2018年12月31日月曜日

解離の本 68

静かな大晦日である。しかし今年の冬は暖冬、ということだったのだが…。

4)陰で糸を引く黒幕人格

黒幕、という言葉から、私たちはこの「陰で糸を引く、裏で支配する」というイメージを思い浮かべるだろう。そこからこのような呼び方がなされるようになったのだ。そしてそこには彼らを多少なりとも持ち上げているというところがある。患者さんや、治療そのものの運命が彼らの振る舞いにかかっているというところがどうしてもある。そして彼らは通常非常に強い力を有するために、彼らの力を借り、取り込む(協力してもらう)というところがなければ治療は進まない。勿論その協力には「お引き取りいただく」ということも含まれる。
もちろんこの陰で糸を引くという性質は、患者さんを昔陰で操っていた人が取り入れられているという部分も含まれる。つまり昔トラウマを与えてきた人は、直接の加害行為を行うことなく、しかし隠然たる力を持ち、近づくのも恐ろしいほどの「畏れ」の対象であったかもしれない。そしてそれには当然親の存在も含まれる。というかそれがメインの部分だ。私たちは大人になってからは、子供にとって自分の何倍もの背丈と何十倍もの体重を持つ親がいかに恐ろしい存在となり得るのかを想像できないことが多い。しかもそれは子供のファンタジーの中でいくらでも倍加しうるのである。いかに親がどなったり手を挙げたりした記憶がなくても、彼らは十分黒幕的な威力を持っていた可能性があるのだ。


2018年12月30日日曜日

解離の本 67


 3)攻撃性や破壊性の強い黒幕人格
   タカコさん(仮名、48歳・女性)と攻撃的な人(黒幕人格・男性)
    
いわば黒幕人格のもっとも典型的な形が、このタイプであろう。先に示した三つの特徴を備えている。以下の事例にあるように、面接室でのその扱いはいくつもの困難さを伴うが、この事例のようにいくつかの好条件が重なれば扱うことが出来る。ただしその扱いは限定的と言ってよい。

(事例は略)

2018年12月29日土曜日

解離の本 66


 
 2)反社会的な黒幕人格
 
黒幕人格のなかにはその出現が常態化して、一連の反社会的な行動を見せることがあります。その場合の黒幕さんはまるで陰に隠れて暗躍するかのように、通常のカウンセリングでは姿を現さないことがあります。その場合の黒幕さんはそれなりにかなり精緻化され、認知能力を働かせた行動を行っていることになります。ただ治療的なアプローチが極めて困難という意味ではやはり「黒幕」的なわけです。ただしカウンセリング場面に時々現れ、多少なりともカウンセラーとのラポールを成立させることもあります。

(以下事例。省略。)


2018年12月28日金曜日

解離の本 65

 昨日文化結合症候群について書いていたが、ラターやアモクのほんの一部は凶悪犯罪と重複している可能性も考えられる。サイコパスとは違う、本人にも説明できないような犯罪や暴力行為にこの種のエピソードが関与している可能性も否定できないだろう。

次に黒幕人格のいくつかのプロトタイプを例示したい。


1)      抑うつで自己破壊的な黒幕人格

黒幕さんの中にはネガティブな言動が非常に際立つ例がある。常に人生を終えることを考え、負のオーラを放つ。黒幕さんの「出現は一過性」という条件はさほど当てはまらず、比較的頻繁に出現する印象がある。この種の黒幕さんはまた、本人が抱える鬱症状とも関連しているという印象を持つ。

        (事例は省略)

2018年12月27日木曜日

解離の本 64


(資料またはコラム) 文化結合症候群と黒幕人格
ここで精神医学的な症候群として知られる「アモク」という病気について紹介したい。これは人が突然気が狂ったように暴力的な行動を示し、その後正気に戻り、自分がしたことを何も覚えていないという状態をさす。その暴力は通常は無差別に行われ、突進やものを拾って投げつけるという、通常のその人からは考えられないレベルのものであることが多い。私はこれまで黒幕人格の行動について述べてきたが、突然の黒幕さんの出現や暴力的な行為のパターンはこのアモクという状態を思い起こさせ、またおそらく両者に共通する点は多いものと思われる。そこでこの病態について示しておくことに意味があるとかなえたわけである。
実はアモクに類する病気は、一種の風土病のように世界各地に存在することが知られてきた。それらは「文化結合症候群」と呼ばれるものの主要部分を占める。ただしこの文化結合症候群というタームは少しヘンな言葉だ。原語は cultural-bound syndrome であり、本来は(特有の)「文化に根ざした症候群」ということであり、いわゆる「風土病」と呼ばれるものに近い。
アモクはマレーシアに特有のものとされるが、同様の症候群が世界の各地に見られる。北海道のアイヌのイム、ジャワ島などのラタ (latah) 東南アジアコロ (koro)南米ススト (susto)、北米インディアンウィンディゴ (windigo)、エスキモーピブロクト (piblokto) などが挙げられる。私がこの中でもアモックについて述べるのは、ごく単純に running amuk という英語表現の存在のためだ。「気が狂う」という意味で「アモクっちゃう running amuk」という言い方が日常的になされるということは、英語圏の人は一番この言葉になじみが多いであろうからだ。(ただし同じ意味で、気がふれることを「イムる」と表現したとしたら、解離性障害を持つ人々に対する差別的な響きを含んでしまい、私はこれは断じて許せない。しかしアメリカの口語表現として「アモクる」が定着しているので、一応日本語での表現は許されると考える。
アモクの特徴は先ほど述べたが、同じウィキのページには次のようにさらっと説明されている。「マレーシアアモクは男性に多く、激しい悲しみや侮辱を受けたことをきっかけに周囲から引きこもり、物思いにふけったような状態となる。その後突然に武器を手にして外へ飛出し、無差別殺傷を起こし本人も自殺を企てる。正常に戻ると、殺傷していたときの記憶は失っている。」(下線は岡野が施した。実は公刊されているDSM-5の日本版から、アモクの説明文を借用としたが、なんとDSM-5には文化結合症候群の記載がないことを今になって知った。)
これを読む限り、アモクには何らかの「心因」が想定されているようだ (下線部分)。しかし同じように悲しみや侮辱を受けた人がよりによってこのような反応を示すことはきわめて例外的だろう。たいていは自棄酒を飲んだり、鬱になったり、という反応を示しても、無差別的な暴力を振るってしかもそれを覚えていない、というような事件を起こすことは通常はありえない。だからこれらはきっかけではあっても原因とはいえない。またこれらが「文化結合・・・」と呼ばれるのは、それぞれの固有の文化により原因として異なる説明がなされるからだ。アモクの場合は「hantu belian(なんと発音するかわからず)という「トラの悪魔」が憑依した状態と説明される。そしてインドネシアではこれにより生じたとされる攻撃については目をつぶるという文化があるというのだ (以上、英語版 Wiki ”running amok”の項を参考にした)。おそらく裁判官は「犯行は許しがたいものだ。ただしこれがアモクにより生じ、被告はまったくそのことを覚えていないため、執行猶予をつける」みたいなことになっていたのだろう。
ちなみに日本のアイヌ民族に見られる「イム」だと、貞淑な淑女がトッコニ(マムシをさす)やビッキ(蛙をさす)とささやかれると突然発狂して暴力的になるとされる(記憶のみ。あとで確かめる)。つまりそのような言い伝えがある、というインプットがその人の頭にまず最初にあって、あとはそれに従った症状を示すということがおきる。そもそもイムという状態を知らないでイムの症状を示すことは難しいというわけだ。ここら辺がいかにも解離的なのだ。
文化結合症候群の説明を読んでいてしばしば出会うのが、これらの症状を示す人はもともとは表向きは非常に従順で、規範を重んじる人たちであるという表現だ。いや、表向きどころか、実際にそうなのであろう。そしてだからこそ彼らの通常の人格にはない部分が別人格を形成していて、それがふとしたきっかけで表に出ると考えるべきなのだろう。そしてそれはその文化で「~のような人がなる」(イムの場合には、貞淑な女性が忌み嫌われるものをささやかれた場合)という刷り込みをあらかじめ受け、後はそのプロフィールに合致した黒幕的な人格が静かに成立していて、やがてきっかけを得て出現すると説明されるのだ。
もうひとつ重要な点は、これらの文化結合症候群を提示する文化はおそらくまだ発達途上国であり、さまざまなタブーや抑圧が存在する環境であろうということである。そこでは不満や攻撃性や怒りは、その表現を文化という装置により抑えられていた可能性がある。だから現代社会ではアモクやラターやイムの存在する環境は少なくなっているのである。
その意味では黒幕人格はおそらくイムやアモック的な由来を持つ可能性があり、それは他の典型的な交代人格とは異なる出自を有する可能性である。黒幕さんが顔なしである理由はそこらへんにもあるかもしれない。

