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2010年11月14日日曜日

フランス留学記(1987年度版) 第8話. パリ最後の夏(最終回)

最近二冊の本を業者に頼んでPDF化してみた。両方とも片手で持つのがやっと、1000ページ近くにもなる学術書。一冊なんと150円、両方で300円、送料のほうがよほどかかった。本はバラバラにされ、PDFスキャナーに通されたあとは、廃品回収業に出されるという。業者からEメールで送られてきたのは、二つのかなり大きなPDFファイルだけ。さて使ってみて・・・・これが意外といいのだ。検索も自由、一部だけの印刷もOK.コピペも可能だ。手持ちの分厚い本はすべてPDFにしてしまうかとも思う。
ちなみに留学記はこれでおしまいだが、最後に出てきた闘「仏」記、とはこれに付けるつもりの題だった。今となっては、何の意味もないが。

これまでに述べたことは、フランスのような「進んだ」文化の持つ生産性、そこにおいて将来何かが生み出される可能性、ということとは別の問題であろう。フランス人の自らの自由を重んじる、という傾向は、一方では芸術その他の分野で創造的なものが生みだされる可能性を残すと同時に、他方では徒らにその自由の行使にエネルギーを使い果たしてしまうだけということにもなり兼ねない。日本の企業で三日間だけの夏休みに甘んじるサラリーマンは、フランスのサラリーマンが三週間余分に休んでイタリア旅行をして貯金を使い果たすかわりに、その企業の売り上げにその分だけ貢献していることになる。これだって立派な「生産」である。


この例だけではいかにも日本人がその自由を行使することによって得られるであろう体験の幅を犠牲にして日本のG.N.P.の伸びに貢献しているようで寂しいだが、この自由の意識の進み具合の差、という事についてはもう少し積極的な解釈も出来る。それはこれまでに書いた様にフランスにおける対人関係がその個人間の自由を廻る攻めぎ合い、という形である意味で単純化され、行き着くところまで行ってしまった、ということと関係している。言わばそこに、混沌としたもの、「余剰」といったものが見られず、あまりにドライでありすぎることが、かえって何か新いものを生み出す余格を奪っているのではないか、と思うのである。今年も連勝が伝えられる、そしてフランス人も畏敬の念を隠さないF1レースのホンダにしたって、その技術のレベルの高さは日本人的な会社の運営や人との関係、そしてそこで発揮されるエネルギーの産物と見ることが出来ると思う。.

逆に日本人的な付き合いでは相手への気這い、違慮、譲り合いといった、自分の自由と権利ということを考えていたらその存在意義が真っ先に問われてもおかしくない事柄が対人関係を動かしていく。本当に相手が欲していること、そして自分のしたいことが互いにわからないままに、あるいはそれをぼかすことにより人との関係が成立するようなところがある。これは紛れもない私の偏見であろうが、私が世界的なレベルに達しているとして評価したい日本のあるコメディアン達やエッセイスト、劇画家の生み出すものは、この様なつかみ所のない混沌とした対人関係から多くの題材を汲み出している様に感じられる。

翻ってこれらの事情の精神医学的な現われ方はどうか。私は予想に反して、パリでも多くの対人恐怖的な訴え(いわゆるsociophobie)を持った患者に接した。しかし彼等のその訴え方がいかに堂々としていたことか。彼等には相手への恐怖をもその相手に対して表現し、主張して行かなくてはならないパラドクスを抱えている気がする。それ以外のコミュニケーションは社会慣習上、そして言語的にも存在を許されていないからである。他人への長怖の念が、例えば顔を赤らめてうつ向く、といった形で表現され得ないとすれば、それは別の形に変わってその個を苦しめるだろう。フランス人の訴えのうち極めて頻繁に耳にする日常化した不安や外出、広場恐怖、そしてアルコールや薬物依存の多くが他者に対する「甘え」が許容されない社会に特有のものに思えて仕方がない。

しかし私は少し脱線し過ぎたようである。「甘え」を知らない人々をそれと共に行きる人々に比べて「進んでいる」という事は出来ない。もしかしたら私達日本人の方がその先駆者というべきなのかも知れないが、ともかくも自由の意識というテーマとはもはや同列には論じられない。いずれにせよ精神医学を専攻する私達はその影の部分を扱う運命にあると言えるのであろう。

私のパリ留学は結局病院に通い詰める事で終わった。この一年、特に驚くべき事も起こらず、特別の感動も味わわなかったような気がする。しかしそれは毎日があまりに変化に富み過ぎていた為に、そのこと自体に慣れてしまっていたのかも知れない。一年を改めて振り返ると、私の毎日は、まるで病気と戦っていた様なものだと思う。外国という、本来的でない状況にある日突然身を置き、言葉の障害の為にそれまで出来ていたことがままならなくなり、それを少しでも克服しようとし続けることで自分自身も苦しみ、周りにも迷惑をかけて来た。私はまた同情と、時にはある種の哀れみのこもった目で見られた。闘病生活ならぬ闘「仏」生活のこの一年を、肯定的に捉えるのははばかれる。むしろ自分の国を離れて外国で活動したい、という厄介な希望を持つなんて、なんて傍迷惑なことだろう、などとばかり考えていた。もちろん私という存在自身を否定するという発想には結び着かないが、このまま借りを返さずに日本に帰って仕舞うのは何か後ろめたい、という気がするのだ・・・・・・。(了)

2010年11月8日月曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(4)

留学記が終わりそうで終わらない。といってもあと1,2回分ある。チエリー(登場人物)もすっかりオヤジになっているだろう。最後に会ってから20年以上経っているのだ。それにしても生命はどうして老いていく運命にあるのか?そんなしょうもないことを考える。
ほぼ毎日更新のブログを半年続けてみて、自分なりに使い方がわかった気がする。今後もおそらく・・・続けようと思う。しかしこれでもあくまでも試験的にやっているだけである。

7月も終わりに近付き、パリの病院での生活もひと月を割ってしまった。滯在許可証 carte de séjour が切れるのは 9 月の半ばであるが、8月の末にはアメリカへの旅行を計画しているし、9月に入れば帰国の準備に追われて何も出来ないだろう。
依然病院での活動にはやっとのことで参加している、という感じである。患者を担当させてもらっている、ということは私もそこの一員として認められているんだな、という確認作業を何度も繰りかえす。それにその仕事にしても7月から就任したアンテルヌのテイエリーに大分依存している。この26歳の秀才の医師と私はかなり親しくなったが、同時に私は彼を大分困らせたようである。彼は病棟で患者の担当医を決める役割を任されていたが、私は患者を常時二人は担当させて欲しい彼に要求したし、その扱いに関しては自分の考えをかなり通させてもらい、余り妥協をしなかったからである。内科のアンテルヌである彼は、純粋に精神医学的なことで私の判断より上回ることは余りないように思えたからである。彼との毎日の関りでも私はまたいろいろ考えさせられた。
ティエリーはケベック出身で、今から10年前、16歳でパリに来たのだが、私が身近に接した中で誰よりもパリジャンとしての際立った性質を持っていたと思う。人文、社会科学にわたる広い知識、そして何よりも豊富な医学の素養、そしてそれをもとにした強引な議論の仕方。またあらゆる議論にも無関心ではありたくない、というある意味でのふところの広さ。フランスでは医学生は学部の6年のトレーニングを終えた後、アンテルヌとして数ケ月ごとに各科を回り、そこで第一線に立って活躍する。そのせいか彼等は身体疾患に対する扱いについての経験を豊富に持つ。精神科に来る前は産婦人科、救急病棟にいたというティエリーは精神科に来てからもまもなくその活動の中心となった。私は彼が病棟の仕事を殆ど独占しかねなく、油断すると私の仕事まで奪い兼ねないのがちょっぴり不満であった。自分では半人前だと分かっていながらである。

病棟で何らかの仕事を少しずつ与えられながら、私の頭を結局最後まで去らなかつたのは例のことであった。私がその病棟にいる、ということがそもそも傍迷惑ではないのだろうか。勿論このようなことを考えていては何も学べないということも同時に分かつているのである。しかし私が結局は帰国の日を毎日数えながら、朝はいつも憂舊な気分で病院に向かったとすれば、このことが一番大きな原因のような気がする。病棟で患者を担当することはうれしかったが、私に担当されては迷惑ではないか、という気がどうしても先に立つ。私がフランスで正規の資格を得て勤務するのであればまた違うのだろうか。自分に問うてみると、病院での活動の動機は余り純粋ではない。もしこれを数年続ける、としたら逃げ出していたかも知れない。ここまではやれた、ということを自分に対する既成事実にして、後はさっさとパリを去ってしまいたい、という気持ちが確かにある。これでは結局は自己満足に過ぎないのではないか。しかしまた病棟で患者を少しずつ担当していく中で、私は私以外には出来ない、と思う仕方で患者と接することが出来たと思うことも少なからずあつた。病棟での活動に思うようについていけないことからくるフラストレーションは患者との面接の後にはある程度軽減される事が多かった。(続く)

2010年11月5日金曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(3)

小沢さんが岡田幹事長にようやく会ってもらえたものの、国会招致を断わられたという。それに対して管さんが「会えただけでも一歩前進だ。これからも粘り強く説得を・・・・」でも関係が悪化している外国の首脳に会う、というような話じゃないんだから。一人の国会議員にいいように振り回されていることの異常事態をどう考えるのか、ということだ。情けない話。
でも誰が総理大臣をやってもこんなことになってしまうのも分かっているわけだ。これまでに自民党、民主党も含めて優秀な人達が皆情けないパフォーマンスしか見せられなかったということは、日本という国で総理大臣の職をこなすのは、やはり至難なんだろう。


私が担当出来たのは入院患者のごく一部であったが、その中には私の特に印象に残った患者がいた。彼女P婦人は42歳、二ヵ月前から始まった不安を伴った抑欝状態が、夫の長期の出張を前にして昂じ、入院となった。丁度彼女の入院して来た日がアンテルヌの交代の時期で、病棟に私しかいなかった為、受け入れを私がしたのが切っかけで、そのまま担当することになった。ともかくもカルテを埋める必要上私が彼女の病歴を取り、私の聞き取りが不充分なせいもあってか何度も同じことを聞き返してしまい、彼女は途中で、「私はなぜ何度も同じことを繰り返して話さなくてはならないのですか? これまでのことは殆ど前の病院の資料に書いてあることでしょう?」と言って涙を流し始めた。彼女はこの数年間の間に6回の同様の入院歴があり、その度に何度も同じような問診に応じなくてはならなかつたため、その言い分にもっともなところがあった。しかし私は何よりも自分の不自由なフランス語のせいで彼女が私を拒絶しているものと思い、二、三日の間必要最小限の会話のみを交し、誰かに担当を代わって貰わなくてはならないな、などと考えていた。しかし彼女は私を主治と思い続けて、数日後に不安発作に襲われた時に彼女の方から面談を申し込んで来た。それから私はP婦人とかなり長い面接を週に3、4回の割で行なうことになった。
P婦人は元来引っ込み思案で対人緊張が強く、思春期から類繁に不安発作に襲われたが、幸い優しく理解のある夫に恵まれ、また思春期に達した三人の子供があつた。ここ数年の欝状態もこの様な性格傾向の上に生じ、時には入院により症状の軽快を待つという必要があった。
私はP婦人との対話を通じて幾つかの事を考えさせられた。彼女は病棟内でも他の患者との交流を避け、また午前中は過呼吸発作を伴った不安に見舞われて看護婦を呼ぶ、ということが多かったが、その様な傾向に対して病棟では余計な同情や配慮はかえってよくない、との態度がとられることが多かった。彼女は一番慣れた私との話を好み、他の医師に対しては不安を表わす傾向にあったが、私の態度が患者の依存心を助長しているのではないかという様にもよく言われた。私もP婦人が、私に依存して来ている、と感じられたほとんど初めての患者であった為に、それだけ思い入れが大きくなりつつあることが分かっていて、むしろスタッフに対してそこを突かれないように気を使ってばかりいた様に思う。
それにしても、と私は思った。パリ人はなんと他人の依存傾向に巻き込まれまいと警戒する人達であろう。患者の依存的傾向を知りつつ一歩譲歩してそれを受け止める、といった場面に出会うことは少ないように思う。P婦人の示す種々の不安について、特に退院に関するそれについて毎日聞いていた私が、突然スタッフ会議で一週間後に設定されてしまった退院の期日について、もう少し余裕を持った方がいい、主張するだけで、私は何度かからかいの目を向けられた気がした。

2010年11月4日木曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(2)

唐突だが、親にとって子供とはどんな存在だろう。順調に育ってくれたら独り立ちをして出て行く。するともう簡単には帰ってこない。あれだけ何年も一緒に過ごした息子が、もう盆暮れに数日帰ってくるかこないか。いやそのうちに半年に一度電話だけ、ということになる。(私の両親は健在だが、今の私は彼らにそうしているだけだ。)仕送りをしても特に感謝されるわけではない。誕生日にメールひとつ来るわけではない。電話をしても面倒くさそうな返事をされるだけだ。(そうしている。)それでも子供のことを想い続けるとは、どういう事だろうか? 子どもがどこかで幸せに毎日を送る、それだけである。これからまったく縁を切ることになっても、あるいは何らかの拍子に恨みを抱かれたとしても、一言も感謝されなくてもそれは変わらない。ひょっとしたらこちらが親であることを完全に忘れてしまったとしても同じだろう。子どもがどこかで幸せに生きていれば、ただそれだけでいいのである。
それにしても親はどうして感謝されないことをして満足するのだろう。それは恐らく子供は親に消えて(でも必要な分だけ養ってもらって)もらうことでもっとも幸せになるからではないか?親は子供を子供以外の存在としてみることが出来ない。子供は常に親の前では子供にさせられる。それは決して子供の為にならない。それでも親が子供の周りでうろうろするなら、少なくとも消えた存在でなくてはならない。事実人類の歴史において、それは問題なく踏襲されていた。人はそれほど長生きしなかったからだ。寿命が伸びても閉経の年齢に関しては昔と変わらないと言うが、母親は閉経後も命を長らえることは想定外だったのであろう。親は実際に消えていたのである。現代においては、姥捨ては自主的に生じなくてはならないのかも知れない。

