「アルファ碁ゼロ」という囲碁ソフトをご存じだろうか。その前のバージョンである「アルファ碁」は、2018年に囲碁のチャンピオンであった韓国のイ・セドルを打ち負かしてしまった有名なソフトである。ところがその進化版であるアルファ碁ゼロは、たった3日間の学習をしただけで、旧版のアルファ碁を100戦100勝で打ち負かしてしまったのだ。実に恐るべき実力である。 アルファ碁ゼロはなぜ短時間でそれほどの躍進を遂げたのか。それまでのアルファ碁とどこが違ったのか。それはアルファ碁ゼロは囲碁の定石とか有名棋士の棋譜とかを一切学習させずに、ただ2台のAIをお互いに高速で対戦させただけでその驚異的な実力を獲得したからだという。つまりそれは負けた場合に自己修正するということに特化したマシンだったのだ。 この例に示されるように、最新のAIは例えば囲碁のある局面のデータを、そこでの正解と組み合わせて覚えこませるという、いわば詰込み型で丸暗記の学習を取るのではない。ある局面で試行錯誤の手を打ち、それが敗着となった場合にそこから自己修正をして徐々に正解に近い答えを出せるようになるという、いわば自己学習を行うマシンなのだ。しかし考えてみれば、それは人類が囲碁を発見してから世界じゅうで人々が何千万回、何兆回となく対戦をして実力をつけていったのと同様のプロセスをたどったことになるのだ。ただし人間と違いAIは一度間違った手は二度と指さず、同じ間違えを繰り返すことをせず、しかもたったの72時間でそれを行ってしまうということである。 人は次のように思うかもしれない。碁盤に表れるあらゆる局面とそこでの正着を覚えこませる方がよほど手っ取り早いのではないかと。しかしそうはいかないのは、AIの歴史が教えてくれる。囲碁や将棋などのボードゲームは、その局面の数が限られているなら、上述の詰込み式でもある程度はなんとかなったのである。例えばチェスなら、ある局面を入力して正しい一手を教える、という詰込み型の情報を与えるだけで人間に勝てた。もちろん考えられる局面はものすごく多いけれど、何度か丸暗記の詰込み型で教えてプロに勝つことが出来た。それが1997年の話。 ところが囲碁や将棋となると局面が天文学的に増えて(例えばチェスに比べて局面が10の100乗倍多く)、その一つ一つに正解を教え込むことは事実上不可能となった。そこで考え出されたのが、コンピューターに自分で答えを考えさせて、自分で正解を見つけさせる方法(自己教師あり学習 self-Supervised Learning)。そのためには二つのAIを対戦させる方法を取ったのである。 ここで興味深いのは、最近のAIはデータ処理をする装置というよりは、学習する装置であるということだ。具体的には、質問が入力されて、それに対して答えを予想して出して、間違ったら中身を調整して少しでも正解が近いアウトプットが出来るようにする装置。そこで決定的に大事なのは、間違ってもいいから答えを出して、それを訂正されるという試行錯誤の繰り返しをするところだ。そしてそれは人間の脳と全く同じなのである。それはあみだくじに例えるならば、最初にランダムに入れられている橋げたであり、人間の場合は生まれた時に存在していた脳内ネットワークということになる。最初にランダムな状態があって、それが直されていくというプロセスが決定的に重要というわけだ。そのためには当てずっぽうから修正されて徐々に賢くなっていくというプロセスが絶対必要であるという。しかしそのことが分かったのはつい最近のことであった。 だから後に扱うLLM(大規模言語モデル)も、文章の一部を伏字にして当てさせるという問題を膨大な数だけこなさせることで人間と話せるような心を持った。ではこの自己学習型のAIをこれまでなぜ作り出せなかったのか?それには膨大で高速の演算が可能なAIが必要で、技術が追い付けなかったからであるという。
2025年4月9日水曜日
2025年4月8日火曜日
支持療法を支持する 4
最後は人間性で直す?
