2020年4月26日日曜日

揺らぎ 推敲 56


世界は未曽有の危機を体験している。いうまでもなく新型コロナウイルス、Covid-19の蔓延のことである。2020年の秋に、我が国は少しは日常生活を取り戻せているのか、それとも店を開けている書店などはどこにも見当たらないのか、現在の段階では全くわからない。今は私が第●章でふれた臨界状況ともいえ、このまま米国やイタリアやスペインで起きた感染爆発に向かうのか、それとも韓国が今のところ見せているようなソフトランディングに向かうのかが全く読めない状況である。新型コロナウイルスの感染が拡大の方に揺らぐのか、終息の方向に揺らぐかはおそらく厳密には予想しようがない。
春の暖かな日差しが注ぐ街を歩き、一見何事もなかったように公園で遊ぶ親子連れを見ながら、例年通りの今頃に送っていたはずの日常を思い出し、本当はこうではなかったはずだ、と思う一方では、その感覚が全く誤っているのだということにも気が付く。「本来であったら~であったはずの日常」は実は存在しない。昨年の4月の、少なくとも現在に比べたら穏やかな日々は、そして大学での通常の授業や日常臨床や、当たり前のように行われていた学会やセミナーは、たまたまいくつかの偶然が重なっていたお陰であった。大地震に見舞われなかったこと。地球温暖化の流れがまだ暴走せずにいたこと。そして突然変異したウイルスが人類を深刻に脅かすということが起きていなかったこと。
揺らぎを生きるということは、一瞬先にも予想しなかったことが起きうることを受け入れること、そして今という、仮にも平穏な時間がいかに偶発的にもたらされているかということを知ることだろう。そしてそれは大部分の私たちにとっては容易ではない。揺らぎに満ちた日常は、しかしそれが定常波として続くような錯覚をたちまちのうちに私たちの中に植え付け、予想していた通りの未来が現実に訪れても全く当たり前のように受け取る。私たちの心はそのように出来上がっているようである。
揺らぎの問題はまっすぐ死生観につながる。私は還暦を既に優に過ぎたが、私がこれからまだ生きていられる間に何を伝え、何を残すかは個人的には重要なテーマである。私がこの揺らぎについての本を通して伝えたかった事を、少しでも解りやすく書く努力をしたつもりであるが、至らなかった点も多いと思う。私の思考も表現能力も常に揺らいでいるのだから、自ら本書の不十分さをあきらめ、受け入れるしかない。