ライネック病院で、私は何人かのスタッフと対等に近い関係を持つことが出来たと思える瞬間を持った。対等、ということは私が精神科を専門とする者としてある程度の主張をし、それが彼等にとって役立つ情報となったり'その考えを変えるに至ったりする場合である。ただでさえ自己主張が強く、自分の非を認める事が少ないように思えるパリ人が私の主張を簡単に受け入れてくれるはずはない。だからそのようなことは起きるとしてもあくまでも「瞬間」的なのである。
病院で私の立場に近いのはとりあえずアンテルヌ達ということになる。これまでも述べた通り、フランスではアンテルヌは病棟の日常診療の主役とも言えた。丁度日本の大学病院で言えば日常臨床の経験をある程度積んだ研修医、ないしそれ以上の医師、という事になるだろうか。私も医師として扱われる以上理屈からは彼等と同様に見なされる。しかし実質が伴わないのでそれだけ厄介な存在になっていたのだが。私達の病棟には6月からチェリーとサラモンがアンテルヌとして勤務していた。彼等は11人という少人数の入院患者に常に目を配る。お互いに仕事を取り合うような勢いで病棟の活動を運営していく。私にはその様な力は到底ないが、私が特に担当を主張する2、3人の患者について彼等は私には任せてくれたので、私はそれ等の患者に関しては自分の見解を述べる機会があつた。彼等アンテルヌが精神科ではなく一般医を専門としている事も関係していた。彼等にサイコセラビーの経験はなく、また彼等を指導する教授も週二回の回診を通じての薬物療法主体のマネージメントに重きを置くとなると、面接の時間帯を設定して、治療関係の動きにこだわる私の主張は、とりあえずは耳を傾けようか、という気を起こさせたのかも知れない。
彼等アンテルヌと私は手分けして他の病棟からのコンサルテーションの依頼にも応じた。ライネック病院では救急外来に自殺企図の患者が多く入院して来るが、それ等の患者には一様に精神科医の往診を依頼して来た。一日に2、3件という場合も少なくなく、私はそのうちの一人を担当させてもらい、その病棟の主治医と相談し、精神科の処方をし、病棟に帰ってその依頼を控えてあったノートに自分のサインをする。その様なときは私も彼等アンテルヌと同じように一様それなりの仕事をした、という気になる。しかし週二回の回診の後のスタッフ会議では、自分の患者について有る程度の意見を述べるだけで、後は他の患者についての彼等同志の会話について行けずに始終黙り通し、という事もあり、その様な時には自分が結局は病棟の活動に如何に取り残されているかを痛感するのである。もっともその様な場合スタッフは私のことを、「、全くわけがわからずにいる」、というよりは「半分眠った様で元気がないね」と表現してくれるので私は少し救われた思いがした。

2010年10月29日金曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟 (3)

明日明後日と東京が台風に見舞われると思うと、憂鬱である。
今日の留学記の内容は、薬物療法に興味のない人にはあまり意味が無いかも知れない。



ライネック病院の精神科病棟には患者の行なう活動と言えるものは何もなかった。患者は月曜と木曜の教授回診に応じ、その他に担当の医師の面談を受けるだけである。病棟は特別の場合を除いて施錠しないが、患者はすべての外出に医師の許可がいる。すなわち専門の用紙に何時から何時までの外出を許可する、という証明がなされていない限り外出は許されない。というより本来はその許可以外の外出先で起きたことに対しては保険の対象外になる、という意味なのだが。
シャルコー病棟では入院して数日はこの許可が下りないのが通常であった。パリの精神科は、サンタンヌを除けば自由入院の形をとっているが、それでもこの様な形での実質的な行動制限が存在することを私は始めて知った。実際私がライネックに通い始めて数日は、入院患者の一人が許可無しに出て行こうとする為に常に病棟は施錠され、またその隙をみて飛び出そうとしたその患者を数人で押える、という場面まであった。しかしこれらの手続き上の相違を除いたら、後は病棟での活動は日本で体験した大学の精神科病棟のあるものとさほど違いがあるわけではない。その運営に治療共同体的な発想は全くといっていい程感じられないが、それとて日本でも例外という訳ではない。狭い病院の一角に作られた病棟ということもあり、何をするにも活動のスペースがないのが大きな原因という気がする。しかしその狭さが私自身にはむしろ心地好かった。何しろ大きな声を出さなくてもそこにいる人皆に考えが伝えられるのは有り難かった。
病棟の診療に関しては、教授(資格者)のクオンタン・ドゥブレ Quantin Debray 医師が当たる。彼はフランス小児精神医学界の大御所のドゥブレ教授の子息で、まだ40代前半でありながら貫禄は十分である。この教授の診療や処方をまのあたりにすることで、私はフランスの大学レベルでの精神医療の実際を肌で感じ取ることが出来、とても参考になった。
恐らくライネックの、あるいはドゥブレ教授の診療方針にもよるのであろうが、病棟での治療は専ら薬物療法に重きが置かれている、という印象がある。一般にフランスの薬物療法に関しては、元々向精神薬を産み出した国ということもあってか、日本では使われない物が多く試みられていた。例えば抗欝剤もトフラニール、アナフラニール、ルジオミール、アチミール(mianserine)、ラロキシール(amitriptyline)、といった、日本で同名ないし別名でよく使われるものの他に、フロキシフラール(fluvoxamine, SSRI),ウィヴァロン(vi1oxazine、抗コリン作用が少なく、老人にも多く用いられる)、シュルベクトール(amineptine、脱抑制効果が強く、アンフェタミン様の依存が最近問題になって来ている)、プロチアデン(dosulepine)、プラグマレール(trazodone)、キノプリール(quinopramine)、クレジアール(medifexamine)、ユモリール(toloxatone、新しい、副作用の少ないとされるM.A.0.I)といった日本では耳にしないものが頻繁に用いられる。またテラレーヌ(alimemazine),フェネルガン(promethazine)等のフェノチアンジン系のnon-neuroleptics やメレリル等の使用頻度も高い。その他主要なメジャートランキライザーやリチウム、テグレトール,ドグマチール等は名前もそのままで、使用の仕方はあまり日本と変わりがない様である。少し変わり種としては、depamide という抗てんかん薬のデパケンの親戚のような薬が、その効能ははっきりと証明されてはいないと言われながらも、感情調整薬として時々使われていた。同じ調子でマイナー・トランキライザーも、何とかセパムというのが沢山開発されていた。
これらの豊富な種類の薬を議論好きなフランス人の医者達はこの症状にはこれが良い、いやあれだ、といいつつ使用するのである。ドゥプレ教授は特に薬物療法のみを専門としている訳ではないが、やはりこの薬の匙加減にはことさら御執心のようであった。ライネックの病棟では私はまた注意深くその適応を検討された上での全身麻酔下での電気ショック療法(electronarcose) が示す著効例を何例か体験することも出来た。
フランスでの精神科の薬物療法に関して、私が体験した範囲で日本との相違が目立つのは、バルビツール系の薬に対する考え方である。日本で患者の眠剤として精神科の病棟や外来でしばしば処方されているアモバルビタール等の薬は、ネッケル病院で私の知っている範囲ではどの患者にも処方されていなかった。前にも書いたがフランス人のマイナー・トランキライザーやバルビツール系の薬物の習慣性の現われ方やそれに対する警戒は私達の想像以上である。マイナー・トランキライザーに抵抗する不眠にはテラレーヌ(alimemazine, phenothiazine 系)がよく用いられる。また日本で興奮患者に時々用いられるアモバルビタールの静注についてもこちらでは非常に消極的で、むしろドロレプタン(droperidol, butyrophenone 系)やエクアニール(meprobamate)の筋注が用いられる、という。私はこれまで日本ではこれらの場合のバルビツール系の薬の使用をやむを得ないものと思って使っていただけに、これからは眠剤の出し方ひとつにしても考え方を少し改める必要があると考えた。

2010年10月27日水曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(2)

初めて寒さを感じた朝であった。まだあのうだるような暑さがすぐに思い出されるから、それよりはまし、という気になる。
そろそろ終盤の留学記。結構健闘しているのにわれながら感心する。やはり「学問でもなく、観光でもなく」である。


ライネック病院はネッケル病院から歩いて10分ほどの、パリ第7区にあるやや小さい規模の総合病院である。時代がかった病棟の外見とは裏腹にその内部は明るく比較的清潔であつた。精神科の病棟(シャルコー病棟)は11床と規模が小さかった。いつも新しい環境に入って行くのに時間がかかる私は、それでもネッケルのときよりはかなり早くそこを居心地の良いものにすることが出来た。病棟の規模が小さく、スタッフが身近に居て、しかも私にも出来るような簡単な仕事がいつでもある、という、言わば私自身の存在意義を感じ取る事が出来る環境は私が願ってもないものであった。病棟のメンバーも気さくな人々ばかりで、私はパリジャンについてのイメージが一新する思いがした。私はそこで、言葉に依然不自由しつつも一応は精神科医として扱われることになった。フランスの常で、他国ですでに医師になっている場合はフランスでもその資格があるとの前提がある。但しあくまでもそこでの医長の責任のもとで活動する事になるのであるが。そこで私も右往左往しながらも突然医師としての振舞いを期待され、余儀なくされる、というちょっと奇妙な存在となった。私はもうバリを去る時期がわずか3ヶ月しかないこともあり、思い切っていろいろチャレンジして見ようと思っているのであるが、病棟にいると冒険をするどころか見当違いのことをせずにそこにいるだけでも精一杯である。毎日が冷や汗の連続であるが、しかしスタッフ達は私のその様な様子を故意に看過するようなところがある。
その様な環境で困るのは、例えば看護室の電話が鳴り、その時私が一番そばにいれば、それを受けなくてはならないことである。日本にいてさえ人前で電話を取るのが苦手な私がそれを皆の見ている前でフランス語でやらなくてはならない。いざとなれば内容が分からなければ他のスタッフと代わることが出来るが、彼等は私の苦労を知りつつも受話器を先に取ってくれはしない。それでいて私が仕方なく相手と話し出すと、ニヤニヤしながら私のあわてふためいた応対ぶりを聞いていたりするのである。
更にもっと困るのは、他科からの精神科のコンサルテーションの依頼がよく有り、それを時には一人で出掛けなくてはならないことである。その往診を必要としている入院患者と差し向かいで話す分にはさして問題はない。それよりもそこの何人かの医師や看護婦の集まっているところに、精神科の専門家と称して行き、東洋人というだけで注目されてしまう上にそこで何等かの説明をして彼等を納得させなくてはならないことである。これも私の対人緊張をいたく刺激することこのうえない。始めは何とか一人で行くような状況を避け、アンテルヌのリシャールの後にくっついて行っていた私も、早晩一人で行く羽目になり、半ばやけになって出掛けて行く。全く「恐怖突入」の最たるものである。
私は病棟にいることで、周囲が私に任せてくれる仕事の範囲から類推する形で、外国人医師が一般に任され得る診療内容を知ることが出来た。フランスの医療制度について詳しく調べたわけではないが、私がパリで体験した限り、自国のライセンスを持つ外国人の医師は、診療のかなりのレヴェルにまでタッチ出来、また報酬さえ得ることも出来る。そのレベルは大体フランスのアンテルヌと同等、と言うことが出来る。パリ大学医学部に登録した外国人医師の多くは、二年目からF.F.I.という制度によりアンテルヌの仕事を代行するのが通常である。事実私と同時に研修を始めたファティマやクリスティナは既にパリ郊外の精神病院で5000フラン程度の報酬を得ながら勤務を開始していた。私も報酬はないものの病棟に居る限りは、勝手が分からないながらも医師としての振舞いを余儀なくされることは述べた。
例えば見舞いに来た患者の家族が、本人の吐き気の訴えを伝えに看護室に来ると、他に医師がいなければ私が対応しなければならない。さもなければ、どうしておまえはそこにいるのだ、ということになってしまう。私がとっさに適当な薬を思い付かないと、患者と家族で勝手に「おまえ、このあいだはフォスファルゲルが良く効いたじゃないか。先生、どうでしょう?」私はこのフランス人にとってはなじみの制酸剤を初めて聞くので、とりあえずは手帳に書き留めるのにやっとである。すると彼等は私の様子をみて、「フォスファルゲルをご存知ないのですか?」「おまえ、失礼なことを言うんじゃないよ。この人は医者だよ」などという会話を始める。断わるまでもなく、フランスではこのような状況で私に残された手だては一つしかない。すなわち絶対にその薬について分かり切っているという態度を保ちつつ、間違いを犯す前に何とかその状況を切り抜けることである。私は「そうですな。うんうん。それがここの病棟の常備薬にあるか見て来ましょう」などと言って看護控え室に取って返し、ヴィダール事典(フランスでは各診察室に一冊は備えている薬の事典)で調べ、看護婦のカトリーヌに尋ねる。そしてその薬の日本での相当物などを想い浮かべ、有る程度落ち着き、患者に持って行くと同時に、患者が同時に欲しい薬の候補として挙げていたプランペロン(これは要するに日本でもなじみの「プリンペラン」のフランス語読みだから私も知っている)との機序の違いなどを聞かれないうちから述べて彼等の私に対する疑いを少しでも軽減し、私自身もフラストレーションから少しは解消される必要があるのである。
こういう体験は私が最も苦手なものだが、かといって他に旨く切り抜ける方法も見当たらない。しかし余りこういうことが毎日重なると、一体こんな事を続けていると自分はどうなって仕舞うのだろう、などというへんな興味が沸いてくる。それにしても恐らくこれからは私は患者の吐き気の訴えに関して少しは巧く切り抜けることが出来るであろうが、この様な体験を一体何百回繰り返せば私はここに適応して適切な振舞いが出来るようになるのであろう?こう考えるとあと3ヶ月足らずとなった私のフランス滞在、ということも気になる。日常的に出会う目新しい事柄をいちいち手帳に記入するのも、これから先の私の3箇月を支えるだけ、と考えると余り意味が無い様な気がしてくる。すぐにパリを離れて仕舞うのであるから、病院にいること自体傍迷惑なのかも知れないという気もする。しかし後3箇月だと思うから「旅の恥はかき捨て」とばかりに、もう少し思うままに振舞って見たい、とも思うのである。