2018年12月26日水曜日

解離の本 63


1− 3 重大な状況に一時的に表れる
 黒幕人格は大抵は突然出現します。特に相手を特定せずに無差別的に怒りを表出することもあれば、特定の相手に攻撃を向ける目的で出現することもあります。通常その出現の仕方は瞬時であり、周囲が追いつけずに対応できない場合がほとんどです。これは黒幕人格が何かの刺激で偶発的に飛び出してきた、ということもあれば、すでにそれを後ろで見ていて意図的に飛び出してきた場合もあるからです。しばしば聞くのが、街を歩いていて、あるいは電車の中で、誰かが激しい口論をしているのを見て、突然黒幕さんが飛び出してきたというエピソードです。診察室で泣き叫んでいる患者さんの声が外に漏れてしまい、それが引き金になったという例もありました。
黒幕さんの示す攻撃性が特に激しい場合には、警察に通報され、そのまま措置入院になってしまう場合もあります。もちろん事件性が生じた場合は逮捕されてしまうこともあります。また自傷行為や自殺企図により自分自身の身体を傷つけたり、深刻な外傷を負った場合には救急搬送され、そのまま入院となることもあります。ただし特に大ごとにならずに済んでしまう場合も少なくありません。それは黒幕さんがかなり足早に姿を消してしまい、その後に戻った人格がその出来事を記憶していなかったり、およそ攻撃性とは程遠い印象を与えることで、周囲の人々もそれ以上深くかかわらないで終わってしまう場合が少なくないからです。特に家族間の場合は、攻撃性が向かった相手が親や配偶者である場合は、そのパターンに慣れてしまっていて、しばらく体を抑えて元の人格に戻ってもらう方を選ぶでしょうし、本人が知るとトラウマになるからという理由でその間の行動を主人格に伏せたりするということもあります。
先ほども述べたとおり、黒幕さんの出現は大抵は一過性のものです。特に暴力行為や破滅的な行動の場合は、急速に立ち去ってしまいます。このような場合には、黒幕さんはかなりの身体的および精神的エネルギーを消費し、文字通り「起きている」ことがそれ以上出来ないようなのです。

2018年12月25日火曜日

他者性の英語論文 推敲 2


この章もここら辺までは結構しっかりかけていた。

A Review of the literature 

Although the “problem of otherness” has a great clinical significance, related articles appear to be rather scarce, due in some part to a theoretical ambiguity about how dissociative process can be described. In this review of the literature, I start from the discussion of John O’Neil (2009) who tackled on to this issue from the standpoint of ambiguity of the term splitting in the literature of psychoanalysis as well as dissociative disorders.

    The concept of splitting as a source of confusion in dealing with the problem of “otherness”

According to O’Neil, the notion of splitting, used mainly in psychoanalytic literature roughly denoting dissociation, could be a source of confusion in the literature. O’Neil argues that when dissociation is often described as “the splitting of the mind”, there are two meanings which are frequently confused and undifferentiated. They are what O’Neil calls division of consciousness and multiplication of consciousness. The former connotes dissociation of faculties within one conscious, typically represented by the BASK model proposed by Bennet G.Braun (1988), while the latter implies the existence of more than one consciousness. O’Neil points out that this difference has been overlooked due to the fact that “multiplication and division are present in the double meanings of both split and double”(p.298). He asserts that while dissociation is often described as the division of consciousness, he prefers the connotation of “multiplication of consciousness” which “better describes dissociative multiplicity” (ibid, p.298). Hereafter, we refer to this distinction as “splitting as division vs. splitting as multiplication” in the sense that O’Neil explicated. I propose that the ambiguity of the meaning of splitting might have been one of the factors deterring our discussion regarding the “problem of otherness” that I am discussing in this article.
With this distinction in mind, we can take a brief look at the history of the theories of dissociation. By mid-1800s clinicians began to find the splitting of consciousness in hypnosis and clinical phenomena of hysteria (van der Hart and Dorahy, 2009). Sigmund Freud, Joseph Breuer and Pierre Janet followed suite in adopting the notion of dissociation in this sense. Breuer (1895) in the “Studies of Hysteria” appeared to be content with the notion of dissociation and the theory of splitting of mind with his notion of “hypnoid state”. Apparently, Freud supported this view for only a short period of time, until he recanted in his famous statement. “Strangely enough, I have never in my own experience met with a genuine hypnoid hysteria” (Breuer & Freud, 1895). It appears that Freud was still accepting the notion of the splitting of the mind, but he was thinking about the splitting as division within the same mind by the mechanism of repression. In a way, Freud did not accept the splitting of consciousness in its true sense. He never came to believe that a part of the mind is broken away and forms another conscious. It should still stay within his/her mind somewhere, that he named unconscious.

Janet’s view and his “second law of dissociation”
As for Janet, it appears that he was using dissociation or splitting of mind in the sense of division, as he thought that splitting of consciousness is in part, due to the constitutional vulnerability and the purpose of the therapy was the personality (re)integration and rehabilitation, which is the resolution of dissociation of the personality (Janet, 1889, 1909, 1911). As I will discuss as follows, however, Janet’s notion of dissociation was typical of splitting as multiplication.On close examination of Janet’s theory revealed his belief in dissociation predominantly as multiplication (Janet, 1887, quoted by Dell, 2009). Janet proposed in his 1887 thesis an idea that he calls “second law of dissociation” and asserts that when dissociation occurs,” the unity of the primary personality remains unchanged; nothing breaks away, nothing is split off. Instead, dissociated experiences (…) were always, from the instant of their occurrence, assigned to, and associated with the second system within.”(Janet, 1887, quoted by Dell, 2009. p.716) His statement is remarkable as he is making it clear that the consciousness can exist in different parts. The “second system” (and of course he acknowledges that there can be more than two, (Janet, 1887, quoted by Dell, p. 717.) ) equivalent of what we call PP is emerged afresh as “nothing breaks away.”

