2020年12月31日木曜日

死生論 29

 「生と死」について考え続けて一年が終わる。とんでもない一年。でもこれが「ブラックスワン」だ。そして米国の大統領選。一般のメディアによれば、事実上JBに決定。ネット情報では1月6日に大どんでん返しが起きて結局DTが第2期目に入る。いずれにせよ一つのドラマを見ることになる・・・・。 

 これまでの議論は実は生物学的な根拠がある。私はAを目指す。それは達成されたことを想像することで私の報酬系を刺激するからだ。Aをすることに生きがいを感じ、それ以外の時間は人生を無駄にしていると感じるのであれば、Aによる快感は、どうやら私にとっては死すべき運命を考えることを棚上げさせてくれるらしい。そして私にはAがあるからいいものの、それを人生において持てないとしたら、その人生はおそらく味気ないものになるのだろう。

 そこで報酬系についてもう少し。生命体は系統発達のごく初期から、報酬系を有する。線虫だってドーパミン作動性のいくつかの神経細胞による報酬系が存在し、そこを刺激することは、生命体を維持することにつながる。動物は光に向かったり、酸素を求めたり、栄養を求めたりする。それはその個体の生命維持を保証するからだろう。というよりは生命維持に役立つものを求め、そうでないものを回避する個体が生き延びてきたというべきだ。結果として死の回避につながるような行動がより多くの快感を生む個体ほど、適者生存の原則に従って生き延びてきたのだ。するとそこに快感や痛みという実態が存在する必要はないということになりそうだが、実はまさにその通りなのだ。

 例えば光の方向に向かう生命体は、より多くの光を浴びることで快感を味わうのだろうと私は想像する。しかしCエレガンスに成り代わり、実際に快感を体験しているかを知ることは出来ない。それに別に快感を味わわなくても、体が自然とそちらの方に向かえば、それでいいのだ。でもおそらくそこに快感、気持ちよさという体験が存在することでずっと説明がしやすくはなる。

 例えば私たちは一定の時間食べ物を摂取していないと、久しぶりに食べたものをおいしく感じる。これは快感だ。特に自分の好物だとその美味しさは格別のはずだ。この快感が存在せず、一定の時間がたつと、心地よくもないのになぜか特定の食べ物を食べたくなる、手が勝手に動いて、というのはオカしいではないか。でも可能性としてはありうるのだ。
 生命体が下等であればあるほど、何が報酬系を刺激するかは驚くべき程に一致している。アリの行動を観察しても、一匹だけ勝手な振る舞いをしてユニークな生活を送るアリなどいないだろう。生命体に宿命があるとすれば、それは報酬系に絶対服従であるということだ。それが快感を生み出すことならそれは正解であり、人はそこに faith (信仰心)を感じる。そこにそれ以外の理由はない。
 ここまでをまとめると次のようになる。人は自分にとって心地よい類の体験の際に、死を回避するという感覚を生む。そして、その体験に向かうことは、「これでいいのだ!」という正しさの意識、「これで行こう」、という感覚を生むだろう。そしてこれが faith の正体ではないだろうか。
     このテーマにまつわる話をしよう。ある著名人が何年か前に、覚醒剤を使用して捕まった。その後何年かして再び覚醒剤所持で捕まる。どうして彼が自分の社会的な生命を奪うようなことに手を出すのか、通常人は理解に苦しむだろう。しかしおそらくその著名人に覚せい剤使用の罪悪感はない。それは覚醒剤が彼の報酬系を刺激して快感を生み出すからだ。そのように報酬系が条件づけられてしまったからであり、そうなるとその著名人は覚醒剤の使用を正当化する。ある人は覚醒剤に再び手を出したときにこう思ったという。「こんなに苦労して人生を歩んでいるんだ。ほんのひと時自分にご褒美をあげてもいいんじゃないか?」そう、彼にとっては覚醒剤は安らぎ、ご褒美なのである。ちょうど疲れ果てた体を沈める暖かい布団のように。完全に善なるものなのである。そしてこれはその人の主観にとっては全くその通りなのである。

2020年12月30日水曜日

死生論 28

 昨日の話をもう少し続けよう。私自身不思議に思っていることがある。私は目標を持って生きていると思う。たとえばAという夢をかなえたい。ではどうしてAなのか?私のAはほかの人に話しても「ふーん」で終わりである。「それは素晴らしい」、「私もそれをかなえたい」、という反応は普通は聞かれない。そんなことになんで時間と労力を使うの、という反応を受けるのがふつうである。(だから人に話すことはあまりない。)ではその人に人生の目標を聞いてみると、それ(Bとしよう)はたいてい私にとってはどうでもいいことなのである。そして人それぞれがA,B,C・・・という異なる目標を持つからこの世は平和に成り立っているというところがある。例えば多くの人がAを共に目指していると、それなりにいいことはあっても、たいていは過酷なライバル同士の競争が生じるだろう。
 ここで不思議なことは、私にとってのAはとても大事で、それに対する faith を持っているということなのだ。私にとっては絶対に感じられるし、そこに価値を見出している。それは自分が生きている、ということと関係しているという感覚を持つ。Aに価値を見出さないのは、物事をちゃんと判断していないからだとさえ思う。自分のように正確に物事をとらえたら、必然的にAを目指すであろうと思っているところがある。そしてもちろん、それは私自身の思い込みであろうということは知っているのだ。これは明らかにパラドックスだ。でもこのことを人はあまり考えずに生きているようだ。自分の目指しているものこそ、本当は価値があるのだ、と思い込む。それはフロイトにしてもそうだった。

 フロイトは性愛理論に対してfaith を持っていた。だからあれほど力強くそれを主張し、それを信じないユングやフェレンチ、その他大勢の弟子たちと袂を分かった。自分の性愛理論の誤りのために寂しい思いをしているとは考えなかったのだ。それは彼がその理論に faith を持っていたからだろう。

人は「これは確かなことだ」と思えることがあり、それに向かって生きる。それに近づいているという感覚が得られればそこに生きがいが生まれる。生きがいを感じるということは、ある意味では死から一歩遠ざかるとともに、そこに向かっているという性質を持つ。なぜなら「これをすることで、死ぬときに感じる後悔が少しなくなる」と思うことが出来るからだ。

私はA以外のこと、例えば一日中ゲームをしたり、山登りをしたりすることはないだろう。もちろんそれが生活費を稼ぐ手段であるならば別だが。それらのことをやっていると必ず「自分はいったいどうしてこんな無駄なことをしているのだ」と感じるだろうし、それだけ無駄に死に近づいていると感じるからだ。

2020年12月29日火曜日

死生論 27

 さてここまで読んできて一息つきたい。私たちが本当に恐れているのは死だろうか。今更どうしてそんなことを蒸し返してくるのかと言われるかもしれない。ベッカーの本を読んで、Kの主張を聞いているうちに、それは当たり前ではないか、と言われそうな気になってきた。私は自分の肉体に起きる一番恐ろしいことを想像してみる。それは明らかに激しい苦痛だろう。私はおそらく中世のフランスのように、ギロチンにかけられるのは恐ろしい。自ら行う切腹も、その後に介錯を受けるのもとても恐ろしい。絞首刑も恐ろしい。それは私が臆病だからだろうか?
 ところがもし同じ死刑でも致死量のバルビツールやモルヒネを静脈注射されることを想像しても、絞首台の前に立つような恐ろしさはないと思う。後者のようにまず意識が遠のくことから始まるのであれば、それはちょうど胃カメラを飲むときにかけられる鎮静のように、眠っていくだけだ。もちろん自分の存在が消えることへの不気味さはある。しかしそれは苦痛への恐怖、ということとは違う問題、もっと実存的な問題だ。
 そう、私にとって間違いなく恐ろしいのは想像できない苦しみである。理論的にこれが恐ろしくない人間はいないだろう。人は痛みや息苦しさといった体験を知っている。それからすぐにでも解放されたいという苦痛を覚える。それを何倍も、何十倍も増幅された状態を想像すると、それほど恐ろしいことはないことになる。これを恐ろしいと感じないとしたら、精神的な異常をきたしていると思われても仕方ないだろう。恐ろしいことをそうと感じ、警戒し、回避することなしにはその人は生命を維持することは出来ないはずだからだ。
 このように考えると、死への恐怖は二つに分かれるような気がする。一つは耐えがたい苦痛への恐怖。もう一つは実存的な恐怖。人は死への恐怖の際にこれらを混同する傾向にあるように思う。人は極度の苦痛に見舞われ、その果てに死んでいく、という図を描きやすい。そのような死こそ私たちは恐れるのだ。
 思考実験として、実存的な死への恐怖のバリエーションを考える。とても長い間人口冬眠状態になり、例えば一万年後に冬眠から覚めるという保証付きで眠りにつくとする。これは死の恐怖とどのように異なるのか。私にはこれはかなり平気に思える。あるいはあなたは眠りにつき、再び目覚めるが、別の身体を持ち、今の人生の記憶も持たないとしたらどうか。この条件なら怖くないという人もいるかもしれないが、それは死ということとおそらく事実上何も変わらないであろう。321、ゼロで遠い世界の誰かに一瞬で入れ替わるとする。他方あなたの肉体は生き続け、しかし誰かの魂がのっとっているとしよう。それは恐ろしいことだろうか? あなたは元の自分のところに出かけて行き、話しかけてみる。あなた(の体の持ち主)は、急に話しかけてきた相手があなた自身の生まれ変わりだということを知らずに警戒するだろう。しかしそれはあなたがそのようなわけのわからない人に出会ったという現象とどこが違うだろうか? このように考えると、死は理論的には少しも恐ろしくないことになりはしないか?私が私であるという感覚は、目の前のあなたがあなた自身であるという感覚と少しも変わらない。ひょっとしたらペットのワンちゃんが自分は自分であるという感覚(ワンちゃんなら自意識を想定することが難しいとしても、生きている、という基本的な感覚はあるとしよう)とも変わらない。そのあなたが死ぬということは、今どこかで誰かが息絶えるということと、現象としては少しも変わらない。このように考えると、人が死ぬことは、実は少しも恐ろしいことではない。全く自然なことだ。もしそうでなかったら世界で、あるいは地球上で各瞬間に数限りない生命が消えていくことはとてつもないことになる。しかし人が死んだら皆それなりに驚き、涙を流し、そして死体があっという間に処理されてその人が行っていたことの中で継続が必要とされることについて誰かが任務を引き継いでいく、それだけだ。それはあまりにもありふれたことで、それを専門にする業者がそれを生活の糧にする。逆に人が死ななくなったら、老人ホームはたちまち満杯になり、葬儀屋は倒産し、それぞれの自宅にはほとんど寝たきりになっているだろう何代もの先祖様のベッドが増えていき、江戸生まれの曽々々祖父はもう数十年も人工呼吸器につながれ・・・・考えるだけでも恐ろしい。
 他方では、あなたは死んでもそこですべてが消え去るわけではない。あなたが死んでも人はあまり変わらないのだ。あなたが死んでも、他の人はあなたのことを記憶しているだろう。あなたの遺品を目にすることがあり、その残した文章を見てあなたを思い出すだろう。世界はあなたが死んだことによってもほとんど変わらずに継続されていく。通常私たちはいかに有名だったり大切だったりする人でも、その人が生きているかどうかにはあまり関心がない。
 例えば夏目漱石は49歳で死んだが、当時はそうではなかったとしてもかなりの早死にと言える。でも彼がそれほど早く亡くなったとしても、私たちが知っている夏目漱石は何も変わらない。私たちは彼の写真でよくみられる頬ひじを突いたり、千円札の中でこちらを眺めている彼のイメージと、彼の作品集を通して彼を知っているにすぎず、またそれで十分なのだ。彼が早死にしたことで、長生きしたら生み出したであろうたくさんの幻の作品のことを思い、涙するということはあり得ない。あるいは一世を風靡した芸能人についての思い出を持っていたとしても、今はおそらく生きていたら80歳代になるはずのその人が存命かどうかはおそらくどうでもいいのだ。
 なんだかベッカーの死の恐怖の話は少し違うような気がしてきた。人間が抱える実存的なジレンマとは、自分が死んだらどうなるか、という、ある意味ではこれほど答えがはっきり見えていること(つまり死んでも何も起きないということ)がどうしてこうも私たちを悩ませるのか、と言い換えるべきではないのだろうか?
 死はしっかり考えたら恐怖の対象とはならない。それを回避するから恐ろしく感じるのではないか。

