2020年4月30日木曜日

トラウマ難治例 2


2. 発達障害の層
最近の精神医学的な診断や治療場面においてはASD 等の発達障害についての議論がきわめて盛んである。それについてはそれがいわゆる過剰診断であるという懸念を抱く立場もある(Frances, 2015, Cooper, 2014, 十一, 2016)。ただし筆者は「難治例」に限らずあらゆるケースに関して、その発達障害的な問題の有無を問うことは極めて重要であると考える。私は個人的には発達障害を疑うことは、過剰診断を防ぐという逆説があるものと考えている。衣笠が記載している通り、ASD はさまざまな精神疾患に「重ね着」され、その在り方を修飾するものの、それ自身の存在はかえって見えにくくなっている。衣笠はトラウマケースについて特に言及はしていないが、PTSD, 解離性障害などのトラウマ関連障害にも言えることである。
十一 (2016) は、ASD の併存症状として、外的、感覚的な特徴に類似する第三の人物に対する攻撃性や堅調な転移感情が、条件学習に基づく投影的機序により生じることが多いと指摘する。また彼らには被害念慮や妄想様の観念も伴うことが多いとする。
岡野、(2014) 臨床心理事例研究 41, 2014 p1523
Rachel Cooper 2014Diagnosing the Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders Routledge; 植野仙経訳、村井俊哉訳 2015)『DSM-5 を診断する』日本評論社
十一元三(2013)「自閉スペクトラム症の意義と問題点」(村 井俊哉編、村松太郎編『《精神医学の基盤 [3] 神医学におけるスペクトラムの思想》』学樹書 院、2016pp. 140-147
Allen Frances 2014Saving Normal: An Insider's Revolt against Out-of-Control Psychiatric Diagnosis, DSM-5, Big Pharma, and the Medicalization of Ordinary Life. William Morrow Paperbacks; Reprint edition , 大野  (監修), 青木  (翻訳)『〈正常〉を救え』講談社、

筆者(2014)はかねてからASD 傾向のある人の一部にみられる被害念慮や恨みの感情に着目してきた。一つの仮説であるが、人が特に汲むことが難しいのは、相手が自分に向けた善意や優しさであり、それは自分が同様の感情を相手に向けることの難しさと表裏の関係ではないだろうか。そしてそれは他者への感謝の念の希薄さと、その分増幅された迫害念慮を生むきっかけとなるのであろう。結果としてASD 傾向を持つ人にとっては、対人関係を持つことが被害体験となりやすく、そこから生まれる恨みの念はさらに対人関係を難しくする。私たちが出会うトラウマケースで、まぎれもないトラウマの体験者であり、その意味で犠牲者でありながら、人間関係の構築が難しく、そのためもあり社会的なリソースを得られない人がいて病状を遷延化させることが多いが、そこにはこの発達障害的な要素が潜んでいる可能性がある。

2020年4月29日水曜日

トラウマ難治例 1

はじめに ―――― 「重ね着」的なケースの理解
 本稿のテーマは難治例のトラウマアセスメントである。トラウマの既往を持つ患者さん(以降「トラウマケース」という呼び方をさせていただく)の中には、長期にわたる治療でも症状が改善せず、社会適応を果たせない方々が少なからず見られる。これらの「難治例」のトラウマケースとどのようにかかわるかは臨床家にとって極めて難しい問題である。ただし本稿のテーマはアセスメントについてのものであり、治療方針に論を及ぼすことなく、いかにトラウマケースを見立て、理解するかについて主として論じることとする。
 トラウマケースのアセスメントとしては、病歴や家族歴を網羅的かつ綿密に取り直すことの重要性については言うまでもない。本稿ではそれらがすでにおおむね得られたことを前提として、それらをいかに組み立て、診断的な理解に結び付けるべきかについて論じる。その際に特に論じたいのは、トラウマケースをいくつかの層に沿って「重ね着的」に評価することである。
 私はここ数年この種のテーマについて論じる際に、この「重ね着的」な理解という表現を用いている(岡野、2019)。それはトラウマケースを理解するうえで、あれか、これかのカテゴリカルな診断を下すのではなく、そのケースが纏っている病理のいくつかの層についての理解を深めることで多元的に理解するという趣旨である。その意味ではこの方針は近年パーソナリティ障害の分野などで論じられることの多いディメンショナルモデルに近いと言えるかもしれない。
 この「重ね着」という表現は、もともと衣笠隆幸先生(以下、敬称略)「重ね着症候群」という概念に発想を得ているが、私はその意図とはかなり違った用い方をしているという自覚もある。そこでこの難治例のアセスメントという本題に移る前に、この「重ね着症候群」という概念に言及しておきたい。
岡野(2019) 初回面接 (滋賀心理臨床セミナー「アセスメント・導入・初期プロセス」滋賀県草津、2019年5月12日)
重ね着症候群について
  衣笠はこの「重ね着症候群 layered -clothes syndrome」を以下のように定義している(衣笠、他、2007)。
1)18歳以上。 2)知的障害はない。3)種々の精神症状、行動障害を主訴に、初診時に各症例が表面に持つ臨床診断はさまざまである(統合失調症、躁うつ病、摂食障害、神経症、パーソナリティ障害・・・・)。4)しかしその背景には、高機能型広汎性発達障害が存在する。5)高い知能のために達成能力が高く、就学時代は発達障害とはみなされていない場合が多い。6)一部に、小児期に不登校や神経症などの症状の既往がある。しかし発達障害を疑われた例はない。
 また本症候群は「各種パーソナリティ障害の臨床像を持っているが、背景に発達障害を合併していて、自己理解を促すような分析的精神療法に対しては多くの患者が適応の対象にならない」(p36)とされる。衣笠が特にあげるパーソナリティ障害は、境界性パーソナリティ障害とスキゾイドパーソナリティ障害である。なおこの診断基準にある「高機能型広汎性発達障害」は、DSM-5やICD-11におけるASD(自閉症スペクトラム障害 autism spectrum disorder, 以下ASD)と見なしていいであろう。
衣笠隆幸 (2004) 境界性パーソナリティ治療と発達障害 : 「重ね着症候群」について - 治療的アプローチの違い - 精神科治療学 19, 693-699.
衣笠隆幸、池田正国、世木田 久美、他(2007) 重ね着症候群とスキソイドパーソナリティ障害 : 重ね着症候群の概念と診断について 精神神経学雜誌109(1), 36-44.

2020年4月28日火曜日

揺らぎ 推敲 58


同じ文章を何度も見直している。推敲段階は退屈だ…。


この心拍数に見られる揺らぎは、ある種の必然性を伴ったものということが出来る。つまり目的を持った揺らぎ、と考えられる。ただし、ではどこかに誰かの意図が働いてそうなっているのかといえば、そうではない。むしろ様々な、おそらくはそれら自身も揺らいでいるシステムが全体として機能した結果として生じる揺らぎなのだ。ここでのシステムとは、人体の場合には自律神経のシステム、心臓という臓器のシステム、血圧を維持する血管系システムなどをさす。それぞれが自然な形で揺らぐことで心拍数が結果的に揺らぐ。逆にこれらの間のつながりが途切れると、脈拍は揺らぎを失ってしまうのだ。
このことを考える上で、風に揺らぐ旗を想像していただきたい。その揺らぎ方はかなりの日内変動を示すはずだ。一日のうちには風が強い時も弱い時もある。普通の旗ならその風の向きや強さに応じた揺らぎを示すだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の顔面の動きについて考えよう。顔面にはたくさんの表情筋があり、それぞれの動きで微妙に人の表情が変わる。私たちは日常生活で感じるいろいろなものに応じて表情を変えるし、あまり極端な振れ幅でなければ、その揺らぎはむしろ精神的な健康度を表すだろう。鬱病だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだ。
その意味で生命体における揺らぎは、むしろその健全さの指標とも言えるだろう。それは本来正確な一定のリズムを生むようには出来ていない。脈拍は常に一定のリズムで正確に打つことが最初から意図されていないのだ。ちょうど旗が一定のリズムと幅で揺らぐことが意図されていないように、である。脈拍はむしろ身体の各所で起きていることを反映している。という事は揺らぎは、ただ意味もなく生じているのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受け流し、緩和しているのである。
つまりここで発想の転換が必要なのだ。揺らぎは他のシステムの揺らぎとの関係で生じ、それぞれの揺らぎが複雑に影響しあっているのである。そしてこのように考えると無生物の揺らぎも生命体の揺らぎも本質的な違いはないのではないかということになる。生命体の場合は意図や目的を持って揺らいでいる、という考え方があまり成り立たなくなるからだ。結局は一か所にみられる揺らぎは、システムの内部の各所で起きている揺らぎを反映しているという点では、旗の揺らぎも心拍数も変わりないのである。

