2021年7月19日月曜日

嫌悪の精神病理 8

 こうして快が記憶に関係することは比較的容易にわかる。では苦痛はどうか。これもその応用でわかることだ。カエルが目の前に差し出されてもう九分九厘自分の口に入ったと思ったコオロギをほかの個体に横取りされたらどうか? これは報酬をほとんど手に入れたときの快のネガティブ、すなわち苦痛に他ならないだろう。だから失ったときの苦痛は、それを全体として一気に失ったときの記憶を少しずつ切り崩していく。こうもいえないか。生命体は獲得も喪失も、一挙に行うことが出来ない。そこには記憶のメカニズムが働いていて(ということは時間のかかるタンパク合成が絡んでいて)、一挙に処理をすることが出来ないからだ。だからオリンピックで金メダルを獲得した人は、それが予想外で、にわかには信じられないという人の場合は、その瞬間は現実感がわかないはずだ。そして次の朝目が覚めて、改めて「やった!金メダルとった!」と、改めてまだ実感がわかなかった分を少しずつ取り込んでいく。喪失の場合も同様で、それが喪の作業ということになるのだ。
 ここまでの考察で、私はこれを記憶のプロセスと関連付けているが、本当に記憶の問題かどうかは私にはよくわからない。例えば「金メダルを取った!」という記憶は、それを取った時点ですでにしっかり形成されているとは言えないか。しかしでは実感の伴わない記憶はそれでも記憶なのか。外傷記憶で、情緒的な部分とエピソード記憶の部分のうち前者だけが切り離されるということが言われる。同じように情緒部分は金メダルについてもいえることなのだ。だからここは「記憶の情緒部分」と言い換えればいいのだろう。
 すると嫌悪の病理で問題となるのは、外傷体験を忘れられないという問題と同じではないだろうか。あるトラウマを体験する。それは通常の喪失、ないしは嫌悪の体験とは異なる。それを体験してもその全体量が切り崩されて行かない。それどころかいつも同じ痛みでよみがえる。
 両側の海馬を失った症例HMの話を思い出す。彼は父親を亡くしたことを母親から何度聞かされても、初めて聞いたのと同じ効果を及ぼす。HMは泣き崩れる。しかしそれも一時で、すぐ父親を亡くしたことを忘れる。すると再びそのニュースを母親から聞かされて泣き崩れる。これはトラウマのフラッシュバックを繰り返すことと少し似ている。痛みは決して減殺されて行かない。喪のプロセスでは、情緒部分がエピソード記憶とつながっていることで進んでいく。トラウマは両者の関連が失われることで半永久的に苦痛を与え続ける可能性があるのだ。