2020年12月8日火曜日

死生論 6

 さてそこから私の文章は考察とまとめに入るのだが、そこはさすがに強引な気がする。私はこんなことを書いた。「力動的dynamicで揺らいでいるのが心の本質である。フロイトも『儚さ』の論文を通してそれを伝えていたのだ」。ここでの「揺らぎ」は私の新刊のタイトルに入っている「揺らぎ」である。揺らぎの議論にむりやりフロイトを持ち込んだ形である。そしてこの最後の部分で、この意味でのダイナミズムが健全さの表れであり、脳波を見ると本来はブルブル揺らいでいるものだと述べている。そこで「最近の複雑系の・・」などとサイエンス的なことを言っているのは余計なことかもしれない。そしてこのダイナミックな揺らぎが失われた状態を考えるならば、それは感情が失われた死の状態なのである。そしてそれはフロイトが「太洋感情 oceanic feeling」と呼んだものに近くなる。それを彼は「永遠で境界がなく、いかなるものとも結びついていない状態であり、心は子宮に帰り、そこでは母親との完全な合一が達成されている状態なのである。それはどんなに至福を伴っていそうに見えても、空虚なのだ。そしてフロイトが考えたような、リビドーが完全に自己に舞い戻った自己愛の状態もそれと類似している。結論から言えば、フロイトの儚さの論文は、彼が死に関する実存的な見方を表明したものだ。それは力動的で揺らぐ心の在り方であり、それはホフマンが「弁証法的構成主義」と呼んだものに近い。

さてこの論文を知り合いの分析家に読んでもらったところ、いろいろな意見を貰った。それはざっとこんな感じだ。いくつものテーマを詰め込み過ぎで、混乱してしまう。それにどれも深く論じていない。例えばフロイトの「儚さ」の論文は、様々な論考がすでになされており、その中でも有名なMatthew von Unwerth という人のFreuds RequiemMourning, memory and Invisible History of a Summer Walk (2006) を参照していない。フロイトを論じるなら、もう少し深く知るべきだ、という。なるほど、そんな本があったのか。それとか「フロイトは死を恐れていたために、それを回避する意味でこの儚さの議論を展開したのではないか?」というような言い方は少し軽すぎて、もっとそれを支えるような文献を提示せよ、という。