2020年12月28日月曜日

死生論 26

 次の章でもベッカーはフロイトについてかなり過激なことを言っている。フロイトは患者が治療者に持つ不気味 uncannyな愛着を転移と呼び、それを催眠現象に人がかかる不思議さと同じものと考えたという。ベッカーはしかしこれも人間の本性、すなわち死を否認するという傾向から考えると不思議な事ではないという。そしてそのことをフェレンチは見抜いていたと論じる。そして彼は、子供は全能の親を信じそれに屈するという傾向を持つが、それはすべての人間が持ち続ける傾向だという。この全能の存在と一体となりたいという願望については、まだ私にはピンとこないが、読み続けよう。要するに私は防衛が強い、という事だろうか。

 ベッカーはこの問題に最善の示唆を与えているのが、フロイトの「集団心理と自我の分析」という論文というのだ。そうか、ベッカーはフロイトを評価している部分もあるのだ。フロイトが見抜いたのは次の点であるという。人間はちょうど子供時代に全能の親に同一化したときと同じように、自らの自我を捨てて集団に従うのだという。ちょうど催眠術師の声に従うように。人は力強いリーダーに付き従いたいという強烈な情熱を持つというのだ。そうだね。私が藤井聡太君のような掛け値なしの天才のファンになり、追っかけたくなるのはそういう意味だろうか。同一化の対象としてスーパーマンを求めるという願望は確かにある。そしてこれは太洋感情を希求することでもある、というのだ(p.132)
 結局ベッカーが言いたいのはこうだ。フロイトの転移の議論は、私たちが自分たちを従属させるような対象を常に求めていることに関連している。そしてそれはネガティブな意味でもそうだという。誰かを憎しみ、何かを破壊する際、私たちは対象をそこに見出しているのであり、それは完全なる孤独から私たちを救ってくれるのである。そしてベッカーは言う。転移とは一種のフェティシズムである、と(.144)。そしてこの問題について真正面から取り上げたのはオットー・ランクであるという。彼の生と死への恐れの議論のことである。ランクは言ったという。「大人は死や性愛への恐れを抱くかもしれない。でも子供は生命そのものへの恐れを抱く。」そしてそれが彼の「出生のトラウマ trauma of birth」につながるのだが、これはフロムの「自由への恐れ fear of freedom」にも関係しているという。なかなか勉強になる。

2020年12月27日日曜日

死生論 25

 


ところでこのベッカーのthe Denial of Death という優れた本は、日本語訳があるのか。調べないようにしていたのは、もし訳本が安価で手に入ることが分かった場合、そちらを求めてしまうかもしれないと思っていたからだ。しかしアマゾンで調べてみると、何と48,000円の値段がついている。やはり無料でダウンロードして英語で読むのが一番近道という事になる。ちなみにこの種の本、専門書扱いであまり発行部数がなかった著書の場合このような高値が付くらしい。

 さてKについての章の後半でベッカーが語るのは、最終的に人が至るべきなのは faith だ、という事なのである。やはりそこに来るか。そしてこの部分はフロイトの「死の味見 foretaste of mourning」の話にもつながるのだが、このように書いてある。死がそこにあるかのように味わえ。貴方の生きた身体の舌がそれを味わった時だけに、自分が死すべき創造物であることが分かるのだ。As Luther urges us: I say die, i.e., taste death as though it were present. It is only if you taste death with the lips of your living body that you can know emotionally that you are a creature who will die.

これにはウィリアム・ジェームスも賛同して同様のことを記載しているという。そしてこれはLutheran theory ルター理論とも呼ばれているらしい。そしてKはこれを究極の超克と呼ぶという。Kは言う。人が究極の力との関係性を考えた場合、最終的な自由に対して開かれる。そしてそれがfaith 信じることであるというのだ。しかしこうなると、faith とは何ぞや、という事になる。辞書的に言えば、complete trust or confidence in someone or something. 誰かや何かに対する完全な信頼や自信。要するに疑わないこと。
  しかし私にとってはfaith という事で真っ先に頭に浮かぶのは、フロイトが自らのリビドー論に持っていた盲目的な確信だったりするのである。それはある種の感情を伴ったものであった。彼はその正しさに faith を持っていたのだ。(しかしこう考えると揺らぎとはこれと全く逆という事になりはしないか。) Faith とは私たちがそれに身をゆだねることに近いと言えるが、それが死すべき運命を自覚するという事とどのようにつながるのだろうか。これについての私の考えは、死を可能な限りにおいて想像し、味わえという事だ。“ I say die, i.e., taste death as though it were present  と書いてあったではないか。そうするためにはもう混じりけのない心、faith しかないという事だろう。しかし次のようにも言えないだろうか。自分は○○である。自分は人としてのプライドがある、などの思考は、ことごとく「囚われのヒロイズムprison heroism (p.87)なのだ。という事は徹底して謙虚であれ、という事か。自分をアリンコと思え、というわけだ。そうか、感謝、アリンコ、faith 謙虚さ、という事らしい。


2020年12月26日土曜日

死生論 24

 Kは死すべき運命に直面した人間が取る三つの反応について論じている。その前の前提として強調するのが、「限界性は制限するファクターであり無限は拡張するファクターだ(P.76)」という事だ。そして抑うつは過剰な必然であり過剰の限界であり、そのために内的な自由さや象徴的な可能性を有しないことになる。そして精神病はその逆であるという。ここで私にはピンとこないのだがKが主張するには、人は卑下や他者への降伏も、それとは逆の他者から孤立して自由になることも、方便としてありうるという。つまりうつや精神病のように極端にまで推し進められない状態といえよう。それが彼らにとって一種のシェルターになり、そこで安心感を得ることが出来るからだという。私はこの点が今一つ理解できたことがないが、いろいろなケースと話していると、あまりに自分を責め、自分を脱価値化する人が多い。するとこれはある種の防衛と考えざるを得ないのであろう。自分はダメな存在であり、罪深い存在であると信じることがどの様に死への不安と関わっているのだろうか。自らが自由を失い生命体としてのあらゆる頸木にがんじがらめになっていると信じることがどうしてその人を庇護することになるのだろうか。この本の80ページあたりで、ベッカーは熱っぽく強調しているのが、そのように信じることで、独立を回避することが出来、なぜならそれこそ彼らに死を迫るからなのだというのだ。ファルスを有することは、すなわち去勢の不安を掻き立てる、という事なのだろうか。そして通常の私たちはペリシテ人主義 Philistinism の位置に身を置き、すなわち抑うつにも精神病にもならずに凡庸さの中に生きる。ベッカーが言うように、ペリシテ人主義は「正常の神経症」と呼ぶべき状態なのだ。そしてKは、ペリシテ人主義がうまく行くのは、それが「些事により身を鎮める tranquilizing itself with the trivialからだという。」

さてKのフロイトに対する態度についてもかなり重要なことを言っている(p.86)。フロイトに関して、K はエディプスコンプレックスが敵であるという。子供は脅しに抗して自分のプライドを守る。それは一種の鎧になるのであるが、それは彼を囚人の位置に閉ざしてしまう。しかし人はそれがいかに安住の位置かを知っているのだ、という。彼はそれ以外の選択という事に恐怖を感じるのだという。それにより彼はある一つのことだけを否認する。それは獣性 creatureliness であり、それは恐怖なのだ、と。そしてその真実を意識することで人は自らを超克し、最終的な成熟に達することが出来るという。

2020年12月25日金曜日

死生論 23

  Kierkegaard はいまや哲学の分野で新しく光が当たるようになっているという。それだけでなく、彼は精神分析家であった、とベッカーは言うのだが、これはどういうことか。ベッカーさんはKierkegaard (以下、K)を掛け値なしの天才としている。彼の議論は失楽myth of the Fall の話から始まるという。それは人が自意識を獲得し、自分の運命を恐れることになった瞬間を意味し、それはフロムが「人間の本質」と呼んだものである。Kはこれをsynthesis of the soulish and bodily というのだが、どう訳せるのか。魂性(読めない)と身体性の統合、とでもいうのか。アダムが知恵のリンゴを食べたときに神が「お前は確かに死ぬ」と宣告して以来の人間の宿命。Kによると人はこの絶滅に対する恐怖を回避するために性格を形成する。精神分析が考えたように、心理学とは人が不安をいかに回避するかをめぐる学問であるという。Kはこの死ぬべき運命を意識することを回避する手段として、half-obscurity とかshut-upness とかの言葉を用いたり、そのための強迫的な性格について論じたりしたというが、これは精神分析における防衛機制と同じ議論だという。 それでKが精神分析家だったという意味がようやく通じたことになる。 ここら辺から議論は、Kがこのshut-upness を論じるとき、これは一種の自己欺瞞のことかと思える。The lie of character とも訳されるようだし。人が真実に目をつぶることを意味し、それはinauthentic 不誠実でもあるという(p.73)。結局これはサルトルが言う自己欺瞞mauvaise foi にもつながる。フロイトの抑圧よりはこちらの方が人の心の在り方を表現している。そしてこれはKのshut-upness (グーグルで調べたら「閉じこもり」という翻訳が出てきたぞ。これで行くか。) フロイトが言う「否認denial」ならまだ近いか。

Kは人間は有限 finite と無限 infinite との統合であるという。無限の苦悩infinitude’s despair という言葉を用いる。これは人間が無限に投げ出されて、一種の狂気に陥ることをも意味する。精神分裂病は彼によってはこのようにとらえられていたというわけだ。

