2025年9月22日月曜日

●甘え再考 10

 思いつくままに書いてみる。甘えに上下関係があるかという問題について。もちろんある。そして早期の母子関係ではハッキリ言えば子供は親を愛してすらいないと思う。乳児はそんなこと何もわからず、というか対象すら認識せず、それこそ自他の区別もつかず、ただ親にしがみつき、乳を吸うのみなのだ。つまり甘えの関係は、子の側に甘えの感情すらないところから出発するのだろう。要するに甘えは上からという形でしか始まらない。北山先生の指摘通りだと思う。

子供はそこで全てを魔術的に満たされることで初めて愛することを体験する。その意味で受身的対象愛と表現したフェレンチの言った通りである。そしてそこで一体感が身体的なものとして生まれる。この段階で子供は親を愛しているだろうか?恐らくそうではまだないのであろうが、その前提条件を形成している。それは母親との体験の心地よさを笑顔で返すことから始まるのだろう。動物ならペロペロ相手の顔を舐めるかもしれない。そしてそれはほとんど愛するということに近く、なぜならそのために母親は深く満たされるからだ。私は愛着の形成に問題が生じ、人を愛することに難しさを有する人に臨床上会うことが多いが、逆にこのような母子一体感を体験できた人で人を愛することに問題が生じたというケースを想像出来ないのである。それほど愛着関係はそこで相互に愛し合う関係をほぼ自動的に生む場なのではないかと思う。

さてでは平等の愛とは何か?これは土居先生の指摘通り観念の中にしかない。それが純粋の愛という幻想な訳だ(岡野説)。ではその由来はどこかと言えば、結局は愛着関係由来なのであろう。さて甘えが成立しない時に生じる様々な感情としての嫉みやひねくれなどはどうして動物との関係では生じないのはなぜだろう?赤ちゃんの時から人間に育てられたライオンが久しぶりに飼い主を見て、駆け寄って抱きつく以外の反応を見たことがないが、人だと久しぶりに会った親を無視をしたり罵倒したりしかねないだろう。人の母子関係には過剰な期待や裏切られ感などの余計なものが体験されるからろうか?