私は常日頃から思うのだが、真の治癒機序は人間性なのだ。日本の精神分析で押しも押されもせぬリーダーたちはみなある種の人間的な大きさを備えている。彼らの行う解釈はその人間性のオーラを纏っているのだ。彼らの様にふるまい、彼らの様に解釈をすることで彼らの様に患者を変えることはできない。平凡な、しかし誠実な臨床家のためにPOSTはあるのだ、と言いたい。
しかし私は反精神分析、ではない 最後にPOSTにエールを送る私は、それでも「反精神分析」ではないことは改めて述べておきたい。私は分析家であるし、週4,5回のセッションを経験することはとても貴重でぜいたくな体験であると思う。これ以上は昨今の「週一回」の議論に関わることなので、別の機会にゆっくり論じたいところだが、私は治療は高頻度であるに越したことはないという立場だ。治療とは偶発性に満ちた出会いとエナクメントの場であり、週4回の方がそれらが生じる可能性は相対的に高くなろう。 しかし数少ないセッションでも貴重な出会いが生じることはあるだろうし、その意味で週4回の精神分析でしか得られないものはないと思う。そしてこの出会いとエナクトメントを中心に据える事こそ現代的な意味で「精神分析的」ということであり、その意味では週一回でも支持療法でも立派に「精神分析的」たりえるのである。
(以下省略)
2025年4月7日月曜日
支持療法を支持する 3
私が2年前にPOSTという試みの話を聞いた時、「マジか?」と正直思った。 分析を学び実践する若手の間でそのような動きが起きるとはにわかには信じられない。あの支持療法の議論に精神分析の内側から真正面から取り組むなど、なんて大胆で向こう見ずなのだろう、と。でも結局はこのPOSTの議論も、フロイトの教えにしたがった(フロイトに忖度した)、本質的には無意識内容の解釈につながる治療指針に沿ったものであろうと想像した。だからPOSTの本を買って読むこともなかった。私が初めてこのPOSTの具体的な内容を知ったのは、関連書(山口貴史氏の「サイコセラピーを独学する」)を読んで度肝を抜かれたからだ。そしてこの山口氏も参加しているPOSTの動きを著書を購入して読んで見て思った。「彼らは真剣なのだ‥‥」。 今回このような題での一文を寄せることになったのは、私の側からの申し出であることは断っておかなければならない。彼らの迷惑にならないことを祈るばかりである。 この度POSTの書籍の第2弾が出版されることになったわけであるが、今後この動きがどのような方向に行くか分からない。彼らが掲げた「目標は適応状態の改善である」に始まる8項目の一つ一つにケチをつけたり反論を加えたりする人だっているだろう。しかし私はそれらは些末なことだろうと思う。私にはPOSTを支える根本から支える理念が心情的によくわかる気がするからだ。 精神分析家たちが陥りかけている自己愛への反省。クライエントファーストの考え方。そしてその背後にある倫理の問題。そこにはある一つの共通したテーマがある。 読者はPOSTの試みを目にして、「これは精神分析なのか?」と思われるかもしれない。しかしそこに語られる用語、転移、逆転移、解釈、など、ことごとく分析的な概念なのである。POSTは精神分析の用語で語られた、従来の精神分析を超克する試みであり、その意味で精神分析的なのだ。(精神分析という母国語で語られた、とはそういう意味である。)
2025年4月6日日曜日
不安とパニックと精神分析 11
ルイス・コゾリノの本に書かれているパニックに関する記述は意外にそっけない。「パニックにおいては人ははしばしばストレスや葛藤とパニックの関連性に気が付かない。なぜならそれらの関連性は神経的な隠れ層 hidden neural layers にあるからだ」(p243)。ここで彼の本にはしばしばこの「隠れ層」という表現が登場するが、それは結局ニューラルネットワークの隠れ層、という意味である。そしてこの本の第2章「脳を再構築する‐神経科学と精神療法」という章にはニューラルネットワークの図まで出てくる。彼は20年以上前のテクストで、すでにニューラルネットワークと心を同一視しているところが驚きである。 コゾリノはパニックの説明に際して、「扁桃体の持つ一般化 generalization の傾向」という言い方で次のように言う。扁桃体がその一般化の傾向を持つことにより、パニックは内的、外的な刺激に反応して起きるようになる。扁桃体はそれこそ生下時から機能しているが、海馬―皮質(特に眼窩前頭皮質 OFC) ネットワークは後になってやっと発達してくる。そしてこの海馬―皮質ネットワークこそが扁桃体を抑制する作用がある。ということは、これが働いていないうちの、つまり生まれて初期のパニックは、それこそ圧倒的かつ全身体的な体験 overwhelming and full-body experiences となる。そしてその体験は決して皮質に記憶としては保存されず、直感的な知識 intuitive knowledge として立ち現れるという。(p245). つまりこういうことだ。怖れによる扁桃体の発火が生む記憶(トラウマ記憶)は生のままで脳の皮質下に蓄えられ、それがのちのパニックを引き起こすのだ。(私はこれまでパニックとフラッシュバックは「似ているもの」、という理解をしていたが、このコゾリノの説明は、両者は同根、ということになる。) コゾリノは青斑核についても論じる。これもパニックを考える際に極めて重要だ。ここは脳の中で一番広範囲に投射されている。ここはノルエピネフリンの生産拠点であり、要するに非常事態で脳や交感神経系を介して体全体にアラームを鳴らす役割をする。青斑核は扁桃体の記憶回路に「print now (トラウマ記憶を作成せよ!)」という命令を送る。これは海馬―皮質経路があまり活動していない時にでも反応する。つまり夢の刺激であってもFBが生じることになり、その意味でも実質上パニックとFBは区別がつかないということか。ところでp246には、扁桃体の中心核が青斑核を刺激し、そこから交感神経が刺激されると書いているが、要するに恐怖刺激→扁桃体中心核→青斑核→扁桃体に「トラウマ記憶を作成せよ」と指令を出す、と行ったり来たりしながらの命令を送るという仕組みらしい。ところでこれに関連して例の速いシステムと遅いシステムの話になる。 タクソンシステム taxon system(=速いシステム、または扁桃システム amygdaloid system)これはスキルやルールや刺激―反応の連環を獲得し、それ自身はコンテクストフリーであるという。つまりその学習に関連して時間や場所が記憶されるわけではない。そしてもちろん第一義的に無意識的だ。そしてこれが手続き的、ないし暗示的記憶に関わる。それにくらべて現場システム locale system (海馬―皮質経路を中心とする)これは認知マップや時系列的な記憶、意識的な表象に関係する。正常のトラウマのない養育においては、これらの二つのシステムは連結されている。ところがトラウマ的な幼少時をおくると、これらが解離するのである。
2025年4月5日土曜日
不安とパニックと精神分析 10
さて以上を下敷きとして、本論の中心テーマであるパニック、恐怖と不安について考えてみよう。おそらくフロイトの現実神経症の記述にみられる極端な性欲論に基づいた理解はなされていないであろう。ただし性愛性に関しては実はトラウマ関連障害やフラッシュバックの問題と直結している。 パニック障害についてはこれが精神力動的治療の対象となることは多い。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならないが、それが様々な日常的なストレスに関連していることが示される。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは、実はかなり深い意味を持っている気がする。親の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、マッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。 さていろいろ文献を当たっているうちに Louis Cozolino (2002) The Neurosciene of psychotherapy - Builidng and Rebuilding the Human Brain. W.W. Norton and Company. (邦訳あり)が、少し古いとはいえ最良のテキストという気がしてきた。彼は扁桃核について、パニックやトラウマとの関係を深堀りして解説している。