2020年12月24日木曜日

死生論 22

 ともかくもこの本は反精神分析的である。フロイトはその人生の終わりに近づくにつれ、アドラーが言っていたこと、すなわち子供を悩ませることは、自分の内的な欲動ではなく、世の理(ことわり)の不条理さなのだ、ということを理解するようになったという(p.52)。これには私は同意する。フロイトが性愛性という拘りを引きずる限りは、結局死生学についても真に価値あるものを作ることは出来なかったのかもしれない。もちろんそこまでは書いていないが。子供が身に着けるのは自らの不能impotence を意識から消し去ることであるが、それは死を回避することができないことのみならず、独り立ちすることの恐怖を抑圧することだ、と言っている。この独り立ちすることの恐怖、というのはマズローも言っているとベッカーは書いているのだが、私にはピンとこない。ひとり立ちすることは不安でもあるが、快感でもあるからだ。そのマズローであるが、十全な人間らしさを楽しむことが人生の目的であるというか書き方をしているが、ベッカーに言わせると、十全たる人間らしさとは、恐れと震えを、少なくとも日常の一時ではあれ体験することなのだ、という。

これに続くベッカーの議論は私なりに飲み込むことができる。彼はフロイトが考えた人間の運命、すなわち性的欲動や攻撃性といった動物的な本能にとらわれた人間という理解は人間の本質をとらえているのではなく、むしろ人の不条理な在り方、死すべき運命をその本質部分としてとらえたアドラーやランク、そしてサールズを称揚する。サールズの唱えた分裂病の在り方はその意味では理にかなっている。彼らは神経症者が持っている防衛、すなわち死すべき運命を否認する能力を欠いているために、常に不安にさいなまれているという。神経症者が容易に受け入れる社会規範やバイアスを持てない彼らの不安や苦悩はそれだけ甚大だというのである。

さてこのような議論の後,ようやくキルゲゴールについての章(5章)に入る。

2020年12月23日水曜日

死生論 21

 エディパルな問題の解決は結局は神になることにより達成されるのだという。これもとても示唆に富む表現だ。もちろん父親殺しは実際には達成されないし、されるべきではない。しかしそれにより子どもはファンタジーの中でしか父親に勝つことは出来ない。それは自らが自らの父親になることだ。つまり不死の問題は結局はエディプス葛藤を克服するうえで生じてくるというわけだ。ベッカーはこの問題がナルシシズムの本質であると説く。現在はあまり意義を与えられなくなりつつあるフロイトの第一次自己愛は、1985年のベッカーの本では重要な意味を持っている。このようにして口愛期、肛門期もこのレベルの問題であり、それは総じて第一次ナルシシズムというフロイトの表現した段階に対応しているとする。特に肛門期は自分と体とが対峙し、子供は身体を支配し、それを通じて世界を支配する。それ以前の肛門期は、自分が世界を飲み込み、吐き出すという、身体性を描いたさらに誇大的なファンタジーを生むわけだ。いずれにせよそこに他者は入り込んでこない。関係論的に言えば、あるいは乳幼児精神医学の立場からは、子供は生まれ落ちた時から母親との関係性を生き始めると考えるのであろうが、第一次ナルシシズムはまだそこに至っていない。そこには他者が視野に入ってくるはずであろうが、それは自分と同じような心を持った存在としては認識されていないのだろう。ウィニコット的に言えば、環境としての母親、言うならば道具としてそこにある母親ということになるだろう。

そして去勢不安。ベッカーはこれは母親への依存と同時に生じてくる必然であると考える。生物学的な依存を安全な形で得るということは、根本的な脅威を意味する(p.38)。なぜならその依存対象が消えてしまうことは子供の死を意味しかねないからだ。母親が愛情を撤去するという脅しはまさに去勢の脅しであるという。ところがブラウンが言うには、この脅しはまた子供が自ら作り出したものでもあるという。なぜなら母親が脅威になるのは、子供が自分を主張することによってだからだ。(まあ、もちろん母親が子供の自己主張をある程度喜んでくれるからこそ子供は育つことができるわけだが。ここでは少し極端な言い方をしている。)

Take stock of などという表現が出てきた(p.47)。「棚卸をする、詮索する」という意味か。まだまだ知らない英語の表現があるな。英語道の道は長い。

2020年12月22日火曜日

死生論 20

  では死の恐怖はどのように処理されるのか。ここでベッカーは抑圧というプロセスを挙げる。子供は死の恐怖をごく自然に有するが、そのうちそれは抑圧されるようになる。と言っても抑圧は単に何事かを遠ざけるだけではない。それは私たちの生のエネルギーを用いて、死の恐怖を無視し、あるいは生の展開するプロセスの中に吸収させるという。そしてそれだけでなく、死への恐れは変形 transmute される。形を変えるというのだ。例えば子供は親と同一化することでその抑圧が成就するという。そして親が、周囲の人間が平気で死を抑圧しているのに同一化し、それを自分のものとする。皆が死を克服していることで、その人と同一化することで死への恐怖は抑圧されうる。(逆に「私は全身癌だけどヘーキよ。どうせ人は死ぬんだし。遅いか早いかだけよ。」という樹木希林さんの言葉により、いわばその人に同一化することで、死への恐怖は軽減されたと体験する人もいただろう。)これをウィリアム・ジェームスはこう表現したという。「その瞬間に生き、無視し、忘却する奇妙なパワー。Strange power of living in the moment and ignoring and forgetting」。ベッカーは精神病でこの抑圧の機制が効かなくなることで死の不安が強烈に迫ってくると書いてある。これは抑うつ状態についてもいえるかもしれない。何事かに没頭できなくなることは、それだけ死の恐怖をなまに感じることにつながるわけだ。

そこで再び実存的なジレンマについてである。あらゆる哲学者がこれを扱っている。キルケゴール、ユング、フロム、ロロ・メイ、マズロー、サールズ、ノーマン・ブラウン、などなど。(フロイトが出てこない!?) このパラドックスのことを私たちは 「individuality within finitude 有限の中の個」と呼ぶことができるという。ノーマン・ブラウンによれば、この自己と体の問題が、フロイトの肛門期の問題として見事に説明されているというのだ。彼によれば自分が排泄するという事実もまた否認される傾向にあるということか。何しろ排泄物は破壊や死を表現しているからだ、という。

さてフロイトに関する議論では、エディパルプロジェクトというのが重要概念らしい。しかし子供が母親に対する欲望を持ち、父親を殺したくなるというストーリーに現実味はなく、むしろそれに対するオットー・ランクの立場の正しさを雄弁に論じたのは、またしてもノーマン・ブラウンであるという。そしてエディパルプロジェクトとは結局は、子供が自分がこの世でか弱い存在、一人では生きていけない存在なのか、それとも独立した人間としての立場を獲得するのかという問題だという。ところが…・である。ベッカーはここからすごい方向に論を進める。エディパルプロジェクトとは、つまるところ自分は神となるか、というcausa sui の問題に行き着くという。エー?

そういうことなの?

2020年12月21日月曜日

死生論 19

 アーネスト・ベッカーを最初から読み進める。私の知りたいことが書いてあるのだ。最初の方から読むと、ベッカーはオットー・ランクの業績は出色であるという。彼はフロイトよりははるかにランクを評価しているのだ。ここら辺の意味も先を読んでいくとわかるのだろう。

ベッカーが本書で最初から論じているのは、人間のヒロイズムであり、自己愛である。ヒロイズムによって私たちは至近距離からの弾丸が飛び交う線上に飛び込むことができる。あたかも不死身のように。そう、ジェームズボンドのような行動は、自分が不死身であるという幻想なしには取れないのだ。そしてベッカーは言う。私たちを突き動かしているおおもとのものは死への恐怖である、と。だから死に対する恐怖を克服した人間には私たちは賛美の念を向けるのだ。三島由紀夫がそれを目指したように。そしてこのテーマに関する文献はおそらく膨大なものがすでにあるという。昨日紹介したノーマン・ブラウンLife Against Death などはその例であるという。そしてそれをキルケゴールにさかのぼってまとめ上げようというのがこのベッカーの野心なのだ。

精神分析関係でこの種の議論にとって示唆的なのが、Zilboorg の論文であったという。ボーダーラインの初期の論文で聞いたことがある名前だ。彼が言っているのはすごくもっともなことだ。生命体は、死への恐怖を保つことなしには自らの生命を維持できない。しかしそれを常に意識することは出来ない。そうすると機能できなくなってしまうからだ。何たる至言。しかも生物学的にも意味が通る。こんな議論にはついていけるのだ。そして精神の健康度とはおそらく死への生物学的に支えられた恐怖心に根差したものということになる。ただしそれにとらわれ、生きていくことの意味を失うような状態に陥っては仕方がないのだ。そしてこの部分を読みながら、私は初めていわゆる「実存的なジレンマ」という意味が分かった気がする。64歳にもなって、である。ちなみにこの64歳という数字、本当に嫌である。私は世の中の64歳の人間のことが嫌いである。だって老人ではないか。でも私もその一人なのである。これも実存的なジレンマだろうか。ということで冗談はともかく、人間は不死を想像することができるし、宇宙の果てまでもそれなりに思い描くことができる。ともかくも象徴を用いることで、心は無限を包含している。椅子という概念を持つことで、世界中のあらゆる椅子を、人類史が始まって以来つくられ、また人類の最後に作られる椅子そこに含むことができる。でも同時に私たちはこの有限の肉体にがんじがらめにされ、心臓の血管が詰まっただけで、命が尽きてしまうほどにどうしようもない生き物である。

 

2020年12月20日日曜日

死生論 18

 Ernst Becker を読み進める。やはりいい本は読みやすい!さすがピューリッツァー賞受賞作品だけある。おそらく日本語訳もあるだろうが、ただでは手に入らないはずだ。著者はフロイトはどうやら霊魂の存在をどこかで信じていた可能性がある、という議論を展開する(P.108)。 無意識では不死を信じて、意識的には唯物論的な科学者であったという、一種の葛藤があったというのだ。これでフロイトの「無意識は不死を信じている」という言葉も意味が通じるのだ。フロイトは19182月に死ぬという予言を信じていたところもあるが、その月が何事もなく過ぎると、「ホラね、超自然現象などあてにならないのだ」、と言ったというが、その種の手のひら返しはフロイトの学問的な意味での不誠実さの表れだとベッカーは書いてある。分析関係者ではないだけにフロイトに忖度はない。 フロイトはこんなことも書いているというのだ。「私の迷信の信仰には、抑制された野心(不死)に根差しているmy own superstition has its roots in suppressed ambition (immortality).」 えー?そうなの?不死を野心として持つな
らば、やはり死への不安が彼の心の根底にあると考えてもいいのではないのではないか? さてベッカーの分かりやすい文章も、ここからその本質部分に迫るのだが、基礎知識に欠ける私には難しい。彼は言う。「ではそのことを野心として持つならば、どうして不死や迷信を信じ、それに自らの信念を譲ろうとしないのだろうか、とある。What makes the matter of yielding an ambivalent one, so difficult for Freud? それは人間が自分自身の父親になるという願望であり、これをある学者は「エディプス的な計画 oedipal project」と呼ぶそうだ。そしてここで causa-sui (キャウザスイ、と発音)という言葉が出てくる。自らが自らを生むという意味で、スピノザ、フロイト、サルトル、そしてこのベッカーが多用した概念であるという。辞書的には「
【自己原因】自己の存在が他のものに制約されず、みずからが自己の存在原因となっているもの。スコラ哲学での神、スピノザ実体(神)など。自因。」とある。フロイトのyielding 降伏しないというその姿勢そのものが、不死を野心として持っていることであり、私たちが最も大切にすべき姿勢、すなわち私たちは自分たちだけでは自らを支えることが出来ず、外の力に頼っているということを書いているというのだ。いわゆる bootstrapping という事だろうか? そういえば精神分析にはこの、自らの靴のかかとのつまみを引っ張り上げることで自らの体を浮かすという無益な試みのニュアンスがある。(ところでNorman Brown

