習とは
そこで学びほぐす unlearn ということについて少し説明しましょう。この絶妙な表現は2015年に亡くなった評論家鶴見俊輔のものということになっています。鶴見氏はこんな体験を持ったといいます。戦前、彼はニューヨークでヘレン・ケラーに会いました。彼が大学生であることを知ると、「私は大学でたくさんのことをラーン learn (学習)したわけですが、そのあとたくさん、アンラーンunlearnしなければならなかった」と彼女は言ったそうです。鶴見先生はたちどころにヘレン・ケラーの言わんとすることを理解したそうです。彼の頭には、型通りにセーターを編み、そのあとほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像されたといいます。それが「学びほぐす」という言葉のニュアンスだそうです。(「鶴見俊輔さんと語る 生き死に 学びほぐす」朝日新聞 20061227日(水曜日)朝刊13面 )
 ちなみに英語の unlearn にこの絶妙な意味合いが含まれているかは疑問です。英語の時点で調べてみると、It is hard to unlearn bad habits.などという例が出てきます。Unlearn とは、忘れる、とかひとつの凝り固まった学習を放棄するという意味があるようです。しかしヘレン・ケラー女史や鶴見氏の言う unlearn は学んだことを改めて「本当だろうか?」と問い直すことであり、そこにはそれを放棄するという立場も、それを自らが再び選び取り、自分のやり方で心に収め直すという立場も両方ありうるのです。

特にFreudの精神分析については学びほぐしが必要な理由

この点は特に強調したいと思います。どの理論を学ぶにしても、その理論はその論者が主張したいことが前面に立ち、同時に論者が隠したいこと、防衛したいことを反映している可能性があります。(今このように主張している私もそうです。)S. Freud自身の理論にもM. Kleinの理論にも、H. Kohutの理論にもO. Kernbergの理論にも、彼らの伝えている真実とともに、それを防衛し、正当化するためのあらゆる仕掛けが備わっています。こう考えるとメジャーな理論には必ず脱学習すべき点が隠されていると言っていいでしょう。
たとえばFreudの理論の基礎的な部分について考えてみます。Freudは精神病理の根幹に抑圧された性愛性を考えました。それが人を衝き動かしたり、症状を形成したりしていると考えたわけです。これ自体は仮説としては十分あり得ます。当時の時代性を考えると、画期的、というよりも大変に革新的だったと言えます。でもそれと同時にFreud にはある種の真実を発見し、世界をあっと驚かせてやろうという、野心的で自己愛的な部分がありました。そしてこの欲動論に合わない事実はどんどん切り捨てていったというところがあります。彼はそうやって何よりも理論の整合性を求めたわけです。ということはリビドー論にうまく繋がらないようなトラウマや解離の問題はことさら軽視されたということがあるでしょう。私の理論的な立場からすればどうしてもそう見えてしまうのです。Freud理論を本当に学習するためには、彼が軽視したり棄却したりした部分に注意しなくてはなりません。それがフロイトの脱学習です。ですから脱学習する、とはFreudからAさん(あなた)の理論になる、ということです。
あるいはKlein理論。Kleinにとっては怒りや羨望が極めて重要なテーマであったことがうかがえます。そしてそれらは彼女の個人的な体験としても身近な感情だったのでしょう。怒りはしばしば自分の弱さや小ささを自覚させられそうになると誘発されます。そこで怒りをプライマリーなものにする理論では、人間の恥や弱さの自覚に伴う感情は陰に潜んでしまう傾向にあります。他方ではKohut 理論では怒りを自己愛の傷つきに対する反応としてとらえる傾向にあります。これがいわゆる「自己愛憤怒」の概念ですが、この場合にはプライマリーなものとしての怒りの議論はあまり出てきません。
この様に主要な理論には必ず光の当たった部分と影の部分があるということは、あらゆる理論はそれをバランスよく吸収するためには脱学習のプロセスが必要になることになります。すると結局は脱学習した結果に残るのは、あなたの理論なのです。

