2019年10月31日木曜日

アトラクター 推敲 7


ハマることとアトラクター

あることに嵌る、という体験は心のアトラクターの最たるものかもしれない。
あるテレビ番組で、東南アジアの某国の河川に住む淡水魚を探し求めることに、ここ10年以上命を懸けている男性(Aさん、と呼ぼう)について報じていた。その某国に移住して、仕事以外の時間は現地の川に入り、魚を探す。そして見つけたら記念に写真を撮ってそれでおしまい。見たところ彼は非常に心優しくかつ情熱的な男性のようである。日本から家族を呼び寄せ、現地の仕事で一家を養っている。ただ彼はそこの河川だけに生息する淡水魚に夢中なのだ。
しかしそれほど情熱的に淡水魚を追いかけながらも、彼に野心のようなものは特に見られない。あえて言うならば、これまでの十何年にわたる彼の追い求めた淡水魚たちを写真集として発表し、達成感を味わうということだという。ふつう私たちが考えるような、社会的な名声や富といったものはAさんには無縁である。
Aさんは変人だろうか? 一般的なスタンダードからは、おそらくそう呼べるかもしれない。しかし彼はそのために特に人に迷惑をかけているわけではない。異国に移住した一家もそれなりに満足しているようだ。それにおそらくほかの大部分の人はそんなことに興味がないという意識はAさん自分にもあるらしい。その意味ではAさんはきわめて正常な人だ。
Aさんが嵌っている対象は、心理学的なアトラクタの一つの典型例と言えるだろう。たいがい私たちはその程度の差こそあれ、何かにかに嵌り、それを追い求める。そしてその対象は人によってさまざまに異なる。Aさんと違って海の魚だっていいだろうし、蝶だって、昆虫だっていいはずだ。でもAさんの場合、淡水魚に特化しているのだ。通常ならあらゆるものにまんべんなく向かってもおかしくない人間の興味関心が、ひとつのものに集中し、そこから抜け出せない状態になっているということに、おそらく決定的な理由などない。
いわゆる健常人(Aさんがそうでない、と言っているわけではないが)は大抵アトラクターをやや意図的に作り出す能力も備わっている。たとえば毎日洗濯をする際も、面倒くさいなと思いつつはじめても、一定の時間それに関心を奪われる状況に入ることで、仕事は片付いていく。そのような時私たちは無理やりある事柄に自分を「ハマ」らせることで仕事をこなすわけだ。
ある事柄や物質への嗜癖はその意味ではアトラクターとしてことごとく理解することが出来るだろう。ただし一般的な嗜癖をアトラクターと捉えることには少し問題もある。それは嗜癖物質や嗜癖行動はそれ自身が自己目的的に繰り返されるというよりは、それが報酬系を刺激するためにその人をそこに繋ぎ止め続けるという事情があるからだ。ニコチン中毒の人は喫煙というアトラクターを有すると考えても別にかまわないのであるが、Aさんの淡水魚に対する情熱のような、偶発性、知らないうちになぜかそこにはまり込んだという不思議さを欠いているのである。

2019年10月30日水曜日

アトラクター 推敲 6


心の現象としてのアトラクター

心理学的に見たアトラクターの問題とは何か? 実は心とか意識という現象自身が一つの大きなストレンジ・アトラクターとさえいえる。しかしいきなりそんなことを言っても読者を混乱させるだけなので、もう少しわかりやすい話から入る。
私たちの多くが、ある考えや習慣に固執し、それを変えるのはとても難しいという経験を持っている。要するに何事かにハマってしまうことであるが、それがなぜ面白いかと言えば、人によりこれほどまでにハマる対象が異なるという事である。大抵は他人がなぜそれに嵌まるのが理解できない。それでいてそのためにすべてをささげようとする人がいる。
ある新興宗教を信じていた人が、教団内で起きていたさまざまな非倫理的、ないしは犯罪的な問題のために教団を去ることを余儀なくされたが、決してその捕らわれの身となった教祖の影を心から追いやることが出来ない。理屈から考えたらその教団から足を洗うことが自分のためにも周囲のためにも極めて重要であると思いながらも、それが出来ない。これは例のアトラクターの執拗さをまさに表している。精神現象が結局はニューラルネットワークにおける興奮のパターンだとしたら、それはおそらく膨大な数のアトラクターを有することで機能できているのだろう。
私たちがある概念を理解し、ある事柄を認識するということは、それらに相当するアトラクターを脳の中に持っているということである。一例をあげよう。先日の札幌での精神分析学会の際、私は「ホテルエミシア」という名のホテルに宿泊した。ところがその名前がうろ覚えで、それをどうしても思い出さなくてはならない状況で、「エミリア」しか思い浮かばなかった。何か少し違う感じはしていたが、正解が分からない。いろいろな字を当てはめていくと、エミシアにたどり着き、「これだった」ということになったわけだ。エミシアという音のつながりは、ホテルの予約の際に何度か頭の中で転がしたのである程度馴染みがあった。それはユルいながらも一つのアトラクターを形成していた。そこで「エミリア」を手掛かりにしていくつかを思い浮かべるうちに、エミシアというアトラクターにボールがはまり込んだ、という感じの体験が持てたことになる。
人が思考や行動を行う時、その行先を占うことが難しいのは、その心にとって何が一番負荷がかからず、楽なのかについて予測がつかないからである。Aという方針ではなくBを選んだ場合、Aが理性的に考えた場合に過ちで、Bが正しいからとは限らない。Bを考えることが楽だという事実認定が先にあり、Bを正当化するのはそれからだ。右脳や左脳の働きを見る限り、どうもそのようなことが起きているらしいのである。
すでにあげたランドスケープの2番目の図を思い出していただきたい。これはいわばパチンコの台のような地点を持ち、そこから右に転がるか左に転がるかは非常に微妙であることがわかる。人の思考や行動を占なうことが難しいのは、この様に、どのアトラクターにはまっていくかということ事体が微妙に揺らぎを持つ事象だからである。 

2019年10月29日火曜日

アトラクター 推敲 5


よくアトラクターは、地面の低い部分に例えられる。

この図で言えば、ランドスケープにあるいくつかの窪みは、ボールがそこにはまり込む可能性がある。これらはいずれもアトラクターと見なすことが出来るが、その際ランドスケープの高さは位置エネルギーと考えることが出来る。ある概念や考え方は、それを行うことが心にとって最も抵抗が少ないということだ。だから何かを信じていることに理由などはない。それを信じているという状態が個々に負荷が一番かからないからということが出来るのだ。
人が思考や行動を行う時、その行先を占うことが難しいのは、その心にとって何が一番負荷がかからず、楽なのかについて予測がつかないからである。Aという方針ではなくBを選んだ場合、Aが理性的に考えた場合に過ちで、Bが正しいからとは限らない。Bを考えることが楽だという事実認定が先にあり、Bを正当化するのはそれからだ。右脳や左脳の働きを見る限り、どうもそのようなことが起きているらしいのである。





2019年10月28日月曜日

アトラクター 推敲 4


ところで衛星は、単に土星からの引力を受けつつ周回運動を繰り返しているだけではない。離れた位置から太陽や地球や火星からも重力が加わっている。そしてそれらの相対的な位置は刻々と変化している。そのために衛星の軌道は刻々と変化し、ずれていくことになる。だからそれ全体がローレンツのアトラクターの様に構成されていることがわかる。