2010年10月26日火曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(1)

昨日は神さんの●●回目の誕生日であった。その時私の昔のフランス留学の話になった。彼女はその一部に参加していたのである。(それが今回の留学記第七話(1)だが、読み返してみると、そんなこと一言も触れていない。)そして改めて彼女が理解できなかったのがその留学の動機だった。業績のため、でもない。観光、でもない。何それ?というわけである。つくづく人間は(私は?)理由の明確でない動機にしたがって行動するものである。それにしてもどう考えてみても時間や努力の無駄遣いだったこの一年・・・・。それでは後悔するかといえばそんなことはない。後悔したら、それこそもったいない。何らかの形で自分の一部になっていると思うしかないのである。

研修先の病院を代わる機会を利用して、私はちょっと長いヴァカンスをとることにした。考えてみれば去年の秋に渡仏して以来、パリに腰を据えたままで、郊外はおろかパリ市内の見物さえ満足にしていない。日曜はポンピドゥーセンターの図書館に行くが、それ以外は来る日も来る日もネッケル病院に通っていた。私にしてみれば余り病院にとって役に立たないのに、その上休み勝ちだったら申し訳ない、という気持ちがある。しかしヨーロッパの中心にいながら周辺の国に足を向けないのも如何にも惜しい気がする。「ギリシャまでバス旅行1000フラン(約2万5000円に相当)」などという広告を見ると、改めてパリにいることの利点を感じさせられていた。私はこの際かねてから考えていたドイツ旅行に出てみることにした。
モンパルナスの駅で、ストラスブール経由の、ミュンヘンまでの往復の切符を座席指定も含めて買ってしまい、私は5月の始めに手軽な鞄ひとつの旅に出た。パリを離れるとすぐにそこから限り無く広がっている、という感じのフランスの田園風景を数時間楽しみ、フランスとドイツの国境にあるストラスブールに着く。長い歴史の中で、フランス領になったりドイツ領になったりしたところだ、と聞いている。そこには一緒に留学した給費生のH夫妻が住んでいるので御邪魔することにしていたのである。
H夫妻は私が考えていたよりも遥かにフランスでの生活に苦しんでいた。H氏は時々大学の生化学の研究所に通う他は、専ら家で身重の奥さんと時間を過ごしているとのことだった。二人ともことある度に日本は良かった、一刻も早く帰りたいと言い、また他方でフランスへの痛烈な批判を辞さなかった。H夫妻は7ケ前にフランス生活の開始時にパリを訪れ、私はそのとき知り合ったのだが、その時の彼らの夢を見ているような表情を思い出していた。人が思うほどフランス留学は華やかではない。
翌日からドイツのミュンヘンでの数日間は、私のヨーロッパ滞在の中でも特に楽しい日々となった。ミュンヘン中央駅に降りた途端にそこにはパリと違った清潔さと秩序が感じられた。ホテルでも売店でも、そして親しげに話し掛けてくる人々もパリジャンの冷たさとは非常に異なった印象を受けた。このことはパリに滞在中の、ドイツに旅行した経験のある人々から環繁に耳にしていたことであるが、それを現実に体験して私は少なからず驚いた。勿論私がドイツ人にとって特別の意味を持つ日本人である、ということはある。彼等もまた特定の民族、例えばトルコ系の人々に対して少なからず人種差別の傾向を持つことも指摘される。それに町の印象にしても、ミュンヘン自体がどちらかといえば田舎の小都市であり、人口も少なく、人々があくせくすることがない、ということも考え合わせなくてはならない。しかしそれでもやはり彼等の人との接触の仕方にはパリ人にない暖かさがあった。わたしはパリにではなくミュンヘンに滞在することになっていたら、私が毎日味わうフラストレーションの多くは解消されただろうか、と考えた。
私はいつもの出不精を返上してガイドを片手にノイエ、アルテピナコテーク(新、旧美術館)、オリンピツク塔、ドイツ博物館、マクシミリアン通り等を駆け回り、名残り惜しい気持ちで夜行でパリに戻った。(続く)

2010年10月25日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しはにわかに明るくなった(後)

留学記、もう少し積み残しがある。

4月の終わりに、私の留学生活の中では比較的大きな変化があった。幸か不幸か4月いつばいで私はネッケル病院の外来を離れ、その近くにあるライネック病院の精神科病棟に行くことになったのである。同病院の精神科はネッケルとは反対に病棟のみで外来がなく、ネッケルの外来とは非常に近い関係にあり、教授(資格者)のドゥブレ医師やサイコロジスト達は同病院と兼任であった。ネッケルを去るといっても週3回は午後に通つてフーション医師の診察に立ちあうつもりであるが、デイホスビタルの患者の担当は他の医師に代わることになる。
私はネッケル病院からライネック病院に移ることを指示されたとき、余り気が向かなかった。それは結局ネッケルで自分が満足の行く形で活動することが出来なかったことに対するこだわりが大きかったからである。短期間の留学生、という身分で一体何をこだわっているのかと自分でも思うが、もう半ば意地のようなもので、とにかく病院で夕方まで過ごすことのみを考え、フランスの精神医学一般についてあちこち見学するなどして広く見聞を広める、などということはあまり望まなくなっていた。しかし他方では少なくともフランスの精神科の病棟の様子を少しは知っておきたいとも思っていたので、却ってこのライネックへの研修場所の変更は歓迎すべきことであった。
ネッケルを後にするに当たって、この7箇月の間に自分はどの様な形でここにいたのであろうか、と考えてみる。確かに何時の間にか病院に通うことがさほど苦痛でなくなっていた。一週間病院にいるうちに何度か訪れるストレスの種となる状況を、結局はあるものは切り抜け、あるものは回避して来たことになる。
私にとって最も苦痛で、しかしその克服が大きな希望ともなっていた、人前で話すことについてはどうか。これは何度かの経験を通じてそれほど苦痛ではなくなって来ていたが、それはそれなりの準備をして臨むからで、さもなくば立ち往生になって仕舞うかも知れないという恐怖はいつも感じていた。例えば映画について語り合う会で、私が見て来た映画を簡単に要約して伝えたいとする。私はパリで多少なりとも話題を呼んでいる映画をなるべくその会の前日に見に行き、既にその時点でフランス語で内容を要約する場合のキーワドを捜しておく。更にそれからその1、2分ほどしかかからぬ要約を少なくとも3回ほどは予め言ってみるのである。もしそうしなければ、実際その会で話す場合に基本的な表現が出ずにちょっとしたパニックに陥る可能性はいくらでもあるからである。
デイホスビタルのミーティングでの患者の紹介などをする時も同様の用意をするが、その場合は表現のしようのないことは別の内容に置き替えることが出来そうで、少しは楽である。しかし結局いつも最悪の状態にならないように気を張っていることにはかわりない。 
デイホスビタルでの患者との面談の際の抵抗は、それほど感じなくなっているが、それも相手による、というのが正直なところで有る。また患者本人との面談ならまだ良いが、例えばそれを気遺って面談を求めて来るその両親との面談となると、さすがに気が重い。私がライネック病院に移るといっても、誰も特別名残りを惜しんでくれるわけではない。それだけ私の影が薄かったわけであるが、そもそも留学生は研修場所の動きが多く、その役割も診療に直接関わる、というよりは見学生というニュワンスが強い事から、アンテルヌ、エクステルヌたちの就任の時の様にいちいち歓送、歓迎会をしたり特別の挨拶の場を設けたりはしない。だから留学生は皆突然病棟に来るようになり、多くは黙って去って行く。
私も何人かの特に世話になった医師に挨拶をしただけで特に誰に引き留められるわけでもなくネッケル病院を去ったわけだが、一人だけはっきりとそれを残念がってくれる人がいて、少し救われた気がした。彼はジャコブといい、二月からもう一人の医師と共にアンテルとして私達の科で働いていた。年は私と同年輩、精悍な顔つきでアラブ系の血が若干混じっていると思われる黒い髪と浅黒い肌が特徴的だった。私と彼とはここ二箇月ほどのうちに急速に病棟で一緒に行動するようになっていた。といっても主として彼の診療に私が付き添うだけである。もともとは週二回の彼のギャルド(日直としてその日の予約外の新患を担当する役目)の見学をすることを私の方から頼んだのであるが、そのうち彼は私がそれ以外の彼の診療にも付き添うことをはっきりと私に要求するようになってきたのである。彼は一般医のアンテルヌとして精神科に回って来たせいもあり、精神科の専門的な知識に関しては私の方が詳しい場合もあり、彼の診療の後に私に意見を求めて来ることがよくあつた。
ジャコブはよくも悪くも率直で、熱心な反面その振舞いに若干繊細さが欠けるところがあった。その患者との話し方は勢い患者に対する説得、指導といった傾向に傾きがちで、彼が近頃急に興味を示し出しているという精神療法的な面接を行なっているというには余りにも中立性や受け身性に欠けている気がした。それでも私は彼の熱心さが特定の患者の心を引き付け、そのはっきりとした指示的な態度が患者の症状の改善に役立っている様子を目にする場合があった。
ジャコブの診療に立ち会うようになってしばらくして、彼がネッケル病院の専属の精神分析家のプラックス氏の少人数の症例検討会にその様なケースの一つを出したことがあった。プラックス氏はジャコプの報告を少し聞いただけでその診療内容をすぐに察して、「それでは第一精神療法にすらもなっていないようだね。」という内容のことを言った。その意味をはかりかね、絶句して仕舞っているジャコブを横で見兼ねて、私は「確かに彼の態度には中立性は感じられないけれど、彼の診療に対する熱意は患者との陽性の転移関係を成立させていると思います。患者の生活態度の改善を週ごとに追ってみると、その生活目標を積極的に与える事の意味を一概に否定は出来ないと思います。」という意味のことをかなり苦労しながら言った。それを切っ掛けに少なくともプラックス氏はその批判的な語調を緩める結果になった。
ジャコプはその症例検討会が終わった後、私に握手を求めながら、「ケン、さっきは誉め言葉を有り難う。」と言って当惑する私を残して陽気に部屋を出て行った。私はその「誉め言葉compliment」という言葉を聞き、彼は今し方検討会で交された内容の真意を少しも分かっていないんだな、と感じた。その時から彼は事有るたびに私に半ば強引に彼の診療に付き合うよう求め、また彼の不在の時に私が代わって患者を見ることにしてしまった。彼は病棟でも暇さえあれば多くのガールフレンドの仕事場に電話を入れる、という癖があったが、それにさえも私を付き合わせることもあった。彼の時に一方的でアグレッシブな態度は病棟で皆の賛意を必ずしも得られていなかったため、何でも彼に付き合う私という存在は彼にとっても都合が良かったようである。それでも私は心からジャコプの気持ちを嬉しく思った。私の存在を特に認めてくれると感じられる人が殆ど誰もいなかく、いつも手持ち無沙汰にしていただけに、「君は言葉はまだまだだが、なかなかいいところがあるじゃない。」などと言って引っ張り回してくれる存在は感謝仕切れない程に有り難かった。彼のお陰で3、4月と病院での活動範囲がにわかに広がったような気がしたものである。
4月の末のある日、医師控え室でギリベール氏が私にライネック病院で人が足りなくなって来ているからさっそく行くように、と一方的に言い渡した時、たまたまそばにいたジャコプは不満そうな顔をして、ギリベール氏に「それは余りに急じゃないですか」と言い、当惑している私に代わってその真意をただしてくれた。私はそういう彼の複雑な気持ちが分かり、同時にとても嬉しかった。私がいよいよ明日からはネッケルに来なくなる、という日、ジャコプはやって来て私の顔を正面から見据え、「ケン、僕はサイコセラピーが出来ているよね。」といきなり詰間するように聞いて来た。私が「君のやっていることは広い意味でのサイコセラビーだと思うよ」と言うと、彼は始めてにっこりして、私に別れの握手を求めて来た。

2010年10月19日火曜日

フランス留学記(1987年) 第六話 見通しはにわかに明るくなった(中)

実は今週は分析学会があるので、留学記の掲載はラクである。こんな留学記でも、同様の経験をした方は同一化できるようである。私が10年以上もまじめに全会期間を出席しているのはこの学会だけである。