2025年4月4日金曜日
不安とパニックと精神分析 9
ここでいったんおさらいをする。この論文の方向性がまだ見えてこない。改めて執筆依頼文を読むと「精神分析の視座からのパニック・恐怖と不安の理解と対応」とあり、パニック症に関する記載を詳しく、とある。そうか、その方向性で書かなくては。やはりこのような依頼文はしっかり読まなくてはならない。しかも流派ごとの理解と対応、とある。そして認知行動療法と森田療法、「マインドフルネス、催眠、ポリヴェーガル」を書く先生がそれぞれいらっしゃる。
精神分析と不安、パニック
まず総論から始めよう。不安と言えば神経症症状の一つの典型と言えるが、その神経症は精神分析的治療の対象とされる。そしてフロイトはその業績の中で不安について極めて多く論じたことが知られる。それについて簡単にさらってみよう。精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)しかし現代的な精神分析においてはこれに代わり、より現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドは次のように論じている。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占めるが、フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるもの。② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis において問題になる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。
その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258)
ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識レベルに表れるために受け入れられるものであるという。それの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。
超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えることがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年4月3日木曜日
支持療法を支持する 2
POST・支持療法が生まれるのは必然的であった
さて私は支持療法についての議論がこのようにして生まれたことには必然性があったと思う。まず第一に週一回、ないしはそれ以下の頻度で(隔週50分、週一回30分、月に一度50分など)で行われる心理療法が圧倒的なマジョリティであり、そこで「ユーザーのニーズ」(山崎)を最重要視することなしには心理療法が存続しえない(さもなくばユーザーがドロップアウトしてしまう)からである。しかし精神分析と同じ治療論をただ単に週一回の臨床に「平行移動」するわけにはいかない(藤山)。週4回以上の精神分析のエスタブリッシュメント達からは、「週一回で精神分析と類似のことが出来るはずがないし、軽はずみに同じ理論を用いることは許されない」と言われてしまう。ただ伝統的な週4回のやり方に対するユーザー(患者)離れが生じたことは、ユーザーも精神分析とは違う何かを求めていたことを意味するのだ。そして精神分析の内部から生まれた表出的(分析的、洞察的) ⇔ 支持的という表現に沿って、「週一回」は「支持的療法」と表現するようになった。しかしこのような図式が生まれた際には、支持的アプローチは表出的(分析的)なそれと対等の価値をあたえられていたはずである(Wallerstein, Gabbard )。そして週一回の支持的療法にもそれなりの治療論や作用機序の議論があって当然なのだ。ただし同時に支持的療法は「分析的=表出的」ではないものというスティグマを背負うことになったのも事実なのである。
それゆえにこの支持的療法を精神分析の世界で行うことには多大なる困難が生じるのは当然である。1970年代に精神分析の世界で突然異質のことを言いだしたコフートのように、「それは私たちが慣れ親しんで、基本理念として持っている治療論とは全然違うではないか。それは精神分析ではないのだ」という反発を受けて四方八方から矢が飛んできて、非常に肩身の狭い思いをすることになる。(よくぞコフートは耐えたものだ。若手の信奉者たちが支えたのだ。)
だから支持的療法について論じるためには、その提唱者たちは狭い精神分析の世界を離れて新たな独自の臨床や学問活動の場を求める傾向にある。そしてそれが実際に欧米で行われたことであるが、日本ではそれが精神分析協会の内部で、しかも今のところは精神分析と共存する形で生じているのだ。
私はこれは非常に日本的な現象だと思う。思うに古澤平作先生が1930年代に精神分析を持ち帰り、週一回~2回を開始した時に、古澤先生は非常に「常識的」で「適当」だったのではないかと思う。それも日本的な意味で。古澤はこう考えていたのではないか。「精神分析は素晴らしい。しかしフロイト先生の熱意はよくわかるが、毎日分析というのはやり過ぎではないか。『毎日治療に来なさい』と言ったら患者さんはびっくりするだろう。『私はそんなに重症なのですか』と驚かれる人もいるだろう。まあ週1,2回から始めようか‥…。」ここを書いていて私は少し自信がなくなったので前田先生の著書を読んでみた。するとやはりそうだった。
前田重治氏(前田重治 (1984) 自由連想法覚え書-古沢平作博士による精神分析. 岩崎学術出版社)によって語られている古沢先生の言葉を引用しよう。精神分析の開始にあたって古沢先生は前田先生に次のように言ったとある。「当面は、一週二回にしましょう。これまでの僕の体験では、毎日続けてやることは、かえって小さいことにとらわれ過ぎて、全体を見失うことがありますので。」(p.18)
「えー!!!」である。天国でフロイトが聞いたら激怒するのではないか。しかも古沢先生は「僕の経験では」とフロイトに堂々と異論を唱えている。フロイトはこれを聞いて次のように思ったかもしれない。「あのコザワとかいう男はちょっと分析を受けただけで日本に帰って、勝手なことをしておる!! やはり少し高いお金を払ってでもワシから分析を受けるべきだったのだ!(古沢先生はウィーンで教育分析を受ける際に、フロイトのセッションの料金が高すぎたのでお弟子さんのリチャード・ステルバから低料金で分析を受けた。)
でもこの古沢先生の異論はそれなりに分かる。所詮肉食の西洋人と違い、草食系の私たちは彼らほどのエネルギーや情熱に欠ける。まあ、ほどほどでいいんじゃないか?ということだ。私の知っている小此木先生も週一回のプラクティスに疑問を抱かずにそれを「精神分析」と呼んでいた。彼もその意味では「適当」だったが、それはそれで古き良き時代のように思える。アムステルダムショックにより日本の分析家の見識のなさが正され、すべてが正常化に向かったというのも何か違う気がする。戦後のアメリカ文化の流入とともに戦前の日本文化を過剰に否定した日本人と重なる気がする‥‥。全く話がそれてしまった。
2025年4月2日水曜日
不安とパニックと精神分析 8
