2020年12月10日木曜日

死生論 8

今アメリカではとんでもないことが起き、大統領選の結果が覆されようとしているのに(テキサス州他10州がいくつかの州を違憲として連邦最高裁に提訴)、日本のメディアも、それにアメリカのメディアにもそれが出てこないのはどうしてだろう。私たちが通常知りえる情報はそんなものだろうか。  

しかしそれにしても自己を愛す、というのはいったいどう意味だろうか。フロイトの自己愛の議論は私はあまり惹かれずにこれまで十分に考えないでいた。というより私たちはそもそも自己を愛さずにいられるものだろうか? 私がこのように言うのには根拠がある。報酬系の問題だ。私たちの脳はその奥深くに側坐核と言われる部位を持ち、そこの刺激により快感を体験するようにできている。報酬とは、快感とは何か、について定義するならば、それを求めて生命体が行動を行うことを定められているもの、としか言いようがない。「きもちいい!」は決して可視化できない。クオリア以外の何物でもないのだ。しかし私たちの中には、通常は快の逆、すなわち不快や痛みを起こすべき刺激が快につながるという体験を持つ人もいる。辛いもの好きな人にとっては、10倍激辛カレーを食べることで刺激される舌の痛覚がどういうわけか報酬系につながってしまうから、病みつきになる、というわけである。それもあくまでも自分の脳の中にある側坐核が刺激することで体験されるものだ。だからそのように考えると、自分と似た対象を選ぶことは、あまり自己愛的とは言えないことになる。自分に似た対象の頭を撫でても、その対象が自分とは別個の存在であり、別個の報酬系を備えている以上、「撫でてもらった快感」を自分のものとすることができないからだ。だから結局私には、フロイトのいう自己愛的な対象選択という意味がぴんと来ないのだ。

 まあこだわっていたら進めないので、先に行こう。FR3章の第3節あたりが重要だ。フロイトは過去のことは決して忘却されず、無意識に残るのだという。完全に忘れる、ということはないという説だ。その意味で過去の記憶は死体ではない。それはオデッセイウスに出てくるような亡霊ghostのようなものだという。そしてそれは血を飲むことで再び生き返るのだというわけだ。ユリシウスは自分の過去を知るために、地下に赴く。ちょうど生き血を飲んだ死者が蘇るように、人間は現在の体験some new experienceを過去に移すことでその記憶を呼び覚ますことになるという。その現在の体験の例として出てくるのが、「ちょっとしたことに激しく怒ること」だというが、これはフロイトが実際に言っていることなのか、それとも著者Unwerth が付けた説明なのかは不明だ。ただしこれはいかにも解離の話のようにも見える。夢判断においても、そのような決して消えない記憶の性質はもろ刃の刃だと説明される。つまり思い出されないとしても、亡霊のように現在の生活に影響を与えるのだ。つまりフロイトにとっての無意識とは、過去の記憶から成り立っているということになる。面白い考え方だがその通りだろう。