2021年7月1日木曜日

パーソナルセラピー 3

  ちなみに私はちょうどこのテーマについて、かつて発表したことがある。それは2018年の分析学会で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマで発表し、その後原稿化したものである。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。
 私はかつてあるセミナーで、患者からのメールにこたえるかどうか、という話題が持ち上がった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、先生によりその問いに対する答えが異なっていた。そのセミナーでは私が答えるべしと言って、別の先生が答えるべきでないと言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしそれを聞いていた聴衆の方から苦情があった。講師が違うことを言っているので混乱をしたという苦情があった。
 私はこの苦情を聞いた時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った気持ちを、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような言い方をした。
 「異なる先生が違うことを言うというのは日常茶飯事です。臨床の場でも起きることです。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこに正解はないという事を表している。これからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。」
 そしてこのプロセスが「学びほぐし」と言われるものだと思う。ちなみに似ている概念として、フロイトの学習 learning と事後学習 after-learning という区別があり、少し関連性がある。ともかくも精神療法家になるために必要なのは、この学びほぐしの典型的なものなのだ。学びほぐしという言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。ヘレンケラーが沢山学んでは learn 脱学習した unlearn と言ったのを聞いて、即座に「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。

そもそも物事を学ぶという事はいくつかの「ABである」とか「●●はしてはならない」などの決まり事を頭に叩き込むプロセスと言える。しかしそれを深く学んでいくうちに、「ABであるという教えはこのような根拠から生まれたのだ」とか「●●はしてはならない」とはあのような意味が込められていたのだ、と知ることで、逆にでも「ABではないこともあるよね」とか「●●はしていい場合もあるよね」という考えが生まれ、これらの決まりごとが常に正しいわけではないことが分かる。そこから先は自分にとっての決まり事を作っていくというプロセスに入っていくべきであり、それがこの学びほぐしだと言える。
 ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人の思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。
フロイトの理論には素晴らしい概念や発想と、それほどでもなかったり明らかにフロイトの気まぐれではないかというものもある。フロイトは天才だったが、天才はいくつもの真実を発見するだけではない。いくつものミスショットもあるのだ。霊能力者と言われる人たちでも、その発想や直感のいくつかは真実であってもその他の多くが誤っているのと同じである。そしてフロイトの理論の中にも、無意識や転移や抵抗と言った優れた概念もあれば、リビドー論、死の本能などのように構成の分析家にあまり受けなかった概念もある。そしてその中間にある多くの概念がケースバイケースとしか言えないものもある。フロイトが治療原則として掲げた、匿名性とか禁欲原則、受け身性などもいずれも相対的なものであるとギャバード先生が喝破している。だからフロイト理論を学ぶことは、必然的にその理論のどれを自分のものとするかにおいての取捨選択がどうしても必要になるのである。
さて学びほぐしは、師弟関係でも、バイザーバージ―関係でも起きる。フロイト全集を何度も読んでまずは学び、それを学びほぐしていくことはできるが、多くの場合私たちは誰かから何かを学ぶ。そしてその学んだものをほぐしていく過程で、師とのバトルは当然生じてくるものなのである。