ところで土星の輪のうちところどころに櫛の歯の様に抜けている部分に気が付くだろう。特殊な力が加わることで特に大きくずれていった衛星たちが去った跡である。大部分の氷の衛星たちはそのまま周回を続けているからこそ、輪の形は安定し、カッシーニ等の探索衛星により細かく記載されているのだ。しかしその輪の間の空隙には以前は衛星が周回運動をしていたが、周囲の惑星との引力のバランスその他により少しずつ不安定になって行き、軌道がずれていって、ローレンツのアトラクターのようにピョンとその円周から外れて、おそらくは土星に氷の雨として注いでいったものと考えられている。すると衛星の軌跡というのはまさにこのストレンジ・アトラクターそのものを表していると言っていい。
   自然界でストレンジ・アトラクターが圧倒的に多い(というよりはシンプルなアトラクターは存在しえない)のは、そこに存在するもののすべてが、周囲から数限りない重力を受けていることと無関係ではない。先ほどの土星の例では、衛星は間接的に太陽からも地球からも火星からも影響を受けていると言った。ところがそれらの惑星をまとめている太陽を中心とする太陽系そのものが銀河の中心を旋回しているのだ。そこではただ一つの星から影響を受けているだけという恒星も惑星も事実上存在しえない。そしてその意味では極端に言えば、宇宙にあるすべての天体はお互いに回っている、あるいは回ろうとしているのである。これは宇宙的な意味での揺らぎの表現と考えることもできる。
星が揺らいでいるという視点は少し捉えにくいかもしれないが、実は昔の人にとって、惑星は揺らいで見えていた。惑星 planet というのはギリシア語のプラネテス(「さまよう者」「放浪者」などの意)から来ている。実際に惑星を望遠鏡で観察していると、恒星の周囲を公転する様子はちょうどフラフラ揺らいでいる様子として観察されていた。もちろんそれに対して恒星の方はほんの微々たる揺らぎでしか対応していないので、それは見えにくいということになる。
ところでそのように考えると、天体のそもそもの揺らぎは自転、ということになる。さすがに地球は、月は、太陽は水の分子の様にぶるぶる震えては見えない。その代り自転しているのである。

2019年10月27日日曜日

アトラクター 推敲 3

  
 そこでローレンツの方程式三本について少し見て行こう。もともとこのモデルは、気象学者のエドワード・N・ローレンツが 1963 年に気象学に関する雑誌に発表したものであった。つまりどのようにして風が吹き、どのように海面温度が変化するかなどについて知る方法を探ったものである。本来未来の天気を予測することは人類の悲願だった。天候の変化は作物の生産量などを知るうえで私たちの生活に密着した情報だったからだ。しかしそれがあまりに複雑な式になってしまうために、ローレンツはそれを思い切ってかなり簡素化した流体力学の三本の公式にまとめたのだ。
 この式自体が表す意味は複雑で私にも説明が十分できないが、ここでは差し当たってそれは問題にならない。そこである空気の中の特定の酸素の分子に注目し、その三次元上の位置をx,y,z,で表し、tは温度を表すとする。そして南北方向の速度dx/dt は、x と y の差(y-x)に比例する、という観察結果が得られて、それが第一の式となる。第2、第3の式もこの変数のあいだの関係から得られたとしよう。するとある時の特定の酸素分子の三次元座標上の位置が時間によってどのように変化するかを追うと、例のバタフライの図が描けるという事になる。
 勿論実際の酸素分子はこのようには動かないであろう。しかしこのような風の動きが成り立っている空間にある酸素分子は仮想上はバタフライのような運動をして、一か所をくるくる回っていたかと思うと、急にもう一方の渦巻きに突入して、そこをしばらく回る、というこの奇妙な運動を繰り返すことになる。それがストレンジ・アトラクターと呼ばれるわけだ。
 このアトラクターはほっておくと蝶ネクタイのような軌跡の線がどんどん濃くなって最後には真っ黒になってしまう。というのもどの軌跡も一本たりとも正確に一致していないからだが、これがストレンジ・アトラクターの真骨頂だ。つまりこの一本一本は揺らいでいるのである。もしある軌跡が以前の軌跡とまったく一致していたら、それ以降の軌跡は以前のものをなぞるだけであるから、最終的にはこの蝶ネクタイには隙間がたくさんあくはずだ。ところが実際の軌跡は少しずつずれるという形で限りなくこの蝶ネクタイを濃くしていく。このような振る舞いをするアトラクターをストレンジ(変な、変わった)アトラクターと呼ぶわけである。
 もちろんこんなヤヤこしいアトラクターではなく、シンプルで何度も以前の軌跡をなぞるアトラクターもある。たとえば振り子運動をしている金属の玉に、触れている面に対して横向きの力を加えて放っておくと、振子は楕円運動を延々と繰り返すであろう。もちろん空気との摩擦を省略した場合である。その場合のアトラクターはどのような幅も太さも持たない単線からなる楕円である。しかしストレンジ・アトラクターは延々と、少しずつ前の軌跡とは異なる軌跡を描き続ける。つまりそれは面を形成するのである。なぜこちらの方が断然面白いかと言えば、自然現象は圧倒的にこちらのアトラクターを有する場合が多いからだ。
 たとえば自然界のストレンジ・アトラクターとして土星の輪があげられる。土星の輪はその見本のようなものだ。土星の周囲の輪は、大小さまざまな粒子からなり、それらがびっしりと土星の周りを周回しているのだ。その粒の大きさはミクロ以下の塵のレベルから直径数メートルまでからなり、そのほぼすべてが氷であることが分かっている。しかし土星の周囲を回っているというわけだから膨大な数の衛星と見てもいいだろう。

2019年10月26日土曜日

アトラクター 推敲 2

アトラクターを視覚的なイメージに捉えていただいたうえで定義に戻ろう。調べると次のような定義が成書には見られる。
「力学系において、運動がそこに終息していくような点ないしは集合である。アトラクターの形状は曲線様体、さらにフラクタル構造を持った複雑な集合であるストレンジ・アトラクターなどをとりうる。カオスな力学系に対してアトラクターを描写することは、現在においてもカオス理論における一つの研究課題である。」(Wikipedia「アトラクター」の項を一部改編)
これでわかるだろうか? 無理だろう。まず力学系、という意味が不明である。重力などの力が働くという話だろうか? しかし力学系は英語の dynamic system を指し、これは物体の間の相互作用により生じる運動を意味する。運動というからにはそれが時間とともにどのように移り変わっていくかという意味を含む。
私なら次のようにアトラクターを定義したい。
「物体などがおたがいに作用しながら運動するとき、その行き先がある地点に落ち着いたり、ある形を繰り返し描いたりする時、その行先をアトラクターと呼ぶ。」
どうだろう。これでわかりやすくなるのではないか。ただしこの運動とは、何も物体だけではない。(そこで物体など、と定義したのだ。) たとえば温度でも湿度でも、風向きでもいい。それをグラフに描くとどこかに収束する(まとまっていく)傾向にあるならば、それもアトラクターである。
こんな変な例は自然界のアトラクターには存在しないと思うかもしれないが、自然界のアトラクターはまさにとんでもない変化を見せることがある。それがいわゆる「ストレンジ・アトラクター」である。
そこでアトラクターの不思議さを知るためにはやはり視覚的な説明が一番である。



例えばよく出てくるローレンツのアトラクター。xyの三軸の座標に広がる奇妙な蝶ネクタイのような図をよく見かけるだろう。しかしおそらくほとんどの人はこれが何を意味するかを知らないはずだ。でもストレンジ・アトラクターの例としては定番である。
さてこの図を見せられても、面白そうであっても結局何のことか分からないだろうし、自然現象はアトラクターにあふれているといってもその意味が分からないだろう。

