2020年12月2日水曜日

死生論 1

  死生学について。精神分析で死生学を論じる意味はあるのだろうか。以前からこの問題に興味を持っていたが、精神分析ではあまり論じられていないようだ。これから3か月のプロジェクトで練ってみようと思う。これから当分の間ブログのタイトルは「死生学」である。実はこのタイトルではすでに論文や章を書いているが、英語では日の目を見たことがない。そこで少し頑張ってみようと思う。

似たような趣旨である発表原稿を書いたことがある。今年の5月にシドニーの学会で発表するつもりだったが、コロナの影響で中止になったのである。そこでたなざらしをしておいた論文を書きなおすのである。

その論文の主旨は次のようなものだった。現在人々は大いなる不確かさの中で生きている。何しろコロナのせいでますます何が将来起きるかがわからないのだ。大体「来年オリンピックが開かれるかどうかが分からない」なんて事態はここ数十年人は経験してこなかっただろう。人はあいまいさを好まない。ましてやそれが大きな経済的な影響や多くの人の人生設計を変えかねないとなれば、なおさらだ。しかし実は変わらないことがある。それは何事も変わっていく、ということなのである。

精神分析の歴史を振り返るならば、最近の分析家は知られないこと not known、知りえないこと unknowable についての探求心を旺盛に発揮しているようだ。ビオンの「O(オー)」をはじめとして。あるいはカントの物自体、ウィニコットの知られざるものIncognito も関連していると言えるだろう。フロイトは「抑圧しているものを知ること」を分析の終結の目標とした。彼は心の秘密を知ることについては楽観的だったようだ。しかし実は彼は儚いもの、消えていくものにも興味を持っていたことはあまり知られてはいない。