Life Against Death もこの死生学についての必読書らしいな。1985年の書。原書はものすごく高いが、英語版のWikipedia に相当詳しい解説があるので、これを使わせてもらう。)ここに書かれている一連の問題は、要するにフロイトの自己愛の問題という事だが、それが死生学にまでつながっているとは知らなかった。段々深みに入っていくようだ。

2020年12月19日土曜日

死生論 17

 ところで、である。実はこの死生学 thanatology の分野ではある種のとても重要な本があることをつい最近知った。Ernst Becker の「死の否認The Denial of Death」。 これがネットではPDFとして出回っている。さっそくただでダウンロードしてみた。この第9章「フロイトの性格の問題」あたりを少し読んでみよう。結構強烈な書き方がしてある。フロイトは性愛性が抑圧される最たるものだと言った。ユングはフロイトについていけない一番の原因として彼の性愛説を挙げた。ユングが最も大切にしている精神性spiritualism を、フロイトはセクシュアリティの抑圧の結果生まれたものとする。しかし・・・・とベッカーはこともなげに言う。人が一番抑圧しているのは、死の意識化である、と。そうか、この「死の否認」という本が言いたいのはまさにそのことだったのだ。

ベッカーの主張は、フロイトの説の本質は回避性であり、死についても二つの意味で回避的であったという。それが「死の本能」に表れているというのだ。1920年の「快楽原則の彼岸」に出てきたこの理論は、彼がリビドー論の理論に整合性を与えるために、二次的に打ち立てられたものだという。この死の本能、そしては生物としての攻撃性を措定することで、人の快楽追及的なもの以外の行動を説明することが出来、ある意味ではリビドー論を保存することもできたのだという。そしてその意味でフロイトは実存主義的な議論に入ることが出来なかった。キルゲゴールなどに見られる、死への不安を人の人たる所以と考える立場とフロイトは異なるという主張は、なるほどもっともなように感じる。そしてこの批判はオットー・ランクにもみられたという。死の本能を持ち出すことで、人間が皆持っている死への不安は議論されたくなってしまうのだ、とランクは言っているというのだ(p.99)

ベッカーの本を読んで、急に目の前が開けた気がした。

2020年12月18日金曜日

死生論 16

 


 

 この最後の部分、すごく洞察に富んでいるように思う。喪を終えた後に残るのは創造物である、と。えー?そういうことなの? ここだけでも論文が成立しそうな内容が詰まっているではないか。私は喪を終えたときに残るのは感謝だと思っていた。あるいは感謝が喪を進める、と言った方がいいだろうか。この文脈が全く出てこないなあ。その代わりに創造か。

創造は昇華であるというのはわかる。昇華とは自分自身や社会にとって益となるような葛藤の解決の仕方である。芸術家が怒りを絵に描き表す。作曲家が曲を作る。舞踊家がそれを踊りに表す。それが一般の人に感動を起こすなら、それは昇華となり、芸術となる。いずれもそれは形に表されることであり、たとえば怒りの対象そのものはそこに吸い込まれ、消えていく。そうか、喪の作業というのをあまり複雑に考えることなく、失われたものが形となることと考えるとわかりやすいのではないか。亡くなった人の代りに形見の品を抱く。それにより死者を偲ぶ。形見の品を眺めて手に触れることで死者に触れて心が少しでも安定につながるのならば、それは喪の一部がそこに成立しているということだ。もともと喪は貫徹しなくてもいい。死者の生前の写真を眺めてそれで満足できないとしても、少しは心を安らかにするなら、それは喪のほんの一部であっても成立しているということだ。そうでないとその写真を眺めることが恐ろしかったり、無意味に感じたり、破り捨てたくなるはずではないか。でも写真を眺めたくなるとしたら、やはりそれは喪なのだ。

するとこのように考えることができるだろうか。思い出の品はその人だけにとっての芸術品であり、創造物ということではないだろうか。もし創造がそれまで存在しなかった物事(思考、ファンタジーその他の形にならないものも含む)同士の連結であるならば、思い出の品は、あるいは記憶は、死者とその表象の安定した形での連結が成立したということになる。Pollock の言う「痛みを取り除かれて適切な形で過去に安置された記憶」というのはトラウマ記憶との違いでとても分かりやすい。トラウマ記憶は過去に安置されていないのだ。だから喪は終わっていない。となるとトラウマの治療は喪の作業を進めること、でもあることになる。

ところで喪の味見、すなわち将来失うものの喪を進めておく、ということはフロイトの言葉、すなわち戦争と死の時評に確かあった「生を乗り切るためには、死に備えよ」という言葉にあわされていて、実はフロイトにとっての作品とは喪の作業ではなかったか、ということである。フロイトがなぜ書いたものが気に食わない時に、後世の目に触れないように焼き捨ててしまったのか、ということもこれで分かる。フロイトは死後にどう見えるかを常に考えていたことになる。こうなると小林秀雄の「死んだ者は美しい」というのも、それは小林がしっかりその死者の喪の作業を行った結果として得られた境地ということだろうか。誰にでもいえることではないということになるだろうか。

少し構想がまとまってきたのだろうか。議論の一つの焦点は喪の味見 foretaste of mourning についてであり、それはフロイトが一生をかけていたことであり、それは芸術につながり、ある種のユートピア幻想につながるようなもの。フロイトの作品はその表れであった。フロイトの「やがて消えてなくなるからこそ美しい」は、消えるからこそ私たちが喪の作業を既に行い、心の中で桜の花を昇華させるということを意味するのではないか。消えてしまうとわかっているものを、私たちは先取りして心の中に置く。そこに桜の花が芸術や創造へと格上げされるからこそ美しい? フロイトはリルケを「喪に抵抗している」と言った。なくなるからこそその美しさを損なうという考えは、そこに喪のプロセスを欠いているからである。人生を限りあるものとして意識しつつ生きることは、今あることを思い出として昇華しつつ生きることにもつながる。この考えは小林秀雄に通じ、美しい作品になるように自分を仕立てていったところがある。それが理論の整合性であり、壮大さだったのだろう。

ここらへんで私が小林陵君と訳したHoffman の死に関する重要な章を読み直すことにする。人生をカウントダウンのモード生きる、ということについても確か書いてあった。感謝についてのヒントも得られるかもしれない。

 

2020年12月17日木曜日

死生論 15

  ここら辺の話になるとぐっとついていけなくなるのだが、我慢してついていく。精神分析の世界では知られる名前、例えばEdith Jacobson も Heinz Kohut も結局はこの路線であるというのだ。つまり死への恐怖を防衛することは、不死を信じることであり、喪を不要のものにし、それは理想的な両親像との融合を意味するというのである。ボーダーラインの研究で知られる Zilboorg などもこの不死の問題については相当書いているという。彼によると自己破壊や自殺さえも、それにより死者との合一、あるいは母親との再会を望む行為であり、 ある意味では不死に対する願望ともかかわってくるという。死なないために死ぬ、という矛盾した行為は、私たちの究極の恐れが死そのものというよりは、分離、別れではないかという考えを生むという。これって心中のメンタリティではないかと思っていたら、Ernest Jones はそのことを書いているそうだ。確かに誰かと心中するというのはその人と永遠に一緒につながっているという願望を満たす行為でもあるということか。想像したこともないが。Pollockはここで、要するに不死の世界とユートピアは平衡関係にあるというが、どちらにも共通していることは、「儚さ」の否定であることだ。そう、儚さの対極にあるのは不死であり、ユートピアというわけだ。ただこれについてはRene Spitz (これも超大物だ)がこう言っているという(p.346)。ユートピアであるということは完全であり、いかなる変化も許容しないということだが、それは静的であるということで、人は瞬く間に退屈で欲求不満に襲われてしまうのだ。それはそうである。人は新奇性を望む。そのためには安定しているものを破壊しかねない。それがそもそも私たちが持っている本能なのだ。こうしてユートピアは不可避的なジレンマを生む。ユートピアは必然的に矛盾をはらんでいるのだ。

この次の記述あたりから少しついていける。不死についての私たちの考えは、自分個人が生き延びるという考えとは別に、ある組織として、考えとして、芸術として生き残るという発想を生む。Pollock はこのことをUtopian immortality と呼ぶ。そして多くの革命家がそれを求めていたという話から、だんだん毛沢東とかレーニンの話に移ってくる。ここら辺は読み飛ばしていくと、なんと論文の最後の部分に達してしまった。最後にまたフロイトに触れている。フロイトは不死と喪の問題について書いているが、改めて気が付くのは、「喪の味見 foretaste of mourning」は「儚さを意識すること thoughts of its transience」と等価物であるということだ。そしてともかくも喪が貫徹し、それによりリビドーが回収された結果として残るのは、痛みを取り除かれて適切な形で過去に安置された記憶であり、それはまさに創造物であり、美的、科学的、哲学的な創造物と同じものなのだ、と結んでいる。(原文:What remains of the lost objects are memories, devoid of pain, appropriately appreciated and placed in the past- creatins in their own right, similar to aesthetic, scientific, or philosophical creations.)

 

2020年12月16日水曜日

死生論 14

  ところで私はある論文に行き当たった。George Pollock (1975) の、“On Mourning, immortality and Utopia” (喪、不死、理想郷について、 Journal of the American Psychoanalytic Association, 23:334-362.) これを手掛かりにしてみよう。彼はこの論文で「喪のプロセスは人間の適応にとって本質的な問題であり、それは系統発生にその起源をもつ the mourning process is essential for human adaptation and has its roots in earlier phylogenetic developments」と言っている。これを喪の味見foretaste of mourning の問題と関連付けながら考えよう。しかしそれにしてもこの論文は長い。サマリーからその要点を最初に抽出できないか。論文末のサマリーを読むと、「幼少時の喪失と後の喪のプロセスは、ユートピア的な理想に結びついているということをこの論文で示したい。その上で悲嘆反応と喪のプロセスを比較したい。」うーん、短くてよくわからない。人は理想的な死後の世界を想定することで生を乗り切る、ということか。彼にとっては、「喪の味見」は古代人にとっては必要がなかったということらしい。いわば死は終わりではなく、始まりと認識されていたという議論だろうか。よくわからない。結局本文に入っていくしかない。