Dell (2009) makes a point that due to this conviction, Janet was totally opposed to Freud’s notion of unconscious, as Janet believes that all psychological acts require consciousness (ibid, p.716). While acknowledging Dell’s point, I also believe that there could have been some similarity of the views between Freud and Janet. Paradoxically enough, Freud and Janet might have been agreeing with on a point; a mind does not split into parts, like a block of clay tearing off into pieces. Freud’s notion of repression did not have an implication of mind being split into pieces. Janet thought also that “nothing breaks away” from the original consciousness. For this reason, perhaps, Janet used the term “doubling of consciousness” (dédoublement de conscience) to describe the existence of a consciousness and “the second system” in the dissociative process. In Janet’s mind, dédoublement was used in the sense of multiplicity instead of division.

It is to note that Janet’s view of the “second law” became a subject of some criticism. Dell (2009) maintains that clinical data occasionally confronts Janet’s view, as in some cases parts of the personal consciousness are actually split off. He gives an example of a traumatic event in which “some closely related events that had unquestionably been experienced by the person happens to be taken away into the second trauma-based consciousness” (or the other PP).

2018年12月24日月曜日

他者性の英語論文 推敲 1

もうかれこれ4か月くらいいじっている。日本語での発表も終わったし。そろそろ仕上げなくては。


The Problem of “otherness” in dissociative disorder
   
The unity of the primary personality remains unchanged; nothing breaks away, nothing is split off. Instead, dissociated experiences (…) were always, from the instant of their occurrence, assigned to, and associated with the second system within.   (Pierre Janet, 1889)
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
The appearance of a second personality is often presented in the most deceptive manner.
(Sigmund Freud (Breuer & Freud, 1985, p287)

Where does “The Problem of otherness” stand?

Although our understanding of dissociative phenomenon and its pathological manifestations have made a significant progress for the past couple of decades, there are many crucial problems to be further explored and understood. One of them that I discuss in this article is what I would call “the problem of otherness” in dissociative disorder, particularly among parts of personality in dissociative identity disorder (DID). How much do we recognize them as individual personalities which are distinct from each other, with their high enough level of “emancipation” (Janet, 1907) and autonomy as well as independence? Do we grant a status of an independent and distinct personality to each of them, or regard them as different “parts” of a whole personality?
Although there might not be a definitive answer to this question, I consider that our general trend in these days seems to be to choose the latter more than the former. We no longer use the term “alter” (which is Latin for other), at least not as often as before, to describe different parts of personality in DID. We abandoned the traditional term “multiple personality disorder” in order to avoid an implication that there are different and independent personalities in an individual’s mind (as exemplified by DSM-IV, DSM-5 and ICD-11). It appears that the “problem of otherness” in dissociative disorder is at least temporarily settled among experts in the direction of not fully granting it. But how much does this trend reflect the clinical reality including patient’s subjective experiences?
A patient of mine, Ms. A, one day talks about her recent experience.

“The other day I was driving a car and waiting at a traffic light. When it turned green, a car ahead of me didn’t start for a moment and I heard a voice on the back of my head yelling ‘Gee, weren’t you goofing off ? Get started, silly!’ I said to myself ‘My goodness, can’t he be more patient?’ Of course I was driving by myself and it was B, one of my alters, who yelled”. 

In this example, it seems obvious that Ms. A has a very different perception and emotional reaction compared to “B”. For her perspective, B is someone else, another subject, if not altogether another person. The question is whether or not we recognize B’s “otherness” from Ms.A, in such a way that Ms.A feels understood by us her subjective experiences.
If we are not sure about how we can answer this question, just think about another example in a following thought experiment.

Ms.C is at a traffic light, in a same way that Ms.A was. When the light turned green and a car ahead of her was inattentive in a same situation, she heard a voice from her back. “Gee, aren’t you goofing off ….” Ms.C said to herself, “Gee, can’t he be more patient??” But in this case, it was her husband in the back seat who yelled. 
How many of us are sure that we acknowledge Ms.A’s perception of B’s otherness on a comparable level as Mr.C’s of her husband, another real person? Perhaps not many of us are. I believe that it is partly due to the fact that we tend to consider multiple existences of subjects in Ms. A as sort of a fantasy, or something pathological and temporary that needs to be fixed with some kind of therapeutic effort. This belief is eloquently expressed in the description of DID by a reliable diagnostic system.
“Dissociative Identity Disorder reflects a failure to integrate various aspects of identity, memory, and consciousness.” (DSM-5, American Psychiatric Association, 2013).


As I suggested, current literature appears to be on the side of not granting a full “otherness” to the part of personality of an individual with DID. However, quite often each of them should be regarded as having their own personality, or at least be treated as so, despite the fact that their level of elaboration and emancipations differ greatly.
The purpose of this article is to propose that individuals with DID’s perception of their parts of personality as “others” is not altogether pathological but rather a reflection of the healthy aspect of their cognitive function, from theoretical as well as neurocognitive viewpoints. When a PP subjectively experiences otherness” in another PP, they are structurally separated in a bio-psychological sense. The degree of that structural separateness corresponds the strength of the sense of “otherness.”
In this article hereafter, I will use the abbreviation “PP(s)” (parts of personality, van der Hart, et al, 2006) in order to connote what has been referred to as “alter”, “other personality”, etc. in individuals with DID, partly for the sake of simplicity and in order to temporarily bypass the issue of how appropriately we can call them, which is actually the very point that this study is addressing to.  

2018年12月23日日曜日

解離の本 62


1− 2 正体がつかめないこと

 黒幕人格が、なかなか正体をつかみにくい理由としては、おそらく完全に人格として形成されていないという事情があります。筆者が出会ったある患者さんたちは、黒幕人格のことを「怖い人」「攻撃的な人」「おばけ」などと呼んでおり、宮崎駿のアニメーション映画「千と千尋の神隠し」に登場する「顔なし」や、人気ゲームのドラゴンクエストの「ドラクエのキングスライムになぞらえる人もいます。
患者さんから特別その話を聞かない限り、面接初期には、黒幕人格はあまり意識されません。しかし、患者さんが家族から聞いた困った行動などが語られ始めると、黒幕人格の存在が、急に大きなものとして治療者に迫ってくることになります。とはいえ、他人に見られることや、識別されることを望まない黒幕人格は、そう簡単に面接中には現れません。また治療者側も、出会うことに躊躇する気持ちを抱えることが多いといえます。
この様な黒幕人格の性質は「精緻化されていないunelaborated」とでもいうべきものです。精緻化、とはいわゆる「構造的解離理論」に記載されている概念で、人格がその年齢や名前、性格、備えている記憶などがどの程度詳細に定まっているかを示します。精緻化されている人格は、言わば人格としての目鼻が備わり、詳細な個人史や知識を持っています。それに比べて黒幕人格はそれが整っていない、言わば「顔なし」に近い状態なのです。
黒幕人格が顔なし状態に近い理由はいくつか考えられます。自傷や暴力自体が衝動的で高次の脳機能による内省や熟慮を経ていないことを考えると、その人格はより原始的で動物に近いレベルでの理性や知性しか供えていないという可能性もあるでしょう。あるいは以下の三番目の性質に述べるように、それが出てくる時間が限られるために経験値を得ることもなく、言わば社会性のレベルについてはきわめて低い状態に保たれている可能性もあります。
ただ「黒幕」という呼び方が含意する通り、そこには裏で支配する、闇で糸を引くというニュアンスもあり、中にはきわめて高い知性を備え、みずからの姿をことさら隠すことで隠然たる力を発揮し続けるという場合もあります。
いずれにせよ黒幕人格に接触して心を割って話すということは非常に難しく、そのために時々起きる暴力や自傷行為、過量服薬や万引きなどに対して有効な策を講じることが出来ないでいる場合が少なくないのです。

