2025年3月17日月曜日

関係論とサイコセラピー 28

 ギャバ―ド先生は、この後4.暴露、5.自己開示、へと進む。やはり作戦としては同じだ。純粋な精神分析ではやりにくいことを列挙しつつ、分析的な精神療法の方に分があると言っているようである。

 4. 暴露

不安ないしは恐怖症の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。そして次のように言う。「フロイト以来分析家たちは恐怖症の患者さんは恐れている状況に直面しない限りほとんど前進しない」(Gabbard and Bartlet 1998)。 ここにはいかにもギャバード先生らしい方略がみられる。分析家、それもほかならぬ彼自身が論文にしていたからこそ、彼は自己引用が出来、こうすることで分析においても暴露が必要であるという提言を精神分析家たちも肯定せざるを得なくなるのだ。自己引用を将来できるように論文を書いておく、というかなり先を見据えながらの仕事を彼はしているようだ。
そしてギャバ―ドさんは「多くの分析的な介入は暴露にかなり依存している」というワクテル(Wachtel,
1997)の論文を引用している。またメンタライゼーションの論者であるFonagy, Target (2000) の次のような提言も引用する。「患者が信念 belief やファンタジーと事実を区別するのを助けるためには、一種の暴露が必要である・・・・」。

5.自己開示を含む介入

これは愛着において誤ったワーキングモデルを植え付けられた患者に対して有効であるという。それらの患者にとっては、治療者が限局的な自己開示を行うことは、彼らが人間をよりよく理解し、信頼感を維持し、情緒表現や親密さに関するこれまでと異なる表現を体験することにつながるというのだ。治療者の注意深い自己開示はメンタライゼーションを促進する、とも言いつつ、再びギャバ―ド先生は自分自身の論文を引用する。

そして6.もあったぞ。見落としていた。簡易化方略 facilitative strategy というものだそうだ。それについて書いてあることも素晴らしい。それは患者治療者の両者がより心地よく協力関係を維持できるような方策を意味し、社会的な関係の中でお互いにとって心地よいユーモアや教育的なコメント(「今日のこのセッションでこの話題について話すことは~の役に立ちます」などの説明)などを含む。語弊を恐れず言えば、治療者が「愛想よく」接するという当たり前のことだ。