2025年9月30日火曜日

遊戯療法 文字化 1

 遊戯療法と精神療法 - そのかけ橋としての愛着理論

本稿では精神療法における遊びやプレイフルネスの持つ意味について、愛着理論や最近の脳科学に基づいた理論を援用しながら、その臨床的な意義について論じる。


精神療法で「遊び」を感じる瞬間とは?
さて心理療法、カウンセリングは常にプレイセラピー的である、ということはどういうことなのかから始めなくてはならない。私は精神分析の出身であるが、私がこれからお話しすることは、精神分析的な超自我からの抑制がかかる可能性もある。しかし後に出てくるように、精神分析の世界ではドナルド・ウィニコットやジョン・ボウルビー、ダニエル・スターン、ピーター・フォナギー、アラン・ショア、ジェレミー・ホームズといった大先輩たちが私と同様のことを考えているのである。そこで彼らに勇気をもらいながら論を進めていこうと思う。

 さて私が心理療法はプレイセラピー的だと考える際、別にセッション中に冗談を言って笑い合ったり、一緒に卓球やオセロをして楽しむというようなことではない。それは患者さんとの対話の中で自然に生じてくるのである。それらの具体的な例としては、一緒に他愛のないおしゃべり chatting をしたり、時には一緒に笑ったり、一緒に心を動かしたり、ということである。

 例えば新患さんとのインテーク面接の始まりに、「東北の森林火災は大変だね。」とか「長嶋さん、なくなったね。」とか「毎日鬱陶しい雨ですね。」などなど治療者としてではなく、一隣人として話しかけることがあります。向こうはこちらをいちおう一種の権威と思っているのが普通だから、それで表情が硬く、緊張した様子を示すこともある。それを少しでも解消するためにこのように話しかけるのである。時には私が軽く自分のことを話したり、今度は患者の趣味や専門分野について尋ねてその世界について子供の様になって質問をしたりすることもある。


2025年9月29日月曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 3

  以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。

 この「普通の男性の性加害性」問題は、①②と異なり、おそらく病気としては扱われないという事情がある。それはもっともなことだろう。そこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居氏や山口氏や松本氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)

以下、前のバージョンとほとんど変わりないので省略。本当はかなり突っ込んだことも書いてある。

2025年9月28日日曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 3

 変換症およびびFNDとしての歴史 (DSMの登場)

 ここまではヒステリーについて論じてきたが、1980年代以降はヒステリーという名称が避けられ、変換症 conversion disorder という名前になる。それが具体的に反映されたのがDSM-Ⅲ(1980)の診断基準においてである。DSMの旧版、すなわち1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型、変換型)という表現が存在した。ただ1970年代になり、様々なトラウマを体験した人々、例えばベトナム戦争の帰還兵や性被害者や幼児虐待の犠牲者にさまざまな解離及び身体症状が見られたこともあり、それまでともすると偏見の対象になりがちで、いわば手垢のついたヒステリーという概念や呼称が表舞台から去るきっけとなった。
 しかしDSM-IIIで定義された変換症は本質的には従来のそれと変わらなかった。すなわちそれは、心理的要因が病因として関与していると判断され、そこに疾病利得が存在すると考えられるものとされた(B項目)。変換症 conversion dirorder という名称は、無意識領域に抑圧された葛藤が身体領域に象徴的に「変換」されたもの、という Freud の理解がそのまま引き継がれたものと言える。

このDSM-Ⅲの診断基準で注目すべきなのは、それまでヒステリーの名のもとに分類されていた変換症が、「身体表現性障害」として分類されることになったことである。これはDSM₋IIIが「無理論性」を重んじ、身体症状を示す変換症と精神症状を示す解離症を同じカテゴリーのもとに置くことを回避したせいであるが、その後2013年のDSM₋5に至ってもこの方針は変わらず、もう一つの世界的な疾病の診断基準であるWHOのICDとの間の齟齬が生じたままである。

1994年に発刊されたDSM-IVでも上記の分類のされ方は変わらなかった。ただしDSM-IIIでは心因の存在と疾病利得をうたったB項目は心理的要因のみとなり、疾病利得の存在を診断基準として含まなくなったことは注目すべきであろう。

2025年9月27日土曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 3

  以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。

 この「普通の男性の性加害性」問題は、①②と異なり、おそらく病気としては扱われないという事情がある。それはもっともなことだろう。そこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居氏や山口氏や松本氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)
 しかしこの「普通の男性の性加害性」は社会に大きな問題を引き起こし、また数多くの犠牲者を生み出している問題であり、しかもこれまで十分に光が当てられてこなかったのである。特に病気とは言えず、一見普通の人が起こす問題だけに、私たちにとって一種の盲点になっていたのだろうか。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 この「普通の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

 「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 ここで「普通の男性の性加害性」の一つの重大な特徴を述べるならば、それはいったんその満足を追求しだすと加速していくということだ。彼は可能な限りオーガスムに向かって突き進むだろう。そしてそれを途中で止めることは難しい。これは飲酒やギャンブルと大きく違うところだろう。例えば酒なら、飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、たぶんそうだと思う。いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
 ではギャンブルはどうか。これも最後にオーガズムに達するということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、一定の量を使い、最終的にオーガスムに達するまで止められない、というわけではない。そして一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先に死が待っている。


     (以下略)

2025年9月26日金曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 2

 ヒステリーの学術的な扱いを始めCharcotとFreud

 ヒステリーに対する上記のような偏見を取り去り、それを医学の土俵に持ち込んだのが、Charcot だったことについては異論の余地はない。Charcot はそれまでに様々な神経疾患に関する業績を残したすぐれた臨床観察を行う研究者でもあったが、1962年にパリのサルペトリエール病院の「女性けいれん病棟」を担当したことが大きな転機となった。そのころのけいれん発作が脳波異常を伴ったてんかんによるものか、ヒステリー性(すなわち解離性)のものかを区別する手立てはなかったが、Charcot はそれらを一律に説明する概念としてヒステリーの大発作という概念を提出した。そしてこの大発作が四つの段階(「類てんかん期」「大運動発作期」「熱情的態度期」「譫妄期」)を示すと考え、それを詳細に記載したのである。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明することが出来たのである。しかし先程も述べた事情から、サルペトリエールの観察対象にはてんかん患者を混入させていた可能性が高かったため(Webster, 1996)この病型を分類することにどのような意味があったかは不明である。(Ellenberger, 1979)。