2018年12月22日土曜日

解離の本 61


1-1 怒りと攻撃性

 怒りと攻撃性は、黒幕人格のまさに核となる要素といえるでしょう。ふだんは穏やかな患者さんが、日常生活において突然激しい怒りを表出し、自傷行為に及んだが、その記憶がない、というエピソードを聞くことがしばしばあります。これは黒幕人格が出現して一連の行動を起こしたということを暗示していますが、それを聞いた治療者は、目の前の患者さんと、語られたその激しい行動との違いに動揺することもしばしばあります。もちろん患者さん本人はそれが自分の起こした行動であるという自覚さえも少なく、また周囲の人の、本人が聞いたらさぞショックを受けるであろうという配慮から、実際の行動について本人に伏せられていることもあります。ただし多くの患者さんは「自分の中に怖い人がいるらしい」「自分の中の死のうとしているようだ」「どうしてそんなことをするのか、わからないから、止めてほしい」などと、第三者の存在やその行動として語られることもあります。
 ここで特筆すべきは、主人格や他の人格は、怒りの感情の表出の仕方をあまり知らないということでしょう。周囲の誰かが主人格に対して、トラウマに関連する行動や侵襲的な態度を示した状況のときに、抱えた怒りや攻撃性をどう処理すればいいのかに困惑して、瞬時に黒幕人格と交代します。これは、主人格が黒幕人格を呼んだり招いたりして交代するというよりも、主人格がその瞬間に忽然と消えてしまい、黒幕人格が突如前に出てくるようなことであると考えられます。経路としてはここで三通りの可能性が考えられます。一つは怒りをそもそも表現してはならないという内的な抑制がかかる場合です。ただし怒ってはいけない、という他者からの抑制がその原因として存在していたとすれば、この第一の可能性は次の第二の場合に吸収されることになるでしょう。
第二の可能性は怒りを他者から、あるいは状況により抑制されている場合です。誰かから暴力を加えられた場合、怒りの表現がさらに相手からの暴力を招くことが分かっている場合、それらの感情表現は封じられることになります。そしてそれはその時成立した、将来の黒幕人格により荷われることになります。第三の可能性は暴力をふるってきた人格がそのままその人に入り込み、黒幕人格を構成するという可能性ですが、これは以下に述べる黒幕人格の生成過程でもう少し詳しく説明しましょう。


2018年12月21日金曜日

解離の本 60


黒幕人格の三番目の特徴は、彼らはたいていは重大な状況下において一時的に出現するだけであり、すぐに背景に引き下がってしまうということです。詳しい事情はわかりませんが、おそらく黒幕人格が出現して何らかの破壊的な行動を起こす際は、おそらくその行動自体が非常にエネルギーを使うため、すぐに枯渇してしまい、休眠に入ってしまうという印象があります。もちろん黒幕人格が外に出ること事態がその人にとって緊急事態であり、これ以上被害が大きくならないように他の人格が全力で黒幕人格を押さえ込んでいるというニュアンスもあります。患者さんの心の中を描写してもらうと、黒幕人格はしばしば奥のほうの普段は立ち入れないようなエリアで鍵のかかった部屋にいたり、鎖でつながれていると言った描写をなさいます。あるいは黒幕人格は深い休眠状態に入り、ごく稀にしか起きださないという話も聞きます。
 これらの3つの特徴を合わせて、黒幕人格は、「怒りと攻撃力を持つものの、そうと認知されにくく、重大な状況に一時的に表れる人格状態」と言い表すことができます。
 もちろん黒幕人格のような人格についてはすでに専門家によりいろいろ記載されています。「構造的解離」(Ven der Hart,Nijenhuis,& Streele,2006)は世界各国で翻訳されている解離理論ですが、それによればその人のパーソナリティの情動的な部分(emotional part of the personality, 以下「EP」)という概念があり、黒幕人格はそのひとつであると考えられています。一般に解離性障害においては、その人の人格の統合がうまく行かなくなります。トラウマ的な出来事が起きると、人格は日常生活に適応する為の「表面的に正常な部分」(apparently normal part of personality、以下「ANP」)と、防衛に特化したEPとに分けられてしまうと説明されます。ANPは日常生活を送る上で出てくる人格たちで、仕事をしたり、社会的な付き合いをするといった機能を担います。それに対してEPは強い感情の体験を担当します。つまりANPで送っている生活において、怒り、不安、喜び、といった強い情動が体験されたときに、人格がEPのうちのひとつにスイッチするということが生じるわけです。これらのEPは、かつて当人が危機的状況やトラウマの際に強烈な情動を引き起こされかけたときに、当人がそれに耐えられなくなって身代わりとなって出現した人格たちですから、似たような状況では同じことが生じるわけです。黒幕人格はその中でも最も強い情動を担い、そのせいもあって最も内側に隠れている人格のひとつといえるでしょう。
 黒幕人格の定義を先の3つの主要な要素を持つものとし、以下に項目ごとに説明していきます。
 

2018年12月20日木曜日

解離の本 59

昨夜は京都市内のまんざら亭仏光寺店での、学生たちとの打ち上げ。料理が一つ一つおいしかった!

1. 黒幕人格の定義といくつかの特徴

黒幕人格という名前が付いているからと言いって何か特別の人格ということはありませんが、いくつかの特徴により、臨床的に大きな意味を持つ人格といえます。第一の特徴として、「怒りや攻撃性を持つ」ということが挙げられます。黒幕人格が表に出ると、他人に対して暴言を吐いたり、暴力を振るったり、物を壊したり、犯罪行為に及んだり、深刻な自傷行為や自殺企図を起こしたりします。また表に出ていないときでも、その存在感やそれが発するオーラが周囲に感じられ、それに対して遠慮をしたり、それを刺激しないようにという気遣いが、患者さんだけではなく治療者の側にもおきることがあります。「黒幕」という表現はそのような隠然たるパワーを発揮するというニュアンスを含みます。いわばその患者さんの背後で「睨みをきかせて」いる」わけです。
2つ目の特徴としては、それが識別されにくく、ある意味で匿名的であるということです。英語圏でも黒幕人格は “it” (それ、隠れんぼの鬼)”unknown” などの呼ばれ方をすることがあります。交代人格にはたいていの場合何らかの名前が付いていますが、黒幕人格の場合にはそれが付いていないことが多く、またその姿かたちも他の人格のように他の人格によって把握されていません。そして黒幕人格が誰に由来するのか、過去の迫害的な人たちのうち誰に最も関係が深いかがわからないことがあります。

