2020年12月25日金曜日

死生論 23

  Kierkegaard はいまや哲学の分野で新しく光が当たるようになっているという。それだけでなく、彼は精神分析家であった、とベッカーは言うのだが、これはどういうことか。ベッカーさんはKierkegaard (以下、K)を掛け値なしの天才としている。彼の議論は失楽myth of the Fall の話から始まるという。それは人が自意識を獲得し、自分の運命を恐れることになった瞬間を意味し、それはフロムが「人間の本質」と呼んだものである。Kはこれをsynthesis of the soulish and bodily というのだが、どう訳せるのか。魂性(読めない)と身体性の統合、とでもいうのか。アダムが知恵のリンゴを食べたときに神が「お前は確かに死ぬ」と宣告して以来の人間の宿命。Kによると人はこの絶滅に対する恐怖を回避するために性格を形成する。精神分析が考えたように、心理学とは人が不安をいかに回避するかをめぐる学問であるという。Kはこの死ぬべき運命を意識することを回避する手段として、half-obscurity とかshut-upness とかの言葉を用いたり、そのための強迫的な性格について論じたりしたというが、これは精神分析における防衛機制と同じ議論だという。 それでKが精神分析家だったという意味がようやく通じたことになる。 ここら辺から議論は、Kがこのshut-upness を論じるとき、これは一種の自己欺瞞のことかと思える。The lie of character とも訳されるようだし。人が真実に目をつぶることを意味し、それはinauthentic 不誠実でもあるという(p.73)。結局これはサルトルが言う自己欺瞞mauvaise foi にもつながる。フロイトの抑圧よりはこちらの方が人の心の在り方を表現している。そしてこれはKのshut-upness (グーグルで調べたら「閉じこもり」という翻訳が出てきたぞ。これで行くか。) フロイトが言う「否認denial」ならまだ近いか。

Kは人間は有限 finite と無限 infinite との統合であるという。無限の苦悩infinitude’s despair という言葉を用いる。これは人間が無限に投げ出されて、一種の狂気に陥ることをも意味する。精神分裂病は彼によってはこのようにとらえられていたというわけだ。