2019年10月25日金曜日

アトラクター 推敲 1


アトラクターと揺らぎ

揺らぎを論じる上でアトラクターの概念はとても重要になってくる。といってもアトラクターという概念がつかめないとピンとこない。大体アトラクターって何だ! 
そこでアトラクターの意味や面白さが伝わるまでに皆さんに思い描いていただきたいのは、台風である。最初にこの部分を書いていた時にお盆休みに突入していた日本列島は大騒ぎだった。超大型の台風10号が日本に接近し、2019815日には山陽新幹線が全面的に運休を計画した。その後10月に来た19号など、1012日は一日東海道新幹線が運休したのである!なんというはた迷惑。しかしいくらテクノロジーの進んだ現代社会でも、南方海上に数日前に発展した、その頃はまだ小さな渦巻だったものがどんどん発達して日本国民を混乱に巻き起こすようになることを決して食い止めることは出来ない。太平洋上に巨大扇風機を何万台持って行って空気をかき回しても、台風10号が周りの大気に影響力を及ぼしてぐんぐん自分の渦巻きに巻き込んでいくのをとても阻止できない。何しろ北半球の太平洋領域の空気はみなこの大渦巻を維持し、さらに発達させるように動いているからだ。誰もこれを止められない。・・・・・ これがアトラクターの現れ方だ。
しかしこれほどすごい力を及ぼす台風なのに、その始まりは案外よくわからない。一つ確かなことは太平洋上のどこかで渦巻らしきものが生まれ、おそらくいくつかの渦巻きも同様にあったのだろう。(台風が発生する南太平洋上のレーダーを見ると、いかにも何かつむじ風のようなものがいくつも起きていそうな複雑な雲の動きを見ることが出来る)
にっくき台風10号の雲の様子(情報通信研究機構「ひまわりリアルタイムWeb814日より)← 省略
とにかくいくつかの候補の中から一つだけがグングン大きくなっていく。この話はどこかで聞いたことはないだろうか? そう、冪乗則で見た地震の起き方などである。
もしアトラクターが冪乗則に似た仕組みで成立するとしたら、おそらくそれが生じる必然性も理由もないということになる。ただそれは生じるべくして生じたとしか言いようがない。すると皆さんの次のような考えはあまり意味がないことになる。
「もし台風10号が発生しなくても、どうせ別の台風が同じように発生していただろう。」
ところがそれは誰にもわからないし、おそらくそうではないところがアトラクターなのだ。台風19号が発生する前は、南太平洋の赤道近くには、将来台風になるかもしれない乱流、ないしは台風の卵が沢山あったのであろう。でもそのうちどれかが大物の台風に化けるか、あるいはそれらのなかから台風に化けるものがそもそも存在するのか、ということは不明であったはずである。すると「もし台風19号が出来なかったら?」という発想自体に意味がない。それはちょうど「関東大震災がもし起きなかったら?」という仮定に意味がないのと同じである。
それとも皆さんはこう思うだろうか?「いや、もし関東大震災が起きなかったとしても、似たような大震災はきっと起きていたはずである。」しかしもし関東大震災が起きなかったら、おそらくその前後には何も起こらなかったはずである。なぜなら大きな地震であればあるほどレアだからだ。もし起きなかったとしたら「代わり」が起きていた可能性は非常に低かったはずだ。ちょうど宝くじで大当たりが出た時、もしそれが外れていたなら、おそらくその前後に大当たりなどでなかったであろうということと同じだ。
同じようなことは、例えば第一次大戦とか第二次大戦のような、世界中を巻き込んだ大戦争についてにも言える。後になってから私たちは、「あれは時代を反映していたのだ」第一次大戦が起きなくても、必ずや同じような戦争は起きていたはずだ。」と思うかもしれないが、しかしそうではない。Buchanan ”Ubiquity” に書かれていたことを思い出していただきたい。その本の冒頭には、第一次大戦が1914628日の午前11時にある車の運転手が犯したちょっとした間違いが戦争の勃発につながった様子が描かれている。私はこちらの方を信じるし、そうだとしたらあの大戦も全く偶発的に生じたということになる。
私がこう述べたことについては容易に反論が予想される。「でも台風が発生するような状況がそこには存在していたはずだし、ある意味では台風19号の出現は、必然的なものだったのではないか?」同様の議論は地震についても言えることだろう。「あの時はまさにプレートのひずみが極致に達していたのであり、まさに関東大震災が起きたあの地点こそが、それが最大だったはずだ。」
ところが、である。ではなぜ台風や地震の発生は、結局いつまでたっても予測不可能なのだろうか?それは地殻のひずみを計測するような正確な危機が存在しないからだろうか? そう考えることは「ラプラスの悪魔」の時代に引き戻されることである。全知の悪魔がいたとしたら、将来何が起きるかはことごとく予想できるはずだ。でも私たちはすでにそうでないことを知っているのである。
もちろんテクノロジーの発展により「ある程度の」予測は可能になってきている。しかしそれはちょうど株価の揺らぎの具合を見て、明日の株価を予想しようとするのと似ている。大体は測出来るのだ。でもそれ以上ではない。それまで揺らぎの動きさえぼやけた形でしか見えなかったのなら、揺らぎの曲線がはっきり見えてきたのであれば、その予測はある程度当るようになるだろう。揺らぎを見ていると、あす、あさってあたりの株価の予想は大体付く。少なくとも株価の揺らぎの曲線すら見えなかったころに比べれば。でも本当の予測は出来ない。それは最近のコンピューターの計算能力の向上による天気予報の精度の向上と似ている。決してある程度以上には予測は出来ないのだ。 
そこで一転目を世界の情勢に向けてみる。日本と韓国が対立し、韓国では反日運動がかなりの盛り上がりを見せている。その勢いは簡単なことでは止められないし、勢いが勢いを生んで大きなうねりになっていくのを止められそうにない。これもまた「アトラクター的」ではないか。

2019年10月24日木曜日

べき乗則が支配する 推敲 5


ここに示した画像[省略]をご覧いただきたい。これは銅の結晶である。高熱で溶けた銅を水面で冷やすと、結晶が出来て表面に広がっていく。ちょうど雪の結晶が形成されるのと似ている。ウィッテンとサンダーのゲームWitten and Sander’s game というのが、この画像に示されるような現象をさすというのだが、これは「拡散律速凝集」Diffusion-limited aggregation (略してDLA)と呼ばれるそうだ。
最初に水面のどこかに小さいチリなどがあり、そこを核として銅が固化すると、あとは近くの分子が次々とくっついていく。そしてこのような木の枝のような形が形成されていく。拡散律速、とは、銅の分子がまばらに、拡散された形でそれまで出来かけた結晶にくっついて成長する仕方が律速段階になっているという意味であるという。つまりその成長はスピードに制限がかかっていて、地震やガラスが割れる時のように一気にバタバタッと起きるという形はとらないという意味だ。これはコンピューターでも簡単にシミュレーションを行うことが出来るという。
さてこのDLAがべき乗則にしたがった形成のされ方をするというのだ。その結晶の形成のされ方は、まさに地震の際の最初の砂粒の動きから始まるという様子とそっくりである。中央の最初の結晶が生まれた部分を拡大して見ると、最初の一点から枝分かれが生じていることがわかる。この写真を見る限り、初期に4つの枝分かれがあったようだ。そしてそれぞれの枝がどんどん広がって出来ていった様子がわかる。時間としてはかなりゆっくりで、最初の点からじわじわ広がっていく様子は、コンピューターのシミュレーションの動画からもわかる。
さてここで何がべき乗則にしたがっているかと言えば、その枝の大きさである。小さい枝は限りなく多く、そのサイズを大きくしていくと、数は急速に減っていく。最後にはこの全体が一つの巨大な枝として出てくるわけだ。そしてその枝を大きさの順に並べると、ロングテールが出来上がる。さてこの場合のべき乗則はそこに巨大な連鎖反応と呼べるような出来事は起きていないようだ。ここに見られる大物は、最初に枝分かれをして、あとは途切れることなく枝を伸ばすことが出来たもの、ということになる。
 この、最初は偶然一つの塵についた分子から結晶が始める様子をさらに詳しく見るためには、Paul Bourke 氏がネットに公表している図(DLA - Diffusion Limited Aggregation)が参考になる。