Kendler(1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つもり生まれつき気弱であることと同時に環境の要因が大きいということだ。特に17歳以前で体験する親の死や、過保護と同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もあるという(Essex et al. 2010) 。 SADの話に移るが、そこでは患者の大脳皮質下の活動が過剰となるという特徴があるという。これはある意味では当たり前だ。人前では扁桃核などがビンビンに反応してドキドキしてしまうのだ。わかる、わかる。また上述のジェローム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバード先生は記述する。そしてSADにはSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。しかしCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを奨めるという。
不安障害の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないということだ(2003,p835)。
つまりこういうことだ。精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、それは結局表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことに繋がっているのではないかというわけである。
ギャバード先生が最後にあげるのが全般性不安障害(GAD)であるが、この障害はいろいろ問題があるらしい。とにかく併存症が多く、このGADと診断される人の8~9割は別の診断を同時に持っているというのだ。そのうえでギャバード先生は、GAD患者が訴えるであろう様々な身体症状に対して寛容であるべきだという。そしてそのうえで、それらの症状がより深いレベルの懸念 concern (うまく日本語にならない言葉)の防衛になっている可能性に対して開かれているべきであるという。そしてその深いレベルと言えば、不安定―葛藤的愛着パターンであるという。最初に出てきた不安の階層構造の話を思い出して戴きたい。そしてそれが転移関係にも表れるとする。つまり患者が「この関係も結局は失敗に終わるのではないか」という懸念を持つことになるのだ。
2025年4月1日火曜日
支持療法を支持する 1
支持療法・POSTは最強である
なぜ精神分析でなくて支持療法が最強なのだろうか。本来なら精神分析こそが最強である、と私は思いたい。しかし精神分析はあらゆる心理療法の源流であり、ある意味では旧約聖書的な存在であるために、かえってモーセの十戒により縛られ、力を削がれているからである。精神分析の力は間違いなくそれが主張する「治癒機序」の持つ強いメッセージ性であった。特に米国ではそれが精神分析家のみならず精神医学者をも数十年にもわたって夢中にさせ、その実証性を示すことへと向かわせた。しかしそれが必ずしも実を結ばなかったことから、そこから派生した様々な治療的介入の存在を私たちに気づかせ、それらの発展を促した。そしてそのいきつく先の一つは「多元論的な治療観」(クーパー、マクレオッド)であると理解している。そしてこの多元論的な治療観を反映したものが、支持的療法であり、それゆえに最終的であり最強なのだ。(もちろんメッセージ性を狙って多少なりとも「盛った」言い方をしているのだが。) 人は支持療法を一つのプロトコールを備えたある種の権威とみなすことに抵抗を示すかもしれない。しかし支持療法はある意味では「内容を欠いた」それ自身がコンテイナー的な概念なので、それに対する反論をも将来は取り込む素地を持っていることを忘れてはならない。支持療法は上書き、更新可能なのである。 精神分析の最大の特徴でありまた弱点は、そのモーセの十戒的なメッセージ性であると述べたが、その理論的な先鋭さ(必ずしも「治療的な先鋭さ」ではなく)は治癒機序をヒアアンドナウの転移の解釈と定め、それを精神分析的な治療の一つのプロトタイプとしたことである。それは理論的には鉄壁であり、また確かにそれに合致した治療関係が成立し、大きな変化を遂げる患者が存在するであろう。しかしその治療過程の切っ先の鋭さは、それ以外の技法を排除することにより保たれるような類のものである。そしてその結果として、人間を変えるポテンシャルを有するそれ以外の様々な介入は、「分析的でない」として除外される傾向にある。旧約聖書から入っている治療者たちは十戒に背くことの後ろめたさから「それ以外」の技法を用いることをためらう。 ギャバ―ドはその優れた論文「治癒機序を再考する」(Glenn O. Gabbard and Drew Westen (2003) Rethinking therapeutic action. Int J Psychoanal 84:823–841)の中で、様々な治癒機序をあげつつ、精神分析プロパーでは限られた手段しか用いることが出来ないことのディスアドバンテージを示しているようである。 彼はまず治癒機序としては二つのことを挙げる。それらは洞察を育てること fostering insight と作用機序の媒体としての関係性 relationship as vehicle of therapeutic action であり、これらは精神分析プロパーに関する議論であるとする。そして精神療法ではそれらに加えていくつかの 方略 strategy があるとして次の5つを挙げる。あたかも精神療法の方がこれらの二次的な作戦を自由に使えるという意味ではより広い治療的な介入を行えるような言い方をしているのが興味深い。もちろんギャバ―ドは、最初の二つが精神分析に限り、二次的方略は精神療法、という風にはっきり分かれているわけではないことのと釘を刺している。それらとは以下の通りだ。 1.変化についての明白な、あるいは非明示的な示唆 suggestion . 2. 役に立っていない信念 belief や問題行動や防衛への直面化。 3.患者の意識的な問題解決や決断の仕方へのアプローチ 4. 暴露 5.自己開示を含む介入
2025年3月31日月曜日
不安とパニックと精神分析 7
次にギャバード先生は脳科学の話題に転じる。セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)に関し、 この遺伝子が短い人が不安や神経症的な気質となる傾向があるという Lesch ら(1996) の研究に言及する。(ちなみに日本人は特に短い遺伝子(SS)を持ちやすいのだ、ということも話題になっている)。そしてこの短い遺伝子を持つ人は恐怖刺激に対して扁桃核がより大きな反応を示すとされる(Hariri,et al,2002)。ただしこのような遺伝子が残っているということは、不安を感じやすい人がより生存する確率が高いということらしいという。 ギャバ―ドはDSM-5で不安障害の分類のされ方がこれまでと違っていることについても触れている。これまで不安障害の中にカテゴライズされてきた障害、例えばOCDとかPTSDがこのカテゴリーから外れるということが実際に起きていることにはDSM-5が発表された2013年に気が付いたが、あまりその理由を考えていなかった。結果としてOCDは抜毛症や醜形恐怖と一緒に、PTSDは外傷関連障害に分類された。そしてDSM-5では不安カテゴリーには恐怖症、全般性不安障害、パニック障害、場面緘黙、分離不安障害が含まれることになった。要するにそれまでは神経症=不安を主訴としたもの、という常識があったが、それが大きく変わったのだ。これもフロイトの精神分析的な理解があまり通用しなくなったということであろう。 またパニック障害についてもギャバ―ドは検討している。パニックも不安性障害の一つとして従来考えられてきたものだ。