2020年12月23日水曜日

死生論 21

 エディパルな問題の解決は結局は神になることにより達成されるのだという。これもとても示唆に富む表現だ。もちろん父親殺しは実際には達成されないし、されるべきではない。しかしそれにより子どもはファンタジーの中でしか父親に勝つことは出来ない。それは自らが自らの父親になることだ。つまり不死の問題は結局はエディプス葛藤を克服するうえで生じてくるというわけだ。ベッカーはこの問題がナルシシズムの本質であると説く。現在はあまり意義を与えられなくなりつつあるフロイトの第一次自己愛は、1985年のベッカーの本では重要な意味を持っている。このようにして口愛期、肛門期もこのレベルの問題であり、それは総じて第一次ナルシシズムというフロイトの表現した段階に対応しているとする。特に肛門期は自分と体とが対峙し、子供は身体を支配し、それを通じて世界を支配する。それ以前の肛門期は、自分が世界を飲み込み、吐き出すという、身体性を描いたさらに誇大的なファンタジーを生むわけだ。いずれにせよそこに他者は入り込んでこない。関係論的に言えば、あるいは乳幼児精神医学の立場からは、子供は生まれ落ちた時から母親との関係性を生き始めると考えるのであろうが、第一次ナルシシズムはまだそこに至っていない。そこには他者が視野に入ってくるはずであろうが、それは自分と同じような心を持った存在としては認識されていないのだろう。ウィニコット的に言えば、環境としての母親、言うならば道具としてそこにある母親ということになるだろう。

そして去勢不安。ベッカーはこれは母親への依存と同時に生じてくる必然であると考える。生物学的な依存を安全な形で得るということは、根本的な脅威を意味する(p.38)。なぜならその依存対象が消えてしまうことは子供の死を意味しかねないからだ。母親が愛情を撤去するという脅しはまさに去勢の脅しであるという。ところがブラウンが言うには、この脅しはまた子供が自ら作り出したものでもあるという。なぜなら母親が脅威になるのは、子供が自分を主張することによってだからだ。(まあ、もちろん母親が子供の自己主張をある程度喜んでくれるからこそ子供は育つことができるわけだが。ここでは少し極端な言い方をしている。)

Take stock of などという表現が出てきた(p.47)。「棚卸をする、詮索する」という意味か。まだまだ知らない英語の表現があるな。英語道の道は長い。