この図の枝の形成は、上から分子が降ってきて地面で形成されていくという形式を取っているが、それ以外は銅の結晶の形成のされ方と同じである。ほとんどが小さな枝で終わっているのに、時々巨大な枝が形成され、それが冪乗則に従っているというわけだ。これほどきれいなモデルがあるだろうか。そしてこれと類似のことがこの世界で起きていると考えることができるわけだ。

2019年10月23日水曜日

べき乗則が支配する 推敲 4


以下の部分、推敲とは言え、ほとんど書き下ろしである。

  冪乗則は時間軸上に展開する
ここで少しまとめてみよう。地震においては、マイクロレベルでの岩(砂?)の微小な揺れを想定することで、そこからべき乗則が成り立つ様を想像した。ある状態においては、そこに存在する粒子がどれも同じように不安定なのである。この不安定さを私は「地面は常に揺らいでいるものだ」という、わかったようなわからないような言い方をしたが、そこには何か、地球全体を揺り動かしているような中心部分が想定されているかのようである。しかしおそらくそこに中心部分などない。それは近くの奥深くで流動しているマグマだ、と言う人もいるかもしれないが、ではマグマが自動的に動いているかといえば、部分部分のマグマは、マグマ全体の流れの中で動かされているとも言えるだろう。つまり揺らぎはあらゆる層で、あらゆるレベルで起きているのだ。ただしあらゆる大きさの岩石や砂粒が常に不安定かといえばそうではない。砂時計のフラスコに入っている砂は、制止した状態では動いていないし、それぞれの粒は安定しているように見えるだろう。ところがいったん砂時計を逆さにして上のフラスコから流れ落ちる砂の様子を見ると、たちまちそこに流動性と揺らぎを見て取ることが出来る。とすると地震のような現象においては揺らぎは瞬間的であり、一時的なものと言える。ある強い衝撃によりそのシステム全体が震撼し、あらゆるレベルにおいて揺らぎが生じるのだ。
この様に考えると、たとえばガラスを割った際の破片のフラクタルについても同様の類のものと考えることが出来る。大きな窓ガラスが割れた時のことを想像してほしい。いくつかの大きい破片と、かなり数の多い中型の破片、そして無数の砂粒ほどの破片になり、結局平均の破片の大きさは限りなくゼロに近くなる。それがフラクタル構造をなすというわけだ。ガラスは分子のレベルではランダムに配置されたアモルファス状態のために、連結の仕方にフラクタル性が現れるとされる(高安秀樹(1996)フラクタル構造と物性。精密工学会誌. 62: 1091-1095。)すると衝撃を受けて割れた際にまさにそのフラクタル構造が再現されることになる。
するとこんなことが言えないだろうか。ガラスにしても岩石にしても、それが生成される過程でのフラクタル性がいわば記憶されて、それが破壊の時に再生されるということではないか。ガラスが冷えて固化する状況を考えて欲しい。最初はほんの小さな構造が固まり出して、それから急速に大きな塊に発展する。その過程がフラクタル的であり、割れる現象とはその逆向きのプロセスが一挙に起きると考えるのである。
もちろん地震の場合はゆっくり冷えて固まったものがいきなり壊れる時に、そこのフラクタル性が現れる、というわけにはいかないであろう。冷えて固まったものがいくつかくっついたら、今度はその壊れ方は冷えた順番通りにはいかないだろう。でも冷えていく、あるいは結晶が作られていく過程そのものがフラクタル性を見せることがある。
この様に考えるとフラクタルには歴史性がかなり関与していることになりはしないか。小さな砂粒大のかたまりのずれが、場合によっては連鎖反応を起こして巨大な地震につながる、という場合、明らかに時間の流れに即した動きが読み取れる。しかしそこには逆向きの歴史も含まれているのだ。
そこでフラクタルが形成されるプロセスに特化して、それを見てみたい。

2019年10月22日火曜日

1/f 揺らぎについて


いわゆる「1/f揺らぎ」について
揺らぎについて調べると決まって行きあたるのが「1/f 揺らぎ」というテーマである。ここで簡単に解説を加えたい。
揺らぎの中でも特別な性質を持つと言われる「1/f 揺らぎ」。これを事実上発見し、概念として広めたのが日本の武者利光先生という学者である。ここでf とは周波数 frequency を意味し、「1/f揺らぎ」とは「パワーが周波数に反比例するような揺らぎ」という事になる。すると が小さい、つまり周波数が小さくゆっくりした波ほどパワーが強くなるような波、「低周波の方が重たい波」と説明される。たしかに 「1/f 揺らぎ」として例に出される小川のせせらぎやそよ風などは、キーンという高い音ではなく、高い音は混じっていてもその音は小さく、低音はそれだけ大きく、という様な揺らぎという事になる。私は個人的にはオーケストラを考える。高音のバイオリン協奏曲もピッコロ協奏曲も、トランペット協奏曲も、コントラバスやチェロなどの低音に支えられることで心地よい音楽となる。弦楽四重奏にはチェロなどの低音部が欠かせず、それが聞いていて心地よさを感じさせる。オーディオマニアが低い音を的確に拾えるような重低音スピーカーを買い求めるのはその為だろうか。それとは逆にピッコロ四重奏などは(聞いたことはないが)あっても聞いていて居心地が悪いのではないか。
ここですでに聞き心地の話に入ってしまっているが、実は「1/f 揺らぎ」の面白いのは、しばしばそれが癒し効果と結び付けられるからだ。こうなるとこの種の揺らぎが途端に商業的な価値を伴ってくるわけだが、ある専門家によれば、(吉田たかよし著の「世界は『揺らぎ』でできている」(光文社新書))自然界に「1/f 揺らぎ」は満ち溢れているものの、それが癒し効果を発揮するかについてのエビデンスは十分でないという。
謎めいた「1/f 揺らぎ」の解明にはもう少し時間が必要らしい。

