2021年7月16日金曜日

嫌悪の精神病理 5

 嫌悪の病理として、依存症に関連したトピックについて論じたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは快や嫌悪と記憶との関連だ。

このテーマでは以前このようなことを書いた。私たちは例えば10万円の入った札入れをある日どこかになくしてしまう。ほぼ出てくる見込みはない。そして心の中で叫ぶ。「アイター」。これは明らかな嫌悪刺激と言えるだろう。あなたは体にどこか痛みを覚えたわけでもないが、苦痛を体験する。ところが不思議なことに、「10万円失った!」という事を再び思い出したとき、確実にその痛みはより小さく体験されるはずだ。喪失に慣れてくる!そして思い出すごとに衝撃は小さくなっていく。これはなぜだろう?

そして同様のことは、逆に10万円拾った、という時も同様である。体のどこにも(口の中にも、指先にも)生理的な心地よさの刺激は感じていないが、心地よいことは確かだ。しかしこちらも時間が経つと以前のような感激は薄れる。快に慣れていくわけだ。この二つの現象に関係はあるのだろうか。

そもそも10万円自体は単なる紙切れだ。それ自身は心地よさや嫌悪刺激を与えてくれない。でも将来の具体的な快感(おいしいものを食べる、など)や苦痛(お金がないために必要な食料が買えない、など)を約束する。具体的な苦痛や快感を想像して先取りしてくれているという意味で、「先取り報酬」、ないしは「先取り嫌悪」と呼ぶことが出来るだろう。これはそもそもどのようなメカニズムとして理解できるのだろうか。