ポロックは自分自身が深刻な喪失体験を20年前に体験したから、この問題を考え続けてきた、といきなり自己開示から入る。そして彼は肉親との死別体験を持った数多くの臨床例を引きつつ、この問題を考えて行くというのだ。また彼は死別体験が芸術家に創造性を与える、という主張ではないとは断りつつ、多くの芸術家にとって、死別が大きな影響を与えているとする。そしてさらに、死後の世界という概念が、私たちの理想郷に関するファンタジーに関係しているとする。実際の、あるいは象徴的な意味での不死が、理想郷という概念と深い関係があるというのだ。
 彼はフロイトの有名な言葉を紹介する。「私たちは皆、無意識では不死を信じている」(1915P.294)。結構批判されているフレーズだ。人は死を否認することは出来ないので、消滅ということの意味を否認し、そこから体と魂とに分けるという考え方が導かれるとフロイトは言う。最初はこの死後に残る魂については大した意味は与えられていなかったが、後に宗教により、生前の存在、生まれ変わり、といった概念が生まれたと主張する。フロイトはその後にも「不気味なもの」(1919)や「幻想の未来」(1927)などでこの問題に立ち返り、不死は死への不安を防衛するものだと言っている。しかし著者が言うのは、不死という概念は死への不安の防衛としての意味以外にも重要な役割があるということである。ここら辺が彼の主張につながってくるらしい。そもそも天国とか理想郷という概念は、人間が持つ子宮回帰願望だというのだ。死後の世界という概念は一種の共生段階への希求というのは、ポロックさんの主張として過去にも論文化されていたらしい。ここら辺は思弁的すぎてついていけないという気がするが、我慢して読んでいく。しかしそれにしてもこのテーマ、とても論文にまでまとまる気はしない。深い森に迷い込んだようだ。

2020年12月15日火曜日

死生論 13

 ここで想像するという事に結びつけて考えるならば、私たちに出来るのは、過去の幸せな体験を回想して楽しむことではなく、未来において失うことを生々しく想像することだということだ。過去の幸せを思い出しても、それらの体験はその人の人となりを形成する上での基盤にはなっているであろうが、その幸せは生々しく体験はされない。これは皆さんが各自実行してみればすぐわかることだ。ただし過去の記憶が時には極めてありありと想起されることがあり、それは例えばフラッシュバックにおいてである。しかし幸せな体験のフラッシュバックは起きない。過去は今の私たちを喜びで満たすことは出来ないのだ。

しかし私たちは通常は、過去のことよりは将来のことをより鮮明に思うことができるのではないか。私たちは将来失うことなら、自分の想像力をたくましくすることにより、かなりの程度に想像することができる。フロイトはそれを喪の先取りforetaste of mourning ドイツ語ではVorgeschmack der Trauer と言うそうだ)、と言ったのだ。Unwerth FRに関する書評には、「儚さとは物事についての喪失を、それが起きる前に体験することだ」とまとめている(Paul Sutton,2006)。人生でいかに喪の仕事をするかは極めて大事であり、しかもそれを先取りして行うことが大事なのだ。フロイトもザロメに対する書簡の中で言っている。「あきらめることが出来たら、人はどんなに幸せだろうか。」

喪の先取りについての私たちの力は限りないというのはどうしてだろうか? 例えば私は今のところ手足が自由に動く。しかし朝起きて「ああ、今日も両足で歩くことができる」と感涙にむせぶことはない。しかし下半身不随の人の手記を読み、また両足が麻痺した状態で毎日移動をし、仕事をするということは、私が想像力を発揮すればするほど思い浮かべることができる。私たちはしかしこれをほとんど、あるいはまったくしない。今現在持っていないもの、持ちたいけど持てないことについて嘆くばかりだ。私たちが現在の生の喜びを味あわないのは、この想像力の欠如によるところが大きいのだ。

2020年12月14日月曜日

死生論 12

 考えてみよう。人の一生にとっていくつかの大きな転機は、生まれること、卒業、結婚、出産、不慮の事故など、そして死、である。そしてそれ自体は受け身的に生じる出生や、突発的な事故を除いて、私たちはそれについて幾分なりとも予想をし、熟慮をする。しかし同じような構えを多くの私たちは持たない。

 死ぬ直前に私たちは自分の人生を思い出し、幸せな人生だったと思いたいだろう。もしその際に自分が病苦を背負い、孤独であっても、昔体験した幸せを思い出すことで現状の不幸を相殺できるだろうか? それは恐らく難しい。死ぬときに幸せでありたい、そうでなくては意味がないと私たちの多くは思うかもしれない。しかしこれは理不尽なことではないだろうか。私たちは人生で体験する幸、不幸を自在に配分することはできない。人生の前半で不幸を体験し、後半を幸福に過ごすかもしれないし、その逆のパターンもあるだろう。どちらも平均すれば同じ程度の幸福度を体験した人生であっても、前者のパターンの方が幸せに死ねるのは理不尽なことだ。もしこの理不尽さを解消することが出来るとしたら、人は過去の幸せだったころの体験を、今まさに体験しているかのように感じることが出来るような能力を必要とするだろう。ちょうど映画のビデオを巻き戻し(という様な表現もあまり意味がなくなってきているが)で過去に直接遡ることが出来るように。しかし私たちは決して昔の生々しい喜びを体験しなおすことが出来ない。必ず色あせてしまっているのだ。しかしそれを逆手にとって、私たちは想起の能力を高めることが出来るならば、私たちはこの問題を解決できるであろうか。でもこれは私たちが特殊な能力を獲得しない限りは無理ではないかと思う。

実は私はもう一つ別の想像力が決め手だと思う。こちらはフロイトが「喪の先取り」と称したものだ。それはどういうことか。

こんな想像してみよう。ある50代の働き盛りの男性が、突然死の病を宣告されるとする。彼と周囲は彼の将来に広がっていた大きな可能性が突然奪われることに衝撃を受け、深く嘆き悲しむだろう。ところがここでその男性が実は50代半ばで病気にかかり命をなくすという運命をはじめから知っていたと仮定する。寿命が決まっていてそれ以上は生きられないという条件のもとに生を受けるのだ。ごく幼少時に彼は55歳という寿命を聞かされる。はじめはその長さの感覚が分からない彼は、普通の人ならどのくらい生きるかを問い、例えば75歳と伝えられる。そして自分はかなりそれに比べて短いものの、そこそこの長さの人生を体験することを知る。彼の人生は最初からある条件付けがなされている。彼はそれをおそらくトラウマとは体験しないであろう。ちょうど運動能力や身長や知能レベルといった、一定以上に伸びることが難しいという条件のもとに生きるようなもので、彼はそれを受け入れつつ人生を送っていくであろう。それら自身が彼をそれだけ不幸にするとはあまり考えられない。

私自身の例では、私は将来絶対にフランス語が流暢になることもないし、身長180センチになって多くの人々を見下ろしながら闊歩することは絶対に出来ないことを知っている。しかしそれで特に不幸にはならないし、そうなりたいとも思わない。(昔はそれを望んでいた。) むしろ幸い手にしているいくつかの能力について感謝して、それを頼りにして生きる方が平和だと思っている。しかし私が高身長でないことは苦しみを伴わなかったわけではない。思春期になり、中学3年ごろになり、比較的遅いスパートの時期を迎えたクラスメートたちの身長が私をどんどん追い抜くのを感じながら、自分はどうしてこれ以上身長が伸びないのだろう、と不満に思った。私はそこで喪失体験を持ったのだが、この問題はもう「済ん」でしまっているのである。高身長としての私という理想的なイメージはすでに私の頭の中では失われ、その喪は終わっている。数多くの不足している事柄に私がさほど苦しまないのは、その喪を終わらしているからだ。私が苦しむのは、まだ持っているかもしれない、あるいは将来訪れると期待してきた事柄が得られないと分かったことなのである。

何事かに期待をしている限り、私たちはそれを失う可能性がある。そして余命、というのはまさにそのようなものだ。私たちの余命は通常定まっていない。刑の執行日が定められている死刑囚の立場でもない限り、それは少しでも長くなる可能性を常に秘めている。それだけに死は常に突然訪れ、理不尽にも人の命を奪っていくものとして体験されるのである。

2020年12月13日日曜日

死生論 11

 実はこの本(Unwerth FR(「フロイトのレクイエム))、読んでもよく分からないことだらけだ。ざっと読んだが分からないところは読み飛ばして一応最後まで読み終えた感じ。いろいろなところにクエスチョンマークを付けたいが、キンドルだから書き込みができない。(紙媒体のFRを買ってスキャンしてPDFにすればいいのだが、古本で買うと一万円近く値が張り、とても買う気になれない。しかしキンドルだと数百円で買えるので、それを読んでいるのだ。)

しかしそれにしてもFRをこれ以上読むことに意味があるのだろうか?私の理解力が追い付かない。そこで少し寝かせておいて、私の論文を読んだ「友人」のアドバイスを読み直して、この論文を書きなおせるかを検討したい。友人はこういう。「筆者は儚さとダイナミズムとホフマンの弁証法の議論を結び付けるが、早急で読者は詳しい議論の展開なしにはついてきてくれない」という。それはわかる気がする。「日本文化について面白い議論を展開しようとしているのなら、もっと参照すべき文献を挙げて欲しい。これでは短くてよく分からない」。それもわかる気がする。結局この論文の路線についてクレームがついたというわけではなさそうである。でもともかくもフロイトの「儚さ」論文が分析学界でどの様に議論されているのかについてもう少しきちんと論じなくてはならない、という事らしい。そこでとにかくもう少しFRを読み込むべきという事か。結局そうなる。

しかしその前に少し、この生死論の問題、自由連想をしてみる。
そもそもなぜ生死論なのか。それは精神分析において、これが最大で最重要の問題だからである。死の問題はだれも直視したがらない。死の問題を中心に据えた学問は、少なくとも大流行りはしない。自死を奨めたり賛美したりするような傾向は、表立っては論じられないだろう。せいぜい安楽死、尊厳死の文脈において議論の対象となるに留まる。しかし臨床場面は死の問題であふれる。クライエントから「死にたい」「生きていたくない」という言葉は私たちの臨床の一部である。もし精神分析が私たちが抑圧する心の内容に関心を持つとしたら、死の問題はその際重要問題と考えていい。フロイトももちろん死については深く考えている。そしてその見解は複雑に変化している。それがどの程度妥当なものかについての議論が、おそらく精神分析理論の中では大きなテーマとなっている。

死のテーマは私にとっても重要なテーマだ。これは私が関心のあるいくつかのテーマ、すなわち恥や対人恐怖の問題、自己愛の問題、解離の問題、関係論的な分析理論についてのテーマに加えて重要なものである。それはどうしてか。それは私にとっては死の問題はとても気になるからである。私はなるべくいろいろなことについて考えたい。私は自己欺瞞についてはとても気になるし、それをできるだけ回避したいと思う。あることを考えまいとしている時、考えまいとしているという事は自覚しておきたい。それさえも自分にあいまいにするのが自己欺瞞だ。そして死のテーマについて人はまさに自己欺瞞的な姿勢を有しているし、私もそうである。ではどうして死のことが気になりながら考えたくないかと言えば、死がやはり恐ろしいし、実感としてわかないし、考えないでいるのが楽だからだ。しかしこの問題を突き詰めて、それなりの方針を取ることでそれは別の意味を持ってくるのではないかと思う。少しはそれについての不安が軽減し、むしろ楽しみにすることもできるかもしれないではないか。やがて来る死を楽しみにしつつ毎日を楽しく生きる、ということが出来るのであれば、それは人間として望ましい姿だろう

2020年12月12日土曜日

死生論 10

 フロイトは芸術に関してリルケとは違う考えを持っていた。フロイトにとっては、芸術は精神分析の勝利を意味していたのだ。ある意味では神経症の裏側、と言ってもいいだろう。彼は昇華の例としてハイネの描いた不良少年について挙げているという。その少年は町で出会う犬のしっぽを片っ端からちょん切って喜ぶというサイコパス的な存在だった。しかし後に高名な外科医になったという。(この例はどうだろう? 私は個人的にはこの外科医にかかりたくはない。受けなくてもいい手術に関しても「切りましょう!」なんて言われそうだ。)

ともかくもフロイトは、私たちは自分たちの性的願望や攻撃性をうまく水路づけることで人の役に立つことができると考えた。文明とは本能や欲望の昇華の産物だというのだ。135ページにある文章を紹介する。「芸術は衝動を行動により処理するのではなく、空想や創造による象徴的な表現に変えるのだ!」 そしてこうも言う。「創造活動には、分析家は手も足も出ない。 Before the problem of the creative artist, analysis must, alas, lay down its arms.」 次の文もよくわからないが訳しておこう。フロイトは対象リビドーは、自分に引き戻され、自分の自我理想のために充てられることもあるという。つまりこの意味での自己愛は病的ではないのだ。「対象リビドーが変形され、世界の野心ambition in the world に用いられることを昇華という。それは世界にも影響を与えるだけでなく、自分の自己感をも高めるのだ。Sublimation, then, consisted in the transformation of love withdrawn from others into ambition in the world -an impulse that, at the same time it produced effect in the world, enlarged ones sense of self.