 現在の観点から Charcot のヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、ひとつの問題は、Charcot がヒステリーを自分の専門の神経学に属する疾患として整理し理解しようとしたことになる。しかし現在のFNSの概念の見直しの趨勢を見ると、それを神経疾患と見なそうとした Charcot にもそれなりの先見の明があったと考えることもできるだろう。
Charcot がヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。例えばCharcotはヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際に男性の患者を供覧することにより示した。またCharcotは、ヒステリーが心的外傷一般、によるものとも考えられ、このこのヒステリーの外傷説が、Freudの理論形成に大きな影響を与えたのである。
 この Charcot の影響を受けた Freud と Janet はそれぞれ独自に自らの理論を発展させた。Freud は最初は Charcot にならいヒステリー症状は幼児期の性的外傷に基づくものとした。しかしのちに精神分析理論を発展させる中で、症状の背後には無意識領域に抑圧された葛藤が存在し、それが身体領域に象徴的に「変換」されたものが身体症状であると考えた。ここから精神症状は「解離ヒステリー」、身体症状は「転換ヒステリー」と呼ばれるようになったのである。
他方 Janet は解離という概念を用い、「自己の統合の病」であるとし、特定の思考や機能が切り離されて独自の自己感を持つに至るものとした。これは解離の機制を重んじ、心の統合性という概念を堅持したFreud との大きな相違点であったと言える。

Charcot とその後
 一世を風靡した Charcot の臨床講義ではあったが、あらかじめ病棟でいろいろ指導や打ち合わせをして症状を演じていたということも伝えられる(Hellenberger )。彼の客死後はそれまで忠実な部下であったBabiski は師の神経学的な業績を受け継ぐ一方ではヒステリーは暗示により生じて説得により消えるものだとしてそれに代わる'pithiatism' という造語を提案した。彼はこれを詐病とは区別しようとしたものの、半ば詐病者'semi-malingerers'であると表現した。これはそれまでのヒステリー概念の否定という意味を持っていたが、他方ではそれとの鑑別でバビンスキー反射を発見したという意味では神経学的な功績は大きかったと言える。

偏見の対象となり、詐病扱いされたヒステリーは、Freud や Janet によりそれが精神疾患として位置づけられた。ただしFreud が考えたようにそこには心因や疾病利得が存在するものという理解を出なかったと言える。


2025年9月25日木曜日

●甘え 推敲 2

 つまり土居先生にとっての甘えは、「相手に自分のニーズを暗黙のうちに読んでくれることを期待すること」と言い換えていいだろう。土居先生にとっては、「どうしてアメリカ人はこんな基本的なことをしないのだろう」という疑問があったわけだ。私も同じように感じた。しかししばらくアメリカに居たらそちらでの人間関係に慣れていった。どこが大きな違いかと言えば、日本ではお互いに mind rerading をするのが大変だが米国ではそれをしなくていい、ということだ。

つまりアメリカでは他人の気持ちを読んでくれないけれど、自分も読まなくてはいいということだ。

思い出したぞ。6年前にこんな論文を書いたことがあった。アメリカ時代の知人のマルドナドさんが編集して、私が一章を書いたのだ。


Okano, K. (2019) Working with Asian Families, Infants, and Young Children. In book: Clinical Handbook of Transcultural Infant Mental Health (pp.107-119)


私の患者さんの中にも、海外で暮らすと、言葉の不自由さはあっても(あるいはその為にさらに)人間関係で気を遣わなくていいのがとても楽だという方がいる。

それはさておき、私が「母子関係における養育観の二タイプ」(2024)で書いたのは、この問題と深く関係している。

「日本型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さに特徴づけられる。
「西欧型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の低さに特徴づけられる。

要するに日本では赤ちゃんがおなかが空いただろうと思ったら、母親の方からおっぱいを差し出すが、西欧型では、赤ちゃんがおなかが空いて泣くまでそうするべきではないという考え方だ。これはおよそあらゆる子育ての状況に行きわたっている可能性がある。泣いたら抱っこをするのは良くない。抱き癖がつくからだ、という風に。しかしこれって「単に母親が手を抜いているんじゃないの?」という気もしてくる。相手のニーズはそれが表明されるまで応えるべきではない、というのは対人関係で手を抜く絶好の口実かも知れないのだ。


2025年9月24日水曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 2

  次に②の性依存についてである。こちらは「一見普通の男性の性加害性」に関係するだろうか? 性依存に関しては、当人を満足させるようなパートナーは不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などの形をとる事になり、他人を巻き添えにするというよりは、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。ただしギャンブル依存などと違い、金銭的な問題が発生しにくいことも不幸中の幸いと言えなくはない。(ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろう。)  ちなみにこの②について、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。いちおうWHO発行のICD-11(2022年)には、CSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)として記載されていることを示しておこう。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5(2013)にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。


(以下略)

2025年9月23日火曜日

●甘え 推敲 1

 暮れのあるシンポでの発表のために、甘えについての考えを少しまとめておかなくてはならない、ということでこのシリーズが始まっている。 私の発表は「甘え」についての精神分析的視点からの考察であるが、私自身は以前に二つの論考を発表しているので、それに基づく考察ということになる。 1.岡野(1999) 甘えと「純粋な愛」という幻想. (北山修編(1999)「日本語臨床3「甘え」について考える 星和書店 に所収.) 2.岡野(2024) 母子関係における養育観の二タイプ. (高山敬太・南部広孝編(2024)<日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か. 京都大学学術出版会 に所収.)

ただし今回は討論者として北山先生をお招きしているということもあり、先生の「甘えにおける上下関係」という考えに対する私の考察という面を含んでいることになる。


甘えの何が画期的だったのか?


 改めて思うのは、甘えは日常語の一つであるのみならず、精神分析の世界では非常に画期的な概念であり、それだけに大きな注目を集めたものと考えることが出来るだろう。改めてそのどこが画期的だったのか。

 甘えという発想に至った経緯は、土居が「甘えの構造」(1971)の第一章で十二分に論じている。そこでは彼がアメリカで体験した対人間のコミュニケーションにおける違和感をいくつかの例を挙げて説明している。ごく簡単に言えば、アメリカ人はこちらが何を欲しているかを察して、それを向こうから与えてくれるという発想に非常に乏しいということだ。彼は空腹時にアメリカ人のホストに「お腹が空いているなら、アイスクリームがあるのだが」と言われて「初対面の相手にいきなりお腹が空いているかと聞かれて空いているとも言えず」遠慮気味に「空いていない」と答えたところ、「あ、そう」と言われたというエピソードを最初に出す。このような例は枚挙にいとまがないが、私自身もよくわかるつもりである。そのうち日本語にある「甘え」という表現がなぜ欧米にはないのか、という疑問に行きつき、この概念を発展させた。わかりやすく言えば、アイスクリームをオファーされた土居には「甘え」の気持ちがあり、ホストはそれを全く理解しなかったということになるだろう。