2020年4月27日月曜日

揺らぎ 推敲 57


今でこそ揺らのテーマは大きな関心を集めるようになったが、もちろん揺らぎそれ自身は宇宙が始まって以来永遠に存在してきた。宇宙の始まりと言われている「ビックバン」は138億年前に起きたと言われているが、最初にして最大の揺らぎ、超々々のつく大波だったかもしれない。(ただしそれ以前に「ビッククランチ」があり、それ以前に存在していた宇宙が大収縮して一点に集まったという説もある。ビックバンはそこから始まったというのだ。すると宇宙は結局収縮と膨張を繰り返しているという説、すなわち「振動宇宙論 oscillatory universe theory」と呼ばれるもので説明されることになる。つまり宇宙は悠久な時間の流れの中で、広がったり収縮したりという揺らぎを繰り返しているだけかもしれない。まったく気の遠くなるような話だ。
 ともかくもビッグバンは大変な激震だったわけであり、それにより起こされた擾乱が全宇宙に、そして量子レベルでの微小の世界にまで波及し、現在でも存在し続けているとも言われる。それの一つの現れが、いわゆる宇宙背景放射と呼ばれるものだ。

宇宙に存在する揺らぎ
 そしてそれから138億年たち、宇宙も私たちの住む地球でも、今でも気温、気圧、海水温、あるいは地震計の示す波形さえも揺らいでいる。これも結局はビッグバンの余波と言えるのだろうか。そして私たちの体の体温も、血圧も、脈拍数も、脳波もゆらいでいる。科学やテクノロジーが進んだ現代ではこれらの揺らぎの存在は常識の範囲内かも知れないが、いったんその理由を問い出すと、その明らかな起源など誰にもわからない。ただ宇宙は、現実世界はそうなっているとしか言いようがないのである。

2020年4月26日日曜日

揺らぎ 推敲 56


世界は未曽有の危機を体験している。いうまでもなく新型コロナウイルス、Covid-19の蔓延のことである。2020年の秋に、我が国は少しは日常生活を取り戻せているのか、それとも店を開けている書店などはどこにも見当たらないのか、現在の段階では全くわからない。今は私が第●章でふれた臨界状況ともいえ、このまま米国やイタリアやスペインで起きた感染爆発に向かうのか、それとも韓国が今のところ見せているようなソフトランディングに向かうのかが全く読めない状況である。新型コロナウイルスの感染が拡大の方に揺らぐのか、終息の方向に揺らぐかはおそらく厳密には予想しようがない。
春の暖かな日差しが注ぐ街を歩き、一見何事もなかったように公園で遊ぶ親子連れを見ながら、例年通りの今頃に送っていたはずの日常を思い出し、本当はこうではなかったはずだ、と思う一方では、その感覚が全く誤っているのだということにも気が付く。「本来であったら~であったはずの日常」は実は存在しない。昨年の4月の、少なくとも現在に比べたら穏やかな日々は、そして大学での通常の授業や日常臨床や、当たり前のように行われていた学会やセミナーは、たまたまいくつかの偶然が重なっていたお陰であった。大地震に見舞われなかったこと。地球温暖化の流れがまだ暴走せずにいたこと。そして突然変異したウイルスが人類を深刻に脅かすということが起きていなかったこと。
揺らぎを生きるということは、一瞬先にも予想しなかったことが起きうることを受け入れること、そして今という、仮にも平穏な時間がいかに偶発的にもたらされているかということを知ることだろう。そしてそれは大部分の私たちにとっては容易ではない。揺らぎに満ちた日常は、しかしそれが定常波として続くような錯覚をたちまちのうちに私たちの中に植え付け、予想していた通りの未来が現実に訪れても全く当たり前のように受け取る。私たちの心はそのように出来上がっているようである。
揺らぎの問題はまっすぐ死生観につながる。私は還暦を既に優に過ぎたが、私がこれからまだ生きていられる間に何を伝え、何を残すかは個人的には重要なテーマである。私がこの揺らぎについての本を通して伝えたかった事を、少しでも解りやすく書く努力をしたつもりであるが、至らなかった点も多いと思う。私の思考も表現能力も常に揺らいでいるのだから、自ら本書の不十分さをあきらめ、受け入れるしかない。

2020年4月25日土曜日

揺らぎ 推敲 55


柔構造における境界は揺らいでいる

以上柔構造という言葉の意味について説明したが、剛構造ないしは通常の治療構造との一番の違いは何だろうか? それは柔構造の境界は揺らいでいるということだ。それはどういうことだろうか? ここは非常に具体的な例、たとえば精神療法のセッションの時間枠を考えよう。ある患者Aさんのセッションは10時から1050分までとなっているとする。

Aはセッションの終了直前になって、あるテーマについてまだ話していなかったことに気が付く。Aさんはそのことを治療者に尋ねる。「一つお話ししたいことを思い出したんですが。23分延びてもいいですか?」

ここで剛構造的な考え方を持つ治療者Bの反応を見てみよう。
「セッションの時間は50分までと決まっているので、それを延長するわけにはいかない。時間が過ぎた時点で終了を告げて終わりにしなくてはならないな。」と考えたA先生は、時間いっぱいまではクライエントさんが話すのは自由だと告げ、定刻通りになったら終了を告げる。
他方柔構造的な治療者Cの反応として、読者は次のようなものを想像するかもしれない。

「私の信条は、治療構造を柔軟なものに保つことだ。23分伸びるくらいだったらかまわないではないか。」 こうしてC先生は時間が過ぎても34分ほど延長して話を聞くことにする。

確かにB先生はセッションの枠をきっちり守り、C先生はその点柔軟である。しかし私が考える柔構造はこのC先生の方針とも少し違ってくる。本当の意味で柔構造的な考え方に従ったD先生は、結果としてセッションを、次のセッションの開始時間である11時直前まで延ばすかもしれないし、B先生のように50分きっかりに終了するかもしれない。あるいはC先生のように1054分くらいまで延長するかもしれない。つまり構造を厳密に守るか、緩めるかという判断それ自体が揺らぐということである。
その意味をさらに考えるために、D先生の思考をたどってみる。少し長くなるが聞いてほしい。
Aさんが時間の延長を願い出るというのはこれまでになかったことだし、よほどの事情なのだろう。いつもきちんと時間通りに来院して、セッションを終えて帰っていくということは、Aさんは時間を守ることの意味も分かっているということだ。それでもあえて23分の余分の時間を必要としているのだろう。これはぜひ受け入れたい。それは私がAさんのニーズを的確に感じ取っていることを示す意味もあるだろう。幸い次の時間にはケースが入っていないし。もちろん構造を少し緩めるということがこの治療関係に持つ影響も考えなくてはならない。」
このD先生の考えには、様々な視点が組み込まれている。Aさんにとって時間の延長がどの程度重要らしいかという視点、自分が仕事を行う上で、時間の調整がどの程度可能かという視点、治療構造を逸脱することが持つ意味はどうなのかについての視点、などであり、それらから総合的に判断されることになる。それぞれの視点は、どれが最も適切な判断なのかについては正解がなく、それぞれが揺らいでいるといえるだろう。Aさんの要求はある意味ではとても重要だが、場合によっては次回まで待てないわけでもない。D先生の時間的な余裕も、ある場合もない場合もあろう。この日はたまたまAさんの次のセッションの予定がないので、少しは時間的な余裕があるかもしれないが、別の場合には次のセッションは絶対に遅れてはならないものかもしれず、またそのための準備をする必要があり、1050分終了の予定を延長するような一刻の余裕もない場合もあろう。
さらに治療構造を曲げることが及ぼす影響についても、23分延長することにはネガティブな意味が含まれる場合もある。もしD先生が以前Aさんの同じような要望を聞き入れて、「2、3分」の延長を了承したところ、それからの話が延々と続いてしまい、それを途中で止めるのがとても大変だったという経験があったとしたら、今回それを再び了承する意味は全く違ってくる可能性もある。
結局この先生の判断はこれらのさまざまな可能性の揺らぎの中から浮かび上がってくるものであり、その意味でまさしく文脈依存的なのである。治療構造が揺らいでいるというのはそのような意味なのだ。

2020年4月24日金曜日

揺らぎ 推敲 54


少し書き加えた。

現実の失敗とハインリッヒ的な失敗

現実の、自然な失敗、あるいは事故については、私は個人的には次のように理解している。こちらの事故はべき乗則に従ういくつかの事象が混ざったもの、その結果として全体がべき乗則に従うかどうかが不明なものといえるのではないだろうか。例えば戦争の起き方にはべき乗側が成り立つ。地震の起き方もそうだ。森林火災もべき乗則に従う。そして自然で現実的な失敗は、これらのうちのどれかが起きてもいいことになる。人が殺し合いに巻き込まれるのも、地震に襲われるのも、山火事に巻き込まれるのも、いずれも自然な事故なのだ。
ちなみに砂山は降り積もる砂の量が倍になれば雪崩の起きる率は2.14分の一になる。地震はそのエネルギーのサイズが二倍になれば、四分の一の頻度で生じる。森林火災に関しては、焼失面積が倍になれば、それが起きる頻度は2.48分の一になるという。種 species の絶滅に関しては、その数が倍になると頻度は四分の一に、論文の引用に関しては、その数が倍になると頻度は八分の一に、戦争はその犠牲者の数が倍になると、その頻度は八分の一になるという。以上はブキャナンの「歴史は『べき乗則』で動く」の各所から拾ったものだが、それぞれ事故の種類により、少しずつ異なったべき乗則に従うことになる。

