2021年7月29日木曜日

嫌悪の精神病理 推敲 6

 私たちの日常生活は主要部分が「仮想的」快、苦痛である

ところでこのように快、苦痛を「仮想的」「現実的」と分けて考えると、私たちの現実の生活はかなり両者が入り混じっていることが分かる。そればかりでなく、その主要部分は「仮想的」なもので構成されていると考えていいだろう。私たちの求める快も、私たちが回避する苦痛も、その多くについて私たちはそれがあらかじめ予想され、想像された時点で接近ないしは回避という行動を開始するのがふつうである。読者は例のウォルター・ミッシェルの「マシュマロ・テスト」をご存じだろうか。子供は目の前に出された一つのマシュマロを15分間我慢して食べずにいたら、2つのマシュマロをもらえる、と言われる。そしてその後の子供の行動を観察するわけだ。自分の衝動をコントロールできる子供は目の前の、あるいは直接的に体験される快を延期して、最終的に得られるより大きな快を獲得する。フロイトが唱えた「現実原則」はそれを端的に表現しているといえるだろう。
 私たちの現実生活は、このマシュマロテストを常に行っているようなものだ。私たちは直接的な快を求めて生活を営んでいるわけではない。将来の快を求めて現実の苦しさに耐えることもある。さらに言えば、私たちの快や苦痛の多くは、現実的な部分を伴わない、実質上仮想的な部分のみによって構成されているものが多いのである。
 例えば私たちが求める地位や名誉はどうだろうか? 達成感や自尊心の満足でもいい。 あるいはそれらが失われた場合の苦痛はどうだろうか? これらの快や苦痛に含まれる「現実的」な部分はおそらくわずかであろう。地位や名誉は直接生理的に体験することができない部分が大きい。「社長の椅子」の座り心地は普通の椅子の感触以上のものは与えないだろう。しかしそこに「仮想的」な部分(「俺は社長だからここに座っているのだ」という認識など)が加わることで一見生理的な満足に近いものが味わわれるだけである。そして突然社長の地位を追われた人が体験する苦痛もまた「仮想的」な部分が大半であろう。ここでこの「仮想的」部分に深く関係しているのが記憶のメカニズムである。それはそれらの快、苦痛が「仮想的」なものであるために必然的に生じてくる性質である。そしれそれゆえに、これらは時間をかけて、徐々に体験されていくという性質を有する。
 もうひと昔になるが、オリンピックで金メダルを獲得したある水泳選手が、レース後の会見で「チョー気持ちいい!」と叫んだ。金メダル獲得は彼にとって考えられないほどの喜びをもたらしたのであろう。しかし金メダル獲得は「仮想的」なものに過ぎない。メダリストたちがよくやる「金メダルを齧る」というポーズは決して生理的な快感を与えるわけではないのだ。そしてその喜びは一挙に、その場で体験されることはない。ほとんどの受賞者は「にわかには信じられない」「実感がわかない」と心境を語るのだ。そして次の朝目が覚めて、改めて「やった!金メダルとった!」と、より実感を持つようになっていくのだろう。そしてその逆のプロセス、すなわち喪失の場合も同様である。何事かを失ったとき、おそらく私たちはその瞬間にはその全体を体験することが出来ず、実感が持てないという感覚を、それが喪の作業ということになるのだ。