2025年3月15日土曜日

関係論とサイコセラピー 26

 ところでギャバ―ドさんは、それとよく言われる「構造的な変化」についても論じている。すぐ分析家は無意識レベルでの解釈による構造的変化、とか言うが、実際に連合ネットワークはそれが根本から生まれ変わる、あるいは大きな変化が訪れるということは起きないのだという。だいたい古いネットワークが再編されるときは、古いパターンがある程度抑制されて新しいものに一部書き換えられるという形で徐々に書き換えられていくのであり、程度問題ということだ。古いビルが取り壊されて新しいビルになるような、旧→新へとスイッチされるというような代物ではない。

もう一つ重要な点は、2の意識的な思考,動因の変化である。ギャバ―ドさんは、精神分析では意識内容に対する、暗黙の裡の implicit 無視の傾向があるという。でもそもそも意識レベルでの思考の改変がなくては心の変化は起きようがないではないか、とも言う。「無意識の意識化」ということを精神分析が言う以上は、両者はともに重要なのだ。そこらへんはCBTと被ってもいいじゃないかということまでにおわせている(p829)。このp831~832あたりでギャバ―ドさんはこれらについて雄弁に語っているが、私にはとてもうまくまとめきれない。

p832にはそもそもこの「週一回」に関する議論にとって重要なことが書いてある。精神療法に比べて精神分析はより転移解釈を徹底するということだ。この点に関してギャバ―ドさんが書いている別の論文には、かなり皮肉なことが書いてある。 GLEN 0. GABBARD(2001)OVERVIEW AND CON\MENTARY. Psychoanalytic Quarterly, LXX., 287-295)

要するに精神分析は精神療法と同じような治療目的を掲げていると大変なことになってしまうと。「治す」ということに対して精神分析が精神療法と一緒に競ってしまうと、そのうち精神分析に訪れる人たちは分析家の訓練生に限られてしまうよ、というのである。(同論文p,288、Owen Renick の論文の引用により。)