2025年9月22日月曜日

●甘え再考 10

 思いつくままに書いてみる。甘えに上下関係があるかという問題について。もちろんある。そして早期の母子関係ではハッキリ言えば子供は親を愛してすらいないと思う。乳児はそんなこと何もわからず、というか対象すら認識せず、それこそ自他の区別もつかず、ただ親にしがみつき、乳を吸うのみなのだ。つまり甘えの関係は、子の側に甘えの感情すらないところから出発するのだろう。要するに甘えは上からという形でしか始まらない。北山先生の指摘通りだと思う。

子供はそこで全てを魔術的に満たされることで初めて愛することを体験する。その意味で受身的対象愛と表現したフェレンチの言った通りである。そしてそこで一体感が身体的なものとして生まれる。この段階で子供は親を愛しているだろうか?恐らくそうではまだないのであろうが、その前提条件を形成している。それは母親との体験の心地よさを笑顔で返すことから始まるのだろう。動物ならペロペロ相手の顔を舐めるかもしれない。そしてそれはほとんど愛するということに近く、なぜならそのために母親は深く満たされるからだ。私は愛着の形成に問題が生じ、人を愛することに難しさを有する人に臨床上会うことが多いが、逆にこのような母子一体感を体験できた人で人を愛することに問題が生じたというケースを想像出来ないのである。それほど愛着関係はそこで相互に愛し合う関係をほぼ自動的に生む場なのではないかと思う。

さてでは平等の愛とは何か?これは土居先生の指摘通り観念の中にしかない。それが純粋の愛という幻想な訳だ(岡野説)。ではその由来はどこかと言えば、結局は愛着関係由来なのであろう。さて甘えが成立しない時に生じる様々な感情としての嫉みやひねくれなどはどうして動物との関係では生じないのはなぜだろう?赤ちゃんの時から人間に育てられたライオンが久しぶりに飼い主を見て、駆け寄って抱きつく以外の反応を見たことがないが、人だと久しぶりに会った親を無視をしたり罵倒したりしかねないだろう。人の母子関係には過剰な期待や裏切られ感などの余計なものが体験されるからろうか?


2025年9月21日日曜日

●甘え再考 9

 ここで私がどうしてもわからないのは、甘えの能動性の問題である。あるいは甘えるのは能動的なのか、受動的なのかという議論そのものの必要性である。このことについて論じる前に、私自身の甘えに関するもう一つの論文を思い出したい。それは以下の論文である。

岡野憲一郎 (2024)母子関係における養育観の二タイプ 文化的、生物学的、心理学的視点から. 高山敬太・南部広孝編 <日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か 京都大学学術出版会 の第4章(125-149.)

 

そこでのまとめは以下の通りだ。

甘えの概念を含む精神分析的な文脈に即して子育てについて論じた。そして異なる文化的な背景を持った子育て観には二つのタイプが併存していることを示した。それは「子どもの側からの愛情の希求の能動的な表現を待って応じるのか、それとも受動的な表現を先取りして応じるのか」という観点に基づくものであった。それらを以下のように提示することが出来るであろう。

「日本型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さに特徴づけられる。
「西欧型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の低さに特徴づけられる。

 ただしこれらの子育て観の二つのタイプを提示することには、これらのどちらかに優劣をつける目的も、また二者択一的な選択を促すという目的も持たない。精神分析的な文脈でこれを考える場合、それはウィニコットの概念化に表されているように、子育てにおいてどちらも必要な視点であり、いわば弁証法的な関係を有するのである。

この中での私の論述を引用する(p.138)。特に下線部分に注目していただきたい。

 前エディプス期の母子関係の問題は、いわゆる対象関係論の立場からもドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)により精力的に論じられていた(Winnicott 1956; 1965)。ウィニコットもまたフロイト理論において十分に注意を向けられなかった母子関係の精神発達との深い関係について論じた。ウィニコットは、赤ん坊は生まれて間もない時期には自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。そしてそのような関係は母親の側の「原初的な没頭」による赤ん坊のニーズを察知する能力により可能になるとした。この錯覚が生じる段階においては、親が乳房を差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と同時に生じることであり、だからこそ子どもはそれを「錯覚」するのである。しかし赤ん坊はその自我機能が成熟し、母親が原初的な没頭から覚める過程で、赤ん坊は自分の欲求がすぐには満たされないということを知る。それが「脱錯覚」の過程で、赤ん坊は現実の在り方を知るようになると考えた。

 このウィニコットの理論を、すでにみたロスバウムの視点との関連からとらえることで、私たちは興味深いことに気が付く。ロスバウムは「子どもの側からの愛情の希求の能動的な表現を待って応じるのか、それとも受動的な表現を先取りして応じるのか」という違いに基づいた文化差を論じた。しかし、この議論はウィニコットにより一九五〇~六〇年代にすでに先取りされていたことになる。すなわちこの母子両者の原初の愛着関係は、どちらかから一方向に生じているのではなく、両者の間に双方向に生じていると考えられるのである。

「甘える」と「甘えさせる」は同時に起きることに意味がある。ということは「甘えは能動的か受動的か」という問いの立て方が意味がないのだ。つまり甘えは能動的な受動性、ないしは受動的な能動性により特徴づけられるのだ。


2025年9月20日土曜日

FNSの世界 推敲の推敲の推敲 1

   本章はヒステリー(変換症、FND)の精神科からみた歴史というテーマについて論じる。すなわち本書の執筆を担当されている神経学の専門家とは異なる切り口からこのテーマについて論じることになる。はじめに本稿で用いる用語について述べたい。というのも本章に関してはめまぐるしい名称変更が近年あったからである。まずヒステリー hysteria はすでに過去のものとなりつつある概念ないし診断名であり、DSM-Ⅲ(1980)以降、解離性障害 dissociative disorder や転換性障害 conversion disorder へと引き継がれたという経緯がある。そして最近それがさらにFNDという表現を得たことになる。 以上の経緯を踏まえ、また用語の混乱を避けるため、本稿では同様の臨床的な表れをする状態に関して以下の3つを使い分けることとする。

● ヒステリー ・・・・・ DSM-Ⅲ(1980)以前の時代における変換症、FNSに相当する概念
● 変換症 ・・・・・ DSM-Ⅲ以降DSM-5(2013)までの時代における変換症、FNSに相当する概念、過去に転換と記載されてたものも本稿では変換という表現に変える。
● FNS ・・・・・ DSM-5以降の概念で、ここには変換症、機能性神経学的症状症、解離性神経学的症状症と同等のものとする。