(承前)幾人かの患者を担当し、少なからずデイホスビタルに出入りするうちに、私はそこでの治療の在り方にいろいろ考えさせられた。それまでもネッケル病院精神科のデイホスビタルの在り方についていろいろ耳にすることがあったが、私は自分で関わっている訳ではないのでその通りなのか分からない、というのが本当の気持ちであった。しかし患者と話し始めて先ず感じたことは、私自身がいつも感じていた、デイホスビタルへ足を踏み入れる際の敷居の高さ、スタッフと接する際の抵抗感とほぼ同様のものを、一部の患者達も感じているという事である。私が患者を持つ際に、決まってギリベール氏は言った。「この患者は操作的だから巻きこまれないように気を付けろよ。」私はその種の失敗なら経験がない訳ではない、と答えつつ、いつも同じことを言われることに戸惑った。
しかしやがてデイホスピタル全体の雰囲気に管理的な色彩が強い事に気がついた。ある種の甘えや依存的な態度に対しては容赦しないというスタッフ達の態度が常に感じられた。例えばある聲の女性の患者が躁転し、病棟じゅうの人にひっきりなしに話し掛け、付まとって困らせるという事が起こる。その時作業療法士のイザベルや看護婦のシルビイはうんざりした、という表情を露骨に出し、彼女を叱りつける。その様な対応の仕方は私が日本で経験したものとは確かに違っていた。よくよく考えれば、それはまさにパリの冷たさそのものの現われと言えた。言葉の不自由な者に対して手を差し伸べない、徹底したまでの個人主義が彼等の思考の基本にある。彼等にとって精神的な病故に苦しむ者に対して、必要以上に寛容な態度で接する正当な理由などない、と考えるのは自然なことであるとも言える。
私が病院で過ごす時間を有意義なものにすることが出来たのは他にも理由があつた。それはフーション医師の、週三回の午後の診察に立ち会うことが出来るようになった為である。フーション医師は以前ネッケル病院で働いていた時期があり、今でも当時からの患者を、火、木、金の午後に診療していた。私は半ば偶然の事から同医師の指導が受けられるようになった。今から思えばよくぞ彼はここまで面倒を見てくれたと思うほどである。彼が午後の診察の際にみる数人の患者に私は殆どすべて立ち会えた上に、その前後にはその患者の治療経過等についてかなり長く話し合う機会を持ってくれた。
私はフーション医師の、穏やかな、かつ率直な治療態度に惹かれた。私とは一世代近くも年が上にもかかわらず、私の述べる考えに対してもそれを静かに聞いてくれた後、彼自身の考え方を分かりやすく伝えてくれた。一緒に診察された患者達には迷惑だったろうが、( 勿論彼等には事前に承諾は得ていたのであるが) 私はベテランの医師の診療の様子を見ることが出来、そのうえフランスの精神医療についてかなり突っ込んだ質問をする機会を初めて持てた。何しろ医長のギリべール氏はいつも忙しく動き回っていて、やっとつかまえて話す機会を得ても、私が口篭ろうものならすぐに何処かにダイヤルを回し始める具合だったし、ぺリシエ教授に至つてはまず秘書に面会の予約をして二、三週間は待たなくてはならなかった。
始めのうちは午後の時間を有効に使う手段であったこの週三回のフーション医師の診察の見学も、私の仕事が徐々に出来ていくうちに時間の都合をつけつつ顔を出す、という様になって来た。デイホスビタルで担当する患者も三人となり、夕方まで常にすべき事がある、という事もまれではなくなった。私にすればこれは歓迎すべき事だった。それまでは病院で暇を持て余して本を読んで過ごす、という事が多かったからである。パリの病院に研修に来ていてその臨床を体験しないのではつまらない。一年間しかないのであるから、むしろ出来るだけ多くのものを見聞きすべきかとも思うが、私は一度に多くのことができない。すると結局今しか出来ないこと、つまり病院で出来るだけ実際の診療に顔を突っ込み、分からないことを恥を恐れず臆面もなく聞く、ということになる。
これが「今しか出来ないこと」なのは多分に私の年齢に関係がある。病院のスタッフは幸いにも30才の私を、20代前半のエクステルヌ達と同様に扱ってくれ、私も変な面子を気にせずにすむのである。しかし一方では半人前扱いをされることに対するフラストレーションが溜まってくる。もう少しましな形でここにいることが出来たら、と常に考えている。
但しこの苦労を先延ばしにして、例えば40代になってから同様のことをする気にはなれない。別にこの苦労をどうしても体験して置かなくてはいけないような必然性は見あたらないが、この苦労を避けて終わって仕舞う、というのも嘘のような気がする・・・・・・。このようなことを今後フランスに来る明確な予定がないにもかかわらず考えてしまうところが自分でもおかしい、という自覚はあるのだが。このようなことを考えながら、私は時には全く仕事もないにもかかわらずに遅くまで病院に残っていることが多かった。そのような私を見て、ギリベール医長は不思議そうな顔をするだけだった。(続く)

2010年10月18日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しは急に明るくなった(1)

「猛暑」の名残のためか、気持ちのいい季節を例年より少し長く楽しめている。でも冬は憂鬱である。これから4,5ヶ月の辛抱か、などと考えている。

三月になった。陽射しが一日ごとに延び、パリにも遅い春の訪れが感じられる様になった。私はそれまでとはかなり変わった気分で毎日を送っていた。メトロを行きかう人々も、相変らずくすんだ色の町並みも、目に馴染んでむしろ心地好く映る。私のこれまでとは違う上機嫌にはそれなりのきっかけがあった。二月の終わりのある日、スイスのある公的機関から電話があり、私は当地で発病した患者に付き添って日本の精神病院を受診する、という任務を負って一時帰国することになったのだ。私は飛行機の中で突然「降りる」、といって叫び出すその女性を宥めつつ成田まで飛び、都内の某病院まで同伴した後に、あれほど待ち望んだ東京での生活を五日間だけ味わった。
私はどうして自分が五日間だけで戻って来てしまったのか分からない。旅費の他にも二週間前後の滞在費は保証されていたのであるから、もう少し羽を伸ばして日本の空気を存分に吸って来れば良かつたのである。しかし私の中での日本は、その夢を簡単には壊せないようなファンタジーに包まれ始めていた様である。私はその限られた時間を、9年にわたって住み馴れた新宿の繁華街のビジネス・ホテルで過ごした。私はそこで、夜はテレビを飽く事なく眺め、昼は繁華街を歩き回り、本屋で立ち読みをし、なじみの新宿の喫茶店「カトレア」でパリには存在すらしないアイス・コーヒ一を注文し、周囲の客を眺めて過ごした。不思議なもので、パリにすぐ戻ることを前提としていると、慣れ親しんだ東京の雑踏の中にいても、まるで外国にいるような違和感が有る。何か来てはいけない所に居る様な気分なのだ。
半年間求め続けた東京の空気を思い掛けなく味わってしまった私は、パリに戻ってから少しは冷静にそこでの生活を見直す気分になった様だ。まるで浮気の相手に対する熱が冷め、再び本妻に愛情を向けるようになったようなものである。但し本来はどう考えてもパリの方が浮気の相手だったはずであるが。
私の上機嫌はもう一つ別の原因にも支えられていた。というのも私は三月の始めにようやく病院で患者を「受け持つ」事が出来たからである。私は一人のデイホスピタルの新入院患者を担当医として任された。と言ってもデイホスピタルの主任のジョンドル医師やギリベール医師にことある毎に助けてもらいながらであるが。十年来慢性的な欝状態にあり、しばしば入退院を繰り返してきたその中年女性の患者は、どうやら私を主治医として認定してくれたらしく、週三回デイホスピタルに通って来ては私との面談に応じる、というリズムが出来た。私は言葉のハンディを越えてとりあえずは治療関係らしきものが成立することをようやく自ら確かめる事が出来た。
私が恐れていたのは、患者が私とのコミュニケーションを拒否し、主治医として認めてくれないのではないかという事であつた。患者の話が全く分からず、患者が私との会話が不充分な形でしか成立しないと判断して、私に黙って他の医師に交代を要求しに行って仕舞う、といったシーンは実際何度か夢にまで出て来た。しかし実際に患者と接するようになると、そこに現われる訴えは私が日本で聞いたものと基本的には大差無く、それに対する自分の経験を手掛かりに患者との対話に入ることは思ったより容易であることがわかった。
私が始めに受け持ったデイホスビタルの患者は、幸運な事に私にささやかな自信を与えてくれるには絶好であった。彼女は対人緊張が強く、私と話すのでさえ恐いが、私が少しも威圧的でないので(といってもそうしようと思っても出来ないではないか)気が体まる、といった。私にとっては当のフランス人が私に対して緊張しているなどまさに晴天のへきれきだったが、おかげで私の側の緊張は殆どなくなってしまった。私の病院での立場は若干変わり出した。患者の治療に関してのデイホスピタルのスタッフとの情報交換が必要となるため、それを機会に私は特に多くの女性の、私自身にとって対人恐怖の対象になっていた人々と頻繁に言葉を交す機会が出来た。
これまで私をどの様な身分として扱うべきかについて戸惑い気味のようだったスタッフ達は私にとりあえず医師としての振舞いを要求するようになった。私にはこれは張り合いが出る反面、それに伴う不安も生じた。患者を担当するとなると、そこには私の言葉の力では及ばない事柄をも何とか処理しなくてはならないからである。しかしともかくも私の病院で曲がりなりにも役割を与えられたことがこれほどまでに私のパリ全体に対する見方を変えるものとは思ってなかった。と同時にここまで自分の役割の有無にこだわる自分自身についても呆れてしまった。どうやら私は傍観者のままでいることがよほど苦手なようである。一方では人前では気後れがして話せない事に悩んでいるのに、である。
私が二番目に受け持ったデイホスピタルの患者もまた、幸運な事に私に自信を与えてくれた。38になる公務員のD氏は、昨年から自殺企図を繰り返し、この10箇月ほど仕事を離れ病院の入退院を繰り返した後にネッケルのデイホスピタルに毎日通うようになった。彼は慢性的な不安を訴え、スタッフとの対話でそれを紛らわすことを常に求めていた。彼はその不安をアルコールや、麻薬を少量含む下病止めの薬によっても解消していたが、一方では極めて率直であり、その事実を決して医師の前で隠そうとしなかった。私は毎日30分足らずの時間を彼との対話に費やし、彼の不安を軽減する方法を話し合った。つたない自分のフランス語にはいらいらするばかりだが、D氏はそれを意に介する様子を見せず、またこの対話を必要としている様子をはっきり示した。彼の不安がメジャートランキライザーにかなりよく反応することが分かって、その調節というはっきりとした私の役目が加わったことも影響した。(続く)

2010年10月17日日曜日

フランス留学記(1987年) 第5章「喋りたい、喋れない」(後)

今日は表参道の「こどもの城」で対象関係論セミナー。北山先生、藤山先生の講義の司会であるが、つくづくこの日本を代表する分析家の講義の充実ぶりに舌を巻く。仕事が終わり自宅まで歩く。半袖でも肌に心地よい風を楽しむ。それにとってもウイニコットという分析家。お二人の講義を聞いてその奥深さを痛感した。


(承前)ネッケル病院での実習をしながら、私はよく学生時代の病院実習のことを思い出した。医学部の三年、四年になると学生はそれぞれ自分の興味があったり苦手だったりする科の実習を、都内の病院でさせて貰った。私は四年のときある病院の産婦人科を回ったが、妊婦の腹囲を測るのでさえ満足に出来なかった。それはまだプロでもなく、患者に責任のない私が、おっかなびっくり、しかも患者にそれと悟られる事なくすることに対する一種の恐怖からであった。一緒に回ったクラスメートは比較的抵抗なくそれをこなし、既に一人前の医師としての雰囲気を持っていた。私はひそかに正式に医者になってもこの小心さを克服出来ないのではないかと思い、憂鬱になったものだった。しかしこれは杞憂に過ぎなかったことが後で分かった。一人の患者についての責任を主治医として負うことは、それが避けられない自分の仕事となった場合は、一方での苦労と同時に満足感も与えてくれたのである。
病院で患者を直接診療したい、でも一方では自信がない、喋りたい、でもそれが恐い、といつた葛藤は、パリでの生活の中でも最もつらい体験と言えた。一方ではファティマは活動の範囲が広がり、またギリベール医師も彼女には種々の仕事を言い付けるようであり、これがまた私の自尊心を変に傷付ける。朝目が醒め、今日も病院に行くのかと思うと憂醫になる。しかし病院に通うのを止めてしまうことはもっと屈辱のようで耐えられなかった。もしこのストレスが自分の忍耐の限界を越えているとしたら、テレンバッハの「レマネンツ状況」のようなことになり、このまま欝になって朝起きられなくなるのかも知れない、などと考えたりした。これからずっとここに滞在して医者をやろうというわけでもなく、せいぜい一年の研修というのに、何をこだわっているのかと自分でも思った。しかしどうしても病院での不適応は、全て引っ込み思案な自分の性格のせいのような気がして看過出来ない。他方では、日本にあのまま居たならばこの歳でいまさら自分の性格についてあれこれ思い悩むこともなかったのに、などと思ったりもした。
しかし結局私には思ったよりエネルギーの余裕があったようである。私はある日ギリベール医師に、どうしてもっとやる事を与えてくれないのか、と詰め寄った。きっと私にしてはすごく怖い顔をしていたのだろう。ギリベール医師は、それを聞いて意外といった顔をし、「少しは自信がついたのかい?」と言った。「自信は余りないけれど、何かをしたいんです。」ギリベール医師は当惑した顔をし、それでも考えて置こう、と返事をしてくれた。そばで一部始終を見ていたファティマが呆れたように、「馬鹿ね。自信がなくても、有るって言うのよ。あたしはそう言ったからうまく行ったのよ。」「でも自信がないのをあるとは言えないよ。具体的に何をどれだけやれたかを評価して貰うしかないよ。少なくとも日本人は普通はそう考えるんだ。」
それから私とファティマはカフェでこの反応の仕方の違いに刺激されてそれについて長いお喋りをした。私の一年間のネッケルでの滯在で一番の転機を挙げるとすれば、二月の始めに初めて教授の診察の際に症例提示をしたことである。本来はエクステルヌが主としてやる事になっているが、私の心境を察したギリベール医師やファティマが勧めてくれたのである。私はその日に訪れた欝病の婦人と付き添いの夫に対して面談を行ない、それを教授に報告した。私はそれまでの気遺いの大部分が不必要であったことが分かった。わたしは日本で患者を前にしたときと本質的には変わりなくその夫妻と応対することが出来た。勿論言葉の障害マはいつものように付きまとっていたが、それは他の医師の診察に立ち会った場合や、デイポスビタルの週一回の集まりでの議論が理解出来ない、といった絶望感からすれば意外な程に容易であった。その日を期に私の恐怖症が解消したとは言えないまでも、私には少し先が見えたような気持ちがした。それは私のフランス滞在の主たる目的の一つ、即ち外国において精神科の医師として活動することが全く不可能なのか否かという疑問にある種の回答を示してくれたのである。
私はフランスで医師として生計を立てることは、それが法的に可能かは別として殆ど考えていなかったが、少なくともその様な努力を重ね、その他の好条件が整ったならば、全く不可能という訳ではない、という自信が生まれた。しかし一方ではフランス人同志の会話についていけないとき、これが分かるようになる時期は一生訪れないのではないか、と思うこともしばしばあった。私はこの矛盾を不思議に思った。(第5話終り)

