2020年12月3日木曜日

死生論 2

  フロイトの有名だがあまり知られていない(明らかに矛盾する表現だ!)「儚さについて On Transience」という1916年の論文がある。その中で、リルケと目されている詩人が「美しいものはいつかは消えてしまう、ああ!」と嘆いたのに対して、フロイトは、「消えていくから美しいのだよ」と言った。彼が言いたかったのは、私たちの生がうつろいやすいという思考が、生の楽しみを奪うのはおかしいではないか」ということであろうが、それは達観しすぎではないだろうか。私が苦労して翻訳したアーウィン・ホフマン先生は、これはフロイトの死生観が表されているのだ、と論じた。私もそう思う。ホフマンがさらに言ったのは、「無意識は死を知らない」、というフロイトの別のところでの主張(戦争と死に関する考察、1915年)とも矛盾するということだ。ホフマンが言っていたのは、極めて重要なこと、つまり私たちの生は、死という意味の欠如meaninglessness を背景にすることでその価値を与えられるという。これもフロイトの関係と重なっているようで重要な点だ。ここら辺を読み直すと、結構ちゃんと書いてあるなあ、と我ながら思う。

ところでこの儚さについての論文の中で、フロイトはもう一つ議論を醸すことになった主張をしている。それは「美は失われるから価値が下がる、という考えをする人は、ちゃんと喪の作業をしていない人たちだ」といったことである。意味が分かるだろうか。大事なものを失うことはもちろん悲しい。しかしそれについて喪の作業をすることで、失われたものは内在化されるから大丈夫なのだ、ということである。このことは彼が「喪とメランコリー」(1917) で主張したことだが、彼はこれを後に修正している。そう、土台喪の作業が完遂することなど無理なのだ。