ヒステリーの歴史

さてヒステリーに関する精神医学の歴史をひも解く、ということになるが、これを純粋に精神医学の歴史上の議論として切り分けることは簡単ではない。というのも昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていた。ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトは元々は神経解剖学者だったという風にである。さらには病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。
 さらに問題となるのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」が本来あるべき姿として存在したのか、という点である。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これはそもそも「学問」的な理解なのかということも疑わしくなる。
 ヒステリーは人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性がある。その古さはおそらくメランコリーなどと肩を並べるといってもいい。ヒステリーに関する記載はすでに古代エジプトの時代すなわち紀元前2000年ごろには存在していたとされるのだ。
紀元前5世紀には古代ギリシャの医聖ヒポクラテスがヒステリーを子宮の病として記載している。そもそもギリシャ語の「ヒステラ」(Gk. Hystera)「子宮」を意味することは広く知られている。かの哲学者プラトンもまた、ヒステリーについて次のように記載している。「子宮は体の中をさまようことで、行く先々で問題を起こす。特に子宮が丸まって胸や器官に詰まってしまった場合は、それが喘ぎや息苦しさを引き起こす。」「この病は子宮の血液や汚物の鬱滞のせいであり、それは男性の精巣から精子を洗い出すのと同じようにして洗い流さなくてはならない。」(Maines, 1998, p.24)

同じく古代ギリシャの医学者のガレノスは、紀元一世紀になりヒステリーについての理論を集大成した。それによるとヒステリーは特に処女、尼、寡婦に顕著に見受けられ、結婚している女性に時折見られることから、情熱的な女性が性的に充足されない場合に引き起こされるものであるとされた。ヒステリーのこのような扱われ方は、主としてヒステリーの持つドラマティックな身体症状が人々の注目を集めていたからであると考えられる。「子宮が体中を動き回る」ことによって引き起こされていたのは、主として身体面の様々な症状だったのである。ちなみに日本では「臓躁病」という記載が見られたが、これも同様の考えに基づくものである。小此木啓吾 ヒステリーの歴史 imago ヒステリー 1996年7号 青土社 18~29

Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press

岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社

ガレノスは非常に具体的な治療法について書いている。それによるとヒステリーは特に処女、尼、寡婦に顕著に見受けられることから、女性の性的欲求不満により生じると考えられ、治療法としては、既婚女性は性交渉を多く持つこと、そして独身女性は結婚すること、それ以外は性器への「マッサージ」を施すこと(これは今で言う性感マッサージということになるのだろう)と記載されている。驚くことにこの治療法がそれから二十世紀近くまで、すなわちシャルコーの出現まではヒステリーの治療のスタンダードとされるのだ(Lamberty, 2007))。にわかには信じがたい話である。
Lamberty, G.J.(2007) Understanding somatization in the practice of clinical neuropsychology. Oxford University Press.

つまりヒステリーは一種の詐病、得体のしれない病、という差別的なニュアンスを伴うとともに、女性の性愛性と深く結びついた概念であったことがわかる。それは女性のみがかかるもので性的な要因に起因するもの、という偏見があり、しかも女性器への刺激(マッサージ)による治療ということまで行われていたことからもわかる。ただしこれが精神医学という学問の歴史に属すると言えるかについては非常に疑問であろう。


2025年9月19日金曜日

🔴一見普通の男性の性加害性 1(再出発)

とにかく何回書き直してもまとまって行かない。ということは私の中でそれだけこの問題が曖昧なままだからだ。今回から「一見普通の男性の性加害性」とテーマを少し改めて再出発である。

今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐であり、かなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、語られることは少ないということである。そしてこの「一見普通の男性の性加害性」という問題はほとんど論じられてこなかったということだ。
すこしここで問題を整理してみたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。その点は確認しておきたい。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
先ず①に関しては以前は性倒錯 perversion という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリア」という呼び方に統一されている。Para とは 偏り deviation であり philia とは好み、親和性という意味である。つまりparaphillia とは通常とは異なる人ないし物に惹かれるという意味だ。性倒錯という呼び方にはかなり差別的な含みがあったが、パラフィリアはそうではないという理由でこの呼び方が一般になされるという事情もある。
パラフィリアは具体的には露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。パラフィリアは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアは性加害とどのように関係してくるかはケースバイケースといえよう。ある意味では本来のテーマである「一見普通の男性の起こす性加害行為」にも関係してくる可能性がある。なぜなら通常とは異なった対象に関連しているものの、結局は特定の人(多くは異性)を対象としたものであるからだ。たとえばフェティシズムの一例として、好きな異性の靴下や下着に関心を示すが、それを手に入れる際に相手の了解を得ていなかったりする場合が多いであろうし、その場合には加害的な要素が加わる事になる。あるいは盗撮、露出、覗きなども特定の相手あって生じるのであり、同様に侵襲的で加害的である場合が多い。
しかしパラフィリアの中には「対物性愛」というジャンルもある。その際は例えばエッフェル塔に性的興奮を覚えたりすることになるが、エッフェル塔を損壊でもしない限りは加害性は考えにくい。
このような意味で「一見普通の男性の豹変」かパラフィリア的な行為を含むことがあるが、逆にすべてのパラフィリアが加害的であるとは限らないという複雑な関係がある。ともあれパラフィリアと「一見普通の男性の豹変」の問題は別個の問題だと言えよう。

☜ ここは大きく書き直す必要アリ。盗撮の持つ児童への加害性は重要な社会問題になってきているのが、昨今の報道から明らかだ。テーマを「一見普通の男性の性加害性」と改めた場合、これに明らかに該当する男性がたくさんいるのである。


2025年9月18日木曜日

男性の豹変の問題 4

 この男性の性愛性の問題は思いのほか時間的な余裕のもとに考察することが出来ることが分かった。というのも来年の3月くらいを目安にまとめればいいということになったのだ。

実は二週間ほど前だが週刊文春を読んで暗澹たる気持ちになった。それは確信犯的な盗撮グループがいるということだ。またまたどうしようもない男性たち・・・・。そこでその記事を電子媒体で読もうと思ったら、次のような記事に出くわした。

「盗撮さえしなければ、いい夫なんです…」妊娠中に夫が”盗撮”で逮捕→クビ、義両親からも非難され…それでも離婚しなかった“性犯罪者の家族”の悲しすぎる実情

『夫が痴漢で逮捕されました』より #1

 「加害者家族」――罪を犯してしまった当人の親やパートナー、子どもなど血縁関係にある人たちは、欧米では「隠れた被害者」と呼ばれる。加害者家族たちは「家族だから」という理由で、社会的あるいは心理的に追い詰められることも多く、中には自死を選んでしまう人もいる。

 中でも1000人超にのぼる性犯罪の加害者家族にソーシャルワーカーとして向き合ってきた斉藤章佳氏は、加害者家族の困難を理解することが、支援につながるとしている。では、実際に加害者家族はどのような暮らしをしているのか。斉藤氏の新著『夫が痴漢で逮捕されました』(朝日新聞出版)より一部抜粋し、お届けする。・・・・(https://bunshun.jp/articles/-/79595)