2010年10月16日土曜日

フランス留学記(1987年)  第5章 「喋りたい、喋れない」(中)

ほとんど愚痴をこぼしているだけという私の「留学記」を粛々と続ける。


パリの大学病院の精神科で研修をしていて思うのは、実に多くの研究会や講義がパリの各地で開かれるということである。精神科の掲示版には、常に多くの研究会の案内が貼られ、その気があってもとても全部参加してはいられない。私は出不精ながらいくつかの興味有るものには顔を出した。
年が明けて一月の始めに、ラカン派の集まり"1e Champ Freudien" の「日仏グループ」が主催して、「日本的なものLa chose Japonaise」と題して学会が開かれた。その狙いはラカンが生前語っていた、日本(人)における主体(主語)、ないしsigne の欠如、ということについての検討ということであった。朝から昼食をはさんで夕方までぶっとおしの議論が行なわれ、その締め括りとして最後に主催者のジャック・アラン・ミレル氏(ラカンの娘婿であり、後継者)が長々と演説を行なった。彼はラカンの「日本人は無意識の中に閉ざされている」という言葉の引用に始まり、日本人の心性についての生前のラカンのただならぬ関心を語つたが、それはラカンの死後必ずしも一時の隆盛を保っているとはいえないラカン派の精神分析が新たな話題を提供することを意図している様に思えた。
それを聞きながら、私はそこに参加している人の半数ほどの日本人達が、自らの主体性の存否を問われている議論に対してなぜ多少なりとも慣りをもって応じないのかと疑問に思っていた。勿論ラカン自身の意図がそのレベルになかったことはわかるが、その様な問題の立て方についての日本人としての素朴な感情の方が、ラカンのともすれば断片的で真意を掘みかねる言説の解釈学以上に私には興味のある点であった。但し私は参加者のフランス語での応酬について行くことが出来ず、自分の興味のある論点に関して断片的な発言をする以上のことは何も出来なかつたが。
私達留学生の、比較的単調な毎日にも、四箇月目を越えるあたりから変化が生じるごとになった。ファティマの動きが明らかにそれまでと異なって来たことは述べた。彼女は同じシリア出身のドレッドにつきアラプ系の何人かの患者を一緒に見るようになっていた。私にも既に二人日本人の患者はあったし、ファティマが患者を持つことそれ自体は特別の事とも思えなかったが、そのうち彼女は毎週水曜に行なわれている教授の診察の時に症例のプレゼンテーションをする、と言い出す。(これはその日の新患を30分足らずで診察し、医局員の前で教授に彼自身の診察に先だって纏めて報告するもので、通常はアンテルヌ(インターン、研修医)やエクステルヌ(医学生)が交替で行なっている。それを私達留学生が行なうことは比較的大変な作業であった。)そして私がハラハラ見ているのをよそ目に、初めてとしては見事にそれをやってのけてしまった。私はそれを見ながら、ファティマにできるのであれば、わたしもできるはずだ、と考えた。しかし自分も彼女のように自分から志願してプレセンテーションをするだけの自信はどうしてもないのである。わたしはいよいよ一人取り残された、という気がした。
フランスの病院でのもうひとつの苦労は、フランス人の手書きの文字の読みにくさであった。こちらでは男女を問わず、丁寧に書かれた文字というのが希で、しかも個人個人が勝手に文字を崩して書くため、せめてカルテを見て患一者の状態を少しでも把握したいと思っても、それにはまた途方もない時間がかかった。言集も分からず、文字も(勿論タイプされたものは別として)分からないとあっては落ち込まない方がおかしいかも知れない。またこの頃私はひどい風邪にやられ、四日間の間満足に外に出られない、という目にあつた。病院通いを返上して大学都市の狭い部屋で一日じゅう横になっていると、日本のことが無性に思い出された。一度体み出すと、毎日せっせと通ったとはいえ気が進まなかつた病院にますます行く気がなくなる。いかに無理をして、毎日病院に顔を出していたかをしみじみ感じるのである。いっそこのまま日本に帰る訳もいかないか、などとも考えたりしていた。
熱も下がってようやく病院に出ると、ちょうどエクステルヌの交代の時期で、それまでにかなり気心の知れていた幾人かのエクステルヌに交わって、新しいエクステルヌが通う様になっていたが、彼等のフランス語がまた途方もなく早くて少しもわからず、ますます私だけが取り残されたような感じが強くなった。後に思い出しても、この頃が最も辛い時期だったようである。私はその頃よく夕食を共にした、大学都市の同じ館に住む大学教師のE氏や、日ごろのお喋りの相手のファティマ、ドレッド、心理の学生のマリー・テレーズを相手に、「毎日がつらくて仕様がない」、と何度もぼやいた。私が患者を相手にして治療者として話すことにどうしても自信が持てず、その為に何らかの責任ある仕事を持たせてほしいという旨を医長のギリベール氏に言い出せないこと、そして彼も私が自信のないのを感じ取り、私に責任を持たせてくれなかった事などを、自分でも情なくなるほどに何度も繰り返したのである。フランス人の常で、自分からそのことを言い出さない限り、その人が意欲があるとは認められない。ところが私は一方ではもし何らかの仕事をどうしても負わされたとしたら、きっと何とかするだろうと思うのである。もしある患者について全面的な責任を持ち、それを回りが認めるのであれば、私はむしろ容易に自分のtimidité(気弱さ)を克服出来るであろう。(続く)

2010年10月15日金曜日

フランス留学記(1987年)      第5話 喋りたい、喋れない(前)

魚のことで大変なことが起きた。黒い魚が二匹、死んでしまったのである。昨日あたりから動きが鈍く、餌をやっても食いつきが悪かったと思ったら・・・・今日再びパソコンを開けて自分のブログに行ったら、すでにお腹を上にして浮かんでいた。手厚く葬っておいた。


年が明けて、とうとう恐れていたパリの寒さがやって来た。朝晩は零度付近を行ったり来たりしていた気温が、ある晩みるみるうちに下がり、これは只事じやないと思いつつ帰宅をし、窓の外に出してある寒暖計を見ると、マイナス10度を越えていた。その上パリには珍しく雪が降り、しかも一度降った雪はその気温では溶けるわけもなく道の上に溜まり、町は泥交じりの雪のぬかるみと化した。それに去年の暮れ以来延々と続いている鉄道、地下鉄、バス等のストライキも重なり、毎日病院に通うのに実に骨が折れた。
私の「戦い」の場所である病院での毎日も、それなりに変化が起きて来ていた。特に一緒に始めた留学生のファティマの変化にも目を見張るものがあった。私達は初めからお互いをライバルのように見なしていたので、この彼女の変化には私の方が動揺した。私の病院での目標はそれ自身は極めて単純なものであることは述べた。いかにそこの活動の中に入り込むか。そしてその為にするべきこともまた明らかだった。自分から行動を起こして自分の意欲を示し、それにより少しずつ病院の中で何らかの役割を果たして行くことである。その最終点は恐らく外来患者を一人でみるということであろうが、それは資格の関係上から許してもらえないだろうし、また到底その様な勇気もなかつた。しかしそこまでの間に出来る事は色々あった。
例えば毎日顔を出して、受け付けのアリエットがひまをもてあましているときにお喋りに行く、というのだって、それを堂々と行い、そしてアリエットが迷惑に思わないのであれば、一つの役割になりはしないか?大体が患者の数も少なく、一日のかなりの部分を他のスタッフとお喋りに費やすといつた二ュアンスが、特にエクステルヌや一部の看護婦にはあった。私もそれに加わりたいのであるが、それを自然にするだけの余裕がないから尻込みをすることになる。何とか積極的にしようと思っても、こればかりはどうしようもない。しかしそれをスタッフ達は私が社交性がないから、という様に受け取っている様である。病院に通い始めてもう四か月になるのに、言葉をまともに交したことのないスタッフはまだ沢山いた。彼等は私の顔を見ても、型通りの挨拶をすると、にこりともせず自分の仕事を続けたり他の人と楽しげに会話を始めたりする。しかしその原因は明らかに私のほうからの拒絶にあるのが分かる。私が言葉をかけるのをためらうのが彼等にわかり、彼等の方も気軽でない私とコミュニケーションを積極的には望まない。そしてこれらの事情は始めのうちは、アラプ人にしては珍しく自分を臆病timideと表現するファテイマも同じだつたはずである。私達は午前中で早々と病院を切り上げるとその近くの行き付けのカフェで毎日のように愚痴をこぼしあっていたのだから。しかし彼女は、まるで何かに憑かれたように、接触を持てる可能性のある人に次々と食い付いて行くようになった。昼食後も病院に取って返し、自分に出来る事はないかをしきりに搜し回り、タ方まで残る様になった。
それに従ってにわかに彼女のフランス語の理解の度合いも表現の力も増して行く様だった。これは私には少なからずショックだった。元々彼女と私には大体機会を分担して一緒のベースでやっていくという暗黙の了解があったが、それを彼女の方から一方的に破ったことになる。こうなると私も黙って見てはいられなくなった。結局彼女と同じようにこれまでのように午前中で病院を引き上げるということをせずに、出来る限りスタッフの傍にいて症例を一緒に見せて貰う、という努力を払うことになってしまった。そのため私の生活のペースも多少なりとも変わらざるを得なくなった。午前だけで帰ってしまう限り病院は依然としてそこからの逃避するところでしかない。しかし一日の大半を過ごすならば覚悟が違う。そしてそうしようと思えば逆に気楽な気になることもあるから不思議である。しかし一緒に病院に残っていても私は彼女のように人の中に入って行けず、取り残されて寂しい想いをすることが多かった。(続く)

2010年10月14日木曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(後)

一年で一番いい季節である。このところブログの更新が「楽」である。23年ぶりの自分の原稿の誤字をチェックしながら読み進め、全然メンタリティとしては変わっていない(進歩していない?)と感じる。もしまたパリ留学を一年するならば、きっと似たような内容の文を書くような気がする・・・・。

年も押しつまり、朝晩の寒さがこたえる時期になると、あれほど毎日を重苦しいと感じていた渡仏直後の時期とは、少し気分が違って来た。精神医学的には外国生活を始めてから三か月頃がカルチャーショックの最も起こりやすい時期であると唱える人があるが、丁度三か月目を過ぎ、街がクリスマスの飾り付けに忙しくなることになっても、私の心には特別「異常」と思える事態は生じていない。初めの内は、自分が欝になるのではないか、ひょっとすると分裂病(統合失調症)が発病するのではないか、などという不安があったが、その様なことの起きる気配は今のところない。私は自分が持っていた耐性に少し安心した。日本を出る前は、自分が外国生活という状況にどの様に反応するのかという予想がつかず、最悪の状態まで想像していたのである。
毎日の寂しさを救ってくれるものの一つとして、テレビがある。私は十月の終わりに白黒のテレビを購入し、本当は禁止されているのを無視して大学都市の我が部屋に持ちこんでいた。それ以来生活のリズムがかなり変ったという気がする。パリでは現在TF1, Antenne2, FR3, LA CINQ, CANAL+, M6の6チャンネルがうつる。どれも取り立てて手間をかけた番組を作っているという印象を受けず、映画とニユース、後はバラエテイ番組や埋め草としてのアニメ (日本のものが圧倒的に多い!) が主流を占めるが、それでもラジオとは全く異なり、少なくとも我慢してつきあっているということはなく、少し退屈するとかなり積極的にスイッチを操っている。もししっかり身を入れて見るのであれば言葉の習得にとっても最通であることは言うまでもない。特に夜眠れずにいるときなどは退屈凌ぎとしてもよい。少なくともLA CINQは夜中の三時近くまでやっている。といっても何年も前の、「刑事コジャック」や「スタートレック」などテレビ映画を繰り返し放映しているのだが。CANAL+はやはり夜中までやっていて、映画を連続で流しているが、デコーダーという機械を月200フラン出して借りなくては聴取出来ない仕組みになっている。
番組を見ていると、つくづく登場する人達の態度の、日本との相違を感じる。全体の印象としては、出ている人達が自分の感情、嗜好を隠そうとしないという感じである。よく店のカウンタ一や郵便局の窓口で、店員や係員が隣同志でお喋りして、それが一段落するまでは客の応対をしない、ということがあるが、さすがにテレビに出ている人にはそこまでは行かないにしても、それとすこし似たような状況に出会う。日本のタレント達の様に試聴者へのサービス精神に満ちてはいず、例えばクイズ番組でスイッチを押すだけのアシスタントが、「退屈だわ」と言わんばかりに溜め息をついたりする。またテレビという媒体を通して多数の試聴者と接していることによる緊張、はにかみといったものが初めから表現を許されないため、日本でその様な感情が起きる様な場面で、迷惑しているのは自分の方だ、といった表情を見せる。クイズ番組でゲストが間違いの答えを出すと、彼は照れるかわりに如何にも不愉快だ、といった感じで顔をしかめる。
街で通行人をつかまえてのインタビュウを録画した番組では、日本でよく見られる様に恥ずかしそうに笑いながらカメラを避けて逃げるような人はなく、ちょっと戸惑った後、開き直って堂々と意見を述べるか、あるいは初めからほっといてくれ、と言ってインタビュアーに本気で抵抗するか、である。またそういう時はインタビュアーも負けてはいない。無愛想に行って仕舞う通行人には、肩をすくめて「正々堂々と意見を言えない人は御手上げだ」、といった表情を作る。インタビュウされた人が「あなたの質問の意味が分からない」、と抵抗されると、インタビュアーは「あなたは何の質問の意味が分からないのか」、などととぼけてなお食い下がる。
このようなシーンをテレビで眺めることは、実際の対人場面で悩まされるのとは違って、純粋に「マン・ワッチング」をしている様で面白い。こんな時自分だったらどうするだろう、と少し距離をおいて冷静に考えることが出来る。フランス人の物腰や態度を見ながらその根本に流れるものは何かをあえて問うていくと、私は結局「粋」である、ということに行き当たる。思うにフランス人にとつて「粋」であることは、生きる上での原則といった感じである。彼等は常に決して人からやぼったいと思われる様な態度、人に馬鹿にされたり弱みに付け込まれるようなことは言ったりしたりしない。Le ridicule tue (馬鹿にされるのは命とりである。) という表現が見事に示す通り、他人に明らかな弱みを見せること、あるいはその弱みを晒したという事実を認めることは、そのままその存在をも否定され兼ねないことになる。従って「粋」とは「開き直ること」ということでもある。誰もが気付いている通り、人間の弱み、とはそれを自認する態度をもって完成するのである。フランス人の他人を射る様な視線は、まさに弱みを決して認めず、あくまで開き直り続ける、という姿勢である、といえる。
私はまた「粋」である、ということを、ひそかに「セクシ一である」ということに置き代えてもいる。私はこれまで当り前過ぎて述べていなかったが、フランスで出会う人々は男女共にことごとくシックでセクシーであり、この点だけは多くの日本人は絶対にかなわない。ここまで言いきって仕舞うのはもう私の偏見以外のなにものでもないかも知れないが、しかし私は何も日本人鼻の低さといったレベルについて云々しているのではない。日本人にとって「粋」であることは必ずしも重要でないばかりか、自己を卑下し、とりつくろわないことは積極的な意味をも持つ。それを再びテレビの話題との関連で言うならば、フランス人の笑いはこのトボケないし自己卑下的な言葉の生み出す笑いが余り伝わって来ない。フランス人が好むのは政治家の物真似やあてこすりといった、フロイトだったら、hostile jokeと分類するであろうジョークが主流を占めるようである。(終)

