暮れのあるシンポでの発表のために、甘えについての考えを少しまとめておかなくてはならない、ということでこのシリーズが始まっている。 私の発表は「甘え」についての精神分析的視点からの考察であるが、私自身は以前に二つの論考を発表しているので、それに基づく考察ということになる。 1.岡野(1999) 甘えと「純粋な愛」という幻想. (北山修編(1999)「日本語臨床3「甘え」について考える 星和書店 に所収.) 2.岡野(2024) 母子関係における養育観の二タイプ. (高山敬太・南部広孝編(2024)<日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か. 京都大学学術出版会 に所収.)
ただし今回は討論者として北山先生をお招きしているということもあり、先生の「甘えにおける上下関係」という考えに対する私の考察という面を含んでいることになる。
甘えの何が画期的だったのか?
改めて思うのは、甘えは日常語の一つであるのみならず、精神分析の世界では非常に画期的な概念であり、それだけに大きな注目を集めたものと考えることが出来るだろう。改めてそのどこが画期的だったのか。
甘えという発想に至った経緯は、土居が「甘えの構造」(1971)の第一章で十二分に論じている。そこでは彼がアメリカで体験した対人間のコミュニケーションにおける違和感をいくつかの例を挙げて説明している。ごく簡単に言えば、アメリカ人はこちらが何を欲しているかを察して、それを向こうから与えてくれるという発想に非常に乏しいということだ。彼は空腹時にアメリカ人のホストに「お腹が空いているなら、アイスクリームがあるのだが」と言われて「初対面の相手にいきなりお腹が空いているかと聞かれて空いているとも言えず」遠慮気味に「空いていない」と答えたところ、「あ、そう」と言われたというエピソードを最初に出す。このような例は枚挙にいとまがないが、私自身もよくわかるつもりである。そのうち日本語にある「甘え」という表現がなぜ欧米にはないのか、という疑問に行きつき、この概念を発展させた。わかりやすく言えば、アイスクリームをオファーされた土居には「甘え」の気持ちがあり、ホストはそれを全く理解しなかったということになるだろう。