2019年10月21日月曜日

べき乗側が支配する 推敲 3


この説明からわかることは次のことだ。揺らぎとは、実はこのロングテールの長い尾に属する事柄を時系列に並べたようなものなのだ。何しろここが圧倒的に長いので、ロングテールの本体部分はむしろこちらなのである。単純な小川のせせらぎなどはこの部分だし、風に揺らめくカーテンや旗もこの部分だ。日常はこれがほぼ永遠に続くように感じられるので、これを「揺らぎ」等とのんびり表現しているわけである。ところが実際はロングテールの頭に属する部分も時々顔を出す可能性がある。だから揺らぎは突然巨大化する可能性を持っているのだ。揺らぎはどんなに規則正しい波のように見えても、正確な正弦波や同じサイズのジグザグではない。それは時に大きく、時に小さくなり、突然とんでもない大きさの揺れを可能性として含む。ここで「可能性として」というのは、それは実はめったに起きないからだ。でも起きる時は起きる。そんなことが起きてもおかしくないことを予告するかのように、揺らぎは最初から不規則で、予想が不可能なのだ。ここら辺の事情は、株価の動きに敏感な人は身に染みてわかっているだろう。
地震の話に戻って考えよう。地面は常に揺らいでいる。それはおそらく地殻のどこかで小さな岩がずれるということが起きているために起きる。つまりはプレート同士が少しずつズレながら動いている、という、ある意味では不安定な状況が生じているからだ。(地殻やプレートが全く動いていないのであれば、地震など起きようもない。)
 地面の揺らぎと地震の本体
さて小さな岩のずれはいたる所で起き、大抵はそれで収まってしまう。微震としてすら観測されないかもしれない。ただし稀に、近隣の別の不安定な岩に波及して、連鎖反応を起こすことがある。これが起きるのはある意味ではすべての岩が同じように不安定だからだ。そしてその二つの岩が連鎖的に動くことでその安定が治まることになるだろう。大抵の場合はそうなのだ。ところがそれが三つ目の岩を巻き込んだ少し大きな揺れで収まる場合も出てくる。そしてもっと稀に、それが四つ目の岩を巻き込んで少し大きな動きを起こすこともある。もうこうなると小さな地震と言ってもいい。すると時には劇的なことが起きかねない。それは別の場所の同じような連鎖反応を立て続けに起こすことである。そんなことはめったに起きることはないが、起きる時は起きる。こうしてその極端な例が巨大地震となる。そしてその時に連動して動く岩のサイズと、その起きる頻度にはある重要な関係がある。つまり両方の対数を取ると逆比例しているのだ。これがグーテンベルグ・リヒター則というわけだ。
とまあなんとなくわかったような説明をしたが、実はこれでは本当に分かったことにならない。もう少し思考実験を続けよう。
先ず小さな岩が動く、という言い方をしたが、この「小さな岩」が曲者だ。その平均の大きさは? もう皆さんもお分かりだろう。おそらくそんなものはない。先ほどの天体の大きさと同じ議論により、岩の大きさに典型的なものはない。まあ「岩」と言えば数センチから数メートルくらいを言うだろうが、それはそのくらいの大きさの石を岩と呼んでいるからだ。この世界の鉱物をすべて集めて行列を作ったら、天体と同じようなロングテールを作るだろう。それを言い出したらどうしようもないので、ここは最小の単位を考えざるを得ない。そこで直径0.1ミリの砂粒を最小単位とする。岩石はそれが固く押し固められたものだ。そして最初に岩がずれて動いたというシーンをビデオに収めよう。それには時間を延ばしたり、対象を拡大したりする機能がある。するとおそらくずれた岩と岩の間で起きていることにズームインすると、それは岩全体が突然動いたのではなく、最初はこぐ微小な部分のずれによる破片の生成が、ズレた部分のどこかで起きていることがわかる。ズレが起きた数センチの部分をさらに拡大してみると、そのうちのごく一部がまず最初に動き出して、それが全体に波及したことがわかる。さらにその部分を拡大してみると・・・・。結局は最小単位である砂粒大のずれが起きていたことがわかる。そう、この最初の岩のずれは、ミクロのレベルで見れば大地震なのであった。もしそこに住んでいるアリがいて、その体験を語ってくれたら、「いえね、いつもちょっとした揺れなら起きているんですよ。でもあんな大きな揺れは久しぶりでした。ここで起きている揺れは大体ロングテールですからね。あんなのはめったにありません。」アリ君がどれだけ賢いかわからないが、一つ確かなことは、ほんの小さな岩の揺れは、彼らにとっては大地震だったということになる。

2019年10月20日日曜日

ランダム性の支配する世界 3


物質と細胞をつなぐランダムウォーク

結局生物と無生物の違いは、少なくとも揺らぎという問題に関しては見えなくなってしまう、というのが私の結論である。再び水に垂らした墨汁のことを思い出そう。例のブラウン運動の話だ。微小な炭素の粒はもちろん無生物である。それはしかし顕微鏡で見れば常に微少な揺らぎ、微妙なランダムウォークを繰り返している。そしてこれは生命体における細胞内のタンパク質の揺らぎや震えと同等であることがわかる。ではたんぱく質は生物なのだろうか? これは微妙な問題である。。もちろんたんぱく質の分子だって無生物だ。しかしそれが独特の揺らぎを伴った動きによりある種の働きを担うのが、細胞内であり、それはれっきとした生物に属するとしたらどうだろう? それはもう生物とも無生物ともいえない分野である。いわば細胞は物質と境界を接しているエリアであると言っていい。
ところで大学の勤務する京都大学のオフィスの地下は(物質-細胞統合拠点)アイセムズiCeMS (Institute for Integrated Cell-Material Sciences)という施設が陣取っている。この建物の地下の半分がアイセムズであり、残りの半分は我らが心理相談室という臨床系の相談室という事を思うと、この大学の中で起きている動きを象徴しているように思う。昔ながらの心を扱う臨床心理学の分野では、人が心と心を通わせるという地道な作業が繰り返されている。しかしその隣ではまさに生物と物質の境目の研究がおこなわれている。
考えてみれば、生物と無生物という二つの相容れない(と考えられていた)分野を結ぶ現象の一つとして揺らぎが意味を持つと考えられるだろう。そしておそらくは水も、と私は言いたい。なぜ水であり、揺らぎであろうか?それは水がものを溶かすうえでの最高の媒体だからだ。多くの物質が水に溶けるが、溶けるという事はその中で揺らぐという事だ。そして揺らぎの中で初めて物事は進行していく。そしてその進行の極致が生命体とも言えるだろう。水という媒体の中で揺らぎが生じ、そして雷というスパーク、そして隠し味としての鉱物の分子が介在することでアミノ酸が生まれ、核酸が生まれ、RNAがたまたま生じ、それが生命体となって発展したと考えられている。そして物質の形成は分子が揺らいでいることで初めて成立する現象という事になる。
こんな風に考えよう。ある媒体(水を選ぼう)の中にたくさんのレゴブロックの塊が浮かんでいる。水と同じ比重に作ってあるので、浮くことも沈むこともない。ブロック同士は緩やかに引き付け合い、ぶつかり合う傾向にあるとしよう。しかしそこからブロックの新たな組み合わせや分解が起き、さまざまなブロックが形成され・・・・・。絶対にありえない。ブロックたちはただプカプカ漂い、時々ぶつかるだけだろう。
そこでこのブロックたちにある種の細工を加える。ブロックの一つ一つがブルブル震えるような仕組みを持っているのだ。すると様々なことが生じる。ブロックの塊ごとの接触の頻度が格段に高まる。それだけでなく、レゴブロックの塊を構成しているブロック動詞が、実はわずかな隙間を残して震えており、付いたり離れたりを繰り返しているではないか。つまりブロックの塊と言ってもそれぞれががっちり組み合わさっているわけではないのだ。それとブロックの塊自体が全体として揺れ動いている。固まり自体が何か周囲から押されてランダムウォークを行っている。今ここにあったと思っていたブロックの塊はあっという間に遠くに離れていってしまう・・・・。
さてここでレゴブロックに対して私は魔法をかけたわけではない。単に縮尺をおよそ
10-程度、つまりナノの世界にしてみただけである。そしてレゴブロックを酸素や水素や窒素の分子に見立てている。そこでは揺らぎはいよいよ際立ち、それどころか媒体の水分子もまたブルブル震えているのである。このように微少レベルでは揺らぎという点で生命体と無生物は繋がっているのだ。