2020年4月23日木曜日

揺らぎ 推敲 53

 たまたま生じた突然変異により生まれた新しい形質が生き残るのは、はたして「環境に適していた」からだろうか? それともそれこそたまたまなのか、この問題はおそらくジェイ・グールド(著名な進化生物学者)に聞いて「それは私もわからない」と答えるのではないか。しいて言えば、「どっちもあり」ということになるだろう。
 生物の進化自体が、実は必然ではなく、多くの偶然により生じていたことは、最近では主流を占める考えになりつつある。そもそも突然変異自体も適者生存とはとても言えない形で保持されていくからだ。皆さんはイッカク(一角)という奇妙なクジラをご存じだろうか。口の先から一本の長い槍をはやした、実に奇妙な海獣である。イッカクが生まれたのは環境に適していたからだろうか? 
 
イッカクは角のような、しかし実は切歯が異常に長くなったような棒を使い、魚(タラなど)の群れに向かって振り回す、という得意技を持つ。群れに向かってやみくもに振り回した棒は不幸にもそれにあたった数匹のタラを打ち落とす。それをイッカクは捕食するわけだが、これは適者生存だろうか。それが生存に役に立つのであれば、どうしてほかのクジラや魚たちも異様なまでに伸びた切歯を持たなかったのか? 結局イッカクの角(というか歯)は、ほんのたまたま突然変異である雄に生じ、それが優先遺伝として受け継がれていっただけではないか? 適者生存というよりはたまたまの要素がかなり入っているのではないか、と考えざるを得ないのだが、大脳皮質における六角タイル軍の勢力争いも、どこかそういうところがあるのだ。ダーウィン的な進化にもこのような気まぐれな、出来心のような現象がみられるのである。
 どのような思考にせよ発話にせよ、楽器の演奏にせよ、時間軸上に展開する(つまりダイナミックな)活動は、間断なき大脳皮質のテリトリーの奪い合いだ、ということをカルヴィンの本から思い至った時、私はすごく合点がいったのを覚えている。それらのプロセスは概ね無意識的に行われ、意識はそのプロセスを開始する指令を出したり、その結果を受け取ったりするときだけに働くというのが真相なのだ。そして無意識的な活動からどうして文法にかなった文章が出てきたり、あるいは楽譜通りのメロディーが紡ぎ出されたりするかは、そのダーウィン的な精神活動の進行が、かなりパターン化されていることを意味するのだ。

2020年4月22日水曜日

揺らぎ 推敲 52


神経細胞という単位ごとに、そこで発生する電気的活動の持つ揺らぎという問題について論じた。しかし脳の活動全体を考えると、一つ一つの神経細胞の揺らぎは極めてローカルな出来事といえよう。私が何度か用いた地震の比喩を取り上げるならば、脳の活動全体が中等度の地震のサイズだとすると、神経細胞の電気活動は、それこそ砂粒の動きにたとえられるだろう。ただしこの砂粒は、常にモゾモゾ動いているということになる。そして巨大な岩盤の揺らぎである地震が実は砂粒の動きと連動しているのと同じように、脳の活動も個々の神経細胞の活動に帰着することができる。ただそのスケールがあまりに違いすぎるので、神経細胞の揺らぎから心の揺らぎを論じることにはあまりにも大きな話の飛躍があると感じられるだろう。
心の揺らぎについては第3章で論じるとして、ここでは神経細胞の揺らぎに話をとどめておきたいが、次のレベルとして私が挙げるのが、大脳皮質のマイクロカラム、カラム、という単位である。
神経細胞 → マイクロカラム(円柱) → カラム(機能円柱) → ~野(運動野、など) → ~葉(前頭葉、など)

大脳皮質は厚さ2.5ミリほどであり、それが6層の構造からなる。このコラムは大脳皮質のいたるところで見られる。感覚をつかさどる一次体性感覚野や、運動をつかさどる一次運動野などでもそうだ。直径0.5mmほどのコラムには 約10万個もの神経細胞があるが、その詳細な構造や機能はまだよく分かっていないという。
その構造をもう少し細かくみると、マイクロカラム (minicolumnミニ円柱)とよび、2540μmほどの大きさであるという。人間の大脳には200億個のニューロン、2億個のマイクロカラムがあるというから、その数は途方もない。

 
一時間かけて描いた図
 
1つのマイクロカラムは約100個ほどの神経細胞により構成される。これは脳の機能の基本的な単位であり、それらを構成する神経細胞は同期化しつつ、一つの仕事をこなしていることになる。神経細胞たちが集まった一つの班、と考えていいだろう。
このマイクロカラムがさらに100個ほど集まったものがカラムと呼ばれるものだ。つまりカラムは、神経細胞の10000個ほどの塊で、太さは600800μmである。地震の比喩では小石くらいの大きさの塊と考えることができる。

2020年4月21日火曜日

揺らぎ 推敲 51



 揺らぎを論じる上ではアトラクターという概念もとても重要になってくる。といってもアトラクターという言葉の意味がわからないとこの話はピンとこない。
アトラクターとは簡単に言ってしまえば、システムの動きがそれに向かって収束していく場所、ということになる。ただしいったん収束したかのように見えて、また飛び出して入ったりもする。またその収束していく場所は一点とは限らない。それはある一定の状況であったり、一定範囲内での動きであったりする。幾何学的に表現すれば、それは点ではなく、面であったり、立体構造だったりする。
アトラクターの中には不思議な形をしたものもある。立体空間である点の動きが図のような不思議な立体構造に収まる場合があり、それには「ストレンジ・アトラクター」という名前がついている。このストレンジ・アトラクターに落ち込んだ動きは、それを二次元の面に投影したならば、まさに揺らいでいるように見えるだろう。だから一定の範囲内を揺らいでいるなにかは、一時的にアトラクターに収束している状態を考えていいだろう。
 
アトラクターの意味や面白さを伝えるために皆さんに思い描いていただきたいのは、台風である。例えば2019年のお盆休みに突入していた日本列島は大騒ぎだった。超大型の台風10号が日本に接近し、815日には山陽新幹線が全面的に運休を計画した。更にそのあと10月に来た台風19号のおかげで、1012日は一日東海道新幹線が運休したのである! なんというはた迷惑な話だ。
しかしいくらテクノロジーの進んだ現代社会でも、この様な傍若無人な台風の振る舞いをコントロールすることなど全くできない。太平洋上に巨大扇風機を何万台持って行って空気をかき回してもだめだ。何しろ北半球の太平洋領域の空気はみなこの大渦巻を維持し、さらに発達させるように動いているからだ。誰もこれを止められない。・・・・・これがアトラクターの現れ方だ。ただしこのアトラクターもやがては消えていく。日本列島を北上するころには熱帯低気圧になって消えてしまうことが多い。木星に見られる大赤斑のように発見されてから350年以上も続いている(これには異説もあるらしいが)台風もある。

