ここで私がどうしてもわからないのは、甘えの能動性の問題である。あるいは甘えるのは能動的なのか、受動的なのかという議論そのものの必要性である。このことについて論じる前に、私自身の甘えに関するもう一つの論文を思い出したい。それは以下の論文である。
岡野憲一郎 (2024)母子関係における養育観の二タイプ 文化的、生物学的、心理学的視点から. 高山敬太・南部広孝編 <日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か 京都大学学術出版会 の第4章(125-149.)
そこでのまとめは以下の通りだ。
甘えの概念を含む精神分析的な文脈に即して子育てについて論じた。そして異なる文化的な背景を持った子育て観には二つのタイプが併存していることを示した。それは「子どもの側からの愛情の希求の能動的な表現を待って応じるのか、それとも受動的な表現を先取りして応じるのか」という観点に基づくものであった。それらを以下のように提示することが出来るであろう。
「日本型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さに特徴づけられる。
「西欧型」の子育て「甘え」(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の低さに特徴づけられる。
ただしこれらの子育て観の二つのタイプを提示することには、これらのどちらかに優劣をつける目的も、また二者択一的な選択を促すという目的も持たない。精神分析的な文脈でこれを考える場合、それはウィニコットの概念化に表されているように、子育てにおいてどちらも必要な視点であり、いわば弁証法的な関係を有するのである。
この中での私の論述を引用する(p.138)。特に下線部分に注目していただきたい。
前エディプス期の母子関係の問題は、いわゆる対象関係論の立場からもドナルド・ウィニコット(Donald W. Winnicott)により精力的に論じられていた(Winnicott 1956; 1965)。ウィニコットもまたフロイト理論において十分に注意を向けられなかった母子関係の精神発達との深い関係について論じた。ウィニコットは、赤ん坊は生まれて間もない時期には自分の欲求を母親が魔術的にすぐに満たしてくれるものと錯覚し、万能感に浸ると考えた。そしてそのような関係は母親の側の「原初的な没頭」による赤ん坊のニーズを察知する能力により可能になるとした。この錯覚が生じる段階においては、親が乳房を差し出すことが先か、赤ん坊がお乳を欲しいというサインを送る方が先かということは問われない。それはある意味では母子の間で自然と同時に生じることであり、だからこそ子どもはそれを「錯覚」するのである。しかし赤ん坊はその自我機能が成熟し、母親が原初的な没頭から覚める過程で、赤ん坊は自分の欲求がすぐには満たされないということを知る。それが「脱錯覚」の過程で、赤ん坊は現実の在り方を知るようになると考えた。
このウィニコットの理論を、すでにみたロスバウムの視点との関連からとらえることで、私たちは興味深いことに気が付く。ロスバウムは「子どもの側からの愛情の希求の能動的な表現を待って応じるのか、それとも受動的な表現を先取りして応じるのか」という違いに基づいた文化差を論じた。しかし、この議論はウィニコットにより一九五〇~六〇年代にすでに先取りされていたことになる。すなわちこの母子両者の原初の愛着関係は、どちらかから一方向に生じているのではなく、両者の間に双方向に生じていると考えられるのである。
「甘える」と「甘えさせる」は同時に起きることに意味がある。ということは「甘えは能動的か受動的か」という問いの立て方が意味がないのだ。つまり甘えは能動的な受動性、ないしは受動的な能動性により特徴づけられるのだ。