2018年2月23日金曜日

精神分析新時代 推敲 24


人は自分の無意識を知りたい、とは神話ではないか?
私はここで解釈ということの意味について改めて考えたいと思う。精神分析ではなぜこれほどまでに、解釈の重要性が論じられるのであろうか? 私は解釈の重要性を考える時の前提となるのが、私たちが自分自身の本当の姿、自分自身の中に隠された部分を知りたいという願望、ないしはその必要性を前提とする考え方である。まずそのことに再考を加えたい。
私が私淑し、最近その著書の翻訳を手がけさえした米国の精神分析家 Irwin Hoffmannが次のように述べている。
「最初に私が顕在的な問題について、真摯で幅広い関心を示したならば、潜在的な意味についての共同の探索はしばしばその後にやって来るであろう。しかしそれだけでなく、学習されたものはそれが何であっても、常に生々しく生き残るのである。解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。」(強調は岡野)(岡野、小林、2017
そう、解釈はやさしく伝えられないと人はそれを飲み込めないという。豊富な臨床体験を持った治療者ならではの発言と言える。しかしこの文章はむしろ、解釈の重要性が今でも論じられていることを意味していることにはならないだろうか? そして筆者Hoffman 自身も例外ではないのであろう。彼ほどに相対主義的な立場をとる分析家でもそうなのである。それはどうしてなのだろうか? それに対して一つの答えは上に述べたことだが、それを短く言えば次のように言える。
「人は自分の心の深層を知りたいという欲求を持つ。」
もしそうであるならば、患者の側の無意識を、患者に先んじて見通すことが出来た治療者が与える解釈には正当性があるということになる。そこでその問題から考えたい。
まずは「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」について。それは十分ありえるだろう。誰でも若い頃は一度ならず、自分の知らない可能性が眠っていると考えるのではないか。私は若い頃楽器の演奏や武道にエネルギーを注いでいたが、適切な指導を受けてコツコツ練習していけば、自然と上達していくのではないかと漠然と考えていた。将来をつくるのは自分だし、いかなる未来も自分の努力次第で可能だ、と思えていた年代。語学などもその例だった。私は20代前半にフランス語を学び始めた頃は、現地の生活を一年でもすれば、自然にネイティブ並みの語学力が身につく、と思っていた。今から思えばなんという無知ぶりだろうと思うが、そのようなことを考えるのが人間なのだ。自分の中にはいろいろな可能性が眠っている。それは鍛え方次第では無限の可能性を引き出すことが出来るかもしれない。それを知りたいというような、ワクワクした気持ちを、若い頃一度は持った人も多いだろう。私にとっては精神分析を受けることは、そのような「自分探しの旅」に似た魅力を感じることに繋がっていたところがある。同様な動機付けで分析を受けたいという人がいても決しておかしくないはずだ。
しかしここで一つ考えてみよう。人は自分のことを知りたいと思っても、自分の本当の姿を受け入れる勇気と覚悟を持つ人がどれほどあるだろうか? 先ほど述べたとおり、人は自分の中に隠れている才能を知りたいとは思うだろう。しかし自分には望んでいた才能が欠如しているという事実や、明らかに劣っている部分、ないしは病的な部分について知りたいと思うだろうか? それらについて知ることに関しては、むしろ好奇心に不安が勝ってしまい、人はそれをむしろ知りたくないと思うのが普通であろう。例えば知的な能力を必要とするような仕事についている人たちは、自分のIQレベルを積極的に知りたいだろうか? あるいは老境に差し掛かった自分の脳にどこまで、アルツハイマー病の原因物質であるアミロイドベータが溜まり始めているかを知りたいと思うだろうか?
そう、私たちは自分の隠れた才能や得意分野を知りたいという願望を有するのと同じくらい、自分たちのネガティブなことについては知りたくないというのが一番現実に近いのである。その意味で、「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」という主張はかなり割り引いて考えるべきなのだ。
 それに百歩譲って「いや、自分は悪いところも含めて自分を知りたいのだ」という勇気ある人が現れたとして、自分の劣ったところ、邪悪な部分などを次々と明るみに出されるとしたらどのような反応を示すだろうか? おそらく途中で治療に来なくなってしまうであろう。人間とはそういうものだ。自分の悪い部分を知る過程で、猛烈な抵抗が起きてくるであろうし、身体症状を起こすかもしれない。それはこれまで慣れ親しんだ思考や行動への挑戦に対する強力な「エス抵抗」(フロイト)とも関連しているはずである。
さらには自分の問題が容易に解決できるようなものではなく、またその多くは生得的な要素が強いために、今後もそれと生きていかなくてはならない。その対応で力を使い切ってしまい、さらに「自分の悪いところを知りたい」という願望は少なくともしばらくは影をひそめてしまうだろう。
一つの例を挙げよう。たとえば「ふつうに話しているつもりでも人に誤解される、どうしてなのだろう?」と苦しみぬいた末に治療に訪れた患者が、様々な検討を試みた結果、その理由の一つは、人の心を汲み取れるような繊細さにかけている、つまり発達障害的な問題がある、と指摘されたとしよう。そしてそれをどのように改善したらいいかと問うた場合に、「残念ながらそれはあなたには欠けた能力であり、それを獲得することは難しいでしょう」と言われたとする。もちろん彼はその自分に欠けた能力を補うためにはどのような工夫をしたらいいかと考えるかもしれない。しかしおそらく大部分の人は、「自分は救いようがないんだ」と思うことで、自分をさらに知るためのカウンセリングに通うモティベーションをなくしてしまうかもしれない。