2020年4月20日月曜日

揺らぎ 推敲 50


心理の世界におけるべき乗則

ここで少し先回りをして、心の問題のべき乗則というのを考えてみよう。本書では後に心についての話に移るが、このべき乗則とか宇宙の塵についての話がどうして心と関係しているかさっぱりわからないかもしれないからだ。とはいえ、べき乗則が心の世界でどのように起きるかという例を挙げるのはあまり簡単ではない。
ひとつの例としてパラノイア、ないし被害妄想を挙げておこう。被害妄想とは、ある特定の人が自分に悪意を持ち、陥れようとしていると信じることである。そのために人は全力を振り絞ってその人からの「攻撃」から身を守ろうとする。何しろそうしなければ自分が殺されたり滅ぼされたりしてしまうと信じているからだ。ちなみにこの特定の人とは、ある組織や、時には国家という形をとるかもしれない。国家が自分の命を狙っているという信念は、もし実際には根拠がない限りは被害妄想ということになる。ただし実際に国によってはそのようなことが起きうるのが現代社会の恐ろしいところである。
被害妄想より一段階程度が弱いものは被害念慮、と呼ばれている。「念慮」、とは難しい言葉だが、要するに「そのような考え、想像」という意味だ。あの人は自分に悪意を持っているのではないだろうか、という疑いや想像のレベルでしかなく、これはむしろ私たちの日常生活で頻繁に起きていることであろう。
朝出勤した時に同僚に「おはよう」と挨拶をした際に、帰ってきた「おはよう」の声が小さかったり、ぞんざいに感じられたりすることがある。すると「あれ、私に何か怒っているんだろうか?」と思ったりすることがある。あるいは誰かにメールを出して、返ってきたメールの文末が少しそっけない感じがし、相手にほんの少しの悪意を疑うこともあるかもしれない。
これらの例は少し大げさに聞こえるかもしれないが、私たちが見ず知らずの他人と接する際の被害念慮は極めてわずかなきっかけで生じうる。高速道路を走っていると、隣の車線を走っている車がわずかに幅を寄せてきたことにも神経を逆なでされた気がするかもしれない。満員電車では隣の人の肩が触れただけで「何するねん!」という反応が起きてしまうことも少なくないのだ。
このような例を考えると、被害念慮は人間の心理が取りうる一つの形として、すべての人の心に備わっていると考えられる。細かい被害感は常に起きていると考えていい。人間の心は、普通に受けとることと、裏読みをするとの間を揺らいでいるのである。そしてどんなに楽天的な人でも時と場合によればかなり被害的になりうる。そして極めてまれにではあるが、大きな被害妄想に発展する。それはいわば起きるタイミングを待っている地震のようなものだ。そしてそれが大きくニュースにとりあげられるのだ。
パラノイアの大きな地震の例を挙げよう。ある人間が誰かに恨みを持ち、攻撃を仕掛ける。1702年に起きた「忠臣蔵」では、大石倉之助が浅野内匠頭に恥をかかされたと感じ、四十数人の人間を巻き込んで刃傷沙汰へと発展した。
そしてごく最近でもある恨みを持った人の犯行により、多くの人の尊い命が奪われるということが起きている。きわめて温厚で人望の厚い大学教授が配偶者を殺害するという事件も起きた。これがその人が本来持っていた精神医学的な問題と見なす方針もあろう。しかしむしろ一見正常な心の持ち主にごくまれに起きて急成長する、途轍もないサイズのパラノイアのせいと考えることもできよう。
こうして被害感はその程度が軽く、頻繁に生じているものから、大きい、しかしまれに起きるものまでのラインナップを形成する。どこまでそれが正確なべき乗則をなしているかを調べるのは手間がかかるであろうが、おそらくそれに近いものが生じていると考えていいであろう。

2020年4月19日日曜日

揺らぎ 推敲 49

揺らぎと「冪(べき)乗則」の世界

揺らぎとは実に複雑な現象だが、その背景にはあるとても大切な仕掛けがある。それが「べき乗則」と呼ばれるものだ。漢字では「冪乗則」である。英語では power law(力の法則)とシンプルだ。この世はこの冪乗則が支配しているといわれる。そしてこれまで考えてきた揺らぎの本質につながっているというのだ。そこで本章ではこの不思議な冪乗則(以下、「べき乗則」)の話になる。
ただしこの概念は極めて重要であるものの、少々厄介で分かりづらいかもしれない。不必要に感じられたらこの章は飛ばしていただいても差し支えない。
冪(べき)というのは見慣れない漢字だが、要するに10の何乗、という時の「乗」に相当する、同じ数字を何度も掛け合わせるという意味である。ある値が1,2,3,4と自然数で進行すると、それに対応する値がたとえば 2×2、2×2×2、2×2×2×2・・
・・という風にとんでもないスピードでどんどん進行していく、という意味である。ネズミ算式に増えていく、というあのニュアンスだ。
ここで揺らぎとべき乗則の関係を説明したい。そのために揺らぎの基本的な例として、再び地面の動きや地震を考えよう。地面は、自然界の中で揺らぎの性質を有する典型例だ。ふつう私たちは地震の時以外は地面は不動だと思いがちだ。しかし極めて繊細な地震計を設置してその動きを観察すると、地面はほとんど常に揺れ動いていることがわかる。
以前は地震と言えば人が体感するものを指していたが、最近は「震度ゼロ」の地震、すなわち地震計にのみ感知され、体験はされない地震も含めている。
そして分かったことは、結局は微震も含めた地震はかなり頻繁に起きており、私たちが体感できたり、災害を引き起こしたりする地震は、そのうちの例外的に大きいものなのだ、ということだ。「揺らぎ」という言葉を用いるならば、大地は常に揺らいでいるのであり、私たちが地震と呼ぶのはそのうちの特に大きな揺らぎだということになる。ではいつ大きな揺らぎが起き、それがどの程度予測可能かということについては、実はよくわかっていないのだ。
ところでこんな風に書くと、地震における「揺らぎ」とは予測不可能ででたらめな動きを示すのだ、という印象を与えるだけかもしれない。でも揺らぎは決してランダムで無意味、というわけではない。実はこの地震について、驚くべき事実がわかっているのだ。そしてそれがこの「べき乗則」ということと関係している。例えば皆さんにはこんなことが理解できるだろうか?
1.地震の大きさに「典型的なもの」ないし「平均の大きさ」は限りなくゼロに近づく。
2.地震の大きさとその頻度は、それらを対数で表すと直線状に並ぶ。
つまり地震の大きさは実はでたらめではなく、極めて整然とした秩序とともに起きているということなのだ。

この1.の「平均的な大きさがゼロに近づく」という事実はおそらくほとんどの人にとって理解に苦しむものではないだろうか。そしてここがランダム性との違いである。例えばサイコロをでたらめに振って出てくる数値を平均することはたやすい。1234566で割って、21/6 = 3.5 というわけだ。ゼロになんかならないわけだ。
次に2.であるが、これはいわゆる「グーテンベルグ・リヒター則 Gutenberg–Richter law」として表されている。これは地震の発生頻度と規模の関係を表す法則である。片対数グラフで表すと両者は直線関係になるという関係があり、この世界では有名な発見であった。
この2. の問題の意味を突き詰めると1. もおのずと理解される。このグーテンベルグ・リヒター則を厳密に当てはめると、地震の規模が小さくなると、その頻度は膨大になっていく。つまりは「地震」の数で言えば、微震の頻度は膨大になり、理論上は震度ゼロの地震の頻度は無限大になってしまう。逆に巨大な地震は極端に少なくなる。だから平均すると圧倒的に微震の方が数で勝ってしまい、結果として地震の大きさの平均は限りなくゼロに近くなるというわけだ。
ちなみに数式で表すと、マグニチューのときの地震の頻度をn(回/年)とすると、両者の関係は、パラメーター を使って次の式により表される。
{\displaystyle \log _{10}n=a-bM}log10n = a-bM または n = 10a-bM
ややこしい理屈は抜きにして、この式が表しているのは何かと言えば、マグニチュードが 1 大きくなるごとに地震の頻度は約10分の1になるということである。というよりはそのようにしてマグニチュードの値を定めたということだ。するとマグニチュードが1大きくなれば地震のエネルギーは約31.6倍ということになるのだ。

2020年4月18日土曜日

揺らぎ 推敲 48

 20世紀の初めに、ロバート・ブラウンという植物学者がいた。彼はある時水に浮かべた花粉を顕微鏡でのぞくと、それがプルプルと細かく振動していることを発見した。それは最初は花粉の生命活動の現われのようにも思えたが、実は水に落としで沈んでいく墨汁(もちろん無生物の炭素の粒である)の細かい粒についても見られる振動であった。これが「ブラウン運動」の発見である。
 しかしブラウン自身にも、当時の学者にもそれが何を意味するかは分からなかったので放っておかれたという。人はこうやって理由のわからないことは無視するのである。しかしアインシュタインの炯眼はそれを放置はしなかった。それについてアインシュタインが出したのは驚くべき理論だった。それは水の分子が花粉やインクの粒に周囲からぶつかっているからプルプルと揺らいでいるのだ、というものだった。
 しかしどうしてアインシュタインはこの発想に至ったのだろうか。彼は墨汁の周囲にあり、それ自身は見えていないながらも墨汁の粒子に存在する水の分子の揺らぎを見抜いていたのである。それはおそらく彼が物質の本質としての揺らぎを捉えていたからであろう。そうでなければ小刻みに揺れる花粉や炭素の粒を見て、「ほら、周囲の水分子のせいだ!」などと思いついただろうか。
 揺らぎ、振動が物質の本質である、というのは言い過ぎに感じられるだろうか? たとえば水の分子の本質は、二つの水素原子と一つの酸素原子の結合、ということのみだろうか。水の分子が振動しているという事もやはり本質的なものといえるだろうか? 私は言えると思う。それはその振動がその水のありよう、あるいはエネルギーの伝達の媒体となっていることを考えれば納得が行くだろう。水はその振動の大きさにより、気体、液体、個体のいずれの形をもとりうる。そしてその振動の大きさによりそのエネルギーを他に伝え、自分自身も変化していく。もちろん水だけではない。物体のすべてがそれによりエネルギーのやり取りをしている。そして揺らぎの本質は、実は物質を細分化していくにしたがって大きくなっていく。光子ともなると質量がなく、波動だけの存在となる。とはいえ粒子としての性質も持つという事でもう私たちの常人の理解を超えているわけだが。すでに第●章でも触れたが、現在提案されている素粒子も、その最終形として提案されている超ひも理論などは、質量はなく、長さと振動だけの性質を有しているとされる。こうなるともっとわからなくなるが、一つ注目すべきなのは、物の本質は、それを細分化していくと最終的には、その揺らぎという形でしか残らないというのが象徴的だ。