235ページ当たりではこんな書き方もする。フロイトは神経症者は葛藤を症状に変えるが、芸術家はそれを美に変えるのだ、と。しかしこれではどうもわからないことがある。私の個人的な見解ではあるが、創造性とはこれまでになかった要素の間のつながりという事だ。そこには偶発性が深くかかわってくる。しかしフロイト的には症状はあくまでも理論的に説明できるべきものだ。いかに奇妙な夢の内容でもそれを分析できるというわけである。その意味で症状と創造物をあたかも相反関係にあるものと見なすことは難しいのではないか。

2020年12月11日金曜日

死生論 9

 拾い読みをしているうちに、第6章の3部まで進んだ。著者はフロイトがいかにラマルク的な考えに染まっていたかを論じる。ラマルクは獲得形質が遺伝すると説いた学者である。人は過去の体験の積み重ね(具体的には無意識にためおかれた過去の体験)だけでなく、人類の歴史そのものを蓄積させているというわけだ。そこからエディプス的な体験も私たちの祖先の体験が蓄積されているというフロイトの発想につながる。つまり蓄積はその人個人の歴史にはとどまらず、人類の歴史にさかのぼるのだ。フロイトはこのような系統発達的な理論に基づき、記憶こそ不死であるとまで考えた。なぜならそれは無意識レベルで子孫に引き継がれていくからだ。フロイトは過去の記憶は私たちを制限するばかりではなく、芸術の形で私たちを変えるのだという。記憶は私たちに影を生むが、芸術は私たちを照らす、という。フロイトがあれほど惹かれた芸術は、ある意味では神経症に対する治癒としての役割を持っていたというわけだろうか。

7章ではリルケの精神分析に対する恐れや嫌悪が描かれている。最初はリルケは精神分析を受けることを考えたが、それを最初は勧めておいて、やはり考え直すように説得したのがザロメだったという。彼女は精神分析がリルケから悪魔だけでなく天使も追い出してしまうことを懸念したという。またリルケにとっても芸術はmuseつまり発想の神から生まれ、芸術家はそれに従って詩を紡ぐのであり、その正体は神秘的であり、分析され解明されては困るようなものだったのだ。リルケ自身は孤独や抑うつを抱えていたが、それにこれからも一人で耐えていくことを決め、精神分析に侵入されることは良しとしなかったらしい。そしてそれがリルケとフロイトが離れていく原因であったという。

フロイト自身は芸術と精神分析は対立するものとはもちろん考えていなかった。「創造というものは、私たちの持つ欲望が現実の世界ではそれに対する抑圧や失望といった障害物に打ち勝つためのものなのだ」と彼は考えたらしい(p.235)。そしてそれがフロイトの昇華 sublimation の概念に込められているという。

2020年12月10日木曜日

死生論 8

今アメリカではとんでもないことが起き、大統領選の結果が覆されようとしているのに(テキサス州他10州がいくつかの州を違憲として連邦最高裁に提訴)、日本のメディアも、それにアメリカのメディアにもそれが出てこないのはどうしてだろう。私たちが通常知りえる情報はそんなものだろうか。  

しかしそれにしても自己を愛す、というのはいったいどう意味だろうか。フロイトの自己愛の議論は私はあまり惹かれずにこれまで十分に考えないでいた。というより私たちはそもそも自己を愛さずにいられるものだろうか? 私がこのように言うのには根拠がある。報酬系の問題だ。私たちの脳はその奥深くに側坐核と言われる部位を持ち、そこの刺激により快感を体験するようにできている。報酬とは、快感とは何か、について定義するならば、それを求めて生命体が行動を行うことを定められているもの、としか言いようがない。「きもちいい!」は決して可視化できない。クオリア以外の何物でもないのだ。しかし私たちの中には、通常は快の逆、すなわち不快や痛みを起こすべき刺激が快につながるという体験を持つ人もいる。辛いもの好きな人にとっては、10倍激辛カレーを食べることで刺激される舌の痛覚がどういうわけか報酬系につながってしまうから、病みつきになる、というわけである。それもあくまでも自分の脳の中にある側坐核が刺激することで体験されるものだ。だからそのように考えると、自分と似た対象を選ぶことは、あまり自己愛的とは言えないことになる。自分に似た対象の頭を撫でても、その対象が自分とは別個の存在であり、別個の報酬系を備えている以上、「撫でてもらった快感」を自分のものとすることができないからだ。だから結局私には、フロイトのいう自己愛的な対象選択という意味がぴんと来ないのだ。

 まあこだわっていたら進めないので、先に行こう。FR3章の第3節あたりが重要だ。フロイトは過去のことは決して忘却されず、無意識に残るのだという。完全に忘れる、ということはないという説だ。その意味で過去の記憶は死体ではない。それはオデッセイウスに出てくるような亡霊ghostのようなものだという。そしてそれは血を飲むことで再び生き返るのだというわけだ。ユリシウスは自分の過去を知るために、地下に赴く。ちょうど生き血を飲んだ死者が蘇るように、人間は現在の体験some new experienceを過去に移すことでその記憶を呼び覚ますことになるという。その現在の体験の例として出てくるのが、「ちょっとしたことに激しく怒ること」だというが、これはフロイトが実際に言っていることなのか、それとも著者Unwerth が付けた説明なのかは不明だ。ただしこれはいかにも解離の話のようにも見える。夢判断においても、そのような決して消えない記憶の性質はもろ刃の刃だと説明される。つまり思い出されないとしても、亡霊のように現在の生活に影響を与えるのだ。つまりフロイトにとっての無意識とは、過去の記憶から成り立っているということになる。面白い考え方だがその通りだろう。

2020年12月9日水曜日

死生論 7

 

ということでFreuds Requiem (以下、FR)という本をしばらく読んでみる。著者はこの儚さの問題がフロイトによりその後何度も扱われているとする。それはもちろん喪についてのフロイトの考察のことである。彼が喪について論じ始めたのは、この「儚さ」のエッセイからだ、ということだ。とすれば俄然このエッセイは意味を持ってくる。

著者Unwerth はこんなことを言っている。

「『儚さについて』は、その作者フロイトの世界を縮小したポートレートであり、彼の人生や業績を形作った同じテーマが豊かに凝集したものなのだ。On Transience is a portrait in miniature of the world of its writer, rich and teeming with the same themes that shaped his life and his work.

それだけ意義深いエッセイ、というわけか。これが書かれた1915年と言えば、フロイトが自分で予言していた死を迎える年齢である61歳に近づいていたことになる。第一次世界大戦により、彼が慣れ親しんだ世界は消えてなくなろうとしていた。そんな時に「ゲーテの地」という本が刊行されることになり、ドイツの有名な知識人たちが寄稿をすることになった。そしてフロイトが書いたのがこのエッセイである。そしてその時代背景に関連して、このエッセイには戦争の影が非常に色濃い。そしてここに書かれたテーマは実はフロイトがその時代に多くの人に話していたものだという。「死ぬという運命にある私たちの生にどれほどの価値があるのだろうか。」というものだ。

FRの第一章はリルケとザロメの個人史やその関係性についての解説なので飛ばすが、第二章では、いよいよ本格的な考察が始まる。このころフロイトの中では、リビドー論から対象関係論への変化が起きていたという。リビドーは結局だれか、外の対象を求める。「リビドーは対象希求的である」という提言のは、フェアバーンが言うまでもなく、フロイトが考えていたことだったのだ。

さてフロイトはリビドーが関係する対象として二種類を考えた。それは親のような存在に対して持つような「依託的anaclitic なものか、それとも自分自身のような存在に対するものとしての自己愛的narcissisticなものかに分かれると主張した。ただし両者は純粋な形で存在するわけではなく、常に入り混じって存在する。つまり後の愛の対象は、親に似ている要素と自分に似ている要素を両方持つというのだ。ちなみにこのフロイトの述べた二種類の対象というのは私が40年前に精神分析を学び始めてからずっとよく分からずにいたことだ。今でもよくわからない。でもとにかくこの自己愛の議論はフロイトを大きく変えたとされる。それまでは愛は快を与えてくれる母や、それと類似した父親に向けられるものとされたが、自己愛の概念により、フロイトはそれ以前の自足的な快、彼が自己愛的な状態と呼んだものの存在を考えるようになった。そしてこれは私はあまり頭になかったことだが、「儚さ」論文と「悲哀とメランコリー」は連続的だという。正常な喪では、リビドーは対象から徐々に自己に戻り、対象も自己の一部になる。取り戻されたリビドーはまた別の他者を愛する力となるのだ。有名な彼の表現{the shadow of the object falls across the ego and obscures it}もこのことを言っているという。ところがこのプロセスがうまくいかないと、対象は依然として外界に存在しているという幻覚的な体験を生む。これが精神病であり、リルケに「君は喪に対する反逆を起こしているよ」とたしなめた時、フロイトはそれを意味していたのだというのだ。ここら辺はFRを読みながらまとめているのだが、このフロイトの議論はわかったようなわからないような感じだ。


2020年12月8日火曜日

死生論 6

 さてそこから私の文章は考察とまとめに入るのだが、そこはさすがに強引な気がする。私はこんなことを書いた。「力動的dynamicで揺らいでいるのが心の本質である。フロイトも『儚さ』の論文を通してそれを伝えていたのだ」。ここでの「揺らぎ」は私の新刊のタイトルに入っている「揺らぎ」である。揺らぎの議論にむりやりフロイトを持ち込んだ形である。そしてこの最後の部分で、この意味でのダイナミズムが健全さの表れであり、脳波を見ると本来はブルブル揺らいでいるものだと述べている。そこで「最近の複雑系の・・」などとサイエンス的なことを言っているのは余計なことかもしれない。そしてこのダイナミックな揺らぎが失われた状態を考えるならば、それは感情が失われた死の状態なのである。そしてそれはフロイトが「太洋感情 oceanic feeling」と呼んだものに近くなる。それを彼は「永遠で境界がなく、いかなるものとも結びついていない状態であり、心は子宮に帰り、そこでは母親との完全な合一が達成されている状態なのである。それはどんなに至福を伴っていそうに見えても、空虚なのだ。そしてフロイトが考えたような、リビドーが完全に自己に舞い戻った自己愛の状態もそれと類似している。結論から言えば、フロイトの儚さの論文は、彼が死に関する実存的な見方を表明したものだ。それは力動的で揺らぐ心の在り方であり、それはホフマンが「弁証法的構成主義」と呼んだものに近い。