これが精神力動的治療の対象となることは多い。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならない。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは実はかなり深い意味を持っている気がする。親の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、マッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。 ギャバ―ド先生は次に恐怖症 phobia の問題に向かうが、そこではもっぱら social phobia つまり社交恐怖についての論述である。実は彼はかなり若いころからこの社交恐怖に興味を持っていたことを覚え,それを精神分析的に論じることにとても高い関心を持っていた。それに社交恐怖は不安と恐怖の両方にまたがる問題を扱い、また対人関係において極めて大きな意味を持つ。p268で彼があげている症例は、人前で自分の名前を言うことを極端に恐れるというケースだが、結局は「自分はMr.Aである」と言うことは、自分は父親(同様にMr. A)であろうとするということを意味し、それが不安を惹起するのだ、ということになる。 これはとてもエディプス的な文脈で語ることが出来るという意味でも分析的な解釈が有効なケースと言えるだろう。 ある研究では一般人の約20%が社交不安症(social anxiety disorder 以下、SAD)を有するということで、DSM-Ⅲで登場したこの新たな疾患は一躍、不安性障害の中で最も罹患率が高いものの一つとして注目されるようになたのだ。しかし他方ではSADを有する人の8割は何も治療を受けていないという。
2025年3月30日日曜日
不安とパニックと精神分析 6
ギャバ―ド先生が最後にあげるのが全般性不安障害(GAD)であるが、この障害はいろいろ問題があるらしい。とにかく併存症が多く、このGADと診断される人の8~9割は別の診断を同時に持っているというのだ。そのうえでギャバ―ド先生は、GADの患者が訴えるであろう様々な身体症状に対して寛容であるべきだという。そしてそのうえで、それらの症状がより深いレベルの懸念 concern に対する防衛になっている可能性に対して開かれているべきであるという。その深いレベルと言えば、不安定―葛藤的愛着パターンであるという。最初に出てきた不安の階層構造の話を思い出して戴きたい。そしてそれが転移関係にも表れるとする。つまり患者の持つ、その関係が結局は失敗に終わるのではないかという懸念だが治療者に対して持たれるのだ。 ギャバード先生の本のまとめは終わったので、ここでこれまでの内容を私なりにまとめてみよう。 不安と言えば神経症症状の一つの典型である。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか。 精神分析においては、とても不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。「この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)のである。しかし現代的な精神分析においてはこれに代わりより現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドの著書を参考にまとめてみる。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占める。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis と呼ばれる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。 その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258) ギャバード先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識化されて受け入れられるものであるという。そしてそれの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。 超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。 Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985. しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。このような古いモデルをいったん示して、「でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎないよ」と伝えるのが、ギャバードさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年3月29日土曜日
不安とパニックと精神分析 5
ギャバ―ド先生は次にphobia の問題に向かうが、そこではもっぱら social phobia つまり社交恐怖についての論述である。実は彼はかなり若いころからこの社交恐怖に興味を持っていたことを覚えている。それを精神分析的に論じることにとても高い関心を持っていた。それに社交恐怖は不安と恐怖の両方にまたがる問題を扱い、また対人関係において極めて大きな意味を持つ(それを損なうという意味でも、それをより実り多きものとするためのモティベーションとしても)。p268で彼があげている症例は、人前で自分の名前を言うことを極端に恐れるというケースだが、結局は「自分はMr.Aである」と言うことは、自分は父親(同様にMr. A)であろうとするということであり、それが不安を惹起するのだ、ということになる。 これはエディプス的な文脈で語ることが出来るという意味でも分析的な解釈が有効なケースと言えるだろう。ある研究では一般人の約20%が社交不安症(social anxiety disorder 以下、SAD)を有するということで、DSM-Ⅲで登場したこの新たな疾患は一躍、不安性障害の中で最も罹患率が高いものの一つとして注目されるようになったのだ。しかし他方ではSADを有する人の8割は何も治療を受けていないという。 Kendler (1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つもり生まれつき気弱であることと同時に環境の要因が大きいということだ。(私の母親もとても不安の強い人だったが、そのため私も不安が強い方だと思う。)特に17歳以前で体験する親の死や、過保護と同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もあるという(Essex et al. 2010) 。 SADの話に戻るが、患者は大脳皮質下の活動が過剰となる特徴があるという。これはある意味では当たり前だ。人前では扁桃核などがビンビンに反応してドキドキしてしまうのだ。わかる、わかる。また「不安とパニックと精神分析 4」に登場したジェロ―ム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバ―ド先生は記述する。そしてSADにはSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。こうでなくちゃ。しかしCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを勧めるという。
2025年3月28日金曜日
不安とパニックと精神分析 4