2020年4月17日金曜日

揺らぎ 推敲 47


株価は予想が出来ない、という根拠を示せば、それが揺らぎの性質をいやおうなしに有するということを私は述べているのだが、株価が原則的には予想不可能であることは、簡単な思考実験から示すことができる。ちなみに地震の際の大地の揺らぎを考えるのと違い、株価の変動については人の意志が絡んでくる分、より思考実験向きであろう。ただしここでは話をより分かりやすくするために、株価ではなく物の値段について考える。
例えば複数人の投資家(A,B,C,D,E,F・・・・)がいるとしよう。彼らがある風景画の取引をする。彼らが集まった一種の競売のような場面を想像してほしい。しかしこの競売ではいったん落札されても、別の投資家が値を吊り上げたら転売できるものとする。その意味では株の売買と同様のことが起きることになる。
さてその絵画はある有名な画家の作品で、最初はX万円という値段が付いている。さっそく投資家Aさんが「それでは安すぎるだろう」と言ってX+1万円で買おう、と言う。するとBさんが小声で「私はそれをX+2万円で買うな」とつぶやく声が聞こえた。Aさんは心の中で「しめた!」と思うかもしれない。ここですぐBさんに売れば1万円の利益が出る。でも絵を首尾よくX+1万円で落札したAさんは、ここで簡単にBさんにこの絵画を売るのを躊躇するかもしれない。というのもCさんが「じゃ、私はそれをX3万円で買う」と言い出すかもしれないからだ。そうなるとそれを売ったBさんの方が2万円の儲けになる。Bさんが自分より儲けるのを、Aさんは指をくわえてみているわけには行かない。だからAさんはその絵を売らないで様子を見ることにする。
このように競売はまだ始まったばかりだが、そこにいる数人の投資家の頭は、めまぐるしく動いていることがわかる。上に書いたのはAさんの心の描写だけだが、彼らはそれぞれその絵の値段がどのように推移するかを一生懸命予想しようとするのだ。そしてCさんは実際には「この絵は素晴らしいから、きっとこのまま値段が上がっていくだろう。しばらく様子を見ておこう。」と考えていたとする。Cさんは自分の第六感を信じることにする。そしてどうしてもその絵画を手に入れたいと心に決める。そしてほかの投資家と競って「X4万円、いや+5万円!」と買い値を釣り上げていく。
この場合Cさんはある危険な賭けをしていることになる。たとえばCさんがX20万円で最終的に絵画を手に入れたと仮定する。そのCさんにはどのような運命が待っているだろうか? 
最善のシナリオを考えよう。ここに投資家Dが現れる。「私はこの絵画を実は高く評価している。きっとこの絵の価格はこれから先も上がるだろう。ぜひX+30万円を出したい。」
Cさんは心の中でほくそ笑む。「この絵がこれ以上上がる可能性はほぼない。ここで売り逃げて10万円の利益を得よう。」Cさんは実は現金を必要としているので、残念ながらこの絵の手放し時だ、本当は持っていたいのだが・・・」などつぶやきながらDさんに絵を売却し、濡れ手に粟の10万円を持って競売場を去る。(ここで最善のシナリオを描くためには、Cさんはこの後も絵が高騰を続け、最後にはX+100万円台で取引されるようになったことは一切知らないほうがいいだろう・・・・。)
しかし以下のような最悪の場合だって考えられる。CさんがX20万円で絵画を手に入れた途端、ほかの投資家がそっぽを向いてしまうのだ。たとえばEさんがこんなことを言い出すかもしれない。
「でもよく見たらこの絵、安っぽくないか? X万円でさえ高すぎるようにも思えてきたぞ。贋作じゃないか?」「いや本物だろうけれど、この画家が円熟する前の、まだ未熟な頃の絵だろう。X10万円くらいが相場じゃないだろうか? X20万なんてやはりどう考えても高すぎるぞ。」
こうしてCさんはだれも見向きもしないX20万円の絵画を抱えて途方に暮れるのだ。Cさんの「この絵は値上がりする」という予想自体はもし正しかったとしても、最初のX万円という値段が高すぎるのか、低すぎるのか、ということについてさえ、誰も正確な答えを知らない(というか実は最初から答えは存在しない)という展開になってしまったのである。
さてこのごく簡単な思考実験は、ある事実を示している。投資家はその絵画の値がこれから上がると思ったら買い、下がると思ったら売る、というきわめて単純な原則に従って売買をするだろう。そして上がると思う人が、下がる人より多かったら、絵画の値は上がっていく。そして絵画の値が上がったのをみて、もっと上がると思う人と下がると思う人のどちらが多いかにより、値は上がるか下がるかが決まっていく。ここまでは単純である。ところが昨日ちょっと上がったり(あるいは下がったり)した絵画の価格が、これから上がるか下がるかを誰が正確に予想できるだろうか? あるいはより正確に言えば、もう少しあがると思う人と、下がると思う人のどちらが多いかをだれが正確に予測することが出来るだろうか。それは不可能なのである。それぞれの投資家がどれほど確信を持って売買を決めるとしても、結局は価格の推移は決定できないというわけである。だから価格の予想には根拠は存在しないのだ。
この価格の予想に「根拠はない」と言い切ることに、それでも読者の中には納得が行かないかもしれない。そこでダメ押しでもう少し説明したい。仮に、たとえばある絵画の価格の予想に、ある明確な根拠があるとする。たとえばその画家が何かのコンクールで受賞した、というニュースが流れたとする。するとその絵の値が上がることを予想することには「根拠がある」と言っていいだろう。またその逆で、その絵画が贋作であるとのうわさがネットで流れたとしよう。すると誰もがその絵の値が下がることを予想する根拠を有することになる。しかし今度は、そのような根拠でひとたび生じたその絵画の値の上昇や下降は、それが行きすぎであるために揺り戻しが起きるのか、あるいはそのゆり戻しの先を見越した逆のゆり戻しが生じることで相殺されるのか、となると再び全くわからなくなるのである。どちらを予想するにしても根拠がないのだ。いや、もし根拠があるとしたら、その揺り戻しの揺り戻しの先は・・・・・。おそらくその予測不可能性は幾何級数的に増大していく。このように最初の価格のある程度の予想は可能であったとしても、そのあとの価格の推移は、たちまちのうちに予測不可能性の波に呑み込まれていくのだ。
結局ものの市場価格や株価は、いずれは尖った芯の方を下に立っている鉛筆のように、どっちに転んでもおかしくない状態になる。少し変動した後は再び、絵画の値段の推移を予想しようにも、その予想自体が一つの刺激となって値が少し上がり下がりし、それから先はまた予測不可能な状態へと戻ってくるのである。
もちろんそうは言っても投資家は沢山いるし、株価の推移を予想する投資顧問業者なる仕事も存在する。でも本当に株価の値の推移を予測できるのであれば、その有能な投資顧問業者は莫大な利益を上げてさっさと店をたたんでどこかのリゾート地に引っ込んでしまうだろう、とはよく言われる話だ。
結局株価を予想することは、未来を予想することであり、それは不可能であるというのが結論だ。何しろ予想すること自身が株価の変動を起こしてしまうからである。ただしそれでも大局を見据えることができる人が、「これからはわが国は不況に向かうかもしれない。今のうちに株を売っておかなければ。」などと考えて実際の不況を迎えても一人勝ちするかもしれない。でもその「大局を読む」こと事態がそもそも未来を予知することであり、本来不可能なことをしたつもりになっているだけなのだ。結果的に一儲けした人について、周囲が「さすが、あの人は大局が読めていた」と後になって言うに過ぎない。後付けの議論、ということになる。