2010年10月13日水曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(中)

留学記は相変わらずだが、すこしは役に立っているという読者の方の声もあるので続けようと思う。実はあまり残っていないのだ。

街はそろそろクリスマスシーズンが近付き、静かながらもどこか活気を帯びて来た。フランス人は一般に夏の休暇が長いが、冬にまで長く休もうとはさすがに思わないらしい。それでもこれまで聴講していた大学の幾つかのクラスも一ケ月近く休みに入り、私も次第にその分時間がとれる様になってくる。私は週のうち平均して三コマの授業に出る様になっている。授業といっても少人数の日本で「クルズス」と呼んでいた感じの、しかも精神科の専門過程の学生を基本的には対象としているものであるが、誰でも気軽に聞きに行けるといったものである。一つはサンタンヌ病院での臨床講義、もう一つはネッケル病院の精神科で行なわれる精神療法の講義、そして最後はネッケ.ル病院の小児精神科での臨床講義である。
私はこれらのうち外国人留学生を専ら対象とするものや、数人以下の授業の場合などには、質問などの形で発言することにさほど抵抗を感じないようになっていた。勿論授業の内容がある程度理解出来て、それに対して自分の中に表現したい内容が生まれる、という場合に限られる。これはネッケルの精神科での様々な集まりについても同様である。何か発言することによって初めて自分も少しは授業に参加している、という気持ちになり安心するのである。逆に発言するチャンスを窺っているうちに突然話題が変わって、それを果たせなかった場合は、大学都市に帰って一人部屋に向かっていると、まるで自分が無くなってしまった様な、今日一日何をやったのだろう、という気分になり、むしろ精神衛生上よくない。人前でたどたどしいフランス語を披露するのも辛いが、それが出来ずに過ごす夜も苦しいのである。
もっともこれらの心理状態の裏には当然ながら「うまく発言をして自分の存在を知らせたい」という願いがあるのだが。この様な問題を実際抱えながら日本から持参した内沼幸雄氏の「対人恐怖の人間学」を寝る前に改めて読み返すと、まるで自分が患者の立場に立った様で改めて考えさせられることが多い。
すこし話題が変わるが、このごろやはりよく考えされられることについても書いて置きたい。それは私が持っていた欧米人へのコンプレックスのうち、その独創性や生産性の問題についてである。これまでも繰り返したように、彼等は自己主張が強く、常にある事柄について一定の息見を持ち、それを臆する事なく語るということが常識とされる。私はそこに同時に彼等の創造性をも読みこんで仕舞う傾向にあった。それに対して日本人は、欧米人の主張ないし、彼等の作り出したものを模倣し、改良したものを生産する傾向が強いという訳である。言うまでもなく、この明治以来さんざんに言い古された日欧比較論は極めて一面的なものでしかない可能性がある。自己主張が強いこととその内容の生産性とは必ずしも一致しない。それならば日本人は既成の考え方にとらわれない独自の考え方をり保ちさえすれば、とりあえずは救われる、という気がする。
やや一般化した言い方をしたが、これは私がネッケル病院に来て以来持ったフランスの精神科医や医学生との議論の間常に考えさせられることであり、ここでの「日本人」とは、彼等フランス人の前でその主張の強さに圧倒されて言葉を失い、そのことへの言いわけを考えている私のことなのである。私はしばしば彼等の声の大きさとその断定的な言い方に押され、冷静さを失う。その様なときは彼等の主張がどの程度実質的な意味があるかについて考える余裕を失い、相手を説得出来なかった、という敗北感と空しさを味わう。そこで私はむしろ教師と学生とのやり取り等を第三者的に眺めながらこの問題を考えることが多かった。その結果として私は彼等の自己主張性と独創性ないし議論の生産性との間には、むしろ逆の相関関係が成立している場合が多いのでないかという考えを抱くようになって来た。それは私のフランス人に対する一種のコンプレックスを軽減させることに少なからず役に立って来ている様である。
私が参加している授業では、生徒はそれぞれ目的意識を持って教室にやって来るようであり、授業に出席するのも彼等の自己主張の現われ、といったニュワンスがある。彼等は思い思いの服装をして現われ、教師が座る席を取り囲むようにして授業が始まるのを待つ。授業が始まっても、その一言一言に敏感に反応し、すぐにでも教師との議論が始まる。日本でのどちらかというと受け身的な生徒の態度とはかなり異なるのである。しかしその議論の内容は、教師の言った直接の内容についての矛盾を突く、自分の持っている知識との相違を問い正す、といったことが多い。中には単にへ理屈としか言いようのないことで教師に食い下がるといったことも多く、また教師もそれによく付き合う。フランス語特有のリズミカルな言葉のやり取りで相手を如何に早く黙らせるか、というゲームを楽しんでいるようである。従って彼等の一見内容豊富な議論を聞いていても、その発想の意外性や独創性に惹かれるということは思ったよりは少ない。
この理由についてあれこれ考えて行くと、それはむしろ彼等が過去の具体的な事実、あるいは既存の形式を非常に重んじる傾向に由来するのではないかという考えに行き着く。この結論はこのままでは余りにも言葉足らずだとわかっているが、この授業の場面に関して簡単に言えば、生徒が自己主張する場合、そこには相手との対決というニュワンスがどうしても含まれ、その為に客観的な資料、既成事実に依居するという必要性が生じてくる。それが結果的に彼らを非常に保守的な考え方に閉じ込めているという可能性があるのだ。(続く)

2010年10月12日火曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(前)

このブログの読者(推定20人)に訂正しなくてはならない。しばらく前に、「御茶ノ水にエレベーターができるのか?」と書いたが、結局違っていた。駅前の売店を大きくコンビニっぽくして新装開店しただけであった。
しかし日中関係はいよいよわからなくなってきた。中国が「お前こそ謝れ」といってきたのに対して、日本が「とんでもない」と少し本気になると、中国政府は何も言ってこないのである。その間にアメリカやヨーロッパからの批判が相次いだからか?もし中国を一人の人間と考えると、これでは会話が成り立たない。相手の本心というものがさっぱり見えてこないのだ。日本はそれこそ「粛々と」自分の主張をするというのがベストだということか?しかしそれにしても、事の顛末が記録されている映像をなぜ公開しないかといえば、「中国側に配慮して」というが、このロジックも中国側のそれ以上に私には不明なのだが・・・・。また日中関係の愚痴になってしまった。外交が自分の仕事に関係なくて、つくづくよかったと思う。
さて以下は、留学期の続きである。


 パリの冬は足が速い。10月ごろにはすでに霜が下りる朝もあり、12月に入るといよいよ本格的な寒さが身にしみる季節になった。折しもパリでは大学入学制度の改革案(デバケ法案)に対する反対の運動が盛り上がり、直ちにそれはC.G.T.やC.F.D.T.などの労働組合団体にまで波及した。そして連日リセの学生が「マニッフ」(示威行進)を繰り広げ、とうとう同法案を廃案に追いやる、という事態が生じていた。あれほど何かと理由をつけては仕事を体みたがる(といっては失礼だが)パリ人の何処にこのエネルギーが潜んでいるのだろうか、と、まるでピクニック気分のようににぎやかなデモ行進を横目に見て歩きながら私は考えていた。
しかしこれも思い直せば当然のこととも言える。彼等フランス人たちは、自分達の権利を要求する為にあらゆる抵抗を行なう用意がある。フランスの歴史は、自由を求めての民衆の闘争の歴史とも言える。日ごろは極端なまでに個人主義的な彼等が連帯するとすればまさにその様な時しかないだろう。
私はこのごろネッケル病院の一人の医師が気になる存在になっていた。彼はドレッドといい、シリアから四年前にパリに来てD.I.S.として研修を続け、今は外国人留学生ながらアンテルヌと同様の働きをしていた。大柄で小太りの体格をした陽気な男で、いつも会う度に髭だらけの顔に笑みを浮かべて握手を求めて来た。彼は症例検討会に機会ある度ごとに自分の症例を提示し、その他の研究会でもいつも進んで意見を述べた。歳は三十代半ばで、またその容貎といい自信に満ちた態度といい、とにかく人を圧倒するものがあった。その言葉はアラブ系の人々に特有のなまりがあるにしても非常に流暢であった。ドレッドが見せたフランス語の習得の早さについてはネッケルの精神科で今でも語り種になっていた。彼自身に聞いた話も総合すると、彼は四年前にパリに着いたとき、フランス語を殆ど知らなかったという。そこで四ヶ月アリアンス・フランセーズ(パリの外国人用の語学学校)に通った後このネッケル病院で研修を始めた。しかし当然のことながら始めは全く言葉が分からず、その頃は相当の苦労をなめたらしい。しかし彼はフランス語以外の一切の言葉を使うことを自らに禁じ、来る日もくる日も医師や看護婦につきまとって終日フランス語を話し続け、半年後には何と初めて「精神療法」の患者を受け持ったという。やがて学部の一年目の試験に合格し、郊外の病院の勤務医として報酬を得るようになり、母国から両親と妻子を呼び寄せ、ますますエネルギッシュに言葉の習得や精神医学の研修活動を続けて現在に至っているという。
「ドレッドはあんたよりよっぼど話せないうちから必死に症例報告をしていたわよ」と看護婦のマルチーヌが私に言い、そう言われた私は落ち込む代わりにちょっとした感動を覚えた。何かにひたむきになっている人を見るのは、それがあからさまな私利を求めるものでなければ心地好いものである。彼の人を真っ直ぐ見据える目と、穏やかだが確信に満ちた、そして時にかなり強引な話し方に触れると、彼に、始めのうちどんなに言葉のハンディの為に悩んだか、などということを聞く気も失せた。
彼は母国のシリアがいかに精神医療の面で立ち遅れているか、自分が一、二年の後に精神科医として帰国した時に待っている仕事がいかに困難を極めるものなのかについて熱つぼく語った。それを聞いている内に、私はこれほど男らしい人はいないだろう、と素朴に感じた。とにかくいつも勇敢に先へ先へと進んで行くその態度には感嘆した。これではフランス語が短期間に上達したのも分かる。彼はフランス語を用いることが必然となるような状態に自分を置き続けたのである。
私はドレッドに、異なる世界でも自らを主張し続け、やがてその地歩を獲得していく人のひな型を見た様な気がした。彼を見ているうちに私にもある種の心境の変化が生じてくるようであった。とにかくドレッドのように前に出ることを考えなくては。少なくとも幾人かの会話の中で、自分にも話す内容があるのにそれを切り出せない、ということでは困る。とにかく発音、言い回しの不充分さ、という考えを頭から除外して何らかの意味内容を伝えられればそれで満足しよう、と一度は決心した。
しかしこの種の「決心」ほど当てにならぬものはない。後に振り返っても私のいつもの引っ込み思案な態度は彼を知った後でも殆ど変わっていなかったと思う。私の中には彼のイメージやその生き方が、一種のプロトタイプとして深く刻まれたものの、私はやはり何時の間にかドレッド流に行きることを深く拒否しているのである。そしてそれは正解だったのだ。要は、世の中には人前であがる、ということが考えられなかったり、自己主張を心から楽しみつつする人がいるものなのだ。そしてそうではない私のような人間もいる・・・・・・。(続く)