・・・また性犯罪者とはいえ、家庭内では子煩悩で「イクメン」、子育てにも積極的に関わっている人もいます。実際、「子どもにとってはいい父親。私の一存で子どもたちから『パパ』を奪っていいものか……」と葛藤する人も大勢います。

「自分の娘は可愛がるのに、なぜ他人の子どもには卑劣な性加害をするのか!」と憤る方も多いと思いますが、性犯罪者の頭の中には「それとこれとは別」という認知の歪みが存在している――それも性犯罪者の実態です。・・・・


この問題が男性の豹変の問題と共通しているのは、普段のまじめな「いい夫」とのギャップである。彼はある意味では状況により豹変する。そしてこれは確信犯的であるだけに、「一時の劣情に惑わされた」「魔が差した」は言い訳として通用しようがない。


2025年9月17日水曜日

●甘え再考 8

 ところで一方では北山理論に接近しながら、私自身のこれまでの甘え理論も思い起こさなくてはならない。この北山論文が掲載された書物(日本語臨床3「甘え」について考える. 星和書店、1999年)に、私は「甘えと『純粋な愛』という幻想」という論文を載せてもらっている。これまで述べてきたことと繋げるために、その論文における私の論旨を思い出したい。

私がこの論文で言いたかったことを一言で言えば、「人は誰でも他者から純粋に愛されたいと願うものである」ということである。それは土居先生の次の言葉に発想を得たものである。

「精神分析療法へと向かわせる意識的な動機が何であろうと、その裏にある無意識的な動機の主たるものは甘えやその派生物である」(Doi. T (1989) The conept of amae and its psychoanalytic implication. Int.REv. Psychoanal. 16 349~354)

私たちはある関係に入る時しばしば、「相手から無条件に受け入れられる」という幻想を抱く。もちろんやはりそうはならなかったという厳しい現実を、早晩突き付けられるのであるが。

そして私は一見意味不明なことを書いている。曰く「甘えは願望充足と防衛の両側面がある。」(p.223) 願望充足とは、幻想のレベルで私たちのこの願望を満たしてくれるという意味で、防衛というのは「たとえ今の関係ではうまく行かなくても、どこかにきっと無条件的に受け入れられる関係があるだろう」と思わせてくれるからである。そして母親との関係の中に似たようなものを体験していれば、あれと同じことはまた起きるかもしれないと思いやすいのかもしれない。

もう一度整理しよう。

欲求充足的な側面・・・純粋の愛の疑似体験

防衛としての側面・・・それは現実には得られないという事実に直面することからの防衛 

そしてもう一つかなり重要なことを言っている。それは甘えは「能動的な意味で受け身的な」情緒交流だということだ。受け身的とは向こうが愛してくれることを期待するからだが、能動的なのは二つの意味でである。

①甘えさせる対象に結構執拗にそれを求めるから。

②甘えることで相手の「甘えさせたい願望」を充足させるから。

この①に関しては、実は北山先生の甘える側は上から下への愛を待つという意味で受動的であるという説に反対するもので、土居先生自身が次のように言っている。

「私が強調したいのは、甘えはそれを満足させるためには優しいパートナーが必要となるが、それは必ずも受動的な状態ではないということである。甘える、というのは自動詞であり、すなわちそれは甘える人にある能力を想定している。つまり甘えを引き起こすような行動を開始し、それに浴するという能力である」Doi,T (1992) On the concept of Amae. Infant Mental Health Journal, 3:7-11.

ここを読む限り、土居先生自身はかなり甘えを能動的なものとしてとらえていたことになる。


2025年9月16日火曜日

●甘え再考 7

 こで北山先生の気になる発言。「日本語『愛』が博愛や双方向的な愛の意味で実に気軽に使用されるのだが、そこには虚偽意識や薄っぺらな感覚が伴いやすい」(p102)。この説ではそこに表層的、薄っぺらさというニュアンスが混入しているのか‥‥。北山先生は本来は存在しなかった「愛」と違い、「愛しい」は古来日本に存在し、それは1.見られたものではない。みっともない。2気の毒だ、かわいそうだ、不憫だ、いたわしい 3.かわいらしい、いじらしい

の意味があるという。としてこれも明らかに優者から劣者へ、という上下関係が見られるという。そして次のようにまとめる。日本語での「愛」や「愛しい」は上から下に与える愛であり、甘えは下から上に愛を求めるものとなりやすく、それを「愛の上下関係」と呼ぶ。そして結局乳児が母親を愛すること、小さいものが大きいものを愛するという言葉が日本語にないことを指摘する。それは日本語が下からの愛の衝動に共感的ではなく、抑圧されていると言ってもいい、という。なるほど。そうすると北山先生の極端にも見える以下の立場もそれなりに理屈が通っている。「甘えを観察したり、解釈したりするものは、愛は目下からはやってこないという「愛の上下関係」という愛情観に捉われてはいないだろうか?」(p.105)そして土居先生はこの甘えの上下関係に気が付いていないとする。


2025年9月15日月曜日

● FNSの世界 推敲の推敲 5

 引き続き痛覚変調性疼痛③についての話。この③は、①手足などの体の痛みを持つ体の部分の組織の損傷が見られるもの、②その部分と中枢を連絡する神経の病変のあるものによる痛みのどちらでもない痛みである。たとえば指を刃物で怪我すると、組織の損傷があるから痛い(①)。あるいは中枢に向かう神経が途中で椎間板ヘルニアなどで骨や組織に圧迫されても痛い(②)。そしてこれまで神経内科は①②のみ扱ってきた。ところが実際に外来に訪れる患者には、どうもそれ以外の痛みとしか言いようがないものが多い。そこで③が注目されるようになったのだ。しかし従来はそれを第三の痛み、として正式に扱うことがこれまではなかった。それがどうしてこうなったのか。