2018年2月22日木曜日

精神分析新時代 推敲 23


まえがきを書いてみた。

「精神分析とはいったい何か?」 私はこの問いを自分自身に長らく発し続けてきている。1982年に医師になって直後であり、もう35年も時間が経過したことになる。そろそろ答えが出そうなものだが、決してそういうことはない。否、私自身にある程度の答えが定まってからずいぶん経つのであるが、他の意見を持つ人々との対話はまだ始まってもいないという気がする。これだけ多くの学派が存在し、精神分析のとらえ方が異なる以上、「精神分析とは何か?」の解答が見つかったとはとても言えない。むしろ統一された解答など永遠に見えない、というのが解答だろうか?
私が15年前の2003年に出版した「中立性と現実」を手に取ってみても、その頃には私の考えはすでに大方固まっていたことがわかる。「患者の役に立つのが精神分析だ・・・・」煎じ詰めればそういうことを書いた。結局はその部分は変わっていない。それから現在までに積み上げた分析家としての経験、精神療法家としての経験、そして精神科医としての日常臨床はこの基本部分に関してのより確かな感覚を育ててくれたと同時に、精神分析とそれ以外の精神療法との違いを様々な形で知ることになった。
その間に私が著した本の中で、精神分析理論に関する専門書といえば、2007年の「治療的柔構造」以来ということになる。それ以外はもっぱら自己愛の問題や脳科学の問題を扱ったものだ。そしてその間に私は「精神分析家」という自覚が薄くなってきているのを自覚している。それは私が理想的な姿として考える「精神分析」と、我が国の精神分析家によって一般的に考えられている「精神分析」には大きな違いが依然としてあるということである。特に大学でこれから心理療法家を目指す学生と話している場合は、彼らがいわゆる「精神分析」を学ぶつもりで私の講義を聞いた場合に、誤解を与える可能性が少なくない。そこで私は「このような考え方は精神分析的な考えとは違っている可能性がある」ということを説明するようにしている。しかしこの頃そのような営みにも疲れを感じ始めてきている。
本書でも繰り返し出てくると思うが、私にとって精神分析を語ることは、「精神分析はどのような手法を用いるか?」を論じることではない。「患者のベネフィット(利益)につながるために、治療者と患者の両者の心の動きをいかに検討しあうか?」である。そしてそこにはどうしても「無意識」の理解が欠かせない。しかしそれはフロイトの唱えた無意識ではなく、新しい脳科学に立脚した「新無意識」に基づいたものである。しかしその意味での精神分析を語るためには、実はフロイトやそれ以降の分析家の考え出した概念は実は非常に役に立つのだ。その意味で私はやはり精神分析を学んできてよかったと痛感している。そして脳科学的な心の理解。おそらく精神分析をサイエンスにすることを目指していたもと神経学者としてのフロイトは私の考えを肯定してくれるのではないか、などと考えるところを見ると、結局は私もフロイトの一ファン、ということになるのかもしれない。
本書を構成する20の章は、私が折に触れて書いたものであるが、おそらく同じような方向を向いていることを読者の皆さんは感じていただけるかもしれない。

