2020年12月17日木曜日

死生論 15

  ここら辺の話になるとぐっとついていけなくなるのだが、我慢してついていく。精神分析の世界では知られる名前、例えばEdith Jacobson も Heinz Kohut も結局はこの路線であるというのだ。つまり死への恐怖を防衛することは、不死を信じることであり、喪を不要のものにし、それは理想的な両親像との融合を意味するというのである。ボーダーラインの研究で知られる Zilboorg などもこの不死の問題については相当書いているという。彼によると自己破壊や自殺さえも、それにより死者との合一、あるいは母親との再会を望む行為であり、 ある意味では不死に対する願望ともかかわってくるという。死なないために死ぬ、という矛盾した行為は、私たちの究極の恐れが死そのものというよりは、分離、別れではないかという考えを生むという。これって心中のメンタリティではないかと思っていたら、Ernest Jones はそのことを書いているそうだ。確かに誰かと心中するというのはその人と永遠に一緒につながっているという願望を満たす行為でもあるということか。想像したこともないが。Pollockはここで、要するに不死の世界とユートピアは平衡関係にあるというが、どちらにも共通していることは、「儚さ」の否定であることだ。そう、儚さの対極にあるのは不死であり、ユートピアというわけだ。ただこれについてはRene Spitz (これも超大物だ)がこう言っているという(p.346)。ユートピアであるということは完全であり、いかなる変化も許容しないということだが、それは静的であるということで、人は瞬く間に退屈で欲求不満に襲われてしまうのだ。それはそうである。人は新奇性を望む。そのためには安定しているものを破壊しかねない。それがそもそも私たちが持っている本能なのだ。こうしてユートピアは不可避的なジレンマを生む。ユートピアは必然的に矛盾をはらんでいるのだ。

この次の記述あたりから少しついていける。不死についての私たちの考えは、自分個人が生き延びるという考えとは別に、ある組織として、考えとして、芸術として生き残るという発想を生む。Pollock はこのことをUtopian immortality と呼ぶ。そして多くの革命家がそれを求めていたという話から、だんだん毛沢東とかレーニンの話に移ってくる。ここら辺は読み飛ばしていくと、なんと論文の最後の部分に達してしまった。最後にまたフロイトに触れている。フロイトは不死と喪の問題について書いているが、改めて気が付くのは、「喪の味見 foretaste of mourning」は「儚さを意識すること thoughts of its transience」と等価物であるということだ。そしてともかくも喪が貫徹し、それによりリビドーが回収された結果として残るのは、痛みを取り除かれて適切な形で過去に安置された記憶であり、それはまさに創造物であり、美的、科学的、哲学的な創造物と同じものなのだ、と結んでいる。(原文:What remains of the lost objects are memories, devoid of pain, appropriately appreciated and placed in the past- creatins in their own right, similar to aesthetic, scientific, or philosophical creations.)