一言で言えば脳を通して心が見えるようになったからだろう。つまり痛みを感じる中枢はしっかり反応をしていることが見出されるようになった。そしてこれにはMRIやCTなどの画像技術の発展が関係している。これまで傷もないのに「痛い」という人をどこまで信じられるかについての答えはなかった。しかし今では「痛い」に対応する脳の変化を見出すことが出来るようになったからだ。私たちが本当に痛い、と感じている時には脳のどこかでそれに相関 correlate する部分があるはずだ。それは①や②とは独立してあるはずである。(そしてそこは①や②でも同時に反応しているからこそ、それらの時も痛いのだ。)それが見られるようになったということか。 どうもそこまでは行っていないようなのだが、ここで重要な概念があり、それがいわゆる「中枢性感作」ということらしい。明確な画像に表されなくとも、明らかに脳内である異常事態が起きていることがあるという理論が提唱され、それがこの「中枢性感作」という概念だ。そしてこの③の例として、なんと、片頭痛や線維筋痛症などが例として挙げられるのだ。これはまさにこれまでの「心因性の身体症状」にそのままとってかわるものとなる。これは精神医学にとっても、そしておそらく脳神経内科学にとっても大激震なのだ。「身体科からの歩み寄り」などと悠長なことは言っていられないのだ! さてそのような動きを精神科ではどのように受け止めるのか。一言で言えば、脳神経内科から多大な恩恵を受けることになるのではないか。少なくとも精神科医は、③の訴えをする人たちの脳科学的な研究は行っていなかった。あくまでも臨床所見から判断するしかなかったのだ。しかし神経内科医が③を診断することにより、精神科医はそれに頼る形で精神医学的な診断としてのFNSを行うことになる。しかしこれでは精神科医のプライドはどうなるのだろうか。 プライドの問題はさておき、精神医学の臨床の場では最近は私はペインクリニックの先生方にとてもお世話になっている。患者さんの中に身体的な訴えがとても多く聞かれ、ペインクリニックや脳神経内科の先生に片頭痛や線維筋痛症の診断をお願いして、一緒に診ていただく。そして精神科医としては処方することに心もとない様々な痛みをコントロールする薬を処方してもらえているのである。

2025年9月14日日曜日

● FNSの世界 推敲の推敲 4

 全体をまとめよう。FNSは基本的にはヒステリーという精神的な病として扱われた歴史についてはこれまでに十分示した。それは体の症状でも心の問題が原因である、と考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた。それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでの疾病利得一辺倒の、どちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。

その間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。そしてそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離というわけである。Psychoform and somatoform dissociation という考えだ。(Van der Hart O, Nijenhuis ERS, Steele K. The haunted self. Structural dissociation and the treatment of chronic traumatization. New York: W.W. Norton & Company; 2006.) そのうち精神表現性の症状をきたすものについては、それは精神医学の内部で扱われることになる。解離性同一性障害などはその例だ。ところがそこに身体症状が絡んでくる転換性障害だと、それが「現実の」、ないしは「本当の」身体疾患との区別が難しくなる。その際そこに心因があること、疾病利得が関係していることが、「本当の」身体疾患とは違うという了解があった。それが2013年以前の考え方であったことは上に述べた。 ところが研究が進むうちに新たなことが分かった。疾病利得がなくても身体症状が起きるだけではなく、心因がなくても身体症状が生じる(あるいは本来の身体症状が悪化する)ことがあるということなのだ。この状態は一言で言えばMUS(医学的に説明のつかない症状)ということになる。このMUSの概念について考える上で一つとても参考になるのが、いわゆる③「第3の痛み」と称されるいわゆる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」である。これが脳神経神経内科の分野で提唱されることになったのは、画期的な意味を持っていたと言えよう。


2025年9月13日土曜日

●甘え再考 6

 北山理論についての読解が続いているが今一つ分からない。ただしこういうことなのか、という仮説はある。要するに甘えは、甘えさせる、依存させる上位の存在が必要になる。子供の側の甘えは、むしろ「依頼心」なのだ。北山は言う。「甘えの欲求は依存欲求として抽象化されることが多いが、これは他者の適応を誘発し、対象を与えられることを依頼するものであり、その意味で『依存心』というよりは『依頼心』という呼び方が適切であろう。」そしてまたいう。「乳児の内的現実や現像というものの実在を信じる私は、下にいる乳児は上位の母親に何かしてもらうことを依頼するのではなく、スーパーマンのように自力で飛び上がって母親に飛びつこうとしていると解釈することもできる」。(どちらも引用は北山 1999.p.99)

つまり甘えは結局他人頼みであり、受け身的で、上からの母親の存在を前提といている。あるいは母親を見ることで発動する、と言ってもいいか。そしてそれが子供の側からの自発的愛情を無視ないし矮小化しているのではないか、ということだ。

もっと決定的な文章があった。「大きいものの側が下へ適応するのではなく、小さいものの側が上位へと、空想や遊び、または魔法で到達できるという可能性は、乳幼児の魔術的な願いや非現実的な祈りの存在を考慮すれば、間違いなく存在するのである。」(p.99~100)

ただ甘えにより幼児が母親の膝によじ登る場合、母親からケアされて当然という気持ちがあり、それを疑わない分だけ非現実的、魔術的であり、その意味で受け身的だけとは言えないのではないか。(甘えることが出来ない人からは、「どうしてそんなない相手を信じられるの?と不思議に思われるだろう。)

「刷り込み」の現象からわかる通り、赤ん坊はケアされるニーズをそれこそ周囲の何にでも投影する傾向にあり、十分に積極的、という気がする。それに母親も母親で子供の存在に反応するというよりは、母性はそれ自体が子供の存在を前提として成り立つという意味では積極的であり、ここでの能動性―受動性という二極化は存在しないのではないか、というのが私の感想なのである。それは博愛におけるギブアンドテイクとは別の意味で「平等」だと思うのだが。


2025年9月12日金曜日

●甘え再考 5

 前回からの考えの続き。甘えはお互いに上下関係のない愛、つまり対等な関係における愛とは明らかに異なる。これは見返りを求めない、という意味だろうか?つまり甘えと違う「大人の愛情」にはギブアンドテイクがある、一種の契約のようなものと考えることが出来るだろうか?そうかもしれない。相手が自分を愛すように、自分も愛する。他方が愛するのを止めたらこちらも止めざるを得ない関係だ。あるいは自分を差し置いて他の人を愛することに対しては非常に厳しい。その意味で極めて条件付きの愛である。

ところが母親の子に対する愛は、おそらく子供の母親に対するそれに似て、無条件的である。母親は、普通なら子供に嫌われても愛することを止められない。子供の場合はもっとそれが明らかである。また子供が別の人間(例えば父親)になついても母親はそれにジェラシーをあまり感じないであろうし、子供も母親が別の人間(例えばきょうだい)をかわいがってもそれに憤慨するわけではない。(少しはするかもしれないが。)

ちなみに北山先生は、このような上下方向の日本の愛は、キリスト教的な博愛の持つ水平性と対比させている。私のように男女の愛を対立させているわけではないことは断っておかなければならない。


2025年9月11日木曜日

●甘え再考 4

 ここから北山先生の「『甘え』とその愛の上下関係」という論文を読む。この論文は北山修編(1999)「日本語臨床3「甘え」について考える 星和書店 に収録されている。(私も一章「甘えと『純粋な愛』という幻想」というタイトルでこの中で書かせてもらっている。