2019年10月19日土曜日

ランダム性の支配する世界 2


ところでここまでランダム性の話を読んで読者の皆さんは疑問を持たないだろうか? それは生命体の揺らぎと無生物の揺らぎと生命体の揺らぎはどこか違うのではないか、ということである。たとえば大地は揺らいでいる。アインシュタインが揺らぎを見出したブラウン運動では、水の分子のそれであった。しかしこれらは無生物である。他方生命体が自分から揺らいでいるという場合もある。たとえば一分間の心臓の脈拍の数は揺らいでいるし心だって揺らいでいる。両者は関係あるのだろうか? 
これは極めて深遠な問題であり、その問いに対する答えは容易ではない。それは本書が追い求めるひとつのテーマでもあるが、とりあえず揺らぎにはこの二種類があることだけはここで確認しておく。ここで生命体の揺らぎの性質を考える上で私が挙げたいのは、上にあげた心臓の脈拍数の問題だ。すでに述べたことだが、拍動はいろいろな影響を受けて揺らいでいる。つまり早くなったり、遅くなったりを繰り返しているのだ。これは心拍数を長時間にわたって測定するような機器の発達に伴って明らかになってきたことだという。ところが興味深いことに、心不全の状態をきたすと、逆にこの心臓の拍動が揺らぎを失い、かなり規則的になってしまうという。つまり正確な時計のような脈の打ち方になるほど、その心臓は病的である可能性があるのだ。これまで揺らぎとはゴミのようなもの、いらないものとして扱われてきたという話(第○○章)をしてきたが、まさにそれとは逆の話、つまり揺らぎとはゴミではなく、お宝だったという事情がここにも表れるのだ。(参照記事:日本心臓財団のhpに「耳寄りな心臓の話」(66話)『揺らぎなき末期の心臓』(川田志明(慶應義塾大学名誉教授、山中湖クリニック理事長)
さてここで振り返って、生命体の揺らぎ、無生物の揺らぎというテーマを考えたい。心拍数に見られる揺らぎはある種の必然性を伴ったものということが出来るだろう。つまり目的を持った揺らぎ、ということが出来る。ただし、ではどこかに誰かの意図が働いてそうなっているのかといえば、そうではない。むしろ様々なシステム(おそらくそれら自身も揺らいでいる)が機能した結果として導かれる揺らぎというべきだろうか。ここでのシステムといえば、人体の場合には自律神経のシステム、心臓という臓器自身というシステム、血圧を維持する血管系というシステムなどである。それぞれが自然な形で揺らぐことで心拍数が揺らぐ。逆にこれらの間のつながりが途切れると、脈拍は揺らぎを失ってしまうのだ。
このことを考える上で、柳の枝の揺らぎという現象をたとえとして用いたい。一日の内には風が強い時も弱い時もある。健康な柳ならその風に応じた揺らぎを見せるだろう。それは風という外的な力に対してそれを受け流す余裕をそれだけ持っていることを示す。あるいは人の表情筋の動きはどうだろう?日常生活で感じるいろいろなものに応じて動くし、その揺らぎの大きさは健康度を表すだろう。鬱病だったりパーキンソン病だったりしたら、ほとんど表情は揺らがないはずだからだ。という事は脈拍数もそうだろう。その意味で脈拍は体の自律神経系の影響を大きく反映するだろう。それらの刺激は柳の枝に吹き当たる風のような意味を持つはずだ。という事は揺らぎは、ただ意味もなく揺らいでいるのではなく、実はその環境で生じているさまざまな影響を敏感に受け、その影響を受けつつその動きを緩和しているのではないか。柳の枝が大きく揺れることで風の勢いを消すように。
つまり心拍数は、正しく正確に打つことを意図していず、むしろ体で起きていることを反映している。柳の枝が風を受けて揺れるように。するといろいろな強さと方向に風が吹くという事前な在り方をそのまま受け流し、緩衝しているのが柳の枝であり、また心臓の拍動と考えられないだろうか。
つまりここで発想の転換が必要なのだ。心拍数を、心臓が全身に血を送るためのもの、という目的論的な発想を変えるのだ。そして交感神経と副交感神経という、北風と南風が吹いていて、その強さや方向性が少しずつ変動していると考えるのである。すると拍動は風に揺れる柳の枝という事になり、風の方向や強さによりかなり揺らぐものになる。揺らぐという事が柳の枝の健康度を示すというのはそういう意味だ。


2019年10月18日金曜日

ランダム性の支配する世界 1


ランダム性の支配する世界

私たちが生きている世界は基本的にはランダム性、偶発性が支配している。ランダム性とは出来事に規則がなく、将来を予想できないという事である。このことに人類は薄々と気がついてはいたらしいが、最近になりようやくそれが明らかになりつつあるというわけだ。そしてそれ以前は、人類はみなことごとく運命論者であったと言えるだろう。未来は決まっている。ただ人間はそれを知らないだけで、全知全能の神ならそれを知っている、と考えたわけだ。そして精神の高みに至った人のみがその未来を予言する力を得ると考えられていた。あるいは科学の発展によりそれをより正確に予想できると考えた人もいただろう。
しかしその科学がある程度進んだ段階で、私たちは世界が不確定性に支配されていることを知るに至った。あらゆる出来事の根底にランダム性があり、未来は原理的に予想不可能なのである。たとえば半年後の今日、空が曇っているか快晴かは全くといっていいほど予測が付かない。チンチロリン(どんぶりとサイコロを用いた一種の賭けごと)で小銭を儲けようとしても、一回振るごとに次はサイコロのどの目が出るかはわからない。あるいは今日の夕方東京発650分の新大阪行きの新幹線が、途中で事故もなく目的地に定刻に着けるかは、実際に乗車してみないとわからない。
ただしそのような不確定の世界に生きている私たちは、先のことが見えないのは不安で仕方がない。そこで何らかの規則を持ち込んで、なるべく生活しやすく、混乱が起きないよう工夫をする。会議は定刻に始まり、仕事はほぼ定刻に終わる。バスはほぼ定刻にバス停にやって来る。
およそこの世に起きることは、かなり規則正しく、その予想が確実にあたる事柄から、全く予測が出来ないことまでのスペクトルを形成している。前者としては人は必ず死ぬこととか、太陽が東から出て西に沈むこととなどが例として挙げられよう。これは絶対に100%である。それより確実さの度合いが下がるものとしては、一分以内にこの場所で震度7クラスの大地震が起きない確率や、自分が一分以内に心臓発作で死んでしまうことがない確率などだろうか。これは99.9999%というところだろうか。そして反対側のスペクトルには、サイコロを振った時に出る目が長(偶数)である確率、25時間後のある銘柄の株価の上昇する確率、次の一分以内に起きる震度1の地震の回数などが相当するかもしれない。そして私たちが日常生活で非常に多く体験している事柄は、「おそらく~となる」という類のものであり、この両極の間をびっしり埋めているのだ。

2019年10月17日木曜日

万物は揺らいでいる 推敲 3


揺らぎはおそらくシステムの統合に寄与している

ここで一つの仮説を設けることが出来る。それは揺らぎのおかげで私たち生命はシステムとして成立しているという事だ。システムとひとことで言ってもあまり意味が通じないが、要するに情報を蓄えることのできるような仕組み、という事だ。その中で情報の交換ができ、新しい組み合わせが生じるようなシステム。それでこそ複雑な生命体という組織が組みあがってくる。
情報をやり取りする仕組みとしては、中枢神経系はその最たるものだ。人間の場合1000億の素子、つまり神経細胞が存在し、その一つ一つが、他の数千~数万の神経細胞とのつながりを持っている。脳は巨大な網目状の構造をしていて、そこを様々な情報が行きかう。ところが中枢神経系のように実際の情報伝達の網の目が存在しないようなミクロのレベルでは、おそらく揺らぎのおかげでそれが代行されている。それは分子レベルでの揺らぎなのだ。すでに出した例だが、私たちが風邪をひいてアレルギーの薬を飲むとき、薬の分子一つ一つがうまくヒスタミンのリセプターにうまく出あうことを私たちは祈るだろうか。薬の分子とリセプターは神経線維のような連絡網によって結ばれているわけでもないのに。でもその心配はない。その両者はほぼ確実に出会うのだ。体内に入った薬は、血液の流れに乗って体の隅々に送られた後は、自分自身の高速の揺らぎでリセプターに到達するのである。