2020年4月16日木曜日

揺らぎ 推敲 46

 2020年の3月以降に始まる未曽有の事態など予想だにせず、2019年の秋は日本列島はラグビーのワールドカップで大変盛り上がった。日本チームが強豪の優勝候補のアイルランドに劇的な勝利を収めたことで、わが国のにわかラグビー熱は一気に盛り上がった。
 そこで私は一つのことに気が付いた。テレビでも何度も放映されたのは、実際のラグビーの試合におけるタッチダウンの瞬間の映像ではなかった。もちろんそれも時々出てきたが、その瞬間を見ていた競技場の観衆や、パブリックビューイングや観客の歓喜の表情だったのである。視聴者も実は、同じ視聴者たちの瞬間的な表情の変化の方を見ていて感動していたのだ。人は一緒になって喜んでいる他人の反応を見るのが好きなのだ。そしてそこには明らかに交互作用がある。相手の反応を見てこちらも盛り上がる。そしてそれを見た相手もさらに盛り上がるという増幅効果だ。ただしそれを一人でテレビで見ていてもそれなりに体験できるのだ。そこには一緒に喜んでいるという感覚をテレビを通して今、この時に共有できているという感覚があるからだろう。
 それにしてもパブリックビューイングというシステムは上手くできたものだ。一緒に喜ぶことを目的として、大スクリーンと酒を用意してくれる場所に集う。ただゲームの勝敗の行方を追うだけなら、人はお金を払ってパブや会場に行く必要など本来はない筈だ。家でソファーに横になって一人でテレビで観戦すればいいだけの話だ。ところがそれを増幅したくなるからパブリックビューイングなるものが意味を持つ。ラグビーの国際大会で人が求める体験は、「ラグビーで日本が勝利をおさめたこと」というよりは、それを他人と一緒になって喜べること」なのだ。
 ひとつ思考実験をしてみよう。日本人のあなたはアイルランド人の集まるパブに何らかの理由で紛れ込んでいたとしよう。そして大画面のスクリーンに映し出されたラグビーの試合で日本の勝利、すなわちアイルランドの敗戦を目にする。そして周囲の人々が肩を落とし、落ち込むのを見て、それでも「やった、日本が勝った!!」と楽しめるだろうか。もちろんそんな筈はない。早くそこから抜け出して、喜びをシェアできるような日本人の群れを探すだろう。そして「ラグビー? 試合があったことさえ知りませんし、興味ありません。」という日本人と出会ってもすぐスルーして、とにかく「一緒に喜べる日本人」を探すだろう。やはりどう考えても人は誰かと一緒に喜びたいのだ。
 そんな人間の習性を何とか言葉に出来ないものか。人間の本質を言い表すために、ホモ、なんとか、という呼び方があるではないか。Homo sapiens をもじって、人は遊ぶ存在である、という意味のHomo ludens, 遊戯人(オランダの歴史学者のホイジンガ―) 、Homo phaenomenon 現象人など。要するに homo 「一緒に喜ぶ人」という言葉を作りたいのである。
 このように考えると、人を「合理的経済人」のようには決して捉えられないということがわかる。合理的経済人とは、それぞれが個々に自らの利潤を追求することを目的として生きていくという利己主事的な人間観である。もちろん私たち各人にはそのような側面があることは確かである。そしてその際の個人の利益は同時に他者の不利益と連動していることも非常に多い。というよりはそのような側面と「一緒に揺れることを求める」という本質とのはざまに私たちは存在すると考えた方がいい。
 もちろん人を最終的に動かすのは、その人が持っている報酬系の興奮である。他人の報酬系が興奮することそれだけでは、あなたの行動に何らの影響も及ぼさない。そしてこのことが、人間は合理主義的で自己中心的な存在でしかないという誤った考えを生み出すのだ。人は自分の報酬系の興奮により動く。それはそうだ。しかし自分の報酬系はかなり他人の報酬系と連動しているところがある、という部分が重要なのだ。私たちの報酬系は、他人の報酬系と一緒に興奮し、揺らぐことも求め、そのために他人に奉仕をしたり、世話をしたりもする。私たちはいわば利己主義と愛他性の間を揺らいでいるのである。

2020年4月15日水曜日

揺らぎ 推敲 45

 心に関する揺らぎの議論は、結局どこに行くかわからない私たちの心のマインドワンダリング「酔っぱらいの歩行、ないしはdrunker’s walk」という性質を理解し、解明するものでもある。すなわちそれは行き先のわからない、私たちの心のいい加減なあり方とも言えるのであった。そしてフロイトの精神分析理論は、そのような考えを排した、揺らがない心の科学として出発したということは、前章で述べたとおりである。
 この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、実はその理論には揺らぎの発想が垣間見られていた。彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイは特にその発想が表れているといえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎから死生観に至る彼の考えを知る上で興味深い。
 この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそ、なおのこと美しいのだ。」 フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。これまでの私たちが扱った文脈でいえば、臨界地点、ということになる。そして彼はそれを「Transience (儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えることは当然だろう。
 ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」という主張は納得できるだろうか?  フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。そんなに割り切れるものなのか、と思いたくなるのだ。私は消えるから美しい、という感覚は全く分からないというのではないにしても、すんなり飲み込めるとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここでは揺らぎに特有のある種の二重視の問題を扱っているように思える。
 話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。

問題の、白菜と角煮
たとえで思い出すのが、台北の故宮博物院で見た「白菜」である。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい)、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ20センチほどの彫像品である。この展示の周りにはいつも人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、事情を知らない人にとってはプラスチック製か何かの安物の模型に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、葉の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」と感嘆することになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだ、これほどのものなどどこに行っても見られない、という感動の念が加わるのだ。
 桜だってそうかもしれない。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものを、あり得ないと思うと、より注意深く眺めたくなる、というのと似ているのだ。実物に何かを投影させている、という意味で私はこれを二重視といういい方で表しているのである。

2020年4月14日火曜日

揺らぎ 推敲 44

Covid 19 と良識
おそらく今後パンデミックを防ぐうえで最も大事なことは、とにかく発見した時点で封じ込めをすること。それ以外にはないではないか。
https://news.livedoor.com/topics/detail/18111219/

https://www.asahi.com/articles/ASN4F6VBBN4DUHBI01N.html?iref=comtop_8_01

揺らぎ 遂行

フロイトの立場をもう少しわかりやすく言い換えるとこうだ。「きれいな桜の花を見ることは嬉しい。でもやがて花は散ってしまうこともわかっている。しかしそれを嘆くのはなんと愚かな事だ。散ってしまう事への覚悟を持ち、心の中に桜の花をおけばよいではないか。」そして同時にフロイトの嘆息まじりのつぶやきは聞こえないだろうか? 「それに …。いつもそこにいると思うと、逆に愛でることが出来ないではないか。」
まさにその通り、である。一年中桜が満開であるとしよう。人はおそらく目が慣れてしまって桜の木を見ようともしなくなるだろう。桜はそこにあっても、それは常にそこに立っている建物や街路樹と同じようにすぐに背景化してしまう。時々登場するからこそ新鮮さが保たれる。美にはそこに新鮮さ、斬新さ、驚きが不可欠なのである。そしてそれはおそらく人間、あるいは動物の感覚器が持っている宿命と関わっている。
感覚器と言えば、皆さんはこんな実験をご存知だろうか。実験で眼球を完全に固定することが出来るという。そのような状態で、被験者にあるものを眺めてみる。するとその輪郭はすぐに消えてしまうそうだ。なぜなら通常の眼球は常に「固視微動」という運動を行っているからだ。つまり目は何かを凝視している際に、実は細かく揺らいでいて、それで初めて輪郭を捉え続けることが出来るのだ。もし仮に私たちの目の網膜にある映像を投影して一切動かさずにいると、目は早ければ数秒でその輪郭をすぐに失ってしまう。(ちなみにこの固視微動は揺らぎの一種、「1/f揺らぎ」であり,振幅の回転角は約 0.25度であるという。NTT技術ジャーナル 2004.10 P60~ 61)。
この目の網膜と同様のことを、触覚を司る手のひらに当てはめればわかりやすいだろう。紙の上に打たれた点字を触ってみる。その意味を分からないとしても、その字をなぞることで、幾つかの点の配置を知るだろう。しかしその指を点字の上から一切動かさないでいると、たちまち何を触っているのか分からなくなる。つまり字の輪郭を触って知るときも、実際にはその点の上をなぞる指が動いていることで感覚を受け続けることが出来る。(もちろん一瞬触ってすぐに分かったのであれば、それでも構わないであろうが。)
あるいはふわふわの触り心地のいいタオルの感触を確かめる時を考えてもいい。ふわふわの感覚は、絶えず手のひらを動かすことで得られるのであり、タオルの上の手を静止させてしまえば、もうフワフワの感覚はもう得られない。つまり網膜の視神経細胞と全く同じなのだ。
このことからわかることは、ある対象に関して私たちの得る感覚とは、感覚器の側が固定されてしまえば、つまり揺らぎを失ってしまえば、もう感覚情報として取り入れることが出来なくなるということだ。もちろん対象の側で代わりにゆらゆら動いてくれたらいいのだろうが、現実の物事はそのように都合よく揺らいではくれないであろうから、私たちは視覚や触覚などを得る、眼球や指などの感覚器の方に揺らぎを与えることで、ようやく感覚情報を取り込むことが出来る。

