2020年12月16日水曜日

死生論 14

  ところで私はある論文に行き当たった。George Pollock (1975) の、“On Mourning, immortality and Utopia” (喪、不死、理想郷について、 Journal of the American Psychoanalytic Association, 23:334-362.) これを手掛かりにしてみよう。彼はこの論文で「喪のプロセスは人間の適応にとって本質的な問題であり、それは系統発生にその起源をもつ the mourning process is essential for human adaptation and has its roots in earlier phylogenetic developments」と言っている。これを喪の味見foretaste of mourning の問題と関連付けながら考えよう。しかしそれにしてもこの論文は長い。サマリーからその要点を最初に抽出できないか。論文末のサマリーを読むと、「幼少時の喪失と後の喪のプロセスは、ユートピア的な理想に結びついているということをこの論文で示したい。その上で悲嘆反応と喪のプロセスを比較したい。」うーん、短くてよくわからない。人は理想的な死後の世界を想定することで生を乗り切る、ということか。彼にとっては、「喪の味見」は古代人にとっては必要がなかったということらしい。いわば死は終わりではなく、始まりと認識されていたという議論だろうか。よくわからない。結局本文に入っていくしかない。

ポロックは自分自身が深刻な喪失体験を20年前に体験したから、この問題を考え続けてきた、といきなり自己開示から入る。そして彼は肉親との死別体験を持った数多くの臨床例を引きつつ、この問題を考えて行くというのだ。また彼は死別体験が芸術家に創造性を与える、という主張ではないとは断りつつ、多くの芸術家にとって、死別が大きな影響を与えているとする。そしてさらに、死後の世界という概念が、私たちの理想郷に関するファンタジーに関係しているとする。実際の、あるいは象徴的な意味での不死が、理想郷という概念と深い関係があるというのだ。
 彼はフロイトの有名な言葉を紹介する。「私たちは皆、無意識では不死を信じている」(1915P.294)。結構批判されているフレーズだ。人は死を否認することは出来ないので、消滅ということの意味を否認し、そこから体と魂とに分けるという考え方が導かれるとフロイトは言う。最初はこの死後に残る魂については大した意味は与えられていなかったが、後に宗教により、生前の存在、生まれ変わり、といった概念が生まれたと主張する。フロイトはその後にも「不気味なもの」(1919)や「幻想の未来」(1927)などでこの問題に立ち返り、不死は死への不安を防衛するものだと言っている。しかし著者が言うのは、不死という概念は死への不安の防衛としての意味以外にも重要な役割があるということである。ここら辺が彼の主張につながってくるらしい。そもそも天国とか理想郷という概念は、人間が持つ子宮回帰願望だというのだ。死後の世界という概念は一種の共生段階への希求というのは、ポロックさんの主張として過去にも論文化されていたらしい。ここら辺は思弁的すぎてついていけないという気がするが、我慢して読んでいく。しかしそれにしてもこのテーマ、とても論文にまでまとまる気はしない。深い森に迷い込んだようだ。