2010年10月10日日曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(後)

夜神戸から帰宅。今回もいろいろ得るところが大きかった。神戸に行くたびに安先生と会った時のことを思い出す。1997年の秋に神戸に呼んでいただいたときは、まだ地震で横倒しになった建物があった。もちろん今では地震の傷跡などはみじんもない。地震のあと思い切った整地が進み、大胆な区画整理が行われた部分がある、とタクシーの運転手が教えてくれた。
留学記は、私のストイックな生活の記述が続く。

(承前)パリで「日本」を見聞きすることは少なくない。パリはちょっとした日本ブームといった感じがあった。モンパルナスの行きつけの書店フナックの入り口には日本の小説の翻訳の特設コーナーが設けられ、ポンピドゥー・センタ一では「前衛芸術日本」と題して種々の展示がされ、毎日3、4本の日本の映画が3箇月以上放映されることになっていた。またル・モンド誌に突然日本の特集が七ページにわたって組まれたりした。しかしどれもありきたりの紹介に過ぎず、肝心の日本人の心情についてどれだけ積極的に理解しようとしているのか、という点に関しては疑問を感じ続けていた。
フランス人の常かとも思うのであるが、彼等にとって物珍しいもの、目立つものに専ら興味を示し、それでもう分かったことにして仕舞う傾向があるような気がする。カミカーズ(神風)、アラキリ(腹切り)、ミシマ、カラテ、ゼンヌ(禅)、そして急速な経済成長・・・・・・。しかし日本人の控え目さ、謙譲の精神等(勿論良く言えば、の話である)についてそれを少しでも肯定的に受け止めるだけの余地を示す人に出会うことは殆どなかった。それが証拠に日本人の典型であると少なくとも自分では考えているこの私がパリ人と言葉を交すとき、何に苦労しているのかについて、相手からすこしでも理解されていると感じることはなかった。わたしはフランス人と話す時、まるで心の片側があたかも無いものとして振舞う意外に方法はなかったのである。待つことを考えず、とにかく前に出ること。声に出すこと。決して参った、とのサインを出さぬこと。相手から視線をそらさぬこと。これらが幸運にも全て満たされたとき、初めて彼等はコミュニケ一ションの許可を与えてくれる。私がそこに至った過程は顧みられることがないし、根を詰めて10分も話せばもうへとへとになって仕舞っていることも知らない。私にはこの様な日本人とは異なったフランス人の心性が、精神病理の現われ方にどの様に影響しているのかが非常に興味があった。
ネッケル病院では毎週ぺリシエ教授の外来があり、そこで毎回三ケースを選んで彼が面接を行ない、それを殆どの医局員が取り囲んで見学するということが行なわれていた。その治療上の是非はともかく、フランスでの精神科の面接の実際を知る上では非常に良い機会であった。彼等患者は概して自分の病気に対して客観的な見方や語り方をし、その述べ方は確信に満ちている様に見えた。相手が教授だからといって臆する様子も余りなく、しばしばどちらが医者か患者か区別のつかぬような堂々たる議論を始めたりした。またフランスでは処方箋を持って患者が各自薬局に薬を求めに行き、自分で医者の指示通り服薬するというシステムがとられているせいか、患者は誰もが自分に処方されている薬の名前やその効能をそらんじていることの方が当り前であった。
医者の方も、患者の薬に対する不満を聞いた場合、日本で時々するように「じゃ、ちょっと調節しておきますから」というだけでは済まず、どの薬をどれだけ、どの様な理由で増やす、ということを明確に示す。日本の病院で、何種類かの薬を全て粉にして混ぜ、患者の状態に応じて本人にその度に説明する事なく「匙加減」をして投与する、というやり方を一つの典型とすると、こちらでは医者が患者に例えば「食後にのむアルドール(ハロペリドール)を今までの20滴から、今晩から30滴に増やして下さい。」ということになる。
ちなみに患者はそのアルドールの水薬を、医師の処方望を持って街の薬局に行き、その効能書きの入った箱ごと購入してくるから、その過程で自分がその薬を服用する理由についてもある程度受け入れることが前提となっている。私は外来に現われる患者を見ていて次のように感じることがよくあった。つまりフランスの患者は概ね苦しさ、辛さを日本人のような形で表現することは少なく、それを表わすとしたら、周囲に対してかなり直接的な要求となって現われる、と。つまりその中間の、苦しさをそれとなく示唆してこちらからの働きかけを待つ、という部分がそっくり抜け落ちている、という観がある。私には患者の苦痛の訴え方のどれもがそれに対する処置を受けて当然、とのメッセージを含んだものの様に感じられて仕方がない。「人と話すと緊張りするんです。」という「日本人的」な症状でさえ、その訴え方は堂々とし、その目は医師を正面から見据え、こちらを威圧するもの有るのである。
フランスの患者について考えていると、どうしてもフランス人一般について考えを及ぼさざるを得ない。私には彼等の心の動きを十分に掴んだという気持ちをどうしても持てないのである。個々の人々の動きの動機を掴むことはむしろ容易なことも多い。彼等は怒るべき時に怒り、楽しむべき時に楽しみ、主張すべきことを主張する。しかし私自身が同様の立場でそれ等の行動をとるかと考えると話は違ってくる。楽しむにも怒るにも、常に実際行動に移る前にワンクッションが置かれるようである。自分の個々の具体的な行動はどうも彼等とは異なる基準で為されている気がする。
ヤスパースの「説明」と「了解」という概念を多少強引に当てはめてみるならば、私は彼等の行動を「説明」は出来ても十分に「了解」出来ているとは言えない。もっと具体的に言えば、彼等も悩み苦しみ、迷いつつ行動している害なのに、その心の具体的な動きは生き生きと実感を伴って伝わって来ない。彼等はその揺れ動きを具体的な動きとして表わすことが少ない(或いはそれ等を表わす、という発想が少ない)から、それを見ている私は混乱して仕舞うのである。
ただし彼等の行動上の決まりについては有る程度分かるのでそれに従う限り付き合いの上ではさして支障がない。態度を決して暖味にしないこと。そしてその為にはとにかく表現すること。視線を逸らさないこと。自己卑下のニュワンスを含んだメッセージを送らないこと。これらのきまりを念頭に置きながら行動をしさえすれば、彼等との付き合い上さほど間題は起きない。しかし先程述べたように半ば心の半分を切り捨てているので、その様な時のこちらの態度は決して自然ではない。あるいは自然に思わせようとするとかなり疲れる。ただしこれは母国語を自然に使い、生活している彼等の中に、外国人としてとてつもない言葉のハンディを背負ったままいる、という状況のせいかも知れない。その証拠に、殆ど行動を共にすることになる各国からの留学生との付き合いの上では、互いの生育環境や人種の違いは殆ど問題にならなかった。
シリアのファティマはどこからも経済的な接助が得られず、言葉の障害に加えて二重の苦しみを味わっていた。プラシルのクリステイーナはポルトガル語交じりの怪しげなフランスを使いつつ、身振りだけが先行し、しばしば絶旬した。コロンビアのホアンはスペイン語なまりのフランス語を比較的流鴨に話したが、患者からしばしばそのなまりをからかわれたり、わざと俗語を使われたりして困り果てていた。自分の置かれた状況からすれば無理もないのであるが、私はフランスでの患者の病理よりは、パリでの、自分を含めた外国人の心の動きについてあれこれ考える時間がむしろに多かった。彼等は言葉の障害がある限りは、少しでもパリ人との直接の接触を持とうとしたならば、その度に挫折感を味あわなくてはならず、そこでの彼等の果たすことの出来る事柄も彼等が自国でなら可能だったこととは及びもつかない程度のレベルに甘んじなくてはならないことによる。その時に自分を慰めるとすれば、自分がこの様に言葉の障害に苦しむのは当然であり、当のパリ人ももし外国に滞在することになれば同様の苦労をすることになるだろう、などなどとあれこれ想像するしかない。そのうち自分だけが特殊な苦しみを味わわされているという考えから解放されるのである。もしこの思考の流れがスムーズに行く様になったとすれば、いわば「開き直った」状態となり、にわかに苦しみは減ることになる。この理屈には一見無理がなく、早くその様に達観して、もう少し余格を持って生活をしたいと思う。しかし言葉のハンディを始終自覚させられ、そのために実質的な不利益をこうむり続けると、しばしばその様な思考パターンを行なう余裕を奪われてしまう。
結局その苦痛から完全に逃れる唯一の方法は、徹底して同国人との付き合いに頼り、一人で図書館にこもって勉強をすることでしかない。勿論留学の目的は様々であろうが、臨床を目的としている私の場合それをして仕舞ってはパリに来た意味が半減してしまう。それに何よりも言葉の習得は、それが不自由であることからくる屈辱感をエネルギーにしているところがある。私が病院で知る多くの留学生は、このことを本能的に感じ取って、むしろパリという環境に身を挺して飛びこんで行くようなところがある。しかし逆に彼等を見ていると、なんとなく羨ましいと思うと同時に、自分にはそこまでする気はなく、またその必要もない、という気がしてくるのである。(終り)

2010年10月9日土曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(中)

今日はうっとうしい雨。これから神戸に出張である。

(承前)しばらくデイホスピタルに通っていた私は、あるエビソードをきっかけにそれを控えるようになってしまった。それは何よりも私の立場が不安定であることが原因であった。医師として振舞うのであれば、その様な形で漠然と患者の中で過ごすことは彼等に不安を与えるようであった。フランスでは日本に比べて、患者は医師をより近寄りがたい存在と感じるようである。どの医師も病棟で患者の中に入って漠然とそこで過ごす、ということはなかった。それは医師の側にそのつもりがなく、むしろ患者との距離を積極的に一定に保とうとしているのと同時に、患者の側にとっても医師が常に傍に居るのが決して心地の良いものではないからであろう。それに患者の中に溶け込み、自由なコミュニケーションを試みるには何といっても私の言葉のハンディが大きかった。
ある日、私がデイホスピタルに居ると、来る途中に町でアメリカ人に侮辱を受けた、という女性患者が入ってきて私を見て、「外国人は無作法で、もう顔も見たくないわ!」と猛然と怒りをぶちまけて来た。そして彼女はあることを問いつのってきたのだが、私は彼女の言いたいことが理解できずに、反応が遅れた。すると彼女は「あなたが答えないのは一体どういうことだ」と更に語気を荒らげて来た。ちょうどその時私は電話に呼ばれてそこを立ち去つたが、その時以来急に患者の集っている中に足を踏み入れることに抵抗を覚えるようになった。少なくとも彼等に、単に一個人として接することは、医師としての役割を通して接することより却って難しい、ということを認識したのである。
このエビソードは私にとっては辛いものであったが、これまたいろいろ考えさせられる材料を与えてくれた。もともとフランスで患者と治療的に接することは私の第一の目標であり、その為に何かすこしずつ出来ることはないか、と私はいつも考えていた。しかし外来診療をする他の医師に立ち会うことがあっても、私ひとりに任せられる可能性など全く考えられず、またたとえ任されても到底出来るわけがない、という気がしていた。何しろ患者に急に話し掛けられただけでもドキドキして仕舞っているのである。
わたしは常々精神科医として患者と接することは、特に精神療法をも含めたアプローチを目指す場合にはフランス語に熟達し、言葉による意志伝達に関する問題がほぼ消えたところからようやく始まるものと考えていた。そうであるとすれば、患者と何らかの形でじかに接することから出発するしかない。私が患者との接触をデイホスビタルで行なったように側面から試みたのもその様な意図があったのである。しかし当然ながらその様な高度のフランス語のレベルに達することについては絶望的にならざるを得ず、従って患者を精神科的に「診察」することが出来るかどうかについては一方ではかなり悲観的であった。従ってこのデイホスビタルの一件で私はいよいよその様な希望から違ざかる様な気がした。実は後に述べるように事態は思ったよりも容易に進行したのであるが・・・・・・。
ネッケル病院に通い出してから二ヶ月経った。私は依然として戸惑いながら、なんとかそこでの活動に顔だけは出している、といった感じで過ごしていた。一方では日本の新宿あたりの景色を思い出して、無性に帰りたくなる。ふと空を見上げて小さな飛行機を見出しても、それに乗ってすぐ帰りたいなどと思って仕舞うのである。それは一部にはここでの病院通いの苦しさから来ている。時間が経って行くのはある意味では嬉しく、またある意味では苛立たしかった。つまり、それだけ日本に帰る日が近付いたという意味では嬉しく、しかし相変らずの失見当識を正当化する理由が徐々になくなっていく、という意味では困ったことであった。もう、「ここについたばかりですから何も分かりません。」という言いわけがあまり通用しなくなってくる時期なのである。
いつもその様な言いわけを用意して生活する必要が一体有るのかと言われそうであるが、事実私のパリでの生活全体は、いつも「最悪の事態」をいかに避けるか、というテーマのもとにあったようである。その「最悪の事態」とは、例えばフランス人との会話で二度聞き返しても意味が掘めず、そこでコミュニーケションが中断せざるを得ない、といった事態である。相手は一回目はこちらが偶然聞き漏らしたものとして同じスピードで始めの言葉を繰り返す。しかしそれでも分からないと、(大体この辺で私は分かった振りをして仕舞うか、もう一度問い返そうか迷い出すのであるが)彼等はこちらの言葉の力の足りなさに気付き、少し言い方を変えてくる。不幸にしてそれでも分からなかった場合は、彼等は大抵肩をすくめて「もういい」、といつてこちらを見捨てるか、突然英語に切り替えてくるか、ということになる。
いずれにせよもう対話者間の対等な関係というものはなくなり、私は「言葉も分からないのにフランスにいることの責任」をすべて負わされるのである。フランス滞在が二箇月を超えたからといって、そこでの生活に慣れて来た、という実感などはなく、ただ見聞きするものが目新しいという代わりに、もう沢山だ、といううんざりした気持ちの方が先に立つようになってくる。逆に街を歩いていて日本に関する事柄に出会うと無性に嬉しくなる。私はすっかり愛国主義者になってしまった様だ。(続く)