2020年4月13日月曜日

揺らぎ 推敲 43

 心に関する揺らぎの議論は、結局どこに行くかわからない私たちの心のマインドワンダリング「酔っぱらいの歩行、ないしは drunker’s walk」という性質を理解し、解明することでもある。すなわちそれは行き先のわからない、私たちの心のいい加減なあり方とも言えるのであった。そしてフロイトの精神分析理論は、そのような考えを排した、揺らがない心の科学として出発したということは、前章で述べたとおりである。
 この様に少なくとも理論においては揺らぎの少ないフロイトであったが、実はその理論には揺らぎの発想が垣間見られていた。彼が1916年に発表した「儚さについて」という短いエッセイは特にその発想が表れているといえるだろう。このエッセイはフロイト全集ではわずか数ページを占めるにすぎない。しかしフロイトらしくない気楽な筆致で書かれ、いろいろ刺激を与えてくれるエッセイである。特に揺らぎから死生観に至る彼の考えを知る上で興味深い。
 この「儚さについて」のエッセイでは、フロイトと美しい田舎町を一緒に散歩をしていてにある友人の詩人たち(リルケ、ルー・アンドリアス・ザロメ)が登場する。そのうちの一人がこう嘆くのだ。「あーあ、この美しい景色もやがて消えていてしまうのよね。寂しいわ。」(ちなみに私が少し脚色してある。一応ザロメの発言という事にしよう。)それに対してフロイトはこう言う。「いや、消えていくからこそ価値があるんだよ。」また彼はこうも言う。「それを楽しむことに制限が加わるから、それが希少だからこそ、なおのこと美しいのだ。」 フロイトの着眼点のするどいところは、ある種の境目、この場合存在から非存在に移行する時、ないしは両方が共存している体験の持つ微妙さに向けられている点だ。これまでの私たちが扱った文脈でいえば、臨界地点、ということになる。そして彼はそれを「Transience(儚さ、移ろいやすさ、移行) について」というタイトルのエッセイとして発表しているのだ。本書の読者には、これが臨界領域の問題と重なって見えることは当然だろう。
 ところで、フロイトの言う「消えていくから価値がある」とか「希少だから美しい」という主張は納得できるだろうか?  フロイトはこれをこともなげに、悟りきった感じで言っているように私には感じられる。そんなに割り切れるものなのか、と思いたくなるのだ。私は消えるから美しい、という感覚は全く分からないというのではないにしても、すんなり飲み込めるとはとても言えない。むしろリルケやザロメの感覚の方がよくわかる。ただフロイトはここでは揺らぎに特有のある種の二重視の問題を扱っているように思える。
 話を桜の花に喩えてみよう。「桜の花は散っていくからこそ美しい」。これは感覚的に頷ける人が多いかもしれない。その時、私たちは桜の花の向こう側の不在を同時に愛でているという事になる。「美しい」と共に「数日後には消えて行ってしまう」という感覚。
 たとえで思い出すのが、台北の故宮博物院で見た「白菜」である。といってももちろん本物ではなく、翠玉白菜(すいぎょくはくさい)、虫がとまったハクサイの形に彫刻した高さ20センチほどの彫像品である。この展示の周りにはいつも人が群がり、「スゴーイ」となるわけだが、事情を知らない人にとってはプラスチック製か何かの安物の模型に見えてしまうかもしれない。ところがこれがきわめて固い鉱物であるヒスイでできており、刃の部分にあたる緑色も実は原石の色をそのまま用いていることなどを同時に聞いていると、「ホホー!」と感嘆することになる。あの硬い石をこれだけよく加工したものだ、これほどのものなどどこに行っても見られない、という感動の念が加わるのだ。
 桜だってそうかもしれない。今見ておかないと消えてしまう、と思うとより注意を払ってみるだろう。あれだけ硬いものを、あり得ないと思うと、より注意深く眺めたくなる、というのと似ているのだ。実物に何かを投影させている、という意味で私はこれを二重視といういい方で表しているのである。

2020年4月12日日曜日

揺らぎ 推敲 42

以上の考察から私が導くのは次の結論だ。
失敗は二種類考えられる。一つは大体パターンが決まっていて、注意を十分行うことで理論上は防ぐことができる。それはおおむねハインリッヒの法則にしたがい、地震のようにべき乗則にも従う。私が「ハインリッヒ的」な失敗と呼んだものだ。そして理論的には防ぎうるという点では、その失敗には人災的な要素も絡む。そこで問題となるのは、たとえば私たちが物事に対して向けている注意の揺らぎであり、それが失敗の原因と考えることが出来る。
そしてもう一つは現実の、あるいは自然に生じる失敗である。それはまさに予想不可能で、どのような形で起きるかはそれこそ起きてみないとわからない。これがべき乗則に従うのかは私にはわからない。もちろんそれが自然現象に直接関係したものであったら、それはべき乗則に従うであろう。例えば地震による津波を防げなかったという失敗のように。しかし現実の失敗や事故は、それ以外のあまりに多くの要素を含むために、その生じるパターンにある種の法則を見出すことが極めて難しい。そしてそれ等の多くは私たちが注意や準備をすれば防げるようなものではなく、それを人災として処理することはより難しくなろう。そうなるとこれらは失敗というよりは、事故というニュアンスが強くなることになろう。そう、現実の自然な失敗とは結局「事故」と見なすべきものが多いのだ。
多くの失敗の場合、この二つのタイプが微妙に入り混じっているように思える。例えば2011年の東日本大震災の際の福島原発事故を考えよう。この事故では一方では予想を超えたレベルの津波が生じ、それは自然界に起きた「大揺れ」であった。しかし原発の事故を防ぐための最大限の努力、例えば地下の電力設備が浸水により停止するのを回避するための十分な方策を施していなかったという意味では、これは一種の人災であったとも言える。
すでに述べたとおり、これらの失敗のうち特に私たち人間の不注意や注意の揺らぎが大きな位置を占めた場合に私たちは本当の意味での失敗と呼ぶべきであり、そうでない場合はは事故として理解し、処理されるべきであろう。この後者には私たち人間に起きた生理現象や疾病についてもいえる。飛行機のパイロットが突然心臓発作を起こして倒れ、飛行機が操縦不能になり事故につながったとしたら、これは医学的な事象であり、失敗ではない。ただしそのような事態が生じることを踏まえて副操縦士を配備しなかったことが問われる際もある。その場合には失敗とも言えるだろう。

2020年4月11日土曜日

揺らぎ 推敲 41


いい加減さと快楽
 読者の中には次のように思う方もいるかもしれない。いい加減であることが人の心の基本的な性質である場合、そのいい加減さについて、当人はどのように体験しているのであろうか。本来いい加減な性格であればそれでもいいかもしれないが、きちんとしたことの好きな、几帳面な方にとっては、いい加減であることは耐え難いことかもしれない。しかし前者の人々は、いい加減であることでかなり生きにくい人生を歩まなくてはならないであろう。と言っても生きにくいと感じるのは当人だけとは限らない。その周囲の人たちが苦労をすることになるかもしれないのである。この点は後にもう少し詳しく述べるとして、いい加減さはまずは本人の体験する快適さにつながるのだということを述べてみたい。
 大分昔、おそらく20年以上も前のことであるが、田口ランディ氏のエッセイに書かれていたことがいまだに思い出される。もととなったネットの文章はもはやどこにも探せないが、彼女は次のようなことを書いていた。
「いい小説とは、それを読んだ後に、分からないという世界に放り出されるような小説だ」。
 当時はどういう意味か分からなかったが、常に思い出されていて、だんだんその通りのように思えるようになってきた。その小説が人間を描いたものであれば、それを読んで人間がますますわからなくなる。しかしそれは不快さや混乱を招くのではなく、強烈な好奇心を刺激するようなものでなくてはならないのだ。逆に「人間とはこういうものだ」という結論を提示しただけでは、何も余韻が残らず、読者にそこから先を考えさせてくれないだろう。
「事実は小説よりも奇なり」という。イギリスの詩人バイロンの言葉というが、現実は小説が描くようなストーリーと違って多くの混ざりものや意味の不明さやいい加減さを含む捉えどころのないものである。その要素をいっさい排した小説は嘘っぽい作り物という印象を与えてしまうだろう。
 私は心についても宇宙についても、進化についても、ゲノムについても、脳についてもとてもとても惹かれているが、それらに共通していることは、少し調べていくとどんどん分からなくなっていくところだ。そしてそこが魅力的なのである。いい加減さや揺らぎも自分の人生の予測不可能さを常に思い起こさせ、それが好奇心や期待感を抱かせてくれるのであれば、人生の上での生産性につながるのだろう。
 私たちは「~すべきだ」という義務感に駆られるだけの人生を楽しむことはできないものである。それよりは自分の好きなことに注意を向け、エネルギーを注ぐことで生じる多少の手抜きや不注意については許容される方が居心地がいい。もちろん「~すべきだ」という行動ばかり行うことに耐えられる人たちもいる。しかしその場合は、ある種の不安や恐怖に駆られた結果として、そのような人生を歩んでいることが多い。その場合は「~すべきだ」に従うことはつらくても、その代わりに安全が確保されるのだ。ただしそのような人生にはおそらく創造的活動や探求や新奇さへの興味を追求することの喜びは望めないであろう。

