2020年12月15日火曜日

死生論 13

 ここで想像するという事に結びつけて考えるならば、私たちに出来るのは、過去の幸せな体験を回想して楽しむことではなく、未来において失うことを生々しく想像することだということだ。過去の幸せを思い出しても、それらの体験はその人の人となりを形成する上での基盤にはなっているであろうが、その幸せは生々しく体験はされない。これは皆さんが各自実行してみればすぐわかることだ。ただし過去の記憶が時には極めてありありと想起されることがあり、それは例えばフラッシュバックにおいてである。しかし幸せな体験のフラッシュバックは起きない。過去は今の私たちを喜びで満たすことは出来ないのだ。

しかし私たちは通常は、過去のことよりは将来のことをより鮮明に思うことができるのではないか。私たちは将来失うことなら、自分の想像力をたくましくすることにより、かなりの程度に想像することができる。フロイトはそれを喪の先取りforetaste of mourning ドイツ語ではVorgeschmack der Trauer と言うそうだ)、と言ったのだ。Unwerth FRに関する書評には、「儚さとは物事についての喪失を、それが起きる前に体験することだ」とまとめている(Paul Sutton,2006)。人生でいかに喪の仕事をするかは極めて大事であり、しかもそれを先取りして行うことが大事なのだ。フロイトもザロメに対する書簡の中で言っている。「あきらめることが出来たら、人はどんなに幸せだろうか。」

喪の先取りについての私たちの力は限りないというのはどうしてだろうか? 例えば私は今のところ手足が自由に動く。しかし朝起きて「ああ、今日も両足で歩くことができる」と感涙にむせぶことはない。しかし下半身不随の人の手記を読み、また両足が麻痺した状態で毎日移動をし、仕事をするということは、私が想像力を発揮すればするほど思い浮かべることができる。私たちはしかしこれをほとんど、あるいはまったくしない。今現在持っていないもの、持ちたいけど持てないことについて嘆くばかりだ。私たちが現在の生の喜びを味あわないのは、この想像力の欠如によるところが大きいのだ。