そしてギャバ―ドさんの真骨頂。突然脳科学の話にスイッチする。そしてセロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)の話になる。 彼はこの遺伝子が短い人が不安や神経症的な気質となる傾向があるという Lesch ら(1996) の研究に言及する。そうそう、そして日本人は特に短い遺伝子(SS)を持ちやすいのだ、ということも話題になったな。それらの人々は恐怖刺激に対して扁桃核がより大きな反応を示すとされる(Hariri,et al,2002)。そしてこのような遺伝子が残っているということは、不安を感じやすい人がより生存する確率が高いということらしい、とも書いてある。フムフム。 DSM-5で不安障害の分類のされ方がこれまでと違っていることについて。これも実は気になっていた。これまで不安障害の中にカテゴライズされてきた障害、例えばOCD(強迫性障害)とかPTSDがこのカテゴリーから外れるということが実際に起きていることには私もDSM-5が出された2013年から気が付いていた。結果としてOCDは抜毛症や醜形恐怖と一緒に、PTSDは外傷関連障害に分類され、今は不安カテゴリーには恐怖症、全般性不安障害、パニック障害、場面緘黙、分離不安障害ということになっている。要するに不安性障害の中身が様変わりしたのだ。それまでは神経症=不安を主訴としたもの、という常識があったが、それが大きく変わったのだ。 ギャバードさんは次にパニック障害についての記述に移る。パニックも不安性障害の一つとして従来考えられてきたものだ。これが精神力動的治療の対象となることは多いという。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならない。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは実はかなり深い意味を持っている気がする。親の側の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、そもそもマッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。
2025年3月27日木曜日
不安とパニックと精神分析 3
実は精神分析における不安の議論は、これまたギャバ―ド先生の労作がある。これが決定版ともいえる資料なので、最初はこれをまとめる作業から入るしかない。少し億劫だがこれを機会にしっかり不安について学ばせていただくつもりだ。
GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.
まずはフロイトから入る。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。① マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるもの、いわゆる現実神経症 actual neurosis である。前者は原則的には分析により治療が可能であるとした。後者は単に性的活動を高めればよいことになる。ここら辺は精神分析の最初のころに学ぶことだが、フロイトの初期の説は相変わらず大胆で多分に性欲論的だ。しかし当時の精神医学界ではなんでも性に結び付けていたのだ。
1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。有名な不安信号説である。それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号と考えたのだ。(p.258)
ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠す、それ自身は受け入れられるものであるという。その抑圧がうまく行かないと、OCD(強迫神経症)やヒステリーや恐怖症になる、とした。(これを初めて読んだ新人のころは、「そうなのか!」と単純に信じた。)
ギャバ―ドさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。
超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。
しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
しかしギャバ―ドさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えているが、これがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年3月26日水曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 6
ところで山崎氏は岩倉氏の業績を語る上で【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いについて論じる。とても便利な使い分けの仕方だが少しややこしいので、私はここで前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。(余計分かりにくいか?まあいいや。)
この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。しかし支持療法は歴史的にみて「あえて分析的なやり方を抑制する」というようなところがあり、最初から敗北宣言をしているようなところがある。それに比べて「分析的」の方は分析的であることを捨てない週1回ということになり、これがどの程度可能か、ということがこの「週1回」の議論の中で一番の問題となる。
山崎氏が自分の仕事をまとめている部分では、自分自身の言葉であることもあり、とてもわかりやすい議論を展開してくれている。「平たく言えば、私たちは『週一回』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきたのだ、と指摘したのである。」何と正直な。 この主張が興味深いのは、「週一回」はほとんど精神分析的ではないと認める点で藤山の立場を受け入れつつ、でもそれでも・・・・というアンビバレンスがよく出ているところだ。そのうえで山崎氏は自らの立場を明確にする。それをわかりやすく表現するならば、「週一回は精神分析的ではない。それは分かった。もう精神分析と比べるのはやめよう。『週一回』それ自身が持つ治療効果について考えよう。」とでもいうべきか。ただしここは私自身の言葉で言い直したものであり、正確ではないかもしれない。 (ところでこの主張自体はよくわかるが、一つの疑問が浮かぶ。「週一回」が独り立ちするためには、精神分析的であること以外の根拠を見つけるということだろうか?もしそうだとしたら、本当にそれでいいのか。そうではないのではないか。しかしやはり分析的であることにこだわるとしたら、結局は「精神分析と比べる」ことになってしまうのではないか。まあ私見はさておき。) 山崎氏の論文は以下の結論に向かう。「週一回は分析的にするのは難しい」はもうコンセンサスであるというのだ。そしてそのうえで週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細であるという。この提言はもはや若手の間で至っているコンセンサスらしいので、それを前提として話を進めてみよう。(しかし私はまだあきらめていないぞ。) この近似の一つのあり方がPOSTということだろうか。そしてそのあり方については、山口氏が以下にまとめている。それによると分析においては「分析的」では転移を集めるが「心理療法」(POST)では転移を拡散するということであるという。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだ。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。他方では「分析的」は要するに準精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。こんなまとめで正しいのかな。まだ自信ないぞ。
