2020年12月6日日曜日

死生論 4

 ここで議論をまとめるならば、そしてこれは最近の私の考え方に一貫していることではあるが、死の受容に関しては、人によって、そしてその人の置かれた状況において、ピンからキリまであるという事だ。一種のスペクトラムを形成していると言っていい。そして私たちはその上をフラフラ動いているわけであり、その力動が大事なのだ。1924年になると、フロイトはリビドーそのものの絶対量とその増減だけでなく、そのテンポとリズムに注目するようになった。リビドーは刺激の量によって増減すると彼は言っている。フロムやホフマンのいう心の状態は、一定のサトリのような境地に至って動かないというわけではなく、テンポとリズムを形成していて、決して静的なものではなかったはずだ。ホフマンは、フロイトの「儚さ」の議論は心のダイナミズムや揺らぎに関係したものであったことを示唆している。その意味でホフマンの弁証法的構成主義とは近縁のものだったのだ。

さて次は文化的な意味合いについて論を進める。日本文化においては、ぼかされているもの、両義的なもの、はかないものに対する関心が非常に強い。フロイトの儚さの議論を詩人の友達は受け入れなかったが、日本人ならもっと受け止められたであろうと考えるのは私が身内贔屓だからだろうか。北山はこの点に触れ、日本人の好む儚さの例として花弁やホタルや線香花火などを例に挙げる。松木もそこに不在なものの意味を読み込む日本人の心理を描いている。

ここで私の見解を言えば、日本人にとってこの儚さの問題が一番典型的に表れていると思えるのが、お花見である。そこでは桜の花びら儚く散っていくことを風流と考えるのである。間違いなく人は自分の儚い命の運命をこの桜の花びらに投影しているのである。「儚さの価値は時間的な希少性である transience value is scarcity value in time.」というフロイトの心に近いものとしてはこの花見の心理ほどふさわしいものはない。フロイト自身も言っているのだ。「一晩で散ってしまう花は、そのことで美しさが損なわれるものではない。」フロイトは日本人の花見のことを知っていてこんなことを書いたのだろうか? まさか。北山は自らを卑下する日本人の心は、しかし自虐傾向を生む可能性があると忠告を追加している。