2020年12月13日日曜日

死生論 11

 実はこの本(Unwerth FR(「フロイトのレクイエム))、読んでもよく分からないことだらけだ。ざっと読んだが分からないところは読み飛ばして一応最後まで読み終えた感じ。いろいろなところにクエスチョンマークを付けたいが、キンドルだから書き込みができない。(紙媒体のFRを買ってスキャンしてPDFにすればいいのだが、古本で買うと一万円近く値が張り、とても買う気になれない。しかしキンドルだと数百円で買えるので、それを読んでいるのだ。)

しかしそれにしてもFRをこれ以上読むことに意味があるのだろうか?私の理解力が追い付かない。そこで少し寝かせておいて、私の論文を読んだ「友人」のアドバイスを読み直して、この論文を書きなおせるかを検討したい。友人はこういう。「筆者は儚さとダイナミズムとホフマンの弁証法の議論を結び付けるが、早急で読者は詳しい議論の展開なしにはついてきてくれない」という。それはわかる気がする。「日本文化について面白い議論を展開しようとしているのなら、もっと参照すべき文献を挙げて欲しい。これでは短くてよく分からない」。それもわかる気がする。結局この論文の路線についてクレームがついたというわけではなさそうである。でもともかくもフロイトの「儚さ」論文が分析学界でどの様に議論されているのかについてもう少しきちんと論じなくてはならない、という事らしい。そこでとにかくもう少しFRを読み込むべきという事か。結局そうなる。

しかしその前に少し、この生死論の問題、自由連想をしてみる。
そもそもなぜ生死論なのか。それは精神分析において、これが最大で最重要の問題だからである。死の問題はだれも直視したがらない。死の問題を中心に据えた学問は、少なくとも大流行りはしない。自死を奨めたり賛美したりするような傾向は、表立っては論じられないだろう。せいぜい安楽死、尊厳死の文脈において議論の対象となるに留まる。しかし臨床場面は死の問題であふれる。クライエントから「死にたい」「生きていたくない」という言葉は私たちの臨床の一部である。もし精神分析が私たちが抑圧する心の内容に関心を持つとしたら、死の問題はその際重要問題と考えていい。フロイトももちろん死については深く考えている。そしてその見解は複雑に変化している。それがどの程度妥当なものかについての議論が、おそらく精神分析理論の中では大きなテーマとなっている。

死のテーマは私にとっても重要なテーマだ。これは私が関心のあるいくつかのテーマ、すなわち恥や対人恐怖の問題、自己愛の問題、解離の問題、関係論的な分析理論についてのテーマに加えて重要なものである。それはどうしてか。それは私にとっては死の問題はとても気になるからである。私はなるべくいろいろなことについて考えたい。私は自己欺瞞についてはとても気になるし、それをできるだけ回避したいと思う。あることを考えまいとしている時、考えまいとしているという事は自覚しておきたい。それさえも自分にあいまいにするのが自己欺瞞だ。そして死のテーマについて人はまさに自己欺瞞的な姿勢を有しているし、私もそうである。ではどうして死のことが気になりながら考えたくないかと言えば、死がやはり恐ろしいし、実感としてわかないし、考えないでいるのが楽だからだ。しかしこの問題を突き詰めて、それなりの方針を取ることでそれは別の意味を持ってくるのではないかと思う。少しはそれについての不安が軽減し、むしろ楽しみにすることもできるかもしれないではないか。やがて来る死を楽しみにしつつ毎日を楽しく生きる、ということが出来るのであれば、それは人間として望ましい姿だろう