ヒステリーの学術的な扱いを始めたCharcotとFreud
ヒステリーに対する上記のような偏見を取り去り、それを医学の土俵に持ち込んだのが、Charcot だったことについては異論の余地はない。Charcot はそれまでに様々な神経疾患に関する業績を残したすぐれた臨床観察を行う研究者でもあったが、1962年にパリのサルペトリエール病院の「女性けいれん病棟」を担当したことが大きな転機となった。そのころのけいれん発作が脳波異常を伴ったてんかんによるものか、ヒステリー性(すなわち解離性)のものかを区別する手立てはなかったが、Charcot はそれらを一律に説明する概念としてヒステリーの大発作という概念を提出した。そしてこの大発作が四つの段階(「類てんかん期」「大運動発作期」「熱情的態度期」「譫妄期」)を示すと考え、それを詳細に記載したのである。こうすることでヒステリーのさまざまな症状は、この大発作の部分的な現われや亜系であると説明することが出来たのである。しかし先程も述べた事情から、サルペトリエールの観察対象にはてんかん患者を混入させていた可能性が高かったため(Webster, 1996)この病型を分類することにどのような意味があったかは不明である。(Ellenberger, 1979)。
現在の観点から Charcot のヒステリーに関する臨床研究を振り返った場合、ひとつの問題は、Charcot がヒステリーを自分の専門の神経学に属する疾患として整理し理解しようとしたことになる。しかし現在のFNSの概念の見直しの趨勢を見ると、それを神経疾患と見なそうとした Charcot にもそれなりの先見の明があったと考えることもできるだろう。
Charcot がヒステリーの研究に非常に大きな貢献をしたことも確かである。例えばCharcotはヒステリーは女性特有のものではなく、男性についても起きることを、実際に男性の患者を供覧することにより示した。またCharcotは、ヒステリーが心的外傷一般、によるものとも考えられ、このこのヒステリーの外傷説が、Freudの理論形成に大きな影響を与えたのである。
この Charcot の影響を受けた Freud と Janet はそれぞれ独自に自らの理論を発展させた。Freud は最初は Charcot にならいヒステリー症状は幼児期の性的外傷に基づくものとした。しかしのちに精神分析理論を発展させる中で、症状の背後には無意識領域に抑圧された葛藤が存在し、それが身体領域に象徴的に「変換」されたものが身体症状であると考えた。ここから精神症状は「解離ヒステリー」、身体症状は「転換ヒステリー」と呼ばれるようになったのである。
他方 Janet は解離という概念を用い、「自己の統合の病」であるとし、特定の思考や機能が切り離されて独自の自己感を持つに至るものとした。これは解離の機制を重んじ、心の統合性という概念を堅持したFreud との大きな相違点であったと言える。
Charcot とその後
一世を風靡した Charcot の臨床講義ではあったが、あらかじめ病棟でいろいろ指導や打ち合わせをして症状を演じていたということも伝えられる(Hellenberger )。彼の客死後はそれまで忠実な部下であったBabiski は師の神経学的な業績を受け継ぐ一方ではヒステリーは暗示により生じて説得により消えるものだとしてそれに代わる'pithiatism' という造語を提案した。彼はこれを詐病とは区別しようとしたものの、半ば詐病者'semi-malingerers'であると表現した。これはそれまでのヒステリー概念の否定という意味を持っていたが、他方ではそれとの鑑別でバビンスキー反射を発見したという意味では神経学的な功績は大きかったと言える。
偏見の対象となり、詐病扱いされたヒステリーは、Freud や Janet によりそれが精神疾患として位置づけられた。ただしFreud が考えたようにそこには心因や疾病利得が存在するものという理解を出なかったと言える。