さてこの論文を知り合いの分析家に読んでもらったところ、いろいろな意見を貰った。それはざっとこんな感じだ。いくつものテーマを詰め込み過ぎで、混乱してしまう。それにどれも深く論じていない。例えばフロイトの「儚さ」の論文は、様々な論考がすでになされており、その中でも有名なMatthew von Unwerth という人のFreuds RequiemMourning, memory and Invisible History of a Summer Walk (2006) を参照していない。フロイトを論じるなら、もう少し深く知るべきだ、という。なるほど、そんな本があったのか。それとか「フロイトは死を恐れていたために、それを回避する意味でこの儚さの議論を展開したのではないか?」というような言い方は少し軽すぎて、もっとそれを支えるような文献を提示せよ、という。

2020年12月7日月曜日

死生論 5

 

日本における死生学は、儚さや美と結びついている。無常の概念は、インド仏教に根差し、日本のメンタリティに深くしみ込んでいる。しかし武士道においては、この問題は極端にまで推し進められている。武士道は欧州の騎士道とも関連しているが、やはりかなり異質のものである。それはどのような意味でであろうか。「葉隠れ」を参照することはこの文脈で非常に参考になる。それはこの書が英訳されていて、欧米にもある程度は流布されているからだ。「葉隠れ」は武士道の聖書と呼ばれている。葉隠れの冒頭に述べられているのは、「武士道は死ぬことと見つけたり」という有名な文言である。これは極端に感じられるかもしれないが、その意図は以下のものであるとされる。「侍は死に際をわきまえ、大義のために命を懸ける用意を持たなくてはならないという事を意味する」。日本人の多くは、これが意味するところを理解する。彼らは死んで恥を雪ぐといった考え。これらについて何となくそこにある一種の美学を感じ取っているはずである。

しかしそれにしても、葉隠れとはいったい何だろうか?18世紀に山本常朝という鍋島藩の藩士が著したとされる。彼は武士がいかに生き、いかに死ぬかについて書いている。そしてその中でも特に特徴的なのが、自己犠牲の精神なのである。そしてそれは禅仏教の無我の境地、すなわち自己の死という概念に根差しているのだ、とさらっと書いたが、今書いたこの数行はとてつもなく意味がある。

それにしても、自己犠牲を本気になって説くような書はこれまであったのだろうか。あるいはこれは精神分析において扱える代物なのであろうか。

私の発表原稿ではこの点について十分に論じることなく、三島の話に移ってしまったのだ。何しろ論じることのできる紙数は限られているからだ。三島由紀夫は「葉隠れ」に傾倒していて、武士に同一化する形で自殺を試みたわけだが、彼が直前に言ったのは、「自分は葉隠れの精神を真の意味で実行に移し、そこでは自殺を決行するという最大限の自由さを行使した」という事だった。三島に対して厳しい論者はたくさんいるが、岸田秀先生はその中でも辛らつだ。「三島にとっては真の自分というのは存在しなかった。彼は両親と祖母の誰に対してもその「盲目的な愛情」を満足させなくてはならなかったのだ。彼の人生そのものが偽りの自己の表れだった」的なことを1978年のエッセイで書いている。一つ言えるであろうことは、ノーベル賞受賞作家という夢が断たれた三島が目指していたのは、ある種の殉死者としての位置づけであり、永遠で静的な境地であったであろうという事だ。思い出していただきたい。弁証法的な境地では、獲得と喪失は常に裏腹であり、満足と失望は表裏一体の関係にある。生きることがそういう営みである以上、三島はそれに満足できなくて生そのものを手放したわけであり、生における不自由さの慣れの果ての行為であったという事だ。

2020年12月6日日曜日

死生論 9

  実はこの本(Unwerth FR(「フロイトのレクイエム))、読んでもよく分からないことだらけだ。ざっと読んだが分からないところは読み飛ばして一応最後まで読み終えた感じ。いろいろなところにクエスチョンマークを付けたいが、キンドルだから書き込みができない。(紙媒体のFRを買ってスキャンしてPDFにすればいいのだが、古本で買うと一万円近く値が張り、とても買う気になれない。しかしキンドルだと数百円で買えるので、それを読んでいるのだ。)

しかしそれにしてもFRをこれ以上読むことに意味があるのだろうか?私の理解力が追い付かない。そこで少し寝かせておいて、私の論文を読んだ「友人」のアドバイスを読み直して、この論文を書きなおせるかを検討したい。友人はこういう。「筆者は儚さとダイナミズムとホフマンの弁証法の議論を結び付けるが、早急で読者は詳しい議論の展開なしにはついてきてくれない」という。それはわかる気がする。「日本文化について面白い議論を展開しようとしているのなら、もっと参照すべき文献を挙げて欲しい。これでは短くてよく分からない」。それもわかる気がする。結局この論文の路線についてクレームがついたというわけではなさそうである。でもともかくもフロイトの「儚さ」論文が分析学界でどの様に議論されているのかについてもう少しきちんと論じなくてはならない、という事らしい。そこでとにかくもう少しFRを読み込むべきという事か。結局そうなる。

しかしその前に少し、この生死論の問題、自由連想をしてみる。
そもそもなぜ生死論なのか。それは精神分析において、これが最大で最重要の問題だからである。死の問題はだれも直視したがらない。死の問題を中心に据えた学問は、少なくとも大流行りはしない。自死を奨めたり賛美したりするような傾向は、表立っては論じられないだろう。せいぜい安楽死、尊厳死の文脈において議論の対象となるに留まる。しかし臨床場面は死の問題であふれる。クライエントから「死にたい」「生きていたくない」という言葉は私たちの臨床の一部である。もし精神分析が私たちが抑圧する心の内容に関心を持つとしたら、死の問題はその際重要問題と考えていい。フロイトももちろん死については深く考えている。そしてその見解は複雑に変化している。それがどの程度妥当なものかについての議論が、おそらく精神分析理論の中では大きなテーマとなっている。

死のテーマは私にとっても重要なテーマだ。これは私が関心のあるいくつかのテーマ、すなわち恥や対人恐怖の問題、自己愛の問題、解離の問題、関係論的な分析理論についてのテーマに加えて重要なものである。それはどうしてか。それは私にとっては死の問題はとても気になるからである。私はなるべくいろいろなことについて考えたい。私は自己欺瞞についてはとても気になるし、それをできるだけ回避したいと思う。あることを考えまいとしている時、考えまいとしているという事は自覚しておきたい。それさえも自分にあいまいにするのが自己欺瞞だ。そして死のテーマについて人はまさに自己欺瞞的な姿勢を有しているし、私もそうである。ではどうして死のことが気になりながら考えたくないかと言えば、死がやはり恐ろしいし、実感としてわかないし、考えないでいるのが楽だからだ。しかしこの問題を突き詰めて、それなりの方針を取ることでそれは別の意味を持ってくるのではないかと思う。少しはそれについての不安が軽減し、むしろ楽しみにすることもできるかもしれないではないか。やがて来る死を楽しみにしつつ毎日を楽しく生きる、ということが出来るのであれば、それは人間として望ましい姿だろう

死生論 4

 ここで議論をまとめるならば、そしてこれは最近の私の考え方に一貫していることではあるが、死の受容に関しては、人によって、そしてその人の置かれた状況において、ピンからキリまであるという事だ。一種のスペクトラムを形成していると言っていい。そして私たちはその上をフラフラ動いているわけであり、その力動が大事なのだ。1924年になると、フロイトはリビドーそのものの絶対量とその増減だけでなく、そのテンポとリズムに注目するようになった。リビドーは刺激の量によって増減すると彼は言っている。フロムやホフマンのいう心の状態は、一定のサトリのような境地に至って動かないというわけではなく、テンポとリズムを形成していて、決して静的なものではなかったはずだ。ホフマンは、フロイトの「儚さ」の議論は心のダイナミズムや揺らぎに関係したものであったことを示唆している。その意味でホフマンの弁証法的構成主義とは近縁のものだったのだ。

さて次は文化的な意味合いについて論を進める。日本文化においては、ぼかされているもの、両義的なもの、はかないものに対する関心が非常に強い。フロイトの儚さの議論を詩人の友達は受け入れなかったが、日本人ならもっと受け止められたであろうと考えるのは私が身内贔屓だからだろうか。北山はこの点に触れ、日本人の好む儚さの例として花弁やホタルや線香花火などを例に挙げる。松木もそこに不在なものの意味を読み込む日本人の心理を描いている。

ここで私の見解を言えば、日本人にとってこの儚さの問題が一番典型的に表れていると思えるのが、お花見である。そこでは桜の花びら儚く散っていくことを風流と考えるのである。間違いなく人は自分の儚い命の運命をこの桜の花びらに投影しているのである。「儚さの価値は時間的な希少性である transience value is scarcity value in time.」というフロイトの心に近いものとしてはこの花見の心理ほどふさわしいものはない。フロイト自身も言っているのだ。「一晩で散ってしまう花は、そのことで美しさが損なわれるものではない。」フロイトは日本人の花見のことを知っていてこんなことを書いたのだろうか? まさか。北山は自らを卑下する日本人の心は、しかし自虐傾向を生む可能性があると忠告を追加している。

2020年12月5日土曜日

死生論 3

 「しっかり喪をやれば大丈夫」という考えに対する二つの批判がある。一つは喪をやり遂げよ、というフロイトの言い方には一種のオプティミズムがあり、それは「徹底操作 working through により抵抗を乗り越えよ!」という姿勢に通じるというものである。もう一つは死の不安に対する防衛であるという考え方だ。というのもフロイト自身はとても死を恐れていたからである。ホフマンはこのオプティミズムについて、エリクソンはコフートと同列だと考えている。そしてフロイト自身もこれらの反省から後に「喪は簡単にやり遂げることは出来ないよ、一生ものだよ」という考えに移っていったのであろう。

しかしもう一つの考えがあり、それはフロイトが人生の一つの境地を示していたというもものだ。フロマー、ホフマンの二人を引用しよう。フロマーは友人の分析家が死に至る病という宣告を受けた後に性の喜びをかみしめた同僚のことを書いている。それに仏教の構想などに見られる悟りの境地などは、自己と世界の平和的な受容を遂げているではないか。フロイトもそのような境地について語っていたのかもしれない。

