2020年12月26日土曜日

死生論 24

 Kは死すべき運命に直面した人間が取る三つの反応について論じている。その前の前提として強調するのが、「限界性は制限するファクターであり無限は拡張するファクターだ(P.76)」という事だ。そして抑うつは過剰な必然であり過剰の限界であり、そのために内的な自由さや象徴的な可能性を有しないことになる。そして精神病はその逆であるという。ここで私にはピンとこないのだがKが主張するには、人は卑下や他者への降伏も、それとは逆の他者から孤立して自由になることも、方便としてありうるという。つまりうつや精神病のように極端にまで推し進められない状態といえよう。それが彼らにとって一種のシェルターになり、そこで安心感を得ることが出来るからだという。私はこの点が今一つ理解できたことがないが、いろいろなケースと話していると、あまりに自分を責め、自分を脱価値化する人が多い。するとこれはある種の防衛と考えざるを得ないのであろう。自分はダメな存在であり、罪深い存在であると信じることがどの様に死への不安と関わっているのだろうか。自らが自由を失い生命体としてのあらゆる頸木にがんじがらめになっていると信じることがどうしてその人を庇護することになるのだろうか。この本の80ページあたりで、ベッカーは熱っぽく強調しているのが、そのように信じることで、独立を回避することが出来、なぜならそれこそ彼らに死を迫るからなのだというのだ。ファルスを有することは、すなわち去勢の不安を掻き立てる、という事なのだろうか。そして通常の私たちはペリシテ人主義 Philistinism の位置に身を置き、すなわち抑うつにも精神病にもならずに凡庸さの中に生きる。ベッカーが言うように、ペリシテ人主義は「正常の神経症」と呼ぶべき状態なのだ。そしてKは、ペリシテ人主義がうまく行くのは、それが「些事により身を鎮める tranquilizing itself with the trivialからだという。」

さてKのフロイトに対する態度についてもかなり重要なことを言っている(p.86)。フロイトに関して、K はエディプスコンプレックスが敵であるという。子供は脅しに抗して自分のプライドを守る。それは一種の鎧になるのであるが、それは彼を囚人の位置に閉ざしてしまう。しかし人はそれがいかに安住の位置かを知っているのだ、という。彼はそれ以外の選択という事に恐怖を感じるのだという。それにより彼はある一つのことだけを否認する。それは獣性 creatureliness であり、それは恐怖なのだ、と。そしてその真実を意識することで人は自らを超克し、最終的な成熟に達することが出来るという。