以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。
この「普通の男性の性加害性」の問題は、①②と異なり、おそらく病気としては扱われないという事情がある。それはもっともなことだろう。そこには多くの場合一見健康で普通の社会生活を送っている、そして特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっているからである。(もちろん、中居氏や山口氏や松本氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると主張する場合には、この限りではないが、私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。)
しかしこの「普通の男性の性加害性」は社会に大きな問題を引き起こし、また数多くの犠牲者を生み出している問題であり、しかもこれまで十分に光が当てられてこなかったのである。特に病気とは言えず、一見普通の人が起こす問題だけに、私たちにとって一種の盲点になっていたのだろうか。
臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
この「普通の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。
「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。
ここで「普通の男性の性加害性」の一つの重大な特徴を述べるならば、それはいったんその満足を追求しだすと加速していくということだ。彼は可能な限りオーガスムに向かって突き進むだろう。そしてそれを途中で止めることは難しい。これは飲酒やギャンブルと大きく違うところだろう。例えば酒なら、飲めば飲むほど「もっと!もっと!」というわけではない。私は下戸なのでこの体験をしたことがないが、たぶんそうだと思う。いい加減に酔えば「まあ、このくらいにしよう」となるのが普通ではないか。かなり深刻な飲酒癖を有する人も、大体飲む量は決まっている。もちろん生理的な限界ということもあり、そもそも血中濃度が増してアルコール中毒状態になり意識を失なえば、もうそれ以上酒を飲み続けることはできなくなる。でもそうなる前に酔いつぶれて寝てしまうのが普通なのだ。
ではギャンブルはどうか。これも最後にオーガズムに達するということはない。ではだんだん使用量が増えていくコカインなどはどうか。これは同じ量の満足を与えてくれるコカインの量が増えていくといういわゆる耐性という現象だが、一定の量を使い、最終的にオーガスムに達するまで止められない、というわけではない。そして一定の使用量を超えると失神や呼吸困難に至り、その先に死が待っている。
(以下略)