つまり土居先生にとっての甘えは、「相手に自分のニーズを暗黙のうちに読んでくれることを期待すること」と言い換えていいだろう。土居先生にとっては、「どうしてアメリカ人はこんな基本的なことをしないのだろう」という疑問があったわけだ。私も同じように感じた。しかししばらくアメリカに居たらそちらでの人間関係に慣れていった。どこが大きな違いかと言えば、日本ではお互いに mind rerading をするのが大変だが米国ではそれをしなくていい、ということだ。
つまりアメリカでは他人の気持ちを読んでくれないけれど、自分も読まなくてはいいということだ。
思い出したぞ。6年前にこんな論文を書いたことがあった。アメリカ時代の知人のマルドナドさんが編集して、私が一章を書いたのだ。
Okano, K. (2019) Working with Asian Families, Infants, and Young Children. In book: Clinical Handbook of Transcultural Infant Mental Health (pp.107-119)
私の患者さんの中にも、海外で暮らすと、言葉の不自由さはあっても(あるいはその為にさらに)人間関係で気を遣わなくていいのがとても楽だという方がいる。
それはさておき、私が「母子関係における養育観の二タイプ」(2024)で書いたのは、この問題と深く関係している。
「日本型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さに特徴づけられる。
「西欧型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の低さに特徴づけられる。
要するに日本では赤ちゃんがおなかが空いただろうと思ったら、母親の方からおっぱいを差し出すが、西欧型では、赤ちゃんがおなかが空いて泣くまでそうするべきではないという考え方だ。これはおよそあらゆる子育ての状況に行きわたっている可能性がある。泣いたら抱っこをするのは良くない。抱き癖がつくからだ、という風に。しかしこれって「単に母親が手を抜いているんじゃないの?」という気もしてくる。相手のニーズはそれが表明されるまで応えるべきではない、というのは対人関係で手を抜く絶好の口実かも知れないのだ。