この論文の中で北山は甘えには上下関係があり、母親は上の立場から子供に与えるという形をとる。つまりそれは「横並び」ではないというのだ。

ちなみに私の感想をさしはさむと、確かに上下関係はあるよなあ、と思う。北山先生の言っていることとニュアンスがあっているかどうかわからないが、何しろ母親の愛なくしては甘えは成立しないのだから。子供は母親に生殺与奪の権を握られているのである。ということで次回からゆっくり読んでみる。


2025年9月10日水曜日

●甘え再考 3

 「受け身的対象愛」という概念は、そもそもフェレンチが「タラッサ」の中で言ったこととされる。もともとフロイトの「最初に自体愛、自己愛ありき」という理論に対するフェレンチの批判が初めにあった。そして最初にあるのは、受け身的な愛、すなわち「患者は愛することではなく、愛されることを願う」という形をとるという(中野、P.23)。バリントはそれを「私はいつも、何処でも、あらゆる形で、私の全身体を、全存在を愛して欲しい、それも一切の批評がましさなしに、私の側からまず家でも無理する必要なしに」と表現する(p24)。

私はこれは一つの大きな発見だと思う。何をいまさら、と言われそうだが、よくフェレンチもバリントも、そして土居先生もこれに気が付いたと思う。これは生物学的はその通りといえるだろう。これを愛着の問題と関連付けてみるならば、親の方には、子供を愛したい、面倒を見たいという自然な衝動がある。子供はそれの counterpart というわけだ。両方が存在することで、まるで磁石のN極とS極が一緒になるように二つはくっつく。

彼らのこの着想は一つにはフロイトが何が本質的か、何が初めに起きるのかを問うて、それが一種の自己愛、つまり対象を含まない心の動きだと言ったことであろう。それを聞いた弟子は、「本当にそうだろうか?」と思ったはずだ。子供を観察すると親や養育者をごく自然に求めるようだ。しかしなぜフェアバーンのように「対象希求性」と言わずに、「愛されることを願う」と考えたのだろう?あるいはどうして「愛すること」ではなく、「愛されること」なのか?人は「赤ん坊は愛するということをまだ知らないからだ」というかもしれない。しかしそれなら「愛されること」も知らないであろうし、それを最初から求めるというのはどうしてだろう?

この問題、結局考えていくと極めて難しいことに気が付く。ただ一つ私にとって確かなのは、生まれた時に母親が不在だったら、赤ん坊はおそらく「愛されたい」とはならないだろうということだ。身近に自分にまなざしを向ける母親がいることで、母親の「愛したい」と子供の「愛されたい」は同時に始動するのではないか。そして最初の母子一体の感覚、赤ん坊にしてみれば温かい母親の胸に抱かれて安心して乳を飲むという体験を得て、それを再現ないし継続したいと思うのだろう。そこから子供の側の「(ずっと、あるいはもっと)愛されたい」が始まるのではないか。つまり母親の存在なしには「甘え」は始動できないのだろう。なんだかよく分からなくなってきた。


2025年9月9日火曜日

浜松での講演

 先日、といっても10日以上前になるが、8月24日(日)に浜松医大の精神科、児童青年期医学講座合同の研究会に招待されて解離についての講演を行ってきた。そのことも書いておこう。
8月も終わりに近づいているのにものすごい猛暑。しかし会場は冷房が効いてこの夏初めてカーディガンを羽織った。

会ではその熱気にずいぶん圧倒されてしまった。同大学の主任教授の山末英典先生は自閉症の治療、その他のたくさんの業績をお持ちの、まだ50代初めの気鋭の精神科医で、その強力なリーダーシップは、講演に先立つお話しから伝わってきた。彼の考えの特徴は、精神医学は生物学的、心理学的、社会学的な要素が複雑にかつダイナミックに絡み合った、極めて奥深い学問であるということだ。まさにその通り。浜松医大の精神科のレジデントや医学生たちはなんとラッキーな境遇にあるのだろうか?

2025年9月8日月曜日

昨日の神戸

 昨日は神戸の某学会での仕事に出かけた。9月というのに相変わらずの暑さだったが、それなりの収穫も得られた。書籍コーナーには面白そうな本がたくさんあった。今春出した私の本(「脳から見えるトラウマ」、岩崎学術出版社.このブログでも去年の夏頃は延々と書いていたものが形になった本である)も無事売られていた。それを見て励みになったので、このブログにも掲げることにした。編集部にあたっていただいた長谷川様、序文を書いて頂いた金吉晴先生に深く感謝したい。


2025年9月7日日曜日

●甘え再考 2

 甘え概念の特徴として私が注目するのは、それが能動的でかつ受動的な概念であり、態度であるということだ。「甘える」と言うのは自動詞だが、それに対応するような英語がない。よく出てくる定義が to depend and presume upon another’s love or bask in another’s indulgence (https://unseen-japan.com/debunking-amae/) 日本語にすると、「他の人の愛情に頼ること、他の人の indulgence に浴すること」。ここで indulgence を訳していないのは、それが訳しにくいのと、敢えて訳すとしたらかなり「甘やかす」に近い意味になってしまうからである。つまり「甘やかす」なら indulge に相当するのだが、それを受身形の「indulge してもらう≒甘える」の英語が見つからないのである。まあ難しいことは置いておいて、甘えるの意味としては「頼る to depend 」にだいたい近い。何しろ土居先生の代表的な著書「甘えの構造」の英訳本のタイトルは”Anatomy of Dependence (依存の構造)”なのだから。だからこの不思議な受け身的な概念がどうして英語にないのかということである。  しかし面白いことに、精神分析では、フェレンチやバリントがこれを言っているのである。バリントはこれを primary love 一次的愛として盛んに論じている。これはそもそもフェレンチが「他者から愛されたい願望」という意味で「受身的対象愛 passive object love」と呼んだものをバリントが引き継ぎprimary love と表現したものである。バリントの”Basic Fault” (1968) の69ページ目には、甘えをひとことで ”to wish or to expect to be loved” と書いてあるが、これが一番わかりやすい。愛されるよう望んだあり、期待したりすること。 やはり一番この例として浮かぶのが、動物が人間の育ての親との間に結ぶ関係だ。ものすごく大きい体格の象が、10倍くらいの体格のクマが、百獣の王のライオンが、育ての親である人間の姿を見つけると一目散に駆けつけて体を摺り寄せるのだ。成獣や成鳥でも何らかの形でその人間から救われた経験のあるなら、その種のボンディングは生じるようだが、大抵はライオンの赤ちゃんを猫のように育てていくとごく自然に生まれる絆である。人間のように成長すると子供が多くの場合親から去っていくのとはえらい違いだ。ここでフェレンチやバリントたちが考えているのは、生まれた際の母子の一体となった体験だ。 実は甘えとバリントの関係については以下の論文に詳しい。少し読み直してみよう。

