(前承)
私は基本的にこの藤山氏の記述に好印象を持つ。そのうえで言えば、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることはあまりないような場合も多いのではないかと思う。敢えて言えば週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」とはなかなかならないかもしれないのだ。勿論そのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないからだ、と言われてしまえば、それまでなのだが。 もう一つの問題はこの供給と剥奪のリズムという考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点である。乳幼児と違って大人の私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは感じられない。それは例えばボーダーライン心性のある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合には起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事で身を引き裂かれるような思いをすることはない。それはその相手はすぐさま内的対象に移行してくれるのだ。勿論目の前の誰かがこれから二度と会えないという状態で去っていくという場合なら別だが、ふつうは心の中の対象像にスムーズに気持ちを移行させることが出来るのだ。 藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、週一回はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には週一回の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」ことや「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そしてその場合は精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。そして「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。 この藤山氏の議論は山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成」という論文でさらに考察が加えられている。これが私の眼にはかなり学問的なレベルも高く、それだけに容易に読み込むことはできないものの、藤山氏の議論が実はStrackey だけでなく、Melzer(1967)やCaper(1995)、飛谷氏(2010)などにより継承されてきた議論であることを伝えている。
高野理論と岡田理論
この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では北山修氏、高野晶氏に加えて藤山氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導する論者たちの考察が提出され、この「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。その中でいくつかを取り上げよう。
高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その姿勢は基本的には週一回のサイコセラピーは精神分析と似たところがある、というものであり、それを「近似仮説」として提出したのである。この高野の仕事で注目すべきなのは、藤山の「平行移動仮説」を「近似仮説」により「もう一歩推し進めた」ことだという(山崎)。確かに日本の精神分析界においてはこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきで、この高野の主張は多くの分析的な療法家にとって安心する内容であろう。
この1017年の高野の提言は抑制が効き、常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。印象としては藤山が「週一回」と精神分析の間にある種の質的な相違を見出しているのに対し、高野はむしろ両者の違いを相対的(「近似的」なものとみているという違いがあると言えるだろう。