2020年4月16日木曜日

揺らぎ 推敲 46

 2020年の3月以降に始まる未曽有の事態など予想だにせず、2019年の秋は日本列島はラグビーのワールドカップで大変盛り上がった。日本チームが強豪の優勝候補のアイルランドに劇的な勝利を収めたことで、わが国のにわかラグビー熱は一気に盛り上がった。
 そこで私は一つのことに気が付いた。テレビでも何度も放映されたのは、実際のラグビーの試合におけるタッチダウンの瞬間の映像ではなかった。もちろんそれも時々出てきたが、その瞬間を見ていた競技場の観衆や、パブリックビューイングや観客の歓喜の表情だったのである。視聴者も実は、同じ視聴者たちの瞬間的な表情の変化の方を見ていて感動していたのだ。人は一緒になって喜んでいる他人の反応を見るのが好きなのだ。そしてそこには明らかに交互作用がある。相手の反応を見てこちらも盛り上がる。そしてそれを見た相手もさらに盛り上がるという増幅効果だ。ただしそれを一人でテレビで見ていてもそれなりに体験できるのだ。そこには一緒に喜んでいるという感覚をテレビを通して今、この時に共有できているという感覚があるからだろう。
 それにしてもパブリックビューイングというシステムは上手くできたものだ。一緒に喜ぶことを目的として、大スクリーンと酒を用意してくれる場所に集う。ただゲームの勝敗の行方を追うだけなら、人はお金を払ってパブや会場に行く必要など本来はない筈だ。家でソファーに横になって一人でテレビで観戦すればいいだけの話だ。ところがそれを増幅したくなるからパブリックビューイングなるものが意味を持つ。ラグビーの国際大会で人が求める体験は、「ラグビーで日本が勝利をおさめたこと」というよりは、それを他人と一緒になって喜べること」なのだ。
 ひとつ思考実験をしてみよう。日本人のあなたはアイルランド人の集まるパブに何らかの理由で紛れ込んでいたとしよう。そして大画面のスクリーンに映し出されたラグビーの試合で日本の勝利、すなわちアイルランドの敗戦を目にする。そして周囲の人々が肩を落とし、落ち込むのを見て、それでも「やった、日本が勝った!!」と楽しめるだろうか。もちろんそんな筈はない。早くそこから抜け出して、喜びをシェアできるような日本人の群れを探すだろう。そして「ラグビー? 試合があったことさえ知りませんし、興味ありません。」という日本人と出会ってもすぐスルーして、とにかく「一緒に喜べる日本人」を探すだろう。やはりどう考えても人は誰かと一緒に喜びたいのだ。
 そんな人間の習性を何とか言葉に出来ないものか。人間の本質を言い表すために、ホモ、なんとか、という呼び方があるではないか。Homo sapiens をもじって、人は遊ぶ存在である、という意味のHomo ludens, 遊戯人(オランダの歴史学者のホイジンガ―) 、Homo phaenomenon 現象人など。要するに homo 「一緒に喜ぶ人」という言葉を作りたいのである。
 このように考えると、人を「合理的経済人」のようには決して捉えられないということがわかる。合理的経済人とは、それぞれが個々に自らの利潤を追求することを目的として生きていくという利己主事的な人間観である。もちろん私たち各人にはそのような側面があることは確かである。そしてその際の個人の利益は同時に他者の不利益と連動していることも非常に多い。というよりはそのような側面と「一緒に揺れることを求める」という本質とのはざまに私たちは存在すると考えた方がいい。
 もちろん人を最終的に動かすのは、その人が持っている報酬系の興奮である。他人の報酬系が興奮することそれだけでは、あなたの行動に何らの影響も及ぼさない。そしてこのことが、人間は合理主義的で自己中心的な存在でしかないという誤った考えを生み出すのだ。人は自分の報酬系の興奮により動く。それはそうだ。しかし自分の報酬系はかなり他人の報酬系と連動しているところがある、という部分が重要なのだ。私たちの報酬系は、他人の報酬系と一緒に興奮し、揺らぐことも求め、そのために他人に奉仕をしたり、世話をしたりもする。私たちはいわば利己主義と愛他性の間を揺らいでいるのである。