2010年10月8日金曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(前)

23年前の留学記を読み返すと「読んで面白い」という類のものではないが、少なくともこのころ何を考えていたかはよく思い出す。というよりほとんどのことは忘れていない、という感じだ。パリ留学というと聞こえは華やかだが、内容はずっとこんな地味なことが続いたのだ。

 ネッケル病院に通い始めて一ヵ月ほどすると、私はデイホスピタルで過ごす時間が増えるようになった。そこで精神科の治療者としてふるまう為には、まず患者とのコミュニケーションがそもそも成立することが前提となる。医師やその他のスタッフとは、必要最小限の情報交換は大体可能だが、こちらの言葉のハンディの分だけ向こうに依存した形になる。つまり分からなければしつこく聞き返し、それでも駄目ならイエス、ノ一のはっきりした質問をこちらからして分かりやすい答えをもらうのである。しかし患者との会話の場合はこちらの言葉のハンディをはっきりと前提とするわけにはいかない。更に大概の患者はこちらに気を使ってゆっくり話してくるということは期待出来ない。彼等は自分達の問題で精一杯のなのである。ましてや向精神薬を投与されて発音が明瞭でない患者や、早口で喋りまくる患者、あるいは話の内容がまとまりに欠けている患者、初めからこちらとの接触に積極的でない患者との会話は、日本語ででさえ苦労したという記憶がある。余程寛容かまたは暇な患者でなくては交流が持てないのではないか、という気持ちが始めは強かった。
ネッケル病院のデイホスピタルは、日本の大学病院で体験したものに比べて幾つかの異なる点があった。まずここでは、患者は入院という形をとる。従って患者は昼食を病院で取り、投薬を受ける。週に何日通うかはケースによって異なるが、2日から4日という場合が多い。彼等は決められた週の予定、例えば月曜は午前は創作で午後は映画、火曜は午前はプールで午後は自由、という風なスケジュールに従う。しかし原則としては患者は他人に迷惑が掛からない限りはある程度は自由に過ごすことが許されている。合計二十人に満たない患者は教室一つ分の大きさの部屋で主として過ごすことになる。部屋にはデイ・ホスビタルのスタッフや看護婦が控えていて、患者との対応をしたり、その動きに気を配ったりする。これらの結果は木曜日の、スタッフ全体の集会の際にまとめて討論されることになる。
私はデイホスピタルの部屋に、毎日時間を決めて少しずつ行ってみることにした。言わばフランスでの患者との初めての接触ということになる。私が、部屋の中央の、大きな机の周囲にある椅子のひとつに腰を掛け、ぼんやりと、しかし退屈しているわけでもない、という風にして座っていると、やはり患者達はこの白衣を着た見慣れない東洋人をいぶかしげに思うらしく、不思議そうに眺めるか、それとなく言葉を掛けて来たりする。私は彼等に対して、出来るだけ日本の病院でして来たのと同様の応対を、不自由な言葉ではあるがするように心掛けた。こうして何人かの患者と顔見知りになり、会うたびに少しずつ言葉を交し合う、という関係は、私の危惧とは裏腹に、比較的容易に成立した。
この過程で私はいろいろなことを考えさせられていた。その一つは、日本のデイホスピタルや、比較的軽症の患者の病棟での体験と、有る点ではほとんど同じである、という事である。本来デイ・ホスビタルに自発的に通ってくる、という患者には共通した特徴が考えられる。それは彼等がどの様な仕方ではあれ自分の病気の事実や、自分にとっての病院の必要性を受け入れているという事からくるように思う。彼等は比較的軽症だったり病勢が安定していて、しかし社会復帰には一歩至らず、専ら自宅に引きこもることを避ける為に自発的に通って来る。
この、自分から通って来る、という事がある意味での彼等自身にとっての弱みと感じられることがあるようだ。初めから病院のスタッフを受け入れないのであれば、彼等がそこに居る根拠はなくなることになる。従ってデイホスピタルに来る患者はある程度積極的に接触を求め、強制的に入院させられた患者が時に持つ、ある種の取り着く島のなさというものが余り感じられない。
同様の事は私が初めて直接に言葉を交すことになった患者についても変わりなかつた。私に初めて話しかけて来た30代半ばのP氏は、やや唐突に自分の日本の知識を被露した後に私に幾つかの質問をして来た。その彼との比較的ゆっくりとした言葉のやり取りをしながら、私は何故かフランスに来て初めてある種の対等な関係での会話のすることが出来た、という気がした。私がそれまでに接触した、自負に満ち、一歩もゆずる用意がない、といったフランス人とは違う雰囲気を彼は持って私に語り掛けて来ていたのである。P氏は私の言葉に緊張した面持ちで耳を傾け、それからゆっくりと選びつつ言葉を返してくる。少なくとも私の言い分を途中で遮ってまで畳み掛けてくる他のフランス人とは全く違った印象があった。(余談となるがその後に看護日誌の彼についての看護婦の記載を見、色々な意味で考えさせられてしまった。そこには「思考が抑制され、話し方も緩慢で、しばしば言葉に詰まる。」とあったのである。彼は数ヵ月前に急性幻覚妄想状態に陥り、回復期にあるということであった。)
しかし私はデイホスピタルの患者の持つ、日本では体験しなかった率直さ、ある種の明期さをも感じ取った。彼等はお互いに顔見知りになったと判断した次の日から出会いの際には真っ直ぐに近づいて来て握手を求め、こちらの目を正面から見て「ボンジュール」と接拶をしてくる。私は彼等の示すこのような態度に少しばかりうたれる気がした。これはフランス人一般の挨拶の仕方についても考え直させられる切っ掛けとなった。
彼等の形式的で心のこもっていない様に感じられていた挨拶は、しかし病院で患者から受けると不思議と重みを持ったものに感じられた。彼等は自らの病による悩みによって挨拶をぞんざいにすることは少ないように見える。私は同じような状況で日本で出会った患者達だったらどうしていただろう、などとあれこれ考えたりした。(続く)

2010年10月7日木曜日

フランス留学記(1987年) 第2章「多少理屈っぽい話」(後半)

「読者」から、黒い魚を復活してほしいというリクエストがあった。ところで私は「えさやり」の件を知らなかった。クリックすると、魚たちにえさをやれるのである。自分で知らなくてどうする?っていうか、どうして読者はそれがわかったのだろう?
ところでうちの神様は、全快して戻ってきた。チビが狂喜したことは言うまでもない。
留学期は第2章がクラ~イままで終了し、さらにクラーイ第3章へと続いていく・・・・(もうヤメようか?)

(承前)パリでの生活ではまた、言葉が不自由という以外にも、自分がアジア人であるという事実からくるもろもろの事情も被らなくてはならない。ここでは私は何よりもアジア人、それも大概は中国人ないしベトナム人として先ず識別される。それを例えばカフェに入ってコーヒーを注文する、といった、他人の目に触れる日常の生活の隅々で引き受けながら、生活するのである。パリ人がアジア人一般に対して好意的かというとむしろ逆の場合が多いから、外国人留学生としての立場からは当然のことながら、それだけでストレスの要因になる。日常の大部分の時間は、「こんな生活に意味があるのか?」といった考えに囚われつつ過ごしている。しかし夜部屋で少し考え直してみると、留学の目的はまさにこれだったのだという声が聞こえる。決して予想外のことが起きている訳ではなく、またそれを承知でここまで来ることを選んだのは私だからである。
パリには多くの日本人の学生が居住している。その数はパリだけで数千とも言われる。渡仏して一箇月を過ぎる頃には彼等との付き合いが日常のリズムとして定着するようになる。私は彼等を見ながら外国に暮らすことの意味をあれこれ考える事が多かった。彼等はそれなりに目標を持ち、さほど迷う事なくそれぞれのペースでこの町で暮らしている様に見えた。私のいる大学都市で知り合って、よく食事を共にしたある国立大学の助手のK先生は、一年の予定で今年の五月にパリに来ていて、毎日パリ国立図書館へ、専門の中国史の資料集めに出掛けていた。週末には必ずパリの至る所にある博物館巡りをし、日本に残した妻子と頻繁に手紙を交し、悠々自適の生活をしていた。K先生は一年の留学を終えてもとの私大に戻り、パリで集めた資料をもとに論文を書く予定だ、と語った。
私がひとつ意外に思ったのは、K先生は日常生活の中でフランス語を習得していく努力をすでに放棄しているようだったということだ。しかしそれは本来文献を集める事がフランス滞在の目的である以上ある意味では無理のないこととも言えた。私が時々パリでの生活の辛さを口にすると、「そうですか。私は楽しくてしょうがありませんよ。昼間は図書館で、日本では絶対に手に入らないような資料がいくらでも出て来ます。毎日が新しい発見の連続です。昼の勉強が済んだら、帰宅後は好きなことをしています。後は来年の帰国までに人生をうんと楽しむだけですよ。フランス語?一切話しませんよ。読めればいいんだと開き直っています。」と言い、一体何がそんなに辛いのかわからない、といった顔をした。「50才までの後10年の間、もう今のテーマを変えずにやるだけです。もうそれ以外の余計な本は読みません。」と言い、実際例えば自分の専門外のフランスの現代哲学等に関しては一切興味を示さなかった。
私はK先生を見ていて羨ましくもあった。恐らく彼はこれからもフランス人との接触は極力持たず、外国人という事からくる余計な気遣いにも無縁で、帰国後は一生日本で暮らし、学会での地位を築くのであろう。いわば全てが日本でのこれからの生活の為に定まっていて、彼は迷いを感じる必要がないかのようだった。一方の私と言えば、街に出ても英語誌のニューズウィーク誌を買おうか、フランス語誌のレクスプレス誌にしようか、はたまたちょっとお金を出してジュンク(オペラ座近くの日本図書専門店)に朝日新聞でも買いにいこうか、という事までいちいち迷っている始末である。自分をどこに所属する人間とするか、というアイデンティティが正まっていないからである。いや、自分がどう仕様もなく日本人であることを感じつつ、それ以外ではいられない、ということに対してささやかな抵抗を続けている、と言うべきだろうか。
その点、フランスで数年を過ごし、医師の資格を得る事を目的としている日本人以外の外国人の場合は、その覚悟も遥かに悲壮感を帯びているように思われた。病院でファティマやその他の留学生に身近に接してるとそれがよく分かった。彼等は自国での医師の資格によって得られるパリ大学医学部の外国人医師の学生(D.I.S.)という身分でこれから3年間の研修を行ない、精神科の専門医の資格をとって自国に帰るのである。彼等はこれからフランス語で患者を診察しつつ臨床実習を行ない、試験を受けなくてはならない。まさにフランス語によるコミュニケーションが命である為に、彼等はあらゆる手段を用いて、言葉の習得を目ざしていた。彼等の多くは奨学金も得ず、アパートの屋根裏部屋に格安の部屋を借りるなどして、切り詰めた生活をしながら病院に通って来ていた。 
私は彼等を見ていても、やはり何となく羨ましさを覚える事があった。彼等は恐らく私が一年足らずの後にこの国を去った後もここで勉強を続け、きっとしっかり言業の力を.身につけて適応して行くのだろう。事実ここでの生活が二年を越える留学生の中には、多少の発音のなまりを除いては殆ど言葉に不自由なくフランス人と交流して活躍しているように見える人もいた。彼等の表情の中には困難を克服しつつあるという自負のようなものが感じられた。私もそれらの留学生と同じような状態に身を置いた自分を想い浮かべてみた。恐らく私がフランスでの滞在を何とか引きのばして同じ様な道を辿ろうとしたら、相当周囲へ迷惑をかけることを覚悟したならば、彼等の行き着くところの途中くらいまではついていけるかも知れない。
病院で出会う殆どすべての留学生は研修を開始して数箇月後には患者を担当し始め、処方を書き、さらに一年後には多くはパリ郊外の精神病院に勤務を開始し、そのうえで大学の講義には通って勉強を続けることになる。私はあくまでもフランス政府の給費生であり大学には属していないが、ほぼ彼等と同格に扱われることになり、彼等との間では特に医学的知識、ないし言葉のハンディを感じない以上は私も彼等の辿るコースをある程度まで一緒に歩むことになるのである。私はフランスに来る前はここの病院で患者に接することさえ許されないのではないかと危惧していたが、病院にいる限り今述べたようなルートを通って病院での活動に関わって行かないことの方が不自然ということになる。
私も政府からの給費が切れる来年を待ってパリ大学に入り直し、D.I.S.の資格で報酬を得つつより本格的な研修をしようとしたら、理論的には不可能ではない。とてもそこまでは出来ないという気もするが、一方では私のような言葉のハンディを負った留学生でも皆それを当り前のように行なっているのである。勿論病院の勤務医となると、その役割に追い付く為にまさに苦労の連続の毎日になるであろう。それこそ今の苦労の比ではなくなるのであるが、そういう立場に身を置いてみるという考えも何となく私を惹きつけるのである。しかし一方でそれを実行しようという気持ちに傾かないのは、私の中にどうにも変えようのない「日本」を感じ始めていたからだろう。数年間フランスを選ぶことと、日本を少なくとも部分的に捨てる事とは同じことである。しかし私には、これで日本からも離れてしまったら一体どうなるのだ、という焦りの気持ちの方が強かった。もしフランスに耐え難い魅力を感じているのであればまた別なのであるが・・・・・・。(第2話終わり)