2018年12月19日水曜日

解離の本 58


治療者としてDIDの患者さんと面接するということは、すなわち一人の患者さんに対していくつもの人格に出会うということを意味します。存在する交代人格は個人によって様々ですが、共通の特徴をもった人格に出会うこともあります。特に子供の人格はDIDの方のほとんどに見られるという印象があります。あるいは異性の人格、基本人格自身の若い頃の人格などもよく出会います。興味深いことに、患者さんの実年齢より年上の人格は非常に少ないという印象を受けますが、もちろんこれにも例外はあります。それ以外にも犬や猫などの動物の人格、「鬼」の人格、どこかの神社の守り神の人格など、非常に多彩です。その中で私たちが「黒幕人格」と呼ぶ人格の存在はある意味では異色と言えますが、治療や予後を考える上での大きなカギを握っている人格と言えます。彼らと良好な関わりが出来れば、治療者の助けになってくれるといえるでしょう。しかしそのような友好的なかかわりを持つことはむしろまれで、それとの関わりやその扱いには多大な臨床的なスキルや慎重さが求められます。
まずここで、この「黒幕人格」という表現について少し説明しておきましょう。これまでの解離のテキストを読んでも、そのような記述を目にすることはあまりありません。そもそも、いくつかの人格を併せ持っている人達の存在があまり社会で認識されていない以上、そのような言葉になじみがないのは自然なことかもしれませんが、解離を専門的に扱っている治療者の間でも特に論じられることはありませんでした。しかし、実際にカウンセリングの場でDIDの患者さんとの面接を進めていくと、私達が「黒幕人格」と呼んでいる人格が大きな存在感を放っていることが次第に分かってきます。

治療が進み患者さんの状態が安定してきたと考えていると、治療者は突然どん底に突き落とされるような体験を患者さんと共にすることがあります。この章で後述する事例にも登場しますが、ようやく希望していた再就職が決まり、なんとか頑張れそうだと嬉しそうに話していた患者さんが、その数日後に踏切へ飛び込み、自殺未遂を起こすというような出来事が起きたりするのです。そして、そのときの記憶が全くない、どうしてそんなことをしたんだろう、と面接室で困惑し戸惑う患者さんを目の当たりにするのです。そしてここに黒幕人格が関与している場合があるのです。


2018年12月18日火曜日

解離の本 57


このように述べたからと言って、私は自傷を止めるべきだ、とも放置するべきだ、とも主張するつもりはありませんあくまでも対応はケースバイケースであり、その際の判断を依拠するものとしての、より正確な情報が必要になります。
たとえばご家族には自傷が持つ鎮痛効果などを説明することで、「どうしてあんなに痛いことが出来るのか?」という疑問の一部は解消されることになるでしょう。解離性の患者さんの自傷行為にはあまり痛みは伴わず、その代わりにある種の安堵感が伴います。自傷を止めるというのはその種の陽性の感情を奪うことになりますが、これは本人にとってはかなりの試練となります。それは酒やたばこのような依存性のあるものをやめることがいかに難しいかを考えればわかるでしょう。
さてこのように書いた場合、治療者がご家族やパートナーに本人の自傷行為を止めることのむずかしさを伝えられた彼らの立場を考えなくてはなりません。というのも患者さんの自傷によりご家族が受けているダメージは相当なものだからです。一見、冷静に対応しているように見えたとしても、血だまりや傷跡、過量服薬で倒れている姿を発見するご家族は、そのたびに、彼らにとってのある種のトラウマ状況にさらされているといっても過言ではありません。自傷行為が繰り返されることによって、多くのご家族は以前よりは冷静に対応出来るようになっていくことと思いますが、その「冷静さ」にはある種の感覚麻痺が伴っているという可能性なども考えつつ、家族のサポートも併せて行っていくことが重要でしょう。治療者と家族との間で、ともにこの事態に立ち向かう仲間であるという関係性がうまく築ければ、患者さんの回復のためのよりよい環境形成にもつながるように思います。

2018年12月17日月曜日

解離の本 56


5-2 患者さんの家族や周囲の人々のために

自傷を繰り返す患者さんの家族には、「病気がすぐには治らないのはわかるが、自傷行為だけでもなんとかやめさせたい」と話す方がいます。痛々しい傷跡を目の当たりにし、そのような行為を何とか止めさせられないか、と考える気持ちも十分に理解できます。家族やパートナーの中には、自傷行為が何か挑戦をしてくるような、あるいは攻撃を向けられているような気持ちになる場合があります。また自分たちがケアをする側としていかに役に立っていないか、いかに無能なのかを突き付けられた気持にもなるものです。また一部の治療者は自傷行為を一種のアピール性を有するものであり、全力で止めて欲しい、本気で向き合ってほしいという意図の表れだと説明する傾向にあります。するとますます自傷行為は看過できないもの、禁止するべきものと捉えられるようになります。かつて私の患者さんで入院治療を行った方が、病棟では決して自傷行為を許されない、と語ってくれたことがあります。その病棟医はかなり経験を積んだ精神科医ですが、実際に「私の病棟では自傷行為は決して認めない」「その種の規律を維持しないと病棟の管理は出来ない」と発言されるのを聞きました。その患者さんは自傷を我慢して週末の外泊を許されるようになると、思いっきり手首を傷つけ、それを隠しながら病棟に戻るということを繰り返していました。「外泊中の自傷を主治医に告げないのはどうしてですか?」と尋ねると予想していた通りの答えが返ってきました。「自傷をすると外泊が許可されず、それだけ退院が延びてしまうからですよ。」私はこれを聞いて自傷と対応することの難しさを痛感したのを覚えています。

2018年12月16日日曜日

解離と抑圧は混同されている


解離と抑圧の混同。このテーマについて考えている。まとめると大体以下のことが起きているらしい。歴史的に見れば、ジャネは、解離は意識を経ることなく(意識外に)生じると考えた。(解離の第二の法則。解離される対象はトラウマ記憶だと考えた。)他方のフロイトは抑圧は防衛であると考えた。当人が意図的に意識したくない思考を無意識に押し込めると考えた。ブロイアーの言う意識のスプリッティング(解離)は実は私は見たことがなく、あとから調べたら必ず防衛が生じていた。(ここで言う抑圧の対象は、欲動であった。)これを絵に描いてみた。(細かいところの書き込みまで工夫しているが、ここではその詳細は省略する。)
    しかし「抑圧から始まる解離だってあるではないか! 」「最初は心にあったものが押し出される形の解離もあるではないか!」という臨床家の声も強かった。つまりこのジャネの第二原則は事実上臨床家たちには受け入れられなかったのである。一つの証左としていえることは、解離には自動詞的な用い方と、他動詞的な用い方があるということだ。彼は解離した(自動詞)、彼はAを解離した(他動詞)。Dissociate が動詞形として存在する以上、そこに意図が働いているのではないか、という想定はもはや必然だったのだ。
現在では「解離する」という自動詞は、防衛の意味で用いられてる。ある意味では抑圧と同様なものとして扱われるようになっている。これは結局抑圧と解離の混同へと繋がっている。 ジャネが論じたような、第二法則に従う解離の在り方を再認識する必要がある。さもないと他者性の問題は解決することなく継続する可能性がある。

解離の本 55


最後に、解離性の自傷への対応について、いくつかポイントを整理しておきたいと思います。とはいえどこにも正解があるわけではなく、実際には試行錯誤しながらの対応になります。また、その多くは非解離性の自傷への対応と重なってきます。