中野明徳 マイケル・バリントの「一次愛」論 ―土居健郎の「甘え」理論と比較して― 別府大学大学院紀要.18(2016.03),p.21-38


2025年9月6日土曜日

●甘え再考 1

 暮れのある学会のシンポでの発表のために、甘えについての考えを少しまとめておかなくてはならない。ちなみに私の最新の甘えに関する論文は、「母子関係における養育観の二タイプ」と言うもので、高山敬太・南部広孝編(2024)<日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か. 京都大学学術出版会の一章として発表したものだ。しかし大方の論旨はだいぶ忘れてしまったので、少し思い出すところから始めたい。 そもそも子育てには日本型と西欧型の二つがあるという単純化された考えを提示したことに始まる。要するに甘え(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さが日本型、低さが西欧型というわけだ。要するに赤ちゃんがおっぱいを欲しがっている時に先取りするのが日本型、泣いて欲しがるという形で赤ちゃんが自分の欲求の表現を待つというのが西欧型と言うわけだ。実はこのことは成人のコミュ二ケーションにもみられるが、ここはひとつ変わった例。 32歳でパリにわたって初めに印象深かったことがある。病院で学習内容や病歴を書くために支給された紙が、真っ白で、罫線さえ引いていないのだ。一番上に病院のロゴマークが入っているだけ。あとは自分で使い方を決めよ、というわけだ。これだと字がドンドン曲がって行ってしまうじゃないか。日本の記録用紙ならうまい具合に罫線が入っていて、字が曲がるのを防いでくれるのに、何と不親切な‥…と思った。ちなみにそのあと渡米したら、アメリカでの記録用紙はどこでも一律にイエローバッド。どこに行っても例の黄色い紙の束しか売っていない。まあ罫線が入っているだけましたが、文房具でさえ、こちらを甘やかしてくれない。ごく単純化して言えば、日本は甘えを促進するが、西欧はそれをしてくれないし、そうすることはよろしくないというような雰囲気さえあるのだ。


2025年9月5日金曜日

FNSの世界 推敲の推敲 3

  身体科からの歩み寄り―「MUS」の登場

 ところでFNDについては最近新しい動きが見られる事にも言及しておきたい。それはこれまで精神科医は患者の身体症状についてその扱いに戸惑っていたが、その一部に脳神経内科を含めた身体科からの名称が与えられるようになったことである。それらは線維筋痛症であり、PNESであり、FNSである。それらを総称するならば、それはいわゆる「MUS」、すなわち「医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」である。(岡野(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)

 ちなみにこのMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして、そこに属するべき疾患群は、それこそ医学が生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側にとってはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。そしてそれは昔のヒステリーと同類だと考えられる。 

  ここで「半ば医学的な概念」と表現をしたが、それはヒステリーは本当の医学的な疾患とは言えないようなもの、すなわち患者が自作自演で症状を生み出したもの、周囲の気を引くために症状を誇張しているものというニュアンスを有していたからである。つまりその症状は本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方が支配的であった。言い換えればそれは病気であってそうでないようなもの、という中途半端な理解のされ方をしていたのである。そしてその意味ではヒステリーと呼ばれる患者たちは常に差別や偏見を向けられる傾向にあったのだ。
 幸いDSM-Ⅲ(1980)以降はヒステリーという名前が診断基準から消え、その多くの部分が転換性障害や解離性障害ないしは身体化障害という疾患概念に掬い上げられ、患者が差別や偏見を向けられる度合いは多少なりとも軽減したことはすでに述べた。
 ここでMUSに属するものについて比較的わかりやすく図に示したものをここに示そう。これはとある学術書(Creed, Henningsen, Fink eds, 2011)これを見るとMUSという大きな楕円の中に身体表現性障害と転換性障害の集合が含み込まれ、また器質性疾患の集合はMUSと一部交わっているという関係が示される(図の斜線部分)。


 ここで身体表現性障害とは、少なくとも従来の考え方によれば、心理的な要因が身体の症状により表現された疾患という意味であり、転換性障害とは、心理的な要因が感覚機能や随意運動に表現されたものと考えられてきた。(ちなみにこの元になった図が作成された時に用いられていたDSM-IV(1994)では身体表現性障害の中に身体化障害と転換性障害が含みこまれるという形をとっている。)
 また器質性疾患に関しては、ある種の器質性の変化や病変が見られるものの、それだけでは十分に説明できないものがこのMUSとの共通集合(灰色の部分)を作っているという事情を表している。
 この図からわかるように、MUSは身体表現性障害と転換性障害及び器質性障害の一部を含み込んでいるものの、それ以外の余白部分を含むさらに広い範囲に及ぶ。つまり様々な症状を示しつつ医学的な診断が下らず、これらの3つのいずれにも診断されない多くのものがこのMUSには含まれることになるのだ。それはちょうどかつてヒステリーと呼ばれていたものがきわめて多くの異種の精神疾患を含んでいた事と同様である。別所で私はそれらの内の幾つかの代表的なものについて以下に挙げて論じた。
 

● いわゆる「転換性障害」(機能性神経学的症状症、FND)

●   ME/CFS (筋痛性脳脊髄炎)

●   FM(線維筋痛症)

●   Yips または局所性ジストニア

●   PNES(心因性非癲癇性痙攣) これは昔偽性転換などと呼ばれていたものです。

 

  このMUSに関心が集まった理由の一つには脳神経内科の外来にはFNDを有する患者がかなり含まれるという事情がある。 実際には脳神経科の外来や入院患者の5~15%を占めるといわれる。またFND は癲癇重積発作を疑われて救急を受診した患者の50%を占め、脳卒中を疑われて入院した患者の8%を占めるという(Stone, 2024)。そのため脳神経科でもFNDを扱わざるを得なくなっている。そしてそれ以外の身体科、例えば眼科、耳鼻咽喉科、整形外科などにも同様のことがいえる。つまり精神科医以外の医師たちがいかに機能性の疾患を扱うかというのは従来より大きな問題だったのである。
 また先ほどFNDは陰性所見ではなく所見の存在(陽性所見)により定義されるようになったという事情を述べたが、実際に脳神経内科には Hoover テストのように、ある所見の存在がFNDの診断の決め手となるような検査法が知られていることも追い風になっている。
 しかしここで興味深いことも起きている。というのも最近神経内科の側からは、「FNDの診断には精神科医は必要ない」という声も聞かれるからである。

Stone, J. et al. (2014) Functional disorders in the Neurology section of ICD-11. Neurology, ;83;2299-2301.

Stone, J. et al. (2024) Functional neurological disorder: defying dualism. World Psychiatry. 2:1