2020年4月10日金曜日

揺らぎ 推敲 40


すでに述べたとおり、いい加減さは興味のなさ、そして緊張感や不安感のなさに関係している。そしてもう一つは強迫的な傾向や、~しないと気がすまない、という完璧主義とも深い関係がある。例えば仕事上のメールで、ある事柄について検討して意見を伝えなくてはならないとする。それが私が非常に関心を寄せていることであれば、おそらくいい加減には済まさないし、そうしようとも思わない。私は場合によってはすぐにメールを返信し、むしろそれに対する相手の反応を今や遅しと心待ちにするかもしれない。
またその検討すべき内容が私の個人的な興味を惹かなくても、その返信を行わないことが重大な結果を招いたり、大きな損失を生んだりするなら、多少億劫でもすぐに返信をするだろう。さらにある種のメールに関しては、すぐにきちんと返信しないと気が済まない、という一種の拘りがあるとすれば、おそらくすぐに返信をするはずだ。この場合に私が「するはずだ」という言い方しかできないのは、私にはあまりそのような体験がないからである。
このように考えると、いい加減さというのは、かなり私たち人間が持っている本来的な在り方と関係しているような気がしてくる。人は強迫的で、~しないと気がすまないという部分を除いては、あるいは何かの不安や義務感に駆られることがなければ、その仕事が特別好きだったり関心を持ったりしないことには、結構いい加減なものなのではないか。おそらく私たちは本質的には省エネ傾向を持ち、出来るだけいい加減で居続け、あまったエネルギーを自分が興味を持つことに注ごうとしているのだろう。それは精神衛生上決して悪いことではない。

さて北山の「いい加減さ」の理論であるが、かなり多岐にわたった奥深いものである。そこで彼の用いるいい加減さ」という言葉の定義についてである。彼は「いい加減さ」として、「あれかこれか」の二者択一でも「あれもこれも」という欲張りでもない状態と述べているのが興味深い(2019)。ここで「あれかこれか」、という姿勢を「ABか」と、「あれもこれも」を「ABも」と言い直してみよう。いい加減さはこの二つの間を揺れ動く状態ということが出来る。しかしこれは具体的にはどういうことなのだろうか?
たやま おさむ (), 前田 重治 () 良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理 講談社現代新書 2019.

一つ言えるのは、この北山氏のいう「いい加減さ」は、どちらにも決めかねて、いわばどっちつかずで揺らいでいるという消極的なあり方ではない、ということだ。むしろ積極的に、両者の間を漂っている状態と言えるだろう。その時のタイミングや、その時に置かれた文脈によってはABのどちらかの選択をするという準備性を持ちつつ、ユラユラ揺らいでいる状態なのだ。私がそう考える根拠を示そう。
そもそも私たち人間の生きた体験とは、各瞬間に小さな二者択一を常に迫られているようなものだ。将来を決定するような重大な決断ではないとしても、小さな選択は始終行っている。生きるというのはそういうことなのだ。毎日朝電車に乗り通勤するときのことを考えよう。目の前に三つある改札口のどれかを選んで通っていかなければならない。ホームに下りる階段では、急いで駆け下りて発車間際の電車に飛び乗るか、それともあきらめて次の電車を待つかの選択があるかもしれない。いざ電車に乗っても、今度は目の前に微妙な感じで空いている席に座るかどうかの選択がある。
その際空いた席から同じくらいの距離に立っている別の乗客の動きを判断し、その人に譲るのか、それとも自分が積極的に座りにいくかを決めなくてはならない。そんなことを常にやり続けてようやく職場にたどり着くというわけである。それらの選択は実に些末なものに思えるが、結局はそれら一つ一つをこなして仕事場に至るのだ。
しかしこのような小さな選択をくり返している私たちはさほどそれを苦痛に感じたり、頭を悩ませたりしないはずだ。というのも私たちの祖先である単純な生命体は、常にABかを選択することで生命を維持し、種を保存してきたからだ。その際にそれぞれの選択肢を前にして深く悩んだり、考えすぎたりせず、適当に気軽に選択することこそが大事であるような機会がたくさんあったはずなのだ。つまり次のことが言えるのではないか。「いい加減さとは、深く悩まずに選択できるという貴重な能力なのである。」
実際私たちが生きる中で、選択の機会は無限に存在すると言っていい。そしてその多くはいま選択しなくてもいいものである。どうしても選択を回避せざるを得ない時にはABかを決めることが出来ることが大切なのだ。どうやらいい加減さとはそういう深い意味を有しているらしい。その意味では、これは決してイイカゲンで生半可な話ではないという事だ。

2020年4月9日木曜日

Covid 19 と良識   揺らぎ 推敲 39

Covid 19 と良識 2
 大げさな題だが、なるべく良識的、ないしは常識的に今の状況を考えたい。今の状況はオーバーシュートか。その前夜だ、という言い方もされている。実際にオーバーシュートが起きた米国やイタリア、スペインを見ると、日本と同様の4000人強の感染者からは、3~5日ごとに数が倍増している。これから数日はオーバーシュートが同様のペースで生じるのか、という意味では大変大事な時期だろう。とはいえ今は潜伏期の人が陽性となるのを待っている状態、となると二週間前に感染した人が今数字に上がってくるというわけだ。
 私が一つどうしてもわからないのは、外出をしないことが感染爆発を防ぐ決め手だというロジックである。イタリアやニューヨークではかなり早くからロックダウンが施されたのに、それが反映されているだろうか。
それともう一つ大事なのは外出を制限することで人は「三蜜」にならざるを得ないということである。「とにかく換気がよく、あるいは外気に触れるところで、一人一人が離れて過ごすこと」こそが予防策だろう。たとえばそれぞれの人が距離を置きながら外を歩くことが感染を広げるようには思えない。同様に一対一で換気の良い部屋で、マスクをしながら対話をすることが感染拡大に広がるようにも思えない。カウンセリングとか。
 と、ここまで書いて、4月5日に書いた(1)を読み直すと、ほとんど同じことを言っているではないか!結局何かを書いて気を紛らわしているだけかもしれない。考えていることにはほとんど進歩がない。そこで少し違うことを書こう。
今「揺らぎと心」という本を書いているが、その内容に沿うと、感染爆発というのは、
「相転移」の一つの典型である。といっても変なことを言い出していると思われるかもしれない。相転移とは、氷から水、それから水蒸気に移る、というあれだ。でもいろいろな事柄に言える。何しろ交通渋滞だって相転移の視点から論じられるくらいだ。分子どうし、車どうしが自由に動く状態から、ある密度に達して急に塊になっていく。感染爆発も、感染者がある一定の密度まで増えると、そこから一気に広がる。そして相転移は、臨界状況では、あるちょっとしたきっかけで、いつ生じるかわからない。息を詰める思いで都内の感染者の数の推移を追っている。何しろ今はまさに臨界状況だからだ。

揺らぎ 推敲 39

現実の自由連想は実は揺らいでいた

ここからは私の実体験に沿ってお話をしよう。私はここで語っているフロイトの精神分析の考えに魅せられてそれを学びに米国に渡ったという経緯があるのである。(中略)
その当時の私の頭に、心は揺らぐもの、予測不可能なもの、という発想はほとんどなかったと言っていい。医学部の精神医学の授業でも、他学部で聴講した心理学の授業でも、心が揺らいでいること、予測不可能であることなど教えてくれなかった。自然と手に取るようになった精神分析関係の書物にも、もちろんそのようなことは書いていなかった。
すでに見てきたように、フロイトが描いていた精神分析の世界については、揺らぎといったものは問題にされなかった。しかしそれは当時の私にとっては特に大きな問題とはならなかったのはそのような事情による。精神分析理論は、むしろ表面的には揺らぎに見えるような、いい加減で予想もつかない心の動きにある確固たる法則が見られるという事を示していたのである。これは私にとってはとても心強いものであった。心の動きという一見つかみどころのないものにも一つ一つ法則や根拠があると聞いて、それに興味を示さないほうが不思議なくらいだ。
この様な考え方を心にも当てはまるとしたら、精神分析家は患者さんのちょっとした行動の意識的、無意識的な動因が何かを知ることが出来、それを理論的に導くことが出来ることになる。私はこの考えに少なくとも26歳からの数年間は夢中になったわけだが、そうなることは特に当時の教育を受けた若い精神科医が信じることとしてさほどおかしなことでなかったと思う。そしてひょっとしたら今でも精神医学や心理学を志す人々にとって、このような考え方はある程度は有効なのかもしれない。