5-1 患者さん本人に対して
 これまで見てきたように、自傷は、心理的、生理学的要因があって反復する傾向にあります。そのために「自傷行為をやめなさい」と伝え、行為だけをやめさせようとしても、それが抑止力になることはなく、逆に自傷行為を引き起こす苦痛になる可能性があるのです。また、「なぜ傷つけたの?」と訊ねることも、その原因や経緯、あるいは傷つけた時間さえも曖昧な解離性の自傷においては当人は「わからない」としか答えられず、それ以上問うことは患者さんを追い詰めるメッセージになりかねません。患者さんは他者との間で安心感を得た経験が少なく、また解離による記憶の混乱もある状況で治療を求めることには想像以上の強い不安を抱えていることが多いものです。情緒と行為の隙間を埋めていく作業を共同で行っていくことが大切でしょう。その際患者さんの行動を自傷も含めて否定することから入るのは適切ではありません。
しかし自傷行為が起きたその前後に何が起きていたのかについて一緒に検討することはとても大事だと思います。私が繰り返し聞くのは、その日は特に問題なく過ごしていたのだが、恋人と電話をしていて、そこで何かの言葉を言われたのをきっかけにして自傷に発展したというようなケースです。自傷行為にはこのように偶発的な出来事から発展することがかなり多く、ある意味では防ぎようがないというニュアンスもあります。ただその恋人と話す機会を持ち、何が自傷のトリガーになっている可能性があるのか、何かキーワードがあるのか、等について検討することはとても大切なことです。
実際に自傷に及んだ人格は、なかなか臨床場面には表われず、行為がどのような感情体験から生まれているかを探索しても話が深まらないように感じられることも多いものです。ただし面接場面で語ってくれている人格の背後で行為に及んだ人格が話を聞いている可能性もあります。なんらかの苦痛、無力感、怒りがあって、自傷につながっているという理解を、眼前に現れている人格を通じて、背後の人格に伝えるといった意識も重要かと思います。

2018年12月15日土曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ⑤


自己愛の臨床症例と治療の継続について

 自己愛についての論文や著述を発表していると、臨床に携わっている方々から、しばしば向けられる質問がある。
「自己愛の患者は治療動機が定まらずにすぐドロップアウトをしてしまうのですが、どのように扱ったらいいのでしょうか?」
私はそのような時、「ドロップアウトをしてしまうこと自体が患者さんの自己愛的な病理を表しているのでしょうね。」と言うことが多いが、実はこの応答は決して十分とはいえない。「彼らがドロップアウトしないためにはどうしたらいいのか?」あるいは「彼らがドロップアウトをしないように治療者が配慮することは果たして本質的な治療に繋がるのだろうか?」という問題は問われ続けるであろう。要するに彼らにとっての治療動機、モティベーションをいかに捉えるかという問題である。そしてこの件について考える前提として、その患者がどの種の自己愛の病理を持っているかを知る必要があると考える。本特集の「関係精神分析と自己愛」の章でも述べたが、Otto Kernberg 的な、DSMに記載されているような自己愛パーソナリティ障害(以下NPD)の病理と、Kohut 的な自己愛の病理とでは、治療的なニーズも、その臨床的な扱われ方も大きく異なるからである。以前に私は前者をタイプ1(の自己愛の病理)、後者をタイプ2と表現した。ここでもこの分類を踏襲させていただこう。
まずタイプ1を持つ人々については、その定義の上からも、自分の問題を本格的に内省する用意はあまりないと考えていいだろう。むろん精神分析な立場から患者に解釈を加え、それにより洞察を導くという、いわば本筋の治療方針は考えうる。たとえばKernberg は自己愛の病理の背後に、幼少時に処理できなかった原始的な怒り外界へ投影されることで生じる恐怖・憎しみ・怒り・羨望、ないしは被害念慮について解釈し、洞察を促すであろうKernberg, 1975)。Herbert Rosenfeld (1987) も同様に、患者の自己愛的な態度の背後にある羨望に直面させ、とくに分析や分析家を脱価値化し援助のニーズを脱価値化する場合には直面化が必要であるとした。しかしこのような正攻法が常に功を奏するという保証はない。そもそも自分に過剰な自信を持ち、他人を自分の自己愛的な満足のために操作し、常に称賛を求めるといったタイプの人は、内面を見つめるための心理療法を求める必要性をほとんど感じないであろうからだ。治療者が満を持した解釈を施す前に、患者はつらい治療をドロップアウトしてしまう可能性が高い。
ただしもちろん彼らの人生は常に順風満帆というわけにはいかない。時には思わぬ躓きから人生の歯車が狂い、彼らの自己愛的な振る舞いは一時的に影をひそめるかもしれない。自己愛的な問題を抱えた多くの政治家、事業主、芸能人、大学教授といった人々が、スキャンダルを暴露され、不正を摘発され、罪を犯し、あるいは病を得て表舞台から姿を消すことは決して少なくない。そのような時に彼らを待っているのは失意であり、抑うつであろう。勿論彼らの多くはその状態から這い上がり、ある人は元の地位を獲得し、あるいは人生の進路を修正していくだろう。そしてそのプロセスでは心理療法家のもとを訪れ、自らの心のうちを話す人もいるかもしれない。
こうして療法家のもとを訪れたタイプ1の来談者を想定した場合、彼らにはおよそ二種類あると考えられる。彼らの一部は傷ついた自己愛を癒され、勇気付けられることによりまた人生に向き合い始めるだろう。その治療プロセスにおいて主として話し合われることは、彼らがいかに不運であったか、あるいは他人から誤解や嫉みの対象となり、人に陥れられてしまったかが主たるテーマになる可能性が高いだろう。そして自己愛の傷つきが癒された彼らは、もはや心理療法を必要としなくなる可能性が高い。
しかしタイプ1の来談者のもう一つの種類は、自らを省み、失敗の原因を自分自身に求めることで人生を立て直していくかもしれない。その中である種の洞察を得るとしたら、それはおそらく「自分の利益や満足だけを考えず、相手の気持ちを思いやることが大切だ」ということかもしれない。さらに具体的には「自分は他者に対してこのような振る舞いをしていたことで、あの様な気持ちにさせてしまっていた」という具体的な気付きを得るかもしれない。この種の治療的なかかわりはいちおう精神療法的な形をとるであろう。そしてそのような洞察を獲得することは、精神分析的ななかかわりを通して促進されるかもしれない。彼らは自己中心的な振る舞いを反省し、他者の気持ちになり、他者を評価し、力を与えることを重視するかもしれない。
しかしここで考えてみよう。この「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察はどの程度本物だろうか? 問題をさらにひとつ掘り下げてみよう。そもそも「相手の気持ちを思いやれない」原因としては二つの可能性があるはずだ。一つはその相手と類似の体験を自らが持ったことがないために十分に想像力が働かない場合である。
ある高名な医師が次の様な述懐をしているのを読んだことがある。(記憶を辿るだけのために、詳細は違っているかもしれない。)
「自分は老境になるまで入院を必要とするような身体疾患にかかったことがなかった。しかしかなり高齢になってようやくそれを体験することで、初めて患者の気持ちが本当にわかった気がする。」
かなり専制君主的な振る舞いで知られていたこの医師は、病者の立場に身を置くことで、初めて「相手の気持ちを思いやるべきである」という洞察を深めることが出来たのであろうし、そこには彼自身に何らかの変化の余地があったということになろう。ただしもちろんこの医師が感じていたであろう自分自身の変化が、どの程度周囲の人に感じ取れるものであったかは定かではないが。
この例は相手の立場を体験することにより洞察を得た例として一応考えることが出来るだろう。ただし人生のこの時期までその体験が先延ばしにされたのは、相手の立場を思いやれる想像力が最初から不足ないし欠如している可能性もあろう。その意味では以下に述べる、「相手の気持ちを思いやれない」もう一つの原因を有している可能性がある。それは本来的に相手に共感する能力が欠如している場合である。この場合は体験から得られた「相手を思いやるべきである」という洞察はより表面的なものでありかねない。
ただしそれでも洞察は洞察である、という考え方も成り立つだろう。例えば彼の自己愛的な振る舞いが部下や同僚の造反を誘い、仕事を追われた場合を考える。彼は「私が彼らに恨みを持たれている可能性について思いが至らなかった」という教訓は得るかもしれない。しかしそれは今後の処世術の一つとして組み込まれては行くものの、部下の心の痛みを察してのものではない可能性がある。その場合はこれは「教訓」というよりは学習と考えた方がいい。認知行動療法的にはこれはありであろうが、力動的精神療法を旨とする治療者にはこれは「洞察」とは呼べないものと判断されても仕方がないであろう。
以上タイプ1の自己愛を有する人の治療動機について考えたが、決して彼らの治療に対して悲観的な意見を述べたいわけではない。それらの人たちにはそれなりの人生があり、それを病理と見なして変えようと思う方もまた傲慢なのかもしれない。むしろタイプ1のような人たちに翻弄され、犠牲者になったり、自分を見失いがちになっている人々のことを心配すべきなのであろう。その件についても「関係精神分析と自己愛」で述べたとおりである。
次にタイプ2の自己愛の病理について考えてみよう。このタイプの来談者はおそらく養育環境において自らの自己愛を支え、育ててもらう機会を与えられず、そのために自尊心が低く、自分に自信が持てず、安定した確かな自己イメージを持てないでいる人々と理解される。タイプ1の患者とは異なり、人間関係を営むうえで生じてくる様々な問題について自分の責任と感じる傾向にあろう。おそらく自らを省みることについてはむしろ過剰と言ってもいい。Kohut が論じたように、治療者は来談者に対して自己対象機能を果たす役割を通して、来談者自らが自己対象機能を獲得していくことになる。治療関係は本人の精神的な健全さを保つためにも大きな役割を果たし、患者は治療関係を維持することに力を注ぐことになるだろう。こうしてタイプ2の患者さんが治療が中断する可能性は、タイプ1の患者さんに比べてはるかに低いものと考えられる。実際に治療者の果たす自己対象機能はある意味では患者の人生の維持にとって大きな意味を持ち続けるために、治療関係はむしろ長期に及ぶ可能性がある。
この様に考えた場合、二つのタイプによって患者の治療関係の用い方は全く異なることになる。しかしおそらく両者の治療論を結ぶ決め手は「関係精神分析と自己愛」でも述べたとおり、恥の体験を通して彼らを理解することであろう。タイプ1は、みずからを軽んじられて恥をかかされることにきわめて敏感になる。プライドが高く人にも丁重に扱われるべきだと思っているタイプ1の人は、低く見られた、軽んじられたと感じた際に一瞬恥を味わった後に、それを怒りに転化して相手にぶつけるだろう。すなわち彼らにとっての本質的な治療は恥を自覚し、体験することに向けられるのである。どんなに強がっているタイプ1にも、弱かった時の自分がどこかに眠っている。それを刺激されかかったときは全力でそれを跳ね返すために、恥を実際に感じるには至らない。でももしそれを体験する瞬間があったとしたら、それはタイプ1の自己愛の病理に到達する突破口かもしれない。もちろんそれがいかに難しい課題なのかは、すでに検討したとおりである。
それに比べてタイプ2の場合には、もともと恥ずべき存在として自分を見ているところがある。そして対人場面でその低いプライドがさらに低められることがあった場合には、さらに恥じ入り、相手を怒るどころかさらに引きこもってしまうであろう。彼らは過剰な恥の体験から救い出されなくてはならないのである。

