2020年12月12日土曜日

死生論 10

 フロイトは芸術に関してリルケとは違う考えを持っていた。フロイトにとっては、芸術は精神分析の勝利を意味していたのだ。ある意味では神経症の裏側、と言ってもいいだろう。彼は昇華の例としてハイネの描いた不良少年について挙げているという。その少年は町で出会う犬のしっぽを片っ端からちょん切って喜ぶというサイコパス的な存在だった。しかし後に高名な外科医になったという。(この例はどうだろう? 私は個人的にはこの外科医にかかりたくはない。受けなくてもいい手術に関しても「切りましょう!」なんて言われそうだ。)

ともかくもフロイトは、私たちは自分たちの性的願望や攻撃性をうまく水路づけることで人の役に立つことができると考えた。文明とは本能や欲望の昇華の産物だというのだ。135ページにある文章を紹介する。「芸術は衝動を行動により処理するのではなく、空想や創造による象徴的な表現に変えるのだ!」 そしてこうも言う。「創造活動には、分析家は手も足も出ない。 Before the problem of the creative artist, analysis must, alas, lay down its arms.」 次の文もよくわからないが訳しておこう。フロイトは対象リビドーは、自分に引き戻され、自分の自我理想のために充てられることもあるという。つまりこの意味での自己愛は病的ではないのだ。「対象リビドーが変形され、世界の野心ambition in the world に用いられることを昇華という。それは世界にも影響を与えるだけでなく、自分の自己感をも高めるのだ。Sublimation, then, consisted in the transformation of love withdrawn from others into ambition in the world -an impulse that, at the same time it produced effect in the world, enlarged ones sense of self.

235ページ当たりではこんな書き方もする。フロイトは神経症者は葛藤を症状に変えるが、芸術家はそれを美に変えるのだ、と。しかしこれではどうもわからないことがある。私の個人的な見解ではあるが、創造性とはこれまでになかった要素の間のつながりという事だ。そこには偶発性が深くかかわってくる。しかしフロイト的には症状はあくまでも理論的に説明できるべきものだ。いかに奇妙な夢の内容でもそれを分析できるというわけである。その意味で症状と創造物をあたかも相反関係にあるものと見なすことは難しいのではないか。