分子の発見につながったのも揺らぎだった

ところで物質が基本的な要素によって成立しているという事を発見したのは誰だろうか? 科学史に多少なりとも詳しい人ならご存知と思うが、それはかのアルバート・アインシュタインである。アインシュタインが特殊及び一般相対性理論の発見者であることは常識であろう。しかし彼がノーベル賞を受賞したのは、相対性理論ではなく、いわゆる光電効果についてのものだった。光電効果とは光がある種の粒子としての振る舞いをすることであり、その発見に賞が与えられたのだ。しかしさらに知られていないのは、アインシュタインは水の分子の存在を実証して見せるという業績もあったということだ。
20世紀の初めに、ロバート・ブラウンという植物学者がいた。彼はある時水に浮かべた花粉を顕微鏡でのぞくと、それがプルプルと細かく振動していることを発見した。それは水に落としで沈んでいく墨汁の細かい粒についてもいえた。「ブラウン運動」の発見である。しかしブラウン自身にも、当時の学者にもそれが何を意味するかは分からなかったので放っておいた。そう、人は理由のわからないことは無視するのである。しかしアインシュタインの炯眼はそれを放置はしなかった。それについてアインシュタインが出したのは驚くべき理論だった。それは水の分子が花粉やインクの粒に周囲からぶつかっているからプルプルと揺らいでいるのだ、というものだった。
しかしどうしてアインシュタインはこの発想に至ったのだろうか。それはおそらく彼が物質の本質としての揺らぎを捉えていたからであろう。だってそうではないか。彼が水の分子が静かに漂っていると想像していたなら、小刻みに揺れる花粉や炭素の粒を見て、「ほら、水分子のせいだ!」などと思いついただろうか。ただし彼が花粉そのものの揺らぎではなく、花粉を取り囲んでいるが顕微鏡下では識別できない大勢の水分子の揺らぎを見たのは天才的と言えるだろう。
揺らぎ、振動が物質の本質、というのは言い過ぎに感じられるだろうか? たとえば水の分子が振動しているという事は、水の分子の特徴の中で本質的なものといえるだろうか? そうとしか言えないのは、その振動がその水のありよう、あるいはエネルギーの伝達の媒体となっていることを考えれば納得が行くだろう。水はその振動の大きさにより、気体、液体、個体のいずれの形をもとりうる。そしてその振動の大きさによりそのエネルギーを他に伝える。もちろん水だけではない。物体のすべてがそれによりエネルギーのやり取りをしている。そして揺らぎの本質は、実は物質を細分化していくにしたがって大きくなっていく。光子ともなると質量がなく、波動だけの存在となる。とはいえ粒子としての性質も持つという事でもう私たちの常人の理解を超えているわけだが。現在提案されている素粒子も、その最終形として提案されている超ひも理論などは、質量はなく、長さと振動だけの性質を有しているとされる。こうなるともっとわからなくなるが、一つ注目すべきなのは、物の本質は、それを細分化していくと最終的には、その揺らぎという形でしか残らないというのが象徴的だ。

2019年10月16日水曜日

万物は揺らいでいる 推敲 2


分子が揺らぐ、素粒子が揺らぐ、そしてもちろん細胞も揺らぐ・・・・

私は正直「揺らぎおたく」の心境であるが、それは揺らぎは物事の一つの性質ではなく、本質とも言えるという事実に直面したからである。私の最終的な目標は揺らぎとしてみた心の在り方であるが、まずは順を追って微小なものから大がかりなものへと目を移していきたい。
ひとつの重要な視点として、私たちが知り、感じている「揺らぎ」というのは、比較的マクロな世界での出来事であるという事は理解しなくてはならない。台地が揺らぐ、ブランコが揺らぐ、旗が風に揺らぐ、洗濯物が揺らぐ、という時はかなり大きなものがぐらぐら揺れていることになる。その周期はかなり長く、ブランコなどは私たちの体もそれに載って一緒に揺らいだりする。ところがより小さなものになると、その揺れ幅は小刻みになり、また周波数も大きくなる。「揺らぐ」というよりはプルプルと「振動する」という表現の方が近くなる。これは生物のゆらぎ方を観察するのが一番早い。たとえばコンドルが大空を舞っている時、その羽の揺らぎ(羽ばたき)はかなりゆったりしたものであろう。一秒に一回か二回がせいぜいだ。しかしスズメやツバメの羽ばたきは10回程度とかなりせわしなくなる。そして同じ鳥でもハチドリなどは、毎秒50回から80回の羽ばたきというのであるから驚くべき速さである。蚊が耳元で「プーン」と音を立てる時の羽の発している周波数は500回の羽ばたきを表しているということになる。
この部分を書いていてどうしても脱線したくなったのだが、皆さんはパルサーという星の存在をご存知だろうか。太陽より大きな星が終焉を迎えて大爆発を起こすと、最後に半径10キロメートルほどの大きさに、太陽何個か分の質量が詰め込まれて、カチカチになる。それもただの硬さではない。その密度は1立方センチメートル当たり数億トンというのだが、その巨大隕石のような天体がとんでもない速度で回転している。毎秒1000回転というパルサーもあるそうだ。だから「大きければゆっくり」にはとんでもない例外もあるという事である。
ともかくも羽ばたきの話だった。鳥もハチドリもハエも、羽を揺らがせることで空気を蹴って飛ぶという利点があった。なぜ分子は振動していなければならないのか。揺らぎの理由が不明なのだから、その理由は分からない。しかし少なくとも生命維持にはきわめて重要なのだ。たとえばタンパク質の振動はその役割を揺らぎによって果たしていると言っていい。
例えばこんなことを考えていただきたい。タンパク質が体内の細胞内で合成される。一つのたんぱく質の分子は幾つかアミノ酸の結合により出来る。細胞の中のリボソームという器官で、一つ一つアミノ酸がつながっていくわけだ。そのプロセスは途方もなく複雑だが、しばしば出てくる表現として、○○の部位に××が結合する、という言い方だ。たとえば次のような解説(生物学入門 石川、大森、島田編 東京化学同人 第9章より)。
DNA から mRNA への転写は、酵素である RNA ポリメラーゼによって触媒される。RNA ポリメラーゼは、DNA の二重ラセンをほどきながら、二本鎖のうち鋳型となる鎖の塩基の 配列を読んで、これと相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく。」(傍線は岡野)などのように。
しかし「相補的な塩基をもったヌクレオチドを次々と呼び込んで結合をつくっていく」とサラッと書いてあるが、いったいどのようにしてそのようなことが起きるのか。一定の塩基配列の周りにウヨウヨしているのは、途轍もない数と種類の分子である。もちろんヌクレオチドの分子だけではないだろう。つまりその「一定の塩基配列」に対しては、途方もない数の分子が揺らぎながらついて離れ、ついては離れを繰り返している。たいていは両者がうまくはまり合わないから、それらの分子は離れていく。そしてたまたまうまい具合にはまったヌクレオチドがそこに収まるというわけだ。そこでは形状がすべてだ。一般に分子は水中では独特の三次元構造をし、ちょうど鍵穴にハマる鍵のようにして、お目当ての分子と結合するのだ。繰り返すが、ある塩基配列の裏返しになっている塩基が、最初からそこを狙ってやってくるわけでは決してない。すべては偶然の産物だ。ヌクレオチド同士が揺らぎながら途方もない頻度でお見合いを繰り返し、その中からぴったり合ったもの同士が結ばれていく。タンパク合成はこうして水の中での数多くの分子の揺らぎを前提にしないと少しもことは進んでいかない。
もちろん話はタンパク合成だけに限ることではないことは確かである。薬の例でもいい。私たちが春先になり、花粉症に苦しんで抗ヒスタミン剤を服用するとする。するとその薬の分子は、体中をめぐり、ヒスタミン受容体にくっついてヒスタミンの作用を抑える。しかしいったいどうやって抗ヒスタミン剤の分子がヒスタミン受容体を探してくっつくのだろうか。血中に流れる抗ヒスタミン剤の分子はきわめて希釈されているだろうし、身体を構成する細胞の表面に広がる受容体の数はその種類も数も天文学的であろう。そして抗ヒスタミン剤の分子は、どこにヒスタミンの受容体があるかなど知る由もない。ただあてずっぽうに、みずからの振動の力によって数多くの受容体と接していく。そして受容体の方も血中を流れる無数の物質の分子とついては離れ、を途方もなく繰り返し、ようやくお目当ての抗ヒスタミン剤と出会う。それぞれのリセプターがお目当ての分子に巡り合うチャンスはおそらく天文学的に小さいであろう。しかし分子の振動によりリセプターに訪れる分子の数もおそらく天文学的であり、だからこそ分子とリセプターが出会う可能性も高まる。(ここを書いていて私が門外漢であるために、その想像が正確ではないかもしれない。たとえば抗ヒスタミン剤は、ヒスタミンの受容体に優先的に引き寄せられるような仕組みがどこかに存在するのかもしれない。しかしそんなことはおそらく起きないであろうからこの想像のままにしておく。)
ちなみに福岡伸一先生の名著「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、2007年、p. 179)には、このたんぱく質どうしの出会いでさえ、揺らぎながら行われることが述べられている。彼は福田郁夫・福島県立医科大学教授の研究を紹介し、ちょうど鍵と鍵穴の様にぴったり合ったはずのタンパク質同士でも、実はプルプル振動し、細かな着いたり離れたりをしているという。つまり揺らぎに任せて接近したたんぱく質どうしは、くっついた後も今度はさらに細かい揺らぎにより、付かず離れずを繰り返す。このくっつき具合の揺らぎというのが、物質が動的平衡を維持するうえで必要となるわけである。いやはやどこまで行っても「揺らぎ」なわけだ。