2018年12月14日金曜日

解離の本 54


解離性の自傷への対応

44 その他
「切り始めると、急に記憶が飛んでしまう」というように、解離状態に入ることを目的とした自傷や、「ぼーっとしていて不快だから自傷をする」というような、離人感から抜け出すことを目的とした自傷なども解離性障害には認められます。このような場面で、松本は、①両手で椅子の座面を思いきり押す(筋肉を用いて現実感を取り戻す)、②現在の日付と自分の年齢を思い出し、頭の中で自分に言い聞かせる(トラウマ記憶による退行を防ぐ)、③身近な人と握手やハグをする(安心感を得る)といった対処法を薦めています。
筆者の一人の米国での体験では、精神科病棟で自傷につながる乖離から抜け出すために氷を手に握りしめるという方法を取っていました。いわゆる「グラウンディング」の一環といえます。米国の冷蔵庫は製氷機が標準装備されていますので、手近に利用できるということとも関係しています。考えてみれば人が自らに痛み刺激を与える方法の中で唯一直接侵襲を与えないのが皮膚の冷点の刺激というわけですが、もちろん凍傷になるほどの刺激は論外です。
解離性障害の当事者やトラウマの治療者たちの話を聞くと、解離から抜け出したり自傷の衝動を抑えるという目的で実にさまざまな方法が取られているようです。これは言い換えればすべての人に著効を示すような方法がないということでしょう。しかしもうひとつの考え方は、いろいろな方法を試した上で、自分にとって一番有効な方法を見つけるということかもしれません。ただひとつ気をつけなくてはならないのは、ひとつの自傷の手段を回避するために別の自傷の手段を選ぶことは本質的な解決にはならないということです。ただし別のより生産的な、あるいは自傷を伴わない活動に満足体験を得ることができるのであれば、おそらくそれは一番薦められるであろうということです。ある種の創造的な活動による快感、たとえば絵を描いたり音楽を聴いたり、運動をしたりということに伴う快感はそれらの代表的な例といえるでしょう。
もちろん快感の中で重要なのは、対人関係によるものです。私が経験した例で、人から認められる、話しを聞いてもらえるという体験が劇的に自傷の頻度を減らしたという例がありましたが、これはそれを示しているといえます。