2025年3月25日火曜日
不安とパニックと精神分析 2
精神分析と不安に関して著書「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」の記述の一部をまとめてみる。 精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は、葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた。」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2) 何と「精神分析的」な考え方であろうか。このように考えると不安をやらわげるような薬、デパス、ソラナックスなどの使用はとんでもないということになる。さらには精神分析は抗うつ剤を使うことにもとても否定的だった。鬱はその人の心の同定であり、抑圧された怒りの表れであるとしたら、その問題について扱わずに症状だけ解消するという考え方はおろかであるということになるだろう。 フロイトが自らを冒している癌に立ち向かう際に、鎮痛剤を使用することを拒否したと言われるが、このようなストイックな姿勢はいかにもフロイトらしい。彼は自らの精神の清明さを侵すような化学物質の使用には断固反対したのだ。しかしそのフロイトは精神分析を創出する前にはコカインの精神作用にいち早く注目し、また自らも使用したうえで、それがあらゆる心の病にとっての万能薬であることを示唆したこともまた有名である。ここら辺の矛盾も極めて興味深い。フロイトは化学物質の精神に与える作用の限界を感じて、精神分析に上記のような風土を醸成させたのか。
2025年3月24日月曜日
関係性とサイコセラピー 推敲 5
「週一回」をめぐる議論としては、アムステルダムショック後の1998年に鈴木龍氏が週一回と週4回で転移解釈の有効性の違いについて「精神分析研究」誌で論じていたという点は興味深い。そしてここで週一回は「現実生活の現実性」を正しく評価することの重要性を説いていることも注目に値する。これらは現在の「週一回」の議論においても引き続き論じられているからだ。 しかし週一回が週4,5回よりも「現実的」というのはパラドキシカルな面があり、なぜなら週4,5回の方がよほど現実の出来事をピックアップしてもおかしくないからだ。もちろん週一回だとセッションが現実的な報告事項に費やされて、内側に入っていけないという点は確かにある。しかしそれ以外にも分析家が現実的な話をなるべく回避するという、治療者自身の態度にも関係しているのではないだろうか。
山崎氏の論文(2024、p73)にはMeltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること、Meltzer, Caper により用いられた用語)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること、飛谷氏により用いられた用語)という概念を使い分ける。そして結局は両者とも週4回で成立するのであり、週一回では難しいとする。Meltzer が主張するように、分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないからだ。しかし転移を扱う①~⑥のほかのプロセスは週一回でも見られると主張する。
そしてその説明のために山崎氏は転移のプロセスを以下の6つに分ける。①精神分析設定に患者が参入する。②転移が治療者に向けられる。③分離が適切に扱われる ④転移が醸成され切迫した当面性のあるものとなる。⑤転移を解釈する。⑥転移が解消して変容がもたらされる。そして週一回でも④⑤⑥は成立しているのではないかという。(p.76)(実は私はこの記述がいまひとつ理解できていない。この④~⑥は転移の解釈にまつわる部分であり、これはむしろ分析でないとおきない、という主張の方が趣旨に合っているのではないかと思うのだ。ただしこれは私の誤読かもしれないが。もう少し考えてみよう。)
山崎氏はそれを論証する上で提示されたケースにおいて「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを週一回に「平行移動」させたがそれが失敗に終わったというプロセスを描く。そこで与えた解釈は、Strachey のいう「当面性のある切迫点」においてなされたわけではなかったというのだ。(ここら辺は日本語は分かりにくいが、Strachey は、point of urgency とか emotionally immediate として表現している。転移の解釈は、その体験が身に差し迫った時になされるべきだという意味であり、患者の治療者に対する転移感情が非常に差し迫って生々しく感じられるときに解釈されることで変容性 mutative であるということだ。)
そして結局山崎氏が至るのは「形ばかりの転移解釈を投与すること」の弊害である(山崎、2024,p.21)そして週一回で必要なのは、「転移を能動的に考え、しかし転移解釈というアクションはしない」という姿勢である(同、p.24)。ウーン、そうなるとやはり⑤は週一回では入れない、ということになるのではないか?まだ私の理解が追い付いていないようだが、先に行こう。
2025年3月23日日曜日
不安とパニックと精神分析 1
不安と言えば神経症の症状の代表的なものである。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか? これから「大人の事情で」不安の論文に取り掛かるが、このとば口になるのがギャバ―ドさんのある論文だ。Gabbard GO, Bartlett AB (1998). Selective serotonin reuptake inhibitors in the context of an ongoing analysis. Psychoanal Inq 18: 657–72. この論文は要するに精神分析と薬物療法の接点について扱ったものだが、いきなりこんなことを言っている。米国で最初に認可されたSSRIであるプロザック(fluoxetine)を使用することで、BPDの症状が改善したことは当時は大いに話題を呼んだが、それについて。「多くの患者が自分の症状がいかに苦痛に満ちたものであるとしても、それに無意識的に抵抗している。しかし精神分析にSSRIを併用することで、彼らの無意識的な抵抗を扱うというユニークな機会が訪れる。」 ギャバ―ド先生は次のようにも言う。「フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないということだ」(2003,p835)。 つまりこういうことだ。「精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、それにより表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことになっていることで、治療の効果が上げられないのではないか?」
なんか今日は短いな。忙しかったのだ。
2025年3月22日土曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 4