2018年2月21日水曜日

精神分析新時代 推敲 22

このような心の捉え方は、従来の伝統的な精神分析理論にはあまりなじまないものである。分析治療においては治療者が患者の連想内容からその無意識内容を見出し、それを解釈として提供する。それは抵抗に遭いつつも徐々に患者に洞察を導く。そこには心がある種の連続性を有しつつ展開し、無意識内容が徐々に意識化されていくプロセスを前提しているを考えられ、それを「漸成的な想定 epigenetic assumption」とも呼ぶ立場もある(Rappaport, Gill, 1959, Galatzer-Levy,1995)。
従来の精神分析理論においては、分析作業とはすでに無意識に存在している欲動やファンタジーを発掘する作業として捉えるという考え方に基づいていた。しかし最近の分析理論においては、無意識内容はむしろ臨床場面において生成されるという、いわゆる構成主義的な考えが提唱されつつある。それらは分析において解釈によりそれまでの「未構成の経験 unformulated experience(Stern,2003, 2009) や「未思考の知 Unthought known(Bollas, 1999) が生まれるという考え方に反映されているが、これらは事実上心の非線形的な在り方への注目ともいえる。
心の持つ非線形性の一つの表れとして、サブリミナル・メッセージの例を挙げよう。私たちの心は意識されないほどの短時間の視覚入力により大きな影響を受ける。Bargh (2005) の研究によれば、たとえば「協力」に類する単語と、「敵対」に類する単語をそれぞれ別のグループの被験者にサブリミナルに提示した後に、他者との協力あるいは競合が必要となる課題を実施すると、前者のグループでは協力的な行動が増加し、後者では敵対的な行動が増加するという。あるいは老人に関係した、たとえば白髪とか杖などの単語をサブリミナルに提示すれば、記憶テストの成績が低下したり,実験終了後にドアまで歩いていくスピードが遅くなったりするという。これらの研究の一部には、再現不可能との批判もあるものの、私たちの心の働き方の一側面を捉えていることは確かであろう。私たちの心は実に様々な内的、外的な刺激を受け、その時々で予測されなかった言動をとるものの、それを因果論に従ったものであり主体的に選択したものと錯覚する傾向にあるのである(Bargh, 2005)

非線形的な心のモデルが示す治療方針
上述した非線形的な心のモデルは、様々な意味で心理療法のあり方にヒントを与える。このモデルでは心の連続性や内的外的な諸因子との因果関係はあくまでも限定的なものとしてとらえられる。治療関係の在り方は、二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の深層学習のプロセスであると考える。治療者が行う介入は、意図せざる要素を多く含むエナクトメントとしての性質が強く、患者に及ぼされる影響も正確な予想は不可能になる。
このような心の非線形的なあり方との関連で富樫(2011)は、従来の精神分析理論では、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことが主として転移の反映としてみなす傾向にある点を指摘する。実際には治療関係とは開放系であり、患者を取り巻く様々な関係性や外的要因との動的な相互作用が生じている。
筆者は個人的にはこのような治療の在り方は関係論学派のI.Z. Hoffman (1998) により提案されている弁証法的構成主義の見方により包摂されているものとみている。この理論は治療関係において生じるものは常に過去の反復の要素(「儀式的 ritual」な側面)と、新奇な(目新しい)要素(「自発性 spontaneity」の側面)との弁証法であるという見方を唱える。このうち後者が心の非線形性により生じる心の予測不可能性に対応する。もし治療場面において生じることをこのように弁証法的に捉えた場合、治療者は患者の無意識を解釈したり将来を予見したりする役割から離れ、患者と共に現実を目撃し体験する立場となる。
複雑系として臨床状況を捉えることは、そこに何ら確かなことは見いだせず、治療の行方も不可知である、という悲観的な見方を促すわけではない。むしろ治療場面における偶発性や不確かさを患者と共に生きることの意義を見出すような治療者の感性を育てるという意味を有するのだ(富樫、2016)。そしてそこで否応なしに関わってくるのが治療者の主観性という要素である。治療状況が刻一刻と展開する中で両者が様々な主観的な体験を持っていることは確かなことであり、治療関係は二人の主体のかかわりであるという了解から出発することで新しい治療の在り方が考えられるであろう。実際に関主観性理論の立場や関係精神分析では、両者の主観に基づく治療論が提唱されている( Benjamin, 2005, Stolorow et al, 1987)。ただしそこで具体的に考えられる治療的なかかわりのあり方については、また別の機会に触れたい。