2018年12月13日木曜日

解離の本 53


自らの体験を描いた漫画の中で、ある当事者の方がこんなシーンを描いています。内科を受診した際に、医師がちらっと腕の傷を見て言います。「ではお薬を出しておきますね。あと…その腕ですけれど、精神科には通われているんですよね。黴菌が入ったら大変ですよ。ほどほどにしてくださいね。苦しいから自傷しちゃうんだと思いますけど。」ところが血に見えたのは実際には絵の具であったというオチです。
この内科医の言葉は医療側の典型的な反応をうまく表現しているような気がします。「ほどほどにしてくださいね。」には自制してくださいね、いい加減にしましょうね、という批判めいた感情が感じられます。言われた側はどう感じるでしょう?「こちらも好きでやっているわけではないのに・・・」という反応でしょうか?「わかってもらえていないな」という気持ちでしょうか。もちろん頭ごなしに自傷を非難し、やめさせようという反応は論外ですが、この医者の反応は、おそらく自分も自傷の経験がある人の反応とは異なります。
医師は自傷の傷跡を目にし、それを治療する場面が多いために、それを叱りつけるというより先に、どのような処理が必要か、縫合の必要はあるか、感染の可能性はどうか、という見方をする傾向にあります。しかし医師によっては救急医療を提供している立場でも「自分で切った傷は治療しない」と言って門前払いにしてしまうというケースがあると効きます。もちろん出血多量ですぐにでも処置をしなくては、という場合は別でしょうが、自傷を「自己責任だ」「いちいち対応していたら癖になるだろう」などと言って取り合わないというケースは日本の医療においては多少なりとも見られ、それは精神疾患そのものに向けられた一種の偏見に根差しているのではないかと考えることもあります。2004年に私が帰国して一番当惑したのは、日本では精神科の救急は、ERでは扱わないという不文律があるということでした。(もちろん○○国際病院の救急のように、精神科を扱っている施設もありますが。)

2018年12月12日水曜日

解離の本 52


以上のように自傷行為を黒幕人格によるものと考えた場合、DIDにおいて生じる自傷の様々な形を比較的わかりやすく理解することが出来るようになります。なぜ患者さんが知らないうちに自傷が行われるのか。それは主人格である人格Aが知らないうちに、被虐待人格が自傷する、あるいは虐待人格が被虐待人格に対して加害行為をする、という両方の可能性があります。時には主人格の目の前で、自分のコントロールが効かなくなった左腕を、こちらもコントロールが効かなくなっている右手が傷つける、という現象が起きたりします。その場合はここで述べた攻撃者との同一化のプロセスで生じる3つの人格の間に生じている現象として理解することが出来るでしょう。
   


2018年12月11日火曜日

2018年12月10日月曜日

解離の本 50


ここで少し脳科学的な話になりますが、人間の心とは結局は一つの巨大な神経ネットワークにより成立しています。そのネットワークが全体として一つのまとまりを持ち、さまざまな興奮のパターンを持っていることが、その心の持つ体験の豊富さを意味します。そしてどうやら人間の脳はきわめて広大なスペースを持っているために、そのようなネットワークをいくつも備えることが出来るようなのです。実際にはほとんどの私たちは一つのネットワークしか持っていませんが、解離の人の脳には、いくつかのいわば」「空の」ネットワークが用意されているようです。そこにいろいろな心が住むことになるわけですが、虐待者の心と、虐待者の目に映った被害者の心もそれぞれが独立のネットワークを持ち、住み込むことになります。
もちろん空のネットワークに入り込む、住み込むといっても実際に霊が乗り移るというようなオカルト的な現象ではありません。ここでの「同一化」は実体としての魂が入り込む、ということとは違います。でも先ほど述べたように、まねをしている、というレベルではありません。プログラムがコピーされるという比喩を先ほど使いましたが、ある意味ではまねをする、というのと実際の魂が入り込む、ということの中間あたりにこの「同一化」が位置すると言えるかもしれません(注釈)。そしてそれまで空であったネットワークが、あたかも他人の心を持ったように振舞い始めるということです。
すると不思議なことがおきます。被害者の心の中に加害者の心と、加害者の目に映った被害者の心が共存し始めることになります。この図に示したように、攻撃者の方は IWA(「identification with the aggressor 攻撃者との同一化」の略です)の1として入り込み、攻撃者の持っていた内的なイメージは IWA2 として入り込みます。


(注釈)私が言うこの同一化は、乳幼児が母国語を自然と身に着ける際に生じるプロセスときわめて類似したものと考えることが出来ます。第二外国語を学んだ人ならだれでも体験するはずですが、意図的に、学習として、語学として学んだ外国語は決して本当の意味で見にはつきません。いつまでも真似をしている、その言葉を話せるふりをしている、という一種の作為の感覚が付きまといます。ところが意識的な学習のプロセスを経ずに身につく母国語(あるいはきわめて幼少時に習得する外国語)は、それを母語区語として話す人との同一化というプロセスなしには考えられないことです。なぜならそこにはその言葉のアクセントが「完全に」習得されるからです。それは周囲の人が話す母語の模写ではなく、再びコンピューターの比喩を再び用いるならば、ソフトの取り込みのレベルです。そしておそらくここには最近きわめて論じられることの多いミラーニューロンが介在していると考えられます。

2018年12月9日日曜日

解離の本 49


この攻撃者との同一化というプロセスが、具体的に脳の中でどのような現象が生じることで成立するかは全くと言っていいほど分かっていません。唯一ついえるのは、私たちの脳はあたかもコンピューターにソフトをインストールするのに似たような、自分の外側に存在する人の心をまるでコピーするかのようにして自分の心に宿してしまうという現象が起きるらしいということです。それが、たとえば誰かになり切った様にして振舞う、という意味での同一化と明らかに異なる点です。こちらの場合はあくまでも主体は保たれていて、その主体の想像の世界で誰かの役を演じているわけです。しかし解離における攻撃者との同一化では、その誰かが文字通り乗り移って振舞う、ということがおきます。
皆さんは憑依という現象を御存知でしょう。誰かの霊が乗り移り、その人の口調で語り始めるという現象です。日本では古くから狐に憑くという現象が知られてきました。霊能師による「口寄せ」はその一種と考えられますが、それが演技ないしはパフォーマンスとして意図的に行われている場合も十分ありえるでしょう。
現在では憑依現象は解離性同一性障害の一タイプとして分類されていますが、それが生じているときは、主体はどこかに退き、憑依した人や動物が主体として振舞うということが特徴です。攻撃者との同一化を図を用いながら具体的に考えて見ましょう。この図では攻撃者は赤いイガイガの図で描かれています。攻撃者の心の中には被害者(青で示してある)のイメージがあります。

2018年12月8日土曜日

自己愛の治療 推敲の推敲 ④


結構重要な追記をした。英国学派からも恥の議論を論じようという動きが起きているという話だ。これまで英国学派はコフートなど精神分析として「カウントしない」、という姿勢のほうが強かったのである。

最近のSteiner の業績 (Steiner, 2011) もそのような動きの一部として理解することができよう。Steiner がその流れを汲むクライン派においてはフロイト以来の自己愛的構造の議論の系譜が受け継がれてきた。そこにおいて彼の立場は「不安と苦痛から自分を守るため、私たちはみな防衛を必要としている」というところにあった。しかしSteiner はこの著書で、防衛組織という待避所から出るときに直面する体験として、「embarrassment, shame and humiliation」をあげて論じる。そして「恥とそれに関連する感情について、精神分析は最近になるまであまり注目せず、クライン派の分析家はそれを無視する傾向がある」(邦訳書P4)とまで論じている。そしてこの感情が注目されたひとつの契機としての Kohut 理論やその後の恥に関する著者達(Morrison, Nathanson, Wurmser,etc) についても言及している。

Steiner, J (2011) Seeing and Being Seen: Emerging from a Psychic Retreat. Routledge. 
衣笠隆幸監訳、浅田義孝訳 見ることと見られること. 「こころの退避」から「恥」の精神分析へ 岩崎学術出版社. 2013