2020年12月20日日曜日

死生論 18

 Ernst Becker を読み進める。やはりいい本は読みやすい!さすがピューリッツァー賞受賞作品だけある。おそらく日本語訳もあるだろうが、ただでは手に入らないはずだ。著者はフロイトはどうやら霊魂の存在をどこかで信じていた可能性がある、という議論を展開する(P.108)。 無意識では不死を信じて、意識的には唯物論的な科学者であったという、一種の葛藤があったというのだ。これでフロイトの「無意識は不死を信じている」という言葉も意味が通じるのだ。フロイトは19182月に死ぬという予言を信じていたところもあるが、その月が何事もなく過ぎると、「ホラね、超自然現象などあてにならないのだ」、と言ったというが、その種の手のひら返しはフロイトの学問的な意味での不誠実さの表れだとベッカーは書いてある。分析関係者ではないだけにフロイトに忖度はない。 フロイトはこんなことも書いているというのだ。「私の迷信の信仰には、抑制された野心(不死)に根差しているmy own superstition has its roots in suppressed ambition (immortality).」 えー?そうなの?不死を野心として持つな
らば、やはり死への不安が彼の心の根底にあると考えてもいいのではないのではないか? さてベッカーの分かりやすい文章も、ここからその本質部分に迫るのだが、基礎知識に欠ける私には難しい。彼は言う。「ではそのことを野心として持つならば、どうして不死や迷信を信じ、それに自らの信念を譲ろうとしないのだろうか、とある。What makes the matter of yielding an ambivalent one, so difficult for Freud? それは人間が自分自身の父親になるという願望であり、これをある学者は「エディプス的な計画 oedipal project」と呼ぶそうだ。そしてここで causa-sui (キャウザスイ、と発音)という言葉が出てくる。自らが自らを生むという意味で、スピノザ、フロイト、サルトル、そしてこのベッカーが多用した概念であるという。辞書的には「
【自己原因】自己の存在が他のものに制約されず、みずからが自己の存在原因となっているもの。スコラ哲学での神、スピノザ実体(神)など。自因。」とある。フロイトのyielding 降伏しないというその姿勢そのものが、不死を野心として持っていることであり、私たちが最も大切にすべき姿勢、すなわち私たちは自分たちだけでは自らを支えることが出来ず、外の力に頼っているということを書いているというのだ。いわゆる bootstrapping という事だろうか? そういえば精神分析にはこの、自らの靴のかかとのつまみを引っ張り上げることで自らの体を浮かすという無益な試みのニュアンスがある。(ところでNorman Brown

Life Against Death もこの死生学についての必読書らしいな。1985年の書。原書はものすごく高いが、英語版のWikipedia に相当詳しい解説があるので、これを使わせてもらう。)ここに書かれている一連の問題は、要するにフロイトの自己愛の問題という事だが、それが死生学にまでつながっているとは知らなかった。段々深みに入っていくようだ。