2021年7月30日金曜日

嫌悪の精神病理 推敲 7

 他方嫌悪についてはどうか。私たちがしばしば出会うのは、ある事柄や人、生物に対して私たちが時に示す著しい嫌悪感情である。私たちが日ごろキッチンの隅あたりでひょっこり出会うあの虫のことなどは、話題にされるだけでも顔を顰められかねないだろう。その存在に出会うくらいなら、もうあの家には住みたくない、と自宅への帰宅を拒否する女性などの話も聞くくらいである。さらに嫌悪の対象は人にも及ぶ。「あの上司の手に触れたものには近づきたくない」などという訴えには生理的な要素が加わり、いわゆる不潔恐怖のニュアンスがかなり濃いことが分かる。私たちが特定の対象に対して抱く嫌悪感はいったいどのような意味を持ち、なぜ生じるのだろうか。
 一つ間違えのないことは、嫌悪は明らかに学習の産物であるということだ。つまりそれはある種の不快な体験を持ったという記憶により成立する。ダーウィンは、天敵のいない環境で繁栄した野生動物は、人を全く恐れることがないためにあっという間に絶滅してしまうと報告している。恐怖や苦痛を体験することで、ある事柄は脳に嫌悪刺激として刻印され、それがその後の確実な回避行動を生むのだ。そしてその脳のレベルでの主役は中脳の扁桃体である。扁桃体の外側基底核は嫌悪刺激やそれに関連した情報を感知すると、すぐさま扁桃体中央核に送り、嫌悪感情を引き起こすとともにすぐさまそれを回避する行動を起こさせる。そしてそのルートは生涯消えることがない。それにより生命体は天敵を逃れ、捕食される可能性を回避することにより、生き延びることが出来る。その意味ではこの嫌悪刺激への反応は非常に合目的的である。

 いわゆるトラウマ記憶

このように嫌悪刺激への反応は本来は私たち生命体が生き延びるために用いる手法であり、基本的には合目的的である。しかしその嫌悪刺激がある過去の体験に結びつき、それがその人の社会生活を損なう程度の苦しみを与えるとしたらどうだろう。しかも危険を及ぼすような事態はもはや存在していないにもかかわらず、その人を恐怖に陥れ、身動きができない状態にしてしまうとしたらどうだろうか。
 精神医学や心理学の世界でこの半世紀ほど大きな関心を集めているテーマがある。それがいわゆるトラウマの問題であり、そこで問題となる記憶がトラウマ記憶と呼ばれている。このトラウマ記憶はPTSDや解離性障害などの数多くの精神病理と関係している。その中でもいわゆるフラッシュバックと呼ばれる現象は、一種の嫌悪刺激であり、多くの人々を苦しめている。しかし最近の脳科学の進歩により、さまざまな治療手段が模索されている分野でもある。
 トラウマ記憶によるフラッシュバックの特徴はそれが通常の出来事に関する記憶とは著しく異なる性質を持っているということである。それは感覚的、情緒的であり、また唐突に、あるいはトラウマを思い起こさせるようなトリガーにより襲ってくるのだ。
 ここで記憶の仕組みについて復習しよう。ある事柄についての記憶は、顕在的(意識的)部分と、潜在的(無意識的)部分に分かれる。いつどこで何があったか、という時空間的な情報はエピソード記憶であり、顕在的な部分に相当するが、それだけではない。そこに悲しみや傷つきなどの情緒的、感覚的な部分も含まれる。そしてそれは扁桃核を介した条件付けのようになり、その記憶を呼び起こすようなキューにより繰り返し思い出されるのだ。要するにその記憶の含む感覚、情緒部分であり、すでに説明した嫌悪刺激の深刻なものと考えることが出来る。したがってそれをつかさどるのは扁桃核を中心とした諸器官である。
 トラウマ記憶のもう一つの特徴は、それが極めて強く脳に刻印される一方では、そのエピソード記憶の部分がしばしばあいまいであったり、忘却ないし解離されたりしているということである。トラウマにおいては扁桃核が強く興奮する際に海馬の活動を抑制することが知られている。すると通常のエピソード部分を欠いた感覚や情緒的な記憶になってしまうのである。