この問題についての私の個人的な見解について述べたい。それはフロイトのリビドー論に依拠するものである。フロイトは喪の完遂により、リビドーは解き放たれるとした。フロイトはリビドーとは結局私たちの「愛するキャパシティーである」(1916)と定義したが、それはフロイトのいう「喪の前触れforetaste of mourning」により減殺されるのだ。私の仮説は、人生は私たちが持ちうるリビドーを投入することが出来るならば、その喜びを最大限に得ることが出来るであろうという事である。つまり私たちは運命を忘れるときには生の喜びを十二分に味わうことが出来るという事になる。しかしそれは一時的にでしかなく、何故なら「喪の前触れ」はたちどころにやってくるからである。リビドーとはこのように寄せては弾く波のようなものであり、私たちの愛するキャパシティーは、愛情と痛みが表裏一体となっていることを示しているのだ。

2020年12月4日金曜日

これまで書いた論文 4

 どこかの学術誌に書いたエッセイ。


脳と心のあいだを揺らぐこと

 

                

 

未だに私たちに救う心身二元論

 

以前から気になっていることだが、私が臨床の話をしていて脳の話題を持ち出すと、聞いている人たちから当惑の眼差しを向けられることが多い。私としては心の話をしていても、脳のことには時々気配りをしながら話していることを示すつもりだが、あまり理解を得られないのである。

私は精神科の医師であるから、初診で深刻な鬱状態を体験している患者さんの話に共感的に耳を傾けても、最終的には薬の処方を考える立場にある以上、心と脳を同時に考えることはむしろ仕事上要請される。もちろん心の問題と脳の問題を考える際には異なる視点に立った、異なる心の働かせ方を必要とするという感覚はある。だから両者の話を交えて人と話す時は、何か相手の話の腰を折ってしまうようで、後ろめたさを覚えることもあった。しかし両者の視点のあいだを常に揺らいでいることは、やはり重要なことだと、最近開き直って考えるようになった。その理由を以下に述べたい。

ひとつには、聞いている人を当惑させるのは、脳の問題とこころの問題を一緒に論じることに留まらないということに気が付いたからだ。私達は異なる文脈にある議論を敬遠しがちだと思う。例えば精神分析的な考察をしているときに、「この患者さんには認知のゆがみが…」とか「行動療法的なアプローチがいいかもしれません」というような話をすると、同じ心の話をしていても、何かタブーに触れてしまったような感覚がある。つまりある文脈になじみのない用語や概念が入ることの違和感が問題となるのである。何か「和を乱す」という印象を与えてしまうらしい。

しかしこれらのタームは、私がどきどき大学関係で出会う外国人の心の専門家たちは、脳の話をしても「あ、それね」ということで当たり前のように受け入れるという印象を持つ。

 昨年しばしば交流する機会のあったベルギー出身のA先生は、英国の精神分析家ビヨンの研究でも有名な方だったが、彼は精神分析についての講演の中で急に「これはデフォルトモード・ネットワークに相当する」などとおっしゃった。Default mode network は脳科学の話である。人の心がいわばアイドリング状態になっているときの脳の活動パターンのことであり、精神分析の話とは全く異なる文脈の話だ。もちろんそこに理論的な必然性があったからこの話が出て来たのであろうが、そのような時に周囲の空気をさほど気にしているという印象はない。むしろそのような文脈の飛躍は、彼の思考がカバーする範囲の広さをそれによって示しているという印象を受ける。精神分析の時に脳の話はご法度、というのは日本だけの現象ではないか、と私は思うのである。

 

心と脳科学のあいだを揺らぐ必要性

さて私の立場はいわば心の問題と脳の問題を揺らぐことはむしろ必要ではないかというものだが、これは私が元来持っていた性癖のようなものでもある。一つのことについて対立している二つの意見を聞くと、その両者を取り持ちたいと思うと同時に、どちらか一方に与することがとても損をしたような気持ちになる、というところは昔からあった。どちらにも決められない性格ということかもしれない。そして精神についても、心の側と脳の側とのアプローチについては、どちらの立場にも偏らず、どちらも取っていたい、両方のあいだを揺らいでいたいと思うからである。そのような気持ちを特に抱いた最近の例を挙げたい。

私が職場には多くの心理学の専門家が属するが、心を扱う心理学者(臨床心理の専門家など)と脳を扱う心理学者(認知心理学者など)ではかなり毛色が異なる。同じ大学の、それぞれが相当の学識と学問的なキャリアを積んだ方々が、人の心に対して全く違うアプローチを取るのは非常に興味深い。たとえば母子の関わりという一つのテーマを取ってみよう。

脳科学を専門とするA先生は、ある実験を試みた。何人かの赤ちゃんを対象にして、ある言葉を発して、同時に皮膚に刺激を加える。他方のコントロール群には言葉を発するだけで皮膚刺激は加えないでおいた。そして後になりに両グループに同じ言葉を聞かせると、

赤ちゃんの脳波は明らかな違いを示した。言葉と同時に皮膚刺激を与えた赤ちゃんの方が、より明確な反応を示したのである。これは母子関係においていくつかの感覚のモードを併用した、マルチモーダルな関りの際に赤ちゃんがそれをよりよく習得することを示唆している。これは素晴らしい知見であると同時に、ある意味では私たちが常識的に考えていたことを証明したことになる。

他方臨床心理学のB先生は、あるクライエントさんからこんなことを聞く。「これまであまりお話ししなかったことですが、私のお母さんは小さいころから決して私を抱っこしたり撫でたりしてくれませんでした。今でもそのことに悲しみや怒りのような気分がこみ上げてきます。」B先生はそのクライエントさんがなかなか人と信頼に基づいた深い関係が築けないことに、その母子関係が影響していたのだろうと理解した。

A先生もB先生も心理の専門家で、幼少時の母子関係という同じ問題を扱っている。そしてお互いの分野での発見について知っても特に異論は唱えないだろう。ただ問題は二人は同じ心理でも違う世界に住んでいて、お互いの世界で起きていることをあまり知らないことだ。それぞれが自分の研究や臨床に追われ、全く異なるジャーナルに論文を発表する。そして自分たちの所属する学会に出席し、役員を務め、大学では学生を指導することで、その地位を確かなものにしていく。互いの研究分野を知る機会がきわめて限られてしまうのにはそのような事情があるのだ。

もっと言えば、A先生とB先生はお互いの分野で行われていることを漠然と聞きつつ、互いを軽視している可能性がある。それは多少極端に言えば次のようになるかもしれない。A先生「心の問題について、推論はいくらでもできるだろうが、確かなエビデンスに基づくことにこそ意味がある。」B先生「科学的な知見には限界があるし、限局された事実を示されても臨床に役に立たない」。これらはどちらもそれなりに正しさを含んでいると言えるだろう。しかしそれぞれが相手に批判的になるとしたら、そこにはある問題が潜む。人は皆それぞれの立場の優位性を無条件に肯定したいからだ。いわゆる「認知的不協和理論」(フェスティンガー)は、このような私たちの心の動きをある程度は説明してくれるだろう。

さて心と脳の間を揺らぐ私はこれらのどちらの立場も取っていたい。そして次のようなことを頭の中で考えるのである。

「愛着や早期母子関係にはかなり生物学的な背景があるのだな。養育者からの抱っこや身体接触は、一方では愛情の表現であり対人関係の基礎を築くとともに、他方では中枢神経や自律神経系の発達を促進するということの傍証が乳幼児研究により得られたわけだ。治療者としてはこのことから何を学ぶのか。愛着の段階での躓きがあったと考えられる患者には、言葉での介入の前提となるような安心感の提供は必須と言えるであろう。しかし損なわれている愛着関係を身体レベルにまで立ち戻って再構築する方針には結びつかないであろう。そこには乳幼児研究が示す臨界期の問題が関わってくる。非言語的ないしは身体接触を介した関わりは成人の患者に対しては性的、侵入的な意味を持ちうることに注意を払い、言語的な関わりの持つ意味を最大限に生かす関係性の構築がやはり重要になってくるのだろう。」

       (以下略)



2020年12月3日木曜日

死生論 2

  フロイトの有名だがあまり知られていない(明らかに矛盾する表現だ!)「儚さについて On Transience」という1916年の論文がある。その中で、リルケと目されている詩人が「美しいものはいつかは消えてしまう、ああ!」と嘆いたのに対して、フロイトは、「消えていくから美しいのだよ」と言った。彼が言いたかったのは、私たちの生がうつろいやすいという思考が、生の楽しみを奪うのはおかしいではないか」ということであろうが、それは達観しすぎではないだろうか。私が苦労して翻訳したアーウィン・ホフマン先生は、これはフロイトの死生観が表されているのだ、と論じた。私もそう思う。ホフマンがさらに言ったのは、「無意識は死を知らない」、というフロイトの別のところでの主張(戦争と死に関する考察、1915年)とも矛盾するということだ。ホフマンが言っていたのは、極めて重要なこと、つまり私たちの生は、死という意味の欠如meaninglessness を背景にすることでその価値を与えられるという。これもフロイトの関係と重なっているようで重要な点だ。ここら辺を読み直すと、結構ちゃんと書いてあるなあ、と我ながら思う。

ところでこの儚さについての論文の中で、フロイトはもう一つ議論を醸すことになった主張をしている。それは「美は失われるから価値が下がる、という考えをする人は、ちゃんと喪の作業をしていない人たちだ」といったことである。意味が分かるだろうか。大事なものを失うことはもちろん悲しい。しかしそれについて喪の作業をすることで、失われたものは内在化されるから大丈夫なのだ、ということである。このことは彼が「喪とメランコリー」(1917) で主張したことだが、彼はこれを後に修正している。そう、土台喪の作業が完遂することなど無理なのだ。

2020年12月2日水曜日

死生論 1

  死生学について。精神分析で死生学を論じる意味はあるのだろうか。以前からこの問題に興味を持っていたが、精神分析ではあまり論じられていないようだ。これから3か月のプロジェクトで練ってみようと思う。これから当分の間ブログのタイトルは「死生学」である。実はこのタイトルではすでに論文や章を書いているが、英語では日の目を見たことがない。そこで少し頑張ってみようと思う。

似たような趣旨である発表原稿を書いたことがある。今年の5月にシドニーの学会で発表するつもりだったが、コロナの影響で中止になったのである。そこでたなざらしをしておいた論文を書きなおすのである。

その論文の主旨は次のようなものだった。現在人々は大いなる不確かさの中で生きている。何しろコロナのせいでますます何が将来起きるかがわからないのだ。大体「来年オリンピックが開かれるかどうかが分からない」なんて事態はここ数十年人は経験してこなかっただろう。人はあいまいさを好まない。ましてやそれが大きな経済的な影響や多くの人の人生設計を変えかねないとなれば、なおさらだ。しかし実は変わらないことがある。それは何事も変わっていく、ということなのである。

精神分析の歴史を振り返るならば、最近の分析家は知られないこと not known、知りえないこと unknowable についての探求心を旺盛に発揮しているようだ。ビオンの「O(オー)」をはじめとして。あるいはカントの物自体、ウィニコットの知られざるものIncognito も関連していると言えるだろう。フロイトは「抑圧しているものを知ること」を分析の終結の目標とした。彼は心の秘密を知ることについては楽観的だったようだ。しかし実は彼は儚いもの、消えていくものにも興味を持っていたことはあまり知られてはいない。