2020年12月21日月曜日

死生論 19

 アーネスト・ベッカーを最初から読み進める。私の知りたいことが書いてあるのだ。最初の方から読むと、ベッカーはオットー・ランクの業績は出色であるという。彼はフロイトよりははるかにランクを評価しているのだ。ここら辺の意味も先を読んでいくとわかるのだろう。

ベッカーが本書で最初から論じているのは、人間のヒロイズムであり、自己愛である。ヒロイズムによって私たちは至近距離からの弾丸が飛び交う線上に飛び込むことができる。あたかも不死身のように。そう、ジェームズボンドのような行動は、自分が不死身であるという幻想なしには取れないのだ。そしてベッカーは言う。私たちを突き動かしているおおもとのものは死への恐怖である、と。だから死に対する恐怖を克服した人間には私たちは賛美の念を向けるのだ。三島由紀夫がそれを目指したように。そしてこのテーマに関する文献はおそらく膨大なものがすでにあるという。昨日紹介したノーマン・ブラウンLife Against Death などはその例であるという。そしてそれをキルケゴールにさかのぼってまとめ上げようというのがこのベッカーの野心なのだ。

精神分析関係でこの種の議論にとって示唆的なのが、Zilboorg の論文であったという。ボーダーラインの初期の論文で聞いたことがある名前だ。彼が言っているのはすごくもっともなことだ。生命体は、死への恐怖を保つことなしには自らの生命を維持できない。しかしそれを常に意識することは出来ない。そうすると機能できなくなってしまうからだ。何たる至言。しかも生物学的にも意味が通る。こんな議論にはついていけるのだ。そして精神の健康度とはおそらく死への生物学的に支えられた恐怖心に根差したものということになる。ただしそれにとらわれ、生きていくことの意味を失うような状態に陥っては仕方がないのだ。そしてこの部分を読みながら、私は初めていわゆる「実存的なジレンマ」という意味が分かった気がする。64歳にもなって、である。ちなみにこの64歳という数字、本当に嫌である。私は世の中の64歳の人間のことが嫌いである。だって老人ではないか。でも私もその一人なのである。これも実存的なジレンマだろうか。ということで冗談はともかく、人間は不死を想像することができるし、宇宙の果てまでもそれなりに思い描くことができる。ともかくも象徴を用いることで、心は無限を包含している。椅子という概念を持つことで、世界中のあらゆる椅子を、人類史が始まって以来つくられ、また人類の最後に作られる椅子そこに含むことができる。でも同時に私たちはこの有限の肉体にがんじがらめにされ、心臓の血管が詰まっただけで、命が尽きてしまうほどにどうしようもない生き物である。