2020年12月14日月曜日

死生論 12

 考えてみよう。人の一生にとっていくつかの大きな転機は、生まれること、卒業、結婚、出産、不慮の事故など、そして死、である。そしてそれ自体は受け身的に生じる出生や、突発的な事故を除いて、私たちはそれについて幾分なりとも予想をし、熟慮をする。しかし同じような構えを多くの私たちは持たない。

 死ぬ直前に私たちは自分の人生を思い出し、幸せな人生だったと思いたいだろう。もしその際に自分が病苦を背負い、孤独であっても、昔体験した幸せを思い出すことで現状の不幸を相殺できるだろうか? それは恐らく難しい。死ぬときに幸せでありたい、そうでなくては意味がないと私たちの多くは思うかもしれない。しかしこれは理不尽なことではないだろうか。私たちは人生で体験する幸、不幸を自在に配分することはできない。人生の前半で不幸を体験し、後半を幸福に過ごすかもしれないし、その逆のパターンもあるだろう。どちらも平均すれば同じ程度の幸福度を体験した人生であっても、前者のパターンの方が幸せに死ねるのは理不尽なことだ。もしこの理不尽さを解消することが出来るとしたら、人は過去の幸せだったころの体験を、今まさに体験しているかのように感じることが出来るような能力を必要とするだろう。ちょうど映画のビデオを巻き戻し(という様な表現もあまり意味がなくなってきているが)で過去に直接遡ることが出来るように。しかし私たちは決して昔の生々しい喜びを体験しなおすことが出来ない。必ず色あせてしまっているのだ。しかしそれを逆手にとって、私たちは想起の能力を高めることが出来るならば、私たちはこの問題を解決できるであろうか。でもこれは私たちが特殊な能力を獲得しない限りは無理ではないかと思う。

実は私はもう一つ別の想像力が決め手だと思う。こちらはフロイトが「喪の先取り」と称したものだ。それはどういうことか。

こんな想像してみよう。ある50代の働き盛りの男性が、突然死の病を宣告されるとする。彼と周囲は彼の将来に広がっていた大きな可能性が突然奪われることに衝撃を受け、深く嘆き悲しむだろう。ところがここでその男性が実は50代半ばで病気にかかり命をなくすという運命をはじめから知っていたと仮定する。寿命が決まっていてそれ以上は生きられないという条件のもとに生を受けるのだ。ごく幼少時に彼は55歳という寿命を聞かされる。はじめはその長さの感覚が分からない彼は、普通の人ならどのくらい生きるかを問い、例えば75歳と伝えられる。そして自分はかなりそれに比べて短いものの、そこそこの長さの人生を体験することを知る。彼の人生は最初からある条件付けがなされている。彼はそれをおそらくトラウマとは体験しないであろう。ちょうど運動能力や身長や知能レベルといった、一定以上に伸びることが難しいという条件のもとに生きるようなもので、彼はそれを受け入れつつ人生を送っていくであろう。それら自身が彼をそれだけ不幸にするとはあまり考えられない。

私自身の例では、私は将来絶対にフランス語が流暢になることもないし、身長180センチになって多くの人々を見下ろしながら闊歩することは絶対に出来ないことを知っている。しかしそれで特に不幸にはならないし、そうなりたいとも思わない。(昔はそれを望んでいた。) むしろ幸い手にしているいくつかの能力について感謝して、それを頼りにして生きる方が平和だと思っている。しかし私が高身長でないことは苦しみを伴わなかったわけではない。思春期になり、中学3年ごろになり、比較的遅いスパートの時期を迎えたクラスメートたちの身長が私をどんどん追い抜くのを感じながら、自分はどうしてこれ以上身長が伸びないのだろう、と不満に思った。私はそこで喪失体験を持ったのだが、この問題はもう「済ん」でしまっているのである。高身長としての私という理想的なイメージはすでに私の頭の中では失われ、その喪は終わっている。数多くの不足している事柄に私がさほど苦しまないのは、その喪を終わらしているからだ。私が苦しむのは、まだ持っているかもしれない、あるいは将来訪れると期待してきた事柄が得られないと分かったことなのである。

何事かに期待をしている限り、私たちはそれを失う可能性がある。そして余命、というのはまさにそのようなものだ。私たちの余命は通常定まっていない。刑の執行日が定められている死刑囚の立場でもない限り、それは少しでも長くなる可能性を常に秘めている。それだけに死は常に突然訪れ、理不尽にも人の命を奪っていくものとして体験されるのである。