2020年12月11日金曜日

死生論 9

 拾い読みをしているうちに、第6章の3部まで進んだ。著者はフロイトがいかにラマルク的な考えに染まっていたかを論じる。ラマルクは獲得形質が遺伝すると説いた学者である。人は過去の体験の積み重ね(具体的には無意識にためおかれた過去の体験)だけでなく、人類の歴史そのものを蓄積させているというわけだ。そこからエディプス的な体験も私たちの祖先の体験が蓄積されているというフロイトの発想につながる。つまり蓄積はその人個人の歴史にはとどまらず、人類の歴史にさかのぼるのだ。フロイトはこのような系統発達的な理論に基づき、記憶こそ不死であるとまで考えた。なぜならそれは無意識レベルで子孫に引き継がれていくからだ。フロイトは過去の記憶は私たちを制限するばかりではなく、芸術の形で私たちを変えるのだという。記憶は私たちに影を生むが、芸術は私たちを照らす、という。フロイトがあれほど惹かれた芸術は、ある意味では神経症に対する治癒としての役割を持っていたというわけだろうか。

7章ではリルケの精神分析に対する恐れや嫌悪が描かれている。最初はリルケは精神分析を受けることを考えたが、それを最初は勧めておいて、やはり考え直すように説得したのがザロメだったという。彼女は精神分析がリルケから悪魔だけでなく天使も追い出してしまうことを懸念したという。またリルケにとっても芸術はmuseつまり発想の神から生まれ、芸術家はそれに従って詩を紡ぐのであり、その正体は神秘的であり、分析され解明されては困るようなものだったのだ。リルケ自身は孤独や抑うつを抱えていたが、それにこれからも一人で耐えていくことを決め、精神分析に侵入されることは良しとしなかったらしい。そしてそれがリルケとフロイトが離れていく原因であったという。

フロイト自身は芸術と精神分析は対立するものとはもちろん考えていなかった。「創造というものは、私たちの持つ欲望が現実の世界ではそれに対する抑圧や失望といった障害物に打ち勝つためのものなのだ」と彼は考えたらしい(p.235)。そしてそれがフロイトの昇華 sublimation の概念に込められているという。