2019年10月15日火曜日

万物は揺らいでいる 推敲 1

今でこそ揺らぎはしずかなブームとも言えるテーマだが、揺らぎはそれこそ宇宙が始まって以来永遠に存在してきた。宇宙の始まりと言われている「ビックバン」はその最大にして最初の揺らぎだったかもしれない。(ただしそれ以前にビッククランチがあり、宇宙は結局収縮と膨張を繰り返しているという説、すなわち振動宇宙論 oscillatory universe theory なるものさえあるのだから、ビッグバンはそれ自身が揺らぎの一部かも知れない。)
ともかくもビッグバンは大変な激震だったわけであり、それにより起こされた擾乱が揺らぎとして全宇宙に、そして量子レベルでの微小の世界に残存しているとも考えられる。そして今でも気温、気圧、海水温、あるいは地震計の示す波形さえも揺らぎが見られる。そして私たちの体の体温も、血圧も、脈拍数も、脳波も揺らいでいる。科学やテクノロジーが進んだ現代ではこれらの揺らぎの存在は常識の範囲内かも知れないが、いったんその理由を問い出すと、その明らかな起源など誰にもわからない。ただ宇宙は、現実世界は、そうなっているとしか言いようがないのである。

揺らぎは最初はゴミだった

このように揺らぎは常に存在していたにもかかわらず、それが話題に上るようになってからはまだ半世紀も経っていない。私たちは最近になって揺らぎを「発見」したのである。しかし世界は今も昔も揺らいでいることには変わりない。
では揺らぎという概念が生まれる前、揺らぎは私たちの目にはどう映っていたのだろうか? 実は人類は長い間、万物が揺らいでいることを知らなかった。そもそも細かな揺らぎを見出すためには正確な基準が必要になる。しかしたとえば時間に関しては16世紀の終わりにガリレオ・ガリレイが振り子時計を発明するまでは、正確な時間の計測は一般人には全く不可能だった。だから脈拍数が揺らいでいることなど知る由もなかっただろう。何しろ人間の脈拍を比較的正確なものと見なし、時計代わりに用いる場合すらあったのである。
ただしそれでも少し注意深い人であったら、脈拍は呼吸の影響を容易に受けることがすぐにわかるだろう。こめかみに指を当てて自分の脈を取ってみればわかる。息を吸い込んでいる時は脈拍数が少しだけ上がり、はいている間は少し下がる。肺が酸素を吸い込んで血液が酸素を運ぶ効率が上がる時には脈を上げ、下がる時は脈も下げるという風にして省エネをしているわけだ。ところが少し注意をすれば見出すことのできるこの脈拍の揺らぎも、いわゆるノイズ、雑音とされていたわけだ。私たち人間は説明できないものは要らないもの、相手にしなくていいものとする性質がある。そのような傾向はもちろん現代の私たちも持っている。ノイズとは余計な音、録音をしようと思っている対象以外の阻害的な音、程度の理解でいいだろう。不要なもの、ゴミとして扱われるものなのだ。そしてそれまでノイズと見なされていたものを真剣に取り除こう、ターゲットとなる音を抽出しようという真剣な試みがなされるようになって初めて、それまでノイズとされていたものの性質が解析されるようになり、そこにある種の法則性が見つかり、それが揺らぎという概念と結びついたと考えることもできる。
似たような例を考えよう。海岸から純粋な砂を集めようとする。純粋な砂は砂場を作る際によく売れるとしよう。ただしここでの砂粒とは、岩石が細かい粒に砕けて出来たものを呼ぶことにしておく。そしてその純粋な砂を集めるために、ごみを取り除こうとして顕微鏡を覗いてみると、砂粒だと思っていたものには砂粒以外のいろいろなもの、ゴミとでも言うべきものが沢山混じっていることがわかる。これまでごくいい加減に砂を集めていた時は、誰もそのゴミの正体を知る必要も、意欲も持たなかっただろう。ところが純粋な砂を集めるために、砂粒とそれ以外のものを峻別するという段になって、初めてゴミと思われたものの中に、カルシウムを主成分とするピンクがかった粒が一定の割合で混じっていることが明らかになる。人は今度はこちらに夢中になり、その由来を知ろうとする。そして早晩それが珊瑚のかけらであった事がわかるのだ。その一部は近くの珊瑚礁から、別の一部は遠くの珊瑚礁から、あるいは太古の海に存在していた珊瑚礁の名残として残っていて、それがその海の壮大な歴史を物語っていることがわかったとしよう。そして今度はそれのみを集めて綺麗なピンクの砂(珊瑚砂)を集めて売ろうということになるかもしれない。こうして突然ゴミの一部は宝の山になるのである。揺らぎにもこれと似たようなところがある。