高野氏と類似の立場を主張する岡田暁宜氏の論文についても取り上げたい。フロイトは純金としてたとえられる精神分析に、示唆 suggestion 等の(銅のような)余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその比喩を受けて、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言う。そして「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であり、それが『週一回』の意義である」とする。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。 「序説」では平井正三氏の論文も参考になった。彼は一方ではストラッキーの変容惹起性解釈についてそれを精神分析の治癒機序として挙げているが、同時に米国では「週一回」は合金でも、英国では週一と週4以上は本質的には変わらないという考えの方が優勢であると指摘している(Tayllor, 2015)。 「序説」の中で私が一番注目したいのは村岡倫子氏の「治療経過とターニングポイント」である。彼女はBohmの論文(1992)での記述「ターニングポイント(「新たな予期せぬ部屋の新しい扉が開く瞬間」)」を「治療者・患者の双方に予期せぬ驚きをもった出会いが生じる局面」と言い換える。そして村岡氏が用いている小此木の引用は貴重だ。少し長いがここに示そう。「治療者の意図を超えて与えられるか、治療者・患者間に気づかれないまま形成されている治療構造を認識し、その意味を吟味したり、治療者が意図的に守ろうとしている治療構造が偶発的ないし一時的に破綻したり、あるいは意図しない要因がそこに介入したりする場合に、そこにどんなあたらな治療関係が展開するかを理解し対応する技法などを含んでいる」(小此木の「治療構造論」からの引用。p20) 小此木先生がおっしゃっていることは(お師匠さんなので呼び方が変わる)構造は実はそれが破綻することを通じて実感されるということだ。そして村岡氏のターニングポイントも同様の契機を指している。構造が破綻しかかる時に出会いが生じる、とはある意味ではそれを活用するというところにも治療構造の存在意義があるということだろう。相撲を見ていると、まさに土俵際での攻防という感じがするが、あれはまさに土俵という境界が存在することにより生じるのだ。(土俵の真ん中で勝負がつく、ということはほとんどない、ということは考えてみれば興味深いことだ。) ところで彼女の理論は「治療構造にまつわる現実的要因」(128)に根差したものだという。その意味では上述の岡田氏の考えに近い。そしてそれがある種の治療者―患者間の出会いの契機のようなものを生むと考えている。これについては村岡氏は以下の様に記述する。 「週一回の治療を複数回のそれと比較したとき、治療外の現実の要素が大きく作用し、転移・無意識的幻想といった内的力動を生き生きと扱うのが困難であるという難点がある。だからこそ、その困難をいかにクリアしていくかが、週一回の治療のだいご味ともなるのだと私は考えている。そこで私が注目したいのが、「生きた転移」が宿る場としての、治療構造にまつわる現実的要因である。」 ただしこの種の現実は精神分析で起きてもおかしくないのではないか。週に複数回だと内的な作業が優勢となり、週1回だと外的現実がいわばその障害物として現れる、という考え方がそこにはあるが、週4回だって山あり谷ありで、偶発的なことばかりだ。ようするにそれを取り上げるかどうかという治療者の姿勢が問われるのであり、それはエナクトメントをいかに治療手段として重視するかということだ。それは週4回以上でも週1回でも変わらないのではないか。
2025年3月21日金曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 3
(前承)
私は基本的にこの藤山氏の記述に好印象を持つ。そのうえで言えば、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることはあまりないような場合も多いのではないかと思う。敢えて言えば週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」とはなかなかならないかもしれないのだ。勿論そのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないからだ、と言われてしまえば、それまでなのだが。 もう一つの問題はこの供給と剥奪のリズムという考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点である。乳幼児と違って大人の私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは感じられない。それは例えばボーダーライン心性のある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合には起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事で身を引き裂かれるような思いをすることはない。それはその相手はすぐさま内的対象に移行してくれるのだ。勿論目の前の誰かがこれから二度と会えないという状態で去っていくという場合なら別だが、ふつうは心の中の対象像にスムーズに気持ちを移行させることが出来るのだ。 藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、週一回はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には週一回の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」ことや「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そしてその場合は精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。そして「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。 この藤山氏の議論は山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成」という論文でさらに考察が加えられている。これが私の眼にはかなり学問的なレベルも高く、それだけに容易に読み込むことはできないものの、藤山氏の議論が実はStrackey だけでなく、Melzer(1967)やCaper(1995)、飛谷氏(2010)などにより継承されてきた議論であることを伝えている。
高野理論と岡田理論
この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では北山修氏、高野晶氏に加えて藤山氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導する論者たちの考察が提出され、この「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。その中でいくつかを取り上げよう。
高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その姿勢は基本的には週一回のサイコセラピーは精神分析と似たところがある、というものであり、それを「近似仮説」として提出したのである。この高野の仕事で注目すべきなのは、藤山の「平行移動仮説」を「近似仮説」により「もう一歩推し進めた」ことだという(山崎)。確かに日本の精神分析界においてはこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきで、この高野の主張は多くの分析的な療法家にとって安心する内容であろう。
この1017年の高野の提言は抑制が効き、常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。印象としては藤山が「週一回」と精神分析の間にある種の質的な相違を見出しているのに対し、高野はむしろ両者の違いを相対的(「近似的」なものとみているという違いがあると言えるだろう。